No.312 三十年前の資料から学び取ること
よく懐古主義のことが悪く言われます。「昔は良かった」式の、老人の主張の定番として、これが悪く言われるのは当然のことでしょう。けれども仮に、そこに正当に検証し得る資料があり、そこに時代の移り変わりや、当時はどのような時代だったかを、単に知ることができる場合は、それは懐古主義とは異なり、温故知新として有意義なことです。今はyoutubeなどの動画サイトが便利ですから、ワンタッチでその三十年前の映像資料が手に入ります。たとえば七十年前の戦争のことを、正当な資料に振り返って知ろうとすることは、知恵や見聞のための取り組みであって、現在をぼやくための懐古主義ではありません。僕はまだ若年の読み手であるあなたに向けて、このことを勧めます。もちろん、十分な年齢に達している読み手に向けても、それこそ単に懐古するのではなく、このような見方でこのような学び取り方をすればよいというこちらの指示を、鵜呑みにして発見に役立ててほしいと望みます。
とっつきやすいように、「80's アイドル」という文言で動画を検索してください。おそらく、奇特な人がまとめてくれた「再生リスト」がすぐに目につくはずです。それらを一定時間、飛ばし飛ばしにでもよいですから、あまり懐かしがらずに眺めてほしいと思います。僕が今お見せしようとしているのは、時代ごとに色づけされた、文化やメディアのブームの光景ではありません。三十年の時空を隔てた世界の記録が画面に表示されているはずですが、その時空を越えた向こうにある人々の様相を、改めて偏見無しに眺めていただきたいのです。
あなたが発見されるのは、そこに「苛立っている人がいない」ということです。あなたはしばしば、実生活のうちに、まだ親しくない誰かに話しかけるというとき、「この人はちょっと怖くて話しかけづらい」と感じることがあると思います。それは、話しかける対象の人が、どこか気難しく苛立っているふうの、予感が見て取れるからですが、あなたは時空を隔てた三十年前の映像資料の中に、そうして話しかけるのに怖い人というのを、見つけだすことが困難なはずです。
次にこのような発見をしてください。あなた自身の目で発見されることが何より大切です。アイドルといえばスマイル、それも訓練された作り笑いが、職業柄露骨なものだというイメージがありますが、改めて実際の資料を見たとき、三十年前のそれは本当にそうした作り笑いや、強固に訓練された人為の表情に支配されているでしょうか。案外そうでもないのだな、ということを、あなたは自然に発見されると思います。
次いで、このように切り替えてみてください。今度は、アイドルといえば現代ではこれだ、という、あなたのよく知っているアイドルの呼称で検索をかけるのです。そうすればミュージックビデオや、それ以上にアイドルたちが出演したテレビ番組の断片が出てくるはずです。
あなたはそれを再生したとき、一種のショックを受けると思いますが、そのショックは何によって起こっているでしょうか。あなたがそういったことへ敏感な感性を育てるまでは、僕がガイドになりアドバイスを添えておきたいと思います。
<<感情もないのに声を高く張りすぎだ>>。
繰り返しになりますが、こういったことが、あなた自身の目と耳を通して体験されることが大切です。三十年の時空を隔てた前後で、人々の様相はこのようにも違うということ。それぞれを公平に眺められるように、等分に批評的に見るようにします。三十年前のそれは、あまりにも「ダサく」、垢抜けておらず、刺激的ではありません。イモっぽい、という言い方もできるでしょうか。柔弱で未完成の印象を受けます。もちろん周辺を取り巻くテクノロジーも、未完成でまだまだ露骨な機械じみています。
現代のそれは、刺激的ではあるものの、誰も彼もが不必要に、叫び続けるかのように物を言います。それは刺激的であるぶん神経に障り、神経への負担から、人を底で苛立たせるように感じられます。完成度の高さが直感されるぶん、人々の作り笑顔は強固な習慣となり、本当には何を感じているのかすでによくわかりません。
三十年前から現代にかけて、人間はテクノロジーと共に、文化的なありようを進化させてきたはずです。しかし、進化というのは、下等生物が高等生物に進化することのように、何もかもを有利にするということではありませんでした。進化とは、新しい素質の獲得や、新しい偏りの選択ですが、その獲得の裏には喪失もあり、偏って深まったことの対極には、偏って浅くなったことも当然にあります。
そして、その喪失や偏りの中で失われていったもののうち、これだけは失ってはまずいと感じられる、重要なものが混ざっていた余地もあるのです。
まだ難しく物事を考えるのに不慣れなあなたに向けて、あなたによく訴えうるように、このように話してみましょう。三十年前の資料と現在とを見比べたとき、ダサく感じられるのは三十年前のほうです。このことは議論の余地もない。
ただ、そのダサく見える映像資料を前にして、あなたが「友人になれそう」「やさしくしてもらえそう」と予感を覚えるのは、三十年前のそれでしょうか、それとも現代のそれでしょうか。この単純な問いかけの前には、現代のそれのほうが有利だとは言い難いのです。我々はダサさを追放する代わりに、単純な「人懐こさ」や、おだやかさ、あたたかみや、作らずにいられた表情などを失っています。
三十年前の映像資料のうちに、あなたは人々の「慎重な顔」を見つけることができると思います。まだ何が正解とは決めつけられていなかった時代の、人々が手探りを当たり前にしていたころの顔。その慎重さの顔があり、声も振る舞いも、選ばれる言葉も、手探りに迷い込むのではないけれど、決めつけず慎重に取り出されているのが見て取れると思います。
現代はそれに比べると露骨に乱暴です。それぞれがすでに前もって決定済みの正解を振り回しているような、剛直な味気なさがあります。そのぶん、完成度の感触が高くなっているのですが、この完成度の高さの印象は、不思議なことに、そこに何か貴重なものが完成しているという事実をなしにでも、ただ「完成度」の印象としてだけ成立しうるようなのでした。
ですから、完成度の高い人間を、時空の向こう、三十年前の世界に送り込んでも、彼は同じような完成度のパフォーマンスをできないであろう予感があります。我々は今、このことをよく知っておく必要があるでしょう。完成度の印象の高い人間が、逆に何も完成させていないということがしばしばあるのです。
三十年間の時空を隔てて、三十年前の人間たちは、現代の人間たちのようなことはできないでしょう。それは同様に、現代の人間たちには、三十年前の人間たちのようなことはできない、ということでもあります。進化の歴史でいえば、我々が今さら手斧と槍で狩猟生活はできないだろうということのように、時空を隔てた前後において、人間はお互いにお互いの真似ができません。ですから、今さら時空を隔てた向こうに帰れるわけではないのですから、懐古主義では無力で不毛なことです。
ですが、我々にはまだこれから先の三十年があるのでした。これから先の三十年が形作られていくとき、今生活する現代だけを不安定な足場とするより、三十年前の資料に裏打ちされた足場も獲得したほうが、これから歩みゆこうとする両足のために、妥当な足場が得られるのでした。そのためにあなたには、三十年前の資料から学び取ることがあるのです。
[三十年前の資料から学び取ること/了]