No.328 平等主義があなたの人格をアホウドリにした
つまり……僕とあなたは平等ではないのだ。
ここでは、僕のほうがあなたよりバツグンに優れている、と仮定しよう。
何をもって優れていると言いうるかというと、
「わたし、あなたに出会えて本当によかった」
「わたしはあなたに救われたの」
「あなたのことが、ずっとわたしの支えだったのよ」
と、心の底からたくさん言ってもらえた人のほうが優れている、という取り決めにしておこう。
そんなに無法な取り決めでもない。妥当なところだ。
もちろんあくまで仮定であって、「その取り決めなら、わたしのほうが何十倍も」ということはあるかもしれない。
だから、あくまで、ここでは仮定だ。
僕はこれまで、自分よりも優れた人をたくさん見てきた。
そのたびに、
「うは、勝てねえ」
と、よろこんだり、
「こいつはおれの出る幕なんか無いな」
と、ニヤニヤ首を横に振ったり、
「師匠、あんたバカか、そんなの真似できるかよ。……汗出るわ」
と、大笑いなどしてきた。
だいたい、昔から、先輩後輩というとこういうものではなかったろうか。
僕は今、「尊厳」ということに向けて話している。
先輩と後輩というと、差別的な関係で、会合で食事などすると、先輩が箸をつけるまでは、後輩は正座してジッと待ったままだった。
「ん? 先に食べていいよ」
と言ってくれるのだが、それはトラップで、言われるがまま「そうですか」といって箸をつけようものなら、
「あーあ、お前がそんな奴だとは思わんかった」
と手のひらを返される。
「えっ、勘弁してくださいよ」
「あーあ、お前はそんな奴じゃないと、信じてたのになー」
先輩一同は急速に悪ノリへの団結を高める。
もちろん、仕返しなんてできないので、自分が先輩の立場になったとき、後輩たちに倍返ししたのだ。
差別の関係というのは愉快である。
もちろん、差別というと、途端に「植民地」「奴隷狩り」みたいなことをイメージする人があるが、それはよほどのアナーキーマニアで、あるいは極端な根暗が、差別というと学級でのイジメや人種差別などを連想する。
そういう「本格的」な人は、本格的な差別と同程度に怖い。
どちらを見ても、「なんでそこまで行くんだ……」と、恐怖しか覚えないのだ。
常々、僕は思うのだが、差別であれ平等であれ、問題は結果だ。
たとえば先輩と後輩が、あるいは男と女が、差別的な関係であっても、結果的に、お互いに愛やら絆やらがあって、祝福すべき結末に行き着いた、そしてさんざん生ビールを飲んだ、わっはっは! ということなら、別になんだってよいではないか。
そして、逆に、と、逆のほうを強く言わねばならないが、平等だなんだといって、結果的にお寒い、愛も絆もありゃしない、実力ゼロで残ったのは微妙な空気だけ、みたいなものは、いくらその過程が平等の理念に貫かれていようが、ド失敗なのだ、氷点下の廊下で六時間ぐらい正座して反省するべきである。
後輩のケツを、後ろから蹴って、後輩が成功すれば、それでよし。
後輩の頭を、ヨシヨシと撫でて、後輩が失敗すれば、それはゴミだ。
蹴ってゴミになるよりは撫でてゴミになるほうがマシかもしれない、というのはある。
けれどもその低いところでの論争は誰も前提に置いていない。
女なんて、強いものだから、男が少々ビンタしたって……それによって、女が「あ、わたし綺麗になった」ということなら、文句は言わないし、何なら「もっとして」とお願いまでされるだろう。実際にある。
いくら愛のつもりの気持ちがあってもダメなのだ。男の愛の結果、「わたしブスになったじゃない」ということなら、女はその男を末代まで呪うだろう。
何の話をしていたのだっけ?
「尊厳」の話だ。
今、ハワイ産のポテトチップスを食っているのだが、こいつが旨すぎて、文章にまったく頭が回らない。
ややハイグレードな紅茶を淹れ、ミルクティーにしてがぶ飲みしている。
「尊厳」とは、何のことを言うかというと、つまり、あなたが尊厳のない女だったり、あなたが尊厳を覚える心を持っていない女だった場合、どの男も、あなたを銀座のオステルリーには連れて行かない、ということだった。
よほど発狂じみてアマチュアとのセックスを求めている男を別として、尊厳のない女を尊厳のある場所へ連れていくなんてことは発想しない。
もちろん、男のほうもクルクルパーで、「尊厳って何?」と、内心でわかっていないほどの有様だったら、そのときはもう何もかもめちゃくちゃで、土鍋で草履でも炊いて食え、というまとめになってしまうが……
尊厳のない女を、尊厳のある場所へ連れていくということは、ザリガニと一緒に入浴する、ということぐらい、動機の見当たらない行為だ。
と、正しく引きあたる例を考え出すのもイヤだというぐらい、やる気の出ないことなのだ。
尊厳のない女に、貴金属の指輪をはめて、純白のドレスを着せて教会に連れて行き、式を挙げて、地中海の夕暮れを見に行く、というようなことは、志村けんのやるコントを除いては、架空にも実行されない。
罰ゲームの例でいうと、歯磨きをしているところの顔面にムエタイキックを食らう、というのと同等ぐらいにキツい罰ゲームだ。
貴金属の指輪や純白のドレスや教会や地中海旅行というのは、尊厳のためにあるものであり、尊厳のない人には与えられないので、どうすればよいかというと、諦めるか、もしくは「交渉」することになる。
黙っていても与えられないのだから、まず「要求」するしかない。要求しただけでは与えられないだろうから、交渉、および、説得工作、みたいなことが必要になる。
交渉には、交渉材料というものが必要なもので……
まあ、つまり、ビジネスだ。
男だって、嫁さんを欲しがっている男はいるし、見栄えのいい嫁さんを手に入れて、面目を保ちたいというか、昔からあるコンプレックスの憂さ晴らしがしたい、そのために嫁を見せびらかしたい、という男はいる。
単純に、セックスパートナーが欲しいという男もいるし、中には、重度のマザコンとして、カネで買った娼婦か、もしくは制度で約束された女しか、抱けない、口説けない、勃たない、お母さん怖い、という男もいるのだ。
あとは、単純に、刷り込まれたイメージへの思い入れが強い、自信まるでなしの男もいるから、そういう男は、どうしても郊外に一戸建てと家族を手に入れて、四駆の車と、大きな犬と、四人家族とで過ごしたい、という圧倒的なイメージを追い求めていることもある。
そこのところにうまくつけこむというか、うまく嵌(はま)りあって、ベスト・カップルというのがありえるのじゃないか? という発想で、今、婚活というものが活性化している。
今、ハワイ産のポテトチップスが異様に旨い。これは、誰が食っても旨いだろう。
何の話をしているかというと、尊厳、の話だ。それで、ここまで少し、「もし尊厳がなかったら」みたいな話をしている。
少々、紙面の清潔を犠牲にして、無意味な文字列を並べてみるが、
イケメン、キモオタ、リア充、DQN、萌え、セレブ、ビッチ、神、草食系、肉食系、ロールキャベツ系、意識高い系、喪女、腐女子、だめんず、熟女、美魔女、アラサー、アラフォー、山ガール、森ガール、元カレ、今カレ、リア友、婚活、デキ婚、地味婚、細マッチョ、深い話、勝ち組、負け組、
こういった現代の口語群は、何なのかというと、ただ尊厳がない。
何も新しい概念を示してはいなくて、ただ、従来からあるものに、尊厳を剥奪した言い方を当て直しただけだ。
春休みの宿題に、作文の宿題がある中学生さんは、このことを丸写しすれば、よい点数がもらえるだろう。
「 イケメンとかリア充とか、人をほめているような言葉ですが、ご存知のとおり、言葉に尊厳がありません。尊厳がないということはつまり侮辱が潜んでいるということです。何も新しい概念ではないのですから、旧来どおり、美男子、と言えばよいところを、尊厳を剥奪したいがために、わざわざイケメン、と、侮辱的に言うことをわたしたちは選びます。今、この尊厳の剥奪のために入念な工夫がほどこされたという、目も当てられない成り立ちの言葉が、どれほどわたしたちの周りにひしめいているでしょうか? わたしたちはよほど人に尊厳を認めるのがイヤなようです。笑っているふりをしながら、内心は血眼で、そのことに必死なのです。何かしらの、背後からのはたらきかけによって。わたしたちはこのような中で、互いを侮辱しながら時を費やしていかねばならないのでした。これは平等主義の教育がわたしたちにもたらした、避けがたい結果だったのではないでしょうか?」
段落空白を含めてジャスト400字、原稿用紙一枚だ。
そのように書けば、教師たちもむむっと唸るか、もしくは、教師たちも実は理解力がないということが暴露されるだろう。
僕にとって、全ての貴重な体験は、尊厳の体験だった。
昔、十七歳の女の子が、アルバイトを始めて、何を買うのかなと思っていたら、僕に安物だがダウンジャケットを買ってくれたことがあった。
僕はそれを受け取ったとき、なぜだか、世界中の人々を撃ち殺したくなった。
意味はまったく不明だ。
そうでもないか、意味はわりと、はっきりわかる。
その十七歳の女の子にとって、僕は人間のクズであり男のクズでしかなかったが、それでもあのときあの少女は僕に向けて美しかった。
ああ、もう何か、思い出したくないな。
尊厳の体験を、ここで、話題のために費やしたくないのだ。
ある、ファッションモデルをしている、仮にここではヒョニさんと呼ぶが、ヒョニさんは、待ち合わせ場所に、ファー付きのエレガントなコートを着て現れた。
それはもう、注目を浴びる、というどころではなく、存在感から、周囲は騒然ではない、慄然となった。
僕も、目を疑ったというか、彼女自身の、その存在を疑った。内心で、「マジか」と否定さえした。ヒョニさんは本当に物理的に輝いているように見え、かつ、何のいやらしさもない。
そうして、あまりに美しいもの、かつ、あまりに好ましすぎるものが現れると、空間が歪む感じがして、そこにいる全員は「不安」になる。
それでヒョニは、まっすぐな眼差しと、やわらかい好意の笑顔をあふれかえらせて、僕の前に座ったのだが、僕は何なら立ち上がって、
「撮影じゃありません、気にしないでください」
と周囲に説明したいぐらいだった。
ふつう、男が美女を連れていると、うらやましがられるものだが、あの場合は、もうそういう雰囲気でもなかった。
ヒョニは、顔を赤くして挨拶してくれて、
「よければ」
といって、持参したこじゃれた洋菓子をくれた。
慣れているわけではなく、照れくさそうだったが、両手で差し出して、心がこもっている。
指先まで丁寧に整えられていて、わずかに触れると、雪のようにひんやりしていた。
このときは、僕も久しぶりに、強制的に落ち着くための方法として、煙草をめちゃくちゃに吸いまくった。
「たばこ、似合うね」
とヒョニは言った。無闇に、うれしそうな表情。
そうすると、僕はまた取り乱しがぶり返すので、しょうがないので、コーヒーと煙草を同時に胃と肺に流し込み続けた。
色々話した。
とんでもない速さで時間が流れていった。
しばらくしてから、彼女は照れくさそうに、白状します、というふうに、僕にこう話してくれた。
「本当はね、わたし、ハイヒールを履いて、背伸びをして、あなたに会いに来ているのよ。本当は、すっごく厳しい人だって、わたしわかっているから」
はた目には、特級のレディが、何かの気まぐれで、職を失った貧相な掃除夫にコーヒーをおごっている、というふうにしか見えなかっただろう。
このとき、ヒョニが僕に向けてくれた態度のことを、「尊厳」という。
今、仮にという設定で、僕はあなたよりはるかに、バツグンに優れている、ということで、お話をしていたのだった。
あくまで、仮にだ。目くじらを立てないように。
(ポテトチップスが、一袋食い切れないことが判明した。情けない)
もし、あなたが僕の目の前にいたら、あなたが僕に向けてくれる態度は、尊厳のそれだろうか、それとも、別の何かで、あるいは、「平等」のそれだろうか。
僕は、人から尊敬されることが多いので、単純に尊敬されることは慣れている。傲慢な言い方だが事実だからしょうがない。
そして、経験上、正直なところ、尊厳のない尊敬の態度は、向けられても疲れるだけだ。
僕は尊敬用のおもちゃではないので、そんな勝手なことをされるぐらいなら、おいチンカス野郎、と呼ばれたほうが自由が利いて気分がいい。
これはまったくウソでも誇張でもないので、チンカス野郎と呼んでもらえたら、僕は「おっ」と、途端にうれしそうになるだろう。
ただし、寒い言い方はやめろ。寒い言い方は、まったく別の理由でキツい。
言うならはっきり、ノリノリで言うことだ。
尊厳について話している。
現代は、色々なことが起こっているように見えて、実は単に、「尊厳がない」というだけの一点で説明されてしまう。
彼氏とのツーショット・プリクラを、ツイッターにアップロードすることは、何も悪くないのだが、そこに「ずっと超〜ラブ ラブ」と書かれていようがいまいが、やっていること自体に尊厳がない。
高級な純白のウェディングドレスを着て、指でVサインを示して「イェーイ」とやる、その姿を写真に収めてよいのだが、注意点は、尊厳についてを旦那さんに気づかせないことだ。
旦那さんが急に、「なぜオレは、こんな尊厳のない女と結婚なんかやらかしたんだろう」と、何か知らんがいきなり覚醒してしまったら、その先の二人の生活は地獄になってしまう。
尊厳がない、ということはきっと、情がない、ということではない。情はあるのだろう。
だから、尊厳がないということが、ただちに人間失格、ということにはならない。
ただ、旦那さんが「尊厳」に目覚めたらまずいし、あなただって、今さら「尊厳」に目覚めたらまずいかもしれない。
だったら、こんな話をわざわざ書くな、ということにもなるが……
あなたは、リア充になればいいし、そのためには、細マッチョでロールキャベツ系のイケメンを見つけて、超アピってから、小悪魔的に告(コク)って、彼と一緒に意識高くやっていって、ときには深い話もして、デキ婚も前提でパコられて、ゆくゆくはセレブになり、勝ち組になっていけばいい。
そのためには、婚活もアリだし、婚活がわざとらしければ、友活から始めていってもいいだろう。
ただし、告って、惚れた弱みでヤリ捨てされて、マジ凹みっていうか、病んだり、メンヘラ寸前とかにならないように。構ってちゃんアピールはドン引きされるばっかりだから気をつけて。
僕は別に侮辱して言っているのではない。
ただ、「尊厳」があったりなかったりについて、手探りしながら話しているだけだ。
告(コク)るというのはすごい言葉だと思う。
尊厳がないのはもちろんのこと、その尊厳のなさを大胆に自己アピールしている点が大きな効果を為している。
サンプルのためとはいえ、尊厳の剥奪された言葉を並べると、途端に何を書けばいいのかわからなくなった。
話を元に戻そう。
つまり、僕はあなたよりはるかにバツグンに優れている、と。あくまで仮に、そう設定した。
あなたに出会えてよかった、あなたに救われた、あなたが支えだった、というようなことを、心の底から、たくさん言ってもらえたほうがマシだ、という取り決めだった。
そして、僕とヒョニは、そういう話をたくさんした、時間がとんでもない速さで流れた、ということだった。
二人の間で、時間が凍り付いてるようなときほど、あとで時計を見てびっくりすることになる。
時の流れは止まらないが、時間の感覚と体験は、氷結することがあるのだ。
こう、身体が、ぐんぐん動いていく感覚があるが……
僕はチンカス野郎でもかまわないし、あなたよりはるかにバツグンに優れている、という設定でもいい。事実、僕よりはるかに優れた人の前で、僕はチンカス野郎ワッハッハだったのだし、そんなことには慣れている。
つまり、差別的な環境において、尊厳をどうすればいいか、そのことに慣れている。
対等の友人も勿論いるのだが、僕は陰口として、
「いやあ、あいつはね。あいつには、おれは勝てねえよ」
と言っているし、たぶん向こうも、陰口で似たようなことを言っているだろう。
友人というのはそういうものだから。
それが「尊厳」だ。
あなたは、何に対して、あるいは誰に対して、どの程度の「尊厳」を覚えるのかわからないが、おそらく、いや確実に、あなたはあなたの尊厳程度に釣り合った、尊厳の場所へゆき、尊厳の体験をし、尊厳の関係を得るだろう。
あなたの道を、あなたが塞いでいる、のではなくて、あなたの尊厳程度が、そのままあなたの行く道そのものなのだ。
そのことに、ブーたれるような人間はこの世に一人もいない。
あなたの行く道は、僕の行く道と違うのだ。「わたし、あなたに出会えて本当によかった」と、僕のほうがはるかに優れたバツグンの道……というのは、あくまで仮の設定。あなたのほうがずっと優れた美しい道かもしれない。
ただ、「尊厳」ということにおいて、人の行く道は、決して同じではないのだ。いくら平等を唱えても、行く道が同じになりはしないのだから、重ねるな。
***
「尊厳」について捉えなおしてみてはどうだろうか。
(おっ、まっとうな書き出し)
昔、ちょうど今ぐらい、三月のころ、
「今夜は異様にあったかいですね」
という日があった。
それで、酒を呑もうということなのだが、せっかくなので、近場の公園で呑むか、ということになった。
もちろん桜はまだ咲いていないが、あの公園の「あそこ」で、というビジョンがあった。
公園に出ると空気がすがすがしく、夕暮れが終わり夜になるところだった。
それで、その公園の一画、「あそこ」とイメージしていたところに差し掛かったのだが、そこには三人組の女子高生の姿があった。
僕はその瞬間、立ち止まり、両手を差し押さえる形で左右に伸ばして、友人らを制した。
友人らも立ち止まり、僕が示しているジェスチャーを、見るまでもなく了解した。
たぶん、卒業式か何かの後だ。
時期的にもそうだろうし、パッと見の気配でわかる。
卒業式が終わったあと、名残惜しくて、解散できなくて、公園でえんえん話し込んでいるのだ。
その公園の一画には、もちろん、われわれが座り込む余地も空いていたのだが、そういうことではない。
小声で、
「さ、帰ろか」
と言うと、
「そうですね」
と友人は応じた。
今、彼女たちが話し込んでいる内容は、その声は、一ミリでも立ち聞きされるべきではないし、一秒でも、その話し込みは途絶えるべきではない。
地べたに座り込んでいるので、敷物ぐらい差し入れてやりたかったが、この場合、とにかく部外者が一切割り込まないことだけが優先される。
もし、そのときの我々にできることがあったとすれば、そうして宵の口に少女たちが話し込んでいるところに、不埒者が絡みにいかないかどうか、遠目に警護することぐらいだったろう。
そのようにしてもよかったが、そのあたりは、そういったことの特にない地域だったので、まあ大丈夫だろうということで、見えないおせっかいもやめておくことにした。
あと、我々ができること、するべきことといえば、彼女らの青春を、決して我々の酒の肴にしないことだ。
それは、たとえ彼女らには聞こえないにしても、決してやってはいけない。
それが「尊厳」だ。
もしそこで、「いやー、青春っていいですよねえ、ああいうの見ると、どうたらこうたら」というような話をするような奴がいたら、僕は即座に襟首を掴み上げ、サイコパスの目になって、
「汚れるからやめろ」
「はい、そうでしたね」
という話になる。
美人OLとか、キャリアウーマンとかにこういう人がよくいる。
「あー、青春だよねー。いいなー! あたしにもああいう時期あったよなー」
なんでもかんでも、自分の自尊心と酒の肴にしていいと思い込んでいる愚物だ。
僕は尊厳の眼前においては完全に差別的な人間なので、こんなクソキャリアウーマンはジョギング中にトレーラー車にはねられて死ね、と思う。
実際、似たようなことがあって、
「おい」
「え、何」
「失せろ」
「えー? 何、急にどしたの」
「失せろって。失せろ。失・せ・ろ。」
「え、だっ……」
「失せろや。言うてることわからんのんかコラ」
彼女は昔合気道をやっていたし、今も護身術みたいなものをかじっていたはずだが、そんなものはゴミなので、僕が殺意に満ちたら彼女はただビビるだけだ。僕のほうが男性なのだし僕は身体も大きい。
余談だが、殺意を前提にしていない護身術なんか何の役にも立たないので気をつけよう。
指で乱暴に「失せろ」指図すると、踵を返して振り向きざま、「なにそれ!」と、全力でムカついたらしい捨てゼリフを残して逃げていった。せっかく、いいお尻をしていて、茶色く染めた髪が綺麗に揺れているのに、もったいないことだ。
どれだけ強いふうを装ったって、歩き方を見たら、怖がって逃げているというのは一目瞭然だ。ごまかせるのは自分自身だけだろうが、そうして自分をだまして生きてどうするのだろうと思う。
まあ、それはいい。そういったとき、その後は絶交で、どこかでまた、僕への悪口も酒の肴になっているだろう。
ごくまれに、数年経ってから、「あのときの、○○です。覚えていらっしゃいますか?」と連絡が来ることもある。
「あのときのこと、わたしにとっては、本当にショックでした。それで、あのときから、わたし変わったんです。あのとき、あなたがわたしに向けてしてくれたこと、それが何だったのか、今になってようやくわかります。ありがとう。本当にありがとう。ここ数年、ずっとそう思っていました。最後にこのことを報告しとかなきゃと思って。勝手でごめんなさい。わたし結婚するんです。今、とても幸せです。あなたがいなかったら、わたしの今のこの幸せはありませんでした。あなたはわたしの、人生の恩人です。」
こういう連絡を受けたら、どうするかというと、もちろん返信するのだが、その返信はもうひたすら土下座の平謝り、ということになる。「あのときは、ほんとごめんね、いやホントごめん」。それ以外に、特に話すこともない。またいつか、会えたらいいな、今度は、ヨソのこと酒の肴にしなくても、お互いの思い出を肴にして、酒が飲めるもんなあ、ぐらいは思う。現在の彼女がどんな眼差しをしているか、お尻ともども興味はあるが、彼女は今新しい幸せを掴んでいる。その幸福の気配には、「こいつはおれの出る幕なんか無いな」というやつだ。このことはさっき話したっけか。
これにて、一件落着、ということになる。数年間を隔てて。そういうことは、これまでに何度もあった。
「尊厳」の話をしている。
(しつこい)
尊厳ということを捉えなおしてみよう。
尊厳とは、つまみぐいは許されない、ということだ。
唾をつけるのは許されない。
酒の肴にする権利なんかあるわけないし、何なら、感動する権利もない、と捉えたほうがいい。
感動する権利があるのは、尊厳の只中にある当事者たちだけで、部外者にできることといえば、邪魔しないことと、あとはせいぜい、目撃する権利だけだ。
あくまで、尊厳を向けてであれば、目撃することだけは許される。
尊厳を向けず、目撃したものをただちにつまみぐいする、愚物、アホウドリは、ただちに「失せろ」ということになる。
殺意を向けられて当然だ。
殺意はそのとき、本当に、全力で「死んでほしい」のだ。だから堂々たる殺意であり、もし法律の庇護がなければ、そのときコンクリ片で顔面を叩き割られて終わっている。
だって、まあ、高校生が卒業式のあと、公園で地べたで話し込み、帰れなくなって、いつか泣く涙を内側にずっと溜めていっているという、そのどうしようもない勇気の時間を、よりによって疲れたオバハンの酒の肴にしようとしたのだぞ。
それを、コンクリ片で顔面を叩き割って、無かったこととして済ませられるのなら、お安いことというか、ベストの判断ではないか。顔面を叩き割られた当人ともども、誰からも文句は出ないだろう。
僕なんて、根性なしの類だから、「失せろ」で済ませるしかなくて、シド・ヴィシャスだったら、そんな問答をせずオバハンを茂みに引き倒して顔面を割ってレイプぐらいしたのではないだろうか。そして唾を吐きかけて帰ったと思う。あまり、詳しく人柄を知らないが。
そう、つまり、尊厳および尊厳を覚える心のない人間は、尊厳のない扱いをされるのが人道上の必然なのだ。それで「つじつまが合う」のである。
丹精込めて料理をしてくれる料理人がいると聞きつけると、即座にそのお店にいき、その料理を写真に撮ってSNSにささっとアップロードするとかいう、ド厚かましさのバケモノが、なぜこうも増えてしまったのだろう。「尊厳」がわからないのだ。
僕なんか、一眼レフのマニュアルフォーカスのフィルムカメラを持っていくのに、必ず写真を撮ることを忘れる。わざわざ新しいフィルムを入れたのに、目の前に料理が来ると、「わー」となって、こいつはたまらんなぁと箸を手に取り、うめえ、こりゃうめえ、これもうめえし、こっちはもっとうめえ、んのぉぉぉぉぉ〜となっていく。それで、「いやあ、食ったな、旨……あ」と、写真を撮り忘れたことに気づく。もう何度もその繰り返しだ。食事は旅行先の大きな楽しみであるはずなのに、食事の写真がほとんど残っていない。
尊厳のあるものを、趣味的につまみぐいをしていい権利なんかないのだ。
そうすると、SNSにアップロードするものが何もなくなるかもしれないが、そのときはつまり、自分は提示すべきものを何も持っていない人間だ、というだけのことなので、おとなしく身の程にしていればいい。つまり、おとなしくさびしさに喘ぎ苦しんでいればいい。
「天空の城ラピュタ」は、尊厳ある名作の映画で、作中世界は尊厳に満ちているのに、なぜそれがおもちゃに供されねばならないのだろう。
「バルス祭り」という遊びがある。金曜ロードショーで「天空の城ラピュタ」の放映があると、作中のクライマックスで、滅びの呪文「バルス!」が唱和されるのに合わせて、「バルス!」の文言がツイッター上に一斉に送信されるというもの。一斉送信によってツイッターのサーバーがダウンするから、まさに「滅びの呪文」だ。
たぶん、本当に、「尊厳」がわからないのだ。
そして、何でもかんでもつまみぐいしていい、おもちゃにしていい、ワタシ万歳、みたいな教育と訓練が、きっちり出来上がっているのだろう。
全員の顔面を叩き割っていたら、コンクリ片のほうが足りなくなりそうだし、「尊厳」がわからないといっても、十五歳の時点で女の子が顔面を叩き割られるというのは理不尽だ。彼女はほとんど、教育されてきたまま、および、空気を読まされたまま、そのように振る舞っているに違いない。そのまま出来上がりを迎えたら純正のクソだが、おそらく、まだ多くの人は迷っている。迷っているところに、「尊厳」において、つまみぐいをやめる、おもちゃにしない、していいはずがない、という、そういう捉え方があるんだよということを教われば、一部の勇敢な少女は、その「尊厳」のほうを選択して生きていくことがありえるだろう。
だから、まず、自分を尊厳において差別しろ。自分は何の権利もないんだということ、「そんな権利が自分にあるわけないよ」と、自分自身を教育しろ。
尊厳に向けて、尊厳を手向けて、自分のしてよいことは「目撃」だけだ。決して邪魔せず目撃することだけだ。尊厳を手向けて、内心にもつまみぐいする厚かましさがなければ、目撃することは許されるし、そのときは、気分次第で目をそらしてはいけない。目撃するなら最後まで目撃する。見届ける。それは権利ではなく義務のことだ。尊厳を手向けてであれば、目撃する権利はあるし、目撃したなら、そのときは最後まで目をそらさず見届ける義務がある。
そうして、尊厳に向けて、自己の権利を厳しく統制することが、人間の美であり徳であったのに、わざわざその反対方向、権利意識の無限肥大に、教育して誘導したのはどこの誰なんだ。
目撃する権利しかない、というのは、あなたが、ということじゃなくて、僕だって、ということだ。
だから、尊厳に向けてのそこのところができないなら、首に縄をつけて目黒川に飛び込んだほうがマシだ、と初めから言っている。
(言ったっけ? 忘れた)
尊厳のない人間、および、尊厳を覚える心がない人間は、尊厳のない扱いを当然受ける、という、人道上のつじつまがある。これは正当なものだ。
そして、あえて「自分には尊厳なんかいらない」「よくわっかんないし」という人は、それで別に破綻はしていないだろう。
なるべく、尊厳臭のするところには近寄らず、「あたしわっかんないしー」と言いながら、電車内で顔面にリキッドファンデーションを塗りたくる、そして大声でスマホ通話する、そして「ネイルがさあ」ということを一生言い続ける、ということでいい。
僕は、実のところ、そういうデタラメなギャルが、わりときらいでない。軽蔑する気持ちも起こらない。「○○系の、タミ子でーす。うふー。埼玉からはるばる来てまーす。えーとマイブームはぁ」みたいな感じで、ガラガラヘビも逃げるぜみたいなダミ声を出してくれてかまわない。
ただ、それを、わざわざ喫茶店でやらないでもらいたいし、間違っても、ルーブル美術館に行くとかはしないでほしい、というだけだ。もし行くことがあったら、絵画なんて見なくていいから、全力で空気を読むことだけ貫いてくれ。と、そのことは、言われなくても、すでに周知されているのだったか。あとはタミ子が、「あたし空気読むことには命かけてっからぁ」という気概を持っているかどうか。
だいたい、全ての人が、性根としては善人であることのほうが多いから、いろいろとやりきれない気持ちが起こる。「尊厳」を、おそらくは、知り損ねた、教わり損ねた、逆のものを叩き込まれた、というだけなのだろうが、今さら言ってもしょうがない。まして逆のものを叩き込んだのは僕ではない。
「尊厳」の捉え方として、尊厳に縁遠いから、尊厳のない扱いを受けていいし、尊厳のない扱いを受ける場所にしか行きません、ということなら、別に何の問題もないのだ。そこにはこんなうっとうしいお説教は発生しない。
一番つじつまが合っていないのは、尊厳がないくせに、尊厳に憧れている人間だろう。尊厳ある扱いを受けることに憧れている。
そういう人と話をすると、やっぱり女として大切にされたいし、一度きりの人生なのだから、豊かに華やかに、かつ女として死なないように生きていきたい、だって年とってもきれいな人って実際いるじゃん、という話になり、
「つまり、セレブになりたいっていうこと?」
「そう! わたしセレブになりたい! ヤバい!」
というあたりに落着してしまう。
なんという尊厳のなさ。
そしてなんという尊厳への希求だ。
そして、なにより、そんなつじつまの合わなさをへっちゃらでやる、なんという厚かましさだ。
こういったことにはネーミングが必要なので、こういう人種のことを、今後「アホウドリ」と呼ぶことにしよう。
なぜ「アホウドリ」なのか、成り立ちや由来の意味はまったくない。
アホウドリの生態なんか知らないし、ウィキペディアを調べる気にもなれない。
ぴったり当てはまる言葉を探してもいいが、それを見つけるか作り出すかすると、その言葉はさぞかし尊厳のない言葉になるだろう。だからイヤだ。
アホウドリでいい。
アホウドリとは、尊厳がないのに、尊厳ある扱いを求める人間のことだ。そのつじつまの合わなさをアホウドリという。
***
いよいよ本質が見えてきたが、つまり、僕はイジメられているのだ。
尊厳を向けてもらえないのである。
なかなかの、あっぱれな泣き言だが、今さらごまかしてもしょうがない。
何によってイジメられているかというと、平等の観念によってだ。
人は僕の、最も大切な思い出話を聞きたがる。僕の体験に係る、最大の尊厳のことを聞きたがる。
が、その話は、平等の観念において、くしゃみ、
「あ、花粉症なんです」
どうぞ、続けて、ということと、完全に同列に扱われてしまう。
これによって、傷ついているのだ。
その意味で、傷ついているということを認めてしまえば、もうズタボロで、このまま標本にして博物館に展示する値打ちがあるぐらいだ。
まあ僕は、そういったことで、落ち込んだりしょげかえったり全弾装填したロシアンルーレットをやり始めたりするたちではないが、事実としてイジメられているのには違いないし、そのイジメにはなんらの悪意も伴っていないというところが悪質だ。
誰も悪くないのに、何か知らんが気づくとズタボロになっていってしまう。
イジメ電話相談室、みたいなところにコールしたら、コール先のおばさんに、再びイジメられてしまうだろう。
そういうところのオバサンが、僕に尊厳を向けてくれるとは思えない。
まあそれは、イメージだけの先入観なので、決めつけるのはよくないかもしれないけれど。
僕は今、とてもたくさんの人に、愛してもらえている。
ので、その愛については何の文句もないし、正直抱えきれずにオーバーフローしているぐらいなのだが、そこでだ。
僕は何に苦しんでいるのだろう?
僕は、僕のことで苦しんでいるのではなく、僕を愛してくれる人のことで苦しんでいるのだ。
よくよく考えれば、今の僕には、苦しむべきようなことは何一つない、ひどく快適だ、ということが明らかだった。
それで、僕のことを愛してくれる人について、その人が、僕に向けてどうすればよいかわかっていない、「彼女なりの精一杯」が、どうしてもどこか空振りになってしまうということについて、苦しんでいるのだ。
僕を愛してくれない女については、別にどうでもいいので、かき氷メロンの食いすぎで凍死しろ、としか思わないが、僕を愛してくれる女は別だ。最高の人生を送る権利と義務がある。
おれの女が空振りすることは、本質的に許せない。
それで、僕は、平等主義を目の敵にしているのだ。
平等? バカを言ってはいけない。
平等じゃなくて、尊厳だ、と僕は言っている。
平等だというなら、じゃあいいが、あなたに僕と同じことができるのか。
僕のほうが、はるかに優れ、バツグンに優れている、と、あくまで仮定だが、設定したはずだ。
この設定上、あなたは僕と同じことができないはずだ。
僕がこれまで、自分よりはるかに優れた人と、同じことはできずにきたことと同じように。
平等主義に向けるアンチテーゼはこうだ。
「出来もせんくせに」
あなたに出会えて本当によかった、わたしはあなたに救われたの、あなたのことがずっと支えだったのよ、と、たくさん心の底から言われること。それが優れているということだと、取り決めたはずだ。
それについて、「出来もせんくせに」と。出来るようになる見込みもないくせに、と。
何が「平等」なんだ? 出来もせんくせに。
あくまで設定上のことだ、お忘れなく。その取り決めなら、アンタなんかよりわたしのほうが何十倍も、ということはありうる。そのときはただ立場が逆だ。話の内容は変わらない。
で、だ。
ここに当然、平等主義に向けたアンチテーゼから、
「出来もせんくせに、お前のその、いっぱし風味のツラ、一人前風情の物言いは、なんなの?」
という言い方が成り立つ。
怖いな!
こんなこと言われたら、チビってしまう……と、想像したのではなく、僕は過去を思い出した。
怖い目にあってきたのである。
たとえば、ここに、ダンス歴十年の人間がいて、彼に何ができるかというと、人間に視覚的ないやがらせしかできない、という実力状態だったとしよう。
「ダンスってどんなの?」
と訊かれると、
「ダンスってのはさ」
と、文言で答えようとするような奴だ。
「こうだよ」と見せるものがない、そういう奴だったとしよう。
あるいは、「こうだよ」と見せても、そのとき周囲は内心で、
(うわ、全力で恥ずかしいからマジでやめて、こっちが恥ずかしい、耐えられない)
と悲鳴を上げるような、そんな状態の奴だったとしよう。
いや、あるいは、「こうだよ」とやって見せた瞬間、
(あー、うまいこと、ごまかすね、そういう空気感出すのにすごい慣れてるね)
と周囲を失望させる、そういう実力状態の奴だったとしよう。
ちなみに、そういった物事が出来ているかいないか、その判定は、難しいように思われるが、実は判定する簡単な方法がある。
「い、今の、もう一回やって? ねえ、お願い」
「あれがもう一回見たいよ、ねえ、やって?」
と、せがまれることがなければ、それは確定的に「出来ていない」ということだ。
あるいは、「こうだよ」とやってみせて、それを「はいおわり」としたとき、「あっ」と、周囲が残念がるという、そういうことが起こらないなら、何も出来ていないのだ。
男女とも、生活の中で、特に本当にしたいことや、しなくてはならないことがあるわけではないので、デートに誘えば、普通のデートは誰にだってそれなりにできる。おしゃべりもするだろう。
でもそこで、「そろそろ帰るわ」と言ったとき、
「えー。帰るの? 帰んないでよ。ね、もうちょっとだけ。いいじゃない、ね?」
と、袖口を引っ張られて引き留められないなら、そのデートひとつも、おしゃべりひとつも、本当には出来ていないのだ。
残酷な話をしているようだが、そうではなくて、あなただって目の前に僕がいて、僕とのデートが魅力的でなく、おしゃべりも面白くなかったなら、別にそうして引き留めたりしないだろう、帰ってさっさとシャワー浴びて寝たいだろう、というだけの話だ。残酷なのは僕の話ではなく、あなたであり、その他すべての人の事実だ。
それで、話を戻して、何だっけ。
ゴミダンサーの話だ。
彼が、マイケルジャクソンのブカレスト・ライブのビデオを観たとき、彼はどのようにそれを受け止めればいいだろうか?
「あー、マイケルやっぱすごいわ。マジヤバい。マジハンパないよね。これさあ、こういうキレとかって、やっぱ天性のものなんだよな。あー、あー、あー、マジわかるわ。これってインスピレーションのもんだよな。おれらもさあ、今あるダンスの形って、決まり決まってて新しくないから、すげー疑問持ってんだよね」
見ろ、この尊厳のなさを。これをアホウドリという。
平等主義が人格をアホウドリにしてしまうということがよくわかるだろう。
あるいは、物思いに耽りがちな、ただそれだけの女が、
「すごい……すごいと思います。ひたすら、すごい。こんなこと、普通の人にできないですよ。これ、何ていうんですか? わたし友達にも勧めたいです」
というような場合。これも尊厳がない。
善良そうな雰囲気に騙されてはいけない。事実善良だろうが、そのことは尊厳に関係ない。
「つまみ食い」しているだろうが。唾をつけているではないか。
物思いに耽りがちな、ただそれだけの善良な女にも、それ相応の権利が付与されている、と我々は教え込まれている。
だが、それはウソだ。
ここをなんとしても乗り越えねばならない。
物思い善良女の、罪のなさそうなその振る舞いには、尊厳がない。
説き明かせることだ。
なぜなら、その善良女に、貴金属の指輪を与えて、純白のドレスを着せて、教会に連れて行って式を挙げ、地中海の景色を見せに連れていきたいとは、誰も思わないからだ。
尊厳がないから、尊厳のあるところへ連れていきたいとは感じないのだ。
ここのところをごまかしてはいけない。
ここのところをごまかして、苦しむのは、他ならぬその善良女なのだ。
善良女は、善良を尽くしながら、なぜ自分に尊厳の指輪とドレスと教会と地中海が与えられないのか、「なぜなの?」と、方途がなくて泣いているんだぞ。
自分のやっていることが、本当はどこか空振りしていることを知ってるのに、周りは漠然と「いい子」だと扱うから、彼女には方途がないのだ。
それがもっとも冷酷なことだとわからないのか。
そして、僕が何に苦しんでいるかといえば、彼女が僕のことを愛してくれて、なんとか向き合おうとして、それでも全部空振りに終わる、そのことの解決のなさに苦しんでいるのだ。
それはもう、平等主義者の全員を最強のトラバサミで山林に固定したいと思い描くのも当然のことだろう。
ゴミダンサーはどうすればよかったか。
決まっている、目をきらきらさせて、
「おれはね、もうね、ヒッ、雑巾がけをするね! 何かしらんが、おれに出来ることって雑巾がけだけだと思うわ。な、ふざけんなよ、ヒッ、ヒヒッ、こんなもん誰ができるっていうんだ、汗出るわ」
そう言って、イヒヒ、イッヒッヒッヒ! と笑っていれば、そいつはきっとアホウドリではない、まともだ。
彼はその後、雑巾がけをしながら、うひょほお、っっつつああああ! ぬなりぬあぁぁあ〜、う〜、ザブザブ、と、その雑巾がけぶりを発達させていくので、彼はそこでついに、求めていた「ファンキー」ということの糸口をつかみ始める。
それは、人格としてまともなことじゃないか。
そこで、彼には、少し上等な酒を飲ませてやりたいと、誰だって思うのじゃないか。
尊厳において、差別しろ。
少なくとも、自分自身を、尊厳において差別し、その厚顔無恥に膨れ上がった権利を奪え。
そしてそのことを、よろこばねばならない。心の底から。
「尊厳」をやっているのだから、その「尊厳」に向き合えている自分を、これでいい、これが最高だ、とよろこばないといけない。
よろこべないなら、それは結局、平等主義の中で、勝手に「虐げられている」と妄想しているのだ。
尊厳に到達できなかった人間が、それでも厚かましく、拍手を受けたいと望んだら、どのような工作が有効だろうか。
それは、言わずもがな、「万人が平等に拍手を受けるべきです」という主張を打ち立てればいい。
そこから、拍手は、尊厳に向けてではなく、平等に向けて打ち鳴らされることになる。
そのうち、拍手の、本当のやり方も忘れてしまって……
それでどうか、僕をイジメないでくれ。
平等平等と言われると、いやもちろん、そう刷り込まれているだけで、そうしているという自覚はないのだろうが、それにしてもだ。
平等平等と言われると、僕はもう僕のすべてをやめてしまわねばならなくなる。
あなたは僕と同じことができるのか?(設定上)
出来もせんくせに。(設定上)
出来もせんくせに、重ねるな。(設定上)
あなたが、僕と同じことをできないのに(設定上)、それでも平等平等とあなたが言うから、僕は僕の出来ることを、やめてしまわねばならないじゃないか。
それで、あなたが僕にがっかりする、いまいちね、みたいな反応をする、それはあまりに、むごいやり方じゃないか? そんなのはどう見たってイジメだ。
イジメるのをやめて、どうか、目撃していってくれ。
ゲロを吐いてくれてもいいので、「わたしの愉しみ」みたいなクソをやめてくれ。
まさか僕は、客席からズボンの裾を引っ張られることはないと思い込んで生きてきたのだ。
そんな舞台があってたまるか。舞台の尊厳はどこにいった。
写メがパシャパシャ鳴り響く舞台なんてどこにあるんだ。
「上映中の撮影は禁止されています」というアナウンスが鳴り響く。
そんなアナウンスがあること自体、尊厳が見失われているという事実の恥だ。
つまみ食いをしないことだ。
そのつまみ食いが、人のズボンの裾をつまんでいるのだ。
そのたび、人は「あれれ、えっと」と立ち止まるか、転倒しないように強引なバランスの取り直しをしなくてはならなくなる。
あなたにも、そうするだけの、平等な権利があるってか。あなたの顔面がコンクリ片で叩き割られるところを別に見たいわけではない。
目撃する権利と見届ける義務があって、そこでは内心に物思いに耽る権利さえない。
尊厳の反対は平等だ。
仮に、尊厳のない人間だけを集めたら、その平等主義は文句なしに成立するだろう。
今、その成立に、事実として向かっていて、ほとんど完成間近だ。
リア充とイケメンとキモオタから成るこの世界は、平等主義の感触に満ち溢れ、誰もが善良だ。しかし、誰も目をきらきらさせて雑巾がけを始めはしない。尊厳があろうがなかろうが気にせずそれぞれはつまみ食いをしてシャッターを切る。「万人が平等に拍手を受けるべきです」、その平等主義の証拠として今実物の「イイネ!」ボタンがある。
「平等主義」があなたの人格をアホウドリにした、ということだ。
あくまで、仮に、設定上はだ。
***
受け取りやすいように一般論に括っておきたい。
あなたは、尊厳のある扱いを受けなくていいだろうか。
あなたが料理屋に行くということは、地べたに座らされ、洗っていないフォークを投げ渡され、紙皿に油まみれのスパゲティを食わされ、目の前で股間をボリボリ掻かれることだろうか。
そんなのはイヤだろうし、じゃあそこで、「こっちはカネ払ってんだぞ!」と言い立てるか。
その言い立て方のむなしいことは誰にだってわかるだろう。
尊厳が与えられない、という地獄絵図はそんな感じだ。
あなたが、親御さんを亡くし、悲しくて泣いていたとする。
そこに彼が、パシャ! と写メールのシャッターを切る。
「何撮ってんの!?」
「いや、泣いている顔、珍しいと思って。いいじゃん、記念になる」
これがあなたの旦那さんになる。あなたは彼とセックスして彼の子供を身ごもる。
あなたの旦那さんは、あなたの生んだ男児に、「波動砲」という名前をつける。
「おれ、逆にヤマトとかってかっけえって思うから。で、やっぱ強い男になってほしいじゃん」
あなたは苦しみを抱えすぎて、病気になり、一命はとりとめたが、手術によって不可逆性の大きな傷を負った。
あなたの友人たちは言う。
「うわ、マジかわいそう」
「超ブルーじゃん、なにそれ」
「マジ、元気だしなって」
「それってさ、正直、どういう気分になる? おれ真面目に興味あるわ」
「おれさ、こういう目に遭ってさ、なお強く生きられる人とかって、すげえ尊敬するわ」
「マジやばくね? おれちょっと、病気のこととか詳しくなろうって思ったわ」
見知らぬおばさまがやってきて、
「あのね、話聞いたの。なんとまあ、なんとまあ……あなたのような罪のない人が、どうしてこんな目にって、わたしもう悲しくて悲しくて……だって、人の心が! 人には心があるんですよ!」
と、オンオン泣き出す。
「あのね、聞いてちょうだい。わたしにも以前そういうことがあって。わたし! それから、ずっと考えてきたんです! わたしとあなた、きっと友達ね。友達ってそういうものじゃないかしら」
尊厳の与えられない人生というとこんな感じだろう。
あなたは本当に、尊厳ということに無関心だろうか。
きっと、こうやって焦点を当てて教えられたことがないだけで、「尊厳」という言葉は、あなたにとって無関心なものではないはずだ。
では、逆転してあなたに訊くので、照らし合わせて聞いてもらいたい。
あなたが、飲食店でアルバイトで働いていたとしたら、その内心に、「だって、おカネもらって仕事としてやっているんだし」という、自己確認の声がないだろうか? そしてその声は、あなたの得意の武器になっているところがないだろうか。
あなたは、客が来たら、当然の接客をする。失礼のないように。それは、「カネをもらっている仕事だから」ではないか? あなたはきっとそこに、「尊厳だから」という発想を強く確かめたことがない。
あなたが、何か珍しいものを見つけたとき、つい写メールで撮りたくなるが、そのとき、果たしてそこでパシャッとやってよいものかどうか、周囲に十分に慎重だろうか? 「別にいいじゃん」という、投げやりで粗雑な気持ちはないだろうか。
若い職人さんが、あなたに美しく握った寿司の一皿を出してくれた。あなたがそれをパシャッとしたがるとき、しかしひょっとしたら、その寿司の一貫だって、今は亡き彼の師匠が、一つ一つ怒鳴りながら命がけで教えてくれたもの、その結晶なのかもしれない。あなたには、それを写メールにつまみ食いする権利があるだろうか。わずかでも寿司が乾燥する前に、握りたてをそのままいただくということが、マナーではなく「尊厳」だろう、と、そういう捉え方を、きっとあなたは確かめたことが少ない。
あなたは自分の子に「波動砲」とは名づけないだろうが、友人の装いを見て、「あ、○○系じゃん」みたいなことを言うかもしれない。しかし、もしそれが、彼女の祖父が苦心を重ねて彼女にプレゼントした、ひとまとまりの装いだったとしたら? 彼女の祖父は確かに、結局は女性誌に載っているコーディネートをそのまま買い揃えただけだったかもしれない。だがそれは「○○系」だろうか。尊厳はどこにだってあるかもしれない。僕が、見た目に安物とわかる、"高校生のアルバイトでも買えそう"な、ダウンジャケットを着てきたら?
僕は、よくわからない足の発作を持っている。最近はおとなしいが、発症するとまったく身動きがとれなくなる。時には何か月も松葉杖で、室内しか動けないということがある。痛みで、寝ていてもダラダラ汗が出る。
そのときあなたは、どのようにいたわりを向けてくれるか。僕は、春先に、特に桜の咲き、また散るころ、どうしてもいくつかの場所を歩かねばならない、という悲壮な思いを持っている。あなたはそのことへ、尊厳を向けてくれるだろうか。あなたは、十分な慎重さなしに、「こういうときは励まさないと!」というイメージから、"陽気"な気分を手放さずにいるかもしれない。
思い出すだけで、胸が張り裂けそうになる、痛みを伴う思い出が僕にもある。あなたがそれを聞きたがれば、僕もあるときそれを話すかもしれない。すべてが貴重なことの思い出だ。そして、その中で、どうしようもなくそのとき失われていってしまったものが話される。すべてが貴重であったとしても、すべてを失わずにゆけるというわけではないから。
そのときあなたは、
「わたしもそういう体験がしたかった。あのね、わたし、そういう思い出がなくって、あの、昔のわたしって」
と、自分自身のために泣き、自分の話にスリカエをすることをせずにいられるだろうか。そのとき、僕の取り出した思い出の話への尊厳はどうなるのだろう?
あなたが今、この話を、しっかり受け止めて向き合うように、真剣に聞いてくれていたとして、さらには本来次のような態度も成り立ちえることに、気づかれただろうか? なにも真剣な向き合い方をするということは、自分自身がシリアスな気持ちで自己を問うということに限定されない。いっそ、気分としては軽やかに、ということもありうる。
「この際、ここまできたら、こちらがどうか、というようなことは、もういいじゃないか。少なくとも、こいつはまともなことを言っている。まともなことを書き話している。こっちのことはさておき、こいつが祝福されるべきだ。おれが自分をどうしようとか、そういうことの出る幕ではすでにない」
こういう尊厳の向け方がありうる。
尊厳とはつまりそういうことだ。
尊厳とは、仮に自分を消去したら、という見方で物事を見ることだ。
自分まで消去できてしまう、その圧倒的なよろこびのことを、尊厳という。
平等主義の真逆、差別の果てに起こる自己消去だ。
尊厳については色々ある。
国境も人種も超えるだろう。
インドの、英語表記ではベナレスだが、現地ではバラナシと呼ばれる、彼らにとっては聖地の、ゴドリヤー交差点から、バジャールを抜けて川までゆくと、ダシャーシュワメード・ガートという沐浴場に出る。川はもちろんガンジス川で、当地の呼び方はガンガーだ。その左手へ川べりを進むと、こちらにはマニカルニカ・ガートという火葬場がある。火葬場では野天で遺体の火葬が行われているが、ここを観光客が覗きこみ、ひどいときには写真を撮ったりして、遺族に大声で怒鳴られていることがある。
しかし僕は、しばしばそのマニカルニカ・ガートのそばに立ち、人が亡くなって弔われていくのを見ていたが、どの遺族にも怒られることはなかった。遺族の長男から、立ち話をされることも幾度かあった。彼は僕に向けて、突然、かつ、当然のように話し始めた。
「オヤジはマリファナのやりすぎて早死にしたんだ。生前から歯がボロボロだった」
「……そうか。長生きされなかったのは、その、無念、だったな。悲しいことだ」
「ああ。でも、泣いてはいけない。泣くと、魂が躊躇して、天国に行けなくなってしまうから」
そういう宗教観らしい。
男らしく、何事もない、という気勢で、彼は立っていた。
僕はふと思って、
「いいオヤジさんだったか?」
と訊いた。
すると、どの国のどの人種でもやりそうな、苦笑いをして、肩をすくめた。
「いろいろあったからな」
男は、――わかるだろ? という、男同士の目配せを向けてきた。
僕はかすかにうなずいて返した。
ヘヘ、と彼は笑った。
人が亡くなられて、弔われていくのだ。
その尊厳の前には、僕のことなど何も関係ない。
火葬を見ていたのか、名所を見ていたのか、死体を見ていたのか、わからない。
胸に手を当てたり、合掌したり、冥福を祈ったりだとか、わざとらしいことは何もしなかった。
そんなものは要らないと思う。そんな、僕の出る幕ではない。
僕がいなくたって、その場所とその営為には尊厳があるのだから、僕は要らないのだ。
僕は、何も見ていなかったし、何も眺めていなかったが、ただその営為を目撃していた。
写真になんか撮らなくても、今でも焼き付いたように思い出せる。
尊厳のない人には、おそらく、焼き付いたように思い出せることが、何一つないだろう。
尊厳は、差別の果て、人間に自己消去というかけがえのない体験をくれる。
自己消去まで至らしめた、その尊厳のことを、別名、インスピレーションというのだ。
一般に思われているインスピレーションとは、たぶんイメージが違うが、そのことはまたいずれ話すことにしよう。
一般論に括り付けておく。
今、男女関係は、互いの性への尊厳を失い、友達感覚で付き合うことが主流になっている。平等主義なら友達感覚だろう。
今、親子関係も、子が親の懐の深さに尊厳を持つことなく、また親が子の若さと未来に尊厳を持つこともなく、友達感覚のまま、仲良くしたり、諍いを起こしたりしている。
教師と生徒も、尊厳を向け合わず、舞台と客席も、尊厳を向け合わず、店と客も、尊厳を向け合わない。何もかもを、平等、友達感覚で済ませようとしている。
友人は大切だが、友達感覚は大切ではない。
友人というのは、互いに、「あいつには勝てないところがある」という脅やかしを胸に秘めて、心のどこかで、「あいつの友人である資格が、自分にあるのだろうか」という問いかけを抱え続けている、そういう尊厳の関係のことを言うものだ。
友達感覚で済ませられるものは友人ではない。
友達感覚?
平等主義だと、そうして何もかもがアホウドリになってしまう。
男女の恋仲は、好ましい友達感覚の果てに、いちゃいちゃして成立するものではない。
お互いに、友達感覚では済まされなくなり、「男なんだ」「女なんだ」と、異性の尊厳を見つめることが起こる、そこに息が詰まるほどの体験をするから、そのことを恋あいという。
性の尊厳に向けて、自己が消失する。
そのことが、忘れようったって、忘れられっこない体験になるから、その体験のことを恋あいというのだ。
「尊厳」なしに、恋愛を言い、友人を言い、仕事を言い、生きることを言う、そのバカバカしさを、本当は誰でもわかっている。
ただ、それでも、いざ「尊厳」をやってみろと言われると、やり方が本当にわからないのだ。
それで、取り乱して、元の鳴き方に戻る。
アホウドリの鳴き声は「マジヤバイ」だ。
どうすればよいか、一通りのことは先に話した。
平等じゃなくて、差別を採れと。
尊厳において、自己を差別しろ、肥大した権利を自ら奪うのだ、と、そこが糸口であることを先に示した。
もう一度、ただ冷静に考えてみることだ。
どうして、尊厳のある人間と、尊厳のない人間とが、「平等」だなんて言いうるんだ。
そんな強引なこと言うから、結果どうなった?
尊厳のある全てのものが貶められ、尊厳のない人間がデカい面をするようになっただけではないか。
なぜ尊厳のない人間にそんな権利を与えてしまったのか。
あなたは自分のことをどう思うだろうか。
あなたは自己評価を、決して高くはしていないだろう。
不当に自己評価を高くしないように、気をつけていることだと思う。
中には、自己評価が、自己卑下というまでに低くなっている人もあるかもしれない。
一方、他人に対しては、何であれ、良い部分を見るようにして、高く評価しようとしているだろう。
その、高く評価する、という部分に、尊敬する、ということも含まれている。
僕もしばしば、その中で、尊敬します、という対象に入れてもらっている。
そして、それがつまり、デカい面をしている、というやつだ。
「評価」だと?
平等主義がもたらした、尊厳のない人間のデカい面だ。
自己評価を不当に高くしないこと、そのことは誰だって心がけている。
だが、平等主義の中、
「いいえ、自己評価のことも含めて、わたしには評価や意見やコメントをする権利自体がありません」
ということには気づかない。
謙遜しながら、上等な評価や意見やコメントをする権利があると思い込まされている。
「すごい」「ヤバい」「アツい」「かっけえ」「ダサい」「ウザい」「キモい」「イタい」「わかるわ」「同意だわ」「嫌いじゃない」「好きかも」等々。
自己を消去して、目撃するだけ、殉じるだけ、ということがどうしてもわからない。
内心に思うだけなら、わたしの自由だから、と、どこまでも、平等主義を刷り込まれて、権利意識から離脱できない。
冷静に考えることだ。
「尊厳」という、偉大なものがある。
そこに、あなたごときが、それをどう「思う」かなんて、関係のあることだろうか。
偉大なもの、そのものより、あなたがそれをどう「思う」か、どうコメントをのたまうか、そのことのほうが重視されるのだと、そんなことが本当に信じられるのか。
「尊厳」が目の前にあるとき、そこは本当に「あなたの出番」か。あなたの出る幕か。
少なくとも、僕はそう思わない。僕はそのとき、自分の出番だとはつゆ思わない。僕の出る幕など、尊厳の眼前でどこにもない。僕はただそれを目撃するだけだ。
尊厳の、あるがままを目撃して、殉じるだけだ。自己は消失する。
そこに、尊厳に係り起こる、どうしようもない歓喜がある。
尊厳がわからない人にとっては、それはどうしてもわからないままだ。
それは、歓喜のすべてから、永遠に仲間外れにされるということだから、とても悲しく、辛いことだ。
その嘆きの中で、まだあなたは誤解し続けている。
まだ、平等主義にしがみついて嘆いている。
自分も、平等に、歓喜の仲間入りをさせてもらえると、いつの間にか誤解している。
その「平等」の思い込みに、はたして確たる根拠があっただろうか。
今まで、何を根拠に、そうした「平等」があるのだと、勝手に思い込んできたのだ?
だから、もう一度、初めからあるとおりだ。
つまり……僕とあなたは平等ではない。
僕のほうがあなたよりバツグンに優れている。
そういう設定で、わざわざしつこくやってきた。
それでも、まだ気づかないか。まだ、あなたはあなたが大事なままか。
僕に尊厳を向けてはくれないか。
あなたが消失して、僕の尊厳がすべてにはなってくれないか。
僕は、どうしても、そうしてあなたに、存在を認められないままなのだろうか。
尊厳のあるなし、僕とあなたは、どうしても平等でなくてはならないか。
それならそれで、いっそかまわないかもしれない。
ただ、あなたをまったく歓喜に至らしめない、その平等主義が、ここに至ってもなぜ大事がられるのだろう。
あなたが、「そうか、平等でなくていいんだ」と言えば、それだけで歓喜の道が開くというのに。
それだけで、別に同じことができなくていい、というのに。
と、いうわけで、設定は終わりだ。
僕のほうが、あなたよりバツグンに優れているなんて、そんな事実は無い。いかにも無理のある設定で、失礼をした、忘れてくれ。
ただ、あなたよりバツグンに優れ、尊厳を向けるに足る誰かは、他にきっといるはずだから、そういった人に、あなたは尊厳を手向けてくれ。
ここではさしあたり、僕を仮定に設定するしかやり方がなかった。いささか下品で申し訳ない。おやすみなさい。
[平等主義があなたの人格をアホウドリにした/了]