No.359 (一日目) 怒りの日、こころがわかる人間として
僕は一生この先、一度も笑うことがなくてもいいと思っている。
笑うことはもうイヤというほど簡単だからだ。
女が傷つけられ、破壊され、損傷させられる状況に怒りを覚えている。
怒りと悲しみが優先であって、僕はまだ笑って癒されねばやっていけないというほど弱り切ってはいない。
若い女が、平然と、食事が摂れないとか、お酒が飲めないとか、ちゃんと眠れないとかいう。
触れてみると、女の身体の感覚が、本当に死体みたいになっている。
傷ついてボロボロだからなのだが、本人はそうと気づいていない。
本人は健気なので、何によって傷つけられているのかわかっていない。
ただ、僕の前に来てしばらくすると、食事が身体に摂りこまれていくのがわかるようになり、お酒が流れ込んでいくのがわかるようになり、身体があたたまるということがわかるようになる。
人によっては、びっくりするぐらい食べるようになる。
それでも、少しでも僕が気を逸らすと、たちまち消化不良が起こって吐きそうになっている。
身体がボロボロなのだ。
不健康とか病気とかいうことではなく、身体が「生きる」ということを見失っている。
だから正確に言えば傷ついてボロボロなのは「こころ」だ。
こころが傷ついた状態のまま、人間はまともに食事はできないし、まともにお酒は飲めない。眠ってもまともに安らぎは得られないし、ましてセックスなんてまともにできるわけがない。
「こころ」という現象は人間にはっきりとある。
そうでなければ、僕のような醜男が目の前にいるだけで、その人間の身体に何かが起こったりはしない。
若い女性の、本来の食事量、本来の飲酒量、本来の睡眠の安らかさは、もともと驚くべき豊かさのものだ。
そして若い女性の、身体の性的な感受性、これこそ驚くべき深さの、官能を持つものだ。
ちゃんと「こころ」が触れ合った状態で、女の身体に触れてやると、女の身体は蒸気機関のように熱くなる。
女は、自分が女であって、男に触れられるということがどういうよろこびなのか、はっきりわかるようになる。
それは性器を摩擦して得られるオーガズムとはまったく違う原理のものだ。
オーガズムなんて、こころがきちんとつながっていれば、肩口でも脇腹でも太ももでも、肌を強めに触れてやればそれだけで得られる。何なら、こころに「声」が触れるだけでオーガズムに至ることはいくらでもある。
性とか、女の身体とかいうものは、本来そういうものであって、その中でたまたま性器が鋭敏で感受性が高いというだけだ。
性器においては、それこそ電動器具でも、周期的な刺激を送りこめば、オーガズムが得られるだろう。
が、そのオーガズムは、本質的には「痛い」ということでしかない。
本当に、痛いだけだ。
痛いだけなのだが、性と性器のメカニズムによって、興奮とアドレナリンの発生が起こり、痛みが痛みとして感じられないだけだ。
痛みがマヒしているだけなので、身体のほうは、ちゃんとそれを「痛かった」と覚えている。
だからそういうセックスが続くと、次第にセックスの導入にアルコールが必要になってくる。アルコールも分類上は麻酔の一種だ。これも痛みを包み隠してくれる。
が、それでもやはり、身体は本質的にそれを「痛い」と知っているので、そのことが続くうち、身体はどんどんセックスという行為を嫌いになっていく。
嫌いなものを、それでも強いられると、次第にセックスは嫌悪を通り越して恐怖になっていく。
そして恐怖の中でさらにセックスを強いられると、これはもう完全に、こころが傷つくのだ。
こころを傷つけられた本人は、何によって傷ついているのか、もうわけがわかっていない。
場合によっては、大切にしようとしている彼氏と、大切にされているふうのセックスを繰り返して、こころが傷ついていくというようなことがあるから、そのとき彼女にはもう自分の身に何が起こっているのかわからないのだ。
恐怖によって傷ついたこころは、身体の感受性のレベルを下げ、こころに何かを感じ取るということを遮断し始める。
すると、こころにつながっている身体の肌は、触れただけでボロボロの、死体の皮膚のように感じられる。
こころにつながっていない、遮断されている、ということが、指先で触れただけでわかるものだ。
わかるものだ、とは言うものの、今のところ正直に言えば、これは僕以外の誰がこの感覚能力を持っているのか今はもうわからない。ほとんど僕だけではないのかと、今のところ言わざるを得ない状況がある。少なくとも女性の側はそう言う。
僕が女性の肌に触れて、
「これは届いている」
「これは届いていないね」
と分類すると、そのことに鋭敏な女性は、
「なんでわかるの!?」
と驚いた。僕が彼女の性感を完全に把握しているからだ。
僕は、もしそれがわからないのなら、女性の身体に触れようと思わない。
それがわからないなら、何のために触れるのかまったく意味不明に思えるからだ。
こころがちゃんとつながった状態で、女性の身体に触れると、女性のこころは安心しているから、触れられていることを落ち着いてこころの奥に受け止めていくことができる。すると当然、性的な反応が起こる。
このときの性的な反応は、大きく豊かなものだが、落ち着いたものだ。
落ち着いたまま、肩口を指先で揺らしてやると、
「このまま、いこうと思えばいけるの、わかるでしょ」
「うん……」
と、女性の側も、そのことを感じ取る。肩口の揺動だけで、続けていればオーガズムに至ってしまう。
オーガズムとはそういうものだし、女の身体とか、性とかいうのはそういうものだ。
特別な技巧があるのではなく、正しく取り扱えば自然にそういうものだ。
そんなことは、国道沿いのコーヒーショップの店内でさえ起こる。
さすがに、コーヒーショップの店内で、思いっきりいってしまうことは控えられるけれども。
でもそうしていちゃついているぶんには、衆目を集めはしないし、衆目に対して目障りに映ることもない。
直感的にわかるからだ。こころがつながってそうして触れ合っているものは、不自然ではないので、人の目に違和感を及ぼさない。
むしろ、そうしてこころがつながりあっている誰かが視界にあることは、空間の全体を豊かで穏やかなものにする。周辺の人間は無関係ではない。無関係ではないので、周辺の人間も遠巻きにこころを豊かにさせられるものだ。実際、体温も呼吸も熱く穏やかなほうへ変調する。
そうして、ちゃんとこころがつながった状態で、僕が女性の身体に触れると、もうほとんどの人が涙を流す。はっきりと泣く。
当人はなぜ泣いているのかよくわかっていない。これはどちらかというと、あるていど年齢のいっている女性のほうが泣く。
なぜ泣いているかというと、身体の知っているレベルで、「触れられているけれど、痛くない」「傷つかない」ということがわかるからだ。身体がそれに気づいて泣いている。身体はそれに気づいているのだが、本人の意識はそれに追いついていない。
だから当人は、なぜ自分が泣いているのか、わからないで、でもわからないまま、泣いていたいから、泣き続ける。泣く声は上がらない。ただただ、目から涙が流れ出ていく。
本当にそういうものなのだ。僕は腹が立っている。腹が立っているので、こうして包み隠さず、何の工夫もなく話している。ほとんど暴露話のようなものだ。
無数の女の子が、もう傷ついてボロボロなのだ。触れられて、痛くないというだけで、もう涙が出て止まらないぐらいに。
どの女の子も、よりによって僕のような醜男に触れられて、涙なんか流したいわけじゃない。でもどうしても、彼女のたどり着いたところ、僕しかいなかったのだろう。僕としては腹を立てて当然だ。
僕のいない外側の世界は、今どうなっているのか?
たぶん、何もかもめちゃくちゃなのだろう。
何もかもめちゃくちゃな世界で、身体をボロボロにされて、僕のところに来て、何に泣いているのかわからない泣き方をしている。
女性にとって、身体に触れられてうれしくないとか、嫌悪が起こるとか、まして恐怖が起こるとかいうのは、ものすごい絶望なのだ。この世に生きていること自体を放棄したくなるぐらい。
身体に触れられるたびに痛みが起こる。嫌悪が起こる。恐怖が起こる。こころがダメージを負う。そんなことなら、もうこの世にわたしのこの身体があってほしくないと思えてくる。それは当然だ。それぐらい、今女の子は心身をボロボロにされている。
まして、直接触れられる場合だけではない。声を掛けられること、視線を向けられること、そのいちいちにすべて、痛み、嫌悪、恐怖が起こるのだ。そんな世界に絶望しないわけがない。毎日、ただ暮らそうとしても、ボロボロになるに決まっている。しかもその中で、労役せねばならなかったり、親に対して娘として振る舞わねばならなかったり、夫に対して妻として振る舞わねばならなかったりするのだ。四面楚歌で、もうどちらを向いても自分を傷つけるものしか存在しない。本人はもう、自分が傷ついていることさえ知覚できなくなっている。それで無自覚なまま、食事が衰え、飲酒が不能になり、睡眠が痙攣的になり、セックスに悪寒が伴っていく。
僕は腹が立っている。僕のいない外側の世界で、今人々は何をやっているのか。僕は当然ながら、僕自身をぶらさげて歩いているので、僕のいない外側の世界を僕自身で体験することはできない。僕は僕のするセックスをしか体験できないのだ。他の誰かが外側の世界でどういう営みをしているのかはまったく知りようが無い。ただ状況証拠としてはめちゃくちゃだ。僕の前で息を吹き返す桜色の肌をした女は、僕のいない外側の世界で死体のような肌になっている。傷つけられて。
人を傷つけないやり方が、わからないというのならまだしょうがないと思う。でも、そうして人を傷つける痛いやり方しかできない人に限って、声は大きく主張的で、自我の表出のために暴れまわる。きっと当人がさびしいから、悲鳴をあげるように暴れまわってしまうのだろうが、でもそんなことを許していたらもう人道のルールがめちゃくちゃだ。人を傷つけるようにしか付き合えない人間は単に言って勉強不足の、人格が未成熟の人間だ。そのことについて、きっと身の丈をわきまえるとか、自分の不出来を忸怩に思うとか、慙愧の念にたえないとか思わないのだろう。自分を厳しく見据えるということに不得手で、自分は正しくてイケているという甘い見方が膨張している。女を怯えさせてセックスしている男は、どのような立場であれ、ただのうぬぼれたテロリストにすぎない。テロルとは本来「恐怖」を意味している。
本当に腹が立っているので、はっきり言っておいてやる。男の場合、女性を抱きかかえて、服の上からでも、女性の肩口や、脇腹、お腹、太ももや臀部など、指先で押してイカせてあげられない場合、それをセックスが上手とは言わない。本当に上手というか、セックスの仕方が正しくわかっている人間なら、僕のやれることは誰だってやれるはずだ。オーガズムに性器は関係ない。性器を連続で摩擦して女性をイカせたとしても、それは「電動器具の真似が上手」ということでしかない。そしてそんなことなら電動器具そのもののほうが優秀に決まっているのだ。これが本当のことだから、誠実であろうとするスケベ男はこのことから目を逸らすな。どうせ僕より若いのだろうから、勉強する時間はまだあるじゃないか。
しかも、女性の肩や腋に触れてイカせるというのも、ただそれだけではよくない。それは、身体の感覚が性的に鋭敏すぎる人なら、性器でのイキ方に近いようなオーガズムを、単に表皮の感覚で得てしまうからだ。それは単に体質の問題で、正しい性的な交合ではない。
完全に正しい交合が起こるとき、女性の呼吸数はガクンと落ちる。息は熱くなるが、呼吸は落ち着いてその数は減るのだ。そして体温は蒸気機関の何かのように茹であがる。いくときの声はあまり甲高くはなく、オーガズムに伴う身体の筋肉の硬直もそう痙攣的ではない。こころがひたすら熱くなり、互いのこころが熱く結ぼれて数秒間落下するぐらいの感触だ。一般に思い込まれている性的な「興奮」はほとんどない。
実際、女性と褥を共にしているとき、その女性が、身体を茹であがらせながら、
「あなたって、ふだんから、こんな呼吸なの?」
と驚き気づいたことがある。言われてみて僕自身も気づいたのだが、確かに僕はそのとき呼吸が極端に長くなりその呼吸数が激減する。
僕は呼吸をコントロールしているつもりはまったくなかったが、気づいたところ、女性を傷つけないようにその鋭敏な身体に触れるためには、自然とそうなるよりないのだ。女性の身体に、痛くないように触れるためには、感覚の接続を最大にして、同時に興奮をゼロにするしかない。そうすると呼吸は勝手にそうして落ち込んだ状態で付随してくる。そういうふうになるのだ。セックスができるとかわかるとかいうのは本来そういう状態のことを指す。
もし、セックスを上手になりたいとか、ちゃんとできるようになりたい、ちゃんとわかるようになりたいという男性がいたら、このことから目を逸らすな。セックスのやり方は人それぞれではない。性癖は人それぞれだが、本来、女性の身体を自分の性癖のために供させていいものではない。当たり前だ。たとえお金で買った女性の身体であっても、自分の性癖のために使っていい程度は、人道において大きく制限されている。性癖の充足については諦めるしかない。性癖の充足なんか何も重要ではない。それが重要に思えるのは単にさびしいからだ。さびしさが解決したら性癖のことなんかゴミのように思える。
正しくセックスができるようになれば、男性は必ず女性からこう言われる。
「あなたには何をされても大丈夫」
「あなたになら、殺されてもいい。殺されたら困るけれど」
女性が男性にこう言うのは、女性がその身体で直接感じているところがあるからだ。つまり、
「自分のこころは、この人に何をされても、傷つかない、痛くない。この人は絶対に大丈夫」
と感じている。こころがつながっているというのはそういう状態だ。
こころがつながっている状態で、女性の身体に触れると、その接触が相手のこころにどう届いているのかが直接わかるようになる。だからこそ、「ここをこうやって触って、こうグイッとしたらオーガズムに至るな」というのが直接わかる。
ではもしこの状態で、女性の頬を打つとどうなるだろうか? そのときは、自分のこころが直接、猛烈に痛みを覚える。自分のこころが痛み、自分の胸が吐きそうになる直接の悪寒を得る。こころがつながっているということは、そうして感覚が直接つながっているということだ。だからオーガズムを得させるということは、自分がそれを得ることでもあるし、その頬を打つということは、自分の心を打撃するようなことでもある。
僕は今、指が震えるほど腹が立っているので、こうしたことをもう包み隠さず暴露するように話している。こころがつながった状態で女性に触れると、女性は触れられて痛くないという、ただそれだけのことにさえ涙を流し始める。それぐらい、普段をボロボロのこころと身体で生かされている。何がボロボロで、何がうれしくて泣いているのかもわからなくなるほどにだ。
そして、こころがつながって、正しくセックスできた女性が、二か月後に再会すると、またボロボロにされて、セックスが不能の状態になっている。本人はよくわかっていない。肌の感覚が遮断され、死んだように悲しい皮膚になっている。食事が摂れなくなり、酒が飲めなくなり、睡眠は痙攣のようになっている。おだやかな呼吸は失われ、付随しておだやかな声も失われている。誰のせいかというとほとんど彼女自身のせいではない。僕のいない、僕の外側の世界で、僕の知らないところでボロボロにされてしまっている。僕はもうそのことが許せないのだ。もともと女の子そのものが好きな僕は、僕を慕ってくれる女の子を、僕自身の宝物のように感じている。その宝物が、僕のいない外側の世界で、好き勝手にボロボロにされて帰ってくる。すべての夢が傷つけられ、身近な人とおだやかに過ごすという最低限の夢さえ踏みにじられて、僕が彼女を再びあたためてやるには時間が掛かるし、いずれそうしているうち、僕が与えようとする手当ても間に合わないときがくる。いくらなんでも、僕だって無数の人に向けてそんな曲芸じみたことを完璧に続けていけるわけがない。破綻はあちこちで支えきれず噴出し始めている。消防車の台数より放火魔の数のほうがはるかに多いのでは火災は拡大していくばかりで「焼け石に水」だ。
こうしたことが繰り返される中で、僕はもう、この正当な怒りに比較して、通りのよい笑顔のことなんか完全にどうでもよくなってしまった。笑うのなんかいつだって笑えるイージーなものだ。そんなことより僕は怒り続けることにした。怒り続けることのほうが、ほとんどの人にはできない難しいことだろう。僕は怒りを無限回再生しながらこの先をいくことにする。今、傷つけられた多くの女性は、そのぶんだけ悲しみ、怒る権利があるのだ。でもその怒りと悲しみはすでに膨大すぎて、もうこころが受け止めきれないだろう。だから僕はその代弁をする。怒りによって砕け散りはしない強靭な僕が、代わりに怒りを吐きつづけようと思う。無数のことに力が及ばず、足りず、手が届かず、間に合わなかったすべてのことについて、僕自身笑うことを生涯放棄するということで、詫びたい気持ちの表明としたい。僕はもう一生笑わないだろう。
***
読み手の単純な興味を惹きこむためにも、僕はこの機会に、現在に自分をすでに「人のこころがわかる人間」と自称しておきたい。この場合の「わかる」というのは例えるなら絶対音感のようなもので、絶対音感の人間は聞いた音が当然のようにはっきりとした音階として聞こえてくる。それと同じように、僕は人間のこころをその外観上からはっきりと「わかる」ことができる。安直に絶対心感と呼んでもよい。むろん、人間にはテレパシーのような能力はなく、人間が考えている「頭の中」のことはわかりようがないが、「こころ」は直接読み取って感じ取ることができる。「こころ」がそうしてわかるようになると、いわゆる「心の内」という言い方はあまり正しくないことがわかってくる。こころはこころであって、その内とか外とかいう区別はない。こころはこころとしてただあるもので、それはわかるようになると――見えるようになると――ただ目の前にありのまま存在するものであり、何によって包み隠されているものでもない。だから暴き立てる必要もなく、見えるようになればいつだって目の前に見えているものだ。それが「こころ」だ。
もし、この「こころ」を、自分の感覚の目においても見えるようになりたいと望む人があれば、その人に向けては、人間の示す「顔」に注意を引かれないように気をつけよ、とアドバイスしておきたい。人間のこころは顔面や頭部にはない。人間の「こころ」は人間の全身へ普遍的に拡散して連なり存在しているが、そのほとんどは胴体であり、その感覚の焦点はやはり胸のところ、心臓の近傍へ集中していると思える(それが「見える」ようになる)。古代の人間はこの「見える」感覚を根拠にして、解剖的には究明されていないまま、そこにありうるべき臓器を「心臓」と名付けたのだろう。たしかに「こころ」の中心焦点はやはり心臓周辺に集約されて見える。あまり役に立たないヒントになるだろうが、もしその「こころ」の焦点を見たい場合、心臓や胸の中心という「点」を見るようにはせず、どちらかというと両肩、その両肩から集まってくる流れの何かの中央焦点が心臓だ、というふうに見えるようになればいい。むろん本当には両肩だけではなく全身から流れている何かがあるのだが、両肩から流れ込んでいる部分がとても大きくある。そのことは「肩を組む」とか「肩を抱く」とかいうことに関連していて、また人間にとって「手」がこころと大きくつながっていることを意味しているだろう。このことは脳生理学的にも、ホムンクルスやトーテムポールの構造に関連して考究されているところがある。けれども学術的に知れることと自分の感覚において直接「見える」ということはまったく別のことだし、ここでは学術的な知られ方との接続は行わない。すべては視覚において「見る」ものではなく、「相手の胴体にある『こころ』を、自分の胴体にある『こころ』に写し取る」だけだ。
興味を惹くためにこのようなこともお話ししておく。僕はたとえば先日のこと、初対面の人間に、「何かの、先生になりたかったですか?」と突如問いかけたことがある。すると彼女は「わかります?」と答えた。このことは本来奇妙なことだ。初対面の人間に、何の情報もなく、「先生になりたかった」という思いを読み取ることは不可能であるはず。この問いかけはほとんどあてずっぽうなのだが、根拠のあるあてずっぽうということになる。というのは、僕がしきりにいう、「こころが見える」ということの中で、こころの形に「何かの先生?(になりたかった?)」と思える印象の形状が残っているからだ。それによって僕は問いかけた。それで本来は、「えっ? どうしてわかるんですか?」となるはずのところ、彼女は「わかります?」と答えた。それは、彼女の側の「こころ」の機能も、どこかでそのことが読み取られコミュニケートが起こったということを、ごくわずかながら感じ取っているからだ。僕が彼女のこころを「見た」ということが、彼女のこころのどこかで「見られた」ということで伝わっている。それで「わかります?」と、半ば何かの了解が済んでいる形でやりとりが進んだ。そしてそれを目撃している周辺も、別におかしなやりとりではないということで見逃されて進んでいく。僕は断じてこのやりとりの中にオカルティックなものは含まれていないと言明しておく。オカルティックなものは何もなく、ただ人間の「こころ」が人の「こころ」と接続するとき、その読み取りの機能と性能は一般に思われている理解の性能をはるかに超えるところがあるということに過ぎない。たとえば花粉アレルギーの人間は認知できない花粉の微粒子に反応してクシャミを出すのだから、人間の身体に起こることを人間はすべて意識で認知できているわけではない。意識で認知していない部分でも、人間のこころは勝手にこころの微粒子を嗅ぎ取りあっているのだ。
誰にとってもこの「こころ」は同じ性能のものであり、差異はただそれをどこまで自分のものとして使えているかという点のみ。このことは重要なので繰り返し申し上げておく。これは誰もが持っている「こころ」の機能の説明に過ぎず、僕のこころの能力が特別に優れているということのアピールではない。ただ、誰でも持っているその「こころ」について、僕のように完全に「見えて」いる人はごく少ない。安直に言うなら、「こころ」は誰でも持っているが、「こころの使い手」はごく少ないと言える。誰の家にでも包丁はあるが、包丁人はごく少ないというようにだ。誰にでも同じ「こころ」があるが、誰でもが同じように「こころ」のはたらきが育っているとは言えない。
「こころ」を育てないように肉体を成育させ、かつより高い経済生産性を持たせようとしたとき、その育て方はつまり「家畜」の育て方になる。食肉に供するための家畜を育てるのに、わざわざ豊かに遊び結び合うこころを育ててから殺すのでは不必要に残虐だ。だから人間は家畜を育てるのにその「こころ」が不要にまで育ってその屠殺にむごたらしさが生じることがなるべくないように誠実さを傾けている。このとき人間の場合も、その「こころ」を育てないように成育させ、かつより高い経済生産性を具えさせようとしたならば、その人間は家畜のように育てられることになる。この場合の「いい子だね」というのは家畜に向けられる言葉のそれだ。ただ今、このことについて十分に書き話す時間が僕にはない。我々は誰しも経済的な生産をして生活をしてゆかねばならないから、我々に経済的生産についての家畜的な側面があることは誰の目にも明らかだ。ただ、その中で傷つけられ、破却された人間の「こころ」は、若い人々に「社会の厳しさ」を教えるふりをして、ただ若い人間のこころを自分と同じように傷つけ破壊することをたくらんでいる。多くの老人は本当には社会の厳しさを教えたいのではない。自分の傷ついたこころの反映として、若い人間の夢を失わせたいだけだ。「こころ」は「夢を見る」という機能がある。この機能を失わせて、自分の受けてきた暴虐の報復をしたいにすぎない。
こころの機能は第一に「夢を見る」ということにあるが、このことについても今は十分に書き話す時間がない。また後日に話しなおそう。人間は眠っているときにのみ夢を見るのではなく、朝起きたとき、そのまぶしい光に向けて、今日が佳い一日であると信じようとする「夢」を見る。その中で出会うすべての出来事やすべての人々にも、すべて佳いものであるようにと、第一に「夢」を信じるのだ。
これまで僕は、たくさんのうつくしい女に出会ってきた。僕はその女たちを、こころの底から無邪気に、うつくしいね、きれいだね、かわいいねと、褒めそやしてきたように思う。そのことには何の曇りも疑いもなかった。けれどもそのとき、少なからぬ頻度で、
「それはあなたといるからだよ」
と困ったように言われることがあった。僕はそのことについて、単なる照れ隠しのための、僕に向けてのお世辞にすぎないと捉えてきた。僕の前でうつくしい女は、僕のいない外側の世界にいるときには、僕の前にいるときよりもっと、豊かに華やいでうつくしいものだと思ってきた。僕は自分がうぬぼれることのないよう戒めてかかるように生きてきたから。つまりありていに言えば、「世の中のすべての男は僕よりマシ」で、他の男の前にいるとき、すべての女はもっとうつくしいものだと思ってきた。今になって思えば、その僕の謙遜風情のことは単なる非科学的な思い込みでしかなかっただろう。
僕がある女性を、何の気なしに素直に褒めた。「あなたはうつくしくて、よく気が利いて、こころが素直で、よくはたらくし、まぶしい人だ」と。
彼女は困ったように、
「違うの。ねえ聞いて、それって本当にあなたのおかげなの。あなたの前にいるときだけわたしそうなれるの。だから、今こうしてあるわたしとあなたの関係は、全部あなたのおかげなの。信じて。わたしヨソじゃ、ひどい女扱いだし、実際ひどい女なのよ」
そう言われても、実際彼女は僕の目の前で、やさしく、気高く、うつくしく、人に触れるのが上手で、素直な感じ方と涙の流し方をする女だったから、僕は「またまたぁ」と茶化し、彼女の話すところを真に受けてやることができなかった。
このとき僕が、自分の戒めさえ踏み越えて、彼女の話すことを真に受けていれば、その先にはもっと違った僕の、より能動的なやりようがあったと思う。だが僕は引き下がった。彼女に関わる周囲の男が、また女も、また親族も含めて、僕などと比較してこころの向けようが劣等なものだとは、節度としても信じたくなかったからだ。僕の戒めは何十年も僕自身を厳しく縛り続けてきた。
今になってわかるのは……ほとんどの人はそれほど十分な経験を得てきているわけではないし、自分の身とこころに何が起こっているのかについても、詳しく自身で聞き取れるほど訓練を経てきていないということ。つまり彼女は「自分のこころが引き裂かれていても気が付けない」のだ。僕の前で桜色の肌が取り戻されたときにも、自分の身とこころに何が起こっているかわかっていない。わからないまま凍えて、わからないまま僕の前に来て茹であがっている。彼女には「こころ」があるが、彼女自身もまた自分の「こころ」についてをよくわからないまま生きてきている。
このことを、もっと直接に教える機会はこれまでにいくらでもあった。ただ僕が自分の戒めに引き下がるということでその機会を逃してきたのみだ。思えば実にくだらない戒めだった。この戒めを粉砕するために、僕は笑うことを永遠にやめて、永遠に怒りを用いつづけようと決めた。
今僕には、十分に書き話す時間がない。今日のところはここまでにして、また後日に引き続き書き話そう。今日話して伝えねばならなかったのは、僕がもう生涯笑うのをやめたということ、および、僕はすでにそうして怒りの日を迎えたということ。以降僕は「こころがわかる人間」とはっきり自称して、関心と興味を惹きこみつつ、それを受けて立つ形で、自分のやれることをやっていきたいと思う。そのことのために、人それぞれが――僕の宝物が――僕のいない外側の世界で、今何をしているか、僕のいない外側の世界でどうなっているか、これまでどうだったのか、そのことをしっかり聴くことから、すべてを始め直そうと思っている。
[怒りの日、こころがわかる人間として/了]