No.326 いつか役立つ数式
以下に新しく唱える法則と、そこから導き出される証明は、素っ頓狂と思われて差し支えない。
・人は、傷つくと、「理解」を求めるようになる。[傷心理解求則]
・「理解」は「話」の正反対である。[理話不両立則]
・芸術は「話し続けること」であるから、[芸話無終始則]
・人は傷つくと芸術を営めない。[傷心無芸の証明]
・「芸術/話し続ける」を「理解者」に向けると「誤解」を副産する。[誤解芸術の証明]
「人は傷つくと"理解"を求める」ということは、経験上納得されようか。誰でも心当たりをさぐれば。
「理解」と「話」が反対極にあるということは……真に語り掛ける何かに触れたときに納得されようか。あるいは「理解」に疲弊させられたときに納得されようか。
芸術は「話し続けること」というのは、名人の噺家を聞けば納得されようか。あるいは、真の絵画が見れば見るほど「語りかけ続けている」、そのはたらきかけに看取されようか。
傷心理解希求、理話不両立、芸話無終始、これらの法則を認めたならば、「人は傷つくと芸術を営めない」という結論が容易に導き出される。人が傷つきやすい現代の状況において、芸術は創られやすいか。芸術の戦士は、指差され笑われたとき、傷つくだろうか、無視するだろうか、それともなお戦い抜くだろうか。
「話し続ける」を「理解者」に向けると「誤解」を副産する。「話」が「理解」の正反対にあるなら、「話」が理解されたように見えるとき、そこにあるのは「実は理解ならざる理解/誤解」であるはずだ。
わたしは先日、このように話した。自身の置かれた時代的状況について、
――これから僕の営為は、ことごとく、人に誤解を与えることのみになる。
このことと同時に、"フィクションに係る能力についての大規模なギフトも受けた"とも報告した。
わたしがなぜ、そのように「誤解」を迷いなく推せるか、その理由をここで証明に示せているはずだ。
傷つきやすい現代の環境に置かれた人たちへわたしが「話し続ける」ことが、なぜ「ことごとく人に誤解を与えるのみ」になりうるのか、そのことの証明手続きを示しておいた。
わたしが書き話すことへの、遠くとも親身な読み手に向けて、このことは改めての、よろこびの洗い直しになりえよう。むろんこうした数式ふうの証明手続きは、わたし自身の体験の後になって自然に舞い降りてきたものだ。こうしたとき、数学的証明の手続きというのは、まったくいつ舞い降りてきたのかわからず、気づけばすでに手元にある。公理とまで言い張る気概は持ち合わせていないにしても。
つづいて補足のような証明手続きが以下にある。これらのことも含めて、わたしは手元に証明済みのものとして置かねばならぬ。それはわたしが実地において生きていかねばならないからだ。
・ありとある「物」そのものは、「理解」の対象でないので、「話」である。よって万物は常に語り続けている。[万物語性の証明]
もし万物が語り続ける性質を保有していなかったとすれば、いわゆる自然の風光明媚など見物しにいく価値は無いことになる。そしてもし、万物が「理解」の対象であったとすれば、たとえ全盲の人間にでも風光明媚の景色は説明によって理解可能であるはずだ。これは事実に反するので、「物」そのものは理解の対象たりえない。理解の対象でないならば、「物」そのものが属するのは反対極の「話」である。
事実わたしは、いくつもの風景の中にあるとき、そこにある万物の集合について、「物語っているねえ!」とよろこんで繰り返し言うことがある。ここに、芸術的に鋭敏な踊り手がいたとして、もし「物」そのものが「物語る」はたらきかけを持たないのであれば、春の桜並木にも、秋のイチョウ並木にも、踊り手は完全に同じ踊りを表出するはずだ。しかし事実はそのようにならないし、そのようになるべきでないということを我々も直観する。
人間の芸術は、そうした万物の「物語る」ところに、調和して重ねるようにして営まれる。ときには、舞台上に作り上げたフィクション中に現出する「実物性」を、それこそを「物」そのものとして、その物語るところに調和して重ねて、たとえば作中世界を描き出すダンス・シーンが営まれる。こうして舞台全体が互いに「物語る」ところを相乗しあい、一つに結んで強め合っていくわけだ。
この先にも語るべきいくつかのことがあるが、そのことに先だって、まずはわたしからの、切実な願いを申し述べておきたい。これはなんらの公益性もなく、ただただ、わたしからありとあらゆる人へ、わたしに向けることとしてお願い申し上げることだ。
わたしが、「お話しかできない人」であることについて、お許しを願いたい。
先日書き話したところにあるとおり、わたしは或る体験のはざまで、フィクションに係る能力を自己の100%にする、という変化を得た。それはとりもなおさず、わたし自身の自己が「お話しかできない人間」になり果てたということだ。そのような人間が、いてもよいということ、あなたの目の前にいて、あなたに向けてそのように振る舞ってよいということを、あなたに許していただく必要がある。
もしそうでないなら……たとえば「お話しかできない人間などありえてはならない」として、数秒刻みにわたしに「理解」を求めるようなことがあれば、それはそのたびわたしに対する尋問になり、そのたびわたしは自己を偽装してあなたに振る舞わねばならなくなる。それはわたしにとって苦悶であり、それ以上に虚偽性において不毛なことだ。もちろんすべての時間をそうした虚偽と偽装なく生きてゆけるとは思わないけれど、できたらより多くの時間を。「お話しかできない人間」であることを許され、そのように過ごしておきたい。お話から離れて理解に沿うように振る舞わねばならない時間は、どのように器用にそれを見せても、そこにはわたしの自己はまったく参画しておらず、そこにあるのはわたしの形をしただけのただのハリボテだ。
芸術、などという言葉は、仮に言い当てはめる言葉がないために、そのように言っているのにすぎないが、その芸術が実地的には「話し続けること」でしかない以上、それを「ちょっと止めて」「はい、もう一度始めて」と寸断されるようなことは、アクロバティックすぎることで、不可能ではないにせよ、やりきれない痛みを伴っているのだ。その痛みが果てしなく続くでは、わたしはこのことをやってゆけない。永遠に痛みを無視してゆくことはできず、いつか、あるいはすぐにでも、「傷ついた」という自覚はやってきてしまうだろう。人は傷つくと芸術を営めない。
だから、わたしが「お話をする」しかできない人間であることを、桜木の幹にときたまあるウロのように、ただそういう「物」そのものなのだと、お許し願いたい。そのことさえ許されるなら、わたしはここまでに話したとおりのことを、ただそのとおりにあなたにお見せしてゆくことができるのであるから。
***
わたしの心身の感覚が、すでに迷妄に囚われているのではなかったとしたら、万物にせよ人の営むところの芸術にせよ、その「物語る」ところの感触は、「これ」とはっきり指差し、手で撫でられるところに存在する。それはいわゆる五感に捉えられる感覚を超えており、たとえば音楽といってもその物語るところの「これ」の感触は、すでに音でも何でもない。人間は、そうと習わなければ、音を音として認識しないのかもしれない。音楽はおよそジャンルごとに、たとえば「ポップな感じ」というようにイメージを印象付けられるように工夫されているが、この印象づけられるイメージは無論音楽の語り掛けてくるところの「これ」ではない。
今のところ、この「これ」をうまく名づける単語がない。五感を超えているので第六感と呼べばよいかというと、第六感という言葉はすでにおもちゃにされ汚れきっている。霊感という言葉も同様だ。インスピレーションという言葉は、きっと正しく当てはまっているのだろうが、なぜかインスピレーションといえば「瞬間的」なもので、刹那によぎるものだ、と勝手に思い込まれている。しかし「これ」は、ずっとそこに「これ」として常在するものだ。インスピレーションがずっとそこに在り続ける、ということは、一般に捉えられているところのイメージに齟齬するだろう。
せいぜい当てはまるように言うと「韻」ぐらいしかない。人間には、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚があり、もうひとつ、未だ科学的には言われない韻覚がある。韻覚によって「これ」感を捉える。それははっきりと「これ」とわかる確実な感覚である。
これは、五感になぞらえて第六感と呼ぶより、五感より根幹の階層にある、「原感」だと位置づけるほうが正しいと思われる。原感を捉えているとき、人間はほとんど五感のことをないがしろにしている。それによって、音楽が原感で捉えられているとき、それはほとんど音やメロディやリズムといったふうに聞こえない。無論、音楽のジャンル・イメージも捉えられていない。
ただ、人間がもし五感のすべてをないがしろにしてしまえば、そのことは生命維持の危機に及ぶだろう。そのため、動物的個我の機能として、五感は随時に合わせて警告音を呼び鳴らせるようにデザインされている。より強大な危機が訪れたときには、人間を五感レベルに引き上げるシステムがあるのだ。
そして何より、原感である韻覚には、それ自体の表示性がない。表示性がないため、人間はあくまで五感を通して、そのroot(根幹)にある原感を覚えるしかない。口や食道や胃を通してしか「食事」は営み得ないように、聴覚からの音楽を通してしか、そこに現れている韻感を受け取ることはできない。
だからおそらく、この原感である韻覚は、生命的な機能ではない。生命が全ての根本であると捉える人間科学ではこのことは永遠に解明されないか、誤解を得続けるのみだろう。我々は生命を信奉する主義に慣らされているので、このことはあるがままに受け止めづらい。脳科学は、大脳新皮質が人間的・文明的であり、大脳古皮質が動物的・生命的であることを発見しているが、大前提として、生命的なるものよりさらに遡れる先がありうる可能性は考慮に入れていない。
およそ人間の仕組みとはこうだ。まずこの世に動物的個我として存在し、生命活動を続けている限り、生命活動に必要な万物の表示を受け取り、生きていかねばならない。よって、誰であれまず五感を中心に生きている。<<生まれて初めて水に手を差し込んだとき>>、冷たいという言葉は知らなくても、皮膚が冷たさの表示を受け取る。
・[五感(表示性)]
そのうち、五感には一定のパターン体験が繰り返されることになる。たとえば「水は冷たい」「氷はさらに冷たい」というように。すると、パターン体験を元に、人間の精神は機能を高次化させ、水に対して「冷たい」というイメージ、氷に対して「さらに冷たい」というイメージを持つようになる。これによって人間は冬場に冷たい水に飛び込まなくなるので、生命活動の意地に役立てることができる。水や氷はすでに、五感を通すまでもなく「冷たい」。こうして水や氷に冷たさやその他の感触についてのパターン体験をしていくことで、「水」「氷」にはそれぞれがどういうものかというイメージが蓄積していく。蓄積されていったイメージはやがて、「水とはこういうものである」「氷とはこういうものである」と一定の完成を得たイメージになり、この完成を得たイメージ群が人間の「概念」を作り上げていく。
・[五感(表示性)]→[概念(イメージ性)]
概念上に戸籍を得たイメージは、概念の特徴として、概念上での演算や加工ができるようになる。たとえば氷上に薄着の女性を立たせる、というような加工が可能になる。材料と機材を整えればそのとおりの映像を撮影することも可能だろう。こうして加工されたイメージは、氷上にある「冷たい、寒い」というイメージに対し、薄着にある「暑い」というイメージを矛盾させるので、この矛盾を整合させるために、新しく概念上の演算をせねばならなくなる。
つまり、加工されたイメージは、「女性の熱は、氷上で冷やしたぐらいでは、とても冷めやらぬすさまじいものなのだ」ということを演算させたいのだ。
女性の熱 − 氷の冷たさ = 薄着の暑さ
これにより、「女性の熱」というイメージを、従来にイメージされていたところよりはるかに強大なのだ、と修正させることが成り立つ。これを「演出」という。概念上の加工と演算によって、たとえば女性にタバコを咥えさせてみればどうか。手に銃を持たせてみればどうか。あるいは女性の横に大きなインド象を置いてみてはどうか。あるいは頭上に大きく「西暦3000年」と文字を入れてみてはどうなるだろうか。
こうして、高次化した人間の概念空間は、イメージを好き勝手に加工と演算でき、そのいちいちについて五感に引き戻される手続きを要求されない。
一方、元のところに戻って、再び嬰児が、<<生まれて初めて水に手を差し込んだとき>>のことを考えよう。そのとき彼は確かに、冷たいという言葉の以前に、皮膚を通して五感によって冷たさの表示を受け取る。彼は水の冷たさを五感によって初めて知るわけだ。
けれども、いかにも忘れ去られた、いかにも思い出されがたいこととして、もはや誠実に想像してみるよりないことだが、果たして<<生まれて初めて水に手を差し込んだとき>>の嬰児は、そこに受け取る体験について、「水の冷たさを知った」などという、恬然たる様だけでその内実を済ませているだろうか? 一種の、目が見開かれる、驚き、感動、鮮やかさなどが、そこにはかつてあったのではなかったろうか?
水の冷たさを改めて五感に覚えることは我々にも可能だ。水道に行ってそのようにすればよいし、何なら、後ろから不意に水をぶっかけてやってもよい。五感が引き続き、水の冷たさの表示を受け取り続けていることが確認されるだろう。けれども我々は、改めてそのとき、赤子のように目を見開いて、驚き、感動し、何事かの鮮やかなるを体験するわけではない。
では確実に、嬰児はそこに、水の冷たさと、<<それ以外のもの>>も感じ取っているということになる。彼がそれを感じ取るには、表示性としての冷たさを媒介するしかないが、それを媒介として、水が「物」そのものとして「物語っている」ことを受け取っているのだ。
・[原感(万物語性)]←[五感(表示性)]→[概念(イメージ性)]
このことは、幼児期にもある程度引き継がれて見られる。男児が、拾ってきた何でもない大きなネジを一本、「宝物」だとして秘匿し、保存することがある。母親にはそれはただの大きなネジにしか見えないので、勢いづいた掃除や整頓の日に、母親はそれと知らずネジをつい捨ててしまう。そのことで男児は大泣きする。おそらく、より大きなネジを買い与えたところで、男児の悲嘆は収まりはしない。男児はそのネジそのものが、「物語っている」のを受け取り、その万物語性の体験を"宝物"としたのであるから。彼はそのネジのたくましい姿や勇壮な重みの表示を通路にして韻覚に及ぶ体験を得た。彼はネジを手にしていたのではなく、表示性のない「これ」を、語りかけられるまま一人で確かに感じ取っていたのだ。
万物の性質の側が、人間の都合によって変動するわけはないので、万物の「物語っている」という性質は、今も昔も変わらずにある。気づけば、自分を取り巻くすべての物は、集合してそこに「物語って」いる。この万物の物語るところに調和してあれれば、人間はそのとき自己と万物をひとつにして"宝物"でありえる。またそうして調和の中で人間の存在が営まれるところ、新しく参画する人も無事に調和することができれば、その新しい人も含めた新しいひとつとして"宝物"になりえるはずだ。そのとき我々は、誰もが「物語り続けている」。「芸術とは話し続けること」とはこれを言うのだ。わたしが特別な性質を背負っているのではない。
他者の存在について。わたしは、"根性なし"なので、わたしが「話し続けることしかできない人間」であることを許してもらいたい、とお願い申し上げているが、そのことが叶う上ならば、他者の存在はあったほうがいい。何しろ、万物には、「物語っているねえ!」というはたらきかけはあるにせよ、万物の側に韻覚があるわけではない。同じ韻覚を内臓する、人間がそこにあったほうがやはりよいし、韻覚を持つ者同士、何を営めばよいか、何を営んでゆけるか? それを受け止めてやっていくにも、お互いが確かな手がかりになりえるからだ。同じ韻覚を内蔵する同士、どのようにお互いを表示していくのであれ、お互いが韻覚に及びえねば、何をしたことにもならないことをお互いに知っている。お互い韻覚を持つもの同士であり、そしておそらく、鮮やかさのない五感のみのことや演算される概念の罠には嘆き苦しむ同士でもある。
「感じる」という言葉はよく使われるが、わたしはここではいわゆる五感と、原感である韻覚はまったく別の階層にある現象だと唱えておきたい。五感の「感じる」を元にして原感・韻覚の「感じる」を捉えきることはできない。
人間がお互いに韻覚に及びあったとき、お互いが表示物としてどのようであるかなど、互いに「理解」しようとは今さら求めないだろう。そのとき、お互いは傷つけあわずに済む。お互いがお互いの物語るところを受けて、調和して「話し続ける」ことをするだけであるから。お互いは調和の中で、表示性のない「これ」を確かめ続けるのみであるから。まして、二人合わせての概念上の加工、イメージの演算など何のこだわるにふさわしさがあろう?
***
――ひとつの時代が終わって、時代はイメージの時代になった。わたしはそのように述べたし、その終焉の皮膜で巨大なギフトの授受が起こったことも報告した。今はそのことに、保証の利く数学的構造を具えるまでに至った。すべては急速なことだった。よって、時代はイメージの時代になったにせよ、少なくとも、「わたしはこのようだ」とは今もこうして言うことができる。ここまでにお話ししたのは、「ひとつの時代が終わって」、今わたしはどのようであるか? ということの補足に過ぎない。ひとつの時代が終わったとして、少なくとも、わたしは今まさにこのとおりだ。見かけ上いかにも素っ頓狂に見えることは承知しながらも、今のわたしのあるがままの様をお伝えすることができたと思う。多くの人に向けては不粋なまねになったかもしれないが、わたしは"根性なし"であるから、遠くとも「僕」の書き話すことに、親身な読み手でいてくれる人に向けてのことだ。この新しい時代のことを、どのように理解してゆけばよいだろうか。そのことについて、僕はお詫びとお願いを申し上げねばならない。どうか、心から許しを請うよりない。わたしはもう理解に参画することはできない。わたしはもう、「話し続けること」しかできなくなったのだ。どうかそのようであることに、慈悲を賜れることと信じている。
今さら「芸術」などいう言葉は軽薄に聞こえる。元々はわたしも、僕も、「芸術」を志向する者ではない。「芸術」は、イメージの時代が到来することを堰き止められなかった責任を取って、滅んでしまえばいい。それは誰にも得心のいく締めくくりだ。「滅亡」のイメージと抱き合わせにされて飽きられていくことは最も実情にふさわしい死にざまだろう。
一方、僕は話し続ける。それがなぜであるのか、それが何であるのかを、理解で共有できる時代は終わった。今はただ、僕は話し続けるという「話」を、ここに置くことしかできない。
最後に、ここに恋あいの話を求めてきたはずが、巻き込まれたままここへ所在なく置かされている人に向けて、このように申し上げておきたい。
あくまで僕は話し続けている。
あなたがなぜ、一人の人間として、「理解」を求めながら、傷ついて、恋あいがうまく営めず、色んなことが「話」にならないと感じているのか? そのことを解き明かす証明が冒頭からなされていることに、今振り返れば気づくだろう。冒頭、素っ頓狂に見えて笑いを誘ったであろうあれらは、あなたにとっていつか役立つ数式だ。
[いつか役立つ数式/了]