No.343 永遠の未来
計画を立てないとな……
不思議なものだ、人は計画を立ててこそ自由になれる。
同じ自由といって、たとえば禅寺の禅僧は、ずっと同じ寺で座禅を続けているだけに見える。
だがそれも、よくよく見ると、きちんと計画の上でのことなのだ。
つまり、生涯を通して、座禅一本でいく、その他のことは一切せずに死んでいく、という、計画の上での座禅なのだ。
計画を立てないとな。
もちろん、計画には、血が通っていなくてはならない。
自分の生きる道そのものになるのだから。
「道」とはよく言ったもので、行先を決めなければ道は見えてこないし、行先を決めたって道を進まなければ進まない。
進み始めてしまえば、途中で頓死しようが、人はあまり文句を言わないものだ。
行先にも、道にも、これといって意味はない。
意味があったらそれは道ではなく意味だ。
意味の上なんか歩けるか。
行先も道も、自分限りの慾望だ。
誰に説明する義理もない、小さなことだ。
未来はやはり、無限のものだ。
あと三日間しか生命が無いとしたら、その三日間が無限だ。
未来というのは、未来であって、到来が予定されている一定の期間のことを言うのではない。
常に活性化していないといけない。
真の活性化のために、無限の未来が要るのだ。
未来が無かったり、有限だったりでは、真の活性化など得られるわけがない。
無限の未来?
永遠の未来か。
これだけが、胸に突き刺さり、胸を苦しめる。
自由は、永遠の未来にのみ成り立つ。
自由と、永遠の未来とは、ほとんど同じものだ。
体温が冷えたままで、上手なことを考えて、いくらこなしていっても、そんなことは何にもならない。
誰にとっても、自分は、慾望に用事があって、真理に用事があるのではないのだ。
慾望への手がかりになる真理なら、大至急掴まねばならないが、慾望に何の寄与もしない真理風情の絶望話なんて、聞いていたってしょうがない。
なぜ、無限の未来と言わず、永遠の未来と言わなくてはならないのか、理由がうまく見つからない。
ただ、無限の未来というと、何かがしんどい。
永遠の未来というのが、一番しっくりくるので、そのままにしておこう。
不老不死なんて、誰も欲しくないだろうし、欲しいのは不老不死ではなくて永遠の未来なのだ。
不老不死なんかもらうぐらいなら、三日間でいいから、永遠の未来がほしい。
幸いなことに、未来は無限であり、未来はもともと永遠だ。
未来というのを、予定された時間として、時計で測ろうとするからいけない。
未来は、いかなる分量であれ、未来であるがゆえに永遠だ。
三日間とか、三か月間とか、三年間とか、時間がわかっていないと計画は立てられない。
一方で、永遠の未来がなければ、計画を立てる動機がない。
このことは、理屈では意味不明だが、計画を立てようと取り掛かり、紙にペン先を下したとき、意味がわかってくる。
人は永遠の未来に向けて計画を立てるのだ。
有限を唱える理屈者へ。あなたの理屈に口答えするつもりはないが、あなたは数学的な感覚が甘い。
有限説を唱えていたらよいが、あなたのその理屈こそ、あなたが死ぬときに合わせて一緒に消えていってしまうだろう。
やがてはそうして消えてしまうものを、何を頑張って有限説の理屈を唱えているのか?
(な? 有限の未来に向けては、こうして「計画が立てられない」だろう?)
誰でも計画を立てたらいい。計画は善のものだ。
慾望のことは、考えてもよいけれど、どうせ永遠の未来と自由は同一のものだし、自由は必ず慾望に向かうから、あまりむつかしく考え込まなくてもいい。
考えなくても、人間はそれぞれに、自己の慾望を知っている。
計画書は、その冒頭から、怒りに満ちたものになるだろう。
怒りの書であり、真実の書だ。
そこに書きこまれたことこそが、自己の全てを決定する。
そのとき、完全な爆発を得る怒りは、体内に残らず、体内に一切のむかつきを与えない。
もう、むかつく用事は全て済んだからだ。
輝ける怒りがこれまでの妄想を淡々と引きちぎっていくのみだろう。
これまで、あまりにたくさん、大切でもないものを、大切にさせられてきた。
真実の書へ筆を下す瞬間、そんなものは何も大切ではなかった、ということに気づく。
自己の全てを決定する、その計画書へ、筆を下すとき、自分にウソはつけないものだ。
そのとき、自分がこれまで、どれだけ自分にウソをやってきたか、いやがおうにも気づくものだ。
時計とカレンダーから、有限の未来という理屈を唱える者も、自己の全てを決定する計画書に書きこむとき、急に身をひるがえして、「永遠の未来」と書きこむものだ。
未来が有限であってたまるかよ、と、急に本当のことを言いだしてしまう。
永遠の未来だけが、物語を持ちうる。
物語とは、シナリオのことではない。物語は物語としか言えない。
物語は、きらっきらのものだ。
磨いてもいないのに、ときには野暮ったくもあるのに、なぜか不意に、きらっきらに輝いている。
磨こうとしたりしたら途端に曇るだろう。
物語の無いところに、長々と居座っても、何にもならない。
物語に関わらない人と、長々と親交を深めても、やはり何にもならない。
そういった、まるで大切でないことを、これまで大切にさせられすぎてきたのだ。
今さら、そんなものはもう、引きちぎってしまえばいい。
障子紙を破るように。
そんなことには何の感興も起こらない。ただの、既に決定済みの、破却事項だ。
怒りの書、真実の書が、それを携える人を、はっきり目覚めさせてしまう。
だから誰だって計画を立てたらいい。
計画を立てたら、自由になれるし、落ち着ける。
ただし、あくまで、計画書は怒りの書であり、真実の書でなくてはならない。
そこに書かれたことこそが、自己の全てを決定するのだから。
計画を、立てないということも、人の好き勝手であるには違いない。
そうして、怒りの書を持たない人は、目が覚めないので、まるで大切でないことを大切にし続けるだろう。
そうした人は、落ち着かず、不自由なまま、駆り立てられて、自分を慰める手がかりを日夜探し求め続ける。
そして、積み重ねた手がかりは、のちに全て裏切り、突然全てが空虚を自白するだろう。
なんという、とんでもない裏切りだ。
そうしたところに起こる、終末的な、救いがたい哀愁を、文学的なモチーフに組み込む手法がある。
割とよくある手法だけれど、そんなもの、まっぴらごめんこうむりたくて切実だ。
よりにもよって、しくじった人の成れの果てまでを、観察し続けるために生きるとか、それを発表するために生きるとか、そんな悲惨極まることは、まっぴらごめんだ。
怒りの書に書きこんだとおりに、自分は何にでもなれるのに、わざわざそんな悲惨な自分を選択することの気がしれない。
怒りの書は、これまで思いがけなかったことを、何の感興もなく決断させる。大切だと思わされてきたものを、あっさり引きちぎって破断する。
色んなことに、心理的な抵抗はつきものだ。
が、何だその、心理的な抵抗って。
ヘソで茶を沸かす類だ。
心理的な抵抗などというものには、屈服する理由がまるでないし、向き合って乗り越えるような値打ちもまったくない。
心理的なものなど、自分の慾望とは関係が無いし、自分の真実でも何でもないのに。
もし、心理的に生きたら、夢を持って生きるなんて、イヤなことずくめに決まっている。
怒りの書には、本当の決断が書きこまれねばならない。
それが自己の全てを決定する書なのだから。
自分が強くなる必要はまったくない。
怒りの書が、強すぎるので、自分はそれを受け止めるようにあればいいだけだ。
怒りの書を、受け止めない人間を、「夢見がちでいただけない人間」という。
人は現実的でいないといけない。
人間は、自分の気持ちなどで、自己を決定することはできない。
自己の全てを決定するのは怒りの書だ。
だから計画を立てたらいい。
怒りの書は、物語に関係のないものを、バッサリ切り捨ててくれるだろう。
心理的に生きると、しんどくてしょうがないのは、関係のないものを関係があるふうに、常に誤解し続けてしまうからだ。
怒りの書に書かれていないものは自己に関係がない。
ほんわかした日常のエンカウントシーンなど、自己に関係ないのだ。
自己に関係のないものへ、心理的になる必要はないし、かといってことさらに冷たい態度になる必要もない。
怒りの書には、関係のない人に冷たくしよう、なんて計画は書きこまれない。
旅に出るのもいいかもしれない。
旅は、ただ旅だというだけで愛せるからいい。
旅をしていたい、という慾望は、きっとほとんどの人にある。
旅行を勧めているわけではない。旅行も楽しいけれども。
旅というのは、ほとんど、目的地を持った時点で、もう旅ではなくなるだろう。
旅は、目的地なし、目的地が目的でなしだ。
自由と放埓の旅だ。
永遠の未来があるから、人は旅に出ることができる。
旅先にて。
怒りの書の冒頭にはこう書かれる。
「あんなものは換金だ」
もういいかげんにそうしようではないか。
本当にはまるで大切でないものを。
自分をだめにするだけと、とっくにわかりきっているものを。
意外な展開についていけないだけの、まるで老人の脳を晒しているだけのことではないか。
老人の脳に決して付き合うな。老人の脳は、思い入れという重病を患っている。
自由および慾望とは何か?
それは、単純に、若くピチピチした脳のことだ。それがあるよ、というだけのことだ。
まるで大切でもないものを、大切なふうに思い込まされてきた。
それは、未来が有限のものとして取り扱われてきたからだ。
永遠の未来、となった途端、若くピチピチした、思い入れを持たない怒りの脳が、全てを淡々と吹き飛ばしてしまうだろう。
それが自由および慾望だ。
怒りの書には、何でもかんでも書きこまれねばならない。
それが自己の全てを決定するから。
自己の全ては、永遠に、未来に続いていく。
だから、本当に大切なことに向けてしか、書けないのだ。
まるで大切でもないものに、永遠に付き合う自己にさせられては、たまったものではない。
だから怒りの書には、本当に大切なもの、自分の慾望についてしか書けない。
永遠の未来というと、「永遠に未来があるから、まあいいか」となりそうなものだ。
けれども実際は逆だ。
逆に、未来はどうせ有限だからと、タカをくくっているから、人はでたらめに生きてしまう。
永遠の未来に向けてしか、人はちゃんと生きようとしないものだ。
永遠の未来に向けてなら、心理的などうこうに主権を与えるような愚かなことは誰もやらない。
心理的なものなど、片腹痛いことで、「永遠の未来と言っているだろ」、永遠の未来の前に心理的なものなど通用しない。
冒頭に書かれる、
「あんなものは換金だ」
そこに言う「あんなもの」は人それぞれにあるだろう。
なぜそんなものを、大切にさせられてきたのか。まるで大切ではないのに。
永遠に大切にするつもりでなければ、それは結局大切ではないのだ。
自由と放埓の旅はどうか。
自由と放埓の旅は、「あんなもの」呼ばわりされない。
自由と放埓の旅は、永遠の未来に向かって歩いている。
自由と放埓の旅は、人の歩を進めさせる。
物語への慾望に向けて、人の歩を進めさせる。
普段、慾望はまったく抑圧されているわけだ。
永遠の未来を生きねばならないとわかったとき、人は抑圧から解き放たれるだろう。
[永遠の未来/了]
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