No.339 慾望
(頭上、墨汁のような雷雲に紫色の稲光がある。地上に降りてきた電磁波オーロラと、見たこともない悪霊と鳥獣の戯画が、風に重なってひしめいていく。臨界を超えてなお濃厚に、景色は圧迫を増し続ける。目を細めて……この野原の先は何億キロメートルあるのだろう? 手元には銀色のハンドガンと、目の前には這いつくばった、毒針を持つ一人の老婆。)
慾望は抑圧されている。
だから、慾望の体験を得るためには、何であれ、世間から離脱させなくてはならない。
世間は、人間がやがて死ぬということと、その恐ろしさを忘れきることで、成立している。
世間は、暴力や、迫害、人が人を殺すことなどを忘れさせ、抑圧することで機能している。
世間は、欲求についてまでは理解しているが、慾望については理解していない。
喉が渇いたから水を飲みたい、どうせならコーラを飲みたい、という欲求とその充足については、世間も了承している。
了承は欲求までだ。
だから、暴力や迫害や殺人の事件が起こったときには、世間はその犯行の「動機」を探す。
金銭目的だ、とか、痴情のもつれだ、とか、怨恨だとか復讐だとか、心理的に追い詰められたからだ、とかだ。動機に欲求を結び付けて納得していこうとする。
欲求については、欲求そのものが動機だから、世間のこのやり方は滑らかに当てはまる。
どうしてもお腹が空きすぎて、つい店頭のパンを盗んでしまった少年、というようなものは、「わかるわかる」というふうに受け止められる。
性欲が抑えきれず、十五歳の女の子をカネで買ってしまった、というような話も、お下劣だが、性欲という欲求の点で、まあ「わかる」という範囲に収まるだろう。
しかし、欲求はそうでも、慾望ということになると話が違う。
慾望には、背後にさかのぼれる動機がない。
慾望とは、具体的にどういうものかについて、ここで書き話すこともできるが、それこそ世間体に憚りがありすぎるので、どうしても差し控えたくなってしまう。
少なくとも、慾望と欲求は違うのだ。
欲求は、その字の通り、求めているから、それをする、という仕組みだ。
慾望のほうはそういう合理的な仕組みがない。
たとえば、言いやすい例でいえば、「ルパン三世」というアニメなどがそれにあたる。
ルパン三世が、今さら金銭目的でドロボウをはたらいているとは言えない。
ルパン三世がお宝を盗むのは、もはやそれが、「お宝」だからだ、としか言えない。「お宝」を手にしたい、という、ただそれだけの慾望によって、ルパン三世は盗みを続けている。
だから僕は子供のころから、ルパン三世が好きだった。今も好きだ。
同じドロボウでも、アルコール中毒でどうしても酒を飲みたかったから、ということで空き巣に入るコソドロと、ルパン三世とでは、行動の原理が違う。
性的な欲求についてもそう。性的な欲求は、男性の場合、定期的に欲求が「溜まる」という肉体のメカニズムがある。
この欲求を解消するために、男性は自慰をしたり、性風俗で女性のサービスを買ったりする。
そうした欲求解消のために、交際相手に協力を求めることもあるし、夫婦であれば、妻に協力を求めることもある。
それは何もおかしいことではないし、そうした肉体のメカニズムからくる欲求があること自体、ロマンチックと言えばロマンチックの一つだが、あくまで欲求といえばそこ止まりで、見ようによっては阿呆くさいと言えなくもない。
女性としては、付き合っているからとか、結婚しているからとかの理由で、欲求の解消に協力させられているというような、阿呆くささに貶められたくないから、そこに「愛」があるかどうか、ということを重視しようとする。
ただしもちろん、ほとんどの場合、その「愛」なるものが何なのかについては、あいまいだし、個人によってバラバラだ。
個人によってバラバラどころか、その個人内においても、その日の気分によってバラバラだったりもする。
とにかく、欲求と慾望は違うわけだ。
欲求のほうは、世間にも理解され、了承されている。
欲求には動機があってわかりやすい。
男性には性欲の溜まりがあるから、自慰をしたり、性風俗でサービスを買ったり、交際相手とセックスしたり、妻とセックスしたりということを、世間は問題なく認めている。
欲求の中には、より興奮したい、よりオーガズムを得たい、という欲求も含まれるので、コスチューム・プレイをしたり、電動の器具を使ってプレイしたりが、営まれている。
それはまあ、「好きだねぇ」という揶揄がついてくるものの、それでもなお、世間の理解する範囲から逸脱はしない。
SMクラブに通って、両者合意の上でハードSMのプレイを営んでも、それはプレイ内容が過激なだけで、原理としては、やはり世間の認める範囲から逸脱はしていない。世間だってバカではないので、人それぞれにいろんな欲求があるのでしょう、ということぐらいは、個人の権利として尊重されている。
世間は、運営のルールさえ守れば、ありとあらゆる「プレイ」を、問題なく認めているだろう。趣味の合う合わないは、もちろん人それぞれだけれど。
ただ、慾望については違う。
慾望は、欲求を根底にしていない。
慾望には動機がない。
慾望は、その目的さえよくわからない。
欲求は、「こういうことがしたい」という欲求に基づいて、それをするので、まだわかりやすいのだが、慾望というのは違うのだ。
慾望はむしろ、したくもないことまでしてしまうので、合理的には説明不能だ。
つまり、慾望というのは、「何をするのか深刻にわからない」という性質がある。
この不可解さが恐怖なのだ。
この不可解さが恐怖なので、世間は慾望のことを抑圧している。
世間的に生きている人間は、慾望についてのことを、一生知らないまま生きていくことだって少なくない。
もちろん、何かおかしいな、とは、うっすらどこかで勘付きながら、ということにはなるが。
この、「不可解さが恐怖」ということは、人間の死に似ている。
人間にとって、人間が死ぬ、ということはわかっても、自分が死ぬ、ということはわかりづらいものだ。
誰しも百年後の桜は見ないだろう。百万年後には人類はすでに無いと思われる。百億年後には地球そのものが無くて、この宇宙に人間が存在したという、知識や痕跡までがまるごと消え去ってしまう。
そうなると、はたして、人間なんてものは、存在したのか何なのか。何のために存在したのか。存在うんぬんを知覚する主体そのものがもうないのだから……
と、こう考えていくと、不可解すぎて恐怖に至る。たいてい、その恐怖の前に引き返すものだけれど。
世間は、理解しうるものについては鷹揚だ。理解しうるものについては認めようとし、コントロールはするが、抑圧はしない。
理解し得ないものについては冷たい。恐怖からだろうが、世間は不可解なものについては抑圧する。
それで、万人にとっての自己の死や、暴力、迫害、殺人、といった、不可解さに隣接する物事を抑圧する。忘れさせようとするのだ。
無意識下に抑圧してしまえば、そんなものは、恐怖ともども、「そんなものあったっけ?」というレベルにまで忘れることができる。フロイト的忘却ともいう。
これは、自我人格の安定のために必要な仕組みだ。この安定の仕組みに、世間は強力な貢献をしている。
もし今、世間性を代表するテレビメディアが、急に一斉に放送をやめたら、自己の死に隣接した老人たちは、次々に自我人格を崩壊させていくだろう。
定年退職になった老人が、退職後すぐに精神的に失調して、医者に掛からなくてはならなくなったりするのは、やはり職場という世間性の、自我安定化作用を急に失うからなのだ。
世間性の庇護から離脱してしまうと、自己の生と死という"不可解さの恐怖"に、急に生身で向き合わされる。それがしばしば、鍛えられていない人の自我人格を損傷させてしまう。
ともかく、慾望というのも、それら不可解さの恐怖の一つとして、世間においては抑圧されている。
もちろん、抑圧していても、それらは消え去ったわけではないので、場面が非世間的な状況に陥ると、人間はやはり、深刻に動機のわからないことをする。
直言は避けたいが、たとえば歴史資料のいくつかは、人類史上に起こったとんでもない「悲惨」の例をレポートしている。人類史上、振り返れば数限りなく、非世間的な状況が起こってきた。
歴史資料のレポートが示すところのすべてを、人間の「欲求」で説明しきることはまるで不可能なはずだ。「なぜこんなことを」ということがいくらでもある。
「なぜこんなことを」と、不可解な恐怖が走るところ、人間の慾望が見え隠れしている。
歴史資料の示すように、人間の慾望は危険だ。欲求なら、まだコントロールしうるし、充足への手続きを与えてやれば、暴発はせずに済むけれども、慾望はそもそも動機もなければ充足もないので、コントロールできない。
この危険極まる慾望というものを、どうしたらよいだろうか。
一つにはやはり、世間がそうしているように、抑圧してしまうことだ。危険物を、どう取り扱うかではなく、取り扱いそのものをやめてしまう。地下に封じたまま、忘却してしまえば済むことだ。万が一のため、その周囲は世間的に強固な立ち入り禁止区域にしておく。
もう一つには、危険物なら危険物として、それを専門家のように、熟練して自ら取り扱うことだ。不可解さの恐怖に呑みこまれず、確かな手つきで、危険物に直接触れる。
爆薬や核燃料と同じで、危険物は、危険だからこそ、それ自体がエネルギー源になる。もちろん安全に取り扱えるという前提の上でだ。
人間は、エネルギーのある体験を求めているし、そもそもエネルギーの無いものは「体験」にならない。
どれだけ過激なふうでも、それが「プレイ」では体験にならないのだ。
歴史資料の中には、どんな「プレイ」も記録されていない。それは人類が得た体験ではないからだ。
人間は誰しも、エネルギーのある「体験」によってしか、本質的には鍛えられないということを知っている。
慾望は、危険物であり、エネルギー源たりうるから、慾望によって体験を得ることができる。
慾望の体験を得るためには、何であれ、世間から離脱させなくてはならない。
「何を」「誰を」、離脱させねばならないのかは、今ここでは話せないことだ。
誰もが通信端末を常に携行するようになることで、世間性の庇護は二十四時間体制になった。
それによって、自我人格の安定は、より盤石になった。
が、そのぶん、「体験」を得る機会は激減し、人間として鍛えられる機会も激減した。
もちろん、端末を手放したところでどうにもならない。自分が手放しても、周りは携行したままだ。
手放さなくてはならないのは、端末ではなくて世間なのだが、自ら安定庇護の装置を手放すのは勇気の要ることだし、実際問題として、今さら急にそんなことをすると、たちどころに自我人格の損傷が起こりかねないだろう。
ヒントは、やりたくもないこと、にある。
抑圧に関わることだから、慾望は、昼に考えてもよくわからないだろう。慾望については、夜に考えることだ。
その点、夜というのは不思議だ。
「不可解さの恐怖」として、自己の死があり、自己の死が抑圧されているから、人間は夜に幽霊のモチーフを見つける。
昼間には幽霊のことなどすっかり忘れているものだ。
昼間に幽霊を怖がることができないように、慾望も、昼間には考えることができない。見つけることもできない。
決定的なチャンスがあって……
***
僕は慾望において生きたいのだ。
今、昼間なのに、そのことがはっきりわかる。
僕ほどの人間になれば、そりゃあそういうものだ。
僕は、慾望というのは、必ずしも汚らしいものではないし、必ずしも邪悪なものではないと感じている。
こうして書き話すことさえ、慾望において書き進める、ということができる。
慾望と関係なしに出来のよいものを作っても、何の意味もないのだ。
時間の無駄をするのはいやだ。
世間的なこととか、世間性の機能とその功績のこととか、わかるけれども……
誰もがご存知のように、世間というのは、人々が連帯し合って、お互いの時間を無駄にしている。
世間には、何も体験できるものがない。
誰だって、体験を持っている場合には、その体験は、世間に向けては説明不能の体験のはずだ。
慾望において生きていくことができる。
全ての時間を、体験にして生きていくことができるのだ。
全てのことを、体験として残し、生み落としていくこともできる。
ただし、慾望は危険物だ。
険物だからこそ、安全対策が要る。
安全装置として、世間をカマせるか、そうでなければ、自ら危険物の取り扱いに、トチらないことだ。
鍛えられて、成熟して、十分に明瞭な意識で、危険物を自ら取り扱うことができるかということ。
鍛えられて、成熟していくためにも、体験が要る。段階的に体験を経ていくことでしか、人間は鍛えられない。
世間的なごあいさつは、できなくてはならないが、それは安全装置の取り扱いにすぎず、エネルギー源の取り扱いではない。
誰も本当にはそんなことはしたくないし、そんなところにいつまでも時間を費やしたくはないのだ。
今や、体験が少なすぎて、危険物の取り扱いどころか、世間的なごあいさつさえまともにできない人がたくさんいる。
世間的なごあいさつは、ゴリゴリにできなくてはだめだ。
世間的なごあいさつが、ゴリゴリにできないような未熟者は、危険物どうこうではなく、単なる危険人物だ。
危険人物をよろこぶ人は誰もいない。ただの迷惑に決まっている。
危険人物など、野放しの自由にできるわけがないので、入念に抑圧をほどこすしかしょうがないではないか。
決定的なチャンスが与えられたとき、慾望が首をもたげる。
決定的なチャンス、つまり、「二人きり」というような状態。
世間から一時的に離脱した状態だ。
安全装置のはたらきが薄弱になっている。
危険物を自己運用できない者は、この途端、危険人物の実体を現し始める。
一時期流行した、今もなお増殖している「草食系男子」のようなものは、つまり抑圧の程度が強烈だという存在なので、"決定的なチャンス"を目の前にすると、もう制御が利かなくなる。
昼間ではなく、夜の話だ。
現状、そういった事件がさしあたり少数で済んでいるのは、世間が潜在意識にまで強力に入り込むことに成功しているからだ。
とはいえ、事件の実数を、これで少数と呼んでいいのかは定かではないが。女性は特に、防犯意識を持たねばならない。
加えて、何より、事件を抑制しているのは、危険人物に「権力」を与えないよう、分散装置がうまくはたらいているからだ。
権力の分散装置は、第一に民主主義だ。歴史資料がレポートするように、独裁は権力の集中によって、一個人に"決定的なチャンス"を与えてしまう。
そうなると、制御が利かず、とんでもない悲惨さのシーンが出現するのだ。
現在でも、分散装置が行き届いていないところはある。たとえば、親が幼子に対して、実際に何をしているのかは、外部にはわからない。
親は子に対して、何をどうするにせよ、決定的なチャンスを与えられていることになる。親は小規模ながら権力状態にある。それで実際に、悲惨なことになっているケースも少なからずある。
決定的なチャンスに、慾望が首をもたげる。たとえば親の慾望が、"動機のない"迫害に向かうとき、子はその慾望の餌食にされる。人間的に鍛えられてきていない親は制御が利かない。それで事件になると、周辺世間からは「まるでそんな人には見えなかった」と意外さへの声が上がる。
一方で、世間や権力の分散装置が隅々まで行き届いた場合、副作用としてのデメリットも被る。つまり、子は親から体験を得られない。子は親の慾望の餌食にならなくて済む分、親から与えられる体験が得られなくなるのだ。
一昔前、学校の教師が女子生徒にセクハラするということが当然のようにあった。身体検査まがいに、強制わいせつに近いことをするということがいくらでもあった。今でもあるのかもしれない。当時、女子生徒の側もほとんどの場合は慣れっこだった。慣れっこで、その気色悪さに耐えていた。
今は、昔ほど、そういったセクハラは横行していないだろう。時代のムードもあるし、何より中高生といえども広く世間に通報できる端末を手にしているからだ。
これによって、女子生徒は教師の慾望の餌食にならず済むようになったが、同時に、若い人間を教育したい、という、"慾望によって教育される"ことの機会を失った。教師によって教育されるという「体験」を得られなくなった。
同様のことが全域にある。歌手は慾望において歌わなくなり、画家は慾望において描かなくなり、ダンサーは慾望において踊らなくなった。男は慾望において女を抱かなくなり、友人は慾望において語らなくなった。
それぞれが、個人の権利において、欲求に耽るばかりになった。
それはまったく安全なことだ。ただし、何の体験も得られない。その、慾望に無縁で安全な、何の体験も得られない欲求への耽り合いについて、僕はありていに、時間の無駄、と感じている。
そういったこととは、全くの関係なしに、僕は慾望において生きたいのだ。僕にとって生きることとは、体験そのもののことを指すから。
現在、体験といっても、ほとんどの人が、体験を与えられただけでペシャンコになってしまう、そして自我人格を損傷しかねない、という実情がある。人間的に鍛えられる体験をほとんど経てきていないのだから当然だ。
現在、誰もが慾望に興味を持つが、自ら乞うてその実物にまみえると、たちまち後ずさりして世間へ遁走する、という状態にある。失礼極まりない状態だ。そのことが失礼にあたるという自覚もないが、結局、何が失礼で何が節度に悖(もと)るかを、体験で得てきていないのでやむを得ないのだろう。一昔前なら誰もが掛け値なしで「人間のクズ」とそれを呼んだ。許しがたいことだと。現代では何の躊躇もなく横行している。
それが実情だが、そういった実情も、僕を今さら惑わしたりはしない。何であれ、僕は慾望において生きたいのだ。他人のことはあまり関係がない。今は昼間にも関わらず、そのことがはっきりわかる。
***
慾望は危険物だ。
しかし実は、慾望は、不純物がゼロなら、危険物でありながら、有害ではないのだ。
なぜなら、不純物ゼロの、純粋慾望が爆発するとき、その爆発には音がなく、人の一切を傷つけないからだ。
光り輝く爆発だけがあって、人を傷つけない。
そのとき慾望は純粋なエネルギー源であり続ける。
慾望が人を傷つけるとき、その損傷は、実は慾望そのものによって起こっているのではない。
慾望に混入した不純物によって傷つけられるのだ。
不純物が一滴でも混入したとき、慾望は汚らしく変質し、騒がしい轟音を立てて爆裂するものになる。
この、不純物が混入した慾望のことを、コンプレックスという。
コンプレックスは人に「執着」を持たせる。
この、「執着」になり果てた慾望は、すでに純粋な慾望ではない。
コンプレックスと執着が爆裂し、人を襲うとき、それは人を脅かし、人を傷つける。
コンプレックスと執着の人間は、必死の面相になっているだろう。
慾望のままにあれたときの人間は、心の底から笑っている。
女性の心には、男性に襲われたい、という慾望が潜んでいるだろう。
ただしそれは、不純物ゼロの、純粋慾望において襲われたい、という厳密な但し書きがつく。
純粋慾望において襲われたとき、そこには傷つきようのない、性愛の「体験」が得られる。
その「体験」が得たいのは当然だし、憧れて正当なものだ。
同時に、誰を「体験」したことにもならない、欲求解消的なセックスばかりを繰り返していくと、内心が疲弊していくというのも、やはり正当なことだ。
男性の、あくまで純粋慾望において、襲われたいという女性の慾望は、間違ってはいないが、現実的には、そういったことの実現は、きわめてまれだと言わざるを得ない。
防犯を甘く、油断したとしても、そのときつけこんでくるのは、決まってコンプレックスと執着の男に違いない。
コンプレックスと執着の男に襲われると、女性は深く傷つく。よって、これが刑法において重罪とされているのも当然のことだ。
危険物の取り扱いを自らできるか、というのはこのことだ。
世間において、慾望は抑圧されている。
その抑圧の海底から、慾望を引き上げてくるとき、抑圧の不純物がわずかも混入してはならないのだ。
不純物が混入した刹那、慾望はすでに汚らしく呼吸するコンプレックスに成り果てている。
危険物の取り扱いに未熟な人間は、慾望というものを、「ドロドロしているもの」と思っているだろう。
とんだ勘違いで、それは慾望に抑圧の不純物が混入しているからに過ぎない。
抑圧されていない純粋慾望が、なぜドロドロしているはずがあるだろう?
慾望は、動機さえ必要としない、すっきりとした単体のエネルギー源だ。
慾望とは何なのだろう。
それは誰にもわからないことだ。
誰にもわからないまま、ただそれの取り扱いに優れ、不純物を混入させなければ、慾望において生きる、ということはできる。
エネルギー源に直結したまま生きていくことができるのだ。
慾望のまま、全てを営むことができ、全てを体験にしてゆくことができる。
人間にとっての、自己の死や、暴力、迫害、殺害、そういったところには、"不可解さへの恐怖"がある。
自我人格が、この恐怖に打ち克てない場合、慾望を取り扱うにしても、必ずその手元が狂う。
不可解さへの恐怖を、良しとできない場合、必ず慾望には不純物が混入するだろう。
それで、世間は、そういった不可解さの一切合切を、抑圧しておこうとする。
抑圧の海から、不純物なしで慾望を引き上げてくるなど、現実的に考えて不可能だと、世間の言う立場には説得力がある。
恐怖に対して素直だ。自己の死、その不可解さへの恐怖に、抗しえるわけがないということから、一切合切の抑圧を選択している。
それは、一部の不誠実な徒に比べると、まっとうなことかもしれない。
人間的に脆弱なくせに、慾望や体験といったことに、ふしだらな興味だけ持つ、失礼極まる徒に比べれば、穏やかな世間の徒は、決して醜悪ではない。
ただ、それでも僕は、慾望において生きてゆきたい。
慾望も、自己の死も、その他全てのことも、抑圧せず野ざらしにして、不可解さの恐怖に包まれて生きてゆきたい。
楽しいのにな、と、もう一度言っておきたくなるが、軽薄か。
頭上、墨汁のような雷雲に紫色の稲光がある。
地上に降りてきた電磁波オーロラと、見たこともない悪霊と鳥獣の戯画が、風に重なってひしめいていく。
臨界を超えてなお濃厚に、景色は圧迫を増し続ける。
目を細めて……この野原の先は何億キロメートルあるのだろう?
手元には銀色のハンドガンと、目の前には這いつくばった、毒針を持つ一人の老婆。
不可解さの野原で、銃声、スキップ歩きをする。
僕は心の底から笑っていたい。
[慾望/了]
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