No.318 さびしいとはどういうことか
静かな夜、僕は夢に向かう。
世界は希望に満ち満ちていると感じる。
通りすがるタクシーの音から……
遠く聞こえる、どこかのテレヴィの視聴音まで。
夜があるのだ。
僕は夜を愛し、夜のある場所を愛する。
誰もがそっと振る舞い、活気がある。
活気があるのに、静まり返っている。
ここからしか全ての物語は始まらない。
すべては場所を愛するところから。
愛するためには、何が必要ということではなく、邪魔者さえなければいい。邪魔者さえなければ、人は自然に自分の世界を愛するようにできている。
だから、邪魔者に入り込まれないよう、工夫が要るし、場合によっては、獲得のために戦わなくてはならない。
そして、なにより、自分が誰かの邪魔者にならないように、そっと、慎重に、本当は振る舞わねばならない。
大声を出して、テンション、大騒ぎ、というやつで、いいことになるというイメージ、あれは幻想だ。
CM映像では、そういう映し方しかインパクトを与えられず、伝わらないので、やかましく騒がしいイメージにしているだけだ。
自分の普段の過ごし方が、CM的か、それとも映画的かということは、誰でもたまに気にしたらいい。
CMのほうに近い人は、おそらく誰かの邪魔者になっている。誰かの、夢や物語を、自然に邪魔する存在になりつづけているだろう。
この二十年ぐらい、僕の物語の横には、常に窓があった。
夜の冷気を、映し出し、活気を吸い込み、僕を循環させる窓だ。
窓が、僕を、人から切断し、世界と接続してくれる。
人から切断されなくてはだめだ。
孤独にならないと世界が見えなくなる。
人と寄り添うときは、本来、やかましくして世界を見えなくするのではなく、そっと、孤独なもの同士が寄り添うのだ。
見えている世界を見失わないように。
誰でも知るとおり、台無しにするのは簡単なのだ。簡単すぎるのだ。汚い声を張り立てれば一撃で台無しにできてしまう。携帯電話のカメラを振り回しても、すべてを台無しにすることができる。
もともと、世界を見失っている人は、何も意図しないまま、自然にすべてを台無しにして回ることになる。
本人の意志とは関係なくだ。
それは、その当人が、台無しに生きているからだ。
世界の見えていない人は、世界が見えていないことに、本当は焦っており、重大な引け目と、劣等感を覚えている。
それで、慌てて聞きたてるのだ。自分が主役よと言わんばかりに。
「ねえ、世界ってどんなの? ねえ、ねえ」
聞けば答えられる権利があるかのように言い立てる。
世界の見えていない人は、他人に帰ってきてほしいのだ。
一緒に、世界の見えていないところに引きずりおとして、同じよ、ということに、どうしてもしたくなるのだ。
それは、一種の悲鳴みたいなもので、気持ち一つで抑えられるようなものじゃない。
さびしいというのはそういうことなのだ。
茫漠さとは意味が違う。人と切断され、孤独を得、世界が見えるようになる、その茫漠さとは意味が違う。
世界が見えて、只中に自分が一人いる、そのさびしさは、誰だって耐えられるだろう。耐えられるどころか、誰でも求めさえする。
それは、世界が見えている孤独は、うつくしいからだ。
美の体験が直截あるので、その茫漠とした心地が、むなしいとはまったく感じない。
さびしいというのは、もっと破滅的で、<<不潔な不安が主成分であり>>、めまいのする、美のない、人間を最も見苦しい形で打ちのめしてしまう何かだ。
その悪しきさびしさのうち、人は、むしろ内心がとてつもなく騒がしくなっている。
さびしさの悲鳴が反響して、心の内が不安と狂気に満ちていくのだ。
さびしさとは静寂ではなく騒擾なのだ。
このとてつもない、内心のさわがしさ、すべてが心の内に反響するだけのどうしようもなさ、破滅的な感触に、人はとうてい耐えられない。
それで、人と群れようとする。さびしさをごまかすために。擬似的には、テレヴィを点けるのだって、そのごまかしには役立つだろう。
内心の、とてつもない騒がしさ。これがさびしさなのだから、テレヴィを点けるか、人と群れるかして、<<心の内の騒がしさを、外側に出してしまう>>。それで、外部的にもとてつもない騒がしさになる。
どれだけにこやかに集まっているふうでも、本当の目的はそれなのだ。
心の内の騒がしさを、ねじふせられるぐらい、外側が騒がしくなってくれたらいい。
身体が騒がしく、動作や挙動が、忙しくなってくれたらいい。
心の内で悲鳴がこだまする、その騒がしさ、果てしない反響を、形を変えて、とにかく外に放出したい。群れる中、相手だってそのことをしたらいい。
だから、そうして起こる群れと騒がしさは、誰もが知るように、騒がしさの程度が異様となる。
その渦中の当人らは、誰もが楽しそうに、救われたように、笑顔でいるように見える。実際に、助かっているのかもしれない。さびしさが一時でもごまかされるのだから、そのときは一定時間だけ助かっている。
しかし、助けられているようで、救われてはいない。
そうして大騒ぎをしたら、鼓膜が痛いうちに、眠ってしまわなくてはならない。
鼓膜の痛みが静まってしまえば、また例の、耐えがたい内心の騒がしさ、反響する不安と狂気の、さびしさがやってきてしまうから。
鼓膜が痛んでいるうちに、身体がきしんでいるうちに、筋肉がひきつっているうちに、眠らないといけない。
パチンコ屋の店内が、鼓膜を痛めるほど騒がしいのは、誰でも知るとおりだ。あれは、そういうことのための、一時の遊興だ。誰もそこまでは否定しない。
だが、それに取りつかれたように通う人がいる。そういう人は、真実は「さびしい」のだろうということを、誰もがどこかの感触で直観している。
さびしさは内心の静寂ではない。
その逆で、騒がしさだ。内心の、不潔な不安、それが反響する狂乱、壊れた機械のハウリング音のように、抵抗できず響きつづける耐えがたい騒がしさなのだ。
内心が静寂であれば、孤独を得、またそのぶん世界が直截見える。そこには美があって、それに触れればそれ以上、人は救われたいなんて思わなくなる。
一方、さびしさをねじふせ、ごまかすために、外部的なさわがしさを自ら手当てする人は、一時的には助かる代わり、ますます孤独から遠ざかっていく。翌日の夜、内心は昨日よりなおさわがしく反響する。
さびしさに苦しめられている人は、自分がそうして、さびしがっているということ、また恐ろしくて苦しいということを、認めはしない。必ず反論してくる。
必然、出てくる反論は大声だ。異様さのある音量。
常時、内心の騒がしさに苦しめられている人は、もはや外部的にも、どのような声の音量がよいかわからなくなっている。すでに、人と話すのに適当な声、人に伝える声という感触が、わからなくなっている。
さびしさとはそういうものだ。人を振り回し、壊してしまう。声が壊れ、表情が壊れ、言葉が壊れ、目つきが壊れてしまう。挙動が不安に引きつっている。
その中でおそらく、声が一番、外部的にはわかりやすい。
僕は、そういったものが見当たらない夜が好きだ。
邪魔者のいない夜。
そのとき僕は、夜を愛していたことを、昨日ぶりに思い出す。
僕の大好きな夜が、窓の網戸を通して、僕の呼吸するところへ、また頬の肌へ、つながってくる。
好きな夜があり、好きな窓がつなぎ、そこが好きな場所になること、それが全ての物語の始まりだ。
残念ながら、ここ以外に、物語が始まることはありえない。
どれだけ鼓膜を痛くしても、そこから物語が始まることは決してない。
心の内が騒擾なら、人は外部的にも大声になってしまうように、心の内が静寂なら、人は外部的にもそっとしている。
そっとして、慎重に振る舞うので、そういう人は、誰かの邪魔者にならなくて済む。
だから、共に物語をゆける人があるのだ。
物語の始まる、必ずここという場所に、邪魔者にならず一緒にあれる人があるのだ。
窓の外は、まもなく新聞配達が始まるだろう。
何かのシャッターが開くモーター音が遠く聞こえている。
まだ昏いうち、朝が来たのだ。
さびしいとはどういうことか。さびしさとはどういうものか。この問いかけの中に立たされたとき、まず正反対にあることを答えればよい。
さびしさの反対にあるものは何か。
それは、心の内の静寂だ。
世界が見え、直截の美、ここからすべての物語が始まるから、人はそのとき、さびしくない。
[さびしいとはどういうことか/了]