No.310 「足」なしに「靴」は成り立たない
教条的な話になることに嫌悪の性癖を持つ僕にとって、いつ振り返っても自らがいかにもそのようなことをしていると認めざるを得ないことは恥辱の類だ。けれども僕自身の思いとは裏腹に、現在の僕としてはこのことに取り掛からねばならない仕組みがあり、その仕組み自体僕が認めているのだからいかんともしがたい。人間は、その他の人間との「関係」によって成り立っているだろうし、僕自身、これまで数多の誰かとの「関係」の上に成り立ってきた。今現在も僕自身を取り巻く「関係」はいくつもあって、僕が遠い未来にも今このときのことを、――僕は何をしようとしていたのか? と、それをはっきり思い出せるだろうと予感できるのは、今の僕自身がいくつもの「関係」に接続されているからなのだ。もしここで僕自身が何とも関係を持たない単体で浮き上がっていたならば、そのようなことは数年先の未来には記憶から消え去り、何をしていたのか、このときの時間を消失するに違いないと、経験から前もって知ることができる。
なるべく教条的な話にしないためには、<<当たり前のことばかり書くこと>>だ……人間が、何かについて書き、それによって影響づけを及ぼそうとする試みには、当然ながらアッサリとした冷たい障壁が立ちはだかる。平たくいって、それほどの大したことはできないのだ。人間が、紙なり、今ではテキストデータなりに何かを書き残し、それを読み手にひけらかして何事かにしようということは、広く思われているほどには、実は雄大な営為ではない。この十年間のうち、そのことを何度も、確かめてきたし、思い知らされてもきたわけだ。書かれたことが読まれることで、何事かが起こる場合といえば、読み手がただ、自己と言葉の関わり合いは深いということを認め、そのことを自ら発見したときのみだ。書き手が読み手に引き受けを起こせるのは、せいぜい文章的に書かれてある言葉群、それ自体でしかない。書き手が読み手に関与しうる最大のことが、その言葉群の引き受けというところまでだけれども、そこから一部の勇敢な読み手は、ほとんど書き手のことを無視した独自のこととして、自分はこの言葉と深く関わってゆけるし、関わってゆこうとしているのだ、ということを認める。そのことで読み手に何かしらが起こるのだが、それはやはり書き手が何かしらを引き起こしたとは、すでに半ば以上言い難いことだ。
そうした、書かれる・読まれるといったことの、手続きの性質と、書き手としてやりうることの、領域をはみ出して何事かをたくらめば、たいていろくなことにならない。書き手から読み手へ、まるで親から幼子へ一体感の中で引き継がれる何かのようなことをしようとすれば、それは成り立ちもせぬ子供(ガキ)に向けての醜い説伏のトライアルというふうになる。その醜さの中では、最低限のこととしてあった、文章的に書かれた言葉群が引き受けられるということ、<<当たり前のことばかり書くこと>>でこしらえたそれが引き受けられるということさえ、逆に失われよう。書き手にとって最大の励ましは、読み手が献身的に読む態度を向けてくれるということではなく、そのようなことは誰もしなくとも、人間にとって言葉との関わり合いは深いということ、それのみなのだ。
当たり前のことばかり書くこと、として、たとえば僕はこのように言いうる。――僕は、たくさんの人に出会ってきたよ。安っぽい演出効果がつきまとうことを気にしなければ、僕はそのたくさんの出会いについて、いくつものことを宝物のように抱えている、ということも、うそ偽りのないものとして言うことができる。
誰もが誰も、そのようなことを、自分の得てきたものとして、胸を張って言えるわけじゃないだろう? まして現在は、情勢から言って、そのように言い得て胸を張れる人は少ないはずだぜ。たとえばそのようなことも、<<当たり前のことばかり>>の中に含有しうる。僕にとって宝物たりえた無数の出会いについて、僕はこのように言いたい。僕はいつでも、現在でもそうだが、何でもない人間だったし、出会った人間たちも、おおよそ何でもない人間たちだった。それでも、出会うことで、何がしかにはなっていったんだがね。「関係」ということをよく見ることだ。靴は、人間の足によく馴染み、支えるようでなければ、よい靴とは言えないのだから、あくまでいい靴というのも人間の「足」とどう関係しうるかによって、成り立っている。僕は平たく言って、いろんな場面でゴミのように自分を感じていたけれど、目の前に誰かがいれば、ときおりその誰かを足として、それになじむ靴のようにして出会ったのさ。何も素っ頓狂な言い様に遊んでいるわけじゃない。おかしいことではまるでないんだ、なぜなら、足になじまない靴、履かれない靴というのは、実際上の事実として「ゴミ」なのだから。
逆にいえば、ねじくられた革で出来た何かの、ゴミにしか見えない物体だとしても、足と関わった途端、足を包み込んで支え、馴染んで保護する何かになれば、それは実際上は靴になるのだからね。靴は靴単体として成り立っているのじゃなく、足になじんで包み込み支える、その関わり合いのことを靴と呼んでいる。よい人間というのもそういうことじゃないか? よい人間が、よい人間として単体で成り立っているのじゃない。人になじんで包み込み支える、それ自体が気分がよくてよろこばしく、その関わり合い自体を「よい人間」と呼んでいるのじゃないか。それだとしたら、単体だけで上等になろうとする努力は無駄なことだ。
少なからざる人が、もちろんある程度の立場に支えられてではあるけれども、「どのようにして生きるか」について、説伏しようとするトライアルをしている。そしてそのようなことは上手く成り立たず、本来あるべき最低限の引き受け、誰がどのように話したかという、その言葉の引き受けさえも失われている。そのようなことがあるから、僕はますます教条的な話に嫌悪の性癖をあらわにして、何を話すべきかに慎重になる。僕はたくさんの人に出会ってきたし、たくさんの人と関係を得てきた。今もそのような関係に取り囲まれており、それらは僕の宝物だと、うそ偽りなく言える。この<<当たり前のことばかり>>の中、「関係」というのは、たとえば足と靴のようなものだと話すことにした。靴は足なしに成り立たない。本当には、足と、それを引き受け包む関係のことを、靴と呼んでいるのだから。その引き受け包むことに優れていない靴は、たとえ何革の上等品であっても、やはり履かれなくなり下駄箱の奥で次第にゴミとして扱われていく。この話し方のよいところはきっと、多くの人が、そういう「靴」を実際に自分で廃棄した覚えが一度ぐらいはあるだろうという身近さにある。
上等ぶって飾られている靴でも、足になじみ包んでくれるという、肝心のことを為さないで、こちらに何を与えてくれるかというと、「違和感」ばかりであるということがよくある。足に常に触れ続ける、何かいやらしい、ゴツゴツした痛みと苦しさの感触。足と靴とが仲違いのケンカを続けるようで、時には実際に流血も伴って、ストレスになる。足と靴の関係性のことだが、それは人間同士にも似てよくあることだ。一緒にいると「違和感」ばかりがずっとある。何かしら、息苦しい、ゴツゴツとしたぶつかりの感触が続いてゆく。やがてストレスから、深刻に「耐えられない!」という心地がしてくる。人が人として優れているつもりでも、人とどう「関係」しうるか、という人間の肝心なことを為さないことがよくあるのだ。
僕はこれまで自分のことを、しばしばゴミのように感じてきたし、そのことは誇張された卑下ではなく、自分はそのようであってよい、という先走った確信の何かであったのだが、たとえゴミであれ、人間の肝心なことを為せておれば差しさわりはない。靴と足はよく関係している! 靴紐で締め上げれば締め上げるほど、靴と足はお互いの収まりあう関係の両端としてお互いを確信しあうのだ。もちろんだからといって足と靴は同一ではない。それぞれ、靴紐をゆるめて靴を脱げば、それぞれ別個のものに帰るのだけれども、それでいてよく関係する両者であることは変わらない。よく関係するということのためには、密接でありながら同時に<<それぞれが確実に別個>>であることも保たれていなくてはならない。ゆがんだ依存の愛情や怨恨などで癒着した粘着性の家族などを、わざわざ家族関係とは呼びたくならないように、関係というのはあくまで各個に成立した同士が改めて密接に受け入れあって応じあえることを指している。
近年は特に、単体化した個人が電脳端末から情報を得られるようにもなり、努力や研鑽といえば単体個人が自らに積み重ねるものという捉え方が強くなった。けれども人間を「人の間」と書くことのように、人間は単体としてその有為さを議論するより、誰とどのようによく関係できるかを追求したほうがほとんどの場合で実効的だ。まったく単体個人のように思える宗教者でさえ、個人は単体ではなく神や仏といったものとの関係性を悟り知って祝福している。僕自身の思い出には、まるで一人で野原に立っているふうの景色も多いけれど、それら一人で景色に立っているふうの思い出こそ、濃密な関係に支えられてそのときを生きていたことの証なのだ。僕はしばしば、一人で立つ景色の中に、「自分は何にだってなれるし、何だってやれる」とつぶやいてきた。その夢にあふれたつぶやきようは、自分はどこの誰とだって何かの関係になる余地があるし、どこの誰とでも新しい関係を結ぶことができると噛みしめていたわけなのだ。
もし後を追うようにして、同じようなことをつぶやきたいと望む年少者があれば、僕はこのように言い足しておきたい。「足」なしに「靴」は成り立たないから……つまり君はひとりではない。君というひとりは、誰かとよく関係しあうことで、君というひとりに改めてなりえるだろう。無数の人々とよく関係しあうたび、君はますますその君というひとりの存在を確かにし、深めていくのだ。そのときまさに、「何にだってなれるし、何だってやれる」ということが、自然に言わずにいられない文言として、胸の内から湧き出てくるだろう。
優秀な靴とは、第一に、「足」に応じる性能が、一流のそれなのだった。「そのとき」が来るまでは、靴などは玄関に並べられた無用のゴミでしかない。だが、「そのとき」は誰にだって来るし、いつだって来るものなのだから、そのときごとにウデマエを見せてゆければそれで済むことだろう? しばしば、現代の光景として、一方的に硬い演技力でしゃべりつづける人間があるのに対し、ひるがえって他方では、むっつりと黙り込んで、本人は真剣なつもりでいるという息苦しさの光景を見かける。それらはともに、自分が単体で存在しており、自分という単体が活躍すればよいと思われている思い込みによって生じてきている。硬い演技力の靴は、足の受け入れを前提とせず、靴そのものを金属で飾り立てればよいとしており、もはや足と関係を持つ何かではなくなっている。一方、まじめなふうでいながらよどんだビデオテープ映像のように黙り込んでいるのは、足を引き受けるつもりのない、あけっぴろげのブカブカの靴だ。
それらはどちらとも「靴」ではない。足を引き受け、包み支えるものが靴なのだから、その原義に照らせば靴ではない。そこで、硬い演技のおしゃべりも、よどんだ黙り込みも、「人間」ではないと言うときつく聞こえるけれども、そこは人間らしくあれるよう、認めて新しいやり方を探してゆくべきなのだ。「人の間」としてニンゲンと読み、またはジンカンとも読む。硬い演技でしゃべり続けることや、よどんで黙り込むこと、そうして互いに何かに応じあう関係を前提にしていない営みは、「人の間」の間柄にふさわしいものではなくなる。
こうして<<当たり前のことばかり書くこと>>に努めて、せめて言葉群だけでも引き受けられうるようにあればよいと願うのは、それ自体、僕が今向き合うこの時代の無数の人々への応じ方であるわけなのだ。歩くのは読み手自身だとしても、その足を引き受けてよく馴染む靴があればよい。かつて自分をゴミのようだと感じて、ゴミなりに関わり合いを果たせばよい、関わり合いを果たせたものは実際上人間であるのだから……と取り組んできた僕自身のやり方があったが、そのやり方は現在も保存されたまま使いまわされている。
今このときも僕は自分をゴミのように感じたままだ。そのゴミのままであっても、関わり合いを果たすことができたなら、その関わり合いのさなかにおいては、実際上人間だからよいのではないか? そのように捉えて取り組む僕のやり方が、不正なのか誠実さにおよびうるのかは、今このときのあなたこそが知っているというわけなのだ。僕はそれこそここに当たり前のことばかり書き連ねてきたが、これが不毛のみに終始しない唯一の例があるしたら、それは僕と読み手のあなたとが、一時でも何かの「関係」を果たし得たときのみだろう。
[「足」なしに「靴」は成り立たない/了]