No.355 人間の中枢はミッキーマウス
常識的に生きるのは簡単だ。
でも常識的に死ぬだけだからね。
僕が僕を誰かに伝えるということはできない。
僕が僕でなくなったときだけ僕は誰かと交流できる。
そりゃそうで、僕は僕という思い込みを持っているだけで、思い込みがなくても僕は僕だ。
僕の思い込みは僕だけの思い込みで、そんなものが誰かに伝わるわけがない。
僕が僕だと思っている僕への思い込みは僕そのものから最も遠いものだ。
何度でもいう、僕が僕を思わなくても僕は存在する。
その存在は伝わるというほど大げさなことでなくても何かを捻じ曲げる力を持っている。
それは単に生きものだからだ。
生きものであり、オスだからだ。
僕が好かれようとか嫌われようとかいうのは、全て僕が僕自身に向ける思い込みでしかない。
何度でも言う、僕が僕を思わなくても僕は動くし僕は生きものであってオスなのだ。
だから僕がどういうふうに動くかは僕が決めるところにない。
捻じ曲げる力は単に生きものの力だ。
僕が思い込みの力を発揮すれば、向こうは思い込みの力で反発するだろう。
一個の生きものとしての僕の力はささいなものだが、思い込みの力でなければ反発されない。
反発するポイントなんてないからだ。
僕だって人に愛されることがある。
だが必ず、僕が愛されるとき、僕は僕によって動かなかったことによって愛されている。
生きものとしての僕が愛されるのであって、それによって僕は「こういう奴」だと知られるようだ。
それが強いて言えば「伝わる」ということなのだろう。
僕の思い込みが伝わるのではないし、伝わるというのも大げさだし、何をもって「伝える」というのでもない。
ただそのまんまだ。
僕が生きもののまま動けばそれがそのまま「こういう奴」だと受け取られるというだけだ。
箸先で餅を伸ばしたときに「こういう食べ物」というのが当たり前に伝わるようにだ。
僕は生きものとして実在しているが、それは伸び縮みする餅よりわずかも偉いものじゃない。
餅でもそうだし鉄でもそうだが、物事を捻じ曲げる力は力より以前に熱だ。
熱、それは生きものなのだから熱があるに決まっている。
熱が生産されて温度が上昇すれば餅でも鉄でも勝手に捻じ曲がるものだ。
僕は僕自身のことなどぼやっと見物していればいい。
僕が僕自身に向けている思い込みは僕の本質から最も遠いものだ。
まるで、写真に撮ったノートには何も書きこめず、ノートの本質から最も遠いということのように。
僕の本質の能力、本質の意志、本質の感受性というのも、全て僕の思い込みの知らぬ存ぜぬところで起こっている。
僕は僕自身のことを本質的に「知らん」のだ。
僕自身も僕のことを「こういう奴」と受け取るだけしかできない。
僕が僕自身を知っているわけではなく、僕だって僕自身のことを伝わってくるまま知るだけしかできないのだ。
こいつが何をしようとしているか。
何の能力を持っているのか。
人間の生きものでありオスだ。
この生きものが優秀になることは、結構なことだろうが、同時にどうでもいいことであり、本質的に「勝手にどうぞ」ということでしかない。
あかんね、こいつは。
僕が何かを「思う」ということと、僕自身がどう動くかは、本質的に関係が無い。
思う機能と動く機能は別なのだ。
僕はまるで夜空に花火を見上げているようなもので、あれこれ思うことは思うが、それによって花火の挙動を制御することはできない。
花火は勝手に打ちあがり、勝手に爆発して散り、光る。
極端な話、人間の中枢は人格にない。
人格という現象は、無力なまま、人間の中枢が爆発して散り光るのを見物しているだけだ。
人間の中枢は勝手に動いている。
僕の場合、人間という生きもののオスとして。
僕などはいっそ、人格の目を閉じてしまったほうがいい。
この中枢が勝手に動くままにしたほうがいい。
人格は、人間の中枢に対して、せいぜい水をさすぐらいしかできない。
人格は、人間の本質を冷やかすぐらいしかできないのだ。
それならもう、人格の目など閉じてしまったほうがいい。
客席から水をさすぐらいなら、もうスタジアムから出て帰ってしまったほうがいい。
客席がなくても、選手たちは戦うし、むしろしばしば、客席がないほうが選手らはのびのびあれる。
そのほうが崇高だ。
人格は、せめて人間の中枢に対して、すべてを見届けるだけ、というマナーと態度を遵守するべきだ。
僕の中枢は、何もかもをやりたがっている。
生きものなのだから当たり前だ。
僕の中枢は、そもそも頑張るとかギブアップするとか、上手くするとかヘタにするとか、批評の能力もなければ向上の意志も持っていない。よろこびは覚えるが、そもそも嘆くという機能さえ持っていない。
そりゃそうで、あれやこれやを思っているのは僕の人格の側であって、中枢の側ではないのだから。
幸いなことに、僕の中枢は現在健全で、まだまだバテるとか疲れるとかいうことには無縁な様子だ。
中枢の性能は以前より格段に向上している。
問題があるとすれば、中枢の活動が以前より制限されているというところだ。
それは僕の人格の側がいろいろ水をさしたからだ。
さまざまな、やむにやまれぬ状況もあったとはいえ、やはり根本的なところ、人間の人格が賢いということには何の意味もない。
いくら人格が賢くても、人間が動く機能は中枢にあって、その中枢が賢くなければどうせ賢くは動けないからだ。
僕は人格の側で怯えているのかもしれない。
以前より中枢の性能は格段に上がった。やれることがはるかに増え、威力も段違いに増大してしまった。
大人になると殴り合いの喧嘩がしにくくなるのと同じだ。
子供のうちは、相手を死なせたりすることはないだろうが、中枢の出力が大人になってしまうとそうもいかなくなる。
向上した人間の中枢において、これから起こることを引き受けて生きていくということに、僕の人格が怯んでいるのかもしれない。
けっこう、なんでもかんでもやれるようになってしまった。
この中枢を、手放しに解放して進めば、これから事件無しに過ごせる時間はほとんどなくなってしまうだろう。
それで怯んでいる。
そうか、たぶん人格の側の覚悟が足りないのだ。
中枢が起こす事件、中枢から得る体験が、これから膨大になりますというとき、中枢の側はそれをこなせても、人格の側にストレスがゼロではない。
しまったな、人格の側の鍛え方が足りないのか。
これはこの先しばらくのテーマになるのかもしれない。
いや、でも、人格の側を鍛えるにしても、それは結局この中枢を手放しで解放することから始めるしかないじゃないか。
そしたらどうなる? それはおそろしいなあ……
正直なところ、どこかのタイミングでもう、中枢のリミッターは外れてしまった。
そのことを、僕の近くにいる友人らはすでによく知ってくれている。
だからさんざん気遣われているし、思えば僕の人格も僕自身を気遣っているのか。
これはいけない。これはちょっと、由々しい問題かもしれない。
これまで、エネルギーを信奉するやり方でやってきた。そのことは報われて、僕自身の中枢はエネルギーの原理を獲得したのだが、そのことが人格に及ぼす負担や生活に及ぼす事件程度のことを考慮に入れてこなかった。
このままではいけない。
このままでは、離陸可能な航空機で山手通りを走るというようなもので、そんなものただちに無数の事件を引き起こすに決まっている。
それでも離陸はできるだろうけれど、人格の側にストレスがひどいだろう。
思えば、こうなるに至った本当の理由に心当たりがないではない。
はっきりとこうなるだけの明確な道筋があった。
いつかのタイミングで、また繰り返しやってくるタイミングで、時代の変化を感じていて、そのたびにどうした?
時代の運びがどうあれ、自分は自分に必要なものを積み重ねる、と誓ってやってきたじゃないか。
そのせいで、そのときからのツケが溜まっていると言える。
時代の変化を無視して、ほとんど実験的に中枢のエネルギーを高めることばかりを積み重ねてきた。
思えばその中で、かなりめちゃくちゃをしてきたのでもあった。
おかげでこうなったとも言えるが、その間、立場を築くことや、時代と適合するバランスのことなどを完全に後回しにしてきた。
それはきっと正しかったろうが、おかげでこのありさまだ。
やっぱり後回しにしたものはずっとそのまま残っているのだ。
どうする? といって、どうにかするしかない。
これ以上エンジンの開発に逃避することはできないだろう。
もうエンジンは十分じゃないか。これ以上エネルギーを高くしてどうする。
車はエンジンだけで走っているのではないのに。
全力で生きねば気持ちよくない。それはそのとおりで、中枢のエネルギーを全力で開放して今までやってきた。
その中でずいぶん、快い事件や体験も得られてきた。
しかしそんなことばかりしていたので、中枢のエネルギーだけが肥大してしまった。
今になって、気持ちよく生きようとするともう、この中枢のエネルギーで「全力」というと、人格の側がストレスに耐えられなくなってきた。
事件をいくらでも起こせるというのは、いまどき珍しい方向へバランスが破綻しているタイプだろう。
どうする、といって、正道としてはもちろん、そういった実験的なエンジンはサーキットで走らせてもらうものだ。
ここにきて、そういったルールに縛られて生きるのがキライだという、どうでもいいような性格が幅を利かせてくるな。
ところで、ここでこうやって書き話している文章も、内容がヘンだということは重々わかっている。
その点は、僕は期待を裏切って申し訳ないほど冷静だ。そちらから見て異様に見えても、僕本人の側は慣れっこだから。
通常、一般にあるような書き話し方にしろと言われたら、そんなことはすぐにできる。
そんなことは簡単なのだが、そんなことをしても僕自身は何も気持ちよくないのだ。
それは、最も不適切に言い換えてみれば、今さら女性にバイブレーターをあてがって興奮できるかというと、できるわけないだろ、というようなことだ。
そんなことをいちいち「事件」に捉えられるほど、僕はつまらない生き方はしてきていない。
女性がオーガズムに覚える「事件」にはもっと高度なものがある。
振動機具を当てればオーガズムへ達するのは当たり前で、そんなものは医療行為の範囲だ。
それよりも、驚くべき高まりと驚くべき静けさが同時に訪れたほうがまだ事件になる。
でもそれだって、考えてみれば申し訳ないところがあるわけだ。
男性との性交で、バイブレーターを押し当てられてみたい、ということに熱い「事件」の劣情を覚える女性だって少なくないはずなのだ。
そういったことは、人それぞれ段階を踏んでゆくものなので、誰も馬鹿にするべきことではない。
誰だって全力で生きたいのだ。
全力でないと何も気持ちよくないから。
年の功で申し上げておくと、その「気持ちよく生きたい」というようなことが昂じると、やがて「人間の中枢は人格にない」というような、ひどく通りの悪い知見へ到達してしまうということだ。
ふつう、そこまでして、気持ちよく生きたいと思うかね?
気持ちよく生きたいという慾望、「事件」への希求が、やはり際限のないものなのか。
際限がないなら、やるしかないというか、やらせるしかない。
この、人格と実は分離してある、僕自身の本質、人間の中枢のやろうとするままにだ。
あとはどれだけ僕の人格の側がストレスに耐えきれるかだな。
考えると俯きたくなるところもある。
僕でさえ、人格の側で耐えきれないものを、他の誰かが受け止めて耐えてくれるわけがないじゃないか。
とほほ……
それによって、僕は繰り返しのように、愛されて、すぐ直後に逃げられる、ということを体験する。
それはわかるし、考えてみれば当然だ。
愛は、生きもの同士、特にオスとメスの間で起こるものだ。
そしてそれはむろん人間の中枢で起こることだ。
中枢で起こることなので、それはしばしば、人格側の事情と背反する。
中枢で起こったことをそのまま受け取っていると、人格側が耐えられないし、人格側の事情が破綻する。
それでどうする。逃げるしかない。
なかったことにするしかない。
それは一般的に言われる「逃げ」とは違って、ただ原理的にどうしようもないことなのだ。
中枢がこんにちはしたら、ただちにさようならしないといけない。
だから愛は一瞬だ。
たとえ一瞬でも、ずっと残っているけれどね。
中枢か……
その愛の時間は、一瞬とはいえ、もちろん数秒程度は持続する。
この数秒というのを、できるだけ引き延ばせればいい。
これを永遠に引き延ばして、通常人格の時間を消し飛ばしてしまえというのは、極限だが、現実的ではない。
たとえ僕はそれでよくても、他の誰かはそうはいかないだろう。
愛し合うことと、同時に逃げ合うことも、正当に認めていこう。
そうしたら、またいつか会って、また愛し合うこともできる。
そのときは数秒が数十秒になっているかもしれないし。
それはまるで夢の国だが、夢の国にどれだけ滞在できるかだ。
人格が事件のストレスに耐えられれば耐えられるほど、夢の国の滞在時間は伸びるだろう。
自分の中枢が夢の国に至るなんて「事件」以外の何物でもないのだから。
思えばミッキーマウスは偉いな、ずっと夢の国にいて迷いがない。
僕もミッキーマウスになりたい。
まだディズニーランドに行ったことはないのだけどね……
[人間の中枢はミッキーマウス/了]