No.327 個人主義があなたの人生をメタクソにした
スーパーカブ50という原付に乗っている。
「カブ」は、ホンダの傑作で、新聞配達や郵便配達が使う有名なバイクだ。
誰でも、車体を見れば知っているし、音を聞いても、「あ、新聞配達の音」ということで、覚えがある。
世界一認知度が高いバイクだ。
バイク乗りでカブをリスペクトしない人間はほぼゼロだろう。
60年前に作られて、そのときすでに完成しており、シンプルすぎて壊れない構造で、かつケタ外れに燃費がいい。
爆撃でもされない限り壊れない、とか、てんぷら油を入れても走る、とか、いろいろ冗談でもない伝説がある。
現在までに生産台数は一億台近くに及んでおり、むろん人類史上最大の売れ行き数を誇るバイクだ。
機構上の特徴は、ロータリーエンジンとか遠心クラッチとかいろいろあるが、なにより運転中に左手が空く、というのが特徴だ。
左手が空くから、出前はオカモチをぶら提げて走ることができる。
普通のバイクとは違って、ブーツなど履かなくても、草履でもサンダルでもシフト操作ができるように工夫してある。
アサルトライフルのAK−47のように、「実生活上はこうでないと使えないだろ」ということへ、徹底的に気が利いているマシンだ。
それで、とにかく、この原付カブに乗っていると、交差点でよく人に話しかけられる。
たいていバイクに乗っている人が、何かしら声をかけてくれるのだが、とにかくよく話しかけられるのだ。
そしてご存知のとおり、平和な自動二輪に乗っている人は、何か強制的にさわやかでおだやかな人間にさせられている。
たぶん、男性が、女にモテるとかカネを稼ぐとかのしんどいことから、離脱できる数少ない時間なのだ。
そりゃあ、平和な気持ちにもなってしまうだろう。
交差点で停止中、肩を叩かれて、
「何か落としましたよ」
と教えてもらった。
渋谷のド喧騒の中でだ。
振り返ると、シャグたばこのパケットが車道に落ちていた。
「お、おう。ありがとう」
何かこちらもなれなれしくなってしまう。
向こうも何か知らんがやけに楽しそうだ。
電器屋でヒーターを買って帰るとき、強引に左手でぶらさげてカブで走っていたのだが、やはり交差点で停止していると、
「それ、大丈夫っすか」
と声をかけられた。
やはり、何か知らんがやけに楽しそうだ。
確かに、いくらなんでも、二輪でぶらさげて帰るようなサイズではなかった。
「お、おう。まあな、大丈夫だ。出前みたいなもんだ」
「あー、さすがカブっすねえ」
言い出せばキリがないが、とにかくそうして、カブというバイクはリスペクトされている。敬愛されているのかもしれない。
僕はバイクマニアではなく、ただ実用上、原付カブに乗っているだけなのだが、そうして仕事ではなしに乗り物としてカブを選んで、ニューヨーカーのコートを着て半ヘルで走っていると、バイクマニアにはその姿が何か佳いものに映るのだろうか。
僕はスタイルをまったく気にしない人間なので、僕からはよくわからない。
ただ、バイク乗りの友人に、
「そういえば原付カブ買ったよ、都内ですごく便利だ」
という話をすると、必ず、
「あ、いいですねえ。今度乗らせてくださいよ」
と必ず言われる。
あるバイク乗りの女性は、
「カブ、実は乗ったことない、乗ってみたい、あーでもドキドキするかも」
と言っていた。何にどきどきするんだ、と訊くと、ロータリーエンジンとか逆にちゃんとシフトできるかしら、難しそう、と言っていた。たしかにカブの乗り心地は、愉快なものであって快適なものではない。
あと、何だったか、カブとかはまったく関係ない話で、気分のいい話があったのだが、忘れてしまった。
何だっけか?(今全力で思い出している)
何か、女がらみで最高に気分のいい話があったのだが、忘れてしまった。
人間が生きていて、男がいて女がいるのって、いいね、と言えるような話だったのだが、綺麗さっぱり忘れてしまった。
思い出せないので、とにかく、そういうことがあったのだ、ということを、適当に各人で想像してもらおう。
それでだ。
突然話が変わるようだが、もう何年も前から、個人主義が流行しているが、その個人主義が、あなたの人生をメタクソにした。
なぜスーパーカブがどうたらこうたらという話をしたかというと、僕は別に、世の中をひがんで眺めている根暗ではない、ということを示すためだ。
いいものはいいし、やさしい人はいるし、別に何も汚らしくない、ということは知っている。
ただ、それでも、個人主義は流行しており、個人主義はあなたの人生をメタクソにしたか、もしくは、これからメタクソにするのだ。
日々のささやかな気分の良さや、笑顔の出現にだまされてはいけない。
どう話すのが一番受け取られやすいだろうか。
たとえば、先日、中目黒を歩いていると、向かいからロクシタンの大きな紙袋を提げたおばあさんが歩いてきた。
恐怖以外の何物でもない。
個人主義の目つきをしている。
身なりはよいので、おそらくあのあたりに典型の、地主か何かの一族だろう。
個人主義というのはつまり、個人として、自分一人で、部屋に寝転がっているときはよいけれども、目の前に他人が一人でもいたら、どうしたらいいかわからない、という主義だ。
「個人主義」なのだからそうに決まっている。
大量に引きこもりを製造した根底の理念だ。
引きこもりなら、まだ外部に迷惑をかけないのでよいのだが、個人主義のまま街をうろつかれるのは、世界にとって大変な迷惑である。
城南地区のある交差点では、「赤信号でも僕は個人的に渡ります」というムーブメントが起こっている、そういう場所が実際にある。
本当に、完全に、自分一人の個人世界に引きこもっており、それで路上を歩いているから、恐ろしくてしょうがない。
たぶん、もう、赤信号は「とまれ」で、そういった約束事で個人と世界はつながっているということが、脳みその中で解(ほど)けかかっているのだ。
そういう、赤信号を赤信号だとすでに視認しにくくなっている人間と、目が合うと、なんともいえない不快感と恐怖がある。
ロクシタンの袋を提げたおばあさんも同じ目つきをしていた。
個人主義というのは、つまり「他人のことは何ら一切関係ない」ということなので、たとえ目の前に飛び降り自殺の肉体が降ってきて砕け散っても、何ら痛痒を覚えない、ということだ。
この方法には疑いないメリットがある。
たとえば、就職先で、上司が人格破綻者だった場合、ウィークデーは常に精神的な危害に晒されることになるが、個人主義なら、上司の人格が近くに存在していても、「何ら一切関係ない」ということで済む。
それで、目の前に飛び降り自殺があっても、へっちゃら、ということにもなるのだが、これは冷静に眺めてみたら人間としてとても怖い状態だ。
こんな人間でも、なぜか結婚だけはしたがったりするし、親や世間体だけは気にしたりするので、余計に怖いというか、注意が必要だ。
個人主義は、そういう恐ろしい人間を作り出すので、たぶん人類の理念として一番の駄作というか失敗作なのだが、一方、勤め先の上司が人格破綻者という状況はとてもしんどいものなので、それの手当てになる個人主義を安易に撤廃はできないという事情もある。
といって、個人主義を続けていけば、その当人も近いうち人格破綻者になるのだから、やはり個人主義は負の拡大生産をする最悪の装置だ。
精神的に健全な人には、個人主義について、その使えなさを、次のように単純に伝えておきたいと思う。
個人主義は、個人の問題なのだから、その中に存在する人格のスケールは「1」だ。自分一人しかいないのだから当然だ。
一方、百人の集団に通用する人間の、その能力のスケールは「100」だ。
どう考えたって個人主義者のほうがショボイに決まっている。
個人主義で、自分自身を追い詰めて、手首を切らせることより、百人の集団を「ははは」と笑わせるほうが、百倍もスケールがデカいのだ。
こんな当たり前のことさえ、さっさと気づかれない世の中になっているので、精神的に健全な人は、さっさとこのことに気づいて、よりスケールを大きく育てていけばよいと思う。
おじいさんみたいな話で申し訳ない。
「個人主義って、自分が自分一人の世界にしか通用しない人のことでしょ?」
と、その理解でだいたい合っているので、理解はそれで済ませてしまって、どんどん先に進めばいい。
個人主義というが、人間はいずれ、個人という壁を乗り越えてゆかねばならない。こんなことは当たり前の大前提だ。
人間が、自分一人の世界しかない個人主義であっていいのは、生後六か月から六歳の間までだ。
それ以降は「病気」だと、ウィキペディアにちゃんと書いてある。
ナルシシズム、と検索すれば出てくるので、読めばいいし、読まなければなおいい。
人間は、個人というちっぽけなものを、超えていかなねばならない。こんなことは説明不要だ。
ただ、それを「どう超えていくか」、それには自分のやり方があるのだから、指図しないでくれ、勝手に決めて強要しないでくれ、「自分で個人を超えなきゃゴミだろうが!」と求める立場がありうる。
それを本来の個人主義というのだ。「超個人性」が個人の内にこそ宿っていると信じる立場である。その意味でいえば、僕だって個人主義者だし、僕は昔から先鋭的に個人主義者だ。
個人主義は、全体主義への反省から生まれてきた。
全体主義とは、「貴様、お国のために、己の命をささげられんと云うか!」というようなやつだ。
全体のためなら、個人のことなんかどうでもいい、という、つまりは帝国主義の狂乱した時代、国全体がまず戦争に勝たねば何もかもがメチャクチャになってしまう、という状況を乗り切るために創り出された、やむを得ないやり方が全体主義だった。
この全体主義は、身近な戦争がない現代から見ると、アホに見えるのだが、当時は切実な問題だったろうから、笑ってよいようなものではない。
それで、全体主義を反省して、個人主義に切り替わって、「他人に迷惑を掛けなければ何がどうでもいい」みたいなことしか考えなくなるのは、全体主義と同程度にアホか、それ以上にアホだ。
人間は、一人で生きているのではないし、一人で生きるのは超越の宗教者を除いてはつまらんしミジメだし迷惑に決まっているので、個人主義などというものは成り立たないのだ。
誰だって、誰かの隣や、誰かの向かいに住んでいるものだし、学校や職場や食堂に行けば、誰かの隣に座るに決まっているので、そうして誰かと近接する以上、それは気分のいいヤツでなければならないに決まっている。
個人主義というのは本来、その気分のよさというやつを、ロックにするかエレガンスにするか、個人で決めさせてくれよ、個人で追求させてくれよ、という主義に過ぎない。
たとえば、四年前、東日本大震災が起こったが、その義援金をまるで寄付しない、「おれに関係ないし」という個人主義者はアホだったし、かといって、「寄付しない人間は非国民」と、隠し持っていた全体主義気質を自白する人間もアホだった。
何も難しいことはなくて、「おれには関係ないし」というヤツは気分が悪いし、「寄付しない人間は非国民」というヤツも気分が悪いというだけだ。隣に座ってほしくないし、向かいに住んでほしくない。
こんな当たり前のことついて、なお、「おれの考えはおれの考えだし、おれの勝手だろ」みたいに言い逃れしようとする輩があって、その輩が個人主義を標榜しているという、最悪の状況があるのだ。
その結果、今、街中というか世間は、とにかくもう「怖い」というムードが蔓延している。
スーパーカブ50で、走り回っている間は平気なのだが、停車してバイクから降りたとたん、もう何かが恐ろしくてしょうがない。
考えてもみろ、街中の数万か数十万か数百万の人間が、ことごとく「個人主義」で歩いているんだぞ。
恐ろしくてしょうがない。
ここ十年で、日本が成し遂げたことといえば、嫌煙ムードを蔓延させて禁煙地域をでたらめに増やしたのと、あとは駅前の自転車を撤去しただけだ。
それ以外は、政治が何をしたかというと、日本にダメージを与えただけだ。
今のところ、政治の目標というと、その与えたダメージを少しマシにしよう、ということが目標になっている。いわゆる、マッチポンプだ。
どう考えたって、禁煙とか駅前の自転車がどうとかは、人間の生と暮らしにおいて本質ではない。
そして、禁煙を条例で法律にしよう、とか、駅前の自転車を撤去してしまおう、とかは、ドン底に頭の悪い小学生でも考えつくようなことなので、こんなことは考えついてはいけないし、まして施行してしまってはいけなかった。
そんなことで人間の気分はまったくよくならないからだ。
「何か落としましたよ」
と、わざわざ肩を叩いて教えてくれた、それも渋谷のド喧騒の中でだ。
そのとき、バイク乗りは、個人を超えている。
「おれに関係ないし」と言えば、まさしくそのとおりのことだからだ。
「それ、大丈夫っすか」
と、僕の手持ちの荷物に、心配を向けてくれた彼も、個人を超えている。
そういうとき、そういう人たちは、気分がいいな、という、当たり前の話をしている。
彼らに、個人主義、などという、わざとらしいうっとうしさの気配はない。
同時に、個人主義の目つきをしたおばあさんが、ロクシタンの袋をぶら提げてもし家に来たら、困るな、怖いな、という、当たり前の話をしている。
あと他にも、とても気分がいいことがあったはずなのだが、どうしても思い出せないので、諦めよう。
アンチエイジングに気合の入った、個人主義の権化のようなおばさんに、ホームパーティに招かれて、金を突っ込んだローストビーフを食べさせられるより、近所のおばさんが「作りすぎた……」と持ってきてくれるきゅうりの漬物のほうが、よほどうれしいし気分がいい。
「個人主義」と、「個人を超える主義」なら、どう考えたって後者のほうが素敵なのに、わざわざダサいほうを選ぶのはなぜなのだ。
スケールの視点で言えば、個人主義は目盛りが1で、最小、ミニマムに決まっているので、わざわざそれを選んだり、それをわざわざアピールしたりという、正体不明のことはやめよう。世の中が混迷と恐怖に満たされていくだけだ。
***
キャッチコピーを考えてみた。
「個人主義者は、経験がない」
「個人主義者は、経験がないから、アホだ」
「個人主義者は、経験がないから、アホで、無能だ」
「個人主義者は、経験がないから、アホで、無能で、わけがわかっていない」
本来の個人主義はさておき、今ある個人主義とは何を指すかというと、「とにかく誰かがいるとムリ」という人間のことを指している。
先に述べたように、個人主義というのは、スケールが1だ。
個人主義の男は、目の前に女が一人いると、それだけでもうダメになる。
目の前に女が一人いたら、その場に人格は二つあり、スケールは2になるので、適応外、になるのだ。
女が二人いたらダメだし、男が三人いてもダメだ。
こうして、個人主義の人間は、身内や共同体の内部だけで、常に必死に「空気を読む・読ませる」ということだけをしながら、その空気に同調することだけで、生きながらえていくしかなくなる。
「個人主義者は、経験がない」とはどういうことか。
それは、スケールが100の人間は、三日間で300の経験を得るが、スケールが1の人間は、三日間で3の経験しか得ない、ということだ。
それだと、経験の絶対量がどうしても少なくなるし、そうして経験が少ないと、人間はどうしたってアホにしかなれない。
「個人主義者は、無能だ」というのは、たとえば家の中で一人で豆知識をたくわえてきたのに、目の前に女が二人いたら、それを楽しく話すことはロクにできない、ということだ。
個人主義者は、スケールが1のまま、経験を摂取してきたので、それをアウトプットするときも、1の単位でしか出力できない。
そして、ベッドルームで独りよがりなセックスをするとき以外は、ほとんどスケール1のアウトプットで出来ることなど何もないので、こういう男は無能だ、ということになる。
車を運転するときでさえ、周囲には十数台の車が走っているので、スケール1のままドライブデート、などということはできない。
無能でない男というのは、十数台の車と一緒に滑らかに安全に快適に走行しながら、助手席の女の子と楽しく話しつつ、かつ同時に後部座席のコは退屈していないかな、さびしくないかな、ということに配慮ができる男のことを言う。これはスケール1のアウトプットでは無理だ。
「個人主義者は、わけがわかっていない」というのは、とても重要なことだ。
個人主義者は、「人に対して明るく、笑顔でいこう!」と心がけている。
が、それを、個人の個室で個人で心がけているので、目の前に誰かがいたら、その「人に対して明るく、笑顔で」ということが、具体的にわからない。
彼が「明るく、笑顔で」ということが実行できるのは、自分一人のときだけなのだ。
それで、とりあえず強引に、心がけてきたように「明るく、笑顔で」いこうとするのだが、それは目の前の人間を無視した、彼の個人プレイとしての明るい笑顔なので、見ている側は「?」となるのだ。
彼はつまり、目の前に人がいるとき、どう振る舞えばいいのか、実は「わけがわかっていない」。
そりゃ当然そうで、彼はそれが「わけがわかる」ようになるための、経験を積んできていないのだ。
彼はそうして、部屋に一人でいるとき以外は、何をどう振る舞ったらいいのか「わけがわかっていない」ので、実は内心で必死に、他の人はどうやっているかを盗み見して、その表面的な真似を続けている。
僕はたまに、そういう人に出くわすと、
「さっきからさ、それ、何を笑っているの?」
と訊くことがある。何も笑うようなところではないのに笑っているからだ。
すると、
「え?」
と言い、彼はなおも笑ったままだ。
どう振る舞えばいいのか、わけがわかっていない。
経験がゼロなら、そりゃあ当然こうなるだろうな、と、見ていて申し訳ないがしみじみ思う。
犬だって、社交経験まったくなしに育てて、のちに急に犬の集団に入れると、どうしたらいいかわからず、困り果てておしっこを漏らすのだ。
もちろん、自分でわけがわかっていて、初めからニヤニヤ笑っているのはいい。
そういうときは、
「えっ、何を笑ってんの」
「ええ。いやいや、いやいやいや。もうね、飲みましょうよ。いやあね、つまり、何もかもクソなんですよ! 飲みましょうよ! ぎゃはははは」
「わはははははは、飲もう飲もう」
という感じになるので、それでいい。
僕はいわゆる体育会系を盲信するタイプではないし、「スポーツは人を育てない」ということを持論にしているが、それでも、人数の多い厳しい体育会系に育てられた人間が、一定の信用に足りることはよくわかる。
部員は百人ぐらいいましたかね、それで、ほとんど週六日、練習漬けでしたよ、先輩後輩の関係も厳しかったし、先生も厳しかった……という経験をしてきている人間は、スケール100掛ける週六日ということで、毎週600の経験をしてきているので、ある程度わけがわかっている。
「ところでお前さ、うーん、今、笑ってていいところか?」
「……あ、はい。失礼しました。ちょっとたるんでいました。そうでしたね」
こんな感じになって、サッと頭が下がって、こう、モゾモゾっとして、座りなおして姿勢を正しくする。気配がしかるべく変わる。
どのように振る舞わねばならないのか、わけがわかっているのだ。
個人主義者というのは、こうしたスケールの体験に頼らずに、部屋で自分で考えたことだけで、振る舞い方を発明して決定していこう、という主義だ。
そんなことができるのは孔子とか老子とかぐらいだと思う。
ちなみに、ウィキペディアで「ナルシシズム」という項目を調べると、
「精神分析によると、幼児は自分が世界の中心で、もっとも重要で、何でもできるし何でも知っていると感じる」
と書かれている。
だから、個人主義者というのは、部屋で自分一人で考えたことや思いつめたことが、世界の中心であり、世界で最も重要なものなので、これによって振る舞い方を全て発明してゆけるし、そうした振る舞い方(礼儀やマナーや愛など)を、自分はすでに知り尽くしている、と思っている。
別に大げさに言ったつもりはなくて、今実際に、こういう人はとても多いのではないだろうか。
いよいよ核心に触れているような感触があるが、個人主義者の特徴は、確信に満ちている、というところだと思う。
「自分は、人に対して、明るく笑顔で、やっていきたいと思います」
ということに、確信を得ているのだ。
そして、この確信には、陶酔感も付随している。
「自分は、人に対して、明るく笑顔でやっていく」ということが、世界の中心であり、世界の最重要であり、自分はそういったことが何でもやっていけるし、それをどうやっていけばいいかなど、全て知っている、と思っているのだ。
本来、生後六か月から六歳までに片付くはずの、原始性ナルシシズムが、今も継続しているのだ。
冷静に考えてみて、これは異常だ。
たとえば、僕が同じことを考えた場合、
「人に対して、明るく笑顔で、やっていこうか」
「うーむ。おれに、そんなことできるかね……?」
「こんなわがままで、しかも笑顔が可愛いわけでもないのに、できるかどうかの以前に、余計に近所迷惑じゃないかね」
「笑顔で明るく、といっても、ヤケクソだったらただの狂人だしな。何かこう、理念というか、いつでも誰に対してでも、笑顔で明るくいられるための、すばらしい考え方はないかな」
「トルストイでも読むべきだろうか。いや、ヘヴィメタルでも聴いていたほうがマシかな」
「それとも、毎日全力で雑巾がけでもしたほうがよいだろうか」
「ううむ、ううーむ」
こんな感じで、考えるのに苦労するはずだ。
毎日雑巾がけを全力でして、自己が浄化されることに期待する、というのは、「うわあ、ダルそう、キツそう」という話なので、陶酔感は起こりようがない。
でも、どう考えたって、こちらの考え方のほうがまともなはずだ。
これから出会っていく、あるいはすれ違っていく、数万、数十万の人たちに向けて、明るく笑顔でやっていく、ということを考えると、スケール的に、こういう考え方になるしか本来ないはずだ。
それぐらいスケール的に難しいことなのだからしょうがない。
そんなことをマジでやったのは、まだ僕が十八歳だったとき、ボランティアで住み込みをしていた神戸の被災地で、ふと気づいて「治安のためにずっと道路に立ってくれているおまわりさんたちには必ず挨拶するようにしよう」と思いついたときぐらいだ。
それから、一か月の住み込みの間、必ず立っている警官さんには、「お疲れ様です!」と頭を下げて大きく挨拶をするようにした。
それぐらいしないと、本当にずっと棒立ちしてくれていたので、あまりにも退屈そうで、気の毒だったからだ。
対象を、そのときの期間のみの、おまわりさんに対してだけ、というふうに限定すれば、スケール的になんとか当時の僕でもこなせた。もちろん僕一人でだ。
それを、対象をほぼ無限にして、「明るく笑顔で」などということは、たぶん僕にはやりきれないだろう。
個人主義者は、部屋に一人でいて、ちょっとしたアニメのシーンに刺激されて、このスケールの決意をあっさり持つことができる。
こうして改めて思うと、個人主義者というのは、いっそ博物館に飾ってでも、公的にバカにするべきだ、という気がしてくる。
世界大戦時の戦争指導者が、全体主義者だったということで、今も博物館で非難されているという悲しいことに比べたら、まったく正当性の高いことではないか。
あと、思い出したが、学生時代に、あまりに女にモテなかったため、睡眠薬を飲んで死ぬかどうかと天秤にかけた上で、
「とにかく、女を笑わせよう、笑わせるだけだ、それ以外の営為を、おれは自分に認めない」
と決意し、それをやり通したことがあった。これは、本当にやったし、本当にやり抜いた。
あのときは、たとえ女の子が僕の心臓にスタンガンを当ててきたとしても、そこでどう笑わせるか、そのこと以外は一ミリたりとも考えなかっただろう、ということを、今も自信を持って言える。
それぐらい、割と悲壮な決意と実行だったのだが、そのぐらいの年齢の男が女にまるでモテないということは、それ以上に悲惨なことなのだ。
このように、僕みたいに病的に傲慢な人間であっても、スケールの問題として、個人主義者ではない。
人を笑わせるということは、自分と相手があるのだから、最小単位でも2であって、部屋で一人でスケール1の時間を過ごしていても、足しにはならない。
ユニットバスに浸かりながら、「25メートルプールを泳ぎ切るぜ」という決意と努力に陶酔しても意味がないのだ。
個人主義というのは、丸きりのアホではないだろうか?
まだ幼いうちから、個人主義の雰囲気を、叩き込まれてしまった人は、まったく気の毒だと思う。
部屋でマンガを読み、ネイルを手入れして「うふふ」となり、美容院に行く日取りを決め、日記を少々書いて、グッドな心がけみたいなものをメモして、ディフューザーでお気に入りのアロマを焚き、おやすみなさい、みたいなことを毎日していて、人間が賢くなったり成長したりするわけがない。
かつての僕は、悲惨で憐れな決意をして(我ながらなんて可哀想な奴なんだ)、とにかく僕が笑わせる人・向こうが笑う人と決めて、そのスケール2の、ユニット単位での「笑わせる」「笑う」ということの成立を目指した。
今思うと、本当に悲惨な奴で、可哀想なのだが、それぐらいするしかなかったし、そのトライアルの失敗と成功は、回数として何百回やったのか、それともひょっとしたら四桁に……というぐらいだった。
無能な人間にとっては、スケール1から2へ行くだけでも、それぐらい大変なことなのだからしょうがない。
そして、何であれその悲惨なトライアルのおかげで、少なくとも、僕は以前よりは少しマシで、少しは無能でなくなっている。
僕が笑わせる・相手が笑ってくれる、ということについて、「わけがわかっている」人間に、僕は一応なれたのだ。
笑わせる・笑ってくれるということに、どう振る舞えばいいか、わけがわかっていれば、人の真似なんかしなくてよくなるし、空気を読む・読ませるなんてことに必死にならず済む。
もし、あのとき、個人主義とやらに甘言を弄されて、スケール1に引きこもって個人主義を充実させていたら、そのときはどうなっていたか、想像される悲惨さは、もう根の深さにおいて笑える悲惨さではない。
その点、僕のように運よく救済されることなく、個人主義のムードに引きずりこまれてしまった人は、まったく気の毒だと思う。
そのことをしみじみ感じて、キャッチフレーズを考えてみた。
「個人主義があなたの人生をメタクソにした」
個人主義というのは、本当に、人が成長しないし、人を成長させない。
実質は、「スケール1主義」なのだから、当然だ。
本当は、人生の経験、経験による成長、その中で得る友人や、そのつながりの濃さは、何百倍もありえたのに、気の毒なことだと思う。
そして、僕はあなたと同じく、そういった気の毒な人のことを思うと、こう……
笑いをこらえるのが大変になるのだ。
よし! と、ガッツポーズをしそうになる、そのことを抑えるのが大変になるのだ。
これは僕がひどい奴なのだろうか。
ひどい奴なのだろうが、それでも、彼の人生をメタクソにしたのは僕ではない。
彼の人生をメタクソにしたのは、彼の味方風情を気取っている、人類最悪の発明、個人主義というやつだ。だから、僕がひどい奴といっても、せいぜい二番手でしかない、そこは誤解のないように……
***
今、あなたの手元にはキーボードがあるかもしれないし、あるいは、パソコン等を持っていなくても、キーボードぐらいには触れたことがあるだろう。
キーボードは、見ればわかるように、それぞれのキーが、打鍵しやすいように配列されている。
これが「まとまっている」という状態で、個人主義というのは、これらのキーが全てこっぱみじんに、部屋中に散らかっているという状態だ。
そんな状態を良しとして、わざわざ選んできたのである。
アホの所業としか思えないし、しかも所業が大技だ。
amazonに注文したキーボードが、新製品ですと言って、全てのキーがバラバラのもので、それが部屋にぶちまけられて届いたら、あなたは怒るだろう。
クレームを入れると、「個キー主義ですから」と業者は言う。
あなたは、この先の六十年間、そのキーボードを使っていかねばならない。
僕が、そういう気の毒さを見ると、指をさして腹の底から笑いたくなるという、その衝動のことも少しは分かってもらえるはずだ。
一方、かつての全体主義とはどのようなものだったかというと、キーボードはよくまとまっているのだが、キーが全て「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」なのだ。これはこれでゴミだ。
それはもう、「あ」しか出力する余地のなかった時代のことなので、しょうがない。
いわゆる、「甘え」とか、「依存」とか、「癒着」とかいうのは、どう捉えればよいだろうか。
それは、キーのwを押したら、その近隣にあるqもeもsも、一緒に打鍵されてしまうという状態だ。
サイダーか何か、甘いジュースでもこぼせばそういう状態になる。
こうしてベトベトくっついているのも、不快だし、実用に堪えない。
じゃあ、どうすればいいんだ、と言って、結論は初めから言うとおり、目の前にあるいつもキーボードのようにあればいい。
よくまとまっているし、それぞれがきちんと独立している。
それぞれが、役割に応じて配列されているので、使いやすい。
よく使われるキーは中央へ配列され、あまり使われないキーは、つつましやかに、端のほうへ寄っている。
端のほうに寄ったキーが、要らないとか、使えないとかいうことではない。どのキーだってなくては困る。
端のほうへ寄ったキーは、「自分が中央にいるべきではない、中央にいるべきキーはもっと他にある」ということで、自ら端のほうを選んだのだ。
判断と振る舞いが、個人を超えているのである。
一方、中央に寄せられたキーも、そうして忙しいところに置かれるのはイヤなのだが、自分が中央にいるほうが全体の利益になるということで、中央のキーを引き受けている。
その判断と振る舞いも、やはり個人を超えている。
このキーたちが、もしそれぞれ個人主義で、「マジ中央とか無理なんすけど」「端とかありえんし」とそれぞれ好き勝手に言うようなら、キーの配列は「くじ引き」で決めなくてはならなくなる。
くじ引きなら、平等なので、誰からも文句は出ないだろうが、そうして作られたキーボードは、大変使いにくいクソに仕上がるだろう。
一番よいのは、全てのキーが、それぞれに「全体」のことを把握していて、自分たちがどう配列されるかについて、全体としてのベストを目指すことなのだ。
自分がどこに配列されるか、その個人的欲求を満たすことではなく、全体の完成を目指せることがベストだ。
そして、実際には、そのベストが目指されずに出来上がったキーボードなど、ゴミにしかならないのである。
自分の役割がイケているかどうかではなく、全体の中で自分も役割を果たし、その「全体」がイケているものになるかどうか、それが目指されなければ、どれだけ状況が白熱したとしても、ゴミしか生産されない。
また、わがままが一人いるだけでも、全体があっさりゴミになることがある。キーボードで言えば、ひとつのキーが脱落しただけでも、「あ、買い替えるしかないな」と判断されてしまう。
他のキーは全て健全であるにも関わらずだ。他のキーが全て健全でも、途端にゴミ扱いされて、ジャンクショップに放りこまれてしまう。
今、中学生か小学生が、「記念撮影をしまーす」となったとき、数十人が並ぶとして、JIS基準のキーボードのようにバッと自発的に配列された、見事だ、というようなことがありえるだろうか?
たぶん、誰も彼も、自分のことしか考えず、ワーキャー言っているに違いない。
そしてそれは、大人の会社でもそうだし、大人の飲み会でもだいたい同じだ。
大学生は、それよりはるかにマシか、もしくは、それよりはるかにひどい、ということが多いと思う。
「先輩後輩なんか関係なく、個人個人、座りたいところに座って、飲みたいもの飲めばいいんや」
みたいなことを、決定するときは、本当にそれでよいのか、使えないゴミクソキーボードにならないか、一度考えてから決定する必要がある。
個人主義は、雰囲気よく人の人生をメタクソにする、ということ以外にこれというメリットはない。
正当な、本当のメリットと言えば、隣のキーが腐っており、隣にいるとこっちまで腐るか病気になる、というような場合だけだ。そのときはもう、キーボードの全体なんか放り捨てて、それぞれのキーで脱出するしかない。
キーボードを見ると、左上から右へ、qwertyと並んでいるが、それぞれのキーは独立しているし、それぞれは「違う」キーだ。違うからといってケンカはしない。かといって合体もしない。仲が良いとか悪いとかいうことではない。ただ、並んでいるから値打ちがあるのであって、バラバラになっていたら値打ちがない。
その意味で、qwertyは、互いが並び合うことに合意して、互いの価値を支え合っているのだ。
自分たちが並んでいるということを、自分たちで尊重している。
ケンカも癒着も、この並びの尊厳を犯すものなので、誰もそんな蛮行をしない。
もちろん、全体としてより優れた配列を希求するものとして、配列を変えろ、という要求は出てくるかもしれない。でもそれは、キー個人の個人的な思いからの要求ではなく、全体の改善と利益を求めてのことだ。
エンターキーを縮小して、シフトキーを増長させろ、という要求が出されるかもしれず、そのことに全体利益が見込まれれば、デザインは改善されるだろう。
そういう、当たり前のことを、今僕は話している。
それぞれのキーが、「おれはデカくなりたい」「わたしは三角形になりたい」「おれはもっとフニャフニャになる」「おれは今日は右端がいいな、また左端に帰るかもしんないけど」と好き勝手に主張し、またその好き勝手が認められて横行するというような状態は、アホだね、という、当たり前のことを話している。
僕がかつて、丸の内で働いていたとき、ある人が「チームワーク」を信奉するように繰り返し言うのを聞いて、正直、ヘドが出るなあ、と思ってしまった。
チームワークにヘドが出るのではもちろんなく、その当人が、これまでに誰からも愛されたことがなく、これから先も愛される可能性はゼロだろう、と思えるような人だったからだ。
そういう人だって、世の中には当然いると思うのだが、そういう人に限って臆面もなく「チームワーク」と言い出すものなのかと、目の前で知って、内臓にウッと来たのだ。
そういう状況だと、人は、内臓を守るために、個人主義にならざるを得なくなる。
悪い例は、とりあげてもキリがないし、あまり効果的でもないので、やめておこう。
人は自分の「居場所」を求めるところがある。
そんなときは、キーボードをチラッと見てみるといいかもしれない。
キーボードのキーたちは、色々だが、それぞれに、自分の「居場所」に納まっている。
そして、それぞれの「居場所」は、他の誰かでは埋め合わせが利かないものになっているだろう。
何しろ、その「全体」は、あなたが抜けただけで、「壊れた」という扱いになるのだ。
あなたが大切にされ、あなたもまた他と全体を大切にするというのは、そういう状態だ。
と、いうわけで、「個人主義」について思うところが募りすぎたので、一通りまとめて話してみた。
これを読んだ人は、「個人主義」と聞いた途端、プッと笑いだすようになってよろしい。
声のデッカい、自分ではイケてるつもりの個人主義者の人は、このキーボードの例え話を聞いたとき、どのように反論するのだろう。
僕は、別に自分の組み立てた論がイケてると思っているわけではないし、節度として、人の主義について「やめろ」とは言わないたちだ。
アホだ、と、好き放題に言って腹の底から笑うが、それを「やめろ」とは言わないし、「やめろ」と言い出す権利は誰にもないのだと思う。
言い出したって、本人がやめる気がないなら、やめないのだから、険悪になるだけで、意味のないことだ。
ただしそれは、直接の後輩ということになると、話は変わってきて、そんなもん険悪になるだけで済むと思ってるのか、ということになっていくが、そのことは一般論ではないからいいだろう。
個人主義は、ゴミクソだからやめろ、ということではなくて、もし、本当には、「全体に起こる歓喜」に憧れるところがあるなら、ウソつくのはやめなよ、ウソつく理由もないよ、と言いたいだけだ。
「全体に起こる歓喜」は、おそらく、求めても大半の人は得られないのだろうが、得られないからといって、ひねくれて個人主義を標榜するのは、精神的に気持ちが悪い。
「あのブドウは酸っぱい」という、キツネの話と同じだから、幼稚さが気持ち悪い。
それよりは、堂々と「くそう、ちくしょう」と言いながら、たとえばワールドカップの優勝国チームが織りなす、全体に起こる歓喜を、泣きながらうらやましがっているほうが健全だ。
サッカーチームのいわゆるフォーメーションは、それこそキーボードのキー配列とよく似ているだろう。
ゴールキーパーが急にスマホをいじりだして、歌いだしたりはしない、うつくしい世界のことである。
フォーメーションが、優れた「全体」を作り出さないとき、そのチームは必ず試合に負けるだろう。
試合に負けるのは、しょうがないことだが、それ以上に試合が「醜かった」ということにおいて、人々の心はむなしさに傷つくはずだ。
個人主義の人は、実質ヒマだと思う。
どれだけ努力しても、スケール1のまま二十四時間を過ごすのだから、大した体験も経験も得られず、内心はヒマで退屈でしょうがないはずだ。
いくら異業種交流会に行き、ホームパーティを開催しても、それぞれ全員がスケール1の個人で過ごすだけなのだから、状況として怖いし、怖い上に退屈なのだから最悪だろう。
個人主義の人は、だいたいジョギングとヨガを始めるものだが、これらは実に個人的に自分一人で追求するものだから、しょうがない。
これ以上ぴったりくるものはほかにないだろうからしょうがない。あとは英会話を習うぐらいだが、英会話といったって、内心で「どうせ自分は誰ともしゃべりゃせん」と知っているなら、習う気力も失せていってしまうだろう。
健全な精神を保っている女の子は、「個人主義」が、どれだけ人を無能にするか、恐れおののいていていい。
誰にも通用していない姿勢のよさを振り回し、かつ出し方のよくわかっていない痛みのある声で「トーク」という暴力を振り回し、ひたすら近所迷惑を振りまいて暮らすだけという、そんな人間がいることには、恐怖を覚えて当然だ。
そういう人は、自分の「居場所」がないため、さびしがっており、その結果としてあなたに親身になってくれるところがあり、あなたをしきりに食事に誘ってくれたりすることがあるかもしれないが、その厚意を無下にするべきではもちろん無いにせよ、そういう人はあなたが目の前にいても必ずスケール1で話し続けて、あなたのことは無視して話すものなので、そういう人が話す個人主義の「頑張ろうねトーク」は、話半分以下に聞いておいたらいい。
そういう人は、たとえば恋人ができたら、がっつり依存し(それまで居場所がなかったため)、そのとたんあなたのことなど忘れ、その恋人と不仲になってきたら、ふたたびさびしさからあなたに会いたいと言ってくるので、そのときはいよいよ要注意だ。今度はあなたに依存して、あなたの隣を居場所にしようと勝手に企んでいる場合がある。
人間にとって、さびしさはほとんど天敵だ。そして「個人主義」というのは、「居場所」を決して与えられない宿命にあるのだから、そのさびしさが無数の人格失調者を生み出してしまう。このことをナメてはいけない。表面上がまともに見えても、
「ああ、この人は、個人主義とは真逆の時間を持ってきたんだなあ」
という感触が無い人は、警戒してしかるべきだ。
「個人主義」と言っている人は、つまるところ、目の前のあなたのことにも、「基本知ったこっちゃない」と公言しているようなものなのだから、むしろ相手の主義を尊重してあげるべきだ。
僕は、初対面の女性にでも、
「お前さっきからどこ向いとんじゃコラ」
とキツく言い放ってしまうことがあるが、それは別に悪意や害意があるのではなくて、本来そこでスケール2でなければならないところ、スケール1とスケール1に分離するというようなことを、なるべくしたくないからであって、そこで言葉や言いようがえげつない点は、できれば許してもらいたい。
そういえば最近は、僕が目の前の誰かと話すと、ほとんど決まってメモを取られるようになった。
「メモを取っていいでしょうか」と、恐縮しながら断りを立ててのことなので、まったく構わないし、不快ではないのだが、そうして一生懸命メモを取ってくれる様子を見ると、僕は胸が痛くなる。
何かしら、宝物でも混じっていなければ、そうして仕事でもないことにメモを取ったりなんかしないからだ。
だから、胸が痛いし、宝物と思えるならメモを取ってくれて構わないのだが、ただしあくまで原則は、その場で受け止めたり、その場で何かできることのほうが大事だ。
メモにして持ち帰ってしまうと、どうしても、自室で読み返したときは、スケールが1になってしまう。
まあでも、その健気なことが、無為だとは思わないし、そんなことは僕も信じたくない。
それでも、できれば、僕が目の前で話していれば、そのスケール2の状態で何かをなんとかするべきだ。出来る限りは。
一人、自室でいるときに、ウェブや日記や物思いで多弁になるという、そのことに引きこもってしまわないように。スケール1で多弁だというのは、珍しくないが、良いことではない。
誰かと、二人きりなら、割と話せる、四人以上だとぜんぜんしゃべれない、という人も多くて、よく高校生ぐらいにそういう人が多いが、それはしょうがないにせよ、それは自分の「性格」ではないし、「わたしはそういうタイプなんだ」とかいうことではないから、そうと決めつけないでいこう。
スケールの問題なのだ。スケールが2までなら大丈夫だが、4になると無理、とか、ただそれだけの問題であることがほとんどだ。
子供のうちは、そのスケールが大きくはなりようがないので、そのせいで、よくクラスメートというといくつかの「派閥」に分かれている。
それだって、クラスの半分を従えている派閥なんてふつうないので、要するにスケールの問題だ。
少人数でいるほうが楽しい、という実体験はよくあるが、それは普遍的な事実ではなく、単に大きなスケールの一まとまりが形成されることは少ない、というだけにすぎない。
二人でいるときには話せるのに、四人では話せない、というようなことがあるとき、キーが二つなら並ぶが、四つは並ばない、という状態にたいていなっている。
誰かひとり、わがままがいるか、あるいは誰かと誰かの相性のせいで、配列が破綻しているのだ。
願わくは、一まとまりの全体になり、機能できるようになれればいい。
何しろ、八人組が四人組になれば、「今日は少ないね」という人数になるのだから、それだってスケールの問題だ。普段がスケール8で、不意に4になると、「まとまるね」となるのだから、取り扱えるスケールが大きければ、「四人だと話せなくなる」ということはなくなる。
二人で話したほうが楽しい、四人や八人だとしんどい、と感じることもあるかもしれないが、そのしんどいほうでがんばって、それをなんとかできたとき、得ている成長は大きい。スケールの大きい成長を得ていて、それはかけがえのないことだ。
***
個人主義は、経験を得られないからアホになる、と言ったが、さらに言えば、人間の本当の成長はそもそもまったく別のところに起こる。
人間はそもそも、個人では成長しないのだ。それこそ、個人で成長できるのはジョギングとヨガだけだ。
人間的な成長は、個人では得られないのである。
男がいたら、男は女と、また女は男と、一緒になって成長する。片方が成長するのではなく、一緒になって、成長するときは何かしら一緒に成長するのだ。
男と女が、何かでドン底のケンカをしたとする。
お互いにカッカきて、果てしなくやりあい、もう真夜中になってしまった、というようなときだ。
そのとき、ふと、「違う、こうじゃない」という感触がお互いに訪れて、そこにたゆたっていた険悪さの空気がゆるむ。
「ふう」
「……」
「なんかさ」
「うん……」
「お互い、こういうの、やめよう」
「……うん」
「バカみたいだったな、お互い」
「うん。ごめんね」
「いや、おれのほうこそ悪かった」
「……」(黙って首を横に振る)
「何かさ。ちょっと、マシになろうな。おれ、少しマシな奴になりたいわ」
「うん。わたしもそう思う。わたしも努力したい。わたし、今日、自分のことすごく知っちゃった」
「……」
「やんなっちゃうね、自分が」
「同感」
「ごはん作るよ。遅くなっちゃったけど、一緒に食べよ? ね、一緒に食べていって」
「うん、助かる」
こうして人間は、誰かと一緒になって成長する。
反省して、その後の努力で成長する、のではなくて、誰かと疑いなく一緒になること、「個人を超えたところの共有に到達する」ということ自体が成長なのだ。
先輩と後輩が、どちらも愚にもつかない愚痴を言い合っているとする。それだって夜が更けていって深夜になる。
そのときふと、リアリティのある風が吹いて、
「……」
「……」
「何か来たな、今」
「はい、来ましたね」
「まぁ……そういうことだよな」
「そういうことですよ」
「つまり?」
「つまり、これ、グフっ、われわれが間違ってますよ」
「そうだ。そのとおりだ。明らかに、おれらが間違っているブフッ」
ここで、何か知らないが、腹の底から爆発的な笑いが起こる。
ゲラゲラ笑いながら、
「なにやってんだこれ、これじゃまるで人間のクズじゃねえか! でひゃひゃひゃひゃ」
「あれですよ、いわゆる、傷のなめ合いですよ! 傷の、なめ合い! ひっひ、ウひっひっひっ」
と痙攣する。
こうして、成長とは、必ず誰かと一緒に到達するものだし、そうして成長を得た翌日、
「おはよーっす!!」
「おあ、おはようございます。な、なんですか」
「お前なあ、おれらみたいなモン、クソやで!」
「えっ、ク、クソですか」
「わっはっはっはっは」
「えええ、どうしたんですか」
と、元気いっぱいでさわやかだ。
こうして、しんみりおよび爆笑が渦巻く両日がある一方で、個人主義の人間は、ジョギングをしてヨガをして、まったく信頼関係のないワイン会などに参加し、どうでもいい少額の為替の話や、消費傾向の話や、新興のブランド品を安く買えるルートの話などをして、「へー」と言い合っているのだ。
個人主義が、成長なんかまるでせず、それどころか悲惨で、人生をメタクソにされてしまうということが、よくわかるはずだ。
ロクシタンの袋を提げて個人主義の目つきをしているばあさんは、おそらく、「誰かと一緒になって」「個人を超えたところの共有に到達する」という成長の夜を過ごしてきていない。
一方、「何か落としましたよ」とか「それ大丈夫っすか」とかで、声を掛けてきてくれたバイク好きに兄ちゃんたちは、きっと、それなりに、成長の夜を過ごしてきたのだと思う。
個人に引きこもるのか、個人を超えていくのか、この瞬間に即座に選べ。
ロクシタンには何の罪もないし、ジョギングやヨガが悪いわけではまったくない。
ただ、男女が成長する夜や、先輩と後輩が成長する夜、そうしてスケールを「2」に引き上げるだけのことが、今いかに希少か、今いかにありふれていないか、わかってもらえると思う。
手帳の隅に、日ごとの体験スケールを書き込んでいくとして、「2」を書き込む日を得るだけでも大変なのだ。
個人主義者はそこに永遠に「1」を並べるのだろう。
いくら成長する気でも、いくらまじめで真剣で、やる気があるようであっても、そこに「1」しか書き込まれないうちは、人間的な成長はない。
今流行の「個人主義」を、槍玉に挙げてみた。
それで、どうすればいい?
どうすればいいかは、今あなたの胸のうちに、ぼんやりとではあるが、見えているし、感じられているはずだ。
それを、持ち帰って、心の内の個人主義ノートに、「個人主義をやめること」なんて書き込まないことだ。
あなたのやることや考えることはだいたい間違っている。
くれぐれも、あなたが個人として、個人的なやる気に満ちてもしょうがないのだ。
僕はひどいことを言っているが、それでもおそらく、あなたの人生をメタクソにしないための、唯一の道筋を話している。
口が悪いのは性格的なものなので、しょうがないから許してもらうしかない。
僕は今、書き手であり話し手だ。あなたは今、読み手であり聞き手だ。
僕は今、お察しのとおり、何らのテンションもあげず、陶酔感などまるでなしに、ただ「個人主義ってクソだよなあ」ということを、説き明かして主張した。
あなたはどうすればいい?
成長というのは、誰かと一緒にならないと得られないのだ。
あなたが、やる気になり、テンションを上げ、陶酔感に浸っていたら、それはまるで書き手の僕と「一緒」ではない。
あなたはただ、
「このおっさんの言うとおりだわ」
と、しみじみしていたらいいのだ。
僕が目の前にいたら、「あなたの言うとおりだわ、まったく」と、僕と一緒になってくれていればそれでいいのだ。
あなたが感心することは重要ではないし、さらにいえば、あなたが成長することも重要ではない。
成長は「一緒」になることで得られるのだ。
あなたが一人で個人的な成長を夢見ていたら、それはまるで「一緒」ではない。
それぞれが個人的な成長を夢見ていて、それのどこが「一緒」なんだ。
わがままもたいがいにしろ。
あなたはただ、しかるべき人と「一緒」になって、
「うわー、飲みましょうよ! 飲むしかないよ! 一緒に飲んでよ、ねえ、付き合って!」
と、すばらしい人と一緒にいられることを、よろこぶしかないのだ。
おそらく、個人主義の悪癖において、最大最悪のものは、「すぐ自分ばっかり成長したがる」ということだ。これによって、逆に成長が得られなくなる。皮肉というやつだ。
成長したい、というと、美談風味に聞こえるけれど、それって結局のところ、最大の利己心でしかないのにね。
自分は成長しなくちゃいけない、それはわかってる、「けども!」、まあ飲みましょうよ、飲ませてくださいよ、お相手をさせてくださいよ、頑張るのは明日から頑張りますから、まあまあまあまあ、今日はどうか許してください! という奴のほうが、はるかに成長する。
人と一緒にいるということのぬくもりを、直接知って、自分の成長なんかつい後回しにしてしまう奴だからだ。
そこに起こる、どうしようもなさの笑いについては、僕だってきらいじゃない。
それは、笑ってしまうものだろう。
あなたがどうか、個人主義をやめて、個人をあっさり超えていく主義になりますように……と、思わないではないが、そういうふうに言うとどうせあなたはまた陶酔するので、やめておこう。
そんなことより、
「お前の人生は、個人主義のせいで、メタクソにされたよなあ、わっはっは」
と笑うことにしよう。
あなたはそのとき、
「そうなんですよ、まったくそれなんですよ、まあ飲んでくださいよ」
と言って、一緒に笑うようでなければ、あなたは僕と一緒ではない。そこで笑わないなら、あなたは筋金入りの個人主義者ということだ。
[個人主義があなたの人生をメタクソにした/了]