No.352 失敗した奴は指差して笑おう
必要なことは正しいか誤っているかではない。
成功するか失敗するかだ。
失敗する人は世の中にたくさんいて、失敗した人を見るのは心苦しい。
二年前にあんなに輝いていた人が、今は……というのを見るのは心苦しい。
だからこそ、指差してそれを笑おう。
失敗した奴にかける慈悲など無い。
失敗した奴の使い方は、もうそれを指差して笑うぐらいしかないのだ。
それは嫌味において笑おうということではない。
ただ純粋な滑稽さにおいて笑おうというだけだ。
スカッとしたいのだ。
スカッとすることぐらいしか、人間の運気を上昇させるものはないものだから。
失敗した奴と縁を保っていたってしょうがない。
自分と失敗とを縁結びするような要素は一ナノグラムだって要らない。
失敗した奴は友人であったとしても全力で馬鹿にして指差して笑おう。
それは友情を軽視してのことではない。
もともと友人とはそういう約束で結ばれる間柄であるべきだ。
「おれが失敗に行き着いたときは、指差して笑ってくれ」という固い約束があるべきなのだ。
その約束を違えばそれはもう友人ではなくなってしまう。
言わずもがな、成功する人というのはごく一部だ。
大半の人の生は、特に後半、ただ苦しむのみと言っても過言ではない。
そんなことの認識にいちいち怯えていたらまともに生きていけない。
誰だって成功して生きたいのだが、何をどうしたら成功になるものか、それは浅はかに考えると毎月だって変わってしまうものだ。
たとえば二年前とは今はもう何もかもが違う。
二年前に輝いていた人が、今はすっかりくぐもって苦しいだけの中年になってしまったということはよくある。
そしてそのことはこれからの二年後にもまた起こるのだ。
これは僕が容赦ないのではなくて事実のほうが容赦ないのだ。
人間はごくつまらないことでも成功の道筋からただちに失敗の確定へ転がり落ちてしまう。
たとえば多方面に事業を拡大しているワンマン・プレイヤーでも、足を滑らせて骨折して三か月入院しただけですべてを失ってしまうことがある。
運送業とか、そば屋とか、あるいは個人でしているアパレルなんかでも、大将が足を滑らせただけで廃業になることは簡単に起こる。
あるいは交通事故なんて年に何万件も起こっているのだ。
そうしたら家財も何もかも失って一家離散になったりするが、そうしたときに我々は彼に対してどうしたらいいだろう?
やはり指を差して笑ってやることだ。
その上で、友人というのはやはりとても大切なものだと実感する。
たとえば体力的に限界だと感じられたとき、たとえ真夜中であっても電話をして、
「すまないが、今夜のうちに、あるトラックと貨物を群馬県まで運ばないといけない。代わりに運んでもらえないだろうか」
と折り入って頼む。
その相手が友人なら、
(ああ、こいつがこうまで言うなら、相当の理由があるのだろう)
「わかった」
「すまん、恩に着る」
というやりとりになりうる。
そうしたら交通事故は回避されたかもしれない。
友人がしてやれるのはそこまでのことで、逆に言えばそこ限りしかない。
全てが済んでしまって、失敗が確定してからは、もう友人はどうしてやることもできない。
同情してカンパを集めるぐらいはしてやるべきだが、その救済は解決策にはならないだろう。
だから同じカンパを集めるのでも、失敗者を指差して笑いながらそれをしてやるべきだ。
指差して笑ってやるべきなのだ。なぜなら失敗者というのは多くの場合、すでに人に感謝するというようなことをすでに心から見失っている。
友情が大切で、カンパを集めてくれたなら、感謝すべきでしょうというのは、まだ失敗が確定していない呑気な人間ゆえの発想だからであって、実際に確定した失敗の実感がある人間は、とうにそんなことは忘れてしまっている。
そんなところに心境的に付き合っていても、誰に何の利益もないのだ。失敗者は心の底まで失調してもう二度と帰ってこないのが普通だ。
だから、指を差して笑ってやるのがいい。
それでバランスが正しく取れる。
失敗した奴にかける慈悲はないどころか、失敗した奴の失敗ぶりを、手を叩いてよろこぶぐらいのほうが本当はいい。
そこに嫌味がなければそれでいいのだ。
嫌味があるようでは、それはなんだかんだ、自身も失敗に縁が深いということになるだろうから。
これはすれっからしの話をしているのではなく、鬼の力について話している。
成功する人間はごく一部なのだ。そして、何をもって成功とは決めつけられないけれども、普遍的に言いうることは、成功者はどこかで鬼の力を使っているということだ。
鬼のよいところ、および鬼の力の優れているところは、ひとつひとつのことへ裁判を一つもせず、ただ意志と力において物事を執行するところにある。
まさに鬼だ。
鬼というと、「桃太郎」の話があって、桃太郎が鬼退治にゆくが、あれは本当は桃太郎が「鬼」だったということだ。討伐の鬼。
何の裁判もなしにただ力をもって鬼を駆逐するだけの話で、あまつさえ金銀財宝を我がものに確保してしまうというのだ。
桃太郎に鬼以上の鬼の力があったから鬼退治が為し得たと言える。
人間が数少ない成功へたどり着けるかどうかは、結局この鬼の力を行使できるかどうかに掛かっている。鬼の力があれば成功するとは断言できないが、鬼の力がなければ失敗するということは確定として断言できる。
だから失敗した奴には指を差して笑ってやればいい。
鬼の力は、失敗にまつわる諸事情や心境などを一切斟酌しないだろう。
鬼は他人の地獄行きを臭い息で見守るために存在している。
それが鬼の心であり、同時に、強く生きようとする人間の心だ。
鬼に心がないわけではない。
同様に人間も、心が弱いほうへ揺らぐのを、心の動きと勘違いしているのは、正しい心の認知ではない。
心が揺らぐだけの奴はいつだってどこにだっているものだ。
それはただ指を差して笑ってやればいい。
鬼の力は邪ではないのだ。
鬼の力はただ鬼の力でしかない。
そして人を成功の道筋から引き下ろすのは、きれいな顔のふりをした邪のはたらきかけによるものだ。
鬼は議論なんかしないだろう。
鬼はただ自分の金棒を入念に磨くのみだ。
鬼は決して、他人を否定しているわけではない。他人を否定はしていないし、同時に他人を肯定もしていないだろう。
自分にせよ他人にせよ、否定したり肯定したりするには、内心での裁判が必要なはずだ。
鬼はそういうことをしない。
鬼はそもそも、耳が聞こえているのかどうかさえ定かではない。
花札でも「鬼ごっこ」でもそうだが、鬼というのは化け物というより「特別な力を付与されたもの」という捉え方をされている。
花札の場合、普通の札は合札しか獲得できないが、鬼札は雨札以外の全ての札を叩けるのだ。
「特別な力を付与されたもの」が鬼だ。
そして数少ない成功を獲得するためには、当然、特別な力が付与されていなくてはならない。
たとえそれがどれだけ小規模な成功であったとしてもだ。
心を鬼にして、という言い方もあるが、この言い方はずいぶん生ぬるいように思える。
鬼のする発想ではない。
それよりは、失敗した奴を心から指差して笑うほうがよい。
必要なのは嫌味ではなく、また陰惨な猟奇の心でもない。
鬼気迫るという言い方がある。
必要なのはその鬼気だ。
他人を地獄へ送るために存在する者が鬼で、その鬼が身に纏うのが鬼気だ。
他人の地獄行きをよろこぼう。
他人を地獄に突き落とす、のではない。
鬼はそんな努力家ではない。
誰も、鬼の話す声は想像がつかないが、鬼の笑う声は、誰でも想像することができる。
鬼は笑うことができるのだ。
成功することにこだわらなければ、鬼の力は持たなくてよい、というふうに言いうるかもしれない。
でもそれはきっと真実ではなく、成功と失敗に関わりなく、人はただ鬼の力を持つべきだ。
[失敗した奴は指差して笑おう/了]