No.320 音無き光と闇の織物
ひとつ、このことをやってみようじゃないか。
心の内が静寂だと、感性がすべてを吸い上げる。
場所、物音、風、冷気や熱気……
これは、ただ感性と言わず、また単に感じることと言わず、これは想像力ではないだろうか。
誰もこれを想像力だとは認知しないような、最も底辺に張りつめているこの感覚。
実は単純なことなのかもしれない。
フィルムの現像は暗室内で行われる。
明るく照らした室内で現像しようとすると、まるでフィルムには何も映っていないかのように見えるだろう。
きつい光がフィルムを感光させ、全てを消し去ってしまうのだ。
元々、フィルムには何かが映っていたかもしれないのに。
人間の心の底には、想像力というフィルムが張られている。
ここになにかしらが映り込むわけだ。
もちろん映像だけでなく、場所、物音、風、冷気や熱気、その実存が映り込む。
きつい光を当ててはいけない。フィルムは真っ白に消し飛んでしまう。
室内を明るく照らしてしまう電灯が自我だ。
自我をパッと通電させると、フィルムは白く消し飛んでしまい、そこに映っていたものがもう見えなくなる。
人間が、感性、そしておそらく想像力に物事を捉えられるというのは、もちろん人間の能力だが、それは銀塩フィルムのような性質のもので、自ら捉えにいくものではなく、自然に映り込むものなのだ。
そのことを確認するためには、暗室にて、いくらか辛抱強く、現像が徐々になされていくのを、見守っていなくてはならない。
今自分のいる場所。あるいは、かつていた場所。
今聞こえている物音。今吹いている風。今たゆたっている冷気や熱気。
これが「何」なのか、「どのような」ものなのか。
捉えようとして、自我をパッと通電させると、その途端に、もう何も見えなくなる。
明るくすれば明るくするほど、見えなくなるのだ。
映り込むものが見えなくなり、今自分のいる場所、物音、風、冷気や熱気が「何」なのかわからなくなる。
暗室には有効な光がない。
同様に、その暗室には、有効な音もない。
想像力のフィルムには、音も映り込むから、きつい音を当ててはだめなのだ。
せっかく映り込んだ豊かな声が、ノイズに消し飛んで、もう何も聞こえなくなる。
驚いたことに、想像力のフィルムに映り込んでいるのは、声/voiceであって「音」ではない。
どれだけ豊かな音楽の演奏も、どれだけ豊かな人間の言葉と声も、想像力のフィルムに映り込むとき、それは声/voiceであって、物理的な音波ではない。
「声/voice」は無音なのだ。無音の「声」として、想像力のフィルムに映り込むから、人間にはそれが「聞こえる」と感じられる。
激しさを伴って届いた「声」も、その物理的な音波としての激しさはまるで想像力のフィルムに映り込まない。「激しい声」として映り込んだそれは、やはり無音の声/voiceとして「聞こえる」のだ。
想像力のフィルムに映り込むものに、有効な光はなく、また有効な音はない。
音はまるでなく、しかし声はありありと聞こえる。暗室に、光は繊細に描き出され、闇と織物をなしている。
自我を休眠させると、心の世界は暗室になり、無音になる。
そうすると、じわじわ、想像力のフィルムに世界が映り込んでくるのだ。
ただそうなるというだけで、このことを偉大だとか、立派だとかは言えない。
何しろ、そういったことを言いたがる自我のほうは休眠中なのだ。
ただ、膨大なものが映り込むことは間違いない。
それは、想像力のフィルムの、性質であり、性能だ。
問題は、このことに「方法」がないということ。
「方法」など無いままに、元からそう具わっているということ。
「方法」を考え付き、「方法」を用いるのは、自我のほうだから、この「方法」自体が、自我への通電なしには用いえないということ。
ただ、僕は、このことを<<知っている>>。
世界が「何」であるかを見、世界の声を声/voiceとして、直接聞くことを<<知っている>>。
目の前に置かれた文章も、また自分で書き進めている文章も、それが「何」であるか、直接捉えるということを<<知っている>>。
これは思いがけないことなのだ。
光を消し、音を消すことで、まばゆい世界が、声を豊かにして現れるということが、認知や予想と正反対なので、意外すぎるのだ。
光を消すほどに見えてくる陰影などありえようか?
音を消すほどに聞こえてくる声などありえようか?
それが、想像力の銀塩フィルムだと例えることで、論理的にありえるということが理解可能になる。
自我はきつい光を放ち、きついノイズ音を立てる。
自我に強く通電すれば、そのぶん光はまばゆくなり、音声は豊かに響きわたるように予想される。
しかし予想に反するのは、人間の心が、それら光と声を捉える、仕組みにおいてだ。
もし、人間の心が、降ってくるものを受け取り集めるザルカゴのようなものなら、それはきつい光ときつい音声を降り注がせればいいだろう。ザルカゴにはじゃんじゃん光と音が受け取られ、豊かになるはず。
しかし、人間の心は、その仕組み上、そのザルカゴのものを受け取りはしない。
ザルカゴは、実は受け取り集めるものではなくて、加害物から心を守るためのバリケードでしかないからだ。
バリケードのためのザルカゴに、豊かにガレキが積もったとして、心は豊かにはならず、ただただしんどい。
逆だ。
ザルカゴが空っぽだというとき、実は豊かだということ。
ザルカゴが空っぽだと、そのとおり、空っぽで何もないように思える。
その、空っぽで何もないということが、実は想像力のフィルムに世界を映すのに、どれほど有利で上等なことか。
もちろん人間の機能のことであるから、想像力のフィルムはナマモノだ。
物品としての銀塩フィルムのように、写真に焼いて出来上がり、というわけにはいかない。
暗室で、フィルムに世界が映り込みはじめたら、そのまま、映り込み始めた状態にしておかねばならない。
きつい光を当てたら、映り込んだ世界は消し飛んでしまう。
そうしたら、またなんとかして光を消し、暗室にして、再び世界が映り込むのを辛抱強く待つしかない。
願わくは、その映り込んだものを、消さないようにして、人とあるべきだ。
音のない声/voiceを聴きながら、それを消さないままに話せる人の、その声/voiceが、どれほど人の想像力のフィルムに、声/voiceを映しこむことか。
想像力のフィルムに映った世界を見ながら、映ったままをそのままにたたずめる人の、その姿がどれほど人の想像力のフィルムに、姿を映しこむことか。
フィルムには、高感度フィルムというものがあるが、人間の想像力のフィルムは、とんでもなく超高感度だ。
部屋の明かりなど論外に強すぎ、議論の喧騒など論外に強すぎる。
想像力や、感性や、感じることに「興味」を持ち、その興味から想像力のフィルムに光を照らし、オーイと呼びかけるようなことをする。
その途端、超高感度フィルムは台無しになるのだ。
そんなことをしなくても、想像力のフィルムは、ごく微細な情報から、世界を信じられないほど豊かに微細に写し取るものだ。
想像力のフィルムに映り込むために必要な情報量は、あまりに微細すぎて、我々には「何もない」としか思えない。
その、「何もない」としか思えないような情報量で十分なのだ。それ以上はすぐ過剰になる。
暗室の、静寂の中で、ごく当たり前のように、豊かな世界が現像されていく。
電灯をつけて、咳払いをした途端、フィルムは真っ白に消し飛び、消し飛ぶと今度はそちらのほうが当たり前に思えてくる。
「方法」はなくて、「方法」に通電した途端、何もかもが真っ白に消し飛ぶ。
だから、「方法」ではなくて、直接やるしかない。
場所、物音、風、冷気や熱気……
僕はそれを直接やることを<<知っている>>。
が、本当は、<<誰しも知っている>>のかもしれない。
ひとつ、このことをやってみようじゃないか。
一定の時間をかけて、しばらくの間、ずっとこのことを。
ずっとこのことだけを。
どうなる?
場所、物音、風、冷気や熱気の映り込む中である。
[音無き光と闇の織物/了]