No.317 元からの僕、素晴らしい人にゲロを吐かせる
人間は、いろんな人から影響を受けているような気がする。
だが、気がするだけで、結局は自分自身だ。
他人に教わって百を知るより、自分で持っている一を噛みしめるほうがましだ。
他人との、協調体制、みたいなものが一番うそくさいものだ。
人と人とのつながりというのは確かにある。
確かにあるが、それはちまちました理屈でこしらえるものではないし、ひとたびつながりが得られて何事かになったら、のんびり批評なんかする気になれないものだ。
誰かを愛するというのもそうだ。
本当に誰かのことを愛せたなら、愛とは何かとか、「愛はさあ」とか、眠たいことをぐずぐず言わなくなる。
誰かを愛せればすばらしいが、愛せなかったとしても、それはしょうがない。
それは結局のところ、手前の根性のせいなので、愛がゼロでもそのことについて、「フェアだ、不平はない」と、やけっぱちでも言うしかない。
最後の最後は、といっても、人間はいつだって最後の最後みたいなところに立たされているが、最後はやけっぱちで道理や正義を採るしかない。
生きているうち、一つだけ、あるいは一度だけ、「あいつは正義を吹いたな」ということを残すぐらいしか、生きるといってもすることがない。
僕はいわゆる、キモい人間だ。
今で言うところの、イタいとかクサいとかいうのも追加していいだろう。
そんなことは、よくよく考えれば、どうだっていいことだ。
僕は、キモい人間であり、イタい、クサい人間なので、あまり人とつるもうと思わない。
「今後ともよろしくねえ」と、誰にでも挨拶しようとは思わないのだ。
キモい人間に「今後とも」と言われたらゾッとするだろう。
だから、そんな分不相応のことはせず、今後はねえよ、ただ今このときだよ、ということにいつもしている。
ただ一つだけの正義といえば、こんな僕のことも、心から愛してくれた女性はいたし、今もいるのだ。
その人は、このキモい僕を、心の底から愛してくれたので、せめてその仁義において、僕は僕のままでいなくてはならない。
こんなことをまじめに考えているからキモいのだが、もうそんなことはどうでもよくなっている。
僕は「キモい人」で、その他すべての人は「素晴らしい人」、もうそういう区分けだけでかまわない。
先日、吐き気がした、と言ってもらえる機会があった。
そのときふと、これだ、とひらめいたのだが、僕はそうして、素晴らしい人にゲロを吐かせるために存在している。
素晴らしい人に、ゲロを吐かせるためのワーク、などというものに何の価値もないが、ただ一人の気がして、「悪くない」と感じた。
それでいい、と、僕は心から満足できる。
素晴らしい人に、ゲロを吐かせるには、どうすればよいか。
それは、ただ僕が、元のままの僕であればいい。
元々こういう奴で、元々からキモく、元々からいわゆるイタいしクサいのだから、それでよくて、後付けの工夫は要らない。
素晴らしい人の世の中に、うまく関わろうとして、キモくない方法のいくつかを身につけ、工夫してきたけれど、それらのすべては結局にせものだった。
その工夫したやつを振り回している時は、何か工夫しているどうでもいいものであって、その存在は僕ではない。
僕としては時間の無駄だ。
そういうことをしていると、自分が何をしたらいいのか本当にわからなくなる。
たとえば、僕は愛だのセックスだのを中心において、人に向けて話をしようとしている。
それだけでも、いまどき時代錯誤すぎてキモいことこの上ないが、そうして話をしたとしても、それで何をどうしようとしているのか、何をどうすればいいのか、よくわからなかった。
ここ数年は、特によくわからなかったのだ。
話す技術があったとしても、話す目的が特にない。
その目的がようやく明らかになり、僕はよろこんでいる。
今や、時代は変わり、僕の目的は、女性にモテることではなく、女性に一切愛されないことなのだ。
愛されないようにするためには、どうすればいいかというと、キモがらせればよいのであって、要はそこだ。
その、キモがらせるというところで、可能な限り借り物じゃない、にせものじゃない、元々の自前の僕としての、キモがらせ方が出来るかということだ。
それを吐き気にまで引き上げていく。
嘔吐まで引き起こせたら本物だろう。
借り物でキモがらせても意味がない。演出でキモがらせるのはさらに意味がない。演出でそれをするのはイージーすぎて話にならない。
素晴らしい人は、素晴らしい人に吐き気なんか引き起こせないだろうから、僕のやることはそれとはまったく別だ。
存在が別、ということかもしれない。
素晴らしい人は、連帯しあい、共有しあって、素晴らしい人たちの世を作っているだろう。
素晴らしい人は、そちらへ帰りなさい、ということになるのだ。
ただし、せっかくだから、存分にキモがって、吐き気をもよおしてから帰りなさい、ということになる。
気の弱い読み手のために正直に話しておくと、「素晴らしい人」といって、もちろん、バカにして言っているのだ。
キモい側から素晴らしい側をバカにするなんて、よくある話で、別にルールがあるわけじゃなし、かまわないだろう。
素晴らしい人たちの手によって、時代は今、本能回帰するように、制度や家族への依存に向かっている。若い人ほど制度に依存し、「家族が全て」とか、「自分の存在は親に支配されている」とか思っている。
制度上で「偉い人」になり、やっぱり両親ですよ、家族ですよ、ということを実現し、あとは、スポーツを信奉することで、現代の自己は満足する、と仮想されている。煙草は毒ガス扱いだ。
あと、時代の特徴として、人々は同性愛に向かっている。いつかのニューヨークにも、こういう時代があったのかもしれない、という気がしている。
実際、多くの女性にとって、すてきな同性とのルームシェア、という空想には夢やあこがれが広がるだろうが、男と同棲、という空想には、夢もあこがれも起こらないだろう。
かといって、同性愛に踏み切るには素質も勇気も要るだろうし、パートナーも見つからないだろうので、結局は異性とそういったことをするしかない。
それで、異性うんぬんは心理的にごめんこうむるが、婚姻は制度だし、結婚して「親に孫の顔を見せたいから」ということは正当に感じられるので、今は異性恋愛を抜きにした婚姻が試みられている。
いわゆる婚活というやり方が、心理的に受け入れられやすくなり、それどころか一種の救済のようにさえ感じられているところがあるのは、こういった背景からだろう。
予想するのだが、この先、テレビドラマなどで同性愛を扱ったものが出てくるのではないかという気がしている。またそれは好評を博すのではないかとも思う。
たとえば……
或る男性が、ホモセクシャルだったが、会社で主任に昇格し、プレゼンの仕事で活躍することを体験して、今ある自分を根本的に変えよう、というゆさぶりを自己に起こす。
幼馴染の女性と結婚する道筋があるが、どうにもそれに踏み切れない。
嫁を娶り、嫁として愛する努力をし、家父として生きていくことは不可能ではないだろうが、自分には愛した男性がいるのだ。そのことにケリがつかない。
そこに、かつて諦めて引退したスポーツからの、再度の呼びかけが来る。
彼はそれに応じ、かつて為しえなかった活躍を、そこで改めてやり遂げた。彼は殊勲賞を授与された。
その拍手喝采の中、彼はかつて自分が恋をした場所、体育館のベンチを、細い目で遠くを見るように見遣り、青春に別れを告げて、一人の夫となり、一人の家父となることを決断し、一人の社会人となっていった。
こういうドラマは、今すでに、人々に不潔感の印象は与えないだろう。
男が女に恋をして、夜な夜な青春が「あいつを抱きたい」と煩悶する、海辺に夜が更けていくようなドラマより、よっぽど清潔だ。「わかるわ」「あこがれるわ」と受け取られるに違いない。
と、そういった現状を、時代のあらわれとして感じるが、このことついて僕はもう考えないし、口出しもしないことにした。
それは素晴らしい人たちのことであって、僕のことではないからだ。
僕は引き続き、キモい路線でいく。引き続きも何も、生まれつきこうだったのだから今さらどうしようもない。
僕は男のままだし、男は女の尻を追い回す。女は逃げるので、走った女がハイヒールでこけないように、祈りながらその後姿を見送る。
あとは酒を呑んで過ごすだけだ。
夜な夜な青春が煩悶していていい。
素晴らしい人たちは、連帯し、共有するが、僕は共有しない。共有してよろこばれるような素晴らしいものは持ち合わせていない。キモいものは、単独で持つのは自由だが、共有をリクエストするのは近所迷惑だろう。
せめて僕などは、そうして単独に、元からの僕であり続けなければ、これまで僕を愛してくれた女たちに、あまりにも申し訳が立たない。
僕が、連帯やら「共有」やらの中に溶け込んでしまったら、彼女たちは、何も言わないにしても、心の中では深く傷つき、嘆き、深く悲しむだろう。
そういうがっかりのさせ方だけはしたくない。そういうがっかりを代償できるような値打ちは僕の生にはまったくない。
僕を愛してくれた女や、今も愛してくれている女に向けて、せめて堂々とこう言えるようではありたい。「あのときのまま、モテないままだよ」と。
世の中のすべてが、素晴らしい人で埋め尽くされたら、それは逆に希望のない世界となるだろう。
そんな絶望的な世界にならないよう、僕は素晴らしい人に、ゲロを吐かせてまわりたい。
そうして、素晴らしい人にゲロを吐かせるのに、意図的な工夫がまるで要らないというところが、幸か不幸か、我ながら才能に満ち溢れているところだ。
こういったことは、意図的に企んででは、いつまでもは続けてゆけないだろう。
僕は男なので、女が好きで、女の子を見れば「かわいい」と思う。何にも勝る、と思ってしまう。
胸のときめきというやつだ。冗談でなく、元から僕はそうで、その元からの僕を、もう工夫する方策は捨てた。
もちろん、女の子だけじゃなく、春の青空とか、白い雲とか、網膜に受けると、ワーッとした輝かしい、わけのわからない気持ちになる。風の清涼さも、鼻から耳から、脳を氷らせて危ない。
カレンダーとイベントがなくても、春の公園だけで僕を殺せる。
素晴らしい人はそんなことであってはいけないし、そんなことはないだろう。
ここの区分けだ。
役所の人も、僕の戸籍だけは、ゴム手袋をして取り扱ってくれていい。
平等ということは、大切なことだが、僕のことだけ省いてやってもらいたい。
それは、素晴らしい人たちの間でだけ大事なことだから。
僕はそれだけ本当に、キモい人間で、そのキモさからもう帰ってこないのだから。
僕はきっと、これからも、愛とセックスと、それ以上に、未来や将来や夢のことについて話すだろう。春の公園について話すだろう。
それは、聞いてもらうための話ではない。
共有してもらうための話ではない。
ゲロを吐いてもらうための話なのだ。
そうすることで、僕は堂々と話すことができるし、その他の、ややこしいことからも無縁でいられる。
善良をきわめる人は、僕のような人間にも、連帯と共有を与えようと、素晴らしい近づき方をしてきてくれる。
が、それこそキモいことなのだが、そうした慈しみの接触も、僕にとっては窮屈にさせられてしまう類になる。
素晴らしい人が悪いのではなく僕が悪い。僕が悪いのだが、しょうがないことで、僕が解決できることじゃない。
素晴らしい人は、僕に素晴らしいものを向けてくれるのではなくて、目の前で思いっきりゲロを吐いてくれたらいい。最大の不快感を表して。それが僕には一番落ち着くのだ。
その、うそ偽りないゲロの胃液が、僕に対する完全な肯定になる。ゲロを受けるたび僕は磨かれるだろう。
愛の話、性愛の話、未来の話、夢の話、そして死の話をする。今や僕には何の工夫も要らなくて、このことに必要なものは全て持って生まれてきている。これは"元からの僕"だ。
[元からの僕、素晴らしい人にゲロを吐かせる/了]