No.325 ひとつの時代が終わって
ひとつの時代が終わって、新しい時代がやって来た。
ついに来てしまった、ということだが、思っていたより、悲嘆はない。
準備が整ったからだろうか。
こんなことでは、おかしいのだが、妙に気分はよくて、やる気というか、鋭意がみなぎっている。
船でいうと、沈没事故だが、その沈没事故も、済んでしまえば、騒ぐことではない、ということだろうか。
新しい時代が来たとは、そういうことだと思う。
といっても、僕自身はちゃっかり生き残ったのだから、言っても説得力がないというか、厚かましいことだ。
次々に起こっていく更新の中、僕は結局自分を更新しなかったので、何もかもがかけ離れてしまったが、そのおかげで沈没せずに済んだ。
結局、沈没どころか、水さえかぶらなくて済んだ。
この二月の下旬に、例年どおり、「こんなうつくしい春が来るのか」ということに、激しく打たれている。
例年どおりのはず、ということはわかるのだが、それにしても、「こんなにうつくしい春があるのか」と、どうしても呆然とさせられてしまう。
むしろ、毎年ひどくなっているような……
ひとつの時代が終わって、新しい時代がやってきた。僕は結局関係ないというか、置いてきぼりにされたのだが、それは僕がそう選んだのでもあって、「結局、本当にこんなふうになってしまった」という万感がある。
この状況下、生き残るのはもはや犯罪に近いが、僕には犯罪者の素質があるだろう、なんだかんだでこのような結果に納まってしまった。
新しい時代の、春間近、自分の軽やかな、心地というか心境に、驚いているのだが、これは結局、なんだかんだでみんな健全に生きているのを、見ることができるからではないだろうか。
いや、違うか。
人々が「健全」といって、何を「健全」とするか、どれを「健全」として納得するかの、認知改造が完了したのだ。
それで人々は、事実、健全な中を生きてゆけている。
改造してしまえば、それは確かに、言うほど悪いものでもなかった。
新しい時代は、イメージの時代だ。
世の中は、「ぽいもの」で埋め尽くされていく。すごくぽいものだ。
かつて、藤子不二雄の想像力が「ドラえもん」を生み出し、それはマンガからアニメへ引き継がれたが、新しい時代へと引き継がれるにあたって、それは「すごくドラえもんっぽいもの」に作り直されている。
同じく、「母親」は「すごくママっぽいもの」に作り直され、「ドラマ」は、「すごくドラマっぽいもの」に作り直された。
面白いことに、今もし「ドラマ」そのものが示されると、それは「ドラマっぽいものではない」ということで、「ドラマだ」とは認められないのだ。
「すごくドラえもんっぽいもの」には臭気がないが、元の「ドラえもん」にはドラえもんとしての"臭気"がある。
この臭気は、今はことごとく忌み嫌われるようになり、この臭気を取り除く過程で、「すごくドラえもんっぽいもの」が作られてゆく。
「恋人」は「すごく恋人っぽいもの」になり、「すごく恋人っぽいもの、それが恋人だろ」と認められるようになった。
元の「恋人」は、「恋人っぽいもの」ではないので、恋人ではない、恋人とは認められない、というメカニズムだ。
割と面白いというか、出来上がってしまえば、案外理解に苦しむメカニズムではない。
女の子は、「すごく女の子っぽいもの」が、「超女の子だね」と認められるようになった。「超」の字を具えているのは、もちろん元の「女の子」を超えて「女の子」たりえていると認められているからだ。
コジツケではなくて、人間は意外と、精密な理由を背後にスラングを発生させていくものだ。意味の当てはまっていない言葉は人口に膾炙してゆかない。
「青春」は「すごく青春っぽいもの」になり、「男性」は「すごく男性っぽいもの」、「女性」は「すごく女性っぽいもの」、そして「恋愛」は「すごく恋愛っぽいもの」に置き換えられた。
男性は、「清楚な女の子がいいなあ」と言って、「すごく清楚っぽい女の子」「すごく純粋っぽい女の子」を求めている。
そのとき、女の子の側も、内心のどこかで、その「すごく清楚っぽいもの」「すごく純粋っぽいもの」になろうと、努力しているところがあるだろう。
つまり、万事について、「すごくそれっぽい」もの、それこそが「それ」そのものなのだ、と認められるようになった。
特に、典型的には、「芸術」が、「すごく芸術っぽいもの」という一点によってのみ、認められるようになった。
「感動」は、「すごく感動っぽいもの」の体験をして、それが是だと認められる。
イメージの時代だ。
何も難しいことはなくて、イメージが重要だというところに、実物を持ってきてどうするんだ、という、新しい筋道があるだけだ。
これは、面白い。
過去、人間は、実物が手に入らず、実物が目の前にないとき、その代用として空想を膨らませ、「イメージ」を活用する、という手段を採ってきた。
そして、新しい時代は、この「イメージ」が主権を要求することで、新しく成り立ってきたのだ。
扉が開いたぞ。
僕はこのことを、今瞭然と解き明かせることに、確実な美の感触さえ覚えている。
人間には、
・実物を明視し、感じ取る能力[実存への想像力]
があり、一方、先ほど述べたように、
・空想を膨らませることで、イメージを高める能力
がある。
(実物を明視するときに人間の想像力を経由しているという点は、一般に理解されにくいが、ここで説明するには適さないし、過去の想像力論にすでに解き明かされているので割愛する)
これは、一見すると、実物への明視が「主」であり、実物の代用にするイメージが「従」であるように見える。
が、近年、
「何をもって、実物が主でイメージが従であると言いきれるのか?」
という反論が示されてきた。
ここ数年、人々は、急速に、二つの能力のうち、イメージを膨らませるほうの能力を高めてきた。
そちらの能力だけを使い、それも始終酷使していたため、そちらが圧倒的に鍛えられている。
結果、
「わたしの能力、および人間の能力は、こちらが"メイン"じゃないのか?」
と言いうる確かな状況が生まれてきた。
例えば、男性が、三つ編みの少女を目にしたとき、その髪型ともども、「三つ編みの少女」ということに、イメージを覚える。
それで、そこにありうる体験の本質は、そこにある少女の実存ではなく、三つ編みという髪型から膨らむイメージ、および三つ編みの少女ということから膨らむイメージ、そちらのほうではないか、というのだ。
「わたしには実物を感じ取る能力が実質なく」「イメージを受け取り高める能力はふんだんにあるのだから」、"体験の本質"といえば、三つ編みの少女に覚えるイメージの受け取りと膨らましこそが、ありうる"体験の本質"なのではないか?
そうして、「わたしたちの存在は、イメージが主だ」と、肯定的に捉えなおされていく、ということが起こったのだ。
僕はこれを、かつての金本位制の廃止になぞらえて、「実物本位制の廃止」と呼んでいる。
かつて「銀行券」は、金属としての黄金を代用する証書でしかなかったが、今は金本位制が廃止され、銀行券そのものが価値だと捉えなおされている。
ぼんやりとではなく、はっきりと新しい時代が来たのだ。
ひとつの時代が終わった。あれは、わたしたちが実物を愛して遊んだ時代だった。
***
それにしても、失意や沈み込む気持ちがまるで起こらない。
なぜだろうか、単純に大気が春だからだろうか。
今や僕は純然たるretroになり、ロートルを自覚せねばならなくなった。
しかし何の騒がしさもない。
ここに至るまで、精一杯、悪あがきはしたからだろうか。
もともと、大きな流れに抗して、孤軍奮闘したところで、大局的な逆転はありえないので、それを承知の上で悪あがきをしていた。
悪あがきをしたまま、ひとつの時代が終わったので、後ろ暗いところがなく、「あ、もういいのか」と、今は気楽な気持ちに満たされている。
いやあ、悪あがきしたものな……
ささやかだが、幾人かには目撃してもらえたと思う。
僕の悪あがきを、ではなく、ひとつの時代が終わるところを。
ひとつの時代が終わるところを、目撃しながら終えていくことができたのだったら、結果は同じだったとしても、胸糞の悪さを覚えずに済む。
しかも最期まで悪あがきを添えながら、そのときを過ごすことができたのだから、まあ、本懐というしかない。
今はもう新しい時代に生きるしかない。
僕はもう、更新もされないので、この先も同じだが、それでも生きていくのは新しい時代だ。
古い時代のものを、新しい時代に持ち込んで、「温故知新を」などという、さもしい気持ちは僕にはない。
終わったのだ。
古い時代の、人のやり方を教えてくれと頼まれても、それを取り入れるからとかいう話はごめんこうむる。
新しい時代の人間は、古い時代のやり方に、学ぶべきではない。
二ヶ月前までは、学ぶべきだったが、今はもう学ぶべきではない。(現在、二〇一五年の二月下旬)
絶滅危惧種は、最大限大切にすべきだが、絶滅種は、もう大切にしようがないのだ。
絶滅種は、標本にされて、博物館で眺められるだけだ。
あ、あと、そうだ。
あのとき土壇場で、悪あがきが、最期の最期、僕に与えた恩恵は巨大なものだった。
とんでもないものを得てしまった。
これは、ひとつの時代が終わる際(きわ)に、最期まで悪あがきをしていた僕に、時代がプレゼントしてくれたみやげ物だった。
この先僕が、retroの生きものとして生きてゆくのに、必要だと思われるものを、根こそぎ与えていってくれた。
古い時代が、なくなってしまっても、これだけあればあなたは生きていけるでしょう、と言えるだけのものを、十分すぎるほど与えていってくれた。
正直、ゲンキンな話だが、そのせいで、僕はごきげんなのかもしれない。
実物を愛して遊んだ時代、そこに生きた人間である最大の証拠を、僕に残していってくれた。
これのおかげで僕は、今この新しい時代に、媚を売っていかなくて済む。
イメージ! イメージ! イメージああ! ということを、やっていかずに済むのだ。
その一点だけを見て、正直、「ああ良かった」と思っているのだから、僕は根本的に自己中心的で利己主義者だ。
大切な時代の終焉に、自分だけ「良かった」と思っているのだから、だいたい器量の知れたものだ。
少し前のこと、ある女性が、
「人が冷たすぎて、話にならないのよ」
と嘆いたことがある。
そのとおり、イメージには熱はないし、温度もない。
熱や温度があるのは実物だけだ。「あたたかい」と感じうるのは実物との接触だけだ。
イメージには熱などない。あたたかそうなイメージにぬくもりはないし、かといって、冷たそうなイメージにも冷涼はない。
あるいは、眼差しの鋭さやうつくしさについて。
実物を見るわけではないので、「目」というのも、その意味では重要でなくなった。
重要でない目、実物を見るわけでもない目は、その眼差しを鋭くしたり、うつくしくしたりすることがもうない。
別に目だけではなく、知能や脳そのものの話だ。
実物を知らなくてはいけないわけではないので、知能は鋭くなるはずがないし、脳はうつくしいはたらきを持つようにはならない。
実物に触れて実物を知らなくてはならないわけではないので、手のひらや肌の感覚、あるいは味覚や嗅覚が、物事を鋭く感じ取る、なんてことはもうなくていいのだ。
知能や脳、あるいは五感のすべては、「イメージ」を拾って確認するためだけのもので、その実物を知ったり感じたりする必要はもうないのだから、鋭くなる必要はないし、うつくしく豊かな機能を具える必要はもうないのだ。
結果、新しい時代は、
・人間が冷たく、温度がなく
・眼差しがぼやけており
・どうも根本的に頭が悪いと感じられ
・感覚や感性が貧しい
という人間に満たされてゆく時代になる。
そしてこれは、この新しい時代において、何も悪いことではないのだ。
こういったことの劣等が「悪い」とされていたのは、終わった過去の時代であって、それは過去が実物を愛して遊ぶ時代だったからに過ぎない。
実物を愛して遊ぶ時代には、人間の実物のぬくもりや、それを見るための明瞭な眼差し、人を知っていくための奥行きある知能と、人とふれあい感じ取っていく生身の感性が必要だった。
そしてそれは、しんどいことでもあったのだ。人間として、生きものとして、エネルギーを要することでもあった。
そのことが、もうやらずに済むようになり、ラクになったのだ。
それが、実物本位制廃止のメリットだ。
金本位制の廃止と同じく、大きなメリットがなければ、そのような廃止は行われない。
金本位制の廃止によって、黄金実物を取り扱うことの面倒くささから逃れえたように、実物本位制の廃止によって、人間は人間実物を取り扱うことの面倒くささから逃れられるようになった。
(事実、今ここに書かれてある文章だって、イメージとして受け取りながら読むならラクだが、実物として受け取りながら読むならかなりエネルギーが要る)
今現在、実物がどうのこうのと言う輩があれば、それは財布の代わりに金塊を脇に抱えて歩いているような愚か者だ。
それで、買い物のひとつでもできればまだマシなのだが、もう金本位制ではないのだから、金塊では商品を買うことができず、彼のやっていることはまるで無価値になる。
(昔は換金というと銀行券を金貨に換えることだったが、今は換金というと金塊を売却して銀行券に換えることを言う)
時代が実物本位制だったとき、たとえば、恋人同士が喧嘩して、男が女に謝るにしても、
・謝罪には真剣な謝罪実物としての温度が必要だったし
・女は男の謝罪を、実物として鋭く見なくてはならなかったし
・男は自分が謝罪へ至る筋道と理念を全域で把握できていなければならなかったし
・女は男の姿と声がどのように心を反映しているかを生身で感じ取らねばならなかった
こうして、いちいちがしんどかったのだ。
それが今は、「すごく真剣な謝罪っぽいイメージ」を端末のメッセージと絵文字で送れば、それこそが「真剣な謝罪」だと認められるようになっている。
これは、ラクだ。
謝る側もラクでいいし、謝られる側もラクでいい。
優れた雛形を見つけてきて、コピー・アンド・ペーストで用いることができるという大きな利便もあるから、さらにラクだ。
なお、そうした謝罪や、「付き合ってください」というような告白は、実物としての人間が目の前にいないほうがよい場合が多い。
物理的に実物があると、イメージが邪魔されるからだ。
今、この新しい時代において、実物とはすでに「イメージの運搬者」でしかない。
通信でイメージを送信できる場合は実物は付属しないほうがよいのだ。
宅急便の業者が、玄関の土間に立ったままでは、大切な貨物は開封しづらく、「早く出て行ってくれ」と感じられるように、「イメージの運搬車」でしかない実物本人は、なるべくその場にいないか、いるにしても存在感を処理してあるほうがいい。
「実物」とはすでに、革命によって討ち滅ぼされた旧王朝でしかない。
かつては世界の中心だったが、今は見向きもされないどころか、唾を吐かれる、世界で最もみじめな存在になった。
今はまだ、新しい時代が始まったばかりだから、「実物」にはかつての重要だったものの名残があるが、すでに名残でしかないので、そのうち消える。
事実としては、すでに滅ぼされた死に体なので、これから急速に死に体化は進んでいくし、今このときこそ、その死に体への変貌が目撃されているだろう。
具体的に目撃するものとして、
・あれ? この人ってこんなに冷たかったっけ
・あれ? この人ってこんなにボヤけた目つきだったっけ
・あれ? この人ってこんなに頭の悪い感じだっけ
・あれ? この人ってこんなに感覚のにぶい人だったっけ
という目撃体験が今あるはず。「彼」という人間が実物性を失っていく様の目撃だ。
あるいは、
・あれ? わたしってこんなに冷たかったっけ
・あれ? わたしってこんなにボヤけた目つきだったっけ
・あれ? わたしってこんなに頭の悪い感じだっけ
・あれ? わたしってこんなに感覚のにぶい人だったっけ
という、自己目撃体験もあるかもしれない。「わたし」という人間が実物性を失っていく様の自己目撃だ。
これは、過渡期の直後、新しい時代の黎明の証拠として起こる目撃体験だ。
意外と希少な体験かもしれない。
ひとつの時代が終わり、今後、これを逆行する目撃は体験されないだろう。
すなわち、
・あれ? この人ってこんなに温かかったっけ
・あれ? この人ってこんなに鋭い眼差しだったっけ
・あれ? この人ってこんなに知能に奥行きがあったっけ
・あれ? この人ってこんなに感覚が生身な人だったっけ
という、これらの目撃体験はもう得られない。
誰しも、周囲を見渡してみれば、こちらの目撃例は「無い」ということが改めて発見されるはずだ。
この発見は、確認しておく値打ちがある。
ひとつの時代が終わったのだ。逆行はもうない。
ひとつの時代が終わったとき、混乱期があるだろうから、その混乱を収束させるのに、これらの認知は役に立つだろう。
新しい時代が来たのであって、何かが不可逆的に「悪くなった」ということではない。
人間は、これらの能力を失ったのではなく、これら「実物に係る能力」を、すでに不要として手放すことに成功したのだ。
よって、これらの能力の喪失は、この新しい時代において、無能化したという扱いにはならない。
今はイメージの時代だ。
この新しい時代における「無能」とは、イメージの膨らましに力がないことを言う。
逆に、イメージへの執着、「このイメージにそこまでこだわるか」というような猛烈さ、およびイメージの膨らましと見せびらかしに徹底した強固さと独自性を持てる人間が、この新時代の「有能者」だ。
現在すでに、親が子を名付けるのに「キラキラネーム」を与えるのが普通化している。
それは、新時代のスタンダードであって、然るべきイメージのない名前をつけることは、この時代にそぐわない。
役所の相談窓口は、近いうち、
「もっと、イメージのある名前のほうが」
と勧めるように変わるだろう。
子供は、母親が、自分をイメージで見ていることを早いうちに察するだろうし、また母親が、書いてあることの内容を把握しないまま、イメージだけで絵本を読んでいるということを、その柔軟な脳で受け取っていくだろう。
生きていくということは、また自分が存在するということは、つまり「イメージをどうやるか」なのだ! と、早いうちに汲み取っていくことができるだろう。
ひとつの時代が終わって、奇妙に佳い風が吹いている。
(あ、春一番だろうか?)
僕は、落伍(ドロップアウト)してしまったので、何も変わらないが、結果的に残るのは、僕から新時代の人へのアドバイスは、ゼロになってしまった、ということだ。
イメージの時代なのだが、僕にはこの「イメージ」を上手にやるノウハウがまるでない。
センスがないのだ。僕は自分の演出がどういうイメージに受け取られるかという管理やテクニックをまるでやってこなかった。
はっきりとした落第生になったわけだが、それで、人に何かアドバイスをする義務どころか権利さえ失ったので、
「あ、気楽になったな」
とよろこんでいる。
これが僕の心境を軽やかにしているのだろう。
さすがに、ここまで完全な役立たずになるつもりではなかったのだが、ここまでくると逆に「いいや」と、吹っ切るつもりがなくても勝手に吹っ切れてしまう。
イメージの時代か……
少し考えてみたが、やはり、
「すごいあたたかいっぽい」
「すごい眼差しが鋭いっぽい」
「すごい頭が良いっぽい」
「すごい感性が鋭敏っぽい」
みたいなことは、僕にはやれそうにない。
イメージを膨らますやり方を、まるで知らないので、今度は逆に、初めから悪あがきの意志がゼロだ。
これから僕はどうしていくべきか?
そのことについては、いっそ逆に、明らかすぎるほどに明らかになってしまった。
何しろ、先の時代の終わりぎわ、巨大すぎるギフトをもらってしまったのでもある。
そして何より、今この新しい時代において、僕に何をしろと口出ししてくる人はありようがない。このことがすばらしく気分がいい。
イメージの時代において、僕は無能どころか「不能者」なのだから、誰も不能者に向けて、何をしろとも言ってこないはずだ。
こうして、自分の世界を確約されるのも、異常な広さのスイートルームを与えられたようで、どきまぎしてしまう。
ただ、幸福なのは間違いない。
やはり、こうして生きろ、ということか。
なりたいような自分に、100%なったわけだが、こうしてなりたい自分に100%なるというケースは、一般論としてものすごく少ないのではないだろうか。
先の時代の末、悪あがきしていたときは、絶望が迫ってくるのに、舌を出して銃撃し続けていたものだが、こうなってしまうと、絶望なんてどこにもない。
希望を死守する、と、あのときは銃撃していたのだが、今このようになって、僕には絶望などまるでなく、こうなると、別に希望もわざわざ要らない。
こうして、「自分はなりたい自分へ100%なったのだし、何をすればいいかわかりきったのだから、別に希望とかどうでもいいや」と急に投げやりになる人のことを、自己中心的とか利己主義とかいうのだ。
しかし、こんな異常な広さのスイートルームを与えられてしまったら、利己主義になるなというほうに無理があるんじゃないか?
すくなくとも僕の器量では無理だ。
今年の春はどうなってしまうのだろう。
幸福の予感が、想像しうるレベルを越えているので、甘い恐怖が走る。幸福で人格が破壊されることなどないと信じながら、それでも、少々心の準備をしてしまうのだった。
***
ひとつの時代が終わり、イメージの時代がやってきて、僕は置いてきぼりになった。
これから僕の営為は、ことごとく、人に誤解を与えることのみになる。
人に誤解を与えることが僕の営為だ、ということになるだろう。
誤解を与え、誤解によって、人がゲロを吐いてしまう。
そんなことに利益はないが、それが僕の実存なので、僕はそのようにするしかない。
僕は取り残されて、実物本位制のままでいる。
だから僕は実物を示していくよりないが、先に述べたように、実物には"臭気"がある。
そんなことは、他者からは知りようがないので、新しい時代の他者は、僕に「すごくぽいもの」を探すだろう。
そして、僕は実物を示し続け、誰かはそこに「すごくぽいもの」のイメージを勝手に見つけて持ち帰ることになる。これが「誤解」だ。この誤解は修正されない。
そして、"臭気"を浴びているので、気持ち悪くなり、ゲロを吐いてしまう。
そのときは、ゲロを吐きながら、ゲロを吐く理由が自分でもわからないので、ますます「気持ち悪い」という怖気(おぞけ)が動かしがたいものになるだろう。
たとえて言うならこうだ。
僕が「おばけ屋敷」を示すとする。
誰かは興味をもって、「おばけ屋敷」を覗いていってくれるだろう。
が、興味をもってくれた人は、大前提として、「すごくおばけっぽいもの」が演出によって示される、と思い込んでいる。
僕が「おばけ屋敷」を示すとすれば、そこには必ず本物のおばけ、おばけの実物が出現するのだが、まさかそんなことは想定もされない。
それで、おばけ屋敷を覗きに入った人は、「キャー」といってよろこんでくれるだろう。
できれば、「すごく迫力あった」などと言われてみたい。
彼女はそうして、よろこんでくれるのだが、「キャー」と遊んだ対象は、なにせ本物の、実物のおばけだ。おばけのイメージを意識して作り上げたギミックではない。
そしておばけの実物には"臭気"がある。
それで、よろこんでくれたはずが、彼女は帰宅してからゲロを吐くことになるだろう。
体調を悪くするかもしれない。
僕のほうは、「だから、おばけ屋敷って書いてあっただろ」としか言えない。
誤解は修正されない。
もし、本物のおばけ、実物のおばけが「出ます」ということが先にわかるなら、そんなおばけ屋敷に誰が入るものか。
おばけの実物と、「すごくおばけっぽいもの」との間で、僕と彼女はまったく別のことをしているのだが、そこに起こる誤解は修正されない。
彼女は、実物のおばけを見て、おばけのイメージを膨らまして帰ったのだが、その身にはイメージの無垢性にあってはならないはずの、"臭気"がまとわりついたままだ。だからゲロを吐く。
こんなことに、何の利益があるわけでもないし、別に僕だってゲロを吐かせる意図はないのだが、結果的にそうなる。
この結果そのものは、僕には正直どうでもよくて、ただ僕が僕のまま存在していれば、人々はゲロを吐いてしまう、というだけだ。
これ以上、訂正箇所もないし、修正箇所もないし、改善箇所もない。
なんと迷惑な奴だ、と自分でも思うが、僕は性格的に、そんなことで怯んだりするタイプではないし……
そこのところが、結局一番、たちが悪いのかもしれない。
あるいはたとえば、人間誰しも「自分はいつか死ぬ」ということを知っているが、その自己の死をイメージとして描くぶんには、イメージの無垢性によって、臭気は起こらない。
だが、実物の死がやってくるとき、誰だってその濃密な臭気に中てられて、ゲロぐらい吐くだろう。
ゲロを吐くということは、とてもいやなものだし、とてもイヤなものだからこそゲロを吐いてしまうのだから、イヤなものは絶対イヤで、なんとしても最期まで「イメージ」で生きぬこうとするだろう。
それがどういうものなのか、成功するものなのかどうか、僕は知らないし、僕にはわからない。
この新しい時代は、そうしたことまで含めて、全てについて「イメージをやる」ということに努め、どういうイメージのやりようがあるか、新しい発明と発見をしていくだろう。
落ち込むイメージの人に、励ますイメージの人が寄り添って、数十年が経ったのち、「どうなる?」のか、それは新時代の興味と注目の的になる。
僕はそのとき、もう見ていないだろう。おそらくまったく別のことをしている。
本当は、僕だって、より多くの人と、大勢で、一緒に、実物を愛して遊んでゆきたかった、という気持ちがある。
が、そうはならなかったし……そうはならなかったことについて、無念、というほどの気持ちは起こらない。
なぜそういった気持ちが起こらないのかは、結局僕にもよくわからない。
ただきっと、ひとつの時代が終わる際(きわ)に、巨大なギフトを得たことと関係している。
突如異常な広さのスイートルームを与えられて、どぎまぎしていることとも関係している。
(中断)
今、ふと、とんでもないことに気づいた。
先日のことを思い出すと、こういうことがあった。
僕が話した女性六人のうち、三人が泣いている。
それだけではない。
振り返ってみれば、僕がこのところ親身に話した女性で、泣いていない女性のほうが断然少ない。
親身に話した女性は、ほとんど全員が泣いていると言える。
やはりこんなことは普通ではない。
いつの間にか、麻痺して気づいていなかったが、よく見たらこれはとんでもないことだ。
きっと、涙とゲロは似ているのだろう。涙は、なぜかわからずあふれてくるものだし、ゲロだって、なぜかわからないが気持ち悪くなってオエッと吐いてしまうものだ。
きっと、女性は、安心できる状況なら、泣いてしまうし、逆に不安な状況なら、涙でなく、ゲロを吐いてしまう。
以前のコラムで、
――先日、吐き気がした、と言ってもらえる機会があった。
ということを書いた。
それからのち、また、「ゲロ吐きそうになった」と言ってもらえる機会があった。
それはそれとして、「六人がいて三人が泣いた」というのも本当だし、そのことは全員が目撃もしていたし、もはやそういう光景についても、誰もが「ああ」としか思わなくなった。当たり前になってしまっている。
麻痺しているが、こんなことはやはり普通ではない。
僕自身、赤の他人については、街中で泣いている女性を見かけることはごく少ないのだから、僕が僕の周りをおかしくしているのだ。
僕が話しても泣くし、僕が文章を書いて示しても泣くし、僕が触れても泣くし、何なら僕が「動いた」だけでも泣く。それを事実、目の前で見てきた。
この話に、何も冗談や誇張は含まれていないのだから、異常だ。
ゲロを吐くほうも同じだろう。僕の目の前で吐くわけではないので確認はできないが。
僕が話してもゲロを吐くし、僕が文章を書いて示してもゲロを吐くし、僕が触れてもゲロを吐くし、何なら僕が「動いた」だけでもゲロを吐くのだろう。
もはやどうでもよくなってくるが、少なくとも、こんな状態は普通ではない。
「普通」というと、普通の男性は、生涯で、女性の涙に平均何回ぐらい出くわすものなのだろうか?
僕自身は、今さら数えようがないが、たぶん、ゆうに三桁には到達しているはずだ。
僕は僕自身に会うことはないし、僕は僕自身を見ることはできないので、僕の目の前で女性がなぜ泣くのか、結局ずっとわからないままだ。
誰か機会があれば、なぜ泣くのか、ざっくりとでいいから教えてほしい。
ひとつの時代が終わる間際、僕は涙ぐましいレジスタンスの活動をした。
悪あがきだ。
「実物だ、実物に決まっている、おれもお前も実物なんだ、実物を愛して遊ぶしかないに決まっている」
と、信念を定めて、迫りくる新しい時代を「絶望」呼ばわりして、「屈服するかよハハハ」と舌を出し、銃撃を続けていた。
今思えば、なんともかわいらしい抵抗ではある。
笑うべきではない、が、当の僕が、そのかわいらしさに笑わずにいられない。
ひとつの時代が終わる、その間際、僕は抵抗活動をしていたし、抵抗活動をしているうちに、その時代は終わった。
そのとき、僕は急に巨大なプレゼントをもらい、
「えっ、なんで?」
と困惑しているうちに、気づいたら時代は終わってしまっていた。
実物の王朝は、イメージの市民に打倒され、イメージ革命が成立し、実物本位制は崩壊したのだ。
それで、旧王朝は「過去形」になってしまった。
そのとき、僕は最後までしがみついていたので、僕自身も、一緒に「過去形」になってしまった。
ところがだ。
ご存知のとおり、英語の仮定法文法においては、架空の仮定を語るのにも「過去形」の動詞を使う。
架空の仮定とは、つまり「フィクション」のことだが、なぜフィクションを語るのに、英語は「過去形」の動詞を使うのだろう。
それは、「過去」というものの捉え方について、「現在から遠いもの」という捉え方をしているからだ。
「現在から遠いもの」ということでいえば、確かにフィクションも現在の現実から遠いものだ。
だから、過去のことは過去形で表現するし、仮定のフィクションのことも、過去形で表現するのだ。
似たようなことは日本にもある。文法の形ではないが、
「むかーし、むかし」
と語り始めたとき、これはフィクションのお話ですよ、ということの合図になる。
詩人はとっくに看破しているし、哲学者でも科学者でも自動的に気づくことだが、人間にとって「過去」と「フィクション」を分別する決定的な方法はない。
飛鳥時代に聖徳太子がいました、ということを、ノンフィクションだ、と証明する手段は結局ない。
昨日オムレツを食べました、ということも、記憶と状況証拠が確からしいというだけで、それがノンフィクションだということを証明する本当の数学的な手段は存在しない。
哲学風味にしたくないので、深入りは避けるが、つまりどう考えたって、「過去はフィクションのひとつ」なのだ。
事実、自分の子供のころの記憶など、どこまでが本当の過去の記憶で、どこまでが自分で創造したフィクションなのか、わかりやしない。
それで、話を戻すと、僕は実物本位制の王朝が斃れるとき、最期までそこにしがみついてしまった。
打倒された王朝が過去形になるのに、くっついていってしまい、一緒に僕も過去形になってしまった。
それは独特の感触だった。
「過去はフィクションのひとつ」なのだから、僕は身ごと、フィクションになってしまった。
僕は、フィクションを追求してきた人間だ。
僕が、100%なりたい自分になれたというのは、そのことだ。
そして、そのときに、巨大なプレゼントがくっついてきた。
「えっ、なんで?」
と、急に、フィクションに係る能力が身についてしまった。
なぜそれが身についたのか、さすがに興味がある、などと思っているうちに、王朝はズシーンと斃れたので、「あ、終わった」となった。
気づくと僕は、巨大なプレゼントを与えられたまま、誰も邪魔されない異常な広さのスイートルームを、永劫のものとして与えられていた。
そして窓から春の風が吹き込んできている。
正直に言うと、「わ、わけがわからない」という心境なのだが、同時に、もうわけをわかっておく義務も義理もなくなったのだ。
だから、呆然とし、ときには恍惚とし、ときには「なんでこうなったんだ」と、憮然ともしている。
今、ちょうどそんな感じだ。
***
ここ一年半ぐらいに特に意欲的にした抵抗活動、「悪あがき」について、皮肉な結果が残ることになった。
僕は、来るべき新しい時代に、舌を出して否定しながら、
「みんな、ついてこい」
「みんな、追いついてこい」
「おれは実物だ、お前も実物だ、実物を愛して遊ぶ以外に何があるんだ?」
みたいなことをアジテートしていた。
ところが、抵抗活動をしながら、結局ひとつの時代が終わり、最終的に行き着いた結果は、どう見たって、
「僕が、みんなを大きく引き離した。やったあ」
みたいなことだった。
なんでやねん、と、さすがに俚言もこぼれてしまうところだ。
「ついてこい」と言っていた奴が、「引き離して」終わってどうする。
もちろん、ここには同時に、逆に見方が成立するのはわかっている。
僕が引き離したのではなく、僕が引き離されたのだ、という見方だ。
新しい時代が来て、世界はイメージの時代になった。
みんなが、そうしてイメージの時代へ飛び立ったのに、僕だけ落伍して取り残されたのだ、引き離されてかわいそうに、という見方も成立する。
まあ、それにしても、結果的に、「ついてこい」とほざいていた奴が、まるで逆のところに決着した、ということは間違いないのだ。
これは、皮肉というほかなくて、その皮肉さの当事者になってしまったことは、さすがに恥ずかしい。
それでも、別に誰も僕を責めはせず、笑って許してくれているのが、救われるところではあるけれども。
その点は、まったくありがたい。みんなやさしいものだ。
仁義として、この一年半に色濃くやった、抵抗活動、「悪あがき」について、総括というか、最終的な報告を、ここでする義務があるように感じている。
「悪あがき」の結果、誰が伸びたかというと、僕が伸びた。
(アホみたいな報告だがしょうがない)
僕は、僕を頼ってくれる誰かを、引っ張り上げよう、伸ばそう、と試みてきたのだが、結局伸びたのは自分だったし、他の人とはどうなったかというと、
「僕が大きく引き離した」
と言わざるを得ない。
差を大きく拡大したのだ。
どうしようもないが、これが誠実な報告だと思う。
僕の能力、「フィクションに係る能力」は、一年半前の僕とは比べ物にならないし、特に、最期に授かったギフトが決定打になった。それで、「100%なりたい自分」になれたのだから。
もうこの差は埋まらない。
もしこれが学校の先生だったら、これ以上のクソ教師はないだろう。
お前が伸びてどうする、という話だ。
本来、こういった長足の進歩、飛躍は、もっと若い人間が獲得すべきものだと思うが、僕がどう思おうと、結果的にこうなってしまったのだからしょうがない。
報告は以上だ。
一年半、思い返すと、いろいろ長かったかもしれない。
終わってみると、しんどかったけど、悪くなかったね。楽しかった。
と、自分が伸びたから、ごきげんに言えるだけだという、こういうのは、やはり教師でなくてもなかなかのクソ野郎だ。
ひとつの時代が終わって、悪あがきの抵抗活動も終わった。
抵抗活動を、やめたのではなかった。食い下がった。それでも時代は終わっていった。
それは時代のせいであって、おれらが投げ出したわけじゃない。
と、そのことを、一生言い続けてやろう。そうするだけの権利はあるだろうからな。
***
実存感覚上に、「異常な広さのスイートルーム」が与えられている。
その中に座っていて思うのだが、これはどう考えても、つまり「特権階級になってしまった」ということだ。
特権階級というものは、生まれつきか、もしくはある日突然「えっ、なんで?」と言っている間になるもので、じわじわ到達するものではないらしい。
もともと、そうなることを目指していたのだから、お祝いぐらいすればよいはずなのだが、実際にスイートルームの真ん中に座らされると、まったくそういうムードではなくなってしまう。
なんというか、大学入試試験が終わり、合格して、「もう受験勉強しなくていいのか」と、部屋の真ん中に座っているときに似ている。
高学歴というのも、一応ひとつの特権階級だろう。少年は、その特権階級になることを目指して頑張ってきた。それで、無事合格することができた。
これも、少年にとっては、ひとつの時代が終わった、ということになるだろう。そして、合格おめでとう、やったじゃん、ということになるのだが、「好きなだけテレビゲームしてよろしい」というその部屋の中に、どうも所在なく座らされている。
少年は気楽になったのだが、その「気楽」というやつが久しぶりすぎて、馴染み方が思い出せないのだ。
そういったことの、よりもっと露骨なものの中に、今僕は座らされている。
特権階級か……
「特権階級」という語には魅惑的な響きがある。
が、それこそ、それが「イメージ」としてあるうちは、キャアキャア言えそうなものだが、実物として手にしてしまうと、なんというか、リアルすぎる。
特権階級というのは、それなりに背負ってしまうもので、背負ってしまうと、なかなかわずらわしいものだ。
平民階級の人間は、特権階級の人間に興味があるので、特権階級とはどのようなものなのかと、質問攻めにするだろうが、その回答は結局、
「あなたがた平民には、わからないですよ」
ということに結ばれざるを得ない。
平民階級ではわからないことに埋め尽くされている階層を、特権階級と呼ぶのだから。
たぶん、特権階級の人というのは、心が狭くないので、もし平民を特権階級へ引き上げてやれるものなら、力を尽くしてでもそのようにはたらきかけているはずだ。
が、平民を特権階級に引き上げても、平民は平民のままなのだ。
当たり前のことではある。
平民は、そんなこと知らないし、知りえないので、目がキラキラしたままだ。
物悲しさを背負うのは特権階級のほうである。
突然こんなことになって、どうすればよいものやら、その点では本当に途方に暮れている。
僕自身がやることについては、何の靄もなく明瞭なのだが、僕は一人で生きているわけではないし、僕ではない誰かのことを考えると、そこは途方に暮れてしまう。
「特権階級」という言葉を振り回して話しているが、この話はいやらしく聞こえているだろうか。
たぶんそんなことはないと思う。
僕は、「特権階級」ということの、イメージを振り回しているのではないからだ。
まあ、そんなことはどうでもいいが、少なくとも、僕の身近にいてくれる人たちについてはだ。
もう、僕のことを、「特権階級の人だから」と、切り離して考えてもらうほうがいい。そのほうが、万事につじつまが合うし、理解に誤認が少なくて済むだろう。
そこのところのストレスは減らそう。
もはや、僕とあなたを同じ階級の土台においてやりとりすることは、つじつまの合わなさのストレスしか生まない。
そんなことをして、お互いに嫌気を差すようなことになったら、不本意だ。
僕は別に誰のことも嫌いではないし、特権階級というのは、平民階級をバカにするとか下に見るとかする、そういう層のことを言うのではないのだから。
ここで言っている「特権階級」というのは、もちろん「シーチキンマヨネーズは食べません」とかいう層のことではなく、「実物に係る能力/フィクションに係る能力」が、趣味ではなく100%のラインへ到達している層のことだ。
そういえば、このことを説明するのを忘れていた。
簡単なことだ。
「実物に係る能力」と「フィクションに係る能力」は、同一の能力のことを指している。
理論的には「想像力」がそれに当たるが、この「想像力」を説明するのは難しいし、説明しても確実に誤解されるし(空想と想像の区別が厄介で)、説明は想像力論の権威にすでに書かれてあるので、ここでは「想像力」という言葉は用いずに進めよう。
これは簡単な話で、
「もしフィクションに実物性が無かったら、そりゃただの"ウソ"じゃないか」
というだけのことだ。
フィクションと実体験が数学的に分離不可能である話は先ほど示した。
より簡単な言い方をしようか。
誰でも知るとおり、「フィクションには実物が示されるから値打ちがある」のであって、もし実物の示されないフィクションがあるとすれば、それは深夜に放映される悲惨な演技力のテレビドラマのようなものになる。
テレビドラマがフィクションなのは当たり前だが、そんなことより先に「何これ」「この人たち何やってんの?」という、ただのウソのまき散らしにしか見えなくなる。
これ以上の説明はさすがに長引くので世阿弥でも読んでくれ。
フィクションが値打ちあるフィクションになるためには、フィクションの中に実物が現される必要がある。だから、フィクションにこそ「実物に係る能力」が要るのであって、それが値打ちあるフィクションを作る能力なのだから、それは同時に「フィクョンに係る能力」でもある。
「刑事コロンボ」は、絶対にフィクションのはずなのだが、見ているぶんにはどう見ても実物にしか見えない。そして、あんな実物のコロンボ警部を作れるのはピーターフォークしかいなかった。
と、そういったあたりのことだ。
フィクションは実物性とこそつながっているということを、日本でも昔から「虚実皮膜」とか言ったりする。「虚にして虚にあらず、実にして実にあらず」と。
だから、ここで特権階級と言っているのは、名づけるならば「虚実特権」と呼ぶべきようなものだ。
実物に係る能力が100%へ到達すると、それはそのままフィクションに係る能力へ開通するのだ。
その対極が、「イメージに係る能力」になる。
なぜ根本的には「ウソ」であるはずのフィクションが、実物性へと接続するかというと、「フィクションを人間実物が受け取る」からだ。作品だけ見ればフィクションはウソだが、それを人間という実物が受け取ることで事象は実物性へ接続する。
話が逸れてしまった。
とにかくだ。
特権階級に、なってしまったものはしょうがない。
突然、「えっ、なんで?」と、戸惑っていたら、そのまま異常な広さのスイートルームに放りこまれたのだ。
そんなことをされたら、「あ、そういうことか……」と、いやがおうにも、状況を理解せざるをえないだろう。
「特権階級」は、ただ特権階級だというだけで、偉いというわけではない。
ただ、特権階級は特権階級だと、認めてもらえれば、余計なストレスが生じなくて済むだろう。
そして、醜いシーンも引き起こさずに済む。
平民が必死に特権階級と対等ぶろうとするシーンは、どうしても醜いのだ。
経験上、うつくしい人ほど、
「あなたに勝てるわけがないもの」
と、そのことをよろこんで言っていたように思う。
別に、美人は必ず特権階級のはず、ということはない。
同じ人間なのだから、階級は美人どうこうに関係がない。
このことには、断言できる、非常に身近な証拠がある。
僕は別に、イケメンでも何でもないのだ。だから、特権階級と眉目秀麗は関係がない。
***
それにしても、事実、僕たちの前には、健全な人々の笑顔があるのだ。
本当に楽しそうにしている高校生たちや、これからお楽しみの行楽に出かける家族、あるいはすごく仲良く上手くやっているカップルたちだってあるだろう。
それでも、そのかわいらしさだけに納まるだけのことは、僕の目指して求めていたところではなかった。
残念だ。
僕はもうひとつの世界を見ていた。「こうもなりうる」という、静かな熱と活力の世界。
笑顔が飛び交う前に、お互いが、それぞれが、胸に突き刺さりあっていく世界。
それでも誰もたじろがない世界だ。
実物には「臭気」があるから、そこには人間の情動を無限に揺さぶるガスが立ち込めている。
色とりどりのガスだ。鼻の穴の右からは赤く、左からは黄緑色が吸い込まれる。
どちらもたちの悪いガスだ。
すべての女が、自分よりはるかに大切な恋人に見えるし、それだけならまだしも、世界に時間はここにしか流れていないように感じられてくる。
「自分の生きるのはここだから」と、そこで死ねたらうれしくて泣いてしまうだろうという、その涙を実は必死にこらえている。
「おれはここで働いているんじゃない。お前らが来るからだろ。お前らが来て、お前らがここでメシを食うんだろ?」
誰も笑わない。
ショートパンツの女の子が立ち上がってハンカチで涙を拭いてやる。
新しくここに来た、初対面の女の子だ。
バン! と音が鳴って、忘れていた! 照明が落ちた。舞台のベリーダンスが始まった。暗闇で唇が飛びかかってきてキスをした。誰の唇はわからなかった。首に絡みついた腕はやさしかった。
舞台上のベリーダンスは、見えないが、うっすら、暗闇に女の描線がくねっているのだけが見える。
うーむ、残念。
「もうひとつの世界」は死産に終わった。
多勢に無勢というのは本当にどうしようもないものだな。
まあ、こんなもの、孤軍奮闘して大局が覆るわけがなかったので、初めからその点は諦めていた。
ただ、まさに「悪あがき」をしないと、僕はこの時代の終わりを、堂々と受け止められなかっただろうから、滑稽劇を承知で、最期まで粘った。
そのことに、付き合ってくれた人もたくさんいた。
元々勝機ゼロの抵抗活動に付き合わせたのだから、申し訳ないことだ。
とはいえ、それがまるきり「不毛」だったとは思えない。
人間にとって、「あのとき何かした」という記憶が、生のうちに残るのは、無価値なことではないだろう。
自慢できる美談なんか残っていないが、それでも、筋を通すべきところで、筋を通したと自分自身言えることは、その先の時間のためにも、重要なことだと思う。
ひとつの時代が終わって……
考えるべきことはがぜん少なくなった。
おしゃれと雰囲気がある意味「ひどい」と感じられる男性とすれ違うとき、僕は友人に、
「あいつは、生まれてこの方、自分の髪型にしか興味を持ってこなかった」
などと表現を工夫して教えた。笑わせていただけだが。
こういったことについて、がんばって考えを巡らせる必要は、もうなくなった。
イメージの時代だ。
新しい時代、主権はイメージにある。
これまでは、たとえば友達というと、「友達っぽいだけ」という状態には、誰もが内心で引け目を覚えていた。心の内に寒さを覚えていた。せっかくそうして、みんなが「友達っぽく」してくれているのに、それを無下にはしたくなかったが、それでも心が寒かった。どうしたらいいかはわからなかった。
これからは、そうして胸の痛みを覚えるような悲しさを、抱えてゆかずに済む。
「すごい友達っぽい」というイメージの成就が、そのまま体験の成就だからだ。
この時代、そこには後ろ暗さがない。
どうするかだが、いいじゃないか、どうせ新しい時代が来たなら、いっそアクセルを踏んでしまえ。
僕も、偽名か何かを使って、遊びにいこうかな。
イメージの時代へ。
「お前らに、こんなイメージがやれるか? ハッ」
と見せつけ合い、競い合う時代だ。
逆に、僕に最も足りていなかったものを、ふんだんに与えてくれる時代になるかもしれない。
当然、誰しも、自己のイメージ戦略が必要になってくるし、それに合わせた演出にも長けていかねばならない。
より高みを目指すには、ブッとんだアイディアが必要になってくるだろう。
ナマケモノのように、異様にゆっくり動作してみようかな。
生活の全てで、そういう演出をしていく。
誰に見られていないときでも、なるべく、演出を手抜きしてはいけない。
それぐらいしていかないと、「イメージをやる」ということは完成しないだろう。
その上で、際立ったキラキラネームは特に有効なはずなので、これから先、キラキラネームにしたいということで役所に改名の相談する人も増えてくるかもしれない。
みんな、どんなイメージをやる?
パパはグッド・パパのイメージをやる、ママはグッド・ママのイメージをやる。娘は、クール・クワイエットのイメージをやるかもしれない。弟は、スポーツ・スマイルのイメージをやるだろうか。
大丈夫だ、新しい時代が来たのだから、誰もその演出の邪魔はしない。
遊びに行ってみよう、という気持ちがぐんぐん湧いてくるな。
どうせ遊ぶなら、乗り遅れたら損だ。
僕は暗くなる趣味は持っていないし、気質的に、もともと暗くはならないたちだ。
新しい時代が来て、その新しい時代を、悪く言うという発想も僕にはない。
ただ、まあ、こちらイメージに係る能力のほうを、100%になってやれ、ということは、僕には目指せないし、実現などできようがない。
せいぜい遊ぶだけだ。遊ぶことは軽薄ではない。
人間はきっと、生きているうち、何かに100%にならなくてはならないのだろう。
僕は、その用事がもう済んでいるので、気楽だ。
この新しい時代に、イメージに100%になるということは、どういう有様のものなのか、まだ誰も詳しくは知らない。
「イメージに100%」、それはこの時代の、新しい特権階級だ。
[ひとつの時代が終わって/了]