No.351 あなたをうつくしくする「気」の話
そうだな、今回は「気」の話をしよう。
「気」というのは、誰だって聞いたことがあると思う。
それも、どちらかというと、マヤカシというか、オカルトの、迷信のようなものとして、聞いたことがあると思う。
迷信でしょ、と思いながら、まあ、あるのかもね、と思われている。
だいたい、それでまあ、合っている。
合っているけれど、今回話すのは、それとは少し違う話。
今から話そうとしているのは、そういうオカルトの、超能力の「気」というのとは違って……
まず、勝手な話だが、「気」とは何かという、成り立ちから話そう。
といっても、僕も専門家じゃないから、ほとんど思い付きの話にしかならないけれど。
まあでも、誰が考えたって、「そりゃそうでしょ」というような話にしかならない。
誰が考えたって、古代にはCTスキャンは無かったわけだ。
酸素とか二酸化炭素とか、そういうものがあるというのも、まだ知られていなかった。
でも、人間が生きているということと、死ぬということ、および、死んだらもう生き返らない、ということは、当たり前だがわかっていた。
多分、死んだ人間は、「もう息をしないんだな」ということで、知られていただろう。
人間は、死んだらもう呼吸をしないし、そもそも、身体が動かなくなる、ということは、別にCTスキャンがなくても、知られていた。
だからきっと、古代の人間は、
「人間の身体って、そもそもどうやって生きているの」
「そもそも、どうやって動いているの」
ということを、疑問に思っていただろう。
そして、ケガなどをして、今でいうところの神経が切れてしまったら、もう手先や足先が、動かなくなるということぐらいは、古代の人も知っていたはず。
となると、まだ「神経」という名前はなくても、
「身体の中に、何かが流れていて、それが途中で切れてしまうと、もうその先は動かないし、死んでしまう」
ということぐらいは、古代の人もわかっていた。
そして、東洋医学なんかでは、その神経の流れているところを、「経絡(けいらく)」と呼んだりしたらしい。
経絡に、気が流れていて、人間は生きているし、人間の身体は動いている、と捉えていたようだ。
それは、現代とは、当てはめている言葉は違うけれど、考え方はだいたい合っている。
だから、「気」というのは、別に超能力のことではなくて、それ以前に、古代の人々にとっての、人間の身体のサイエンスだった。
まだ、顕微鏡とかの、調べる機器がなかったから、おおざっぱに捉えるしかなかったけれど、「経絡に気が流れて生きている、動いている」というのは、今見ても科学的に十分正しいと言える。
だから、「気」そのものは、元々まともな考え方だ。
ただ、その古めかしさを利用して、いんちき気功師みたいなことで、ずるい商売をしている人もあるけれど……
でももちろん、まともな「気」の訓練をしている人もあるだろう。
「気」というのは、今の科学ほど精密ではないにせよ、おおざっぱな、ある意味では的を射た、人間と生命についてのサイエンスだった。
「気」という考え方は、おおざっぱなぶん、僕たちにとって、的を射た感じで使いやすい、というメリットもある。
もちろん、だからといって、いんちきなイメージの使い方になってしまってはいけないけれど。
でもたとえば、一流のバレエダンサーとかが、舞台の上に立っていると、なぜか立っているだけで存在感があって、うつくしい、と感じられるということがある。
同じような体型の誰かが、同じように立ってみても、なぜかそれは、一流のバレエダンサーみたいにはならないものだ。
何が違うとは言えないが、何かが確かに違う、と感じられる。
バレエダンサーだけじゃなく、スーパーモデルの人とか、一流の俳優とかもそうだ。
目の前で、立っているだけで、何かがうつくしくて、何かがカッコいい。
存在感がまるで違う、と感じられる。
造形の完璧さだけで言えば、CGのほうが完璧なはずだけれど、CGの完璧さは、人間の「かっこいい!」というのとは、やはりあくまでも違う。
だいいち、ロバート・デニーロとか、ピーター・フォークとか、あるいはマイケル・ジャクソンとかが、本当に単純に造形として完璧なのかというと、どうもそうではない感じがする。
造形は完璧ではないはずなのに、何かが「かっこいい」「うつくしい」と感じられる。
じゃあ、何がかっこいいのか、何がうつくしいのかというと、結局その身体を流れている、「気」のうつくしさなんだ、ということになる。
マイケル・ジャクソンが、手を振ってみせる。すると、何かが「かっこいい」。
これを、ただのイケメンがやってみても、なぜかそこまで、「かっこいい」の存在感は出てこない。
あるいは音楽指揮者の、たとえばバーンスタインが、指揮棒をピシッと構えてみせたら、その指揮棒は異様な存在感をもって、かっこいい、と感じられる。
でも指揮棒なんて、音楽用品店で二千円で売っているものだ。
棒を構えただけで「かっこいい」なんて、よくよく考えたら、理由がわからない。
理由はわからないのに、なぜかそういうものは、確実にある、と、僕たちは誰だって知っている。
身体のやわらかい人なら、自分の頭の近くまで、足を上げたりできるだろう。
でも、単に足を高く上げるだけでは、アリーナ・コジョカルみたいに、それが「うつくしい」というふうには見えない。
なぜ?
古代の人々は、そのことまで含めて、「気」なんだと捉えていた。
何しろ、精密に科学を分解する必要がなかったから、見たまま感じたままを、サイエンスに取り込むことができたわけだ。
「気」というのは、人間の身体の中を流れていて、人間の身体を動かしている、生命の力みたいなものだ。
今でいうところの、神経と電気信号だけれど、それが何細胞であるとか、どういう電気なのかということは、正直僕たちにはあまり関係がない。
それよりはただ、僕たちは、できたらかっこよくなりたいし、うつくしくなりたいだけだ。
理屈はいいから、ああいうふうに、かっこよく、うつくしくなれないものかな? と誰だって考えている。
そこに、
「それは、気の問題だ」
と捉えることは、わりとまともだし、たぶん何よりもぴったり当たっている捉え方だ。
つまり、こうだ。
マイケル・ジャクソンは、世界随一のダンサーだったから、体中の全神経が、ものすごく発達していた。
「気」の言い方でいうと、経絡がものすごく開拓されきって、隅々まで行き渡っていて、そこにビュンビュン、膨大な量の「気」が流れていた。
だから、手を振ってみせるだけにしても、その「気」が見る人に訴えかけて、それをうつくしく見せていた。
僕たちは、手を動かすことはできるけれど、そこまで経絡を開拓しているわけではないので、そこまで大量の「気」が流れているわけじゃない。
ただ、手が動きます、というだけだ。
だから、僕たちが手を振っても、あまりかっこよくならないし、うつくしくならない。
手を振るだけで、そこに流れている「気」が、見る人に訴えかける、なんてことは起こらない。
それが、実は、現代科学よりも的を射ている、真相だ。
なにしろ現代科学は、精密さを追求するため、その「かっこいい」とか「うつくしい」とかいうあいまいなことは見捨ててしまった。
現代科学は、手が動けば神経が通っている、というだけで、その手を振るのがかっこいいとかうつくしいとか、主観的・恣意的になりえることは切り捨ててしまった。
だから、現代科学は、高度に発達しながら、僕たちの生きることに、あまり直接の関係はなくなっていってしまった。
もちろん、ひどい病気になってしまったときとかは、精密な現代科学が強力に役立つのだけれど。
でも、今のところ、現代科学の発達の仕方のせいで、「うつくしくなるには?」「かっこよくなるには?」ということに、ちゃんと答えてくれる学問はなくなってしまったとも言えるわけだ。
マイケル・ジャクソンの身体は、経絡が徹底的に開拓されていて、全身に縦横無尽に、膨大な気が流れていた。
流れている「気」の、感触は違うだろうけれど、アリーナ・コジョカルだってそうだろう。
あるいは昔、ジェームス・ブラウンという、ソウル歌手がいた。今youtubeなどで聴いてみてもわかるとおり、ジェームス・ブラウンはものすごい声をしていた。
単なる大きな声や、高い声というだけなら、出せる人はいくらでもいただろう。
でもそうではなくて、声そのものに、膨大な「気」が乗っかっていた。
これは、オカルト的に捉えるべきじゃない。
声を出す、といっても、よくよく見れば、それは呼吸器官や声帯が、身体として動くことによって生み出されているものだ。
ジェームス・ブラウンの身体は、やはり経絡が徹底的に開拓されていて、特に声を出す器官について、「気」が膨大に流れていた。
力ずくで出した声とはまるで違う。
「気」の力の極限から出たような声だ。
それで、軽くシャウトするだけでも、その声には、ものすごい「気」が乗っかっていた。
それで、その声を聞いた側も、「おおっ!」と、その「気」に打たれてきたわけだ。
「気」という言葉でいうと、たとえば「元気」になるとか、「病気」になるとかいう。
「気が滅入る」とか、「気に病む」とかいう言い方もある。
「気がヘンになる」とか、「正気に返る」とかいう言い方もする。
「陽気」になるとか、「陰気」になるとかも言うし、そもそも「気になる」とか「気にならない」とかいう言い方もする。
暢気(のんき)な奴だなあとか、気ぜわしい奴だなあとか、「気色」が悪いとか、「気持ち」が悪いとか、「気味」が悪いとかいう、言い方もする。
こうして、日本語の中には、「気」という捉え方から来ている言い方が、ものすごくたくさんある。
どうだろう、こうして聞いていると、それだけで「その気」になってこないだろうか。
人によって、その気になってしまうとか、その気になれないとかいうことは、よくあるはずだ。
「焼肉食べに行こうよ」
と言われて、
「この人に言われると、ついその気になっちゃうな」
ということもあれば、
「この人に言われても、まったくその気にならないな」
ということもあるはずだ。
実はそれは、「気」の影響を受けてのことだ。
「気」が出ている人からは、「気」の影響を受けてしまい、「気が変わった」ということになって、つい「その気」にさせられてしまう。
「気」が出ていない人からは、どれだけ熱心に言われても、「気」の影響を受けないから、どうしても「その気」になれない。
ジェームス・ブラウンの歌声を聞くと、「おおっ!」となる。全身に、膨大な「気」が流れていて、それが声に乗っかって、「気」が聴衆を打つからだ。
それで、「気」が影響して、「元気」になったり「陽気」になったりする。「勇気」づけられた、というようなこともありうる。
このように、「気」というのは、何もオカルトでもなければ、超能力じみたものでもない、実はいくらでも身の回りに起こっている、ありふれたことなのだ。
ただ、その「気」の量が、あまりに膨大すぎるとき、たしかにちょっと、超能力じみたことが起こることもあるけれど……
でもそれも、まだ現代科学が追いついていないだけで、人間の生きる能力・動く能力である「気」には、科学的に見てそういう機能があるというだけかもしれない。
きっとそうなのだろう。
ただ、「気」ということの、当たり前のことを見ずに、超能力じみたことだけ憧れて、追いかけるようでは、それは絶対にニセモノだ。
「気」というのは、あくまで、人間の生きる能力・動く能力についての、ひとつのサイエンスにすぎない。
人間の身体には、経絡が通っていて、この経絡の上を、「気」が流れている。
ただそれだけのことだ。
そして、人によって、経絡がバツグンに開拓されている人もあれば、ぜんぜん開拓されておらず、細々とこじれ、渋滞を起こしている人もある。
人によって、「気」が膨大に、隅々まで流れている人もあれば、「気」が停滞して、あちこちで淀んでいる人もある。
そういうことは、人によっていかにもありそうだと、僕たちは感覚からなんとなく納得できる。
もし、全身の経絡が、開拓されまくって、隅々までズバッと解放されていたら、スカッと爽快なんだろうね。
何しろ、「気が晴れる」わけだから、それはスカッと爽快なはずだ。
逆に、全身の経絡が、こじれて渋滞して、あちこちで淀んでいたら、どんよりとしんどくなるだろう。
「気が重い」わけだから、それはどんよりしんどいはずだ。
こうして、「気」というのは、僕たちがよく見ることや、よく体験することを、わかりやすく原理化してくれる、ひとつのサイエンスに過ぎない。
あなたは、「なるほど!」と言ってくれるだろうか。
できたらそのときも、あなたの全身の、経絡があるていど開拓されて、気がよく行きわたって、爽快な「なるほど!」が出るほうがいい。
そうしたら、あなたのあいづち一つにしても、
「気が利いているね」
ということになる。
実際、気が利いている人というのは、その振る舞いが、スカッとして気分がよく、見ているだけで気が晴れる。
逆に、世の中には、「気難しい」人もいるけれど、気難しい人を見ているのは、しんどくなるからいやだな。
***
あなたがもし、僕の話を、ちょっと信用してみよう、という「気」になってくれるなら、もう少しお話できることがある。
体中に経絡が通っていて、その上を「気」が流れている、という話は、わかりやすいけれど、じゃあ今度は、その「気」とは違うものは何なのか? という話になる。
いわば、「気」の反対とは何か? ということになる。
ここで、「気」の反対は、おそらく「思」だ。
「思う」ということ。
「思う」ということは、全身のどこをも流れていかない。
「思う」ということで、人間は生きてはいないし、「思う」ということで、身体は動かない。
「思う」というのは、あくまで、頭で思うだけだから。
実はこのところに、重大な秘密が隠されている。
「思う」ということは、一見、とても大切なことに思えるけれど……
古代の人々は、人間がどうやって生きているのか、どうやって動いているのか、知りたがった。
そして、人間が生きる・動くことの仕組みを、経絡に流れている「気」の力だと捉えた。
古代の人々は、人間が生きる・動くことの仕組みを、「思う」ことだ、とは捉えなかった。
どういうことかわかるだろうか。
「思う」ということは、人間の生きる力ではない。
僕たちは、あれこれ「思う」けれど、実はそれは、生きる力の足しにはなっていない。
生きる力の足しになるのは、全身を流れる、「気」の力のほうだから。
このことは、実は、とてつもなく重要なことを教えていて……
僕たちはだれでも、
「こうなりたい」
「こうしたい」
「こうありたい」
というようなことを、考えているし、思っている。
思っているのだけれど、その「思う」ということは、実はそれ自体は足しにはならないわけだ。
なぜなら、
「こうなりたい」
ということを、実現するための力は、生きる力、全身を流れている「気」の力のほうだから。
これは、けっこう、えげつない話だ。
「思う」と「気」は、実は正反対で、「思う」を大きくしても実現は起こらない。
実現させるためには、逆、「気」のほうを大きくしなくてはならないわけだ。
これは、けっこう、気づかないまま行くと、ものすごい損をさせられることじゃないか。
僕たちは、あれこれたくさんのことを思うけれど、何もその「思う」ということばかりをしていたいのじゃない。
「思う」のはそこそこにして、それよりも早く、何かを実現したい、と望んでいる。
誰だってそうなのに、誰だってこのことに気づけるとは限らない。
「思う」と、「実現する」って、実はつながっていないの? と。
「思う」ということをしなくても、ただ胴体がそうなれば、それだけで実現するってことなの? と。
「じゃあ、精神的に強くなろうとしていたのに、そんなのまるでバカみたいじゃない」
「胴体と気の力が大きくなれば、ただそれだけでいいんじゃないの」
あるいは、よりひどくなるが、的確に言おうとするとこうなる。
自動車の、運転席をパワーアップさせても、車の性能はまるで変わらない。
当たり前だ。
車の性能はエンジンであって、エンジンの性能は排気量と回転数だからだ。
車の本体は明らかに運転席ではなくてエンジンのほうだ。
同じく、人間の本体は明らかに頭ではなく胴体のほうだ。
……運転席をパワーアップさせてどうするの?
なぜエンジンのほうをパワーアップさせないのか。
変わった奴だなあ……
笑われる人は、運転席を笑われているのじゃなくて、エンジンパワーのなさが笑われているのだ。
「こうなりたい」、って、思いは立派だけれど、こんなエンジンじゃ絶対無理だよ。目の前の坂さえ上れないでしょ。
排気量が足りないし、回転数も足りないし、排気ガスだってモクモクじゃない。
どうしてエンジンをパワーアップさせないのかな……
あれ? まさか本当に、運転席だけで目的地に行けると思っているの? 車なのに?
と、こういう具合になってしまう。
一方で、誰しも、見方を変えれば、なんとなく知っているのだ。
何か、「こうなりたい」というようなことを、人間的に実現した人は、人間的な力の違う、スカッとした気力の持ち主なんだろうな、ということを、なんとなく知っている。
人間的な「こうなりたい」を、ちゃんと実現できた人は、そりゃあスカッとしている人だろうと、イメージだけでも想像がつく。
だから僕たちは、本当には、何よりもその「気」の力が大事なんだということを、本当には感覚のどこかで知っているわけだ。
誰にだって、胴体があって、頭がある。
そして、経絡が通っていて、気が流れているというのは、頭ではなくて胴体のほうだ。
だから僕たちは、何かを「思う」というとき、決まって「頭を悩ませる」というやり方をする。
胴体のほうで、何かを「思う」というようなことはできない。
だから……
びっくりする話、僕だってあなただって、生きる力としての「本体」は、頭じゃなくて胴体のほうなのだ。
実は、こっち、胴体のほうが、活躍しないと、何も人間的には実現しないということだ。
なんてことだ、という気もするし、どこか、「そう言われてみたら、確かにそうだ」という気もする。
僕たちはいつも、何を実現したいか、とか、何を実現するべきか、とか、考えているし、思っている。
けれど、実は、何を実現したいと「思うか」が重要なのではなく、
・何に向けて、この胴体が、開拓されていくか
ということのほうが、本当は大事なのだ。
人間としての本体は、頭じゃなくて胴体なんだな。
そりゃまあ、本「体」っていうぐらいだから、胴体が本体なんだろう……
あれこれ「思う」ことで、頭のほうが幅を利かせているだけで、実は人間的に大切なことの全ては、胴体のほうが担っている。
これ、とんでもない話だが、こっちが真相であって、ウソじゃない。
誰だって、人のことを好きになりたいし、人から、好きになってもらいたいと思う。
人を笑わせたいし、人を感動させたいし、人を励ましたいし、勇気づけたいと思う。
人と、友人になりたいし、恋人もほしいし、単なるお友達というのじゃなく、疑わなくていい確かな人間関係や信頼関係を、持ちたい、と思っている。
そう、思っているけれど、その思っていることを、実現するのは、実は胴体のほうだ。
人を笑わせることや、感動させること、励ますこと、勇気づけることも、実は人間の「思い」からではなくて、胴体から伝わる「気」によって起こっている。
真剣な思いとか、切実な思いとか、崇高な思いとか、美しい思いとか、実は何の役にも立っていない。
こっちが真相だ。
僕たちは、いつも人の目を見るけれど、実はあれは、目を見るために目を見ているのではなく、胴体の「気」をより感じるために、自然に目を見ている。
目に、きっと、胴体からの気が表れるんだろうな。
だから、本当に気持ちのいい人というのは、その目つきも違うし、眼差しも違うし、目の色も違うし、瞳の深さも違う。
少なくとも、そう感じられる。
もし、このことが正しかったら、……って、もうすでに、正しいと決まっているのだけれど。
人が、自分を成長させようとか、まともに生きようとかするとき、アプローチの方法は変わってくる。
何かを強く思うとか、「精神的に強くなる」とか、何かを精神的に決定するとか、そういうことは、実はほとんど意味がない。
アプローチの、正しい唯一の方法は、その胴体、胴体に流れる「気」の力を、高めることだ。
だって何しろ、人間はそれで生きているのだし、動いているのだし、目の色でさえ、それによって決まっているのだ。
声も動きも振る舞いも、発想も、あるいはジョークやユーモアでさえ、胴体からの「気」の力で決まっている。
もし、明日から、胴体に何十倍もの「気」が駆け巡って流れるようになったとして、それを不快とか不本意に思う人は、誰もいないだろう。
でも、もし明日から、頭に何十倍もの「思う」が駆け巡るようになったら、それを不快だ、しんどい、不本意だと思う人は、おそらく大半の人がそれだろう。
じゃあ、もうすでに明らかなことだ。
毎日、まともに生きていこうとすることは、胴体のほうを、鍛えて育てていくということだ。
胴体を鍛えるといって、筋肉をモリモリにしてもしょうがないけれど。
経絡を開拓して、そこに大量の気が、淀まずに流れるように育てること。
そうしてやがて、手を振るだけでかっこいい、目の色も違うし、存在感がすごく大きい、その人に掛かれば誰でも元気に、陽気になって勇気をもらって、何でも「その気」にさせられてしまうという、そういう人になれるのだから、それはきっと望ましいことだし、誰にとってもすばらしいことだ。
***
もし、機会があれば、いわゆる「生ドラム」というやつを、一度は叩かせてもらったらいい。
ドラマーが演奏する、ドラムはかっこいいものだけど、自分で叩くと、本当にかっこわるくて、びっくりさせられてしまうから。
スネア・ドラムを叩いたって、もう自分で笑うしかない、「ボスカ〜ン?」と、馬鹿みたいな音が鳴るだけなんだ。
これ、本当に、壊れてない? と疑いたくなるほどだ。
あるいは、一流のピアニストが、グランドピアノ弾けば、音はかっこいいけれど、自分でその鍵盤を押してみると、「ポーーーーン」と、やはりまるで馬鹿みたいな音が鳴ってしまう。
馬鹿みたいな音だし、その上、何か知らないが、「うるさい!」とまで感じられてしまう。
それはつまり、音に「気」が乗っかっていないから、何も伝わってこず、ただ音として「うるさい!」と感じられるわけだ。
胴体が開拓されて、流れる「気」そのものを打ち込める人は、本当にかっこいい音を出せるけれど、胴体が開拓されていない人が、ただ物理的な力だけを打ち込むと、本当にモーレツにかっこわるいものになる。
それはつまり、こういうことじゃないか。
胴体の開拓と「気」が使えないでは、もう何をしたってかっこわるくしかならないよ、ということだ。
恐ろしいことだなあ……
じゃあもちろん、ただちに、胴体の開拓をしなきゃ、それを急がなきゃ、ということになる。
自分一人でも、こっそり、そのことを始めるわ、みんなごめんね、ということになるじゃないか。
それは、当然の成り行きなのだけれど、胴体の開拓とか、経絡の開拓とか、「気」が膨大に流れるようにするとか、言うのは簡単なのだけれど、じゃあ具体的にどうすればいいのかというと、それはまったくわからない。
わかるのはせいぜい、筋トレをしたってしょうがないんだな、ということぐらいだ。筋トレはただの筋肉のパワーアップにしかならないから。
もちろん、有酸素運動とか、そういうこととも違う。
ヨガとかは本来、その、経絡の開拓とかをするためのものなのだろうけれど、それだって、きちんとした先生が、きちんとしたことを教えてくれるとは限らない。それに、習うにはお金だってかかるし、習えるだけの環境があるとも限らない。
それに、何より結局、そうしたことは、誰かに習って「他人任せ」とか、そんなことでは成り立たないものだ。
自分の胴体のことなのだから、どこかでやはり、自分のこととして取り掛かるしかない。
もちろん、頼りになる先生がいて、頼りになる方法を、じっくりやれるほうがベストなんだろうけれど、でもどう考えたって、週に二回のスクールなんかで、どうにかなるようなことじゃない。
行住坐臥というやつで、つまり寝ているときも座っているときも、家にいるときも出かけるときも、常にそのことに取り組んでいかないと、モノになんかできないのだろう。
こういうことに取り組むということは、つまり、ある種の「修行」をするということだから、「修行」ということになると、週に何時間だけ、というようなものであってはならない。
そんなことはまあ、日本人なら、「修行ってそういうものでしょ」と、どこかで漠然とわかっていることだ。
筋トレをしたって、スネア・ドラムを叩く音が、より大きく「ボスカ〜ン?」となるだけだし……
さてどうしよう。
これについて、実は僕自身、一つ思い当たることがある。
実は僕は、ささやかなことながら、人に「気」を向けるということが、割とできたりできなかったりする。
それは、あるとき、合唱団の指揮者をしていたりしたからだ。
目の前に五十人の人間がいて、棒一本だけを持たされて、知識も素養もない音楽を何時間もやらされていたら、さすがにちょっとしたことに気づき始めはする。
そのときの経験から言うと、第一には、「友達にやさしくしてもらわないこと」だ。
友達は、友達だから、ふつうあなたに、やさしくしようとしてくれるだろう。
その結果、「気」が向けられてもいないのに、また「気」が届いてもいないのに、あなたの意を汲み取って、あなたのすることにいちいち付き合ってくれるかもしれない。
それはきっと、人柄のやさしいことなのだろうけれど、この場合は、「修行」ということにおいては邪魔だ。
友達には、
・「ありがたいけど、でも、その空気を読むふうにして、わたしのことをフォローしないで」
と、改めてお願いしないといけない。
僕も昔、指揮者だったとき、そういうふうにお願いをした。もっと口汚くだけど、
「おれが振っていないのに勝手に歌うな」
と。
もし、ちゃんと胴体の経絡を開拓したい、全身の隅々にまで気が流れているようにしたい、と望むなら、第一には、そうして友人に、ちゃんと厳しく扱ってもらうことを、お願いするべきだ。
ちゃんと「気」が向けられ、ちゃんと「気」が届いたときにだけ、まともに反応してくれるということなら、それで初めて、あなたは自分の「気」がどう作用してるのかが、見ていてわかるようになる。
とはいえ、友達は友達だから、一つ一つ、時と場合によって、ということにはなるだろうけれどね。
しんどいだけの友達になってしまったら本末転倒だ。
第二には、どうしていけばいいだろうか。
第二には、きっと、当たり前のことだが、こういうふうにしていかないといけない。
・人に、「思い」を向けないこと
・人に、「胴体」を向けること。「気」を向けること
どうも、僕たちは油断すると、ある種の思い込みを持ってしまうようだ。
それは、自分の「思い」というものが、人に伝わる、という思い込みだ。
そんなものは、本当には伝わらないのに。
そのことを証明するのは簡単で、たとえば、僕があなたに、
「僕のことを好きになれ〜」
「エッチな気分になれ〜」
「うっかり足を開いてちょっぴり下着を見せてしまえ〜」
と、「思い」を強くしたって、そんなことは伝わってくれない。
僕があなたに、どれだけ念じたって、あなたは僕のことを好きになってはくれないし、ちょっぴりサービスをしてくれたりはしないだろう。
もちろん、してくれてもいい。
ただ、何にせよ、人間には、そんな「思い」を伝えるような、超能力なんてない。
僕があなたに向けて、「笑ってくれ!」という思いを強く持ったって、そんなことではあなたは笑ってくれない。
あなたはきっと、僕から「気の利いた」ジョークやウイットが出るまで、笑ってくれないだろう。
そういうものなのだから、人に「思い」を向けるのは、やり方として間違いだ。
思いを、自分なりに持っているというのは、ただそれだけで、よいのだろうけれど。
ただ、人に向けるのはあくまで、「胴体」であって、「気」でないといけない。
「気」は、胴体だ。
「気」は、顔面ではないし、目力でもない。
「思い」は、顔面と目力を誇張させ、かつ、何の役にも立たない。
僕があなたと話すとき、僕があなたに胴体を向けないで、「気」を向けなかったとしたら、そのことはきっとあなたにとって、ただの失礼な人というふうに映るだろう。
「思い」から、顔面と目力を誇張したって、僕はあなたにとって、「わざとらしくて、うっとうしい人」としか映らないだろう。
だから、当たり前に見えても、実は思い込みに支配されやすいことなので、気をつける。
人に「思い」を向けないこと。
人に「思い」を向けて、何かが通じると思い込んでいたら、それはサイアクのわがままだ。
そして、本当に出来る出来ないはともかく、出来ないにしてもせめて心構えだけでも、必ず自分は、人に胴体を向けること、そして思いではなく、「気」そのものを向けるようにすること。
それは初め、ただの心構えにしかならないけれど、まずはその心構えから、手探りでやっていくしかない。
ちなみに僕は、指揮者のときの経験から、人に「気」を向けるというときに、面白いことに気づいている。
人に「気」を向けるときには、自然に胴体を向けるしかないし、自然に胴体が向くのだけれど、この胴体の向け方は感覚的に厳密なもので、気を向けているところから、わずか数ミリでも腰の角度をずらしたりすると、もうそれだけでダメになる。
「気が逸れる」ということが起こってしまう。
なぜなのかはわからないが、とにかく感覚の上で、それは「あっ」と、すぐにわかる。すぐにわかるし、わざとそうしないかぎりは、そんな気の逸らし方は起こらない。
ただ、それぐらい、「気」を向けるということは、胴体を向けるということと、密接につながっている。
このことは、もし実演できる人がそばにいたら、ぜひやってみせてもらったらいい。
「気」が向けられるということ、および、「気」が逸らされるということが、こんなに精密にあるのかということが、感覚ではっきりわかる。なぜ、そんな感覚が具わっているのかは、誰にもわからないことだけれど。
もちろん、胴体の経絡が開拓され、気が隅々に流れるようになり、人に「気」を向けられるようになったら、あなた自身もその実演が、カンタンにできるようになるわけだ。
そういうものは、見せびらかすものではないけれど、それを持っているということは、その先を生きるのにずっと楽しみになるし、自信になる。
人には胴体を向けること。
胴体で向き合うこと。
初めは心構えにしかならなくても、これは鉄則だ。
何かを「思う」なんて、ひどい独りよがりの、ズルでしかない。
胴体の開拓、経絡の開拓、「気」の流れる力の獲得に、どうしていけばいいか。
第三には、
・胴体に、させること
(腕に、させないこと)
(脚に、させないこと)
という感じになるだろうか。
まあ、強いていえば。
どういうことかというと、これは真面目に話すと難しい。
でもきっと、本当に必要になることだ。
胴体、胴体と、ずっと胴体の話をしているが、じゃあたとえば「肩」は、胴体の内に含まれるだろうか。
「首」はどうだろうか。
あるいは「鎖骨」は。
「お尻」はどうだろう。
「仙骨」はどうだろうか。
あるいは「心臓」も胴体に入るのだろうか?
そんなふうにして考えていくと、実は胴体といっても、どこまで胴体で、どこからが胴体でないのかは、よくわからない。
そして、胴体を胴体と呼び、手足を手足と呼んでいるのは、概念上に分けられているだけで、本当には、どこかで切れ目があるわけじゃない。
当たり前だ、切れ目があったら、そこから切れてズドンと地面に落ちてしまう。
で、これ、「そんなことは当たり前でしょ」と、あなたも思ってくれると思うが、実はこれが、気の流れについて、重大な阻害をもたらしてしまうのだった……
概念上で、分離されていると、実は気の流れも、そこで断絶されてしまう。
腕と胴体、と言われると、人は、腕を腕だけで使い、胴体を胴体だけで使おうとしてしまう。
人間の身体は、経絡に流れる気で動いているのだから、腕を腕だけで使おうとすると、当然胴体の気からは切り離されてしまうのだった。
こんなこと、何を言っているのか、意味不明だと思う。
が、これは本当にまずいことなのだ。
もし、この概念上で分離してしまう悪いクセがなければ、実は雑巾がけをするのだって、経絡の開拓に役立たせることができるのだった。
でもふつう、頑張って雑巾がけをすると、腕だけでそれをしてしまう。
歩くときに、足だけで歩いてしまい、足を傷めてしまうように。
一番わかりやすいのは、人と握手をするときだ。
どうしても、ふつうは、握手は手でするものでしょ、と思いこまれてしまう。
握手をするのは、手か、そうでなくても、せいぜい腕、としか捉えてもらえない。
そこでだ。
ヘンなことを言うようだが、手足などというものは、胴体から生えているヒゲみたいなものだと思ってくれ。
ヒゲにしては太すぎるかもしれないが、それにしてもヒゲなのだ。
胴体から独立して「腕」とか「脚」とかいうものは本当は無いのだ。
このことは、いくら説明したって、あなたを疲れさせるだけなので、これ以上説明なんかしない。
ただ、手足、腕と脚は、胴体から生えているヒゲみたいなもので、そのことまで含めて胴体だと思っていい。
モヤシにだってヒゲは生えているが、ヒゲも含めてモヤシじゃないか。いちいち分離しない。
だから、腕と脚というヒゲまで含めて、それが人間の胴体なんだ。
とにかく、ここは、そう思って捉えてもらうしかない。
握手をするとき、ヒゲが接触するのであり、何が握手するかというと、胴体なんだ。
そう、信じろ。
芸の無い教え方でいやだが、たぶんこれしか、最短距離で教える方法はない。
とにかく、主役はずーっと、コンマ一秒も途切れず胴体だ。
あなたにとって、あなたの主役は、ずーっとあなたの胴体なんだ。
あなたの胴体の気を、誰かの胴体に、よりよく感じさせ、伝えるために、握手をするだけだ。
胴体の気が交わされないのなら、握手して手のひらをビッタリネッチョリくっつけることになんて、何の意味もない。
肩からズドンと切り落とした腕と握手したとして、それを「握手」だと感じるものだろうか?
握手は胴体でする。実はキスも胴体でする。声を出すのも胴体でするし、会話をするのも胴体でする。
そして実は、言葉を出すのだって、まさかのまさかで、頭ではなくて胴体からだ。言葉を出すことは胴体がする。
本当だ。
あなたの胴体に、それをする能力がある、という話をしている。
それを否定したって、あなたの胴体に対する否定にしかならない。
挨拶も胴体でするし、お礼を言うのも胴体でする。
笑うのも胴体でする。
笑顔がついてくるのは、ただのオマケだ。放っておけばいい。
胴体で笑い合うものだ。
腕に握手をさせてはならないし、脚に歩かせてはならない。手に雑巾がけをさせてはならないし、足にスキップをさせてはならない。
目にモノを見させてはならないし、口にモノをしゃべらせてはならない。
頭に相槌を打たせてはならないし、性器にセックスをさせてはならない。
顔面に笑顔をさせてはならない。
そんなところか。
たぶん、胴体を開拓する方法なんて、この第一〜第三ぐらいのことで、あとは誰だって自分でなんとかするしかない。
あなたは、そんな馬鹿チンではないと思うけれど、油断すると誰でもやってしまうことがある。
それは、「なるほど〜」といって、胴体と「気」のことを、頭で思ってしまうことだ。
胴体と「気」のことを、頭でありがたく「思う」なんて、何の意味もないことだ。
頭で思ってしまうと、その間は、胴体に何もさせていないことになってしまう。
そのときは、そのときでかまわないけれど、いやかまわなくないか、とにかくだ。
胴体のことだって、胴体そのもので捉えたらいい。
せっかく胴体の実物があるのだから。
胴体を胴体で捉えて、胴体にずっと、何かをさせ続ければいい。
そうしたら、たぶん、経絡も開拓されて、全身にくまなく、気が流れるようになっていく。
本当は、言い出したらキリがない、ずっと奥行きのあることだけれど……
でもたぶん、一回で話し切れる量の限界、および聞き取ってもらえる量の限界が、これぐらいだ。
ゆめゆめ、胴体と「気」のことを、頭で思ったりしないように。
いろいろ、わかりづらかったらごめんね。
じゃあ、またね。
[あなたをうつくしくする「気」の話/了]