No.300 或る書斎の末日
わたしはこの文章を誰かに見せるだろうか?
わたしはこの書斎に、おそらく九年ほど棲みつき、数百のcolumnを書き、千何百かの記事を書いた。
全てのことを、この場所で悩み、全てのことを、この場所で見つけ、全てのことを、この場所でよろこんできたように思う。
おそらく、まだ若かったわたしの、最後の名残がする場所。
転居によって、今から三日後には、もうわたしはここにいない。
本日のうちにこの書斎は解体され、三日後には引き払われる。
同じ都内へ転居するだけであるから、どうということはない、という気がする。
けれどもそれは錯覚で、わたしは昼のたび、また夜のたびにも夕のたびにも、この数日、ひたすら、みっともないほど泣きながら過ごした。異常な胸の苦しさが、わたしを"容赦なく"締め付け続けた。
わたしはそれによって、自分が過去より、いくらかでも強くなれたのだ、と確信もした。気を逸らせるのは簡単なことで、自分のこころが叫ぶところを、認めずに受け流すのは容易なことだった。けれどもわたしはそれをしなかった。するかしないかを、選択する余地があって、わたしは数日でも苦しみ抜くことのほうを選ぶことができた。周囲に迷惑は掛けたけれども、そのことは翌週にでも詫びようと思う。
同時に、この九年間、でたらめに暮らしてみたことは、わたしにとってかけがえのない成功だったのだ、という確信も得た。今さら、これほどとは自分でも思っていなかった。わたしのこころは、本音を言えば、この大好きな書斎のこの場所で、時間が今のとおり永遠にでも続くことを望んでいたわけだから。いつの間にか――まったく「いつの間にか」というべきだが――わたしはほとんど夢のように暮らせていたのだ。
転居の理由は、一身上の都合で、またそれは大きな幸運に呼び込まれてのことだから、これを受けては意固地に反するつもりには、わたしはなれなかった。
ただ、そうして到来したものが大きな幸運に属するとしても、そうした到来というものの全てを、来ないでほしかった、少なくとももうしばらくは、というのが、わたしの幼い本音であったので、わたしはそのことに、わあわあ泣いて悲しむしかできなかったのだ。
今も、この場所、この書斎への愛着と、何よりここで過ごしたことの全ての記憶が、いとしくて、胸の痛みにはすさまじいものがあるが、もうどうせ数日のこと、わたしはこのことを避けずに進みたいと思う。解決はない。この場合の解決というのは、この痛みをごまかして消すことではないはずだから。
もし、このたびの家移りについて、ここで急なトラブルが発生して、御破算になったとして、これからも無期限にここに棲まねばならぬとなったとしたら、愚かしくも、僕はにこにこ酒を喰らって酩酊し、安息のままに眠りに落ちるだろう。それがどれだけ愚かしくとも、偽らざる自分の心情であれば、この期に及んで筋道立ったふりをしてみてもしょうがない。
わたしはこの九年間に、またこの家とこの場所とに、感謝しても感謝しきれない。
わたしはこの場所において、自分なりに自己を尽くしたとも思うが、それ以上に、どうしても霊性ぶって言うよりないところ、この家と場所と書斎の全てが、わたしに現在のわたしを与えてくれたのである。わたしを、この場所から送り出してもよいように、<<急に>>、この家はわたしへ、わたしの必要な武器をまとめて与えてくれた。あわててその餞別をわたしに与えてくれた。
それは、今年の一月末から突然に来たひとつの直覚であったのだが、この書斎とわたしが別れるこのときに、僕はこのことを宣言してよいだろうし、わたしの趣味でなくとも、その宣言をするべきだという仁のようなこころに駆られる。つまり、
<<わたしの訓練の時間は終わった>>。
いつからか、ウェブサイトを運営してcolumnを書き連ね、ブログに日々ごとの記事を書き続けてきた、そのことはそれ自体として成立させてきたわけだけれど、それらの全ての端緒となった動機は、わたしがわたし自身として、文章を書ける人間になるためにという、具体的な訓練の場として、自ら立ち上げたものだった。初期の頃から読み続けてくださっている読み手には、その「僕」の変遷というものが漠然と知られていると思う。文学へ引きずりこまれていく時期の「僕」のことや、同時に、生来の気質から、芸術家という気取りに収まることへ反発しつづける幼稚な「僕」のことなど。
それらの全てを含めて、わたしはついにこのことを宣言できる。「訓練は終わった」。それは物事の完成を意味してはいないし、完成というのは永遠に訪れないものだろうけれど、これはそういう言葉遊びのことではない。今年の一月末から、わたしが内心で何度もつぶやいてきたことをそのまま言うと、それは「訓練って終わるものなんだ」という感慨だった。あまりに長く、このことをやってきたものだから……それがいつか終わりうるものだということなどすっかり忘れ去っていた。
それで、そうした訓練の完了が、わたしの認知しないときに突然やってきたものだから、わたしにはそのことが不思議でならなかったし、そして今このときに感じていることを正直に言うと、この家とこの場所が、まるでわたしが長年そうしてきたことをずっと見てくれていて、最後に送り出そうというときに、その訓練を終わらせてやろうと、超常的にはたらきかけてきた具合なのだ。
どれだけ笑われてもよいし、後にわたしもわたし自身で笑い飛ばすのかもしれないが、この家は、あまりに古くおんぼろの木造で、見た目もいかにも老朽であったが、家として誠実で、内に住む者に応じては、住人を病に臥させたりはしまいという健気な意地があった。この家は実によく家人を守ってくれた。その老朽化した造りなりを惜しまず振る舞って。家相を詳しく見る人によっては、それはわたしがこの家に愛情を尽くしたから、家もそれに応えているのだと言ったが、そう言われてみて、わたしにもその心当たりが無いとは言えそうになかった。
そうして、臨時のでもアニミズムを許すとすれば、この家が最後にわたしに、わたしの訓練の完了を、餞別として振る舞ってくれたとすれば、わたしは長く暮らしたこの家への感覚として、この家のことこそがむしろ心配になる。そのような巨大な贈り物を与えてくれるには、この家はひどい"無理をした"はずだ。わたしはそのことへ、感謝してもし尽くせないし、まただからこそ別れの現実へ向けてわあわあ哀号する様だったのだが、それでもこの誠実な家は、気丈さからか本心からなのか、「甘く見ないでほしい、それぐらいは余裕のことだ」と、言い放っている気がしないでもないのだ。やさしい家であった。
わたしは真冬にでも、書斎の窓をいくらか開けてでしか、執筆の作業ができない性向がある。まして、雨戸を閉め切ってなどということはできない。気が詰まる。この書斎は、窓が部屋を横断して広いのがわたしの自慢だった。その上で、この二畳ほどもない狭さの書斎に、電灯を三つも四つも点けてある。わたしはそうして光の豊かな中で書くことだけをしてきた。窓を開けずにいられない性向から、この狭さにまったく不釣合いの強力な石油ストーブも焚かれている。
わたしはこの書斎の窓から、数十の季節が行き来するのを見ていた。見ているだけでなく、季節は必ず窓からわたしにしっかり触れていってくれた。わたしは今もこの窓から、それら来ては去っていった数十の季節を、一度に重ねて見るように感じる。窓は東に向いてあるから、どの季節にはどの場所へカーテンをぶら下げねばならないか、決まっていたし、そうして陽光が差し込む角度によって、季節の変わり目も独自に感じて過ごしてきた。この場所で、わたしだけが知る、暦の進み方があったのである。
それらのことも、今日には解体され、すべて思い出になってしまう。
だからわたしは、このことを書き残そうと当然に思った。
わたしがこれまでに、どれだけ書くということをしてきて、実際に何文字を書いたり書き捨てたりしてきたのか、わからないが、それは厳密には、この場所で、この位置で、この書斎で、そうしてきたのである。ただ書いてきたのではない。ここで、という場所が必然としてつながっていた。どれだけ狭かろうが、きっと半生の内でもっとも広がった、これはわたしの場所。この場所から、わたしはどれだけの広がりを得たのだろう? どれだけの人と出合い、どれだけのやりとりをし、どれだけの発見を得て進んできたものか、もう振り返っても自ら見当が付かない。
書斎には、壁紙の変わりに桃色・赤色・橙色の升目の大きな壁布が掛かり、机にも赤い布が張られ、その端には端末の作業がしやすいように革張りがされているが、これらはわたしがコーディネイトしたものに違いないにしても、意図的にそう意匠したというよりは、ただ文章を書くという作業の上で、そのようにするしかなかった、ということの結果のかたまり。わたしの背には変形した押入れがあり、過去は簡易ベッドとして使われていたものだが、現在は、通い猫が定宿にして寝そべっている。この猫は元は野良であるはずが、最近はほとんど家から出なくなったので、改めて飼い猫として転居に連れてゆかれる。この猫は、元いた通い猫が子を産んで、その連れてこられた子猫としてわたしの家に棲みついたもの。その他、この九年間にまつわる小噺は、言い出せば無限と言えるほどにあるので、さすがにわたしもこれ以上自分の胸中を痛めないために、付属する話はここまでにしたい。
わたしが過去、丸の内で企業勤めをしていたのを、退職したのが、二〇〇四年の一月末だから、今年の一月末をもって、ちょうど十年になる。十年前に、そうした社会的基盤から脱獄して、なんやかんやあり、その一年後にはこの現在の家へ流れ着いているわけだが、そのことの顛末も書き残しておきたい。気が引けるのは、わたしが随所で幸運すぎて、話に別の意味合いが含まれかねない点だ。今は少なくとも、そのことをアピールする意図は僕にはない。
九年前、わたしは、まだ先住者が世帯主であったところのこの家へ、ルーム・シェアの一員として入り込んでいる。出遅れた説明になるが、わたしが暮らしていたこの家はつまり一軒家の造りであってマンションやアパートの複ルームではない。何にせよ、当初のわたしは、この一軒家にルーム・シェアをする見知らぬ誰かの二人のところへ、三人目として転がり込んだに過ぎなかった。そのころは、ルーム・シェアといっても、見知らぬ三人が、互いにプライヴェートを決して犯さぬように、各々の部屋を区切って閉じた暮らしをしていたのみだ。
それで、紆余曲折あって……つまりは、わたしが旧世帯主を気分的に追い出して、この家を乗っ取った、というようなところがある。もちろん何か悪意的なはたらきかけをしたわけではない。端折っていえば、わたしがそうしたルーム・シェアについても、新しいありようをぐいぐい引き起こしていこうとするものだから、旧世帯主はついてこられなくなって、「自分は一人暮らしのほうが向いているかもしれない」と感じはじめ、脱退していったのである。それで、厚かましい交渉の末、別に生活費に困窮しているわけでもなかったから、契約上の敷金は旧世帯主のそれを引き継がせてもらって、つまり僕は敷金もなしに一軒家の丸ごとを一人で乗っ取った形になった。また、あまり金額の話をするべきではないにせよ、都内のこの立地で一軒家でこの賃貸料というのは他にはまず見つからないような好条件である。家屋が老朽だからということが安価の第一の理由にあったろうが、そんなものはわたしが自身で工夫によっていくらでも解決できる自信があった。古くても、窓の広々とした、気詰まりはさせない家だ。
そこからは、せっかくルーム・シェアが許されている物件であるのだから、僕は旧知の、親しい友人を呼び集め、新しい三人での暮らしが始まった。深く分かり合える友人でありながら、何のしがらみもない、ただ友人だというだけの友人。二人のうち一人は、わたしの大学時代からの後輩で、今さら後ろから気分で蹴りを入れても何とも言わない関係の者だ。そうして、ただ友人であるというだけの若い三人が、「きっとこの先にこのような暮らしは二度とありえまい」というふざけた確信の中で、出来る限りのことをやってみよう、という暮らしが始まった。そんなことが五年も七年も続いたのである。火鉢を常用に用いて、冬場には毎年300キログラムの備長炭を消費する、というような暖の取り方が毎年の日常であった。そこに通い猫が棲みつきはじめ、また友人が来訪すると四人となり麻雀ができ、いくら語りあうもよしヴィデオゲームに耽るもよし、毎夕に鍋料理を渾身で作るものだから三人とも食いすぎで倒れて毎日が食事だけで終わってしまう、というような日々が本当に続いた。その中で、随時わたしはわたしの書斎に駆け込んで、書くことへの訓練と、語りかけたいことへの実地を積んでいったのである。<<馬鹿げた暮らし>>。でもそれはまさに、今振り返って夢のような暮らしであったし、人はどこかでそうして夢のように暮らすことを持たなければ、一体いつの未来へ向けて、何のために生活をしてゆくのか?
この数年間だけでも、臆さずに言えば、わたしは、本来生涯のうちに得るべき幸福さの時間質量を、すでに許容量を越えて獲得しているように思う。ましてわたしの場合、それ以前の時間を振り返っても、似たり寄ったり、とにかく<<馬鹿げた暮らし>>を夢のようにしてきているのだ。
ここで話すべき脈絡ではないが、わたしは――「僕」は――ずっとこのことを思っている。<<どうか願わくば全ての人が、いくらかでも、そうして夢のように暮らす時間を持ち得ますように>>。人それぞれの環境があるにせよ、些事は捨象して、「若い友人らだけで寄り集まって、冬場は火鉢で過ごして、毎晩鍋をつついて倒れて、語り合って笑って暮らすことはできるよ」と、僕は断言することができる。実際にそうした。過剰な金銭の負担もない、僕はきっと一人暮らしの人間より、この数年を安価に暮らすことができた。固定費をシェアして、三人で自炊するのが最大の楽しみという暮らしぶりだったのだから。ではそうした馬鹿げた暮らしのためには、本当には何が必要なのかといえば、それぞれが自問すれば明らかなとおり、必要なのは「人」だけではないのか。
「運」といえば、幸運と、非幸運があるとわたしは思う。不運、という言い方もあるが、これはあくまで不運であって、それ自体は運と呼ぶべきではない。
「運」というのは、その字義のとおり、人を運んでゆく何かしらの力のことだからだ。幸運とは、幸い事の方向へ人を運んでゆく力のはたらきかけのこと。人を運ぶ力は、必ずしもそうして幸い事のほうへのみ向かうのではないから、非幸運というのもありうる。そして不運というのは、その運ぶ力そのものが見当たらない状態のことで、ひいては幸運も不運も、ラッキー・アンラッキーという西洋の言葉には引き当たらない。
わたしがこれだけ泣いて苦しみながらも、転居することそのものへ反抗しないのは、ここにはたらきかけている「運」の力が、より大きな、幸運に属していると認めているから。つまりは、このこれまでの信じがたいほどの、馬鹿げた暮らしへの幸運以上に、さらなる幸運が続いてきているので、それに背くことはできないということなのだ。あとは、今以上の幸運に乗っかるにして、わたしがそれを乗りこなせるだけの器量を持っているのかどうかが問われる。わたしがその幸運にふさわしいだけの「人」でなくなったとき、わたしは追い風に転覆させられて遭難するだろう。
わたしは、馬鹿げた暮らしを、夢のように過ごすことを、愛する人間として、今このときも、胸の苦しさにやられているぐらいが丁度よく正しいように思う。今こうして、この書斎でこれを書いていることのよろこび、窓から弥生前の風が吹き込んできて、如月を忘れさせようとするこのときが、永遠に続けばよいのにと本気で願っている愚かしさで、しかし幸運にせよ何にせよ運ばれていってしまうことにひどく泣いたりする、あほうくさい人間であってよいと思う。だって何しろ、三日後には、もうわたしはここには戻ってこられない。今日の深夜には、きっとまた泣きながら、自分でこの書斎を解体してゆくのだろう。なんという感謝か、僕はこの家とこの場所、この書斎への、感謝を、未来永劫言い続けるに違いない。わたしがまだ若かった時間、その終末はここで区切られるとして、それでよし、と思う。たとえもう百篇生きたとしても、これ以上のことはあるまい。
わたしは今後も時折はこの町に立ち寄りにきて、外から我が書斎を眺めることをし、きっと死後もなお、わたしが棲んだわたしの場所として、棲みつき、いくらでも好きなその窓からの風を受けて、何かを書くようなことをするに違いない。
二〇一四年二月二十六日 如月荘書斎にて
[或る書斎の末日/了]
おまけ