No.330 九折式恋あい法・補項
「共有」について。
急に気づいたことがあるので補っておきたい。
人間には心がある。
自分に心があるのはわかりやすいが、当然、相手にも心がある。
「共有」ということは、「自分から、相手の心にも同時に所有されるもの」をやっていく、ということだ。
その詳細は、主項のほうで書いたからいいだろう。
それで、「自分から、相手の心にも同時に所有されるもの」をやっていくということなのだが、それのために、相手の心の中に踏み込んで、「所有させる」というのは違う。
違うというか、そんなことは成立しない。
土足で踏み込んで、首根っこを掴んで、「共有」をさせようとゴリ押ししても、相手は心を固く閉ざすだけだ。
それは、相手にも心があり、それが「心」だからだ。
人の心には、何事をも強制することはできない。
できないし、それをやろうとヌケヌケと踏み込むのは、下衆のすることだ。
かといって、相手の心と、距離を取る、というのは違う。それは個人モノだ。
距離を取るぐらいなら、そもそも目の前にそんな相手を置かなければいい。初めから一人で引きこもっていればそれで済む話だ。
違う。
相手にも心はあり、それは「心」だ。
「心」なのだから、本当は相手の心だって、外に踏み出したいに決まっている。
本当には、閉じこもっていたい心などありはしない。
ただ、これまでの経験から、および現代の時代状況から、心を外に出してはいけない、と、強く信じ切るようになっただけだ。
そのように経験させられてきたし、そのように教えられてきたのだ。
受け入れられた経験が少なすぎる。
本当は、心を外に出したいし、自分も同じように感じたい、自分も同じ気持ちになりたいと、望んでいるに決まっているのだが、受け入れられた経験が少なすぎるので、「その望みは叶えられない」と学習してしまっているのだ。
受け入れてもらえた経験、体験が、少なすぎるのは、残酷すぎることだ。
僕はこのことに気づいて途端に切なくなった。
全てが僕の誤解であればいいのにと思う。
こうして話していることが、まるで見当はずれであればいいのにと思う。
けれどきっと、そうではないだろう。
心を閉ざしているのではなくて、心が内側に避難しているだけだ。
鍵は掛かっていない。扉は閉じているが鍵は開いたままだ。
心が外に出ないのは、受け入れられることがなさすぎたためだ。
「強くあれ」みたいなことはウソだと思う。
ウソであり、ゴミだ。
受け入れられない、ということは、ただの無慈悲であって、強くあれたらどうこう、ということには関係がない。
強くあろうが、関係ない。そうではないのだ。
「受け入れられないなら、心を外に出す用事はない」ということなのだ。
これまで、誰だって、幾度となく、心を外に出してみることを、してきただろう。恐る恐るながら。
それで、心を外に出した結果、受け入れられた、受け入れてもらえた、ということなら、旧来どおりだが、今、時代はそういう様相ではない。
心を外に出したって、受け入れてもらえることがない。
「強くあれ」? バカを言ってはいけない。
受け入れてもらえないのに、心を外に出していたら、それはただの狂人だ。
受け入れてもらえないなら、帰るべきで、今後も受け入れられないとわかっているなら、外出するべきではない。
学習は正しく機能している。
受け入れてもらえない蓋然性が圧倒的に高い。ほぼ100%と見ていい。だから、心を外に出さない。
その判断は完全に正しい。
きれいごとを真に受けて、心を外に出すほうが間違いでありバカだ。
100%の商店が店を閉めている商店街に、どうやって買い物の用事に出かけるのだ。
強かろうが弱かろうが、シャッター街はシャッター街で、両者とも得るのは「徒労」だ。
受け入れられない、というのはそういうことだ。
まずは受け入れてもらえることがスタートだ。このことに議論の余地はない。
人の心は、受け入れてもらえるから外出するのだ。受け入れてもらえる先が見当たらないなら、それはそもそも「外出先がない」という状態だ。
外出先がないのに出かける奴は頭がおかしい。
もし、受け入れてもらえる外出先があるなら、本当は、心はそこに行きたいに決まっている。毎日でもだ。
「共有」というのは、心の中に土足で踏み入ることではない。
かといって、距離を取るとかいう寝言では話にならない。
「共有」とは、こちらの心が外に出るのみならず、相手の心も外に出る、ということだ。それだから「共有」だ。そういう形で成り立つ。
一方的な共有、その技術、なんて、押し売りやゴリ押しは成立しない。
「共有」の、仕手に自分がなるなら、それは「相手の心に出てきてもらう」ということだ。
自分だけ土足で踏み込んで「共有のつもり」なんて、成立しないし、ただの迷惑だ。
「共有」は、相手の心に出てきてもらうことなのだ。
かといって、待ってます、みたいなものはゴミで、個人モノだ。引きこもりより余計にうっとうしい。
「受け入れる」とは、そうして厚かましく待ち受けていることではないし、そういう奴に限って、人を受け入れるということをまったくやらない。これは最悪だ。
相手の心に出てきてもらうにはどうすればいい?
ヒント、というより、結論はすでに出ている。
相手にも心があり、それは「心」なのだ。
心なのだから、本当の本当は、できたら外に出たいに決まっている。
受け入れてくれる先があれば、出たいし、すぐにとはいかなくても、いつか必ず出たい、なるべく早く出たい、と思っているのだ。
心なのだから、本当は、外に出たがっているに決まっているじゃないか。
本当は、同じように感じたいし、同じ気持ちになりたいと、望んでいるに決まっている。
天岩戸の話ではないが、扉の向こうで、歌い踊り、おしゃべりが華やいでいるのなら、本当は自分だって外に出たいに決まっている。
そこに受け入れてもらえるのならば、だ。
「共有」の正当なやり方はこれだ。
これは、本当に受け入れてもらえる声だ、本当に受け入れてもらえる踊りだ、本当に受け入れてもらえるおしゃべりだ、ということが、扉の奥にまで届いていなくてはいけない。
扉を踏み破って首根っこを掴みに行くようでは、それはもう共有ではない。
この感覚はどう説明すればいいのだろう?
感覚世界の"有能"さは、意識世界の無能さとはモノが違う。
感覚が「共有モノ」であることは間違いない。
ただ、「共有モノ」と「共有」とには、禅問答のような微妙な違いがある。
これは禅問答だが、考え込まなくても、我々は経験上、このようなものがありうることをよく知っている。
たとえば、ショーケースに宝石が並んでいたとする。五万円、十万円、百万円、と値札がついている。
これらは「売りモノ」だ。
まだ買われていないのにすでに「売りモノ」なのだ。
お金を持っていて、これが「欲しい」と望む人は、その望みが受け入れられることを知っている。
それは「売りモノ」だからだ。
非売品だと、いくらお金があってもだめだ、ということを我々はよく知っている。
・まだ買われていないのに、それが「売りモノ」だと言いうるのか?
というのは禅問答だ。確かに、それが「売りモノ」だと断言しうるのは、その売買が成立した瞬間のみしかありえないかもしれない。
が、我々はとっくに、この禅問答を突破している。
なぜそれを「売りモノ」だと言えるのか?
「見りゃわかるだろ」で話は済んでいる。
まだ売ったわけではないのに、実際には店で売られているのだ。値札がついてショーケースに並んでいるということはそういうことだ。
「共有モノ」というのも同じだ。
まだ共有されていないのに、実際には共有されているのだ。「売りモノ」がそうして見せつけられるように、「共有モノ」も見せつけられる。
感覚を持っていて、これが「欲しい」と望む人は、その望みが受け入られることを知っている。
受け入れる・受け入れられるというのはそういうことだ。
いわゆる「心の扉」というようなものは、そのショーケースのことを指している。
ガラス張り、もしくは金網越しなのだ。
ガラス一枚、金網一枚で、「所有」が隔てられている。
ただ、ガラスを通してでも、「これが欲しい」と思えるのは当たり前だ。
宝石がガラス越しに「見せつけて」くるように、感覚世界の共有モノも、扉越しに「見せつけて」くる。
これだ。
いわゆる「心の扉」という観念は、誰が言い出したのかわからないが、観念として精密さに欠けている。
その扉が、扉だが「ガラス張りだ」、あるいは「金網みたいなものだ」などということは、これまで検討さえされずに来たに違いない。
心の扉は、心のイン/アウトを区分するが、内と外とを断絶しているわけではない。
映画のスクリーンや、舞台と観客の峻別など、それだって透明障壁があるが、透明障壁越しに「見せつけて」くる。
心の扉は、心が外に出ることを防いでいるが、心に届くものを遮断はしていない。
「心の扉」は、ガラス張りか、せいぜい、金網程度の素通しで作られている。
だから、金網越しにでも、感覚世界の「共有」は、その用事を済ませられる。
金網越しに、受け入れられていることが明らかなら、やがて金網を開けて外に出てくるというだけだ。
それはきわめて当たり前のことだと、誰にでも理解されよう。
受け入れられているのなら、あえて金網の中にいる理由はない。
これまでの経験から、金網の外に出るのには、「うーん」と躊躇が起こるし、中にはもう、金網の中にいるのが当たり前すぎて、金網の外に出るという、その出方そのものを、忘れてしまった人もあるだろう。
でも、そうして躊躇しているのが明らかなのだから、こちらから金網を乗り越えたり、食い破ったり、手を掛けたりはするべきではない。
その金網に手を掛けるのは、ただの不法侵入で、暴漢だ。
そういう人を遠ざけるためにこそ金網があるのに。本末転倒だ。
そんなことをしなくても、受け入れられていることが見せつけられていれば、いずれ向こうのほうから出てくる。好きで金網の中にずっといるのではないのだ。
「心」なのだから、本当は、外に出たがっているに決まっている。
それで、心が外に出てきても、ヒューと拍手が起こるぐらいで、別に何が変わるというほどのこともない。
ただ、外に出てきたなら、「はじめまして」と自己紹介もできるだろうし、その後も、とにかく自由が利いて楽しいだろう、という、ただそれだけのことしかない。
受け入れるというのは、金網の向こうに向けて踊るのだ。金網の向こうに向けて、歌い、踊り、おしゃべりをする。
「出てこい」と、呼び出しをかけることではない。
そんなことをしなくても、「心」なのだから、受け入られているとわかったら、いずれ勝手に出てくるに決まっている。
躊躇するなら、好きなだけ躊躇させてやればいい。
金網越しでは、共有されていない、ということではないし、かといって、金網から出てきても意味がない、ということにもならない。
金網の内側からだと、「共有」は、自分のものでないものを共有している、という状態になる。
金網の外に出れば、「共有」は、自分のものをみんなで共有している、という状態になる。
ショーケースから、宝石を取り出し、「お手に取ってご覧になられますか?」と店員は言う。
それで、宝石を手に持ったとき、そのときは、自分のものではない宝石を所有している、という状態だ。
お買い上げいただければ、それをあなたのものとして所有することになります、というだけのことだ。
躊躇するなら、好きなだけ躊躇させてやればいい。
売買が成立しなければ、店員と客は無関係、というわけではない。
宝石は、無限に購入はできないが、感覚世界など、無限にお買い上げできるので、どんどん金網の外に出て、自分のものにしてしまえばいい。
受け入れてくれる先があれば、そのぶんだけ。
受け入れてくれる先のものは、全て自分のものとして「共有」してしまえばいい。
「共有」の仕手は、そうして金網越しに、感覚世界の「共有」を見せつける。
金網の向こうでは、「うっ」「あっ」と、油断すると、足が一歩前へ引き出されてしまいそうに感じている。
金網の向こう側を、無視はしないし、それどころかむしろ、金網の向こう側のためにこそ、その見せつけが営まれていく。
金網の内側からは、自分が受け入れられているのが、当たり前すぎるほどわかる。
そうしたら、あとは「心」なのだから、いずれ勝手に出てくるに決まっている。
金網を叩いて、手を掛けて、押し売りをしに入る理由はまったくない。
金網越しに、歌を共有し、踊りを共有し、おしゃべりを共有している、それが明らかだから、明らかに「わたしを受け入れてくれている」とわかる。見せつけられているのだから、わからないわけがない。だから心は金網から出てくる。それだけだ。相手だって「心」なのだから、本当はヤリたがっている。セックスのことではない。とにかくいろいろ、本当はヤリたがっているに決まっているのだ。
受け入れる・受け入れられる、ということがスタートだ。このことに議論の余地はない。
金網が人の心を隔てているのではない。
人の心を隔てているのは、金網越しに、受け入れているか受け入れていないかだ。受け入れていない、無視している、ということが、人の心を隔てているのであって、実は金網には何の罪もない。実は金網は何も隔てていない。イン/アウトしか隔てていない。
本当は、「金網越しでも、ムカつくやつはムカつく」というだけのことしかない。そんなもの、金網に何の関係がある? 金網が無くても、受け入れられていなければ隔たれているのだ。金網はただの飾りだ。
人のことを、受け入れよう、と、意識的に努力している人は多いと思う。けれども、人を受け入れるということは、感覚世界の"有能さ"を持ってしか為し得ない。意識世界は"個人モノ"だ。個人モノの「人を受け入れよう」などという意識を、個人個人に振り回しあって、どうして人を受け入れることになりえようか。
受け入れる? 主項に述べたように、感覚によって挙動する具体は「共有」が教える。受け入れる、というそのやり方を実際に教えてくれるのは「共有」だ。自分から持ち込んだ「受け入れるつもり」の意識風味など共有されない。
「共有」の中で、相手が金網の外へつい出てしまいそうになる、踏み出しそうに膝がウッとなる、そのことへのやり方。そのやり方が、感覚世界と共有の中でなら、本当にわからないということはない。そのやり方は共有に自動的に教えてもらえる。それだけ、感覚世界は"有能"だ。
金網の向こうで歌い、踊り、おしゃべりをしているのがわかる。そして、見ていればわかるし、聞いていればわかる、これは「わたしの歌だ」と。誰かが誰かの歌を唄っているのじゃなくて、これはわたしの歌だ、と。受け入れられているというのはそういう状態だ。向こうからみればそういう状態で、そのとき初めて「受け入れられている」、「外に出よう」ということがわかるのだ。
***
相手の心は、「心」なのだから、外に出たがっているに決まっている。
出たがっているし、受け入れてくれる先があるなら、なるべく早く出たい、と思っているに決まっている。
終わってしまう前に、出たい、と焦っているに決まっている。
自分だっていろいろヤリたいに決まっているのだ。そりゃ誰だって本当はそうだ。
それでも、そう簡単には出てこられないぐらい、これまで、受け入れられないという経験と体験が多くありすぎだ。
だから、金網から出てこないのはおかしいことじゃない。
金網から出てこなくても、中できっと、出たがっているし、出るための準備を整えている、焦っているだろう。そう信じてやることだ。
きっと、本当にそのとおりだろうから。
それまでは金網の前で、歌い、踊り、おしゃべりしていてやることだ。
金網の中を覗きこんだり、金網を叩いて「おーい」「出てこい」と、脅迫したりしないことだ。
信じていたらいい。「心」なのだから、必ず、本当は外に出たがっている。
出てこないなら、出てこられないだけの事情があるのだ。せかすべきではない。
信じるのだ。
心とはそういうものなのだから、その「心」を、そのまま信じるのだ。
金網の前で、いつまでも心が出てこないと、泣きたくなるような気持ちになる。
だが、そうじゃない、本当に泣きそうに苦しんでいるのは、出るに出られなくなっている相手の心の側なのだ。
何しろ、本当には外に出たいのに、もう長いこと、ずっと外に出られていないのだから。それでかつ、今もなお、出るべきなのに出られないのだから。
だから、共有の仕手側、金網の外で待っている側は、暗くならなくていい。明るく、歌い、踊り、おしゃべりしていればいい。共有の届いている、ずっとそのままであればいい。
金網を開閉する仕事は、こちら外側の仕事ではなく、向こう、内側の仕事だ。
それが、受け入れてくれる声で、受け入れてくれる踊りで、受け入れてくれるおしゃべりなら、心は必ずいつか外に出てくる。
そのときその場で出てこなかったとしても、いいじゃないか。まだ、準備の時間が掛かったのだろう。また次の機会にすればいい。金網の内側で、「次こそは」ときっと唇を噛んでいる。
泣いているのは、金網の内側の心のほうだ。
誰が好きこのんで、外に出られない心になんかなるものか。
本当は、自分も外に出て、受け入れられて、堂々と「わたしのもの」として、同じように感じたいし、同じ気持ちになりたいに決まっている。ヤリたいに決まっているし、"有能さ"でヤリまくりたいに決まっているのだ。
本当はそう望んでいるのに、切ない話じゃないか。
切なさのあまり、堪えがたい憤怒が湧いてくる。
せめて僕だけでも、受け入れる人間であってやりたい。
ここまで腹が立ってくると、もう採算は度外視だ。
「共有」とは、「相手の心に出てきてもらうこと」だ。相手の心に一歩を「踏み出させる」こと。
自分だけでどうこうなんて、「共有」になんかなるわけがない。
こちらも心だが、相手も心なのだ。
相手の心が、心なのだから、「心の命じるまま」、つい出てきてしまうようでなければ、意味がない。それでないと「共有」にならない。
出頭命令を出して外に連行して「共有」になんかなるわけがないのだ。
そんなことをしなくても大丈夫だ。
「心」なのだ。「心」なのだから、いつか必ず、外に出てくるに決まっている。本当はそうしたがっているのだから、いつかそうして出てくるに決まっている。
僕は意地悪だし、性格が悪いので、相手の心がひょっこり出てきてくれたら、まず厳しいことを言うだろう。
「余計なことをするな」、と。
余計なことをしない限りなら、ここにいてよし。
安物の大特価で、大バーゲンで、受け入れるから、ここにいてよし、同じように感じてよし、同じ気持ちになってよしだ。しばらく黙っていろ。黙っていても、ここにあるのは全部お前のものだ。
まだ、何も上手にはできないだろう。上手にできないなら、何をやってもそれは「余計なこと」になるに決まっている。いつかは、それを上手にする練習もしなくてはならないが、それ以前に、まず「どういうものか」をたっぷり見ないと、まともに練習することもできないだろう。だからまず、余計なことはせずに、たっぷり見ていったらいい。たっぷり、同じように感じて、同じ気持ちになっていったらいい。
あなたは「余計なこと」をする習慣がつきすぎている。
これまで、受け入れられることがなしに来たのだ。それで内側に避難していても、「出てこい」みたいな呼び出しが掛かる。呼び出しをずっとシカトはしていられないので、あなたは偽りの外出をしてきた。
鎧を着こんで外に出てきた。それは金網よりたちの悪いものだ。そして、受け入れられないのだから、あなたは「主張」することで外のことをしのいできた。
あなたが「主張」すると、周囲は聞かなくてはならないので、あなたはそれによって、自分の存在を確保することができた。受け入れてもらえない中、自分の存在を確保するにはそれしか方法がなかっただろう。
そのことばかり繰り返してきたから、あなたは、受け入れられる場所に出てきたときも、そこで何かをしようとすると、習慣でつい「主張」をしてしまう。それしかやり方を知らないできたのだからしょうがない。
あなたが何かをしようとすると、それはすぐ「主張」になってしまう。それで、さっきまであった、受け入れられていた感触が消えてしまうだろう。同じように感じて、同じ気持ちでいたものが、急にどこかに消えてしまうだろう。
それは、あなたの側が、まだ「受け入れる」ということをやれていないからだ。まったく慣れていないのだからしょうがない。生まれて初めて受け入れられたようなものなのだ。それをいきなり自分でもやれというのは無理だろう。
だから、まだ今のところは、「余計なことをしない」ように。まずは一方的に受け入れてもらって、その中でたっぷり見ろ。たっぷり、同じように感じ、同じ気持ちになる、という時間を過ごせ。黙ったまま。それから後、落ち着いて、自分がその「受け入れる」ができないことに悩め。
そのときはまだ、あなた自身、これまでのあなたを金網内に避難させてきたことの犯人たる、「受け入れてくれない人々」と同じだ。「受け入れてくれない人々」は、おいでよ、出ておいでよ、と呼びかけておきながら、あなたをまったく受け入れなかった。ときには、「受け入れるよ」と約束しておきながら、その約束がまったくウソだった。そして彼らはわざわざ呼び出したあなたに向けて「主張」をした。彼らはそうして有能さのない「主張」しかしなかったはずだ。あなたはまだ、そうした「受け入れない人々」「主張をする人々」と同じだ。あなたを悲しませて閉じ込めてきた彼らについて、あなた自身も当事者、「同じ穴のムジナ」だということ。あなたも「受け入れない人」であり、呼び出しておいて「主張」する人だ。
そのことは解決していかなければならないが、その前に、まずはあなた自身が「受け入れられる」ということをたっぷり体験しないといけない。受け入れられることの十分な体験なしに、「強くあれ」というのはウソだ。受け入れられないのなら、もはや強くありたい理由なんかない。強くなってどうするんだ、受け入れられる先もありゃしないのに。こうして無神経に「強くあれ」ということが言われたから、結果、鎧を着こんで人を呼び出して、まるで有能さのない「主張」をしてくるという、間違った強さの人があふれかえった。彼らは攻撃力と防御力が高いことを「強さ」だと思っている。物騒な国ほど強い国だと思っている。彼らはその間違った強さと主張の強さと物騒さを比べ合ってなお間違った強さを証明するために人を呼び出している。そんなことに快感を得ているのでは手が付けられない。
あなたにも、そういった間違った習慣が染みついているから、まずは「余計なことをするな」。意地悪だがしょうがないんだ。「共有」をして、あなたが同じように感じ、同じ気持ちでいるためには、まずあなたが「余計なことをしない」でいるしかない。あなたは余計なことをしたくてたまらずムラッとするかもしれない。「主張グセ」のムラッ。それぐらい、間違った習慣が染みついている。
ムラッとして、どうしてもたまらないというなら、先にその、うまくやるということの練習をしてもいい。きっとまだ何もできないだろうけれど。何をどうしたらいいか? 決まっている。今度はあなたが、僕を一歩前に踏み出させるんだ。僕の心だって「心」だ。あなたが歌い、踊り、おしゃべりし、その声が僕を受け入れてくれることを明らかにしていたら、僕だってつい一歩を踏み出してしまうだろう。そうしたらより「共有」は尖鋭的になる。わかりやすいだろう。そして同時に、それがとても難しいことだというのもよくわかるだろう。感覚世界とその共有の"有能さ"を、あなたから僕にも見せてくれ。
思い付きで文章を書き始めてからちょうど十年が経つ。ウェブサイトを始めて九年か。初めは、ただの文章の練習のつもりだった。
昨日、「九折式恋あい法」を書き上げてから、これがまあ一種の集大成というか、到達点なんだろうな、としみじみ思った。一日で書けたし、書きながらの混乱もなかった。じっくり考えてプロットを立てなくても、殴り書きすればまとまるように、すでに僕自身の心身に具わっていた。だから集大成であり一つの到達点だと思う。(実は、プロットを立てるなんてやり方を、僕はこれまでに一度もしたことがないのではあるが)
そうして、かすかに感慨に耽っていたところ、この補項に書かれてあることに不意に気づいた。
主項のほうで「共有」ということを強く書いた。そこにほとんど取りこぼしはないと感じていた。ところが今日になってこの補項のことに気づくと、それは急に、実は足りてなかった最後の一ピースとなって、画竜点睛のところにピタッと嵌まって収まった。
主項に補項を重ねて、改めてこう言いうる。
九折式恋あい法は、「思い込みから離れること」を提唱する。思い込みから離れることで、意識世界から感覚世界に切り替わり、感覚世界は三百六十度にズバッと拓ける。意識は個人モノだが感覚は共有モノなので、そのときから我々はお互いのことを明視体験できるようになってくる。恋あいといえばほとんどこれで完了だ。あとは「お好きにどうぞ」というのが、九折式恋あい法の考え方。そして、感覚世界に切り替わることはともかく、その中で実際にどう挙動するのかということについては、共有が教えてくれる、ということだった。それだけ感覚世界は"有能"なのだ、ということだった。
このことには何も変わりはない。
しかしこのことが、まるきり単純成立する場合は、あくまで相手が完全に素直だった場合に限られる。相手が完全に素直だった場合、感覚世界の共有は、そのまま素直に完全に共有されるだろう。
が、実際には、そうして完全に素直な人間などほとんど存在しないのだ。特に現在の時代状況では、ひねくれざるを得なくなった人のほうがはるかに多い、と前提するべき。
それぞれが、ここまでに重ねた体験と経験によって、
・「人は自分を受け入れてくれない」という思い込み
を持っている。
これがいわゆる「心の扉」になって、金網の中へ自分の心を閉じ込めている。
この思い込みは、現在の状況において、事実に即した良質の思い込みだ。これは社会生活上必要な思い込みとして獲得され、事実、社会生活上でよく機能している。「人は自分を受け入れてくれない」。この思い込みなしに、現代の社会生活を送ることなんてまず不可能だろう。
共有は、まず必ず、この「心の扉」、金網越しに営まれる。共有といって、この金網に手を掛け、破ろうとしたり、乗り入ろうとしたり、ノックして「出てこい」と呼び出しを掛けたりすることは、共有への熱意ではない。
・九折式恋あい法は、心の扉をしょせん金網と見て、かつ、これに手を掛けることを完全に否定する。
・および、金網越しに共有を営むことを完全に肯定する。<<別に金網ぐらいあってもかまわないだろうが>>。
金網越しでもなお、感覚世界は共有を営ませてくれる。金網越しに共有がすり抜けてくるのなら、金網はいっそバカバカしいものだ。だから、そのうち相手の方から、勝手に金網を開けて出てくる。
「心」は、もともとそうして閉じ込められていたいわけではないのだから。共有を営むのに、わざわざ金網越しがいいわと、本当に心の底から望んでいるわけではない。自分も同じように感じていい、同じ気持ちになっていい、その感覚世界に営まれるものを、自分のものだと思っていい、と、そのように「受け入れられている」ということがわかれば、心は勝手に金網から出てくる。
金網から出てきたところで、「共有」というと、特に何が変わるわけでもない。共有は共有のままだ。「わたしのもの」を共有しているということに変わるだけだ。ただ、ようやくそうして、金網から出て自由が利くようになった。金網の外の世界、その地面を踏むことができるようになった。金網の外の世界、その地面を、「わたしのもの」として踏むことができるようになった。いつの間にか、受け入れてくれている先へ、つい一歩を踏み出してしまった――そうさせられてしまった――ことによって。
解放されたわけだ。世界に「わたし」が直接生きられるようになった。
だから、「愛は人を救う」のだ。
恋あいはその中で、係り起こる艶事というだけでしかない。「思い込みから離れること」も、「共有」も、しょせん手続きとウホウホであって、それ自体は目的ではない。
ただ、「つい」、受け入れられているから、一歩、踏み出してしまった。いつの間にか。その「一歩」のこと。そんなことを引き起こせるぐらい、有能になろうということなのだ。そして、そこまでの有能さは、感覚世界でないと得られようがないということなのだ。
愛は人を救う。当たり前ではない。愛が人を救うということの、<<なんという有能さか>>。それは人間にとって最高で最重要の有能さだ。この「九折式恋あい法」は、その有能さへ覚醒しようとする人への手引きとして書かれた。
[九折式恋あい法・補項/了]