No.319 もっと狭く
僕はここにいるわけだが、僕のサイズはそこまで大きくない。
日本人平均から比べると大柄だが、駅ビルと同じぐらいというほどには大きくない。
「立って半畳、寝て一畳」というが、実際に足の裏で踏んでいる面積はもっと小さいだろう。
僕のサイズは、駅ビルほどには大きくないので、駅前の駅ビルが何なのかについて、考えなくていいし、知らなくていい。
新聞には新聞記事が載っているが、別に知らなくていいだろう。
それは僕が「社会人」ではないからだ。
僕の肉と骨を切り裂いたとき、僕の肉からは「社会人」と書いてある証拠が出てこないだろうから、僕は社会人ではない。
社会人という人は、自分のサイズが社会と同じぐらい大きくないといけないだろうから大変だが、僕はそこまでサイズが大きくないので、せいぜい、足元のタイルと、手元のライターぐらいがわかっていればいい。
もっと狭く、もっと狭くだ。
自分のサイズに適合するまで狭く小さくする。
僕は自己の事実に沿おうとしている。
宇宙がどれだけ巨大だろうが、それは僕が巨大なわけではないので、関係ない。
宇宙の何パーセントに用事がないか、これは、天文学的な桁になるので、表記不可能だろう。
それは僕のサイズについての物理的な事実だ。
僕のサイズといったって、僕の肉の身の端から端までが、僕の自己というわけではないだろうし、僕の肉の身のうち、自己はさらに小さいはずだ。
半畳のスペースも、本当は要らないのじゃないかと思う。
ただ、宅急便のように、自己というのもこの肉の身にどうやら梱包されているようなので、この梱包分の体積はかさばるのだ、これは致し方ない。
僕は今、東京の目黒区に住んでいる。
それで、たくさんの人や、勇壮なビルや、無数の自動車と、クラクションの鳴る山手通などを見るが、どれを見ても僕より巨大なので、僕はそれらについて知る必要がない。
それらは、僕の世界ではない、と感じる。そんな巨大なものは僕の世界ではない。
街中を歩くたび、街があるのはわかるが、これは僕の世界ではないな、と実感しながら歩いている。
別にどこの街でも同じだ。
僕の街、などというものは存在しない。
自分のサイズが街と同程度にならない限り、僕の街、などというものはありえない。
だから、もっと狭く、もっと狭くだ。
いつも、よその世界、借り物の世界の中を、歩いているように感じている。何しろ、僕の街ではないのだから、借り物だ。
借り物? というよりは、ただそこに放置されていたものに、勝手に上がり込み、バレないようにそそくさと動き回っているだけだ。
僕はそうして、「僕の世界ではないなあ」と感じながら、そそくさ歩くことが、割と好きだ。
何か、忍び込んでいるような、悪いことをしている感触があるのも好きだ。
それが僕の世界ではないぶん、借り物の世界が、「借り物の世界」としてがっちりあると感じられる、その確かな感触も好きだ。
駅ビルなど、つい見上げてしまう。借り物の世界は「すごい!」と、見上げていてほれぼれする。
が、なぜか同時に、興味はなくて、見上げた駅ビルと借り物の世界を、自分の世界にしたい、とは思わない。
それは結局、僕自身のサイズがそんなに大きくないからだろう。
まるでガリバーの洋服店を見上げる小人のように、「すごい!」とは思うが、欲しい、とは思わない。
この借り物の世界の中、僕の世界はどうかというと、僕の世界がないわけではない。僕の世界は、僕のサイズに合わせてちゃんとある。
ただ、借り物の世界と比較すれば、あまりにも小さなサイズなので、大きな人の目には見えないだろう。
たとえば、借り物の世界を、一人の女性が歩いているとき、彼女は借り物の世界のもので、僕の世界のものではない。
が、もし彼女が、僕に向かって歩いてくる場合。数メートルだが、その数メートルの細道は僕の世界だ。
僕の世界は小さく、世界の住人は、そのとき僕と彼女の二人しかいないだろう。
それだけでも、割とパンパンの満員、という感触だから、僕の世界はそれぐらい小さいのだ。
これを、もっともっと、小さく、狭くする。
数メートルの距離にある彼女と細道を、僕の世界のものとするのは、それでも大きすぎる、ひどい欲張りだと感じるのだ。第一、彼女にとっても迷惑で、何かしんどい感じがするだろう。
いいじゃないか、と思う。別に彼女が、借り物の世界のものであっても。別に僕の世界のものじゃなくていい。向こう側の、駅ビルと山手通に属する、借り物の世界のものであっても、構わない。それでも、こっそりお話ができないわけじゃない。
僕の世界のものにするのは、よほどの近しい、これはさすがにという、特殊な限られたものだけでいい。元々、そういうサイズなのだ。
彼女がそうして、僕の世界に入らなくて済むのなら、彼女はきっとよろこぶと思うのだ。
世界をいちいち移動するというのは、大変で面倒なことだから。
それが、どこまで近づいても、まったく僕の世界に入らずに済むということなら、彼女はきっとすっきり気楽で、よろこんでくれると思う。
なんというか、彼女は彼女の庭から、僕と話せるのだ。僕の世界に入り込まずに済むというのはそういうことだ。
いちいち人の家の門をくぐって、入らないといけないというのは、気が重いし、面倒だ。
それが、どれだけ近づいても、門はない、入らなくていいということになれば、きっと気楽だ。
人の家に入らなくて済む、人の世界のしきたりに、いちいち付き合わなくて済むというのは、どれほど助かるものだろう。
そうだな、たとえば街中のあちこちに、小さなお地蔵様の社がある。社の中にお地蔵様が立っている。
僕の世界というのは、ちょうどあの、お地蔵様がすっぽり収まっている社、あれぐらいの広さでいい。
実質、「狭すぎて入れないでしょ」というサイズだ。
あのサイズなら、入れっこないので、見た目に明らかで、人に迷惑を掛けずに済む。
それで別に、お地蔵様がないがしろにされているわけではないし、きちんと扱ってもらえるかどうかは、サイズに関係ないだろう。
豪邸で、大仰な門をくぐらないと、大切にしてあげません、ということではないはずだ。
もっと狭く、もっと狭く、人が入れっこないサイズの世界にすれば、ちょうどいい。
そうすれば、この借り物の世界の中を歩くにも、お邪魔させてもらうのにあまり迷惑がないはずだ。
それで、僕は僕の世界を豊かにする。
すてきね、とは、やはり言ってもらいたいから、豊かにしよう。
豊かな世界の中に住むということには、うれしくなる希望がある。豊かな世界に住むのは幸福だ。
狭い分、隅から隅まで豊かにしたい。
この狭さに限っては、そのことが可能なはずだ。
僕は僕を取り巻く周囲五センチだけ僕の世界であればいい。
見物は自由だし、見物してもらうのは割と好きだから、見物をどうぞとアッピールしていこう。
これが、周囲十センチとなると、どうか。ちょっと、豊かにしきれる自信がない。周囲十五センチとなると明らかに無理だ。僕にはそこまでの器量は具わっていない。
器量というのはよくできた言葉で、実際の「器」を思い浮かべればわかるが、その器を大きくすればするほど、その全体を豊かな料理で満たすことは困難になってくる。
僕にはやはり、せいぜい周囲五センチ、努力を尽くして十センチがせいぜいだろう。
(と言いながら、やっぱり十センチは無理だという気が猛烈にしてきた)
世界を、狭く、狭くする。
これなら、少々近づいてきてもらっても大丈夫だ。
ご迷惑をお掛けせずに済む。
一方、借り物の世界のほうはどうだろうか。きっと、今日もめまぐるしく変動しているに違いない。僕にはわかりっこないサイズ、わかりっこないスケールのことだ。
世界を豊かにすることには夢がある。そして、豊かにするには、それなりに忙しい。たとえ周囲五センチでもだ。これでも僕には相当忙しいのだ。そのへん、器量で人を責めないように。
世界を豊かにすることは幸福だ。そのことに向けて、次々に忙しくあれることも、やはりそれ自体が幸福だ。眠るのも起きるのも幸福に包まれている。
これがきっと適性サイズということなのだろう。
[もっと狭く/了]