No.321 人間が夜に寝るわけがない
一休みして、世間話でもしよう。
僕は、人をキモがらせればよいのだ、という発見は、非常に有用で偉大だった(先日のコラム参照)。
(いや、参照しなくていいや)
何しろ、僕の考えていること、思い描いていることは、まったく他人の思っているところと違う。
この差を超えて、自分の思い描くことについて言おうとすれば、それはもうキモがられるしかないのだ。
ふと思うのだが、みんなして、夜は寝るものだと思い込んでやしないか。
疲れたら横になって寝るものだと思ってやしないか。
違うだろう。
夜は起きているものだ。寝るならせいぜい朝だ。
夜に寝るのは老人だけだ。ドのつくド老人だけだ。
老人以外は、単に力尽きたら寝る、失神する、というだけで、まさか「夜だから」というだけで眠る準備に入ったりしない。
そりゃもちろん、何もやることのない人なら、夜はもう寝てしまってもいいのかもしれない。
どうせ、寝るぐらいしかすることもないだろう。
が、やることのある人は別だ。
夜に寝てどうするんだ、冗談にしては強度がエグすぎるだろう。
老人以外は、毎夜、何事であれ、いつものことにいつもどおり憑りつかれて、そいつをやりこんでしまい、気づくと朝になっているんじゃないのか。
別にそうでなくてもいいが、もしそうでなかったら、人間は何も成長しない。
一ミリどころか、一ナノも成長しないだろう。
そりゃそうだ、夜になったら寝てるなどということはありえない。
そんな人間がわずかでも成長するわけがない。
付き合っている彼氏が夜に寝たら、それだけで別れていいし、何なら通報して刑務所にブチこんでやってもいい。
若さのある人間が夜になったら寝るなんて準犯罪みたいなものだからだ。
僕は、正直にいうと、ここ数年来、<<何かをやっている人を見たことがない>>。
冗談でなく、目撃はほぼゼロだ。
「何かをやっている人」をまったく見かけない。
ウソだと思うなら誰でも自分で確かめてみればいい。
街中で、誰でもいいから、「おっ、ヘトヘトだな」と見た目にわかる人を探してみたらいい。
いないはずだ。
ヘトヘトになっていないものを、「何かをやっている人」とはいわない。
単純なことでいいのだ、たとえばオセロゲームでもいい。
オセロゲームを、やりまくったなあ、いったい何時間やったんだ? 目がチカチカする。
顔が、全身が、わけもわからずウヘラウヘラ笑ってしまう。
まっすぐ歩けない。
頭が痛い、が、それ以上に麻薬的に侵されているので、痛いの気持ちいいのか、両方だ、ウヘラウヘラ、という状態。
コンビニに行こうか、といって、連れだって歩くが、脳が酩酊しているので、コンビニを通り過ぎてしまう。
歩きながら、頭の中では、しつこく盤上に白と黒とが飛び交っている。
どんなジャンルでも、「何かをやっている人」というのは、毎晩そういう状態になる。
それを、
「うわあ、オセロになんかハマっちゃった。もう三時間もやってるよー。寝よ寝よ」
みたいな感じで、それを「オセロやってました」みたいな扱いにしてはいけない。
三時間って。
そのへんのサラリーマンの通勤時間程度じゃないか。
僕は、ガキのころ、手品に凝っていて、あるカードテクニックを、鏡の前で十時間立ったまま練習したことがある。
たしか、トイレにもいかなかったような気がする。
別に努力したつもりもなければ、特訓したつもりもない。
練習していたら勝手に十時間経っていたのだ。
そんなもの、「餃子の王将」の厨房で働く人に比べたら、体力的には何でもないだろう。
ましてこちらは、自分で自分の好きなことをやっているのだ。
十時間ぐらい練習すれば、一応、自分でやりたかった動作の、初歩的な形ぐらいは身についてくれる(ただし一秒も気が逸れなかった場合に限る)。
これを、「かじった」という。
その技術を、かじった程度には、一応知っています、ということになるのだ。
最近、本当に驚くのだが、たとえばそういう練習一つにしても、三十分ぐらいやったところで、
「ふう、疲れました。難しいですね。どれだけ難しいかわかった気がします。こんなこと、できる人ってやっぱりすごいと思います」
と、なぜか知らないが、勝手にエピローグに入る人がいるのだ。
これについては、僕は正直、開いた口がふさがらない、という気持ちに毎回なる。
練習が、三十分しか持続しない、ということについては、まあ目をつぶろう。
趣味が合わなかったり、興味がなかったり、面白くなかったり、才能がなかったり、苦手なジャンルだったり、色々あるだろうからだ。
それは構わないのだが、三十分ほどいじってみたことについて、五分もかけて感想を述べるタイムに充てるのが、僕としては意味不明なのだ。
三十分の体験で、感想なんか得られるわけがない。
脳みその構造がどうなっているのか、正直、僕にはわけがわからない。
これは別に、何かを攻撃して言っているのではなくて、本当にわけがわからないのだ。
少なくとも、僕のほうからは、「えっ????」と見えているのだ。たぶん、物事の見方にギャップがあるからなのだが、少なくとも僕のほうからはそうだと、なんとなく今申し上げておきたい。
僕は、気質的に、人にネチネチ嫌味を言う趣味はない。
(最大級の悪口をブチこむ趣味はある)
ただ僕は、ずっとあこがれ続けているのだ。
ずっと前、あったように、若さのあるすべての人が、街中で全員「ヘトヘト」である状態に。
それで、誰も彼も、まっすぐ歩けずウヘラウヘラしている状態にだ。
あこがれているのだ。
全員が、何かをしている人なら、毎日そうならないとおかしい。
だから、そうならないほうがおかしいのに、と、首をかしげてあこがれているのだ。
そのヘトヘトとウヘラウヘラの毎夜が、どのようなものか、僕の想像力にはすでに描かれているので、なぜそのとおりにならないのかが、不思議でならないのだ。
単純な不満というやつだ。
いや、まあ、百歩譲って、誰もそんなヘトヘトとかウヘラウヘラとかしませんよ、ということなら、それでもいいだろう。
が、それなら誰も、「何かをやっている」という自負や看板は取り下げるべきだ。
「ここ数か月、いや数年かなあ、ヘトヘトになったりしていないなあ」というような人は、数学的に「何もしていない」ということが証明されている。
ヘトヘトになるというのは、疲れている、ということではない。
疲れるというだけなら、満員電車で舌打ちをしあって過ごせば、誰だって申し分なく疲れられるだろう。
情緒不安定な上司と席を隣にすればいくらでも疲れられるので、疲れる、ということの方法は、今や巷にあふれている。
ヘトヘトになるというのは違う。
別にオセロでもいいし立ち合いでもいいし考究でもいいしセックスでもいい。
気が付くと、
「えっ、今何時?」
「うわっ、もう朝の四時だよ」
「ウソ! え、じゃあ、これって何時間やってたの」
「え、さあ、もうなんか、ちょっと計算できないぞ」
というように時間が過ぎている状態だ。
それがヘトヘトになるという状態だ。
誰でも記憶に心あたりがあるだろう。
何かを「やる」というのはそういうことだと、本当は覚えているだろう。
もちろん、ごく例外的に、そのこと自体に心当たりがない人もいるかもしれないが……
これが、朝の四時まで突っ切るどころか、夜の十一時になったから「そろそろね」と、寝る準備を始めるような人は、「何かをやっている」とは言わない。
「力尽きる」というのは、気持ちの問題ではなくて、眼球の水分供給の仕組みや、関節の可動可能回数や、筋繊維に含まれるグリコーゲン量や、粘膜の耐用限界や脳細胞の圧力限界など、どこかの器官に臨界がきて、おしまい、休まねばならない、となる状態のことだ。
力尽きたあとどうなるか?
力尽きたあと、記憶ははっきりしないが、とにかく起きて「あ」となる。
そして、むっくり立ち上がり、昨日力尽きる前にしていたそのことを、再びやり始めるのだ。
力尽きたものが、回復されたので、力尽きる前に戻るだけだ。
それで、周りもごそごそ起床して、「おう……」「おはよ……」となる。
みんなしてゴソゴソ、昨夜と同じことを始める。
誰かが気を利かせて、ボサボサ頭のまま、全員分の朝食を買い出しに行く。
それが「何かをやっている」という状態だろう。
そういう状態にある人を、ここ数年来見ていない。
僕は何も、しんどいことをしろ、とは言わない。
しんどいことなんて世界で一番僕こそが避けてまわっている。
そうではなく、「何かをやる」ということは、別にしんどくないことだ。
僕の見る限り、
<<何もやっていない人こそが、しんどい様子>>。
何もやっていないのに、前もって疲れているのだ。
なぜ逆転しているのだろう。
そういう群衆を、ここ数年間眺めている。
僕は今、東京の目黒区に住んでいるし、しょっちゅう渋谷に行くが、断言していい、夜明けまで若い人間が集まって活性化しているカフェなど東京のどこにも存在しない。
熱い話をしている組など夜中の東京でどこにも見つからないだろう、
みんな寝ているのだ。
ブーたれる余地はどこにもなく、ただの事実として、すでに東京では朝までやっている店が激減している。
深夜の東京といえば、二十四時間営業のファミレスに、スナックの仕事上がりのおばさんたちが愚痴を言い合う声があり、肉体労働のおじさんが一人で突っ伏して眠っている姿があるだけだ。
例外は、風俗店ひしめく歌舞伎町と池袋の一部ぐらいだろうが、これをものの数に入れるのは筋違いだろう。
東大の哲学科の青年たちも夜になればグッスリ寝ているヨ、と言える。
丑三つ時になっても、なお知性がバテずに、へっちゃらで、煙草の煙がモウモウ立ち込める中、
「お前は結局ヘーゲルを読めてないんだよ」
「なんだと、表出るか」
「やめろよつまらん、近所迷惑だろ。それよりこのポスターのデザイン見ろよ」
「お前はたまには手ェ洗えよ、バケモンみてえだぞ」
みたいなことをやりあっているという、活性化の景色はすでに無いのだ。
こんなことでいいのだろうか、いいわけがない。
これだけ好き勝手なことを言えば、言った者の責任というのがある程度あると思うが、僕は「おいおっさん、寝るなよ」と言われたとき、最後まで眠らずにおつきあいすることがきっとできるだろう。
それどころか、そちらが先にお眠りになっちゃうんじゃないかな、坊ちゃん。
本来、老人といえば僕のほうが老人だし、僕は「何かをやっている」という自負でいるわけではないので、僕のようなものは、若い人間にとってはあっさり蹴散らす対象でなくてはならない。
僕のようなジジイは、何かをやっている若い人間には、追い付けず、引き離されて、「すまん、勘弁してくれ……」と弱音を吐かされるべきなのだ。
そのとき僕は、「ヘタレめ」と言われて足蹴にされたって、おとなしくいたぶられていることだろう。
そういった光景に、まみえることに、ずっと憧れているのだ。
人間が、夜に寝るわけがないということを、そろそろ思い出してもらえただろうか?
***
「行道は頭燃を救う」という言葉がある。
禅師・道元の記した「学道用心集」の冒頭部分に書かれている。
これは、「フラフラになるまでやるしか、人間が頭でっかちでなくなる方法はない」という意味だ。
と、下衆みたいな解釈をしたが、こういうものは本来翻訳するものではない。「行道は頭燃を救う」と書いてあるのだから、書いてあるそのままの意味だ。
オセロを三時間するのと、フラフラのエヘラエヘラになるまでやるのでは、意味が違うのだ。
三時間では頭燃は救われない、と書いてある。
手品の練習も、鏡の前で十時間立ち尽くして、一秒も気が逸れずにやり続ければ、少しはヘトヘトになってエヘラエヘラで、ちょっとは頭燃が救われるかな、と書いてある。
そして、頭燃が救われるので、しんどくないのだ。
先ほど述べた、<<何もやっていない人こそが、しんどい様子>>というのは、頭燃によってしんどいのだ。
よもや、三十分で「ふう」と一息ついてしまう人間のそれを、「行道」だとは、誰も感じないだろう。
三十分で「ふう」と一息つく人は、頭燃が救われていない。
だから、三十分で「ふう」の人は、頭燃の表れとして、滔々とご感想を述べ始めるのだ。
人間が頭燃を救われるには、頭燃をする余裕がなくなるまで、何か具体的な「行」をやらせ続けるしかない。
座禅などは、「とにかくキッチリ座ってろ、ブレたらシバくぞ」という「行」をやらせるものだ。
議論をやめさせ、とにかくそういった「行」を先に修めさせるので、そのことを「修行」という。
行を修めるということ、修行をするということは、何のためということではなく、その「何のため?」とかいう思念・頭燃を起こす余裕をなくさせるためのメソッドなのだ。
(なぜそういうメソッドが発明されているかは、過去の天才たちの英知によるので、ザコがあれこれ考えるべきではない)
頭燃がなくなればどうなるか?
そんなことは、お楽しみにとっておけばいい。
頭燃がなくなれば、ステキなことになりますよ、などという、さらなる頭燃を新規追加する必要はない。
とにかく、人間は行に放りこめば、強制的に頭燃から救われるので、「とりあえずやっちゃえば?」ということで成立している。
行に放りこまれ、それ以外のことはする余地も与えられないという状態を、「三昧」という。仏教世界ではサンマイと読む。
まあそんなことは、どうでもよいことで、ちゃんとしたことは専門家にまかせておけばいい。
「最近、座禅に目覚めました」などと言う人があったら、僕はそういう人とは、けっして親しく口を利かないだろう。
何度も言うように、感想はゴミなのだ。誰かがご感想を述べ始めたとき、僕は心の中で純粋に「Fuck」としか思っていない。
座禅とか、そういった「行」というのは、やっている間は意味があるが、やっていないときは意味がない。ゴミだ。
一日に一時間、座禅をしますという人は、残りの二十三時間をゴミとして過ごしていますということだから、メインとしてはゴミだ。
座禅をしている一時間だけは、尊崇する。たとえそれがどんな人間であってもだ。
その他の時間は、近寄るなゴミめ、としか思わない。
僕だって、こうして文章を書くという行道をやっているが、こうして書いている最中はともかく、その他の時間はゴミだ。
だから、なるべくゴミにならずに済むように、その他の時間も、できるだけ何かをやろうとしている。
やることは何でもいいのだ。
結果的に、ヘトヘトのエヘラエヘラになるまで、何かをやれていたらいい。
受験生が、受験勉強をするのに、休憩時間を挟む場合、僕はそいつが不合格になるのを確信する。
「休憩したほうが効率がいいらしい」などと、聞きかじったことを言い出す人もあるが、効率が落ちるというなら、効率を落とせばいい。
効率を上げようなどと、眠たいことを言っているほうが、よほど効率が悪いのだ。
このことは、誰だって、僕の言っていることのほうが正しいと、本当は知っているし、本当はわかっているだろう。
休憩を挟まず、効率を落とし、力尽きたところで昏睡する奴なら、合格するかな、と思う。
昏睡から目覚めて、「あ」となり、ごそごそと勉強を再開する様子なら、そいつは合格すると確信する。
三昧/サンマイに入っているからだ。
脳はエヘラエヘラ状態になり、そのぶん、受け取ったものを無条件に吸い上げる状態になっている。
人間が何事かを身につけ、伸びる、というときは、必ずこの状態だ。
人間はエヘラエヘラして伸びるのである。
ヘトヘトで頭燃を救われている状態でしか伸びない。
頭燃が救われていない状態では、どうなるかというと、頭燃に風を吹き込むことにしかならない。頭燃はゴオゴオだ。
それで、<<何もやっていない人こそが、しんどい様子>>となる。
ここに、一見すると不公平が起こるのだ。
一見、エヘラエヘラしている人が伸びていく。
一見、ガンバっていて、切羽詰まったふうの面持ちで、マジメさで胸がいっぱいの人が、何も伸びていかないという不公平だ。
これは正しくみると不公平でも何でもない。
エヘラエヘラしている人は、そうして頭燃を救われるまで行道に突っ込んでいるのだ。
ガンバっている人は、「ガンバルぞ!」と頭燃を持つ余裕を残したままやっている。
「ガンバルぞ!」の人は、実はたいてい、三十分ごとに「ふう」と一息つき、そのたびに「ガンバルぞ」と巻き直して、努力している。
そして、半日がんばったら、「ふう、がんばったなあ」と感想を自分で抱きしめている。
このことは、いいかげん真実だから、いいかげん誰でも知っていたらいい。
もう、このあたりのことで、内心の議論をするのにも、誰もが飽きただろう。
夜になったら寝ると思い込んでいる奴が伸びるわけがないのだ。
時計を見て、「うわ!」「ウソだろ!」と、驚き笑うことのない人は、何もやっていないのだ。
いくらしんどさが残っても、何もやっていない人は何もやっていないのである。
何もやっていなければ、何も身につかず、何も伸びない、それは当たり前のことだ。
何もやらないまま身につけられることといえば、マニュアルどおりのパターン行動とか、筋トレぐらいしかない。
話が変わるようだが、少し前、「マッタリする」という言い方があったのを、覚えているだろうか。
僕の記憶によれば、こういう使い方をした。
「もしもーし」
「もしもし。あ、お久しぶりです。どうしました」
「あのさあ、突然なんだけど。今日さ、どこか、焼き鳥屋でも行って、マッタリしませんかい?」
「あ、いいですねえ! したいですねえ、マッタリ。いいじゃないですか。ぜひ行きましょう。ぜひマッタリしましょうよ」
つまり、「あえて活性化を抑制する」というようなこと。もちろん、活性化しているほうが有益で、美しく、人間的であり正しくはあるが、その逆、活性化をあえて抑圧するという中にも、独特の味わいが生まれてくる。今日などは特に、それをやりましょうよ、という話だ。そういう使い方をした。「マッタリする」ということ。
今は、活性化自体が行方不明なので、そのアンチテーゼである「マッタリ」も、あえて使われることはほとんどなくなった。
今は、その「マッタリ」のさらに上位というか、低位というべきなのか、「ポカーン」みたいなものが流行っている。マッタリという味わいさえなくした、何か正体不明のポカーンとしたもの。
仮に、人間の活性化状態を四段階に分ければ、次のような分類になると思われる。
ゾーン>活性化>マッタリ>ポカーン
人間が、「何かやっている」状態で、頭燃がほとんど消失に至るほどに、人間はいわゆる「ゾーン」に近づいていく。
逆に、頭燃が根深く、粘っこくなっていくと、マッタリの底を破り、ポカーンになるのだ。
たぶん、頭燃によって、脳みそが焼野原になるのだろう。
だんだんと、説明が面倒になってきたぞ。
たとえば、人は通勤で満員電車に乗っているとき、どうしても魚の死んだような目になっていく。僕はならないが、僕のことを要素に入れても何の意味もないだろう。
魚の死んだような目は、いわば「マッタリ」に含まれていると見ていい。
一方、最近では、ものすごい顔をしたおねえちゃんが、ものすごい顔のまま、電車内で顔面をグリングリン化粧しているところを見かける。化粧はともかく、その顔面と気配がヤバイ、と誰でも見たことがあるはずだ。「ポカーン」とはその状態のことを指している。
電車内で顔面をグリングリン化粧しているおねえちゃんは、全体の印象として、脳が「ポカーン」として、その機能を喪失していることが、誰にでも見て取れるはず。
そして、ポカーンとしているが、その頭燃はどうだろうか。頭燃は、静寂で明鏡止水である、とは思えない。頭燃は何か、粘っこく激しいような印象を受ける。だから単純に言って「見てて何かコワイ」。声を掛ければ、何か猛烈に汚い声が返ってきそうだという予感がある。
「パパがさあ、ママのこと殴るからさあ」
と、顔面をグリングリンしながら、ケータイで大声で話している。脳みそはポカーンとしており、見るからに「あかん、どうしようもない」という直感がある。
当人に罪はなく、別に善悪の問題ではないのだろうが、とにかく「ポカーン」としているので、それを「ポカーン」と呼ぶことにしている。
(それ見ろ、説明が完全にアホみたいになった)
そして、ご存知のとおり、「ポカーン」の人は、何かとにかくダルそうで、しんどそうだ。
「活性化」など、冥王星より遠い話で、彼女らの脳はすでに、どのネイルがかわいいか、というあたりの話題しか受理できなくなっている。
世の中にはいろんな人がいるものなので、僕はそういう人間模様に、文句をつけているわけではない。ただ分類の話をしている。
子供の頃から、パパがママを殴るという光景、そこに起こる頭燃の苦しさに焼かれ続ければ、ポカーンとなってしまうよりしょうがなかったのかもしれない。
彼女のパパはおそらく、仕事がなくて、毎日ヒマであり、やることがなかったので、ママを殴るようになったのだろう。
「行道は頭燃を救う」わけだから、行道が無ければ、頭燃は好き放題に燃え盛るのである。
行き場のない頭燃が、理不尽で投げやりな暴力という方向に噴き出した。
パパがもし、十五時間ぶっ続けでオセロゲームをし、フラフラのエヘラエヘラになっていたら、その夜パパはママを殴らなかっただろう。
頭燃が救われているからだ。
ヘトヘトのエヘラエヘラの人間が、怒号を上げて女性をブン殴ったりするわけがない。
顔面グリングリンの彼女だって、十時間も鏡の前に立ったまま、カードテクニックの練習をしていたら、十時間後にはその伸ばした爪を切ってしまうだろう。
「カードをやるのに邪魔なの」
といって、パチンパチンと爪を切り始めるはずだ。
こうして、オセロの父とカードの娘が、ともにエヘラエヘラになったなら、父と娘は、何でもない和合の酒を、楽しく呑むことができるかもしれない。
「パパ、オセロめっちゃやってんじゃん」
「お前こそ、あれ何だ、トランプか、めっちゃやってるじゃないか」
父は、娘に、「お前、大学行くか」と言うかもしれない。
「行道は頭燃を救う」というのはそういう意味だ。
僕があこがれるのは、家庭不和に浮かされたポカーンとした女を言いくるめてヤッてしまうことではなくて、居酒屋で呑みかわす父と娘が活性化して、「何かやっているな」と見るからにわかる光景を目撃し、それを邪魔しないように僕は隅っこに追いやられて狭苦しいお酒を呑むことだ。
そして、隅っこで、声を小さくし、友人とクソ話をえんえんやりあうのである。
人間が、夜に寝るわけがないということが、いよいよ思い出されただろうか?
***
「行」ということの、面白い性質がある。
これはきっと、極めて重要な話なので、耳の穴をかっぽじって聞くべき価値がある。
Aという行を積んだとき、Aが獲得されるとは限らないのだ。
もし、Aという行がAのみを獲得するのならば、座禅をする僧侶は、ひたすら腰痛を獲得しなくてはならない。
そんなことはなく、座禅によって菩提心を得うる(らしい)から、禅僧は座禅をしているはず。
Aという「行」が、Aの獲得につながらないということ、のみならず、重要なことは、「何を獲得するかはわからない」ということなのだ。
Aの行を積んだとき、獲得されるのは、不明のXだと捉えたほうが正しい。
その不明のXが何でありうるかを知っているのは、それをすでに獲得済みの先人だけだ。
だから本来は、何事につけ、修行には先人がいてくれるほうがよく、その先人が「師匠」として付き添ってくれるほうがよいのだ。
わかりやすく、典型的な例を示しておこう。
たとえば、バイオリンをやっている人は、歌が上手くなることがとても多い。
一方、ピアノをやっている人は、別に歌が上手くなるという副作用はない。
このことには、眼球をグリグリに開いて注目する価値がある。
なぜ、「歌」という行は直接やっていないのに、バイオリニストは歌が上手くなるのか。
次に、「楽器をやっていたから」と言うなら、ピアニストだって歌が上手くなればいいのに、なぜピアニストにはその恩恵がなく、バイオリニストにだけその恩恵があるのか。
逆のように見える例もある。
たとえば、野球選手は、決まってゴルフが上手にならない。
野球もゴルフも、球を狙って棒でひっぱたくスポーツであり、どちらもその打撃フォームのコントロールが必要なのだから、野球選手はゴルフも上手になりそうなものだ。
だが、野球選手がゴルフ下手というのは「お決まり」のパターンだ。
一方、アイスホッケーの選手は、当然ながら、初めてのゴルフでもまっすぐにボールを打つことがあっさりできるのである。
なぜこのような違いが生じてくるか?
たとえば、バイオリンの場合、おそらくバイオリン等の弦楽器の、楽器としての機構が、人体の発声機構によく似ているからだ。弦を振動させて原音を出し、ボディがそれを反響して音色にする。人体の発声機構も、咽頭原音を鼻腔に響かせて音色にするというような仕組みになる。
その、原音を出すということ、および反響して音色になるということが、身に染みて感覚でわかっているので、自分の体も楽器化するときに、それがしやすいのだ。前もってコツを掴んでいるといえる。
一方、ピアノのほうは、打鍵によって音を出す。ショットによって音を出すという機構は、人体の発声機構とあまり似通わない。だから、「音色を出す」「演奏する」ということが、人体の発声機構ではやりづらく感じることがあるわけだ。ピアニストの中には、歌が苦手だという人も多いし、声が固くなる人が多い。
こうして、弦楽器の行は歌の獲得につながり、鍵盤楽器の行は歌の獲得にはつながらない、ということが起こってくる。
ここに、「歌」について、いわゆる「意識が高い」人がいたとしよう。
彼女は、歌を習いたいが、近くに歌のスクールはなく、近くにはピアノとバイオリンのスクールしかない。
彼女は、
「色々考えたけど、わたしはやっぱり歌でやっていきたいから。歌を自分なりに考えて、やっていくことにするわ。あとはなんとかしてお金をためて、どこか遠くに歌を習いにいけたらいいわね」
と発想する。
一方、
「わし、アホでんねーん」
という男がいたとしよう。
彼はアホであり、歌に興味なんか持っていない。
ただ、アホなので、やれと言われたことをそのままやるし、いったんやりだしたら、何も考えずにそれをやりだす。
彼は、「何か知らんけど」、ほとんど目についたからというだけの理由で、バイオリンとピアノの両方を習いだした。
「バイオリンにもピアノにも、別に興味なんかおまへん。けど、先生がキツうに言わはるよってに」
と、何か知らないが、とにかく言われたとおりのことをえんえんしつこくやる。
こうして、「意識の高い人」と、「アホ」を比較したとき、結果的に歌が上手になるのは、後者のアホのほうだ。
アホのほうが「行」を積むからだ。
意識の高い人は行を積むのが遅れる。
アホのほうが頭燃が弱く、意識の高い人は意識の高さぶんだけ頭燃も強いから、ますますアホのほうが行を積みやすい。
ここに、一人の先人が現れたとしよう。
先人は、「歌を上手くなるために、バイオリンを習ったほうがいい」と言う。
これを受けて、意識の高い人は、
「うーん、そういう考え方もあるか。自分なりに、検討してみます。アドバイスありがとうございます」
と言う。
一方、アホは、
「そうなんでっか。ホナそうしまっさ師匠」
と言い、ピアノを引退してバイオリン一本に絞る。
こうして、結果的に、アホがアホのまま、興味もなかった歌が上手くなる、という結果が残る。
意識の高い人は、何も獲得しませんでした、という結果が残る。
注目すべきは、アホの側が、とにかく何かしら「行」を積んでいるということだ。
「行」を積むということの面白い性質は、<<興味がなくても獲得してしまう>>ということだ。
歌への興味とか、歌への高い意識とか、歌への熱い思いとか、そういったことは、あってもいいし無くてもいいが、そのことの「獲得」には何ら寄与しないのだ。
それどころか、物事への「興味」は、たいてい行の邪魔になる。
「高い意識」も、たいてい行の邪魔になるし、熱い思いも、たいてい行の邪魔になる。
歌が上手くなったアホに、「なぜ歌がそんなに上手くなったのか」と訊いても、
「それが、知りまへんねん」
とアホは答える。
彼は別が歌が上手くなりたくて上手くなったのではないし、歌を目指して歌を獲得したのではないから。
<<人間の埋まっている能を掘り起こすのは「行」なのだ>>。
熱い思いとか高い意識では掘り起こせない。
そして、掘れば、何かしらが掘り起こせるのであって、別に目を閉じて掘っても、掘り起こされるものは掘り起こされるのだ。
何が掘り起こされるのかはわからない。
どの行で掘れば何が掘り起こされるのかは、それぞれそのことの師匠に教えてもらうしかない。
この法則に逸脱するのが、試験勉強やスポーツだ。
試験勉強のことを修行とは言わないし、スポーツのトレーニングを修行とは言わない。
試験勉強やスポーツと、芸事などの人間営為と、何が違うか。
それは、試験勉強やスポーツは、「これができれば得点です」と、前もってルールが決められてあるところだ。
バイオリンが「上手い」とか、歌が「上手い」とかいうのは、何が得点なのか定められていない。
試験勉強やスポーツは、この数式が解ければ○点です、三回転ジャンプができれば○点です、ということが、協議会によってルール化され、定められている。
こうして、得点のルールが定められていれば、それに向けて科学的なトレーニングができるのだ。
科学的なトレーニングとは、Aに向けてAの努力ができるということだ。
誰でも知るように、試験勉強やスポーツは、努力があるていど比例的に報われるが、歌が「上手い」とかいった芸事のことは、努力がまったく比例して報われない。
それは、芸事はルール化した得点制ではないため、科学的にターゲットを限定したトレーニングができないからなのだ。
「民謡を粋に歌え」みたいなことは、ターゲットを限定したトレーニングの対象たりえない。
「行」のえげつないところは、民謡を歌いまくっても、別に民謡が上手くならないというところだ。
カラオケ好きのおばさんが、カラオケに行きたおし、ヴォイストレーニングとカラオケ教室に通っても、やっぱり歌が上手にはならないという話と同じだ。
それどころか、ぜんぜん関係のない、相撲取りがやたらに歌がうまかったりする。
相撲部屋で何かしらの「行」を常に積んでいるからだ。
酔っ払った農家のおじさんが、なぜかいきなり民謡が上手だったりする。
土に鍬を打ち続けるという「行」をえんえん積み重ねてきたからだ。
僕自身、学生のころ、夜中に部室にたむろって、えんえん、アホの極北を言い合っていたときがある。
アルバイトの面接に行くだけでブルって震えるありさまで、勢いだけで「まあ将来アメリカ行くし」と言い放ち、言い放つだけで、翌日のフランス語の試験に怯えている(怯えているのにテスト勉強をするという発想はすでに失っている)というような時間だった。
ダイエーの買い物カゴを拾ってきて、「これを加工して海の魚を獲る装置にできないか?」と言い出し、加工すると意外にそれっぽいのができたので「いける!」と盛り上がったのだが、実際に海に出ると海は巨大で、しかも大シケで、装置は一瞬で波にさらわれていった、終わった、われわれは海水に濡れた、というような、何をしているかわけのわからない時間だ。
だがそうして、アホの極北をやりつづけるというのも、どうやら何かの「行」になっていた。
それが今、何の獲得になっているのかは知らない。アホくさくて知りたくもない。
でも、不覚にも、何かの獲得にはきっとなっているのだろう。
あのアホの極北が、何かしらの「行」になっていたと今さら思うのは、そこまでアホも極まっていると、頭燃なんか起こらないからだ。
人間、夜になったら寝るでしょ、というのは、あのときダイエーの買い物カゴを夜な夜な加工していた僕たちに対する誹謗だ。
アホの極北に比べたら、寝たほうがマシかもしれないが、すくなくともあのとき、人間が夜に寝るわけがなかった。
何やってんの、と呆れて訊きたくなるぐらいだから、それは逆に、やはり何かをやっていたのだろう。
***
深い夢を見て目覚めたとき、「ああ、夢だったか……」という嘆息と共に、心身はどこかヘトヘトになっている。そのヘトヘトが、何かをやっている人、および行を積んでいるさなかの人に近い。
読書が趣味です、という人には何も思わないし、いわゆる本の虫と呼ばれるタイプの人は、僕は大の苦手だが、「『罪と罰』を三日間ぶっとおしで読んだ」とフラフラで部屋から出てきた人には、いいねえ、という希望を覚える。
僕が過去に「行くときは行くとこまで行かんかい」と仕込んだ後輩は、会社に入ってから飲み会における常識の修正にかなり苦労した。
「飲み会って、泥酔しなくていいんですか」
という、マジの確認メールが来たことがある。
泥酔しなくていいんだと、改めて知った彼だが、それでもクセや習慣はなかなか治らず、今でも油断すると飲み会で泥酔しかねない。彼はすでに中堅だが、若手や新人などをぶっちぎって最速で泥酔する。
人間は、ヘトヘトのエヘラエヘラになると、いくつかの能力が落ちる。判断能力などが、常識から逸脱してしまうことがある。今ふうに言うと、スペックが落ちる、というほうがわかりやすいかもしれない。
そのときはどうぞ、スペックを落とせばいい。
或る日のことだ。僕は、そのヘトヘトのエヘラエヘラのとき、それも極限だったとき、友人から電話がかかってきて、なぜだかはわからないが第一声、
「ホステス!」
と電話に出たことがある。まったく意味がわからない。しかも電話の相手は男だ。
ホステス、と言った直後、何がホステスなんだ? と自分でも混乱した。
それで、混乱をとりつくろおうとして、言葉をつづけ、
「その、九州の、龍が如く。」
と、なぜかプレステのゲームタイトルを断言した。「九州の」は完全に関係ない。
わけがわからない。
スペックが落ちているのだ。
それが、意味不明でおかしい、ということは、言った直後にわかるのだが、なぜか知らないが、とにかく何かを言おうとすると、そうして意味不明の単語がバカスカ飛び出る状態だったのだ。
こういうとき、当然だが、自動車の運転はしてはいけない。
ガスコンロやストーブも操作しないほうがいいだろう。銀行の口座もいじらないほうがいい。
が、その他のことは特に問題ない。
電話口の友人も、
(この人にはこういうことはよくある)
という具合だったので、別に驚きはしなかったそうだ。
なぜそんなにヘトヘトのエヘラエヘラになっていたのか?
その実情は、あまり人に話せるようなことではなかったのだが、とても素敵なことがあって、ヘトヘトになっていた。
そして、素敵なことに加えて、あとは単純に、寝ていなかったからだ。
この、「ホステス! その、九州の、龍が如く。」というような状態で、人間が頭燃を持つことができるか。
できるわけがない。
このヘトヘトのエヘラエヘラのとき、心の中はどういう具合か、その心境はというと、到底自分の心とは思えないような、猛烈なイマジネールの嵐が起こっている。
想像力のフィルムに映り込むイルミネーションの嵐。
嵐が起こっているから、まともなことも言えなくなっていたのだ。
人格の根底レベルで大改造が行われている。
ああして膨大な嵐が起こる以上、人間の心というのは、自分単独の持ち物ではないなと感じる。
僕が単独で空想できる量などをはるかに超えて、そのとき嵐は吹き荒れるからだ。
人間が夜に寝るわけがない。
別に、睡眠不足を推奨しているわけではない。
が、僕はとにかく、あこがれ続けている。
活性化の夜に。
数万の、数十万の、若さある人間が、当然のように一夜にあり、
<<人間が夜に寝るわけがない>>
と、言うまでもなく共有している。
パパはセンター街の路上で賭けオセロをする、娘はボディコン姿で覚えたてのカードマジックを披露している。
ある者はポスターのデザインに憑依し、デカルトを読めなかった初学者は片思いの性欲に破裂しそうに突っ伏している。
夜の街、その一画はヘイブンと化し、頭燃はこれまでの日々で入念に取り払われている。
みんなヘトヘトで、みんな口腔粘膜がジンジンしびれている。
そのとき、人間の心というのは、誰にとっても、自分単独の持ち物ではない。
そんな夜に邂逅したときでも、あなたは夜の十一時には、「そろそろね」と寝る準備をするのか。
しないだろう。
だから、あこがれているのは僕だけではない。
あなたも同罪だ。
人間が夜に寝るわけがない。
人間が夜に寝るものだったら、あなたは永遠に恋人を見つけられないだろう。
「この人といて、夜に寝られるわけがない」と、確信するのがあなたの恋人なのだから。
というわけで、そんな世間話でした、おやすみなさい。
[人間が夜に寝るわけがない/了]