No.298 2013日本文化の禁止
2012年度ミス・インターナショナルである吉松育美さんが、先日、外国人記者クラブで、海外の報道記者に向けて、「わたしは一年来、ストーカー被害を受けています」と報告した。「それによって、本来の仕事である、2013年度のミス・インターナショナルへの、引継ぎの舞台にも立つことができません」。業界幹部からの圧力によって、ミス・インターナショナル本部側から、引継ぎの舞台に立つことを自粛するようにとの要請があったとのことだ。
事の次第はウェブ上のニュースですでによく語られているので、ご存知の方も多いと思う。僕が今そのことに触れて語っているのは、出来事への義憤を持て余してのことではない。それどころか、僕は自分自身、そのことへの義憤など語ってよい立場でない、義憤を持つこと自体が取り違えているという、苦しい気分でこのことを取り上げている。当の記者会見は動画として各所にアップロードされているので、一時間程度の記者会見を僕は一通り聞き取った。すでに多くのレポートがある中、吉松さんによって語られたトラブルの詳細をここで語る必要はあるまい。またあくまでこれらの報告は、当事者のうち一方からの報告でしか現時点ではなく、全容の透視できぬままに安易な思い入れをもって事件を眺めて語ることは往々にして予断と偏見を生むだろう。すでに吉松さんの脇には弁護士が腰を据えており、警察的・司法的な手続きも進捗中だという。事件の背後には、吉松さん当人のそれでない、不明瞭な債務のトラブルもあるようだ。
吉松さんはストーカー被害の恐怖に屈さず戦いに立つことに向けて、「同じような境遇の女性がたくさんいらっしゃるはずだから」と、単なるトラブルの解決以上に、女性への迫害について自分が抵抗に立つことに使命を引き受け、そのことを強みに転換している。ミス・インターナショナルの思想は「美と平和の国際的な親善大使」――単に美しいというだけでないということ――にあるそうだから、確かにこのことに吉松さんが立ち向かって戦うことには思想立場としての正当性と、平たくいえば正義の力がある。吉松さんは、「女性がこのような被害に遭うのは、やはり日本の文化に根本的原因がある」と指摘した。僕はそのことにまったく反駁する道筋など持ちえず、当然のこととして――思い出したかのように――打ちのめされたのだった。
外国人記者クラブで語られた吉松さんの事件そのものの、全容はまだ知りえないにせよ、彼女の報告したようなことに似たようなことが、実際にあるものだということを、僕はこれまでに何度も聞きつけている。それも噂話としてではなく、実際に身に降りかかった恐怖の体験としての報告を受けてきた。そのことも合わせて、僕は吉松さんの言う、「日本の文化に根本的な原因がある」という言説を全面的に認めざるを得ない。それで僕は当然に打ちのめされたわけだが、このことについては、たとえ女性の読み手に向けてでも、あくまで理知的な筋道の受け取りに心を傾けてほしいと申し出なくてはならない。「日本の文化に根本的な原因がある」ということは、他でもない、日本の文化に生まれて育ってきた、僕自身も、その攻撃されるべき範囲に含まれてあるということである。この期に及んで、自分だけその「日本の文化」から素知らぬ顔を決め込むことはできない。吉松さんの言うところは、極論すれば「日本人男性だからストーカーになる」「日本だからストーカーが無法に<<のさばる>>」「日本だから女性への迫害が<<見て見ぬフリをされる>>」ということで、僕自身、その言説をまったく否定する気になれないのだ。
このところ数日、僕は神経の疲弊から昏睡するように眠り、眠れば眠るほど、起床は心身が軋んでいる、そのことが進行する、というありさまだった。整理すると、そのようにして打ちのめされたのは、第一に、当然のことながら、本年2013年のミス・インターナショナル候補の女性たちは全て、彼女(吉松さん)の引継ぎ式欠席の事情を知らされているということだった。平たくいえば、世界中の特級の美女たちが、「日本人はミス・インターナショナルにストーキングをしている」と知っており、そのことを知識として所有している。2013年度のミス・インターナショナル大会は、品川プリンスホテルのホールで行われた。その壇上で美しい姿と微笑みを見せていた女性たちは、この国がストーキングによって美女を迫害したということを直近のこととして知りながら大会の舞台を踏んでいたのである。このことは国際社会的に当然の恥であったし、何より、僕は一人の同国の人間として、全てに「申し訳ない」という猛烈な思いがした。誰がそのようなみっともない国の舞台で美の王者を競いたいだろう? 全てのことは外国人記者クラブで話された以上、海の向こうで記事となり、少なからざる人にとって、日本という国の印象を変更させているはず。
そうして恥と申し訳なさで勝手に苦しんでいるところ、吉松さんの言うところ、「日本の文化に根本的な問題がある」と――吉松さんは最大限に心苦しそうにそう言われたのだが――、そのことに僕はまったく正当性を認めざるを得なかった。ひいては、僕自身にも濃厚に引き継がれている「日本の文化」、これが恥辱と申し訳なさの土壌だというのである。そのことまで含めて正当な指摘だと認めざるをえなかった僕は、それが正当な指摘であるがゆえに、"致命的"な否定を自覚させられる具合だったのだ。では反駁の余地もない中、今さらいったい何をもって、日本の文化に生きて育った我々に、花を手折る権利が認められよう? 僕自身、女性への迫害の、共犯とまではいかなくても、同じ穴のムジナだというのに。
そうして生まれた、正当で強烈な非難は、僕の内側で、垂直に突き刺さるように、僕自身に刺さり続けた。そのことは、この表題にした、「日本文化の禁止」という、当たり前の成り行きにあるideaに到達されるまで緩和されなかった。そのぶん、この当たり前のideaは、希望として僕を健常以上に引き上げたのでもあったが……来る二〇一四年に投げ込む光として。
しかし、その新しい希望をよろこぶ前に、僕は、この年の瀬に人々の心が新鮮に改まるところに頼むようにして、一つのことを指摘しておきたい。吉松さんが「日本の文化に根本的原因がある」と、非攻撃的にではあれ指摘している以上、吉松さんの言う加害者の像を義憤めいて糾弾するだけの声は、本当には誠実ではない。吉松さんによる指摘は、「あの人の個人的性質に原因がある」ではなかったし、「業界の文化に根本的原因がある」でもなかった。<<日本の文化に根本的原因がある>>ということなのだ。この指摘に向き合うとして、なぜ当の日本人が我だけ素知らぬ顔を決め込めるだろう? 吉松さんの生活状況は現在安穏とはとても言えず、その中で語り口が不如意に広がったのだとしても、今さら僕自身、件の言説はもはや独立のものとして取り下げる気になれないのだ。たとえ吉松さん自身が取り下げたとしてもである。今僕は自身の言説として言うに等しい。<<吉松さんがストーキングされたのは、「日本だから」だ>>。
分かりやすさ、意図するところの受け取りやすさを優先するとして、いささか不穏当を覚悟して例話を提出する。現在、悪趣味な遊びが昂じての、かといってすでに遊びで済ませられる範囲を超えてある、いささかシリアスな部分とも重なっている――だからこそ遊びにスリルが伴うのでもあろう――一部勢力による、韓国への感情的・扇情的軽侮の善くない熱意がある。その中で、例えば韓国で同件があったら、悪い遊びに耽りがちな現在の日本人は、そのことをどう捉えるだろう? 韓国人女性がミスに選ばれたとして、彼女がストーキング被害によって引継ぎの舞台に立てないとしたら。そのことは韓国の文化そのものの表れとして、軽侮遊びの具材に捉えるはずだ。「さすがのお国柄」とでもいうふうに。そうして思考実験に描きうるように、今このことを、指摘されたとおりに「さすが日本の国柄」と捉えないことは不誠実なのだ。つまり、自分だけはそのような汚らしさから無縁の潔白であると、我だけを特別に取り扱っていると、演繹上言わざるを得ない。
このようなことは、吉松さん当人の口から語られることはないであろう。彼女は今、少なくとも自身を取り巻く危難を解決するため、庇護的な情況を不可欠とする中にある。そしてそれ以上に、彼女は自らの立場を、シンボリックであるべきで、論客風情であるべきでない、と捉えていらっしゃるはず。第一、彼女からの指摘はもう十分に済んだのでもあるわけだ。僕は僕のポリシーによって、これ以上の指摘を受けなくても、自身を「女性を迫害する文化を未だ引きずる者」と正しく認め、自身で解決を導きたいのである。――何も僕だけでなく、また吉松さんの周囲だけでなく、「女性を迫害する日本文化の男どもの破壊的イノベーション」を、素直に熱望しない女性など今や余程の不健全さではなかろうか?
なお蛇足だが、僕の性向をご存知の方には今さら言うまでもないが、ミス・インターナショナルであれ何であれ、僕は個人の胴体から生まれる営みをやはり愛しており、国際活動や貢献・親善といった社会的思想を前提に立つ仕組みからは、かなりの心理的距離を取る者だ。だがこの場合は論を俟たずそのような性向の趣味の範囲を超えてある。
……ただまあ、それでもやはり、僕自身は社会派ではないわけだ。ただ女性を迫害しない胴体の持ち主でなくてはならない、という、そこは僕本来の、いつもの語り口になるだろう。
日本には「脅迫文化」がある
吉松さんが会見中に引用指摘したように、いわゆるジェンダーギャップ指数、人が社会進出するにあたりどの程度男女格差があるかという国際的比較指数において、日本は135カ国中、100位前後という、先進国としては最低ランクを連年独走している。合わせて言うと、「国境無き記者団」による、国際比較としての世界報道自由ランキングにおいて、日本は現在52位であり、「問題あり」に格付けされている。この比較指数に基づいて単純に言えば、日本では女性が社会進出しようとしても、先進国のようにはまるでゆかず、そのことについての切実な問題が報道されるかというと、大いに問題があるだろう、ということになる。このことは吉松さんの置かれているという現状に有為に重なる。わたしたちの国はそのような国でまさしくあるし、その国を作っているのが我々と、我々の文化ということになる。ただし、より若い者ほど、この文化の醸成に手は白い――純白ではないにせよ――と抗弁して正当だ。
なお、報道自由の程度が低くみなされるのは、記者クラプという、国際的にはすでに旧態のものとなった慣習を、ほとんど日本だけという形で、現在も強固に引き継いでいるからのようだ。かつて長野県知事がこのことを解体しようとして「脱・記者クラブ宣言」という宣言を提出したことがある。記者会見の主催者を、記者クラブなる不明瞭なものから、県という公的明瞭なものにし、報道を目的とする者なら誰でもその新しい記者会見場に入れるということを明文化した。逆に言えば、それ以外の「記者会見」というのは、場所も運営も記者クラブが独自に「幅を利かせている」のであり、明文化のないままに、差し当たり一匹狼のようなジャーナリストは記者会見場に入ることもできなくされている。記者クラブというのは大いに同業他社らの親交機能も果たしており、そのぶん、彼らが仲間内で馴れ合いをすれば自浄作用は期待できなくなる。吉松さんの件にしても、彼女は先立って司法記者クラブで記者会見をしているものの、それを受けての大手マスコミ媒体での報道はされなかった。そのことに失望しての、あえての「外国人記者クラブ」での記者会見をしたわけだった。また外国人記者クラブだからこそ、その様子の全体が録画され一般公開されているのでもある。このようなことは以前から問題視されていることで本稿の趣旨から逸れるので本題に戻ろう。
一つ重要な視点を述べておきたい。この「日本の文化」の醸成責任の割合について、女性は迫害される側であるけれども、かといって、そのまま女性が責任割合において極端に軽いとは僕には捉えられない。このことの語りには慎重を要する点があるが、もっとも建設的な言い方をすればこうなるだろう。「仮に、全て男が悪いと言えば、それは結局男性上位の文化体制を肯定することになる」。女性が社会進出(進出とは違っても、社会的な影響を及ぼす権利の程度)において男性とイーブンになり、ジェンダーギャップ指数のランキングで上位を確保するためには、文化を醸成する責任の程度もイーブンでなくては、きっとならない。少なくとも僕が来る新年に投げ込もうとしている「日本文化の禁止」という希望のideaは、単に女性側に味方に立って男性側の罪を責める意図のものではない。むしろ、そういった「ありがち」なやり方も、日本の文化のイカニモな一つだとして、「禁止するしかない」と、僕は言い立てているつもりであるわけだ。日本の文化を、男性は禁止しなくてはならないし、女性も禁止しなくてはならない。
「日本文化の禁止」。己の口でこの文言を唱えてみよ。ゾクゾクするところがあるのではないか? 仮に首相が新年の挨拶に公的に立ち、新年からのマニフェストを宣言するとする。「日本文化を禁止します」。……いささが実現を描くとマンガ的に思えるにせよ、そこに含まれるメッセージ性には特殊なスリルが伴っている。まるでそれだけが、最後に残った出口なのだというようなスリルが。もし政治家が「日本文化を禁止します」と宣言すれば、その途端から、政治家はこれまでのように我々から見て常に失望を既定路線とした存在などから脱却することができる。日本文化の禁止とは、公用語を英語にして日本語を禁じることではない。そのような、ねじくれた非建設的な発想に遊ぶことこそ、現在の日本文化であるわけだ。自国の言葉を公用語にすることは国際的に見て何もいびつではなく、これは何も日本文化ではない。おそらく、「日本文化の禁止」という、端的で"意味のわかる"言葉を優先したほうが、我々は最短距離をゆけるのだと思う……
さて、先ほど告白したように、僕はこの数日間、今となれば振り返って自ら憫笑を楽しめるほどの、神経の疲弊ぶり、また捻転ぶりを示したのだった。その中で、引きずり込まれるように見る夢にもいくつも教わりながら、ふと気づいたことを、今は確かなものとして、述べておきたい。来る新年に投げ込むものとして重要だ。僕はある朝、うなされながらもこのことに気づいてバッと眼を開き、なにやら「とんでもないことに気づいてしまった」という心地がしたのだった。
日本には「脅迫文化」がある。最もわかりやすい例は、「ウソをつくと閻魔様に舌を抜かれる」の訓話。僕自身、幼い頃にそう教わって恐怖したことを覚えている。何しろ大人は、自分の支配力を半ば楽しむようなニヤツキで、さも恐ろしそうにそのことを言うのだ。夜に口笛を吹くと蛇が出るとも言われるし(僕はむしろ蛇を呼びたくて熱心に笛を吹いたりした)、池沼に不用意に近づくと河童に「尻コ玉を抜かれる」とも言われた。「約束を破ると針千本飲ます」とも言い、訓話には内臓を加害する残酷さへの脅迫が多い。単に「悪いことをすると天罰がある」とも言われるが、諸外国でも同じように言われるのだろうか。だが少なくとも日本ではそのような物言いをする。子供に向けて、いかにも「正当な」ことを教えているという気配において。
だが日本文化としての通念を離脱して言えば、確かにやり口は脅迫のそれだ。街中で見かける、母親と幼い子供のやりとりがあり、愚図る子供に向けて、母親がいかにもシツケという気配でスゴみ、ある種の壮絶さにおいて他者を踏み入らせないところがあるが、そのときにも多く母親はこう言う。
「ああ、そう。ずっとそこにいなさい。おかあさん、一人で帰るから」
急に冷淡さを装わせた母親の声は、周囲の大人どもにも息を呑ませる怖さがある。母親が突如明らかにする、「お前のことなどいつでも捨てられるのだ、どうでもよいのだ」という態度。このことが愚図る子供を追い詰めて、強制的に動かすところを僕は(誰でもだろう)何度も目撃しているが、それがシツケや教育というものなのだという言い分は誤解しようもないにせよ、正直に言えばこちらの胸が痛む心地はありありとするのだ。この、「お母さんはあなたを捨てます」というパフォーマンスのやり方は、母親学級などで習うのだろうか? 僕の眼には、ほとんど文化的に仕込まれた習慣のように、自動的に出現しているように見える。それほど多く見かけるものだ。
近年、オレオレ詐欺から「振り込め詐欺」に名前が変わり、すでによく知られた詐欺のやり口が、それでも被害総額を拡大しているというニュースが続いている。しかしこれもよく見ると、罪状は詐欺であっても、やり方には多く脅迫を含む。詐欺というのは本来、「このような利益がありますよ」と勧誘して、欲に浮ついたところから投資の金銭をかすめ取るものだ。振り込め詐欺というのではそうではなく、「今のうちに振り込まないと、とんでもないことになりますよ」「ああそう、もういいです、どうなってもウチは知りませんから」という脅迫のやり口が主として用いられている。振り込め詐欺被害者は、その脅迫の恐怖によって判断力を奪われ――自ら失い――、また恐怖ストレスに耐え切れないこともあって、それが詐欺かどうかを厳しく判断するよりも、「払ってしまって楽になりたい」というほうを選ぶのだ。
町内会のスポーツ行事に出向かない少年に向けて、使いどころのない老獪さというような老婆が、「ロクなもんにならんわ」と少年を脅す。まるでそれは一種の習慣のようにやり口が出現するのだ。言い出せばキリがないほどに、我々の身の回り――日本の文化に――「脅迫」というやり口は当然のように蔓延している。妙齢の女性で、結婚や出産を、期待されるというのではなく、「それをしないと後悔する」「幸福にもなれない、一人前にもなれない」というふうに、一度も脅迫されなかった人のほうがむしろ少ないのではないだろうか? ずっと昔のことになるが、僕の知る広告代理店の人間が、コマーシャル・メッセージで人を脅迫してよいのだろうか? ということに疑問を持ち、苦しんでいた。代表的には、「おじいちゃん、お口くさ〜い」と孫娘に言われるという、アレだよ、とその方は俯きがちであった。
よく知られているように、悪質なカルト宗教は、信徒を薬漬けにしてでも洗脳し、さらにそこから離脱しようとする人間については、「無間地獄に落ちるぞ」と脅迫する。それはそれだけ見ると悪質に見えるが、けれど子供に向けて「ウソをつくと閻魔様に舌を抜かれる」と、残酷なペンチの力ずくで舌を抜かれる地獄絵図を示すことと、さして違いはないのではないか? 僕はこれらの証拠物件を、ある夢現にバッとまとめて拾い上げた心地がしたのだ。それで、「とんでもないことに気づいてしまった」と感じた。なぜ日本人は「脅迫」というやり口を文化の中にこうも濃厚に持つのだ? まして子供のころに、母親という絶対的な立場からその脅迫を繰り返すことは、後々になって脅迫に屈しやすくなるため、抗えない恐怖体験を刷り込んでいるようなことではないのか。
一般に、父親は子にとって強く恐ろしいものでなくてはならないと言われる。畏怖の対象として存在し、それだからこそ子は生きることの厳しさと、ルールと、またやがて立ち上がって畏怖の対象を越えようとする力を持ち出すという。また、強い父に見張られている一方で、その強い父の庇護下にあるということは、子に必要な安心感も与えるという。このことには文化的ないびつさは感じないし、このことは日本文化に特徴的な点とは思えない。
けれども、父親が強さと威厳によって畏怖の対象であるということと、親が脅迫によって恐怖ストレスの対象であるということは、まったく性質の異なることであるはずだ。父親が子の頭をゴツンとやったとして、それは痛かろうが、それ自体は罰であって脅迫ではない。子の非行について、親の厳しさとして二種類のやり方を聞くことがある。「家を閉め出された」というやり方と、「家に閉じ込められた」というやり方である。僕はある不良少女が父親によって、冗談でなく"鎖で家の柱につながれた"というケースを身近に聞いている。思い出話としてそのときは笑って話していたが、いかにも、そのときから彼女は父親の見かたを変えたという風が口調に漂っていた。一方、家屋から閉め出して、屋根のない冬の寒さを身に染ませるというやり方はどうであるだろう?
性的な脅迫の手口
文面におぞましいものを書き表したくはないものだが、実のところ必要不可欠なこととして、僕は次のことも述べておきたい。女性にとって不快な話だが、だからこそ先に、不快な話として済ませてしまうべきことだ。それが不快な体験などになってしまう未然に。ある種の男が、女性に不本意にでも性交を強要しようと企むとき、ほとんどの場合、それは暴行をもってしようとせず、脅迫によって強制的に合意の形を取らせようとする。たとえば車中に連れ込んで、合意なしに暗い山中へ走りこんだりする。すると突然、脅迫のやり口を滲ませてきて――そのぶん表面はわざとらしく温和風になるのだが――「あのさあ、もうここまで来たんだからさ!」と言い出す。女性は、殺されるではないにしても、この右も左もわからない真っ暗な山中に、置き去りにされるのではないか? という恐怖を覚える。急に男が露わにし始めた、温和な風の「上位者」ぶりに、そのことを女性は防御本能として察するのである。男は素知らぬ顔をしながら、「状況」をもって女性を脅迫にかかる。
実際のケースは多様になるが、手口が脅迫である以上、それを成り立たせる要素は似通ってくる。女性が二人組なら、"連中"はとにかくその二人を一人ずつに切り離そうとする。男性側が勝手に人を呼び集めて、人数で圧しながら、たとえばカラオケボックスで二つの部屋に一人ずつを分ける。そして、直接当人を脅迫するのでなくても、暴力にまつわる話を――作り話でも――投げかけて恐怖をあおる。大きな声を出し、あるいはきつい平手打ちをするのにでも、彼女にではなく、それ用の役目を背負わされた、訳ありの下っ端をきつく平手で打ちのめす。そうして、「逆らうとこんな目に合うぞ」と言外に女性を脅迫する。恐怖から、先ほどの友人と合流しようとすると、「あのコはもう帰ったってよ」と言われる。トイレに行きたいというと、「ここですればいいじゃん」と、冗談めかした野卑な声で言われ、おぞましく否定すると、
「お前さ、さっきからすげえムカつくんだけど!」
と急に大きな声で言われる。「ケンカ売ってるの?」「違うのなら、じゃあ謝ってよ」と続き……実質そのやりとりの内容はどうでもよく、目的はただ状況とパフォーマンスによって「脅迫」を為し、女性から判断力やその意志を奪うことにある。"連中"はその手馴れたパフォーマンスの裏側で、慎重に、「お前もイヤとかはっきり言わなかっただろ」と抗弁しうる状況の熟成を確認している。
実際のケースは多様だとしても、その手口を成り立たせる要素は似通っている。女性を一人きりにし、とにかくも「脅迫」をすること。脅迫は性的な内容に限らないし、むしろ「なんでもいいから脅迫する」ということに徹底している。また脅迫の特徴は「殴るぞ」「犯すぞ」といったような明白な脅迫の形は取らない。ほとんど決まっているように、「どうなっても知らないぞ」という、不明瞭で不安だけ増幅するような脅迫の仕方をするものだ。
その他のことを含めて、まとめると以下のとおり。
・まず、女性に「なれなれしい」「親しい」「明るく陽気な」ふうで接触する
・強く逞しく陽気な男性として接触を続け、一時的に、その強さによって当の女性を「守る」立場に立つ。そのように演出する
・女性を一人きりにし、それ以上退避できない状況を作る
・性的な接触を誘いかけ、拒絶されるとただちに「脅迫」へ移る
・「どうなっても知らないぞ」と不明瞭に脅迫する。声質に冷酷な加害の響きをパフォーマンスする。このとき、先ほどの「守る」「守られる」立場から急遽の転換が起こるので、女性は庇護者を失った心地がして本能的に動転する
・女性は咄嗟に「許してもらおう」と許しを乞うてしまう。そこにつけこんで、男はより有利な脅迫の状況を作る。たとえば「じゃあ、ちょっと落ち着いて、とりあえずこっちに座れよ」というふうに。
もう少し踏み込んだ話をしておこう。この「脅迫」の手口は、何も男女間の、男から女に為されるだけのものではなく、また性的なものとも限らない。ある種のグループで、男性が下位の男性を支配する方法でもあるし、女性が女性を支配する方法にもなりうる。さらには、先ほどから言うように、家族内で、あるいは親族内で、上位が下位を支配する方法でもある。たとえば泥棒、空き巣があったとして、その空き巣当人が、自分の意志で空き巣をやっているとは限らない。ある種のグループで、上位に脅迫されて、その命令に逆らえずに、その行為をしていることはよくある。彼の「ボス」は、彼に冷たいわけではなく、普段むしろ馴れ馴れしく親しい素振りだ。けれども、都合に合わせて、やはり逆らう気配や抵抗する気配をみせれば、途端に「どうなっても知らないぞ」と脅迫されて、その転換に対応しきれず彼は脅迫に屈することになる。判断力を失った彼は、最も単純な動物のように、「言いなりになれば楽になれる」ということのみを学習して、その刷り込みをますます強化していく。
<<最も単純な動物のように>>。さらに踏み込んで重要なのはこのことだ。ある種の男性が、ふと自ら放った脅迫的な声によって、目の前の女性が萎縮し、状況が有利になったということを体験する。それによって、女性にとって不本意な性交をでも強要できたとき、彼は最も単純な動物のように、それを一種の成功体験として記憶する。彼は性的な興奮と快楽と、充足とを、そのまま脅迫の成功と結びつけてしまうのだ。それ以降、「脅迫」はいっそ、彼の得意な、彼にとっての「口説き方」になってしまう。そんな愚かしい、愚かしさの極限が、ありえないことのようでいて、実は最も容易にはびこりもする現象だということを、我々は今や知らねばならない。彼はいっそ、正当な方法と信じ込んで、あるいは"文化的に勇敢な方法"だと自負さえして、そのやり方を友人に自慢げに伝承しようとさえするのだ。彼は彼自身何の疑問もなしに、青年団の「一人前」という風の肩幅を広げて、「女なんて、車に乗せて、山の中に連れ込んでしまえば一発だよ」と下位に教える。「女なんてビビらせりゃ言うこときくんだからよ」と。
日本の文化の話をしている。日本の文化を禁止するのだ、という希望に接続するためのものとして、日本の文化のやり口の一である、「脅迫」を捉えた。誰もがこのような脅迫のやり口を専心して学んだのではない。文化は文化圏内で自然に習慣として染み入ってくるものだ。初め彼はそれを脅迫だなどと思わなかったし、最後まで脅迫している自覚はない。けれども彼が手にした方法はやはり脅迫でしかなく、彼が常に有効なやり方として咄嗟に発想するのもやはり脅迫のやり方である。彼はそれを成功体験として学習しているので、奮い立ては奮い立つほど、脅迫への意欲を増していくのだ。
ここまで、僕なりに慎重さを期して、なおかつ、知る限りの事実から眼を背けないように書き進めてきた。その上で、なお改めての勇気を要求される内容について書き示す。僕は今日本の文化について話しており、特に男性の文化について話しているわけではない。
女性の側にも、同様の文化があるのだ。つまり、「車に乗せられて、山の中に連れ込まれて、怖い思いさせられたら、逆らえないじゃない?」。
「そういうものなのよ」
女性は、脅迫される側として、脅迫文化を知らず識らず推進している側面がある。脅迫される側の不本意と苦しみを、我が身で重々知りながらも、大筋ではその文化に同意している。突き詰めて白状させれば、<<脅迫されないと、男女の関係って営めないじゃないの!>>と、女性の側が認定していることが、少なからずあるのだ。
この脅迫のやり口が日本の文化である以上、脅迫のやり方を認めないとなれば、その者は日本の文化から逸脱することになる。この逸脱にある孤独や、受ける差別、村八分の冷たさなどに耐え切れない場合、女性の側としても、脅迫される側として、この脅迫文化を容認することを選択する。彼女は脅迫に屈する女として、苦しみながらも、日本文化の内部に住まわせてもらえるという安心感を得ているのだ。彼女は脅迫者の前で従順になり、日本文化の女として、安心に墜落する。そして脅迫者にこそ文化の精髄である、或る種の"不幸の歓"を見せる。このことにより脅迫者は増長する。女性の、文化的に特殊な表情を見ようと、彼はますます、脅迫を振り回して、以降も「獲物」を探すことになる。脅迫する/されるやり口が加速してゆく。
そういう「文化」があり、またそういう文化の中を生きていく人たちがある。日本の文化はおそらく欧米に比べて暴力的ではなかろうが、脅迫的ではあるのだ。
脅迫がエスカレートする背景
日本に脅迫文化があったとして、そのことはこれまで、見えざる不幸を無数に産み落としながらも、脅迫ならではの関係の絶対性として、何かしらの生産性を持っていたかもしれない。けれども現在になり、脅迫はかつてほど容易でなくなった。女性にせよ若年にせよ、客観的な情報を自力で入手できる状況が得られたからである。「どうなっても知らんぞ」と言われても、その状況づくりが甘ければ、「どうなりうるか」ということを、検索もできれば、無数の第三者に相談もできる。また単純な話、司法への手続きや、相談所や法律事務所へのアクセスも、数分と掛からず調べられるようになった。つまり過去のように世間知らずを口車で脅迫するというほど易々とはそれができなくなったわけだ。けれどもそのぶん、脅迫者は、異様に狂気をちらつかせた脅迫をしなくてはならなくなったし、そのことは脅迫とトラブルの規模をエスカレートさせる側面も生んだ。たとえば秋田などにはナマハゲと呼ばれる子供らを畏怖させるしきたりがあるが、あれを子供らがデジタルカメラで撮影して喜ぶようになると、子供らを畏怖させる手段は何かしらエスカレートせざるを得ない。
すでに明らかなこととして、このような情報端末の発達した中で、不明瞭なオドシで脅迫するというやり口は、限界を迎えている。振り込め詐欺には、次の世代は引っかからないだろう。ただちに録音ボタンを押して警察に転送する作業が次の世代にはできるはずだ。こうして実情の上からも、脅迫文化は捨てざるを得ないところに来ているのである。僕はそのことについて、もちろん脅迫文化だけではないが、そのことも含めた、すでに限界を迎えている日本の文化を、より明確に、自己に禁止するべきだと捉えている。現在のところ、極度のエスカレートを覚悟して脅迫者たるか、あるいは脅迫というやり口そのものを捨てるかを問われている段階なのであれば、良識の上からも妥当性の上からも選択の余地はすでにない。
逆に言えば、女性の側にも、奇妙なことだが、「脅迫を期待するな」と言わねばならない。現在、もし脅迫を期待するならば、やはり極度にエスカレートした脅迫をもってしか、あなたに事件を起こせない。例えば、これまでは有名人のブログで「炎上」と呼ばれる現象があり、そのことは起きるたび当事者を恐怖させた。けれども、次の世代は、もはやそのようなことでは眉一つ動かさなくなるだろう。それと同じように、すでに常識的な範囲にある男性では、女性に対する脅迫という有為な事件を起こすことはできない。そしてその脅迫が極度にエスカレートしたものであっては、事件一つに対しての実害が大きすぎてバランスを為しえないだろう。
端的にいえば、脅迫文化はまだまだ健在とはいえ、脅迫に掛かるコストがはるかに増大したのだ。コストが増大したぶん、脅迫文化は全体的に縮小するが、一方で、その文化を未だ捨てざる組は、天井知らずの投資をする。現在、最も警戒的に見るべきはこのことだ。「最も単純な動物のように」、脅迫文化で成功と興奮を刷り込まれた者の憑りつかれぶりを甘く見ることはできない。生態系がクラッシュするときに特定生物の大発生を経過するように、脅迫文化がクラッシュに向かう中、極端な脅迫者が現れては破裂するということをしばらく起こすだろう。このことには誰も巻き込まれてはならず、脅迫者の性質をよく見て、防衛するべきだ。
防衛の第一は、当然ながら、脅迫者との関わりを減らすことであり、それ以上に、脅迫者でない友人を増やすことだ。女性は特に、脅迫者に対抗する連帯の関係をなるべく持つべきである。
先ほど述べたように、脅迫者は、初め必ずあなたに親しげな、馴れ馴れしさの態度で接近してくる。そしてあなたと、「守る」「守られる」というような関係を一時的に形成しようとする。そのことに注意を払うことだ。
日本には「面子文化」がある
吉松さんが外国人記者クラブで出来事の説明しているとき、外国人記者からは当然、「警察の対応はどうであったのか?」という質問が出された。これについて、吉松さんの脇に座っている弁護士が役儀として答えた。「このような場合、日本の警察は、"不親切"ですから……」。吉松さんは現在、自らの手配によって二十四時間体制のセキュリティ下にある。けれども、本来最大の守護者と期待していた警察機構が彼女に"不親切"であったことは、彼女にとってはいかにも失望の一つであった様子。彼女は現在も警察機構には守られておらず、加害を実力排除するのに彼女自身で何かしらの手段を講じている。
このことについて、直接の体験がある法律職の方などは、きっとこのように述べられるだろう。「警察といっても役所の一つだから」。仮に他の誰でもが、似たような被害を受けたとして、警察署に駆け込んだとしても、「じゃあまず被害届を出して」と窓口に言われるに違いない。この手続きは不当なものではないが、被害届というのは、それによって警察が捜査を行うという類のものではないのだ。被害届を受け取っても、警察には捜査義務が生じないのである。平たく言えば、被害届を受け取っておいて、その後丸きりの「放ったらかし」にすることは、何も問題のないことなのだ。
警察といっても、あくまで限られた予算と人員の中で業務を行う機関にすぎない。その点は、我々が幼いころから植え付けられる「おまわりさん」のイメージや、ドラマ作品で与えられる「刑事」のイメージとは異なるところだ。警察が捜査を行うのは被害届によってではなく、告訴状の受理によってである。けれどもほとんどの場合、受付をした警察の窓口が、そのような手続きの違いがあることを、親切に教えてくれたりはしない。警察署は、抱えきれない事件を持ち込まれることを単純にいやがっている。新聞に掲載されるでもない、また上からのお達しがあるわけでもない、現在の署の方針として注力している分野でもない事件について、一市民が駆け込んできたとしても、第一に窓口の彼らが念頭に浮かべているのは、「どうやって追い返そうかな」というぐらいのものだ。実際のところはどうかというと、弁護士のバッジをつけた者が、証拠を添付した告訴状を提出してきた場合、さすがに受理しないわけにはいかない、という慣習になっている。
これらのことを理解するのには、面子の概念が役に立つ。弁護士が、自分の提出した告訴状が受理されなかったとなると、これは彼の面子に障るだろう。だからこそ受理せざるを得ない。一方、何でもない一市民に、言われるがまま告訴状を受理することは、奇妙なことだが、"警察としての面子に障る"のだ。また一旦告訴状を受理してしまえば、捜査の義務も生じるし、今度は捜査した上で解決できないとなると、そのことも面子にかかわる。我々は一般に、事件を捜査して証拠を集めるのは警察の仕事だと思っているが、実際には多くそうではない。もし一市民として告訴状を出さざるを得ない場合は、証拠を揃えて告訴状に添付し、「何卒警察のお力をもって」というふうの、頭を下げる態度で臨むしかない。その告訴が、すでに証拠の揃えてある、解決実績の増やせそうな……つまり「おいしい」類のものなら、警察はそれを受理しやすい。
日本文化の中で暮らしてきた記憶に、似たようなことは見つからないだろうか? たとえば幼いころ、遊び友達との間で起こっている、トラブルや理不尽について、両親のどちらかに相談する。ところが、"親はそれを受理しなかった"というようなことが、なかっただろうか? 受理されないだけでなく、それどころか、説教されて追い返された具合だった、ということを、体験されてきた人は少なくないはず。同様のことは学校機構でもある。いじめや、その手前にある状態で、生徒が教師に、トラブルの報告と解決の依頼をする。すると教師は、その被害届を受け取ったふうだったが、その態度は、いかにも面倒くさがるふうの、冷淡な圧力のあるものだった。そしてまるで手続きだけ済ますように、教師は朝礼で、「いじめをしないように」という訓話だけを短く垂れて、教室を出ていってしまう……。女性が作り出す派閥めいたグループの中で、強気さと経験豊富を自称する女性が、リーダー役へしばしば前のめりすることがある。ところが、ある先輩と諍いが起きて困っているというようなことを相談に持ちかけると、その「強気の経験豊富」は、「あたしそういうのすっごい嫌いなんだよね」と、急に不快さに耐え切れないというような態度を表す。「そういうの、人に話すほうがどうかしてると思うよ」と。
僕自身が中学生であったころ、まだ一年次のうちに、単なる趣味によって、僕は相対性理論についての小さな読本を読みきった。その中で、物体は光速を越えられないという理を発見した。では仮に、亜光速で走る列車の中を、亜光速の駆け足で駆けたら、どうなるのか? その者は、亜光速に亜光速を足した速度の具合で、光速を越えられるのではないか。そのことへの答えは、「そうか、観測者の事象がずれるのだ」というような感覚で、僕なりに掴まれかけていた。この、亜光速と亜光速を足した駆け足は光速を超えるのでは? という疑問と答えを、それでも確認したくて、僕は当時の身近な教師たちに、理科の教師も含め、尋ねてまわった。そのときのことを、今でもよく覚えているが……まともに回答してくれた教師は誰もおらず、また、「わからない」「知らない」と答えた者もいなかった。相対性理論を無視して「光速を超える」と答えた者もあり、「そんなに速く走れませんから」と筋違いの回答に逃げた者もあった。「調べておきます」という回答は僕をしばらく期待させたが、その後の新しい回答はもちろん無かった。そして僕に向けられた教師らの態度の全ては、急に圧迫的で冷淡で、つまりは僕を遠ざけようとするものだった。
仮にこの質問を母親に向けたとしたら、母はきっと、「そんな難しい話、わからんわ」と答えただろう。それは、彼女はそのことに面子を置かずに済むからだ。教師らは教師としての面子を保たねばならなかった。それで、面子を保つためには、僕を言外に威圧して追い払うことが有効だったのである。
日本には面子文化がある。そして、面子と誇りを天秤にかけたとき、日本文化として、面子のほうがはるかに重きに傾く。もし誇りの側に重きがあったのなら、「調べておきます」と答えた教師は、そのとおり調べてきて、僕をうんざりさせるほどの、正当な知識の洪水で、僕を窒息させなくてはならなかっただろう。あるいは、「わからない」「知らない」という答えも、その正直さの態度の潔白によって、不誠実だとは僕には思えないのである、今にしても当時にしても。
教師と生徒のみならず、親−子の間で、親はまず面子を重視するし、警察−市民の間でも、重視されるのは第一に面子だ。その他のものでなく。そして、面子が脅かされることに比較すれば、誇りなど容易に踏み潰され、省みられもしない。親にせよ教師にせよ警察にせよ、つまりは、「解決能力が無いのですか?」という問いかけのところへ追い込まれると、問題が面子に及ぶ。そのことへ追い込まれる前に、人々は脅迫的な態度をもって弱い側を抑圧するのだ。
かつて、日本の文化論が言われるとき、「恥」の観念と文化が主題に採られることが多かった。サムライがハラキリという儀式的なやり方で自死を能動的に選ぶのはなぜか、ということについて、「恥」を受けるのを甘んじてよしとしないからだ、という文脈で説き明かした。そのこと自体は謬説ではあるまい。
けれども、誰でもが今さら笑えるように、サムライとは過去の人々の伝説に過ぎず、我々は今、誰一人としてサムライなどではない。現在の日本文化を、正しく実態に即して観た場合、文化の構造中、心理や態度の引き金になっているのは、「恥」ではなく「面子」だ。今や、その面子のためなら、ありとあらゆる恥など、"気にもならない"というほどに軽視される。だから我々は、我々の作り出す権力者のうちに、典型的な「恥知らず」が出現するのを知っている。けれども彼は、恥知らずではあっても、面子を汚しにこられたら、途端に強烈な脅迫の態度を表すだろう。そういった人にはそういった気配があることを、我々は文化経験上、前もって感じ取ることができる。またそれがいかにも「日本だな」ということも、それが諸外国にはない特殊の不気味さの瘴気となって我々の暮らしの底をどうしようもなく覆っているということも、我々は知っているし、認めざるをえない。
我々は今、時代的な存在ではあるが、歴史的な存在ではない
日本の文化の代表格によく日本刀の用と美が挙げられる。特に鎌倉時代に前後する古刀と呼ばれる日本刀は、刃物としての洗練を極限まで得ていて、現代ではその製法さえ失われてしまい定かではないと言われている。また、中世から現代までひっそりと立ち続けた日本の建築物は、地震災害の激しいこの国で、建築基礎を地中に刺したりセメントで固めたりせず、あえて緩められて環境と衝突しないように作られており、それは現代の建築工学に対するアンチテーゼとして痛快ささえ持つほどのものだ。古武術を継承し、現代にそれを再現しえている武術家は、アメリカFBIなど実務に戦闘を含むところへ技術指導に招聘されているし、先進的なダンス・カンパニーにも未知のボディワークを教授する者として熱心に招かれている。伊勢神宮は古代日本の営みを復元した博物施設ではなく、呆れるほど古代からそのままを現在に続けている神宮の"実物"であり、このようなものは諸外国に類例が難しい。
それらは日本の歴史であり文化であるが、これをもって、現在日本に住む我々が、歴史的な存在であるとは言えない。それは、我々がまったくサムライではないように、古代日本からの歴史を我々が引き継いではいないからだ。我々は着物を着て刀を二本差して歩いてはいない。洋服を着て電卓装置を持ち歩き、基礎の強固に埋め固められた鉄筋コンクリートに居住している。伊勢神宮でデジタルの記念撮影をする。我々は、せいぜい日本語は使っているけれども、では百年前の尋常小学校の国語教科書が読めるかと言われると苦しいものだ。「和を以って尊しとすべし」と聖徳太子による興国思想を学校で習うが、それは暗記項目として習うのみで、その思想の実現を訓練されるわけではない。現在のところでは、子供にでも実現を得させようとしている理念はむしろ「自己責任」などだ。
とうの昔に、歴史的な日本とは切断されてあるのだ。我々は「時代劇」という単語にも映像のイメージにも親しみがあるが、「時代劇」とはその名の示すとおり、或る時代を舞台をしているものであって、歴史の描き出しをそのモチーフにしていない。時代劇といってもその舞台はほぼ江戸時代に限定されている。「江戸時代の」「庶民に焦点を置いた」「人情と犯罪のもつれ」「そしてその解決を担うヒーロー活劇」というのが時代劇である。しかもそのヒーローが官製であることが特徴的に多い。
我々は歴史的な存在ではすでに無いが、時代的な存在ではありうるとしたとき、時代劇に描かれる江戸時代を象徴的に眺めることは、有為な知見を与えてくれる。たとえアスファルトをトヨタで走り、鉄筋コンクリートに済んで電脳生活をするにしても……江戸時代の幕藩制度がそうであったように、人は生誕した地に血族ともども所属が括りつけられて過ごす。それで演歌群はこれまで、上京した若者が必然として帰郷してくることを歌って呼びかけてきた。「脱藩」はやはり"人の道に悖(もと)る"と今でも信じられているところがある。人々は主格において"庶民的"でなくてはならず、無力な庶民があわれに苦しむときは、官製のヒーローが解決してくれるはずだと待ち望んでいる。
数十年前、それら封建的なものを否定しようとする組は「リベラル」と言われた。しかし、今では誰もが知るように、それらリベラルの組も、集合するとその組織を封建的に経営してしまう。リベラルが保守と対立すると、リベラルの側もやはり保守側に対するに第一に脅迫をその手段に選んでしまう。我々はすでに歴史から切断されてある以上、我々の持っている文化とは何かについて、それを歴史からではなく時代的なものから探すよりない。その文化の根の刺さってある先は、どうやら「時代劇」に見られる江戸時代のそれなのだ。封建的・幕藩体制のそれが、我々の文化の基礎である。
我々が時代的なものに自らの文化を頼るとき、もちろん「現代」もその時代の一つになりうるはず。けれども今のところ、「現代的」な文化は、ほとんどヤケクソという成分をどこかに含んでいる。膨大な造語が生み出されたが、それらの造語は全てヤサグレており、誠実に生きるために生み出された現代の指針ではない。「自己責任でリア充になって生きる」などというのはどうしてもヤブレカブレに吐き出されたものだ。
我々は今、まったくそのような中にいる。封建的・幕藩体制の文化気質が土台のまま、現代的たらんとして、日常的にヤブレカブレに陥る。それではあまりに文化的にみじめなものだから、諸外国の人に向けて自国の文化を説明するときは、日本刀や着物や五重塔といったような、現在の我々とはまったく切断されたロスト・カルチャーについて伝えようとする。そこに、まだ経済大国・技術大国であるはずだという自負の「面子」を加えれば、だいたい我々が立っている場所のことが理解されよう。我々は同国人として世界的に優秀なスポーツ選手を排出しているという点で一時的にナショナリズムを振り回すが、その直後には自国の文化を奥ゆかしさだとも主張する。ジェンダーギャップ指数は先進国中の最下位で、報道の自由度は「問題あり」に分類される、そしてミス・インターナショナルの女性に悪党が狼藉をはたらきかけているのに、頼った役人は身分徽章無しには不親切だという、これはそれだけで十分に"封建的"なのではなかろうか? 「日本の文化に根本的な問題がある」という、彼女の――彼女らの――押し隠した悲鳴は未だ正しく聞き遂げられてはいない。
実存しない日本
事実は現代であるのに文化気質は時代的である。そして文化を問われればすでにロストしたそれを言い立てる。このような中で、日本はすでに実存を失っているのだ。容易にわかりやすく、また有効に言うならば、「日本という国はすでに存在していない」のである。時代的には現代に到底キャッチアップできておらず、歴史的にはすでに切断されておりロストしている。我々は歴史的でもない上に現代的でもない。例えて言えば、田植えのやり方などすっかり忘れてしまったのに、最新の農法にもまったくついていけていないような状態だ。そのような者はすでに農家ではない。
もちろん国際地図上に日本国という国家は存在する。しかし我々は「日本」というとき、国際地図上の一国家を指すような使い方を内心でしていない。我々は「日本」という語を、或る特殊な感覚において使う。すでによく知られたことだが、「世界のクロサワ」という言い方はありえても、「世界のスピルバーグ」という言い方はない。これは、我々が日本と世界とを隔壁して捉えていることによる現象だ。我々はたとえば「神奈川と日本」と言ったとき、「いやいや、神奈川も日本の一部だろ」という切り返しを当然に感じる。一方、「いやいや、日本も世界の一部だろ」と言うのには、いささか理屈ばった無理を感じるのだ。
「日本人は優秀だ」という言い方がされるが、これもすでに現代においては危うさのほうが濃厚だ。それはその優秀さの真偽によってではなく、すでに全世界的に、一つの国家を持ってそれを単一文化・単一民族のように語りうるのか? という不確かさのほうが実態に即しているからだ。「日本の技術」と言われるが、その技術は技術者ごと買い上げられるかもしれず、また日本国内の企業であっても、すでに少なからず外国資本が入り込んでいることがありうる。社屋が日本にあったとしても、資本が外国からであればその企業の持ち主は外国の資本家だ。
それでも確かに、日本は地理上も言語上も、単一民族性を高く持ちうるから、それをもって「日本人は優秀」と言えなくはないかもしれない。とはいえ、かつての高度成長からバブル経済の悦楽、その後にも残された最先端技術のいくらかは、ポツンと海に浮かんだ日本が独自に生み出したというわけではなく、東西冷戦の切実さの中、アメリカが国策として大盤振る舞いの扶助を――やむなくだろうが――したことが巨大な追い風になっている。そのことを抜きにして全ての成長を日本人の民族資質に帰属させることはできない。実際沖縄は一ドル360円のフィーバー・タイムにあずかることができず、沖縄は内地のような発展を得られなかった。
我々にとって「日本」という語は危険だ。世界との間に隔壁のあるものとしてしかその語を使えないので、何であれ「日本」は特別――特に別のもの――と捉えてしまう。それは平たく言えば典型的なナショナリズムだ。そのナショナリズムが緊迫感を産まないのは、ただその中に進取の気鋭を持たないからに過ぎない。
日本の中で神奈川も埼玉も千葉も特別ではないように、日本も世界において特別ではない。であるから、我々がいつも使う、或る感覚においての「日本」というのは、実際存在していないのだ。我々が自分の出身小学校を○○小学校だと言うとき、そこには母校への懐かしさと愛着が染みてあるだろうが、その○○小学校が他の世界と切り離された特別なものだとはよもや捉えない。「小学校はだいたいどこも同じようなものだろ」と捉えている。それと同じように、我々の出身国を日本だと言うときも、「他も大体同じようなものだろ」と捉えていないでは不自然だ。
日本文化の禁止
僕自身の最も率直なところ言うと、<<文化ぐるみ女性を迫害して見て見ぬフリをするような国は要らない>>。これは吉松さんの記者会見のみで得られた瞬発力としての感慨ではなく、これまで僕自身の体験や見聞きしてきたものの蓄積によって確かめられたものだ。人類全体、人々を迫害することはやめようと、それを未開の蛮族のする蛮行だとしつこく反省してきたのであるのに、未だその蛮行が平然とまかりとおるなら、そこには今さら文化を名乗る資格が無い。それまでも文化と言い張るなら、昭和三十四年まで遡って、今さら「おっとい嫁じょ」の判決を無罪に覆さねばならないだろう。もちろん、「こんな国は要らない」と言い放つのは、あくまで澱み泥んだこの文化実態としての国を言うのであって、社会体系を構成する一単位である国家としての国を指すのではない。そんなことは言わずもがなだが……そうして明らかに筋道の違うところにでも茶化した冷やかしの問答が始まりかねないことも含めて、このような文化のありようはひとまず全面的に禁止されるほかない。行き詰まった者らからヤブレカブレに生じて抜け難い悪習をまでも人々は文化と認めているわけではないのだから。
ここまで話したことを取りまとめるとこのようになる。まず我々は、歴史の深い国に住んでいるように思い込んでいるが、すでに我々はその歴史から切断されており、我々をして歴史的な人間らだとは言えなくなっている。そこで我々は、歴史的ではない、時代的な人間だと言うよりないのだが、この時代が現実的には現代であるはずが、現代という時代にはついてゆけておらず、まるで時代劇に刷り込まれたかのように、時代的には封建時代めいた人間なのだ。たとえリベラルを気取る勢力があったとしても、彼らはその活動組織を封建的に営むことしかできなかった。
それで実際、文化的にどのようなことがあるかというと、封建制そのままのように、親は子を言いなりにしようとし、教師は生徒を、男は女を、言いなりにしようとする。そしてそれが叶わず反抗的にされると「面子」にかかわる。面子にかかわるとなると、ただちに「脅迫」という手段に訴える。その古めかしい方法はテクノロジーに反撃されるので、脅迫側は脅迫の程度をエスカレートさせてきている。もちろんこのような封建的なやり口は聞いているだけでも嫌気が差すものだ。それで、そのようなやり口はするまいと、誰もが思っているのだが、それでも実際、「日本」という語を使っただけで世界と隔壁が生まれる習慣なので、現代についてゆけず、現代的なつもりでいる日本人は、ひとまず封建的ではないにせよ、何かヤブレカブレというようなやり口しか持てなくなった。
このような出口の無い状況の中で、僕は差し当たり、「こんな国は要らない」「"日本"はすでに実存しない」と主張することになった。それがここまでの、奇をてらうでもない、平易な道筋の話だった。
ここに日本の文化論を考究しても意味がない……今さら我々が文化論的に自国を眺めるのは自慰的で無意味だ。ここまで文化論じみて話さざるを得なかったのは、ただ「何を禁止せねばならないのか」「なぜ禁止せねばならないのか」ということを明然とさせるためでしかなかった。僕が今ここで、誰より自分自身に向けて、来る新しい年に向けて投げ込む、希望の光のあるものとして……主張しているのは、迫害をやめようであるとか、脅迫や面子のやり口を捨てよう、ということではない。
そうではなく、
「ああ、日本文化は禁止になったのです」
こうして短く刻まれた文言にこそ、胴体に来る力がある。その力こそ、人間にとって優れて良いものだと見るわけだから、僕は社会派ではないのだった。「日本の文化は禁止になったからね」という、端的な言い方で、正直なところ、ほとんどのことのカタがつく。カタがつくのみならず、このように集約されて結ばれないでは、肝心の力のはたらきかけを持ち得ないのだ。
新しい年がやってきて、新しい日々は、すでに日本の文化が禁止された、すがすがしい日々としてやってくる。もちろん、まず自分のこととしてではあり、周囲は引き続きそのようなことには無関心であるわけだが、現実的なことを言えば、今僕はまさにそのことについて話しており、これを読み聞いた人々のうち誰かは、少なくともそのような宣言がなされる面白い光景のようなものを目撃はした。日本の文化は禁止になったからねという、気の利いた未来への宣言は、封建主義のど真ん中では到底聞き入れられはしまい。けれども、そうして「聞き入れる余地などない」というのが、まさに現日本の文化であり、そのような白眼視の態度に晒されることは、むしろ日本文化禁止の正当性を強化するものだ。
<<日本でなければねちっこい視線など浴びない>>。もし外国からの探訪者に日本の文化について尋ねられることがあれば、どれだけ恐縮であったとしても、「去年のことを訊かないでくれ」と、僕は答えねばならない。……僕は愚かしいほど、わくわくしているのだ。日本文化を禁止した中に立った途端、我々にはやるべきことが次々に生まれ出てくる。それらの清潔なことといったらどうだ。
[2013日本文化の禁止/了]