No.322 現実にならない夢は存在しない
僕は自分が好かれるとは思わない。
嫌われるとも思っていない。
予測を立てるには一般論と時間軸が必要だ。
僕はその両方を持っていないので、好かれる(だろう)・嫌われる(だろう)という、予測そのものが立てられない。
昨日正しいことを今日やるわけにいかない。
かといって、今日正しいことを今日やるわけにもいかない。
ずっと正しいことをやるしかない。
昨日とか今日とか明日とかに、流されずにあり続ける正しさでやるしかない。
そいつは、ずっと新品だ。いついかなるときに手元にしても新品だ。
何も変わらんから新品のままだ。
古くなりっこないもので、古くなりうるのは時間軸に引きずられるものだけだ。
そうして普遍的に正しいものは何か。
それが普遍的に、正しいものとして、普遍的にずっとあるなら、探さなくていい、探さなくたってずっとあるから「普遍的」なんだ。
普遍的に正しいもの、本当に正しいものは、正しさの審査を受ける前に、すでに正しい。
審査によって疑われるものは普遍的ではない。
正しいかどうか審査する、その審査よりも正しいので正しい。
正しいかどうかを問われる前から正しいのだ。
何かを「信じる」ということがある。恋あいなら恋あいを信じたっていいだろう。
そして、「信じる」というのは、結果に裏切られたって構わないのだ。
結果に裏切られたら、信じるのをやめるというのでは、それは信じていたのじゃない、「アテにしていた」んだ。
恋あいにおいて信じられる、普遍的な正しいことというのは、そんなにややこしいことじゃない。
まず、かわいい女性に出会えるということ。
そして、そうしてかわいい女性に出会えるということ自体が、胸を打つということ。
これがたまらなくいいのだ。胸が高鳴る。今日も明日もある「夢」なのだ。
別に人は恋あいのためのみに生きるわけではないだろうが、何かのためというなら、何のためでもいいし、胸が高鳴る夢は無数にあっていいし、その中に恋あいが入っていてもまったく構わない。
もちろん、もう一つのやり方があることは、仮想できるけれど、この仮想を用いることを僕はしないし、この仮想を用いる人は誰一人いないだろう。
いわゆる「現実問題」というようなものを仮想して、そこに予測を立て、その予測を「アテにする」というやり方だ。
今日と明日は、それなりに良いこともあり、それなりに悪いこともあるだろう、と、平均分布化した予測を立てるというやり方だ。
その予測の中で、確率論的には、今日と明日はこれという恋愛はないであろう、ということが予測される。
予測をアテにする。
この予測は、確率上かなりアテにできる。
アテにできる予測があれば、不利益を回避することができ、そのぶん利益を保全できる。
このやり方は実にもっともらしく見えるものだ。
比較対照として、
・「信じる」、そして結果に裏切られる
・「予測する」、そして結果に整合する
という二者を並べたとき、後者のほうが優れて、メリットがあり、利益があるように思える。
その判断は間違っていない。
が、僕が捉えているのはそのところじゃない。
この「もっともらしい」判断を転覆させるのは簡単なことだ。
利益を求めていなければどうだ。そのごもっともな判断とやらは、足場を失ってすっころぶだけだ。
比較対照して、なぜ利益のあるほうを選ばねばならない?
なぜ優れたほう、メリットのあるほうを選ばねばならない?
「どちらでも自由に選べ」ということなら、メリットを無視して選ぶ権利があるはず。
「メリットのあるほうを判断して選べ」と言われたわけではないのだから。
「信じる」、そして結果に裏切られる、ということがあったとき、マイナスに思える、が、それは勝手に「アテにする」ということへ数直線のプラスを取っていたから、マイナスに思えるだけだ。
五段階の通知簿では、1が劣等で5が優秀ということになっているが、単に1という数字が好きなら、先生に頼んで1を並べてもらっても構わない。
通知簿によって、成績が評価されるとして、低く評価されたら悪い、とは決まっていない。
思い込みだ。
よかろう、では僕が、折れ曲がったトランプに「1」の評価をつけ、打ちたてでまだ熱いアスファルトに「5」の評価をつけよう。
土星の輪の間にあるカッシーニの隙間には「3」の評価をつけた。
それでどうなる?
どうなるか説明してみてくれ。
アスファルトに負けた土星の輪の隙間は、ガックリ落ち込んで、折れ曲がったトランプは、何か開き直ったりするのか。
恋あいを信じて裏切られる人に「4」の評定を、そして「予測」を立てて結果に整合する人に「2」の評定をつけよう。
何になる?
折れ曲がったトランプから、熱いままのアスファルトに至るまで、それはただ実相として実在しているのみだ。
別に、それぞれの、何がどうだ、ということは特にない。ただ実相であり、実在だ。本当にそれだけだ。
この話は、立場上、わかりやすくするために、仮に遠回しなところを書いているに過ぎない。
僕自身は、その「予測を立てて、結果に整合する人」というような人が、本当にいるとか、そういうやり方をする人があるとか、そんなことを念頭に置いてはいない。
僕自身、予測を立てないのだから、「予測を立てる人がいるだろうな」という予測を、まず僕が立てられない。
僕は割と、何でもかんでも信じるたちなので、その中に、恋あいのことも含まれている。恋あいのことを信じている。
それによって、僕は毎日が好きだ。
胸が高鳴り、たまらなくなる。毎日、今日も明日もある「夢」が、僕の毎日をすばらしいものにしている。
もちろん、逆方向には、悪いほうへ「信じる」ということも理論上可能だ。
それは、理論上可能だが、幸いなことに、僕はそちらを「信じる」ことへ傾いたためしはない。
「信じる」ということは、自分では選べないので、なぜ僕がたとえば恋あいを信じ、不幸や悪魔を信じることを選ばなかったのかは、僕自身にはわからない。
僕は僕の意思によらず、勝手に自動的に信じているので、とりあえず、何事にも苦しまずには済んだ。これは、ただの幸運ということかもしれない。
僕は、宝くじを買わないが、宝くじを買えば、必ず当選するだろう。
これは僕だけでなく、宝くじを買う人は、必ず当選すると思っているから買うわけで、もし確率演算に依存するなら、どう考えたって宝くじを買う理由はない。
期待値では赤字になるに決まっているのだ。
もし僕が宝くじを買って、当選しなかったとしたら、それは僕がハズしたのではなくて、向こうが何かでハズしたのだ。宝くじの仕組みはよく知らないが。
僕のほうは当たっているのに、向こうの側が、何かうまくいかなくて、ハズしてしまったのだろう。そういうことはよくあるので仕方がない。
何も、この世界は僕の都合だけで出来ているわけではないし、向こうには向こうの事情があるものだ。
僕は寝る前、夢を見てから寝るし、朝起きたらまず、何をするかといえば夢を見る。
見ようと思って見ているわけではないが、自動的にそうなっている。
寝る前は、胸の高鳴る明日の夢があり、起床直後は、胸の高鳴る今日の夢がある。
予測の立て方や、それをアテにした上での、考えのまとめ方とかも、やり方は想像がつくけれど、そうしてわざわざ自分を病気にしたいとは思えない。
アテになる予測を立てることはそんなに大事だろうか。
予測を立てて、「ほら今日も予測どおりつまらなかったぞ、気分もしっかり悪くなった」というようなことは、誰にも自慢できない。
そんなつまらないことをする人がいるはずはないし、少なくとも、僕は僕の力によって、僕の目の前にいる人は、必ず僕の影響を受けて、即座に僕の友人になるだろう。
自動的に、そう夢を見ることになっているので、僕は予測を立てない以上、そうして自分の見る夢のすべてを信じることしかできない。
(仮に、「夢のようにはいかないだろう」と言い出せば、それは「予測」なのだから)
信じよう、と努力する意識のすべては欺瞞でしかない。
だからどうやっても、今日や明日は不幸で憂鬱だと、強引に信じることは僕には不可能だ。
恋あいとは何だろう、と、僕もときどき考えることがある。
恋あいとは何か、といっても、毎日寝る前と朝起きたときに見る夢、これが明日と今日とに現実になるということだけだ。
現実にならないことを夢とは言わない。
夢が現実にならない可能性や、その方法について考えてみた。
が、それが今日と明日の現実になるものを、夢と呼ぶのだから、夢を現実にしないなどという可能性や方法は、論理上ありえないことがわかった。
これは何が起こっているのだろう?
冒頭に話したとおり、僕は人に好かれるだろうという予測は立てていないし、嫌われるだろうという予測も立ててはいない。
予測をなんら立てていないのだから、この先に、どういうことがありうるかのイメージはまったくない。
よって、今日も明日も、未知なのだが、未知というのはゼロではなくて、夢によって色付けされている。
未知だから夢であり、未知に向けて起こる「それ」を夢というのだ。
人間には、未知に、それを未知としたまま「干渉」できる何かの力があるのかもしれない。
とも思うが、途端にオカルトっぽくなるのでやめよう。
別にオカルトにしなくても、未知が本当に真実のゼロであれば、人間はそれに向けて夢を覚えることなどできないはずだ。
仮に、未知を「ゼロ」だとしても、人間はそこに夢を持ち抱えて突入するのだから、その時点で未知はゼロでなくなってしまう。
たとえば、自然の砂浜がどれだけ空(くう)であり、意味ゼロの無意味を気取っていたとしても、少年が夢と共にスコップを持参してしまえば、そのときすでに意味ゼロを気取ってはいられなくなるようにだ。
少年のスコップが砂浜を遊び場にしてしまうだろう。
もし砂浜が真に空であり意味ゼロの自然物であるなら、少年は手ぶらで無関心で来ないといけない。
だが残念ながら人間はそんなに甘いものではないよ。
恋あいとは何なのか、という疑問には、結局僕も自答できない。
ただ言えるのは、僕は夢を見るし、予測を立てない以上は、夢を信じることしかできない、そう決められているということだ。
そして、その見てしまう夢、信じることしかできない夢の中に、恋あいの夢も入っているよ、ということだ。
寝る前に明日の夢、朝起きたときに今日の夢を見る。
その中に、恋あいの夢が入っている、自動的にだ。
そして、その恋あいの夢は、独特の甘やかさと、胸の高鳴りをもって、特別に明日と今日をすばらしくする。
恋あいとは、未知に向けて起こる夢だ。
現実にならない夢は存在しない。
だから、せいぜい言いうるのは、「恋あいがあるから、恋あいの夢を見る」ということなのだろう。
僕が毎日恋あいの夢を見ているとき、主格は僕ではなく恋あいのほうなのだ。
僕が存在して、僕が恋あいの夢を見ているのではなくて、恋あいという事象が実相として実在し、その実相主体の意思の先端が僕をぶらさげているだけなのだ。
僕は主格ではないので、何もしていない。
何もしていないことによって、予測も立てていない。
予測を立てていないとき、「未知」へ向けて、何が起こっているか?
ふつう、予測を立てなければ、未知へ向けて得られるものは、「ゼロ」だと思われている。
だが実際には、予測を立てないとき、未知へ向けて得られるものは、「確信」なのだ。
このことが、あまりにも思いがけないことなので、説明すれば説明するほど見失われる、そういう具合に、この話はなっている。
[現実にならない夢は存在しない/了]