No.331 わたしの内に叫ぶものの由来
九段下駅から皇居の外縁へ入り込んでゆくと日本武道館である。誰かが歌ったようにその屋根には「光るたまねぎ」がある。この季節に夕刻だと、すでに玉ねぎは虚空に浮かぶようであったが。
ジューダス・プリーストのライブに行ってきた。
僕はジューダスの二十年来のファンだが、ライブに行くのは初めてだった。
ライブという、そのもの自体が、あまり好きではないというか、これまでにあまり報われないことが多かったので、僕は基本的にライブには足が遠のくタイプだ。
ファンの間で強力なお約束があったりすると、僕はどうしてもそれに乗り切れないので、僕はそういう会場では、お門違いというか、疎外感を受ける。
だいたい、友人に連れられていくと、座席から立ち上がって声援を送らねばならず、そのことが内心で「はいはい……」とお約束に付き合っていることが多いので、疲れるのだ。
ジューダスのライブは違った。
熱狂の渦、と言えば、まあそのとおりなのかもしれないが、それは泥酔者がサッカーの試合中継とセクハラで乱痴気騒ぎをする熱狂とは違った。
とにかくものすごい声なのだ。
観客がではなくボーカルが。ロブ・ハルフォードが。
あれを「ボーカル」と呼ぶのかどうかはまったくの不明だ。
僕は昔、池袋で夕立の雨宿りをしていたとき、自分の駆け込んだ庇のビルに雷が落ちたことがあるが、そのときでもあんな音はしなかった。
ロブが叫ぶたび空気がきしむ。
音で空気がきしむだけなら、「おー」で済むのだが、そうはいかない、本当にきしんでいるのは空気ではなく脳だからだ。
脳が直接きしむ。視界が侵されて空間が歪む、というようなことは、もはや当たり前なので、取り立てて言う気にもなれない。
たぶん、ティラノサウルス・レックスを、攻撃ヘリのミニガンでメッタ撃ちにしても、あんな声は出ないだろう。
声の性質が、成り立ちから違うからだ。
僕が、ここ数日で、改めて「感覚世界と共有」うんぬんのことを報告できることに至って、合わせてこうして初めてジューダスのライブに行けたことには、無関係でない、うまく象徴的なめぐり合わせがあると感じている。
思えば、ジューダス・プリーストは、二十年来、何かといえば僕のそばに支えとしてあった。
支え? という言い方はいかにもヘンだが、とにかく、ことあるごとに、「どうすればいいんだ」という漠然とした問いかけに、「これだ」と答えてきてくれたのはジューダスだった。
こういったものを、ファンと呼ぶのかどうかわからない。僕は何につけ、ファンと呼ばれる人と話が合ったことがない。これはただの僕のわがままでしかないだろうが。
僕がこれまでにウダウダ話してきたことの全てなど、「何がペインキラーか?」、その解答が得られればすべてケリがつく。
僕の与太話なんかどれもこれもゴミみたいなものだ。
ひとつ、不遜な話だが、正直に報告しなくてはならないことがある。
改めて説明すると、ジューダス・プリーストは、ヘヴィメタル隆盛期の伝説的なバンドで、そのボーカルであるロブ・ハルフォードはかつても今も「メタル・ゴッド」と呼ばれており、そのゴッドの名は自他ともにという形で認められている。ゴッド、という名を自負するのに、どういう覚悟が必要なものかは、われわれ聖書世界でない人間にはよくわからないけれども。
「メタル」というと、今は音楽ジャンルの中では、特異性への笑いを向けられることばかり多いが、世界で最も売れたアルバムは、マイケルジャクソンの「スリラー」に次いでAC/DCの「バック・イン・ブラック」が第二位なのだから、メタル音楽は元々弱小勢力ではない。
成り立ちとしては、1950年代のアメリカでご存知「ジョニーBグッド」および「のっぽのサリー」が人類史上初のロックン・ロールとして黒人勢力によって提示されたのがロックの始まりだ。それは白人のエルヴィス・プレスリーに引き継がれ、海を越えてイギリスのビートルズに引き継がれ、やがて日本を含めて世界を席巻していった。
その後ロックはハード・ロックへと進化してゆき、ハード・ロックの尖鋭が世間性から離脱してメタルになった。メタルとヘヴィ・メタルの差は明瞭ではない。たぶんそこは誰もあまり気にしていない。いわゆる「メタル」がどこから始まったかについては、ブラック・サバスの「パラノイド」からだと言う人も多ければ、それこそジューダス・プリーストの「ステンドグラス」からだ、と言う人もある。ジューダス・プリーストから五年遅れてアイアン・メイデンが出現し、メタルは成熟期に入っていった。メタルは80年代に黄金期を迎え、ジューダス・プリーストは1990年にアルバム「ペインキラー」をリリースして、その衝撃的な楽曲と共に、ジューダス・プリーストの歴史、およびひょっとしたらメタル音楽の歴史に一つの節目を打った。こういった音楽のファンにはそれぞれの趣味や思想や捉え方が無数にあり、「ヘヴィメタルなんて厳密にいえばジューダスしかいない」という人まであれば、「ジューダス・プリーストなんかとっくに駆逐されている」という人もある。が、少なくともジューダス・プリーストおよび特に「ペインキラー」は、そうした人々をモメさせる逸品であることには違いないわけだ。どうでもよいようなことだが、表現はおのずと控えめにならざるをえない。
とはいえ、僕はそうしたファンと話が合うタイプではないし、元々網羅して聴きにかかるジャンル・ファンではない。いわゆる「メタラー」であるには違いないが、コアラがユーカリの葉っぱしか食わないように、僕もほとんどジューダスしか聴いていない。僕が今話しているのは、「メタル・ゴッド」のライブに初めて行ってきたということ、そのことがどういうことでありうるのかについての説明だ。こうして最低限の説明をしておかないと、「六十三歳のボーカル・サウンドを聴きに行った」という理解だけではどうしても誤解をまぬがれないだろう。会場には意外に老いも若きもいた。ロブ当人が最高齢だと予想していたのだが、なぜか腰の曲がったおじいちゃんも客席にいた。六歳の少女も連れられてきていて、「ペインキラー」の中でぴょんぴょん跳ねていた。十代や二十歳過ぎの女性もいた。中には革ジャンに黒いパンティと網タイツだけで堂々と歩くという、「メタル」への敬意を全力で示しているレディもあった。
演奏の前後の会場で、大声や大騒ぎをする聴衆は誰もいない。まるで全員が、自分の大声などいかに非力なものかを骨身に沁みて知っているかのようだ。これほどテンションが外部へ露見しない人間の集団も珍しい。もしジューダス・プリーストのライブに特筆すべき点があるとすれば、その最大は、ライブが終わった後に誰も乱痴気騒ぎへ流入しないというところだ。興奮する余地がなく、かといって哲学的になる余地もない。ある意味では、感動する余地さえないのかもしれない。みんな胸に何かが突き刺さったまま粛々として帰路に着いた。物理的に胸に何かが刺さり、それを抱えて帰るとするなら、ああしてひたすら何か丁重になるしかないのかもしれない。
会場を後にして、僕は同道した友人とレストランに寄って食事をした。食わないともたない状態で、しかし話に花が咲く余裕はなくて沈黙していた。ステーキとエビフライとコーンスープとイチゴサンデーを食ってコーヒーをがぶがぶ飲んで回復した。その後はそのまま一時間ぐらい空白でボーッとしていたらしい。時計を見るともう夜中になっていた。電車に乗る、ということのリアリティがどうしても得られず、しょうがないからタクシーで帰ることにした。回復したつもりはウソで、タクシーに乗って行き先を告げるなり昏睡した。自宅近くのコンビニ前に停めてもらって、少し歩いた。身体は軽かった。一眠りして回復した、と感じたのもウソで、そのまま居室に入るとやはり溶け入るみたいに昏睡した。そして昏睡しているところを宅急便の配達にインターホンでたたき起こされ、すっかり朝だった。それでなおもどこかフラフラのまま、現在の書斎に至っている。連絡してみると、友人もやはり同様にひたすら昏睡していたそうだ。明らかに打ちのめされたのだが、ショック状態がわかりやすくないので何が起こっているのか自覚できないのだ。
不遜な報告をしなくてはならないというのはこうだ。ライブの幕が切って落とされ、すさまじい高精度の声が鳴り響く。こんなに精密な声を出せる人間がいるのかということに驚かされた。ゾゾゾと背筋を高揚と寒気が走り抜けていくが、すぐ後に、僕は「あれ?」と感じた。僕はこの声の鳴り響く様、声が高まっていく様をよく知っている。既視感ではなくて、慣れ親しんだものとして知っているのだ。それは二十年来のファンなのだから当たり前に思えるかもしれない。けれども、そうして外側のものとして「よく知っている」というものでもない。
僕は、「あれ?」と思い、同時に、正直に言えば、「似てる」と感じたのだ。「すごく似てる」と。今目の前で見ている、生まれて初めて見るはずのものが、僕自身にものすごく似ているのだ。ロブ・ハルフォードは、僕と「まったく同じ」と言いたくなるほど似ていた。外見ではなく内側の仕組みが。そして言うまでもなく、客観的に見れば、それはロブが僕に似ていたのではなく、僕がロブに似ていたのだ。
オペラグラスの代用に、小型で軽いが高性能の双眼鏡でロブを見た。ライブ動画で見たとおりのロブ・ハルフォードがそこにいる。が、僕はそれを見た瞬間、「あ、そうか」「そういうことだったのか」と納得に落ちた。そこにあったのは「父」の姿だった。あのマイクの構え方。あの表情。そして鳴り響いていくこの声。親しい、ということ以上によく知っている何かの感触。
「すごく似てる」のも当然で、「まったく同じだ」と感じるのも当然だった。二十年来、いつも何かといえばジューダス・プリーストは僕の身近にあった。「どうすればいいんだ」という、漠然とした、いつも本質はそうした漠然とした問いかけにならざるを得ない問いかけに、「こうだ」と直接答えてきてくれた、指針そのものがジューダス・プリーストだった。そうこうしているうちに、それはすっかり二十年間で僕の「父」になっていた。「すごく似てる」「まったく同じだ」も何も、当然のことだ。
僕の内側にある叫ぶもの、それは全て父ゆずりのものだった。
僕はジューダス・プリーストおよびロブ・ハルフォードについて、「この人の真似をしよう」だとか、「これに学ぼう」だとかは、むろん思ったことがない。そんなバカバカしいことは発想したことさえなかった。おそらく、憧れる、という心さえ向けたことがないように思う。それでも、気が付けば、「すごく似てる」し、何なら「まったく同じだ」と。別に誇らしくもないが、ここまで似ていればさすがに気づかざるをえないし、自覚せざるをえない。それで不意に思い出したのだが、ちょうど二十年前、まだ電話回線でインターネットがようやくつながるようになり始めた時代のころ、僕は海外のウェブサイトからロブの画像を集めてまわって遊んでいた。そして、オフィスソフトの「パワーポイント」で、ロブの画像を使い、「もしこんな人が父親だったら」という、わけのわからないスライドショーを作ったことがあった。タトゥーまみれの全身画像に、ウソのセリフをあてがうようにして。友人がそれを見つけて、「何これ」とスライドショーを開陳し、僕と一緒にその出来栄えに笑い転げたことがあった。無意識にもそうした不埒な遊びをしてしまうぐらい、そのときからその「父」は僕の中に棲みつき始めていた。「父」というのは誰にとっても、血縁の父だけである必要はないし、また血縁以外の父があってよく、むしろそうした「父」が誰にもあるべきだと思う。そのために世界は広い。
そんなこんなで、僕は二十年を掛けて、ついに「父」の実物を、この目で初めて見ることになったのだった。結果的には、「ケタ外れで話にならん」というぐらいしか、持ち帰ってこられなかったけれども。ライブに参じる前、僕は友人にその話をして、「もうおじいちゃんだけどな」と揶揄し、実情を緩和して報告したつもりだったが、今になってその報告を取り消さねばならない。とんでもないウソをついてしまった。もしあれを「おじいちゃん」だと言うなら、世界中の孫や介護士が吹っ飛んで死んでしまうだろう。明らかにそうと知って、僕のような愚か者を初めからアザ笑う演出として、ロブはライブの初め杖をついて舞台に現れた。僕は安直に、老境のロブとして新しい境地のジューダス・プリーストが示されるのかと期待した。
70年代の半ばから始まったロブ・ハルフォードのジューダス・プリーストは、1990年ペインキラーを打ち出してから三年後、ロブの脱退をもってその黄金期を終える。それから十年後、ロブとメンバーは和解し、ジューダス・プリーストは再結成された。その後も活動と活躍が続いたが、おそらくはメンバーの高齢化から、2011年にワールドツアーの終了をジューダス・プリーストは宣言した。その宣言を撤回しての、今年2015年のワールドツアーであった。そこにロブは杖をついて舞台上に現れたわけだ。そりゃあ、つい老境と新境地の期待へ身構えをしてしまう。
いつの間に手元から杖が消えたのかは忘れたけれど、ロブの一声ごとに聴衆は「えええええ」と、その愚かな予断と偏見を捨てるしかなくなっていった。そして会場まるごと、「もうわかっただろ?」という了解が合意されたところで、ロブはマイクで一言、
"Priest is back."(ジューダス・プリーストが帰ってきたぞ)
と愚かな聴衆どもを諭した。僕も何年かぶりに自分の愚見を腹の底から謝罪した。
老境とか新境地とかいう、苦し紛れのものはそこにはまったくなくて……
今後は二度と忘れずにおきたい。凡人が天才を忖度するとき必ずその内容は間違いである。
***
個人的な嗜好のことを多数に向けて報告しようとする趣味は僕にはない。僕は音楽の趣味のことについて報告しようとしているのではなく、「父」と呼ぶべき体験および存在について報告すべき普遍的な価値があると感じて今ここに話している。今現在、僕自身から「父」の声を抜き取ると僕はまるで無能化する。小賢しい知識だけをたくわえたどうしようもない人間が一匹残るだろう。まだ僕が僕自身を見捨てずに済んでいられるのは、「父」が僕に"叫び方"を教えてくれたから。人がただ野山の獣のようにか、もしくは精神を病んだ発露としての叫び声をあげることは容易だ。それは同時に幼稚でもあり、なにより何かへの使い道はない。正しい"叫び方"とはどのようなものだったか? 叫ぶことが何かしら人に通じるのであれば、そのことは人が人と共に生きることへの重要な手掛かりになる。
僕はいわゆる熱狂の渦に巻き込まれ、漂白然とした心地で帰宅し、眠るというよりは昏睡した。そして、今もなお、胸に深い「哀しさ」を覚えていることを、ここに忘れぬうちに報告しておきたい。本物はこうも哀しいものなのか、という痛みが胸を苦しめている。その場にいる誰一人をも見捨てることなく、全ての人間を漏らさず熱狂の渦へ、「叫び」の中へ、引きこんでいった功績がロブにはある。野山の獣とはそこが違う。われわれがロブに付き合ったのではなくロブが我々を連れて行ってくれた。連れて行かれて初めて気づくことなのだが、気づいてしまえば当然のこと、<<我々は誰しも本当は叫びたい>>のだ。我々は、我々だけでは叫び方がわからぬし、叫ぶことへの正当性の掴み方も明確でない。「叫び方」。それはもちろん、単なる発声法の姑息さを指してはいない。誰一人をも取りこぼさないように叫ぶやり方。
<<本物がこうも哀しい>>のは、こうまで完全にセルフィッシュにならず、全員の「共有」に向けて、ビタッと重なり続けた叫び方がありうるのかということが、尊くて胸に痛いのだ。数分の一秒という単位で切り取ったとしても、そこにロブの「個人的な」と言いうる声は見当たらない。そのやり方を「感覚世界における共有」だと言い立てたのは先日の僕自身だが、それは結局「父」の示し続けたものを今になってようやく理屈でわかったということに過ぎなかった。僕自身もいつの間にかその真似事をしてきた結果、僕は「すごく似ている」「まったく同じだ」と直観に首を傾げたのだったが、その完全な形があのようなレヴェルにまで及びうるとは思っていなかった。推定はしていたが、推定しうることと実物を生身で体験することはまた別だし、またそこに深い哀しさが伴うということまでは、生身の体験を経ずには気づき得なかっただろう。
僕はこの哀しみの中、いっそ、――ひとしきり二流のシンガーとしての歌い方をしてくれればよいのに! という願いまで持った。わがまま、セルフィッシュな、独りよがりな、うっとうしい歌い方をしてくれてよい。自慰的な……そうしたら、我々もそれによろこんで付き合うから。それは誰の目にも明らかな甘えの発想だが、そうと知ってなお願わずにはいられなかった。それは僕がまだ「父」に及んでおらず、大方の見方では、ついに「父」を超えられないだろうということも覚悟せねばならないということだった。そのことは大いに笑って受け止めることができる。またそれだからこそ、彼は今も、僕の中で偉大な「父」でありつづけていると言えるのだろう。
一般論として、父は「偉大」でなくてはならない。血縁の父親がそのようであれば、誰にとっても最も都合のよいことだが、必ずしもそういった幸運は誰にでもは与えられない。この場合「父」というのは、それが血縁であるのかどうかは主題ではないのだ。そもそも、母と子は互いの関係を肉のつながりにおいて確信できても、父と子の関係は、遺伝子検査でもしないかぎりは本当に肉親なのかどうか確認できない。血縁の父親が不明だという人間も世の中には多くいよう。そうした場合にも、「父」という原体験は血縁に依らず持ちえるのだ。そして「父」から受け継ぎ、獲得できる人間の素養や素質、あるいは魂そのものは、その先の彼にとって、能力の発育ともども、どう生きるかにまで決定的に作用してしまう。つまり「父」があるのと無いのとでは、力も生き方もまるで変わってしまうだろう。誰にとっても原体験としての「父」があるほうがよく、またそれがあり続けるほうがよい。後になって、積み重なって得られる力の量は比較にならないほどのものだ。もちろん、かといって、人間は誰かを見て「この人を父としよう」と選べるわけではない。誰がいつの間に父になったのやらわからないものだ。だが誰にとってでも、いつかのとき、「似てる」「まるで同じだ」と、偉大なものに向けてハッと気づかされる日があればよい。
「父」、ロブ・ハルフォードが二十年来、僕に言い聞かせ続けてきた「三つの特別な言葉」がある。それについて武道館では確認を請われた。内心に秘めていた、期待通り、案の定!
つまり、問うて曰く、
"Breaking the What?"
答えて、
"Law!"
繰り返して、
"Breaking" "the" "What?"
答えて、
"Law!"
なおも繰り返されて……
同じ問いかけが繰り返されて、同じ答えの唱和が繰り返される。つまりは、象徴的な楽曲"Breaking
the Law"へなだれ込んでいく仕組み。
その楽曲の手馴れて高まっていく中、間奏部分で不意にこちらに向けられた遠い眼下のマイクロフォンへ、僕はどう答えねばならなかったか? 僕は<<僕自身のみでは決してたどり着けなかったであろう声の出し方で>>、
"You don't know what it's like!"(「それがどんな感じか、お前は知らないのだ!」)
僕はそのとき、我ながらこれ以上ないと信じられるすばやさで応えたのだったし、そのときの異様なほどの確信の感触から、これは二十年モノ、<<完全な応答ができた>>と感じた。
直近に僕自身が書き残したところにこうある。これは僕の、昨日までの感慨を正確に言い表しているもの。
――昨日、「九折式恋あい法」を書き上げてから、これがまあ一種の集大成というか、到達点なんだろうな、としみじみ思った。一日で書けたし、書きながらの混乱もなかった。じっくり考えてプロットを立てなくても、殴り書きすればまとまるように、<<すでに僕自身の心身に具わっていた>>。だから集大成であり一つの到達点だと思う。
僕がその滑稽な集大成の冒頭に、結局書き残したのはこうだ。「思い込みから離れること」。思い込みは社会生活に必要なものだが、あえてそれを、と。そのことについて、"Breaking
the What?"と問いかけるような勇ましさの資格は僕には無いが、社会生活に必要なそれを、打ち砕くほどに離れなければならないと、僕なりに冒頭から結んだのではあったわけだ。「思い込みから離れれば、人間は意識世界から感覚世界に切り替わり、世界は三百六十度にズバッと拓ける」。この直後に引き続く文脈は当然、「そうは言っても」ということ。つまり、思い込みから離れれば、世界は三百六十度にズバッと拓けるが、それにしても、「それがどんな感じか、お前は知らないのだ!」。そこへ文脈は接続せざるを得ない。
こうして二十年を過ぎる中で、わたしの内に叫ぶものの由来が、ようやく僕自身にも明らかになったのだが、これによって僕は確かに自身の成り立ちとして一つの段落を得たし、滑らかに、これからの進みゆきにもわかりやすい啓示を受けているのだった。次なる節目に向けて……。大江健三郎が終生をイェーツおよびウィリアム・ブレイクに引き回されたとして、僕にもやがて似たような筋書きが与えられることは、いささかの珍妙さを許容した上ならばおかしくない。わたしの内に叫ぶものが、この先どのような形をとって行きうるか、今おおよそのメドは十分につくのだ。
とはいえ、それは僕自身の、個人的なことに過ぎまい。僕のことは、これからをより楽しみにしておいてもらおう、とここでは言い残しておきたい。僕が今報告しうることは単純な「父」のことについてだ。僕は現在の血縁と戸籍から成り立つ家族主義の功罪について、慎重に懐疑的にならざるを得ないと感じているが、その家族主義のありようとは分離して、「父」のある二十年間が人間にとってかけがえのないものであることについては全面的に降伏したい。「父」のない二十年に比べれば、それがいかに有利なことであるか、また「父」のない二十年間がいかに人間を大人にしにくいかについては疑問を差し挟む余地がないだろう。
誰にとっても偉大な父があればよい。その父は複数あってもいいだろうし(どうせ行き着く先で真の父が誰だったかは明らかになるのだ)、父という捉え方が気恥ずかしければ直接の知縁がなくとも私淑に師父と捉えればよい。ただどこまでいっても選べるものではないし、父がいないつもりが、実はいるかもしれないということなのだ。僕もこの二十年が過ぎるまで、まさかこのようだとは知る由もなかった。わたしにはとんでもない父がいたのだ。
[わたしの内に叫ぶものの由来/了]