No.309 ナルシストのすすめ
だいたい、こうして、○○のススメ、というタイトルで書かれたものは、ゴミになるので、その気マンマンで進めよう。
だいたい、ナルシストでないと、話が進まない。
ナルシストでないなら、引っ込んでいろよ、田舎に帰れよ、畑をたがやせよ、ということになる。
「自信なんて無いのよ、でも……」というような、歯間ブラシの味がする言い回しは要らない。
自ら「自信がない」と言い張っているものをわざわざ人に見せないように。
自信がないならマズイ物に決まっている。
ナルシストというと、人格的に劣等、うざい、というイメージがあるが、そのイメージは、そのとおりだ。
そのとおりなのだが、それでもナルシストになるべきやつは、なるしかない。
ナルシストになるといいことがあるのだ。
それは、ナルシストになった時点で、うざい、イヤだ、気持ち悪い奴だ、ということが明るみに出た場合、そいつはそこまででオワリだと、はっきりするということだ。
何か可能性のある人間なら、ナルシストでもなぜかむかつかないので、そこでオワリにならない。
ナルシストでも、なぜかむかつかないという場合、そいつは人間的な何かを持っている。
そこのところを、さっさと見極めるためには、「わたしはナルシストです」と表明したほうがいいのだ。
「わたしはナルシストです」と表明したとき、むかつくどころか、何かカッコイイ、正しい気がする、と感じられるときのみ、そいつは人間的な何かを持ち、可能性を秘めていると言える。
だいたい、ナルシストにならず、平凡でございますと謙遜ぶっている場合、その立ち位置は安全すぎて卑怯だ。
だいたい、そういう気楽で安心できて、おばちゃんにも都合のよいようなやり方は、卑怯でハズレで何の可能性もないやり方なのである。
気をつけよう。
まずナルシストになったらいい。
そしたら、自分がハズレだった場合、早急にはっきりとハズレだということが明るみに出るので、わかりやすくていい。
ナルシスト、つまり、「自分は天才だ」と、堂々と胸を張って、見せつけて進むのがいい。
それでそいつがアホだった場合、これ以上なくアホだという事実がはっきりわかるので、いいのだ。
さらに、ナルシストになった場合、そいつが自分自身以上に大切にしているものがあるかどうかがはっきりわかるので、これもいいのだ。
たとえば、ひどいナルシストの男が、バイオリンを構えたとき、ナルシストぶりはどこかへすっ飛んで、ひたすらバイオリンの音だけが残る、音楽世界だけが生き生きとして残るという場合、
「あっこの人にとっては自分自身より音楽世界のほうが大切なんだ」
と明らかにわかるので、それがとてもいいのだ。
だいたい、ナルシストにならない人間は、八百八の理由をつけて自分を正当化するが、それは要するに自分を上等な人間だと思いたい(思わせたい)からに過ぎない。
自分のことなんかどうでもいいじゃないか、と思っていれば、「そうかなるほど、おれなんかナルシストになっても何の問題もないものなあ」と、せめて笑いの種にでもなるように、気分ひとつで生涯をナルシストで貫く決意ができるはずだ。
「ナルシストなるなんて、それは……だってナルシストというのは」などと、四の五の考える人間は、つまりそれほど自分の存在を貴重品に思っているのだ。みっともない奴である。
真のナルシストとは、自分をゴールドで飾り立てる男ではなく、極太マッキーで鼻の下にヒゲを書いたってオレは世界一カッコイイ、と確信している男のことだ。
二〇一四年、せめてナルシストぐらいにはならないと、このご時勢、本当にすることがまったくない。何一つない。毛穴の手入れぐらいしかすることがない。
毛穴の手入れは重要なことだが、問題は、それしかすることがない、という状態なのだ。
若い男が、新宿駅の公衆便所の鏡の前で、前髪を尖らせるのに必死になっている場合、彼はナルシストなのではなく、ただ「することがない」のだ。
真のナルシストなら、髪の毛を整えるヒマもあまりなくて、「オレが幸福という語の意味を十年以内に再定義してやる」ということぐらい、朝から考えているはずだ。
ナルシストになる準備は出来ただろうか?
最近、特に思わされるが、何も持っていない若い人間に限って、決断が異様に遅いのはなぜだろう。
決断、というほどに決断を必要としない決定について、異様に考え込んで、悩みこみ、自宅に持ち帰ってうやむやにした挙句、数年後に思い出したように「決断しました」と報告しに来るのはなぜなんだ。
交差点に差し掛かったとき、直進禁止、右折禁止、と標識が出ていれば、左折するしかないに決まっている。
それを、左にウインカーを出したまま、チッカチッカと停車して、何時間でも停車してウンウン考え込んでいる。
考え込んだって、左折するしかないだろうに。
左折する手前に考え込んで汗を流している人間を真剣とはいわない。
ナルシストのすばらしいところは、人に教えを乞わないところだ。
教えられてあれこれするのは、ザコのすることであり、自分にふさわしくないと気負いこんでいるから、結果的に人に迷惑をかけずにすむ、よい存在だ。
そしてナルシストは、目の前に落ち込んでいる人や、傷ついている人、悲しんでいる人、退屈している人がいた場合、
「オレの責任だ」
「オレしか何とかしてやれる奴はいない」
「オレには全てが出来、そして全てをする責任がある」
と気負っているので、彼は能動的で、結果的にいいヤツになる。
ナルシストは、そうして自ら確信した義務として、いついかなるときも最前線に立とうとするので、結果的に能力を身につけることがある。
ナルシストでないと能力なんて身につきっこないのだ。
ナルシストでなければ最前線に立つわけがないし、最前線に立たないと能力なんて身につくはずがない。
ナルシストには、最前線以外の立地は認識不能で、気が引けるとか及び腰になるとか、そんなナヨナヨした発想がない。
ナルシストといって、自己陶酔をして、本当にその陶酔にやられるような奴は、まさかいるまいが、本当にいたとしたら、そんな奴は根本的にアウトである。
それはナルシストだからアウトなのではなく、何というか、動物園で薬殺される何かのように、とにかく根本的にダメという理由のみにおいてダメな存在だ。
真のナルシストは世界に陶酔する。なぜなら、彼にとって、世界は自分のものであり、自分は世界のために生まれてきたからだ。
だから真のナルシストは、鏡なんか見ているヒマがないし、鏡なんか見なくても、自分は世界一カッコイイと確信しているので、そもそも鏡を見て確認するような野暮の必要が無いのだ。
ナルシストは、世界のために自分が生まれてきたことを確信しているから、世界に公益を与えることに、本能的な欲求を刺激される。その欲求のまま彼は生きるので、彼はまったく欲求のみによって生き続けるというワガママなことができる。
ナルシストは、願望というような、廃墟に残された柴漬けのような、見たくも無いしおれたものをそもそも持たない。願望などというものは、もっと貧しい、求めても得られない人たちが持つものだと初めから確信されている。
ナルシストには願望がなく、たとえば、フロイトの全集を読もうとするとき、それを読んで心理学を知りたいという願望は無いのだが、「自分の才能のごく一片をこいつに向けてこなしてやろうか」という義侠心を起こす。
それで、凡人にはなかなかこなせないそれを、涼しく軽やかにこなす。まあ、こっそり努力もするかもしれないが、そんなものは演技じみたネタでしかなく、彼は一切の苦労という現象なしに、全てのことをこなしていくのだ。
(ナルシストになる準備は出来た? もう訊かないからいいかげんにするように)
ナルシストは……という言い方は飽きたので、言い方を変えるが、対極する凡人気取りのやり口は、卑怯でいやらしいじゃないか。
凡人気取りでいるくせに、内心で自分はそこそこイケているとか、何か出来ることがあるんじゃないだろうかとか、よこしまなことを企んでいるじゃないか。
凡人といって、凡人気取りでなく、
「いやあ自分は、凡人というやつで、教わったことを教わったとおり丁寧にやるだけ、横着をせんと、それだけですわ。後はもうね、そうして教えてもらえる環境があって、教えてくれる人がいて、自分みたいなもんにも何か仕事させてもらえるいう、そのことに感謝するばっかりですわ。与えてもろうとるもんに頭を下げて、間違うても欲を掻いたりせんとね、身のほどに何もかも十分やないかというのを、日々感じて過ごしとります。わしはほんまに幸せもんなんやと思いますわ」
と相好を崩す人なら、それはそれでよいと思う。
そういう凡人は、言ってみれば、ある意味天才より偉い。
それに比べて、凡人「気取り」のほうの、立ち回りの浅ましさよ。
凡人の美を見習ったりせず、内心では必死に非凡の美を追求しているくせに、都合のいいところだけ凡性を隠れ蓑にして、プライドの永久保護を画策している。
わかっているのか、やっていることはただのプライドの永久保護だぞ。
ナルシストなら、さっさと、ミニスカートを穿いてウインクして男を誘惑してイイ思いをしろ。「このバッグは誰に買ってもらったっけ? 忘れたけど、みんな大好きなの」と言い張れるようになれ。
そうでないなら、凡人として、凡人の美へ到達すべく身を修めろ。その修身の努力をずっと積み重ねてゆくしかない。
こんなことは僕の意見ではなく一般論である。
ところで、話は変わるが、ここ最近の人間は(若い人間に限らず)、なぜ教わったことや「こうしよう」と決めたことが、三日ぐらいの努力で「出来るようになった」と思い込むのだろう。三日で出来ることといえば、子供がする掛け算九九にも劣るわけで、事実として三日で出来るようなことは何もない。三年間で出来ることというのもほとんどない。
努力どころか心構えひとつで、三日ぐらいで「出来るようになった」と言い放つ人に向けて、僕はこのように言いたい。言いたいというか、実際言うことにしているが、
「じゃああなたの開腹手術をするとき、三日間でコツを掴んだうれしがりにやらせてあげるわ」
誰だってそう聞いたら御免こうむると全力で思う。三日間どころか、三年間でも信頼できない。専門医になって十五年、他のことはせずにきた、この道が我が半生だった、という外科医で、かつ集中力とリラックスと気力の張り詰めように満ちた人間でないと、自分の開腹手術なんて任せられない。
仮に一年間という時間があって、彼がその期間で何かを身につけたなら、それは努力がどうこうというのではなく、とんでもない覚醒が起こるだけの、とんでもないことを一年間にしていたのだ。そういった例外でないかぎり、人間が一年やそこらで何かを身につけるということはない。
努力があり、覚醒に向けて自己の打ち捨てがあったとして、そういった日々の中には、日々の発見というものがある。が、それらの発見が実を結び、何かが「出来る」ようになるのは、やっぱり何年か積み重なってからだ。
発見のある日々、努力と自己の打ち捨ての日々というのだけでも、それなりに大変なことだが、そういった日々が数年間、一日の例外もなく続かない限り、人間は何か妙の能力を身につけたりはしない。
別に能力を身につけなくてもいいのだ。それぐらい、妙の能力というのは身につきにくいものなので、身につかなくていいのだ。
その、身につかなくていいものを、身についた、と勝手に信じ込むことが、まずいのであって、そのまずさは単純なまずさだ。別にまずいという理由はない。ただまずい。誤解を膨らませて足を止めるというようなことに利益は何一つない。
三日や五日で「出来るようになった」と、そのたびに一息ついて立ち止まることがサイアクにまずいのかもしれない。それは音楽CDを三秒ごとに一時停止して聴いているようなものだから、受け取りにすさまじい不具合が起こる。
凡人気取りの人間のほうがそういうまずさのことをよくする。凡人気取りは、内心で自己肯定感に餓えているのだろうか。
ナルシストのほうは全然平気だ、いつだって「自分の覚醒はこんなものじゃないさ、フハハ」と確信しているので、いちいち何が出来るようになったとかしょうもないことで立ち止まらない。
本題、ナルシストのすすめという話だった。
あなたが今日からナルシストをやり始めるなら、あなたは今日から着る服が変わるはずだ。
人に向ける態度も違うし、物事の受け取り方、発想の仕方も変わるはずだ。
それであなた自身が結果的にハズレの人間だった場合、あなたは取り返しのつかない末代までの恥を掻くことになるが、まあそれは別にあなたのことだからどうでもいいだろう。あなたが死ぬまでハンカチを噛みつづけていればそれで済むことだ。重大な問題は何も起こらない。
代わりに、もし、あなたに何かしらの才能があった場合、あなたが今日から着る服、人に向ける態度、物事の受け取り方、発想、出す声から表情から笑い方から振る舞いから、進路やセックスにおけるまで、あなたの才能の端緒が現れる、ことがあるかもしれない。
ないかもしれないが、少なくとも、ナルシストにならなければ覚醒の可能性はゼロだ。
まずナルシストとして背伸びをしろ。物理的な、具体的な背伸びだ。ぐーっと身体を伸ばすやつだ。
ナルシストとしてする背伸びは、凡人気取りとしてする背伸びとは違うし、それだけでも才能がヨッコラショと顔を出す可能性がある。
ぐーっと背伸びをして見せただけで、男がメロメロになる女でないなら、あなたはたいした女じゃない。
そんな、たいした女じゃないなどということを、ナルシストの女はまったく信じないだろう。
そういうことなので、ナルシストになるということは、メリットしかなく何のデメリットもない、明るく愉快なことばかりなので、おすすめするに値すると思い、ススメ、というダッサイ題目でお話しした。
割とまともなことを話したような気がしている。
なお、万が一あなたが、とびきりの大ハズレで何もいいことにならなかった場合、当方では責任を負いかねますのであしからずご承知ください。
まあそれでも、心から笑えるだけマシだと思うけれどね。
ではでは、おやすみなさい。
[ナルシストのすすめ/了]