No.297 不可能へ向けて読み飛ばせ
他人のことじゃなく自分のことだと思う。何しろ他人は他人であるから、自分ではどうすることもできない。世の中には色んなものが渦巻いている、のかもしれない、が、それは何しろ他人のことなので、僕の中には何も渦巻いていない。ここのところのケジメがついていないのはいつだってトンチンカンだ。
僕から見て……「あなた」という言い方はある。これは二人称であって三人称のそれとは違う。が、それにしたって、それはぼちぼち意味があるかな、というぐらいで、とはいっても基本自分のことではない。意味がないとはいわないが、自分のことと「あなた」のことと、比べるなら、数字で言えばせいぜい9:1ぐらいだろう。このことは、「あなた」のことを軽視して言っているのではない。
これは決して、自分勝手や独りよがりを勧めている話ではないのだ。そうではなく、むしろだ。むしろ「他人のことは自分のことではない」ということがわかっていなければ、それこそ独りよがりではないかという、話なのだ。いっそ独りよがりを勧めたほうがまだマシなのかもしれない。独りよがりにならないために、自己客観視やら他者性やら言って、つまりは他人の顔色と都合を伺って、いわゆる空気を読むようにして世渡りすることは、誰でもやることだし、またそのぶん何の魅力もない。
自分のことなのだ結局。"結局"という言い方は実は正しくなくて、逆、言うなれば「端緒」、物事の始まり、その土台が自分のこととしてある、ということだ。このことに、「自己満足」などという、いかにもアホウそうな単語を引っ張ってきてはいけない。言語に関わって習慣づいている条件反射は強力だ。「それって自己満足ってこと?」と、すぐに人は言いたがる。僕は人の心を蔑視はしないが、脳のはたらきのまったく介在しない習慣パターンの発露は徹底的にアホウくさく思うのだ。
まず全ての端緒は、自分のこととしてある。この自分が、いかにしたら満足するか。それは曖昧模糊としていて、掴み難いように感じる。感じるが、かといって、ここに世界観やら価値観やらのノイズを入れたら、さらに行方不明になるだけである。自分というやつは、案外他愛も無いことで、満足するところがあるのじゃないかと思っている。自己は究極、自己であることそのもの、その同一性の完成だけで、満足するところがあるものだから。
このあたりのことを、きっと慌てて自慰にしようとして、「自分らしさ」「自分らしく」と言い立てて、現在の言語連想習慣が出来上がっているのだと思うが、まあそれにしたって、それは僕のことではない。人はどうも単調に仕込まれた条件反射に横着をして喜ぶ癖があるが、そうして自己にクリエイティビティが無いことを自白してはいけない。それでは一生、自己が自己として言葉を吐き出すという瞬間を、一秒も体験しないまま過ごしてしまうことになるだろう。
自分のこと、自己の満足……それを世間一般の価値観なんかと照らし合わせるから、わけがわからなくなる。そんなのは愚かしいことなのだ。何しろ、<<世間はあなたのことなんか知ったこっちゃない>>のだから。あなたが満足することなんて一ミリも考慮に入れていないのである。
そういえば、このところ集中的に受けている質問について答えておきたい。「どうやって書いているのですか」と、漠然としたことを真剣に聞かれるのだが、僕自身はそれについて考えたことは一度もなくて、せいぜい正確に答えるなら、「書いていいから書いているだけだ」となる。これ以上の回答のしようはない。書いていいから書いているし、話していいから話している。あなただって書いていいし話していい。あなたは、恋あいをしてもいいし、美人になってもいいのである。それをしてもいいのだから、さっさとすればよいと思う。これはあなたのことだが、僕の内側だって似たようなものだ。
***
もし赤子が生まれながらに言語を解しえるとして、それでも、赤子に二足歩行のやり方やノウハウを教えることはできない。「脚を踏ん張って、バランスを取って」などと言ったって、実のところ我々は二足歩行をするのにそんなノウハウをいちいち使っていない。ただ出来るだけだ。二足歩行が。そのためのスクールに通ったわけでもないし、習ったわけでもないし、さらには、そんなもの修得しようとしたわけでもなかったのである。
つまりだ、古いテレビモニタを、バンバンと横から叩くと、ブーンと影像が映りこむように、人間の脳みそをバンバンと叩くと、二足歩行へのはたらきが勝手に動きはじめるだけだ。別に意図的にそのためのアプリケーションをインストールしたわけではない。仮に赤子に「四足歩行しなさい! しなさい!」と命令し続けたって、赤子はやがて二足歩行を始めてしまうだろう。親御さんが教えた四足歩行のノウハウはまったく役立てられないわけだ。
このことから敷衍(ふえん)すれば、案外重要なことがわかるのだけれど、たとえば「仕事しなさい」とか「恋愛しなさい」とか「夢を持ちなさい」とか、横からバンバン叩いたって、その通りにはいかないということだ。バンバン叩くことは大事である。が、そこからどのようなはたらきが起こってくるかは、まったく意図どおりにはなってくれないのだ。「仕事しなさい」と叩けば恋あいを始めてしまうかもしれないし、「恋愛しなさい」と叩けば仕事を始めてしまうかもしれない。
でもそういうことであれば、何をどうしたらよいかは、逆に見えてくるように思う。とにかくバンバン叩くことなのだ。そのテレビモニタに何が映りこむのかは知らないが、とにかくバンバン叩く。人間の脳には何かしらの強大な能力が眠っており、こいつをバンバン叩けば、何かしらの強大な能力がやがて呼び覚まされてくる。
千本ノックなどがいい例だ。千本ノックを、十本ごとにわけて、休み休みやっていたら、練習の成果は上がらないだろう。とにかく矢継ぎ早に打球をうちつけてやるしかないのである。それでグローブを嵌めた少年は右へ左へと飛び回されることになる。声を出せといわれたら出して、集合がかかれば直ちに集合する。もちろん、その全員が野球選手として糊口を凌いでいくわけではない。しかしたとえサラリーマンになるとしてもだ、とにかくそうして脳みそをバンバン叩くこと、そうすることで何かしらの強大な能力が呼び覚まされてくるのだ。それが何への能力なのかは、個人差もあるし、出てくるまでわからないだろう。だがそれがわからないにしても、いやわからないからこそか、とにかくバンバン叩いてやるしかない。千本ノックなんて苦痛でしかないが、言ってみればそれぐらいしか、少年の脳(とそれに接続している身体)をバンバン叩く建前みたいなものが他に無いのである。
僕はスポーツ少年ではなかったので、こういう例え話にもいまいち説得力がないが……
それでも脳みそをバンバンやる・やられる機会には、恵まれないではなかった。自分でむさぼっていたところもある。僕は正直、何かを人に習いに行ったということがこれまでに一度も無いほどなのだが、まあそれはいいとして、きっと人によって、人の脳みそをバンバンやるのに上手い人とヘタな人とがある。そしてこればっかりは、ヘタな人にツンツンいじられても何も呼び覚まされてこないのだった。それは残酷だが、かなり時間の無駄になるのだ。教えられる側も、また教える側にとってもだ。
脳みそをバンバン叩く。何か映らんかいとテレビモニタのボディをバンバン叩くように。それにはテイッと気合を入れて、<<休みなく叩き続ける必要がある>>。バン! と叩いて脳がジーンとシビレているところ、そのシビレが消えないうちに叩き続けていなくてはいけない。ちょうど、何か楽曲を演奏するときのようにだ。
そのような、ユーモラスな脳の性質の中でだ。「何をやろうか」「どうやろうか」などというノウハウじみた思考の一切は、そのたびごと、脳を休ませることにしかなっていない。それでは結局何にもならないわけだ。何にもならないということを、実例として、これまであまりに多く見てきた。伸びない。伸びないから、ますますノウハウを探し回る。根本的にバンバン叩く叩きっぷりが少なすぎるだけなのだが、そのことを知らされずにノウハウを探し回ってしまう。そうして悪い循環に入り込んでいくわけだ。
このことの中で、意図的に何か考えるとしたらだ。せいぜい、「この人は脳をバンバン叩くのが上手だろうか?」というようなことだ。それについて考えるのは、自分自身も対象に含む。自分が自分の脳を叩くのがヘタだった場合、なんとかして、自分にそれをしてくれる人や環境を見つけにいかなくてはいけない。
脳をバンバン叩く、そのことがヘタだと……たとえばヘタな演奏をいつまで聴いていたって音楽に脳がシビレだすということは起こらないし、セックスで官能の別世界を得ることもないし、作品について作中世界に住み着かされるということも起こらない。そうして脳をバンバン叩きにこないものには一種の安心感があるが、その安心感は脳が楽屋で居眠りしている安心感なので、それに浸っていてはいけない。
まあ、別の角度からは、そこまでして能力を伸ばさなくても、という考え方もあるが、その考えにはおおむね賛成するとしても、僕の知る限り、脳が貧弱だと、生きることが致命的につまらないのである。
何しろ、全てを感じ取るのは、五感と身体を通しての、脳のはたらきであるから。
さすがに、何も感じない、そしてたまに/しょっちゅう自意識で神経をキリキリさせる、だけ、というのでは、喜ばしい生き方とはいえまい。
できれば、足の裏か踵のように、脳の表面がカチカチの角質になる前に、バンバン叩くほうが万事合理的である。
カチカチの角質になった脳を、もし無理やりでもシビレさせようとしたら、大量のホルモンを分泌させるしかなく、そのためには過剰で危険な刺激を受け取るしかなくなるわけで、つまりそういった人がやむなく覚醒剤にはまったりするのではないかな、と僕は思っている。
まとめると、まず、人間は赤子に、二足歩行の「やり方」なんか、教えることはできない。
それと同じで、人に恋愛の仕方や仕事の仕方や夢の持ち方や官能の得方なんか、教えることはできない。
人が人に出来るのは、脳みそをバンバン叩く、叩き続ける、それだけだ。
あとはできれば、それを上手に出来るように。
上手に出来るように、というか、それがヘタだと、叩き損だし、叩かれ損になる。
思い出の全ては、脳がシビレた果てに得られるものだし、脳がシビレたとき以外に、思い出が得られることはなく、またそうして脳が打撃にシビレ続けたときのみ、人は何かしら強大な能力を呼び覚ますことができる。
ただし、カチカチに角質化していなければ、だった。
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「新しいことに挑戦する」と言ったって、現行の能力でそれに挑戦するのでは大変つまらない。何かしらんが猛烈につまらないものだ。やっていることが違うからである。
そうではなくて、「こんなこと別種の能力が覚醒でもしなきゃ無理だよ」としか思えないようなことに取り組み、その別種の新能力が覚醒されるまで脳を叩き続けることを、「新しいことに挑戦する」と言う。
と、言いながら、僕自身、その「新しいことに挑戦する」なんて言い方は、自分に向けてしたことは一度も無いのだけれど。
ただ、明らかに無理だろ、と思えてならないことには、やはりロマンがある。明らかに無理だが、「本当に無理かな?」と疑う気持ちが1%ある(本当はもっとある)。そしてそれが1%もあるなら、残りの99%には用事がないのだ。
何の話をしているかわからないが、やはりこれぐらいしか、我々にはすることがないし、やはり自分のことだし、何の話かといえば、やはり「していいからしている」という話に行き着いている。
通常、女性から見てキモい! と思えた男性が、十年後に、その汚名を返上できていることは、可能性としてゼロに近い。キモい男性は、やはり十年後にも、女性にとってお付き合いできるような男性にはなっていないものだ。99%。
それで、その99%には、やはり用事がない。残り1%のほうに、「本当に無理かな?」という気持ちがある。それはやはり、よくよく見たら、そうは決まっていない、「わからない」わけだ。そいつが、四六時中、脳みそをバンバン叩きながらシビレて生きるようになってしまえば。どんな能力が覚醒するかわかったものではない。
「不可能に挑戦」とか「常識を破れ」とか言うのには、このことに理由がある。常識というのはその99%のほうだからだ。不可能に挑戦というのも、99%不可能という意味であって、100%不可能というような、たとえば「明日から100時間無酸素で生きろ」とかいうことへの挑戦ではない。
それで、何の話かといえば、やはり、それぐらいしか我々にやることはないな、ということだった。
きっと、自己が自己として満足を得るためには、自己の中に眠っているものを、根こそぎ叩き出してやらねばならないのだ。そうでないと人は満足を得ない。ああ、無茶苦茶だな。
叩きだすために、脳をバンバン叩くのには、或るスピード、或るリズム、或るテンポだ。これに遅れてはいけない。或るテンポでキャッチアップできていれば、わからない、出来ないはずのことが出来るようになってしまうことは往々にしてある。
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時間を無駄にしないことだ。この場合、精密に言うのは難しいのだが、時間を無駄にするというのは、百年単位で無駄にする心構えはずいぶん好いが、一秒単位で無駄にすることは大変よくない。往々にして、「時間を無駄にしないでいこう!」と心に唱えているような時間は最大の無駄だし、「なんて無駄な時間なんだ」と友人と呑み続けた時間は最終的にもっとも貴重なものになるものだ。退廃と倦怠はにぶく輝いており、明かりを消したとき最後まで光ってあるのはそれだけなのである。こんなことはもう、勘の良い人にはとうの昔に知られたことではないだろうか。
それに比べて、一秒の無駄は大変よくない。一秒の無駄は二秒の無駄を呼び込むからだ。無意味にインチキでウフフッと笑う。これで一秒。すると、相手もそれに付き合って、無意味にウフフッと笑い、直後、お互いによくわからない醒めた空気が流れる。これで二秒。そして二秒の無駄は四秒の無駄を呼び込み……と、ついには命ある時間の全てを食い尽くしてしまう。
時間を無駄にしないことだ。ノウハウの精神は時間の無駄だし、「一生懸命」などという自覚やスローガンも、典型的に時間を無駄にする。一生懸命などでなくていい。脳をバンバン叩き続ける或るテンポが保たれていればいい。
それで能力が覚醒するかどうかは――ある意味、僥倖か――自分のせいではないのだ。
脳や身体は授かったものであって自分で構築したものではないから。
一秒を無駄にしないこと。不思議なもので、無駄にしないと決めたら、自分が何をどうすればよいかは、逆に鮮明に見えてくるはずだ。いじくり回しているヒマがないため、自己が自己であるままに、それをするしかなくなるのである。
一秒も無駄にしないというと大変そうだが、たとえば楽曲で言えば、一秒も休符が入っていたら、それはけっこうな存在感である。演奏が続いているかぎり、そのような休符はみだりに入り込んできたりしない。或るテンポで脳をバンバン叩く作業が連続しているはずだ。
一見不可能に見えることに向かうのがいい、考える限り「無理」とわかるような何かに。そしたら、そんなことが可能になる能力が、呼び覚まされるのかどうか……このことにはロマンがある。いや、<<こんなことぐらいにしかロマンはない>>か。一生懸命のカケアシは要らない。或るテンポは或るテンポとして定められているから、これに先んじることも遅れることもあってはならない。どうせついていくだけでも大変なテンポだ。
誰もそんなことのために生きているわけではないだろうが、そんなことをしながら生きる、ということではあるわけなのだ。
[不可能へ向けて読み飛ばせ/了]