No.361 (三日目) 怒りの日、できそこないの歌
(戦いはなく、戦わない。巨大な犬の糞と戦うほどヒマではないし悪趣味でもない。ただ手続きを済ますうちに勝利がある。完全な勝利ゆえ完全な平穏にうちにそれは得られるだろう。ただ動きまわる手続き。つまり、怒りはただ然るべき宝石を回収するのみ。怒りを巨大な犬の糞に突きつけるヒマ人はない。怒りは巨大な犬の糞にではなく宝石に向かっている。宝石を回収するのみで会敵は永劫にない。敵はおそらく恫喝者なのだが、彼の持つ本当の強力さは恫喝ではなくただその悪臭だ。巨大な犬の糞なのだからそれを嗅いだらウワッと思わない者はあるまい。ただ宝石の回収にすばやく動き回れ。すばやく動き回れ、って、言われなくても本能的にそうなるよなあ……まあ嗅いでも死ぬわけじゃないんだけどね)
ここに一匹の弱り切った人間があるとする。凍えて固まった胴体はたとえ湯を掛けてもドロドロしたスライム状だ。鍛えられず、もうずいぶんな時が経った。ここでは彼女の口を借りて、邦題「無限のキモチ」を歌ってもらうことができる。
「わたし、交差点で赤信号のとき、どうしてもアクセル踏みたいんですよ」
「事故になるじゃないか。交差側が青信号なのに」
「違うんです。わたし、事故なんか絶対したくないタイプなんです。むしろ事故だけは絶対にイヤなんですね。でも」
「でも?」
「でも、それとは別に、どうしても、赤信号でアクセル踏みたいってのがあるんですよね。でもだからって、事故になっていいってわけじゃなくて。それは違うんです。あの……」
「何?」
「どうしてもそのとき、交差側に車って来ますか? それが来なければいいのにって、どうしても思っちゃうんです。こっちが赤ってことは、向こうが青なんだってことは、頭ではわかっているんです。でもそのとき、自分のほうからは結局自分の赤信号しか見えないじゃないですか」
「そりゃそうだね」
「だから結局、わたしの目の前に赤信号があっても、わたしなんでこんなことで停まらなきゃならないんだって、よくわからないんですよね。交差側は青信号なのかもしれないけれど、そんなのわかんないじゃないですか。実際には。それで……」
「それで?」
「うん、やっぱり、わたしは赤信号でもアクセルを踏みたくて、そのときもし交差側が青だったとしても、そのときは向こうに車が来ないでほしいって思うんです。ちょっとだけ、向こうに停まってほしいって。だって、わたしがアクセルを踏むといったって、そのときわずかな時間じゃないですか。その少しの時間ぐらい、わたしの好きにさせてよって、わたしどうしても思うんです。それが結局、わたしの本音なんです」
「なるほどね」
「あ、あと先日のことなんですけど」
「何?」
「そうそう、思い出しちゃいました。先日のことなんですけど、わたし青信号で走っていたら、何か知らないけど、交差側の、赤信号の側からドーン! って、急にぶつかられたんですよ。わたしそのとき、もう信じられなくって、腹立っちゃって。何やってんの!? って、めっちゃ怒ったんですよ。もうほんっと許せないって思って。わたし何も悪くないのに、これどうしてくれんのよって、わたしめっちゃ怒りました。許せないですもん。そうしたらそのとき、向こうはなんて言ったと思います?」
「さあ」
「なんかね、『赤信号だけど、アクセルを踏みたかった』って言うんですよ。はあ? って思いますよね。わたしそれ聞いて、ますます腹が立っちゃって。もちろん、わたしも人のこと言えないのはわかってますけど、でもだからってなんでわたしが何も悪くないところ、横から突っ込まれなきゃならないんだって。思えば思うほど腹が立って。今思い返しても、ほんっと許せないんですよ。そんなの許してたら、もう何もかもメチャクチャじゃないですか」
「それもあなたの本音なのね」
「はい。それはさすがにもう、人として当たり前じゃないですか。赤信号でアクセル踏むなんて、何考えてんだって。そんなことするなら、もう初めから信号そのものが要らないじゃないですか。もちろん、自分の言っていることが、あー矛盾してるなって、わかってはいるんです。わかってはいるんですけど、わたしどちらも結局許せないんですよ。赤信号で自分が停まらされるのも許せないし、わたしが青信号のときに突っ込まれるのも許せないんです。許せない。ほんっと、どっちも絶対許せない」
「僕とは違うね」
「はい。あの、わたし思うんですけど、あなたの場合って、そもそも『赤信号でアクセル踏みたい』とかって、思わないじゃないですか。あーそういうことって思わないんだーって、見ていていつも思います。それってすごくうらやましいことなんですよね。わたしもそもそも、赤信号でアクセル踏みたいって、思わなければこんなに苦労しなくて済むのになって。でもこういうのって、持って生まれた性格というか、人それぞれのタイプだと思うんです。たぶんあなたの場合、初めっから赤信号でアクセル踏みたいとか、思ったことないんですよね」
「僕にはわからないキモチだね」
「はい。そうなんだと思います。人それぞれ、わかるキモチとわからないキモチってありますよね。わたしの場合、むしろ赤信号で停まっていて何も思わない人のほうが、そのキモチわかんないって思うんですよ。信じらんないって。かといってもちろん、わたしが青信号で走っているところに、横から突っ込まれるのはいやですよ。そのことは絶対許せないです。だってそれがルールなんですもん。ただ逆に、自分もそういうタイプだから、そういうルール守れない人のキモチが逆にわかるところがあって、だからこそもう徹底的に許せないって逆に感じるんだと思うんです」
「これからどうするの」
「いろいろ言ってますけど、ちゃんと自分でわかっているつもりなんで、これ絶対なんとかします。絶対なんとかしたいです。なんとかする、っていうキモチだけは、誰にも負けないつもりなんで。要は、キモチで負けなければいいんですもんね。自分は絶対こうする、こうなってやる、っていうキモチが負けない限り、いつか必ずなんとかできるって、わたし信じてます。うん、わたし絶対、なんとかなる」
こうして「キモチ」は無限に繰り返されて、キモチは「理知」の対極を行く。このことはついに、それぞれの人がキモチを愛するか/理知を愛するかということでしか決着しない。
理知を愛する人は「自分が赤信号のとき、交差側は青信号なのだから」ということで、赤信号にアクセルを踏まない。そのことが自らの「本意」になる。理知を愛しているのだから。一方、キモチを愛する人は、何であれ信号のことなど見ていないだろう。赤信号だろうが青信号だろうが、停まりたいキモチのときは停まるし、アクセルを踏みたいときは踏む。それ以外のことはすべて本質的に「耐えがたい不本意」だ。すべては「自分をガマンしているだけです」になる。
キモチを愛する場合は、すべてのことがキモチのまま進み、すべてのことがキモチを満たしてくれねばならない。それ以外に、キモチを愛する人が納得に至ることはない。それがいかに非理知的な思考に見えたとしても、そもそもキモチは理知の対極にあるのだから、理知からの批判は意味をなさない。ここでなされている指摘や批判にしたって、キモチを愛する人は批判に対して何かしらの「キモチ」を覚えるのみとならざるをえない。「なんかさあ、そういうことじゃなくない?」「わかるんです。わかるんですけど、うーん……これってやっぱり、わかってもらえないですかね」。理知とキモチは対極にある以上、噛み合わないのが宿命だ。
僕は理知を愛する側の人間だが、だからこそ、キモチを愛する人に向けて何かを説得しようとは思わない。人それぞれ、愛して選んでいるところがあるのだから、何を愛し続けるかまではお互いに口出しをするべきではない。と、そのこと自体、キモチを愛する人にとっては、キモチにそぐわなければただ破局的なキモチが返ってくるだけだとしても、僕の側はなお理知において語ることを選んでいる。
色んなことが人の「キモチ」によって起こっている。たとえば夫が妻に暴力を振るうのは何かしらの「キモチ」によってだ。理知的に行われるDVというのはない。理知的に振るわれる暴力というのはなく、それは非理知的に振るわれてこそ暴力になる。母親が娘をいじめるのも「キモチ」によってだし、上司が部下に舌打ちをするのも何かしらの「キモチ」によってだ。芸能人がスキャンダルを起こしたとして、そのことは我が身に何の関係もないと誰もが知っていながら、「キモチ」が粟立つものだから、人はそれに唾を吐くことをやめられなくなる。
「キモチ」が色んなことを引き起こしている。その中で、人は薄々、「キモチ」と「こころ」は別物だということに気づいている。何かしらの「キモチ」によって、夫は妻を殴り続けて、それをやめられないでいるのだろうが、そのことが精神的なこじれによって起こっていることを看取しつつも、それは結局「こころから振るわれた暴力」ではないことを知っている。DVにせよいじめにせよ、セクハラにせよパワハラにせよ、「こころからしたセクハラ」「こころからしたパワハラ」というのはいかにもおかしい。人は誰でもこのことを薄々知っているし、言語体系がそのことを知らぬ間に人々に教えたのでもある。それは「こころ」ではない、と。妻に暴力を振るう夫ですら、「キモチをわかってほしい」のであって「こころをわかってほしい」とは違うと感じるはずだ。
すべての騒々しいことは、何かしらの「キモチ」から起こっている。――むしろ「キモチ」に呑みこまれて、「こころ」を失うからこそ、騒々しさが起こるのではないか? と、人は誰しも薄々ながら気づいているものだ。かといって、それによって自分がキモチに呑みこまれずに済むほど急に強くなれるわけではないにしても。
むろん人は、一般にいう「良い」キモチも持っている。たとえば母親が、娘にスカートを買ってあげたいと思うキモチ。このことを悪く言う人はないだろう。「ありがとうお母さん」。母親のキモチに、娘のキモチが「うれしい」と応答する。
だがこのことは慎重に取り扱う必要がある。たとえば母親の「キモチ」について考えたとき、「なぜそのような『キモチ』が生じたのか?」という疑問がある。どのような筋道で、母親は娘にスカートを買ってあげたいという「キモチ」になったのか。まず普通はそのような疑問の発見にさえ至らないものだが、よくよく慎重に物事を見ようとしたとき、この疑問があるのは当然のことだと了解されるだろう。
丁寧に遡っていくと……この場合母親は、定例の茶会に出たときに、ふと友人に「あなたは、若いわよねえ」と言われた。そのことがうれしく、母親はキモチが浮かれた。その帰り道にふと、はしゃいで帰る通学路の少女たちを見て、その腰回りに弾むスカートを見た。まっすぐな素足が冬に晒されて県道沿いを駆けていく。母親は娘のことを思い出した。「そういえばもうじきあの子の誕生日だわね」。母親は娘にスカートを買ってあげたいと思った。それが母親の「キモチ」だった。そのキモチは無事、娘の誕生日にプレゼントとして渡され、娘に「うれしい」と応えてもらえることで成就した。このことを見ると、「キモチ」はとても良いものに思える。
けれども翌月、母親は再び定例の茶会に出ようとしたとき、その玄関口で陰口が交わされているのを聞いてしまった。陰口は自分のことを言っている。「あの人、鼻につくわよねえ。自分でわからないのかしら」。特別に冷たくいやらしい声。追随して、ドッと笑い声が起こった。母親はショックを受け、思わず踵を返して立ち去ってしまった。突然のことに膝が震える。自分の感情が混乱してわからなくなる。
母親は楽しみにして出掛けたつもりが、思わぬショックを受けて家に帰参することになり、その落差の動揺から、酒を飲まずにはいられなかった。帰り道のどこかでピアスの片方を落としたらしかった。途中で娘の塾に寄り、娘が置き忘れた雨傘を回収して帰ったが、その後急に「晴天の昼下がりに傘を持ち歩いている憐れな中年女」の姿が自分に見えて、痛烈な恥と屈辱を覚えながら歩いた。母親は身を守るように、なぜか「家族が一番大事だからねー」と念じながら歩いていった。帰宅すると、なぜ特に必要でもない傘をわざわざこの日に回収して帰ってきたのか、よくわからないということに気づいた。適切な行動ができていない実感があった。一日の記憶が自分の中に整列しておらずちぐはぐだった。
夜、居間で酒を飲みながら母親は、自分を陰口の対象にして楽しんでいた連中の顔を思い浮かべ、悲しみと怒りで呪った。逆に乾いて「ハッハッハッハ」と笑うこともした。「バカバカしいわねー」「よくよく考えれば、あんな人たちのこと何も好きじゃない」。母親はふと、自分がもう若くないということや、これまでに本当にこころの底から楽しかったことはなかったのかもしれないというようなことを、しみじみ思いだした。それほど恵まれた生き方をしてはこなかった。いろいろ無理もしている。
母親は自分が疲れ切っていることに気づいて、しんどい、と思った。しんどい、それ以上に、さびしい。死にたい(と大げさに思いたい)。ハー。そういうキモチを起こした。彼女には夫があった。けれども、もし彼女がこの「キモチ」を夫に話したとしたら、夫は必ず「グチグチ言うな!」と、そのことを強烈に面倒くさがるだろう。「そういう人だから」と、彼女は長年の連れ添いとして知り抜いている。
(わたしって、なぜあの人の妻なんだろう)
(合ってないというか、たぶん、あの人は世界で一番、わたしの話を聞いてくれない)
夫はかつて、その面倒くさがりの気質から、丸め込むのが上手な業者に押し切られ、住宅ローンを不利な形で組んだ。そのことが今もなお生活費の足を引っ張っている。そのとき以来、引け目があるのか夫は妻に対してほとんど口を利かなくなった。住宅ローンの組み直しを考えたいが、「住宅ローン」そのものがこの家では禁句になっている。彼女にはその地雷原を押しきっていく気概は今のところ持てそうにない。
そこに玄関のシリンダー錠がまさぐられる音が鳴り、ドアが開いた。「ただいまー!」と娘の伸びやかな声が室内に響いた。けたたましい足音が近づいてくる。この日娘は彼氏とデートすると言っていた。それがよほど楽しかったのだろう。帰ってくるなり娘は、彼氏にもらったというバングルを手首に飾って高々と示し、紅潮した頬ともども、
「おかーさん! 見て見て!」
と見せびらかした。娘の甲高い声が続く。
「もー、超うれしい! 彼ね、遅ればせながら誕生日だからって! (中略) あとね、彼ね! こないだの模試で上位成績者に名前が載ったんだって! 全国でだよ? それでわたし……」
娘の舞い上がっているキモチ。そのキモチは、母親の沈み込んでいるキモチとはかけ離れたものだ。母親は娘に、
「よかったわねえ」
と言う。
その声が、不意に娘の内側の何かを凍り付かせるほど、冷たくておそろしい。
「お母さん?」
娘は急に怖くなってお母さんの様子をうかがう。
「なあに」
「どうしたの?」
「どうもしないわよ。よかったわねえ、オシャレなもの買ってもらって」
母親の声は冷たく、言外に、
(わたしみたいなおばさんが買ったスカートは、オシャレじゃないですもんねえ)
と言われているような気がする。
(どうして?)
母親は急に強い声で、
「さあて、今日はもう寝る寝る! おやすみ! 明日、明日!」
と言って立ち上がる。娘はビクッとおののき、息を呑んでいる。
「おやすみ……」
「はーい! あんた、塾に傘忘れてきたでしょ。お母さん今日行って持って帰ってきたから」
母親は階段で二階に上がっていくが、そのときなぜか階段の上は、単に消灯されているというだけでなく、暗く不吉な闇に満たされて見える。階段を上がる足音は一撃ずつ、何かへの憎悪を込めて強めに響いていった。
娘はその日眠れなかった。娘は自室のベッドにもぐりこみ、スマートフォンを握りしめ、彼氏にチャットを送信する。彼からただちの返信。
「今日はマジ楽しかった! 無敵の時間をアリガトウ!!」
彼女は眠れないベッドの中、怖かったキモチが明るく打ち払われ、救われていくように感じた。
(こっちが正しい)
と彼女は思った。
誰でも経験的に知るように、「キモチ」はずっと安定しているものではない。それどころか厳密には、「キモチ」は一日たりとも同じようではないかもしれない。金曜日のキモチと土曜日のキモチは違う。母から娘に向けるキモチは、金曜日には祝福のスカートだったが、土曜日には呪いの傘だった。
誰でも経験的に知るように、「キモチ」はいくらでも変動する。二週間前に出会って直後は、最上の運命の恋人だったものが、今週には「正直ウザい」と憂鬱な男に思える。「キモチ」は変動する。父親は目覚めたように禁煙を誓い、娘は翼が生えたように受験勉強を宣言した。それが来月には名残りさえなく雲散霧消している。――あのときはそういう「キモチ」だったんだけどね。今はそういう「キモチ」ではまったくないもん。来月にはまた違う「キモチ」でいるのだろう。「そんなもんですよ」。それどころか明日の「キモチ」さえあてにならない。「意志が弱いねー」。だが「意志を強く持とう」というキモチさえ翌日には消えるのだから、今日そのようなキモチを持つことさえ不毛で徒労だと思える。
次第に恐怖を帯びてくるものだ。「キモチ」は変動する。自分の「キモチ」がいくらでも変動する。明日のわたし、来月のわたしが、現在の自分から見てあまりにもあてにならない。母親の「キモチ」もあてにならず、「日曜日にデパートに行こう」とあのときは楽しそうに言っていたものが、日曜日にはどうなっているのかわからない。「日曜日にお母さんとデパートに行く」が怖い。それを楽しみにしたいけれど、楽しみにしていたキモチが、そのときになっていくらでも裏切られるから怖い。
母親がこのところ、茶会に行くといって出かけるが、帰ってくるとなぜか肩口が煙草くさい。娘は「あれ?」と奇妙に感じている。お母さん、どうして煙草の匂いするの? と。それを問うことは何かとても危険なことのように思える。居間でスマートフォンをいじりながら、母親の横顔を見る。母親の横顔はテレビを見ながらむっつりしている。本当に日曜日にデパートに行くのだろうか。――何をしに行くの?
娘はその夜また眠れなくて、彼氏にチャットを送った。「人って怖いね」。ところがその日は返信が来ない。翌日の昼になって、「ごめん寝てたわ」と返信。「どうして返信くれなかったの?」。「風邪ひいて熱出てた」。「そっか。ごめん」。「何、どうしたの」。「ううん、なんでもない」。「ところでおれさあ、やっぱり部活、冬まで続けるわ」。「そうなの」。「うん。後輩におだてられまくって、ついに折れたw 我ながらおだてに弱いwww」。
「キモチ」が噛み合わない。やがて娘は、彼氏の「キモチ」が変動して、急に自分のことなどどうでもよくなるのではないかという不安に駆られ始めた。自分にはこのところ、何か耐えがたくさびしいキモチがある。でもそのキモチが、彼にはまったく伝わっていないように思える。――こんなので彼氏と呼んでいいの?
「前はもっとラインくれたじゃん」
「は? どうしたの、なんか機嫌悪い?」
「ううん。機嫌とかそういうのじゃなくて。わたしさびしいじゃん。どうしてそれがわかってくれないの」
「えー」
(ご・め・ん・ね、のスタンプが送られてきた)
「キモチ」が大きくなるほど、人は理知から離れていく。赤信号とわかっていても、アクセルを踏みたいという「キモチ」が育っていけば、やがてアクセルは踏み込まれるだろう。
ある日、娘はふと彼氏に、
「もう色々いいや。わかってもらえないんならもういい。別れる。バイバイ」
とチャットを送った。娘としては、そのことを通して、わたしのキモチをわかってほしい、というキモチがあった。
ところが彼からの返信。
「は? 何それ。お前なんかさあ、いつもいつも一方的すぎね? お前って本当におれのキモチとか考えないのな。こっち今必死で勉強してんですけど。お互いそういうこと大事にしようって約束じゃなかったっけ? まあもういいよ。おれも正直、今他に好きな人いるから」
娘の「キモチ」はクラッシュする。スマートフォンを握る手が震え、その震えは怒りか悲しみか何なのかもはやわからない。「疲れた」と「爆発したい」が同時に起こる。スマートフォンを、壁に投げつけたく思ったが、それも悲しいし「親に怒られる」し、「スマホがないと困る」ので、枕に投げつけた。投げつけた途端、クラッシュした「キモチ」の不快さがこみあげてきて、娘はワーと泣き始めた。
泣きながら娘が思った。
「どうせ、どうせ、誰もわたしのキモチなんか知ったことじゃないんでしょ。彼も。お母さんも。お父さんも。その他みんなも」
「どーせわたしが悪いんです。どーもすいませんでした」
数日が経って、娘はいったん落ち着いている。落ち着いているが、
「なんかもう、色々冷めたわ」
と無意識の口癖。顔つきもそれに合わせて変化している。
「こんなの結局、本気になった側が損っていうか、そもそもやっぱ女のほうが損っしょ」
「そこは理屈じゃないしねー。あーあ、わたし男に生まれたかったな」
声と話し方が変わっている。枯れた笑い方をする。
泣いていた時間に、娘は気がついた。「お母さんは結局、わたしのキモチなんかわかってくれんしなー。だから話せないな。結局噛み合わないでイライラするだけになる。うん」「お父さんはそもそもありえんし。所詮オトコだから、女のキモチなんかわかんないでしょ。そもそも、そういうタイプじゃないしw」「わたしのキモチをわかってくれるのって誰よ」「正直みんな、キモチをわかってくれるとか、そういう友達でもないしなー」。
娘はキモチを吐露するのに、ツイッターを利用した。誰に向けるというのでもないキモチ。
「人ってアテにならないねー。そもそもアテにしてた自分がバカだったはwww」
ツイートを受け取った友人から、
「どうしたの? ところで金曜トミヤマん家で鍋パするんだけど、こない? 向こうの親がお金出してくれるっていうし、割と人来るよー」
「なにそれ、お金出してくれるんだ。なら絶対行きます()。トミヤマさんとこの親、ほんと人格者だよねえ。マヂラブ。金曜日か、正直楽しみー」
「キモチ」は変動するものなので、今日噛み合ったものは明日には噛み合わない。ほとんど、それぞれが回転する偶然の出目スロットのようなものだ。カジノでよく知られるとおり、スロットの出目が偶然揃ったときに起きるフィーバーはとても大きい。「777」! 盛大なコングラチュレーションが発生する。だが再びスロットが回転し始めたとき……次に示される目は必ずブタだ。以降は再び、出目が揃う次なる偶然をえんえん待つよりない。コインを消費しつづけながら。
茶会と母親、母親と娘、娘と彼、娘と友人。トミヤマさんの親御。噛み合わないキモチは荒れて大きくなってゆき、肥大したキモチはやがて非理知的な行動を引き起こす。
色んなことが「キモチ」によって起こっている。
僕は理知を愛する人間だ。理知を愛する人間として、僕には、「キモチ」は色んなことを引き起こしながら、
「『キモチ』はごく一時的にしか満たされようがない」
ように見える。むろん僕とて野暮を極めるわけにはいかないので、777の出目を得た者には、そのとき惜しみないコングラチュレーションを向けるとしても……
だがいわゆる、人口に膾炙する「運命の人」、「ハッピー」というのは、そのときの刹那の出目のことを言うのか? 翌月にはブタになるそれのことを。
「キモチ」を愛する側の人間に、僕は問うてみたく思う。どうしてこんなことが起こるのか。茶会で「あなたは、若いわよねえ」と言った誰かはどういう「キモチ」だったのか。続いて陰口を叩いて、合わせてドッと笑った連中は、どういう「キモチ」だったのか。母親が娘にスカートを買ってあげたやさしい「キモチ」はどこへ消失してしまったのか。母親が酒を飲んで沈み込む「キモチ」でいたとき、どうして娘は母親の「キモチ」をわかってやれなかったのか。浮かれる娘の「キモチ」へ、なぜ母親は冷たい「キモチ」を向けたのか。そのとき傷ついた娘の「キモチ」を救ってくれた、彼の「キモチ」および彼への「キモチ」はどこへ行ったのか。一つの時間が過ぎ去って、すべての人の「キモチ」はどうなり果てたか。
「キモチ」を愛する側の人は、ここに登場するすべての人物に、何が悪かったのかを説明できるべきだと思う。誰が悪かったのか。誰も悪くなかったのか。それとも全員が悪かったのか。どうすればすべての人の「キモチ」が満たされえたのか。どうすれば永遠の777/コングラチュレーションを維持できたのか。僕にはわからない。
僕にはそもそも、「キモチ」というものが満たされる仕組みのものではないように見える。結局理知を愛する側の僕にとっては、777は「偶然」だと見え続けるのだろう。
***
[無限のキモチ]
赤信号だけどアクセルが踏みたい
そのとき僕は信じようと思った
自分のキモチ、自分のホンネ
絶対譲れない本当のキモチ
人のキモチを考えもせず
ぶつかってくる無法者がはびこる
こんな奴らは滅ぼしたいって
思う金曜、逡巡していた
奇跡をずっと信じずに来たけど
(※)
無限のキモチが僕たちにはある
完璧じゃない、わかってはいるけど
迷い諦め腐ってた僕たち
今起き上がりアクセルを踏んだ
無限のキモチ、未来を拓いてく
信じればいい、掲げて歩こう
迫る暴虐をわがままで蹴散らせ
明日がたとえそっぽを向いても
キモチが止められないなら
止めずにゆけばいいんだ
それを知った、きみがいた
それはなんでもない一日
それはただの土曜日だった
うつろいやすい時代の中で
僕たちはずっと僕たちのまま
僕は僕のホンネだけを信じてく
雑音を振り切って僕は今言うよ
聞いてほしいただ一つのこと
「きみを守りたい」ただそれだけのキモチ
僕がきみへ贈る奇跡の時間
それがずっと絶対のキモチ!
(※repeat)
いつだって今
このときを生きるだけの僕ら
僕たちのキモチ
いつまでもここに刻まれてあるもの
無限のキモチ
迷ってた僕ら
僕たちのキモチ、結晶になって
いつまでも続いてく
音楽の構成を得意とする人なら、このような詩文を示されたとき、ただちに何かしらのサウンドを取り付けて、これをひとつの楽曲として想像に聴くことができるだろう。実際その手の基礎に習熟している人に掛かればこれを一定のサウンドにするのに数分の時間をしか要さない。ロック風味の音色もコード進行もありきたりを貼りつければ済むことだ。
僕は楽譜の書ける人間ではないが、想像力の聴覚に一つの楽曲を再生できてはいるわけなので、その意味ではここには僕の作詞作曲による一つの楽曲が示されていると言えるだろう。割れたような声でがなり立てる、現代風の――軽薄とはいえ、スピードのあるミクスチャーの力をほどこした――<<この歌は、僕にとって「できそこないの歌」だ>>。単純な、悪い意味においての「できそこない」。僕はそのように意図的に作詞作曲をした。
この歌には「キモチ」はありえても「こころ」はない。「キモチ」を昂らせる力は持ち得ても、「こころ」に届く力は持ち合わせていない。「キモチ」と「こころ」はしばしば区別がつきづらく思われているが、僕は「こころがわかる人間」を自称する以上、ここで「こころ」についてだけは断言する資格を持ちえよう。キモチとこころは別物であって、このような詩文および想像されるミクスチャー・ロックのサウンドは、キモチを煽るものに過ぎず、こころに届く何かではない。
作詞作曲をした当人が、これを「できそこない」と言うのだから、確かなことであり、また罪のないことだろう。このことに被害者はいるまい。ただ僕は知ってはいる。このような性質の言葉の並び、および詩文の構成に、「キモチ」が惹かれる人が少なからずあることを。
わずかでも「キモチ」を昂らせてしまった人へ、これは作詞者当人からのひどい裏切りということになるだろうか? もしそういう悲しさがあったとしてもこの場合はやむを得ない。この歌は「できそこない」だ。そのことの証拠に、こういった「キモチ」へのプッシュをはたらきかける歌は、「現代」より以前にはほとんど見当たらない。いつからかの「現代」のムードに接続してのみ存在しうる歌の印象が手ごたえとしてある。
こうして「現代」を過去と比較しようとするとき、どうしても若年層には体験としてわかりようがないところが生じるが、それでもたとえば長年の活動をしている桑田佳祐などの歌曲にはこういった「キモチ」へのプッシュをはたらきかけるものは昔から一曲もないということが感触としてはわかるはずだ。こういった「キモチ」へのプッシュソングは、あくまで「現代」の「若い声」としてのみあり、桑田佳祐が若かったときの「若い声」のものではない。フランク・シナトラの「若い声」でもない。ここで歌曲「無限のキモチ」はあくまで「現代における若い声」と限定され、そして「キモチ」へのプッシュソングだとして「新興」に分類しうる。
そして、仮にこういった歌が「いいな」と思えたとしても、その「キモチ」自体、数ヵ月と待たず雲散霧消していくということが経験的に知られている。誰でも知るとおりのことだ。「キモチ」は変動するため、一時的にキモチがこの詩文に高まったとしても、その高まりは数日さえ保たれはしない。ほとんど「その場限り」とさえ言えるものだ。
そして今、そういった「その場限り」とわかっているものが、なぜかまさに「その場」に限っては、「センスある」というふうに信じられる風潮がある。僕自身はこの歌を「できそこない」としてデザインしているのに、ある種の人からは「この、『迫る暴虐をわがままで蹴散らせ』って部分、センスあると思うわ」と評価される。「できそこない」をわざわざデザインした僕としては、苦笑いして聞き流すよりない……
昨今、時代に起こるありとあらゆる「ブーム」が、ごく短期間しかその流行を保ちえず、かつその先の文化へ何の痕跡も残さないまま消失するという特徴を持つことに、多くの人は気づいているだろう。すべてのものが一時的な「キモチ」を得させるだけで、その後は完全という形で、むしろ後を濁さぬすがすがしさがあるほどに忘却されていく。そのことを、本質的に恐ろしいことだと投げやりに知りながら、「考えていてもしょうがないし」と思索の範囲外へ放り出してしまった人は少なくないだろう。しかし、一般論としては思索の範囲外へ放り出せても、やがて自分自身さえ「誰かから一時的なキモチを向けられてその日ごとに生きるだけなのか?」と覚悟するとき、その人生観は希望に満ち溢れない。
……「胴体」はどこへ行った? 僕は「こころのわかる人間」として、自ら意図的に「できそこない」とデザインした作詞作曲作品のはたらきかけを踏みにじって、このことを問い質したく思うのだ。「胴体」はどこへ行った? 「無限のキモチ」を歌うとき、その「胴体」はどこへ行ったのだ?
***
胴体に「気」が流れている。
「流れて」いる。
「気」と呼ばなくてもいいが、胴体に、何かしら「感覚の何か」が流れている。
「流れて」いるのだ。
このことについて、先の話の登場人物、茶会に参じた「母親」は油断した。
油断したし、そもそも鍛えられていなかった。
胴体の中に流れる「それ」を、感じ取り続け、隅々にまで洗練し、失わないということへ、鍛えられてこなかった。
だから彼女は取り乱した。
茶会に馳せ参じようとしたとき、その玄関口で交わされている陰口。その陰口はもちろん、胴体の冷えた人間らによって営まれている。
顔にいやらしい力が入り、胴体は冷えて固まっていく。顔面はノボセる。冷酷さの罪のスリル。その興奮の中で陰口が交わされている。人を傷つける悪意の味わいに、ドッという笑いが起こる。
「あの人、鼻につくわよねえ。自分でわからないのかしら」
このとき、鍛えられていない母親の胴体の中で、「流れているもの」がクラッシュした。あっさりと容易に。ビクン! 流れているべき「気」が怯えて固まった。鍛えられていないので、胴体は容易に脅(おびや)かされる。鍛えられていない以上、そういったことはもういくらでも起こり放題に起こる。
胴体の中を流れているべき「気」が固まる。それで母親の身体も合わせてビクッと固まる。こうして「気」が固まったり乱れたりすることを、総じて「気がヘンになる」という。読んで字のごとくだ。「気」がヘンになったため、母親はピアスを片方なくした。必要のない傘の回収に行った。母親は「気を落とし」、「陰気」になり、「気力」を失って「無気力」になった。「気に病んだ」。「気休め」のためには、「酒気」を帯びるしかなかった。娘の「陽気」もそのときの母親には「気に障った」。胴体が不全になれば「気が合う」ということは起こらない。その続柄が大切に思うべき母娘であっても、胴体には何の関係もないことだ。「思う」という機能は胴体のものではないから。
母親の胴体の中で、流れるべき「気」が固まっている。それによって人は「冷たい」という状態になる。「胴体に気が流れていること、およびそのターミナルセンター」が「こころ」なのだから、流れるべき「気」が流れていないということは、そのときすでに「こころない」という状態となる。<<人が人に向けて「冷たい」かどうかは、本人の「キモチ」とは何の関係もない>>。胴体の気の流れが固まると「こころない」という状態になり、それが人に及ぼす作用は自動的に「冷たい」となるだけだ。胴体の機能の問題であり、本人が「こころある振る舞いをしよう」と意欲的に取り組んだとしても、それは残念ながら何のぬくもりも生み出さない。
とても残念なことだが、これは繰り返して断言するしかないのだ。あなたがどれだけ必死な「キモチ」で、「こころある振る舞いをしよう/したい」としても、胴体の気の流れが固まっていれば、あなたは人に「冷たくしかできない」のだ。キモチの問題ではなく胴体の問題によって。むろん、そのことが厄介で悲しいことだからこそ、僕は今そのことの正当な解決に向けて執拗に話し続けているのでもある。
母親から娘に向けて、「こころない」声が向けられた。「よかったわねえ」。冷たい声。娘はビクッと怖がる。「肝」が冷えた。胴体の気の流れが固まる。娘も「気」がヘンになり、「気弱」になった。彼氏からチャットメッセージをもらわなければ、「怖気づく」という状態が癒されなかった。通信端末をいじくることで得られる「暢気(のんき)」「気晴らし」がこのとき助けにもなったろう。
この後も登場人物らは、こころを恢復させられないため、色んなことが「気になる」という状態になり、人と関わるにも「気が短い」という状態になる。「気難しい」ということも出てくる。「気が散っている」し、「気が気でない」ので、何事も手に付かない、娘は部屋で勉強するにも「本気」でやれない。でも居間にいても母親と「気まずい」。何事にも「気が抜けて」しまい、どうにも「気合」が入らない。寝転んでいて「気が重く」、「気が詰まる」と感じられている。友達に遊びに誘われたが、どうも「気が向かない」、「その気になれない」。ひたすら「気を紛らわす」ためだけに、スマートフォンをいじり続けている。
娘のことに限定すれば「若気の至り」で済むかもしれない。だが母親のことを含めるとすべてが「気色悪く」、「不気味」、「気味が悪い」と感じられる。若年の場合(娘の場合)、胴体はたとえ固まってもまだ柔軟性を残すが、十分に加齢している場合(母親の場合)、胴体の気は次第に再び流れ出す可能性を失っていく。それでこの場合、娘の場合はまだしも、母親の場合を考えると「気が滅入る」のだった。
こうして、「こころ」とは胴体に流れる何かしらの「気」のことなのだということを認めるならば、われわれが体験するほとんどのこころの現象は、国語上の「気」に関連する慣用句で把握・説明することができる。胴体に「流れて」いるそれの作用を実感せよ。後は我々の国語が教えてくれる。
母親の茶会は、本当にお互いに「気ごころ」が通い合う仲だったのだろうか? その会合は、上品で社交的なふうでありながら、「気取って」いただけで、本質的に「気障(キザ)」をしていただけではなかったのか。胴体のレベルで本当に「和気あいあい」だったろうか?
登場人物の誰が、途中で「気を取り直す」ことに成功しただろう。「気を取り直す」というようなことは、胴体の訓練によって、技術的に可能な作業になる。そうしたことへの取り組みが、一連のストーリーには見当たらない。
なお賢明な人はお察しのことと思うが、ここまで「キモチ」とカタカナで表記してきたのは、本来の「気持ち」という言葉は、その字義からいって現在の使われようとはやや別のことを指すからだ。ここでは現在一般的に使われている意味での「キモチ」を扱いたかった。それによってカタカナで表記することで区別している。
「キモチ」とは、つまり「強く思う・強く望む」ということだ。それが単に「思う・望む」である以上、いくらでも理知を逸脱して、矛盾しながらでも湧き上がってしまう。それは胴体に関わらない、思念上に無限に浮かぶものでしかないから。「無限のキモチ」だ。赤信号でアクセルを踏みたいと思えるし、他の誰かがそれをするのは許せないといくらでも思える。しかもそれが「ちょっとそう思う」か、それとも「猛烈にそう思う」かにしても、それは「キモチ」の強さ、「キモチ」の強度でしかないのだ。キモチの限度には何の担保もないので、「強く思う」ということは本人次第でいくらでも際限がなくなる。何もかもについて「みんな死んでしまえ」「わたしのこと愛してよ」と無制限に思いつめることができる。そのことを薄々、当人も「本気」で言っているのじゃないと自覚しているが……しかし好き勝手に「思いつめる」ことができる強度は、すでに彼女の貧弱な胴体の実力をはるかに飛び越えているのだから、当人がたとえ「本気じゃない」と自覚していても、彼女は結局その自分の「思い詰める」に支配されるのみだ。
夫が妻に暴言を吐き、夫が妻に暴力を振るう。後になって「そんなことはしたくなかったんだ」と言う。矛盾するキモチ。「もう絶対にしない」という思いを新たに、彼は泣きながら誓う夜があるだろう。だが翌朝は別のキモチだ。昨夜に流した涙や握手はただキモチの昂りでしかなかった。このことの繰り返しは、取り返しのつかない絶望を両者に与える。妻はもともと夫に「嫌気」がさしていたが、今はもうそのことを超えて、「気味が悪い」と感じている。
金曜日のキモチが土曜日まで続かない。「なんて意志が弱いんだ」と思えるところ、それは誤った捉え方。「意志を強く」「メンタルを強く」と思うかもしれないが、それも誤った捉え方だ。「意志を強く」「メンタルを強く」。そのこと自体を「強く思う」かもしれない。がんばりたいキモチ、なんとかしたいキモチ。それらはまたしてもキモチの強度性を上昇させているだけだ。解決の道筋にはなりえない。意志が弱いのではないし、メンタルが弱いのでもないのだから。胴体が弱いのだから。胴体が鍛えられていないので、そこに流れている「気」がコロコロ変わる。「気が変わっちゃった」。胴体が鍛えられておらず、しかも胴体に無頓着なので、いちいちのことにゆさぶられるとおりに「気が変わる」。
胴体が弱くて「気」が変わる。「気」が変わるたび別の「キモチ」、そして「キモチ」だけ人の何十倍も強い。だからキモチに振り回されて生き続ける。それが「キモチ」の正体だ。日々ゆさぶられるたびに「気が変わる」だけ、その暮らしの中にもはや「自分のキモチ」などなくなっていく。気が変わるということは、胴体に流れているものが好き放題に混ぜ返されるということだ。よって顔つきも声も、考え方も何もかも、ゆさぶられるごとに変わってしまう。やがてもう人格と呼ぶべき人格は希薄になってゆき、ついには完全に「正気」を失う。「正気」を失った人間は当然、自身にも周囲にも、ひたすら「気の迷い」としか言えないようなことをしでかして回ることになるだろう。ここまで至るとすでに、当人は「これはいけない」というキモチさえ持つことが不可能になっている。
母親が茶会に出る。そのとき、母親ともども、そこに列席する皆が、胴体を持ち寄り、胴体を並べ、胴体を向き合わせ、胴体を通い合わせるようであればどうか。そのとき茶の湯の様式に合わせて、それぞれが集合して胴体の「気が鎮まる」。もともと「気を鎮める」ために茶会があるものだ。胴体を揃えて、胴体を通わせあって、生きていく気力を正気に整え合うことのために励まし合う。「気」が「陰気」に傾かない限りは、その字のごとく「陰口」は起こりえない。「気さく」に、「気兼ねなく」、「あなたそのバッグは茶会に華美すぎるわよ」「ごめんなさい、自慢したいのよ」「まあ、あはは」と言い合うことができる。胴体が通い合って支え合えるとき、そうしたいちいちのことに人は「気を悪く」しない。「気のいい」人たち。「あの人たちとは、気が合うからね」。
そうしたら、娘が「ただいまー!」と帰ってきたときも、母親の胴体は呼応して「おかえりー!」と言えた。本人がそうするつもりを持たなくても、胴体が通い合っていると声は自然に呼応して起こるものだ。胴体にはもともとそういう仕組みがあるのだ。そのとき娘の胸が弾んでいれば、それは母親の胸にも映りこむので、母親の胸も一緒に弾む。胴体が通い合い、気ごころが通い合っている。
その瞬間、娘は、「彼が大好きで……」という話をしない。彼氏への慕情はさておき、そこでは目の前にある胴体へ引き込まれる。つまり、目の前のそれに向けて、その瞬間感じる、「お母さん大好き!」。娘が飛びつく。それから後のことだ、娘が「あのね、彼がね」と話し出すのは。母親は、自分の胸元で、自分の娘の胸が弾んでいることをよろこぶ。娘の胸が弾めば、自分の胸にも映りこんで弾むから。そのときふと母親は、いいことを思いついた、と感じる。
「あのね」
「うん」
「スカート買ってあげようか」
「え!?」
「もうすぐ誕生日だから!」
「えー! やったー!」
このとき母親は、これといって娘に向ける「キモチ」があるわけではないのだ。ただ弾む胸が通い合っていること、その只中にいると、娘の胸がさらに弾むことを、つい思いついてしまうというだけ。それをさらに弾ませてしまいたいと、うずうずと「こころ」がこみあげてくるだけだ。「こころ」の現象と「キモチ」の現象を断じて区別せよ。
このとき母親と娘の胴体は、体温以上の不明な熱に包まれている。熱および蒸気に包まれている。これは体験すると明らかにわかることだ。季節も何も吹き飛ばす、そういう熱と蒸気を与え合う力を、人間の胴体は持っている。たとえ内容が説教でも、あるいはババ抜き遊びでも、茶会でも、そこに胴体が通い合うとき、ただならぬ熱と蒸気が湧き起こって、いのちそのものを底から励ます。<<キモチを信じるな。この力を持つのは胴体・こころだけだ>>。
胴体・こころが通い合う。顔つきも声も変われば、能力さえ変わってしまう。食事の味は天国のようになり、窓を開けて吹き込む風は、窓の外の景色ともども、あの世の余り風のように香る。多くの病気がこれで治ってしまう。疾患といわず「病気」という場合、それはやはり「気」なのであるから、強く気が通い合う場合、母は娘の、娘は母の、病気を蹴散らして治すことができる。もちろん友人でも同じだし、恋人ならなおさらだ。
……このことはやがて――またいずれ話すが――霊的な自分、「この世に生まれてきて、何をしたらいいんだろう?」ということの次元、つまりインスピレーションの体験にまで及んでいく。自分のキモチを超えて通い合う「何か」があり、それによって穏やかな熱と蒸気が圧倒的に起こっている。顔の周りはこんなに涼しく、ありとあらゆる「ノボセ」が消し飛んでいくのに……ふと娘のこころは「何か」を掴んでしまう。――わたしの「キモチ」の外側で、これだけのことが起こるのだ。じゃあ、わたしは「わたし」だけで作られてはいない。きっとわたしは、思っていた以上に「わたし」以外のもので作られている。それがわかる。「お母さん、わたし、お母さんの子に生まれてきて本当によかった」。そのことは母親のこころにも映りこむ。母親は、自分が「母親」になれたことについて、「あ、そうか」とやはり「何か」を掴む。母親は「自分は生きることをひとつ成功させることができたんだ」と直観する。母娘は無言のまま穏やかにひとつのことを共有した。もう「絆(きずな)」はあったということ。だからもうこれからは、何があっても、お互いのことにこだわらなくていい。お互いに自由にしたらいいね。もう絆はあったのだから、ありがとうね……
さてここに、もう一度BGMを重ねる。胴体の通い合う母娘の場面に向けて。あるいはそれを取り巻く胴体の通い合った暮らしの全てへ。古いラジカセからけたたましいミクスチャーの声。
♪赤信号だけどアクセルが踏みたい
そのとき僕は信じようと思った
自分のキモチ、自分のホンネ
絶対譲れない本当のキモチ
そぐわない。
なんだ、キモチだとかホンネだとか。
「お母さん、それ切ってー」
だからこれは「できそこないの歌」だ。
***
・こころは通い合う
・キモチは通い合わない
ただそれだけのことだ。この部分には何の煩雑なメカニズムもない。「こころ」は胴体の現象であって、胴体から胴体へ「通じ合う」という機能が元々ある。頭にノボセてくる「キモチ」のほう、こちらにはそもそも「通じ合う」という機能はないのだ。
だからたとえば、あるアイドル・タレントが、そのファンの群衆に向けて内心「キモいなあ、オタクって」と思っていたとしても、そのキモチがファンに向けてバレてしまうということはない。キモチが「伝わる」ということはないのだ。ごまかせる。キモチはあくまで「察する」ということしかできないし、その「察する」も結局は推察の範囲を超えないものだ。
だから特に、顔面に強力な「笑顔」を貼りつけでもすれば、そもそも「キモチ」は通じ合いはしない以上、「キモチ」を察するといってもその表面上の強力な情報をアテにするしかなくなる。結局、ただ表面上の「笑顔」に応じて、それを「キモチ」なのだと受け取るしかできないだろう。もし「キモチ」が通じ合うものなら、おだやかな笑顔を振りまく詐欺師の内心の「キモチ」に引っかかる人はゼロになるはずだ。
もし、この「キモチ」が、そのまま伝わって通い合ってしまうのだとしたら、ポーカーや麻雀といったゲームはすべてつまらなくなってしまうだろう。「キモチ」がもし通じ合うようなら、もはや手札を伏せている必要さえなくなるのだ。
夫が妻に暴力を振るうとき、何かしらの「キモチ」があって暴力を振るうのだろう。もしその「キモチ」が通じ合うのなら、そもそも夫は暴力を振るう理由が無くなるはずだ。
色んな騒がしいことが「キモチ」によって生じている。
それらの全ては、「キモチ」が通じると思い込んでいる愚かさによって起こっている。
唯一の例外は幼子であって、幼子だけは母親に「キモチ」が通じていると信じて構わない。
まだ幼子の胴体は育っていないから、完全な母子一体感の中でしか生きていけないだろう。
この状態を「甘え」という。
幼子の場合は、発達心理学上構わないが、もうとっくに幼子ではなくなっているのに、なお他者に「キモチ」が通じると思い込んでいるという場合がある。自分の「キモチ」が通じないことへ、「許せない」というメラメラとした攻撃の炎が上がる人がある。「キモチ」は通じるはずだと、頑として駄々をこねる。
それを典型的に「甘え」という。
土居健郎がずっと昔に解き明かしていることだ。
「甘え」というのは、科学的な現象を慣用句に引き当てただけで、情緒的な何かを言い表しているのではない。
冷静に考えてみると、これはバカバカしいだけのことだ。「キモチ」には「通い合う」というそもそもの機能がないのに、勝手にそれが通じると信じているだけでしかない。
一枚の短冊にメッセージを書き、それを独特の燃やし方で燃やすと、相手に送信されるのよ……と思いこんでいる、ただのオカルトの妄想だ。そんなオカルトが成立するならスマートフォンの使用料を払う必要はない。
たとえば、僕があなたの目の前にいるとしたら、僕はあなたに、
「僕の今のキモチがわかりますか」
と訊こう。
あなたは、
「えーっと……わたしのことを見て、バカな女だなあって……」
「違うよ。帰りに薬局に寄ろうと思っているんだけど、それが面倒くさいなあ、っていうキモチで今一杯だよ。雨降っているからなあ。雨の日に荷物持つのってイヤだよね」
「はい。そのキモチ、わかります」
「そりゃ話したからね」
「はい」
「話す前からわかってたの? この人は帰りに薬局に寄ろうと思っており、それを面倒くさがっているのだ、雨の日に荷物持つのはイヤだから、って。だとしたらテレパシーでスゲーけど」
「いいえ」
「じゃあキモチはわからないんだね」
「はい」
「話せばわかるけど」
「はい」
「じゃあ、改めて、今の僕のキモチは?」
「えーっと、帰りに薬局に寄って、面倒……」
「違うよ。やっぱり薬局に行くのはやめた。薬局はやめて、ツタヤに寄って帰ることにした。なんか映画が観たくなったんだ。そのキモチ、通じてない?」
キモチは通い合わないのだ。そんなもの、いくらメラメラされても同じだ。これはただの機能の話であり、ほとんど人間の「仕様書」を読んでいるだけにすぎない。人間はどう作られているか。それこそ、「キモチ」ではどうしようもないことだ。どれだけメラメラされても、あなたの鼻に火を噴くガスバーナーの機能がないのと同じだ。「人間はそんなふうに作られていない」のだからしょうがない。
冷静に考えてみるしかない。僕は理知を愛する側の人間だ。
事実、キモチが通じると思い込んでいる人間は、決まってまともな恋人の一人もできなかった人間ばかり、ということがある。「わたし帰りにツタヤに寄って映画観たいってキモチなのに、どうしてわかってくれないの」という調子では、それは恋人として交際していくのは困難だろう。
気持ちが通じると勝手に思い込んでいて、でも実際には通じないので、噛み合わず恋人ができない。一方、本来通じるはずの胴体・こころのほうがおろそかなので、肝腎な通じ合うところがなく、たとえ付き合ったとしても傷つけあうだけになり、決まって「キモチが冷めた」「こんな人だとは思わなかった」という結論で別れる。そしてその次も同じことを繰り返すのだ。「あの人、わたしが雨の日に薬局に寄るの面倒くさいってすごい思っているのに、そんなキモチもわかってくれないんですよ。もう冷めました、あんな人だとは思わなかった」。
本来の機能について追究しようとせず、自分に都合のよいままに、「キモチは通じる」と思い込んでいる。本来の機能について追究しようとしないということは、つまり理知的でないということだ。自分のキモチは通じていると思い、勝手に、「自分は人のキモチをわかっている」と思い込んでいる。
その一方で、自分の胴体・こころが鍛えられておらず、誰かと向き合い胴体・こころを通じ合わせるということに取り組まない。どれだけの傍証があっても、胴体・こころにそういう機能があるということを、やはり追究しようとしない。自分のキモチとしてお好みでないという理由だけで徹底的にサボる。ここにおいてもやはり理知的でない。
理知を愛する僕の側から、あくまで一方的に申し上げるとすれば、僕はわかってほしいのだ。僕の「キモチ」ではなく僕の「話」を。ここで言う、いうなれば「キモチ主義」の人は、キモチが通じ合うということを探し、キモチが通じないことを「冷たい」と思っているだろう。そのときひいては、つまりここでは僕のことも「冷たい人」と思えているに違いない。けれども本当に冷たいのはキモチ主義の人であり、世の中を悲惨なほど冷たくしている張本人が「キモチ主義」なのだ。キモチ主義の人は自分の「キモチ」が人に通じると思い込んでおり、胴体はそっぽ向かせたまま、自分の「キモチ」だけを好き勝手に振り回している。そのことが、周囲の人々の胴体・こころをどれだけ傷つけているか、肝心のそのときに気づいていない。当人はいつも決まって、「真剣なキモチで一杯です」と言う。それはそうなのだろうが、だからこそ「冷たい」のだ。
「キモチ主義」は人にアツアツの料理を食わしているのではなく、「アツアツ料理です」と書かれたメニューを口に押し込んで人に食わしているにすぎない。キモチたっぷりに。そのことが人の胴体を傷つけないと思われようか? 信じがたいことだが、母親が娘にスカートを買ってあげて、娘が「うれしい」と応じるとき、そのときさえ「こころ」は傷つけられていることがあるのだ。「キモチ」のうれしさの膝元で、「こころ」はないがしろにされて傷ついている。僕だってこれまでにたくさんの人にたくさんのプレゼントをしてきたが、そのたびに「ありがとう」とうれしそうと言われることに、何度も「うるせえよ」と返してきた。僕は人のキモチをうれしがらせたくない。僕は自称するところ「こころがわかる人間」だ。そのことのためには、僕はいっそ「キモチがわからない人間」に成り果てて構わないと思っている。そのほうが、よりこころに向けて多くのことができるというのなら、「こころがわかる人間」であると共に、「キモチがわからない人間」だとも同時に自称しよう。
「キモチ主義」の人間は、自分の「キモチ」が人に通じると思っている。胴体は放ったらかしで。そういう人間にとっては、世界に自分の気持ちが通じていると思っているのだから、つまり自分の「キモチ」だけの世界を生きていることになる。これは誇張ではなくて本当にそうなのだ。だからこそ、赤信号でも「わたしは」アクセルを踏みたいと思う。自分のキモチは、交差側にも通じていて、そのときだけは交差側が青信号でも停まってくれると思っている。そう思えてしまうのだ。自分のキモチが他者に通じていると思っているから。「強く思えばきっと通じるよ」と、できそこないの歌に甘えてきた。「無限のキモチ」を信じている。事実は無念なことに、「まともな恋人の一人もできない」を示しているのに。
僕は妻に暴力を振るう夫のキモチが「わからない」。キモチは通じるものではないのだから「わかる」とは決して言い得ない。彼の中にある猛烈なキモチ、その燃え盛って耐えがたいキモチが「わからない」。「わからない」ってば。「キモチは通じない」って言ってんだろ。また、彼自身にそのキモチの内実を自白してもらったとしても、その自白を信じられる根拠もない。彼がウソをついていて、本当の「キモチ」は別にあるのかもしれないのだから。それは「わからない」。キモチはあくまでその人だけのものだ。外部には伝わらないどころか、漏出さえしない。「伝わる」は錯覚だ。自白を「信用」するか否かの問題でしかなく、誰にとっても自分のキモチはあくまで自分限りのものでしかない。死ぬまでそうで、「キモチ」は自分ひとりで墓まで抱えていくものだ。
(ただ心配は無用だ、「キモチ」はまったく別の方向から解決する。また後日説明する。「キモチ」の問題は、「キモチが通じる」ということで解決するのではない。勉強不足が勝手に自前で解決法を思い込んではいけない)
(要はキモチが「解決」すればいいんだろう? 「こころ」が満たされたとき「キモチ」はどうなるか知っているか? 「こころ」が満たされたら「キモチ」はもう残っていない。満たされて解決している。なぜなら元々、「こころ」の満たされなさを埋めるものとして「キモチ」が生じる仕組みなのだから。「こころが伸びればキモチの居場所はなくなる」。満水になった瓶にもう空隙は残らないでしょ。そっちが解決の手続きだから心配するな)
自分限りで、「絶対に痩せたい!」と思うとき、そういうときは、そのキモチは好きにしたらいいわけだ。そのキモチを強くするのは個人的に勝手なことだ。そのキモチを変動させないよう、意志を強く持って、メンタルを強くして、「わたしがんばった!」というキモチを得るのは誰にとっても構わない。生きていく中にはそういう局面もたくさんある。が、そのキモチは他者に通じるものではない。「わたし、がんばったんです!」。そんなことは誰にも通じないし、通じなくていい。自分の「がんばった」がわかってもらえるのは、幼い子供から見ての母親に対してだけでいい。「がんばって勉強して百点を獲った!」、そのうれしいキモチは幼子から母親に向けてだけ伝わればいい。まともな大人は、自分ががんばったことなど人に報告しない。まして自分のがんばった証拠をSNSにアップロードしてわかってもらおうとするのは、原則大人として恥ずかしいことだから、いわゆる「自重」をするべきだ。
自分にとって、自分のキモチがどれほど大切なものであったとしても、その大切さは他者に伝わるものではない。自分が自分のキモチを大切に思う以上、他者は他者で、また自分のキモチを大切に思っているのだ。あなたにとって一番大切なのが「自分のキモチ」である場合、彼にとって一番大切なのも「自分のキモチ」なのだと言わざるを得ない。イーブンに考える限りそれが正当だ。
お互いに自分だけが大切にする「自分のキモチ」。こんなものを互いにぶつけあったとして、それが何になるだろう? たとえば野球観戦に夢中の彼は、それが「楽しい」というキモチで一杯だ。その隣で、野球に興味のないあなたは「つまんない」というキモチで一杯だ。そのとき間に立つ僕はどうすればいいだろうか。あなたに「彼のキモチわかってあげなよ」と言い、彼にも「彼女のキモチわかってあげなよ」と言うぐらいしかない。それによってあなたと彼は、そのときから最上の愛し合う二人になる……とも思えない。どうあれ結局、彼はそのとき野球観戦の「楽しい」が第一のまま、あなたはやはり野球観戦の「つまんない」が第一のまま、実は「キモチ」は何も変わっていないのじゃないか。その後、「ごめんねって言ってくれました」「お互い気を使うようになりました」ということにはなるかもしれない。「結局、野球観戦とかはお互い別れて楽しんだほうがいいってなって」……と、そうなるとつまり「別れる」がベストに行き着いてしまう。
キモチ主義は必ずこのことを忘れて生きる。なぜならば、「他者には他者の、大切にしているキモチがある、自分と同じように」というのは、理知によって知られることだからだ。キモチが理知の反対である以上、キモチ主義は必ずこのことを失念する。後で思い出して深く「反省のキモチ」になることはあるにしても。理知無しに「イーブン」は得られようがないのでしょうがないことだ。
こうしてイーブンが得られない以上、キモチ主義者にとってはどこまでいっても、世界の全ては「わたし」の大切なキモチと、「わたし」の悲惨なキモチだけで出来上がっていかざるをえない。そしてその「キモチ」は金曜日と土曜日でコロコロ変わるのだ。だから必然的に――全世界よ、「わたし」のキモチに呼応しなさい。金曜日と土曜日でコロコロ変わるわたしのキモチ、「無限のキモチ」に、余すところなく応えなさい……とならざるを得ない。これを精神医学で「幼児的全能感(万能感)」という。つまり、この心境は「珍しいものではない」ということだ。
「人って怖いね」
「ごめん寝てたわ」
「どうして返信くれなかったの?」
「風邪ひいて熱出てた」
「そっか。ごめん」
「何、どうしたの」
「ううん、なんでもない」
「ところでおれさあ、やっぱり部活、冬まで続けるわ」
「そうなの」
「うん。後輩におだてられまくって、ついに折れたw 我ながらおだてに弱いwww」
キモチは通じ合う性質のものではないので、人それぞれにキモチを吹き鳴らせばバラバラだ。
では人間はそれぞれ孤立した存在でしかないのか。それは違う。ペシミスティックになる手続きはどこにもなく、「胴体・こころは通じる」という事実が示されている。
もし胴体・こころが互いに通じるものでなかったとしたら、たとえば音楽指揮者は指揮台に立ってプレイヤーに向けて「することがない」だろう。タイミングを取るだけならメトロノームだけでよく、またどのように演奏するかは前もって打ち合わせしておけば十分だ。そんなつまらないことを人間は豪壮なコンサート・ホールでやっているのか? そうではなくて、胴体・こころが通じるからこそ、音楽指揮者は胴体ごとプレイヤーの前に立っている。指揮者からプレイヤーの全員へ、胴体・こころを通じ合わせて、そこに起こる演奏をバラバラでないひとつのものに作り上げる。胴体の中に「流れて」いる何か、それを音楽の形につないでいる。優れた指揮者が指揮台からプレイヤーに与えているのは、単にタイミングではなく「こころ」なのだ。さらにそれが高等になると、指揮者は指揮台からプレイヤーにその瞬間ごとの「インスピレーション」をさえ与える。このことは、音楽の演奏に「かけがえのない時間」を覚えたことのある人なら経験的に知っているはずだ。
なぜロック音楽のホールでは本来、お約束でなく観衆が立ち上がってそれを聴くほどでなくてはならないのか? それは胴体と胴体の間に起こる「通じ合う」を体験するものだからだ。胴体を座らせているのは損だ。胴体に起こるそれを受け取らないなら、音響としては精密なスタジオ録音には劣るのだから、ライブ会場は音楽体験として値打ちを失う。なお、もしそういった現場へ、何かしら実技者として立たねばならない人のある場合、僕は勝手に忠告を申し上げておく。<<あなたは「キモチ」でそこに立てば必ず無力化する>>。キモチは人に通じないのだ。
「無限のキモチ」が歌われたとき、その詩文があなたのキモチをプッシュすることはあるかもしれない。そのことはあなたの「絶対に痩せたい」をキモチの面で支援するかもしれない。だからシェイプアップにランニングをしている人は耳にイヤホンを挿しているのだろう。耳元でループ再生されるそれは変動するキモチをなんとか固めようとする定着剤のようなものだ。今はその定着剤をふんだんに塗り込む人が「強い人」とされている。胴体をカチカチに固めて、キモチもカチカチに固めようとする、そして出来上がる「強い人」。
それでも必ず、キモチはやがて変動するものだ。カチカチの胴体が疲れ果てたら、フラッとなって一巻の終わり。あなたを励ました歌、「無限のキモチ」は、数か月後のあなたにとって、もはや懐かしいものでさえなくなる。「あのときはそういうキモチだったのかなー」。キモチはそうして、痕跡を残さないぐらい無慈悲に変動していくものだ。
その中でも、キモチの変動、および時代の変動にも関わらず、なぜか別のところで残り続けていく歌がある。どれだけ時代が過ぎても、なぜか「古くなった」という感触の起こらない歌。それは変動しない何かを歌ったもの。普遍的な何かが伝わった体験。その歌からは「こころ」が聴こえているのだ。あなたは歌を聴きながら、そのシンガーの胴体を感じとっている。あなたの胴体が「あの人」を胴体のレベルで受け取っている。そのことは、あなたの胴体・こころが損傷しない限りずっと続くのだ。「あの人」の声に触れると、あなたの胴体にいのちを励ます熱と蒸気が湧き上がってくる。ずっと「こころ」に残っている忘れようのない「あの人」のこと。それはできそこないではない歌だ。
***
「インスピレーション」のことについて、警告しておくべきことがある。
人間の胴体・こころは、他の人間の胴体・こころともつながっているのだが、そのことの先、胴体・こころは他のことにも色々とつながっている。それはやがて「インスピレーション」との接続におよび、その人間に「何のために生きるか」「自分が生きるとはどういうことか」を直観で与えるのだが、このことはある種の洗練か、胴体・こころの十分な鍛錬が伴っていない場合、たいてい「ロクなことにならない」という結果しかもたらさない。十分な鍛錬が済んでいない場合、インスピレーションについてはどこかで「バカにしておく」ことだ。さしあたり古典のインスピレーションだけをアテにすればいい。すでに歴史の選別を受け、なお賞賛されて残っているシンガーや、映画、絵画、小説や詩などをアテにする。それでもできるだけ、もし「頼りになる人」がいたら、その人に付き添ってもらうにこしたことはないが。
胴体・こころの基礎的な鍛錬が済んでいないうち、自前のインスピレーションにはまだ用事が無い。「こころ」ができないのに自前の「インスピレーション」などに色気を出さないことだ。普通乗用車でさえまともに運転できないのに、大型トレーラー車に気楽に試乗すれば悲惨な事故を撒き散らすに決まっている。ただそれだけのことだ。「こころ」がわかるようになればやがて「インスピレーション」のこともわかってくるから、その手続きが正しく進んでいくまでは「身の程をわきまえて」おくことだ。身の程はつまり「胴体」の程度のことだ。
それでも、生活の周辺でインスピレーションに接触してしまうことがあるかもしれない。そのとき、それが「怖い」と思える場合、それはあなたがまだ弱いところにつけこまれているだけの、しょうもないものだと知っておくことだ。たいてい、身近にいる誰かと胴体が揃っていないから、一人で「怖い」となっているにすぎない。残念ながらそれは大して重要な体験ではないのだ。申し訳ないが「ただの気の迷い」というのがほとんど正鵠を射ている。
身もフタもなく言ってしまうと、たとえば家族が胴体のレベルで不仲なとき、とにかくやたらめったらと「怖い」というインスピレーションを受ける人があるのは何も珍しいことではなく、むしろ「ド定番」だ。申し訳ないが「ありきたり」とさえ言わざるを得ない。そしてそのインスピレーションには、残念ながら何の意味もない。「家族仲が悪いのね」というだけでしかない。古今東西、詩人であれ僧侶であれその他アーティストであれ、高等なインスピレーションに到達した人は世界を「美しい」と発見しているので、あなたが「怖い」とインスピレーションを受け取ったなら、それは残念ながらハズレだ。インスピレーションというのは「あたたかく」「荘厳で」「美しく」「輝きがあり」「胴体が揃っている」というのだけがアタリになる。あなたがハズレを見る場合、それは然るべき人に比べてあなたが画然とショボイということに過ぎない。胴体の修行不足がバレたというだけだ(残念だったな)。とはいえ、まず常識的には、単独の胴体でアタリのインスピレーションに接触できる人はほとんどいないから、「まあそんなもんだな」ということで、さしあたり色気を出さずやはり「頼りになる人」「頼りになる連中」と胴体を揃えることのほうをまず目指したほうがいい。お寺の坊さんたちでさえ、基本的に「胴体を揃えて」修行をしているだろう、あれが何のためなのかをよく見ることだ。単独胴体で修行できる人なんて相当、極端に強い人だけだろう。
ちゃんとマイケルジャクソンのライブ映像とかを観ているか? まずはマイケルがどれだけ動いているかを、ちゃんと全部見れるようになってからだ。胴体が「こころ」だというのは、たとえば「ビリー・ジーン」のときマイケルの胴体が「ビリー・ジーン」だということなのだから、それがちゃんと全部見えていないと話にならない。マイケルジャクソンは自身の歌曲の全てについて、そのほとんどのサウンド、ほとんどの歌詞、ダンス、衣装、世界観、演出、を生み出したのだから、あれが正統なインスピレーションだ。胴体がインスピレーションの世界に接続してフィクションの世界(の流れ)を獲得している。一方「ハズレ」の人のほうは、そのとき「流れて」いなかったろうし、集中もしていなかったはずだ。心臓のドキドキが「閉じ込められて」いたはずでもある。そのドキドキは本来、指先やつま先などの末端まで通じていないといけない。「こころ」は「流れている動き」であることを忘れずに。「ジタバタする」というのは「流れて動けていない」ということなのだから……
さて胴体がやがてインスピレーションにつながっているということだが、これはたとえば「三つ子の魂百まで」ということわざに表れている。イニシエーションとしては七五三などに現れている。三歳の子供を神社(や寺)に連れて行き、その胴体の無垢なうちに、すでに十分な歴史を経て洗練された神道(や仏教)のインスピレーションを宿そうということ。これがないと「生きる」ということがわからなくなるから。そうして七五三で付与されるインスピレーションによって、日本の子供は神道(や仏教)につながった「日本人」として生きていくことになる。霊的な「日本人」はそうして作られるので、単に国籍だけを得てもそれだけで霊的には「日本人」ということにはならない。
これは何も神秘主義ではなく、単にユング等の指摘した無意識および周辺的無意識という人間の精神構造が文化様式に接続していますよという構造主義的なレポートに過ぎない。このことにオカルト風味を覚える人は、申し訳ないが単に勉強不足で頭が弱いだけだ。あなたの期待しているような特別なことは残念ながら何も起こらない。ただあなたが集中力を失うだけだ。家族仲が悪いと頭が弱くなってしまうのは不利なことだが、それを言えば僕だってもともと家族仲は相当な悪さだったのだから、あまり文句を言っていてもしょうがないだろう。
もし、どうしてもこの「インスピレーション」に関連して、胸のうちがおかしい、得体の知れない不安が起こって苦しいと感じられる場合は、あくまで応急処置だが、財布に一万円札を多めに入れて、「無駄遣い」をしに出かけるのがいい。一万円札は苦しいか。金額の大小は問題ではないので、別に千円札でも構わない。それを意図的に「無駄遣い」するのがコツだ。普段は我慢しているおいしいものを食べたらいい。なんであれ、無駄遣いをするのは気分が晴れるので、それだけでだいたいの場合は応急処置が済む。 このことは、人によってはわけがわからず、何言ってるんだコイツというような話だが、ある種の人にとってはどうしても話しておかないとかわいそうなことなのだ。一種の安全装置なので「しょうがない」と思ってもらえたらいい。インスピレーションと言ったって、悲しいかな、しょせん職人が焼いた神戸牛のサーロインステーキに勝てるものではない。それはインスピレーションを尊重しているのではなく、神戸牛のA5肉をナメているだけだ。神戸牛には松坂牛とはまた違うすさまじいものがある。
人間には「現実的な自分」と「霊的な自分」があって、といってもこれも何もオカルティックな話ではないのだが、つまり霊的な自分がダメージを受けた場合、現実的なダメージを少々覚悟する(「あー、お金使っちゃったぁ」をする)ことで、逆にバランスが取れることがある、ということだ。そのために「無駄遣い」をする。ため込んでいた商品券をついに高島屋でブチまけるというのでもいい。愉快だろう。それも十分正当なお金の使い方だ。
たまに、まったく管理できていないレベルで、霊的な損傷とバランスを取るために、自分からわざわざ詐欺や悪徳商法や悪徳工務店に引っかかる人がある。自分でも知らないうちに、そういうことへ自分が傾いていくことがあるのだ。現実的にムシリ取られることで、現実的な自分と霊的な自分がバランスを取りなおすということがある。かといって、わざわざ詐欺や悪徳商法に献金してやるのは馬鹿らしいし恥ずかしいことだ。だから自分で管理できる範囲で「無駄遣い」をしたほうがいい。自分で管理している範囲での「無駄遣い」なら、特に女性にとっては確実にハッピーなことだろう。たまに単なる道徳心から「無駄遣い」を禁忌にしている人があるが、そういう人に向けてこのレクチュアは大きく有効な救済になることがある。「無駄遣い」をしておいで。ときめくでしょう。
現在、日本だけではないが、さしあたり日本のこととして、胴体が無垢のうちにほどこされるイニシエーションが、あまりに様式が古いままだという問題がある。テクノロジー時代の進捗が速すぎて、ほどこされるイニシエーションで与えられるインスピレーションが、実生活の背後をまるで支えてくれないという問題がある。つまり七五三に連れていかれた子供が、やがて少年になり、スマートフォンをいじりながら、通販サイトで物品をクリックすることを覚えたとき、「生きている気がしない」という問題がある。「昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんが」という話にしても、それがあまりに実生活と違いすぎるのだ。現代のおじいさんとおばあさんはもっと「荒れている」から。
イニシエーションでほどこされるインスピレーションが型落ちすぎる。だからこそ今、成人式なども各所で儀式として崩壊を始めている。多くの女性は、七五三のあとアイドル・ユニットやアイドル・アニメを観て、一方では海外セレブに成功像を見たりするのだから、霊的な自分がメチャクチャ、つまり「自分がこの世に生きるってどういうことなの」がメチャクチャになる。頭ではわかっているがインスピレーションのレベルで混乱する。
このことの解決はまったく手がかりがないが、少なくとも明らかなことは、人それぞれ「自分がこの世に生きること」について、インスピレーションの再獲得が要るということは間違いない。そして予言をしておくなら、インスピレーションを再獲得したとき、自分が「生きる」ということは改めて獲得されながら、困ったことに、「周囲と根本的に話が合わない」という問題が出てくるだろう。それはそれで困る。そのことも含めて含めて問題はまったく解決の兆しがないが、少なくとも事象に説明がついていれば「混乱」することは避けられるはずだ。今はそれだけしか言えない。
本題に戻り、「キモチ」について実際的な話をしておく。実際に、多くの女性が僕の前に来て、まったく当人の知らない仕組みによって、僕の前で泣きだすということが起こっている。そのことは今起こりすぎで、僕はこのところすでに、僕と親しく話してくれた人で、僕の前で泣かない人を見たことがないという状態だ。いよいよ僕も「何がどうなっているんだ?」と訝しく思いはじめた。そして改めて腰を据えて、それぞれの人から「聴く」ということをしてみた。「僕のいない外側の世界で、あなたは何をしているの、どのように生きているの」。すると出るわ出るわ、どうやら僕の知らない間に、「こころ」の通わない世界および「キモチ」だけが振り回される世界が圧倒的に進行していたようだった。それで僕は慌てて自分を「こころがわかる人間」と自称することを思いついた。まったく下品な方法で自分でもいやになるが、さしあたり最も手っ取り早い有効な立場の設定がこれしかないのでやむをえない。
実際のこととして、僕はなんであれ「胴体」を目の前の人に向ける。それは「こころ」を向けるということだから、相手の胴体・こころもそれに呼応しようとして変化してくる。その変化は、ほとんどの人(まず百パーセントの人)にとって、自覚のない変化だ。自覚のない変化だが、そこにある感覚だけは実にはっきりわかる。そのはっきりとわかることを、なぜいつまでも見落としたままでいるのか、いいかげんにしてくれよと思うところも率直にあるが……。僕の知る限り、若い女性のほとんどは、まだまだ素直な胴体・こころを残していて、そのときはたいていハッとするような穏やかであたたかな眼差しを僕に返してくれる。そのことに、数秒も掛からない、ということも多い。カチカチの胴体も、若ければなかなか芯までは固まっていない。「こういうものなのか」と、僕は初め驚いたが、今はもう驚かないようになっている。実際のこととして、レポートじみていて恐縮だが、生活の周辺で確認しうる限り、若い女性のほとんどはまだまだ素直な胴体・こころを残している。赤の他人であってもだ。男性や年配の人はどうかというと、接触する機会があまりないので今ここでは報告に足りない。
僕と若い女性の間に、「こころ」が通じるということには、何も驚かないし、そこに思いがけず穏やかな「こころ」そのものが返ってくることにも、「そうか、そういうものなのか」と、すでに驚かなくなった。その中でなお愕然とせずにいられないのは、多くの人に「聴く」ということをしてみたところ、そうして胴体・こころを「向けられた」ということ、それによって熱と蒸気、こころが「通じている」という感覚を得たのが、ずいぶん久しぶりか、ともすれば「あなたが初めて」という人さえ少なくないようだということだ。「僕のいない外側の世界」は、今胴体のレベルではすさまじく冷酷になっているらしい。どうやらそのようだと、ヒアリングの結果から推定せざるを得ない。僕は僕自身の胴体をぶら下げずにどこかに歩いてゆけるわけではないから、この推定と判断をシビアに持ち続けないと、僕は昼行燈のまま誰のことも正しく励ましてやれないだろう。
僕の前で、僕に向けてはあたたかく、穏やかな眼差しを返してくれる女性が、僕の前で泣き始める。泣き始めて、際限がないほどに涙を流し続ける人もある。なぜ泣いているのか自分でもわからないという人もある。そこまで涙を溜めこむほど、彼女は「僕のいない外側の世界」で、さんざんこころに冷たくされ、傷つけられてきたということだ。そのことに対して僕は怒った。すでに焦点は、僕が彼女とどう遊ぶかという、のんきな夢のあるところではない。焦点は、これから彼女が、僕のいない外側の世界でどうまともに生きていけるかだ。こうして僕は、僕の宝物を傷つけた誰か、僕から宝物を奪った誰かを、もう許さないと決めた。「こころがわかる人間」を自称して、「こころがわかっているつもりのキモチ人間」への追及に手加減しない。その一点においてのみ、手加減も容赦もなし、節度さえなくていいと僕は決めた。誰もそんなに泣かなくて済むときがくるまで、僕は一生笑わなくていいと決めた。
先日、友人宅で話していたときのこと。僕はいつもどおり、胴体をなるべく向けて、熱と蒸気がいのちを励ますように話そうとする。話の内容は関係なしに。そうすると熱と蒸気が生じてくる。そのときふと、
「あ、このまま話していると、寝ている猫ちゃんがこっち来ちゃうな。どうする?」
と僕は言った。
背後からその感覚があったからだ。
数秒後、押入れの奥から物音がして、のそのそと、眠っていた猫が出てきた。押入れの奥に寝床が据え付けてあるのだ。猫はのそのそ歩いてきて、僕と友人の間にちょこんと座りこんだ。猫にとってはおそらく、そこにある「熱と蒸気」を、「石油ストーブのぬくもり」と区別せずに捉えている。石油ストーブがあったかいから、その前に座り込むのが猫だ。そしてどうやら、猫にとっては、「こころ」も「石油ストーブ」もどちらも「あったかいもの」「いのちを励ましてくれるもの」でしかないらしい。僕はまったくそのようで構わないと思うし、その猫のありのままの姿は実に愛らしかった。「ここがあったかい」と知って座り込み、何のキモチもなく見上げてくる。
「こころがわかる」ということの中で、「押入れで寝ている猫が起き上がってこちらに来ようとしている」ということが背後にも感じ取られるということは別に珍しいことではない。猫が背後の押入れで「動いた」というのがわかるのではなく、猫の「こころ」が、「あ、今動こうとして寝ていたのが起きちゃったな」ということがわかるということだ。動いてからわかるのはただの聴覚だ。そうではなく「動こうとする」その瞬間のこころがこちらのこころの映りこんでわかるということ。むろん背後の押入れにいる猫のことなど意識していなかった。意識していなくても勝手に映りこんで「あ」と感じ取られるのが「こころ」の機能だ。胴体には何かを「意識する」なんて機能はない。
猫の胴体にだって何かしらの「気」のようなものが流れている。流れていなければ身体が動かないのでそれは死体だ。それは胴体の性質として、孤立しておらず、他の胴体にも映りこむ性質がある。それが「こころ」だということだ。「こころ」は「映りこんで当たり前」。これは科学的なことであって、「こころを大切にする」という思い入れとは無関係のことだ。僕は腹を立てているので、このことについては読み手の常識に向けてやさしい緩衝は挟まない。このことについてのみは、不快があろうがショックがあろうがもう僕の知ったことではなく僕はありのままを話すのだ。――「猫がこっちに来る」ことぐらい、僕がわからないと思うのか?
僕の話を真に受けてくれている人からすれば、「こんな人間がいるのか」と驚かれているところがあるかもしれない。が、逆に僕の側から見れば、僕のいない外側の世界について、「そんな世界があるのか、冷酷な」と僕は驚いているのだ。
今、人はそれぞれに、自分の生き方に悩んでいたり、あるいは生き方を「自負」していたりするように思える。「女だから」「男だから」「社会人だから」「父親だから」「彼氏だったら」「彼女だったら」「プライドとして」「好きな人になら」。
人として、男として、女として、友人として、恋人として。あるいは親として、父親として、母親として、息子として、娘として。さらには教師として、社会人として、あるいはこの地域に生まれた人間として?
僕はそのとき、それぞれの「自負」を振りまく人の、胴体を見ている。
それぞれが、それぞれの自負への、強い「キモチ」を力いっぱい振り回しているのはわかる。けれども申し訳ない、僕は「キモチがわからない人間」だ。キモチなんか見ていない。どれだけ強いキモチであっても、ずっと胴体だけを見ている。あなたの目を見ているが、感じ取っているのはあなたの胴体についてだ。
ある女性には「女だから」の自負がある。「女として」のキモチもある。
でも彼女は、「女」のこころは持っていない。
胴体に「女」が流れていない。
僕はそれを見ている。
彼女が胴体をカチカチにして、普段は防御している、埋もれた「胸」の痛みが感じ取られる。それは「さびしさ」から来ているだろう。自分の胴体に「女」のこころが流れていないことのさびしさ。および、男の胴体にある「男」のこころと交われないことのさびしさ。
それに関わって起こる、彼女の「キモチ」なんて僕にはわからない。
僕はただ、その彼女の胸の痛いところを、なんとかしたいし、その胸の痛いところが、やがてなんとかなる世界へ、彼女が生きていくようであってほしいだけだ。
もしそうして、やがて彼女がさびしさを解決して、胸の痛みを熱と蒸気に変えられたとき、そのときに起こる彼女のキモチについてさえ、僕は知らないし知りたくもない。
そのときの彼女は、「キモチ」に縛られない自分というものを体験して、目をおだやかに輝かせているだろうけれど……
僕には彼女のキモチはわからないし要らない。
ただ、胴体・こころについてはわかるから、そのときは彼女の胸に起こる熱と蒸気に向けて、「よかったね」と言うだろう。
「自分の生き方、生きる意味」? 「自負」? そんなことは全て、まず基本の「こころ」ができるようになってからだ。断言していい、「こころ」がまともにできていないくせに、自前のインスピレーションを取り扱うなど絶対にできるわけがない。「こころ」さえやり方がわからないくせに、自分の生き方なんかわかってたまるか。
僕は「こころがわかる人間」として、「まだこころさえわかっていないあなた」に向けて、ひとつの嘲弄しよう。<<「こころ」ができていないままの、幼稚なインスピレーションの混入など、際限のない「キモチ」を湧出するだけの役立たずだ>>。
際限のない「キモチ」の湧出、つまり、
「どうせパニックまがいでしょ?」
どれだけ汚らしく聞こえたとしても、結局これが最短の道筋になる。自負やらインスピレーションの寝言を云わず、まず胴体・こころの基礎的なことをやってくれ。
ここでどれだけあなたが僕を嫌悪しても、繰り返す、それは「キモチ」だ、そんな「キモチ」は僕のこころには寸分も映りこまない。誰のこころにも映りこまない。あなたがバカを見るだけだから、あなたはもう理知的になるしかないのじゃないか。「キモチ」なんて永遠に一人相撲でしかない。
***
(勝ちに行くことが前提。常に勝負に出てしまうなら、動き回る者の勝利は明白。「別にわざわざ戦わなくても」。初めから勝利している者に戦いなどない。怒りはただ愉快さのうちに勝利する。「え、いつの間に誰が負けたの?」、そのことさえ眼中にない。恫喝者などしょせん、動き回る者にとっては手玉なのだろうが、眼中にないため、それさえよくわからない。ただ平穏と無頓着、初めから勝っているとしか言えないのだ。完全に平穏なままということが完全な勝利を得たということと同一だ)
(あなたに正当な権利を。あなたが理知においても気概においても、胴体・こころに素直な尊厳を認め、その育成と実現に励んでいくのだとしたら、あなたには以降、不本意な生と暮らしに押し込められねばならない義務はない。あなたが、「キモチ」などという、無限に生じるしょうもないこだわり情緒を正当に見放して正道に還るのだとしたら、あなたはその日から「常に勝負に出てしまい」「眼中にないまま勝利する」人間だと胸を張って生きていい。眼中になく勝利し続ける)
(眼中にない敵は、いわば「巨大な犬の糞」。眼中に入れるだけで猛烈な悪臭。でもそれだけだ。あなたが巨大な犬の糞の悪臭にスリルを味わいたくない限り、そんなものが眼中に入らないようにいつもどおり動き回ればいい。平穏を崩してわざわざそんなどうでもいいスリルを味わいたいとは、僕はまったく思わないな)
すべては「胴体を向き合わせられない弱さ」から来ている。若いあなたへ、どんだけ弱いんだという話。あなたはそれになってはいけない。知った以上はもうしてはいけない。
もちろん、もうバケモノみたいになってしまった人間には、あえて胴体・こころを向けてやる必要はない。よほどそこに「道」でも求めない限りは。常識的に。同じ胴体・こころを向けるのならごくまっとうに友人になれそうな誰かに向けたらいい。基本的には、年少者が年長者に向けてそれをして差し上げる必要はない。年長者はずっと大人として威張っているのだから。
「孤立した胴体の群れ」という実情がある。この群れの中を暮らしている。もしそうでなければ、いちいち女が僕の前にやってきて泣きだしたりはしない。僕のような醜男の前にでも可憐な女がやってきて泣くのは、少なくとも僕の前では胴体が孤立しなくて済むからだ。ようやく「キモチ」以外のまともなことができるからだ。発生する熱と蒸気。数秒で起こる「なんだこれは」という量の熱と蒸気だ。
「孤立した胴体の群れ」に、さまざまな「キモチ」が起こる。「なんだこいつ、ムカつくわ」というようなキモチ。あるいは、「わたしは友達にちゃんとしてあげたい」というキモチ。「なんでわたしだけこんな目に遭わなきゃいけないのよ!」とモノを投げたくなるキモチや、赤信号だけど「もうブワーって行っちゃいたいんですよ、正直イライラする」というキモチなど。
ネガティブなキモチ、マイナスのキモチ、ストレスフルなキモチ、悲観的なキモチは不利だ。生きていく上で不利だし、「しんどい」という面でさらに不利だ。だから人はネガティブなキモチをポジティブなキモチで「上書き」しようとする。
♪無限のキモチが僕たちにはある
完璧じゃない、わかってはいるけど
迷い諦め腐ってた僕たち
今起き上がりアクセルを踏んだ
「そうよ! わたしの言いたいことはそれなのよ、この感じ!」
笑顔が取り戻される。洗い物がはかどるし、お出掛けもはかどるし、勉強もはかどるだろう。
こうして、ネガティブなキモチは「不利」なので、それを「有利」に切り替えるために、ポジティブなキモチへの「上書き」を図る。そのことは一見「必要不可欠!」と思える。確かに不可欠な部分もある、生活上の実際としては。
しかしこのときあることが見落とされている。
「強いキモチ」とは何なのか?
「強い」という、それは「キモチ」の「強度」の話だ。
一般には、ポジティブなキモチが「強いキモチ」だと思われている。
だがそれは誤解だ。
ネガティブなキモチだってその「強度」は十分にある。
ネガティブなキモチが「強く」起こるとき、やはり再びの上書きは起こってしまう。
洗い物がはかどり、鼻歌も出だしたところ、電話が鳴る。確認すると母からのコールだ。
電話に出ると、独特の声。
(あーあ、お母さん、またお酒飲んでる)
「あんたさあ、まだ結婚しないの? ちょっとは親のキモチも考えてね。わたしだけじゃなく、みんな孫の顔を楽しみにしてんだから。あんただけよ? モタモタしてんのは」
電話を切って直後、
「なんだってそんなこと言われなきゃいけないのよ。あーもう、ホントうっとうしい!」
エプロンを丸めて壁に投げつける。少し息が切れている。「不安」の苦しさが起こる。恫喝されたからだ。
先ほどまであった、十分に強かったはずの「ポジティブなキモチ」が、より強力な「ネガティブなキモチ」で上書きされてしまった。
その後、友人と約束があってティータイムをする。友人は昔から「ぶっちゃけ」のキャラクターが安定してあり、人を破顔させる独特の割れ鐘の声を持っている。
「ねえねえ、聞いてよ。うちの親がさあ。かくかくしかじか」
「あー、わかるそれ。ウザいよねー。そういうのがいっちゃんウザい。でもさ、なんか、親ってそんなもんじゃね? なんつーか、つまり、聞き流してりゃよくね? ハハハ! あたしずっとそうしてるもん。だってさあ、ウチらは今で満足してんだから、そんなとこに口出しされても、ねえ?」
「そうだよ! もう怒った! わたしパフェ食べちゃお。すいませーん」
「ハハハ、食っちゃえ食っちゃえー」
「キモチ」が明るくポジティブに上書きされる。
(よーし。少なくとも、わたしはわたしのやるべきことちゃんとやろっと)
翌日、また母から電話。「今度こそ」と構えてかかるが、このとき電話の内容は別件。
「あのねえ、おじいちゃんが入院しちゃってねえ。それで今度はちょっと、もうあまり良くないらしいのよ。どうなるかわかんないって、先生が言うのね」
「え……」
「それでねえ、あんたもねえ。今、彼氏いるんでしょ? その人連れて、まあたぶん結婚しますって形で、念のためおじいちゃんに顔見せに来てやってよ。この先どうなるかわからないじゃない」
「えー? だってそれは……まだ全然そんな仲じゃないよその人とは」
「そんなの、事情を話してわかってもらいなさいよ。いいわね」
電話を切ると、メラメラと、もう唾を吐きたいキモチ。
こうして、強いポジティブのキモチは、より強いネガティブのキモチで上書きされる。このことには際限がないので、えんえん繰り返される。まさに「無限のキモチ」だ。
僕はこういった一連の話を伺ったとき、まずキモチをポジティブに上書きすることへは加勢しない。「わかってあげなよ」と言う気にはまったくなれないのだ。もちろん他人事だからというのも当然あるけれども。
ひとまず、胸糞の悪い話なので、「なるほど、救いがたいクッソババアだなあ」とは思い切り言うとして……でもそれは僕の独り言みたいなものだから、それだけでは解決になるまい。
僕が見ているのは、その話をしている彼女の胴体だ。気軽にお酒が飲める洋食風の酒場に僕と彼女はいて、小さなテーブルに向き合うように座っている。
僕は胴体に受ける気の流れと共に、たとえば、
「なんというか、その、全然別だわな」
と話す。
「全然、別?」
「うん。こう言ってはなんだけど、あなたの話を聞いていてね。たぶんあなたにとって、根本的に、お母さんのことは別に大切じゃないし、彼氏のことも別に大切じゃないんじゃないの。なんかそんな感じがする」
「……」
「別に仕事のことが大切ってわけでもなさそうだし」
「あの、わたし、母には母のキモチがあって、それもわかるんです。彼氏も今、わたしのことを大切にしようってキモチを持ってくれていて、それもよくわかるつもりなんです。だから、裏切りたくないってキモチがあって」
「うん。だからさ。わかるんだけど」
「はい」
「その、母のキモチに応えることとか、あるいはそれを裏切ることとか、どちらにしてもそれって、あなたにとって本当に大切なことなんかね? なんかあまり、そういう感じがしない。彼氏のことにしてもそうだけど」
「はい……」
「大切でないものを大切なふりするのはやめたら?」
「……」
「ひどい言い方で言うと、つまり、あなたがお母さんのキモチに応えるにせよ、裏切るにせよ、それがどっちもゴミみてえだって、言っているような気がする。あなたそう感じているんじゃないの」
「ゴミ……」
「あ」
「はい」
「なんか、あれだ、でっかいソーセージでも注文するか」
「ソーセージですか」
「うん。さしあたり、おれの直感だと、今のあなたにとって、母御さんとか彼氏とかより、マスタードをつけたソーセージのほうが大切な気がする」
「そうなんですか」
「うん。少なくとも、今あなたの口と腹にとって、マスタードつきのソーセージが『どうでもいい』ってことはないな。そんな奴おらんわなあ」
「……はい。うん」
「なにしろマスタードつきのソーセージだからな。これですよ、ダブルサイズにしちまえ。あのーすいませーん!」
「なんだか、おなかすいてきました」
「な。あなたはあなたにとって本当に大切なことをしなきゃ。あなたにとって一番大切なのは、第一におれでしょ、第二にマスタードつきのソーセージ、後は何、第三とかもうその後はなんでもいいだろ。『大切』ってのは、もっと実感のあるヤツだからな。……あ」
「?」
「突然だが、握手しよっか」
「握手ですか? 今?」
「もちろん。ほい」
「あ、はい」
(握手。彼女はよくわからないが、笑う)
「ソーセージ、食いたいだろ」
「はい。食べたいです。あの」
「ん?」
「ポテトサラダも頼んでいいですか」
「なんだあオイ。いいよいいよ、頼もうよ。すいませーん!」
「なんかほんとに、おなかすいてきた……」
「やっぱり全然別じゃないか、あなたにとって大切なことは」
「そうかもしれません」
「それならそれで、母御さんを大切にするより、ソーセージを大切にしたらいいし、夜中にキスするのも、彼氏じゃなくてポテトサラダにキスしたほうがいいよ」
「あはは」
「いや、割と冗談ではなくな」
「そうかもしれない」
「よーし、じゃあおれは、あなたにソーセージを食わせ続ける恋人として、これからもあなたのことを支えよう」
「ほんとですか」
「ああ、おれのこと忘れるなよ。おれのこととソーセージのことを忘れるな。こんな実物のシアワセを忘れたらいかん」
「はい」
「あといつか、ポテトサラダ作って食わせてね」
「え? わたしがですか。はい。あはは、でも上手じゃないですよ」
「だろうな。たぶんおれのほうが上手い」
「あっ、それってひどくないですか」
しばらくして、ソーセージとポテトサラダを待っている間、彼女の首は九十度下を向き、黙り込んでいた。次第に鼻水をすする音がして、ポタポタと涙をこぼし始めた。
僕にはそれが自然なことに見えるので、何もどうすることもなく、放ったらかしにしておく。ウェイターにナプキンを頼むだけだ。イケメンのウェイターは気が利いていて、泣いている女の席にこそ足取りが軽快だ。
「どうしたの」とは僕は訊かない。
僕には彼女が、「どうもしていない」としか見えない。
どういう事情で泣いているのか。
ちょこっと話を聞いたとはいえ、彼女の「事情」なんて細かくは知りようがない。
話したいことがあれば彼女のほうから話すだろう。
僕は彼女の胴体を見ているだけだ。
初めから、彼女が話す一連のことについて、「胸に響く」という感触はなかった。
だから、大切じゃないんでしょ、と。
キモチがどうあれ、胴体にとって大切なものはないというのは、声を聴いてわかってしまう。
胴体から聴こえてくるものはまったく別だ。
「寒いよ、なんかブルブルするよ」という声。
「ちゃんとごはん食べれてない、食べるということがわからんくなった」という声。
「遊んでないよ、笑いたい、さびしい」という声。
僕から見ると、なぜこの胴体の持ち主が、母親や彼氏のことを話しているのか、「意味がわからん」と見える。
だから、「全然別だわな」と。
彼女はやがて泣き止んで、「いただきます」と手を合わせて、ソーセージを食べ始める。そして話し出す。
「あの、母のことなんですけど」
「はい。クソババアの話の続きね」
「クソババア? ですか」
「クソババアじゃなかったっけ。胸糞の悪いクソババア。おれは確かそう聞いた気がしたが」
「そんなこと言ってないですよ!」
「まあいいじゃない。それで、クソババアがどうした」
「あの、わたし正直、母のこと好きじゃないんです」
「そりゃそうでしょ」
「そうなんですか」
「地球上、いや人類史上か、クソババアのことが好きな人は誰一人いないよ」
「そっか。そうですよね。クソババアですもんね、よく考えたら」
「うん」
「そっかー。あー、クソババアなんだ。確かにお母さん、あんまり周りにも好かれてないですね」
こうして話し、彼女は後になってレポートをくれた。
「あのとき、クソババアって言ってくれたじゃないですか。胸糞が悪い、って。わたし、あれですごく救われたんです」
「そうなの? なんか人の母御さんを悪く言ってごめんね」
「いいんです。そうじゃなくて、あれはやっぱり胸糞の悪いクソババアなんですよ。しょうがない」
「お、ソーセージがだいぶ効いたようだな笑」
「はい!笑」
このとき、彼女がレポートしてくれる、「救われた」とは何のことを指しているか。
胴体には「通じ合う」という能力がある。僕が彼女と話したとき、彼女の胴体に流れているものが、同時に僕の胴体にも映りこんでいた。
僕はそこで「胸糞の悪いクソババア」と言ったのだが、これは単なる「僕」のキモチや意見ではない。
僕と彼女はそのとき、孤立した胴体の二人ではないのだから、切り離された「彼女」「僕」などは存在していない。
だからこれはむしろ、彼女の胴体の内にある声、彼女の「こころ」の声を、僕が代弁したに過ぎないのだ。
彼女のキモチがどうあれ、彼女の胴体は胴体なのであって、これはどうしようもない。
「胸糞が悪い」という状態は、彼女のキモチに関係なく、彼女の胴体に起こる事象なので、どうしようもない。
僕は「こころがわかる人間」だから、彼女の胸に詰まる糞を見ていた。
「胸糞が悪い」という胴体の状態が、僕の胸に映りこんでいた。
胸糞という、クソの感じを引き継いで言葉にすれば、彼女はつまり「クソババア」のことを話していることになる。
彼女の「キモチ」は、「お母さん」のことを話しているが、胴体に接続して言い直せば、それは「胸糞の悪いクソババア」のことを話していることになる。
彼女は現代を生きるまっとうな女性として、ふだんから「キモチ」をポジティブに上書きして生きている。その中で「クソババア」はネガティブな単語なので彼女のやり方には採用されないし、そもそも彼女は道徳心や常識および恐怖心からそのような単語を発想もしないだろう。
「なんであれ、わたしをここまで育ててくれた、恩のある母なんだから」。彼女はそうして、「キモチ」をポジティブに上書きし、塗り重ねで胴体を固めていっていた。彼女の胴体はもう身動きが取れなり、「こころ」の声は聴きとられなくなっている。
そこに僕が彼女の「こころ」を受けて「クソババア」を代弁した。そうすると彼女はそのとき、もうポジティブなキモチの上書きをしなくて済む。もう「クソババア」と言ってしまったのだから。それで、固めていた胴体の力を手放すことができた。呼吸が楽になり、食欲が出てきて、ぐっすり眠れるようになった。胸糞は引き続き悪いながら、動き回れるようになった。その急激な解放のよろこびについて、彼女は「救われた」と報告してくれたということだ。そうして僕と彼女は、なんであれその後も「キモチ」とは別のレベルで友人でいられる。
一方、このことの「失敗例」を挙げてみよう。
「きみさあ、それはね。うーん、それはきっと、きみがまだ若すぎるんだと思うよ。親の心子知らず、って昔から言うじゃない? そういうのを、きちんと考える時期に、年齢的に差し掛かっているんじゃないかな。なんかさ、そういった家族の、わずらわしさも踏み越えて、全部受け止めて進むってことが、生きるってことなんじゃないかな。たぶん家族ってそういうものだよ。逃げちゃいけない。何もさ、そんなに暗くなることないと思うよ? だって世の中にはさ、お父さんもお母さんもいないっていう人もいるわけじゃない? そういう人と比べたら、やっぱり自分を育ててくれた親があるだけでも、自分はラッキーだったなって思えるし、そう思うべきだと思うんだよね。おれも若いころは親といろいろあったけど、今になって、全てありがたいことだったなーって思うもん。だからちゃんとさ、お母さんのキモチのことわかってあげて、堂々と親孝行だってしてあげたらいいと思うよ。そのほうが後になって絶対良かった! って思うから。こういうことも含めて、全部自分が前に進むチャンスなんだって捉えていけば、そのほうが絶対いいことになるはずだしね。彼氏さんにも、ちゃんと話してわかってもらったほうがいいよ。もちろん、押し付けないで、まずは相手のリアクションを見るつもりでさ。そういうことってどこででもあるじゃん」
「そっか……そうですよね。うん。おっしゃることわかります。わたしがんばりますね」
「ね、お互い色々あるけど、がんばっていこう!」
「なんか、恥ずかしいです。すごい色んなこと話しちゃった。ごめんなさい、こんな身の上話を一方的にして」
「いいじゃんいいじゃん。そんな水臭いこと言わないで。励まし合うのって大事よ? 誰も一人で生きてないんだから」
「はい!」
「特にあなたみたいなかわいい子となら、おれ話できるだけでうれしいもんね!」
「えっ。あ、ほんとですか。ありがとうございます。お上手ですね、ついよろこんじゃいますよ」
ポジティブな「キモチ」で上書きを試みる。ただそれだけが「正しいこと」なのだと信じられている。聞かされる側も前もってそれが「正しいこと」だと信じているので、キモチは加速度的に上書きされていく。一方、ますます胴体はカチカチに固まっていってしまう。塗り重ねられていく「キモチ」の上書き。胴体がカチカチになり、「孤立した胴体の群れ」の、そのそれぞれの孤立度はさらに進行してしまう。
このことはまず百パーセント気づかれない。胴体が固まり、より切り離されたなどと、知識と感覚の訓練なしに誰も気づくわけがない。
それどころか十中八九、(強調して言わせてもらう)、<<「距離が近くなった」と感じてしまう>>ものだ!
二人はどこか、いわゆる「深い話」をしたキモチになっている。その中で「すごい、わたしを前向きなキモチにしてくれた」という感謝がある。ずいぶん自己開示をしてしまったという照れくささもお互いにある。そこで二人はごく当たり前に、「距離が近くなった」と感じるものだ。
ポジティブなキモチの上書きをして助けてくれた彼。その彼の行為と言動は、いわゆる「いい人」に見える。彼女のキモチを理解しつつ、母御さんのキモチも察するという形で、彼の応援は実にまっとうだった。それと比較すれば、人の母御様に向けて「クソババア」と言い放った僕などはネガティブな下賤の極みに見える。彼女のキモチも理解せず、母御さんのキモチも察しようとしない。そんな者に「距離が近い」とは感じられない。
すでにこうして二つのやり方を並べると、おそらく慎重な読み手であるあなたでさえ、ふと「あれ? これって結局どっちが正しいの?」と思えておかしくない。
それは、すでにここに示されているやりとりだけで、あなたの「キモチ」もこれら「キモチの上書き主義」のやり方へ吸い込まれているということだ。
これについて、どちらが正しいとか偉いとかいうことはないが、ただキモチの上書きを続けたとしても、彼女は食事や睡眠を恢復することはできない。そして、ポジティブなキモチになっているから忘れているだけで、「キモチ」は変動する、次はかならずネガティブなキモチでの再上書きが起こってしまうのだ。
このことにはさらに続きがある。「上書き」を勧めてきた男性と彼女とのやりとりの続きを示す。二人の帰り際、路上にて。二人は「距離が近くなった」と感じて、少し照れ笑いをしている。
「今日は、○○さんに話を聞いてもらえて、本当によかったです」
「いいよ、気にしなくて。これからも何かあったらさ、遠慮なく相談して」
「はい、ありがとうございます」
「ところでさ、あの」
「はい?」
「彼氏さんいるって聞いたけど、ちょっとそれとは別口でさ。今度、ちょっと二人で飲みに行かない? 今日さ、なんだかんだ楽しかったし。金曜の夜、付き合ってよ。そういうのまずいっけ?」
「え?」
「いいとこ知ってんだ、おれ。知り合いのやっているバーで、おれ顔が利くし。まあ来たらわかるよ。絶対気に入ってくれると思うよ」
「え、あの……」
「いいじゃんいいじゃん。話の続きも聞いてあげたいし、せっかくこうして打ち解けられたんだしさ。あんま、難しく考えないで。楽しくしようよ」
「はあ……」
「だってさあ、せっかくこうして縁があったのに、これだけじゃ物足りないじゃない? こんなに話せる関係ってそうそうないし。もっとこういうのつなげていこうよ」
後日彼女は、迷いつつも、「お世話になっているし……」という負い目から、彼のデートの呼び出しに応じた。先日のお礼ということで、小さなお菓子を手土産に持参して。
けれどもその夜、彼は彼女に対していやに馴れ馴れしく、酒に酔ったのか、隣り合って座る彼女の身体にやたらと触れてくる。彼は強引に彼女にも強い酒を飲ませようとする。その勢いに、バーテンダーも打ち合わせ済みのグルのような加勢をしてくるところがあった。彼女は徐々に危険を感じ、飲む量を抑えたが、強引な引き留め工作を振り切れず、時刻は終電を過ぎてしまった。彼女は酒が合わなかったのか、かなり重い体調の悪さも感じ始めていた。やや吐き気も近づいてきている。
帰り道、彼女は「タクシーで帰りますね」と言う。彼は「そっかあ」と言い、
「まあでも、このへんタクシーこないからさ、駅前まで歩こ?」
と言う。彼は笑っているので、彼女は半信半疑ながら、「単にご機嫌になっているだけかしら」とも思った。もちろん一人で歩かされるよりはありがたい。体調の悪さもある。
しかし駅前までの道中、彼は急に彼女の腕を掴み、物陰で力ずくで抱きしめにかかった。
「あの、ちょっと、すいません。ごめんなさい、それはちょっと」
「あのさ、ちょっと聞いて。おれのキモチわかって」
「あの、ごめんなさい。わたしそういうつもりないです」
「そんな、邪険にしないでよ。おれふざけてないよ。そんなさ、こんなかわいいカラダずっと目の前にあったら、おれ何も思わないわけないじゃん? けっこう特別なキモチだよこれ。おれオトコなんだから、オトコのキモチわかってよ」
酒臭い息と声に、思わずゾッと寒気が走る。
「いや、ちょっと。○○さん、飲みすぎですよ」
彼女の腰回りを撫でまわす男の手。
「あの。ちょっと。ちょっと、本当にいいかげんにしてください!」
彼女は身体をよじって男の腕を振り切った。髪が乱れ、息が切れ、どこかにぶつけたのか、口の端に血の味がした。
「いやいや、あのさあ。違う違う。違うって。なんだよこれ。なあちょっと聞いて」
急に声が黒いドスを帯びる。声に苛立った威圧感が潜んでいる。
「なんかほんと、あれなのかな。本当に、色々わからないってことなの? あのさ、これ別に、無理やりとかそんなんじゃないよ。うーん、なんかこういうのがあれか、親とうまくいかないのとも関係してると思うよ。マジな話」
彼女は目の前に立つ男が、急に恐ろしくて立ちすくんでしまう。何がおそろしいのかはよくわからず、ただ怖い。
「おーい。いいから、ちょっとだけ言うとおりにしてみてよ。悪いことにはしないからさ。マジで」
「……」
「そんな、別に何もおかしいことじゃないじゃん? 考えてみてよ。話聞いてあげたし、なんだかんだオゴったんだし、ただそれで口説いたってだけで。それだけでこの仕打ちはオカシイって思わない?」
(恐怖は恫喝を戦法とする。恫喝のためならホラ話もてんこもりだ)
「あの、ほんとごめんなさい。お世話になっているのはわかっています。ただ、まったくそういうつもりじゃなかったんで。それに彼氏いるんで。あの、誤解させたなら謝ります。ごめんなさい」
「んー? まあいいよ、残念だけどしょうがないね。まあ仲直りしよう。手つないで歩いていい? それぐらいはいいでしょ。おれさあ、そんな悪いことするつもりで口説いたんじゃないんだけどなあ」
彼女はその後、「無事」帰宅してシャワーを浴びるのだが、概念上は「無事」であっても、実際の胴体の機能においてはそうではない。彼女はこのとき全身で怯えている。怯えているということ、および、何に怯えているかについて、彼女は本当のところを感得はできない。
携帯電話を見ると、母親からの留守電が二件ある。想像すると、このときは母親の声が異様におそろしく思えて録音を再生する気になれない。例の「ぶっちゃけ」の彼女に電話でもして気を紛らわせようかとも思った。しかし彼女の声も、今思い出すぶんには声およびその顔も何か異物めいてゾッと恐怖に感じられる。彼氏に話したら……彼氏はまず別の男と飲みに行ったことを責めるだろう。それに彼氏は早寝のタイプだからたぶん今はもう寝ている。寝ているところを起こしたら彼は機嫌が悪い。彼氏はいつも前向きで明るいタイプで、それが尊敬できると彼女は思ったのだが、このときはなぜか彼のことを思い出しても「怖い」と感じられる。あの人の肌がたまに角度によってか、ひどい土気色に見えるときがある、あれはいったい何なんだろう?
このとき彼女は、まだ転落には距離があるとはいえ、恐慌の手前の淵にいる。
「孤立した胴体」が接触すると、それだけで胴体・こころは傷つくのだ。氷に冷やされてビクッとしたように傷つく。冷たい声、冷たい顔。気づかないが実はいちいち傷を負ってしまう。それはたとえ血縁であってもそうだし、友人であってもそうだ。彼氏彼女であっても、夫婦であってさえも、「接触するだけで傷つく」ということは起こってしまう。プレゼントでさえ人を傷つけてしまうし、「僕は君を傷つけない」という宣言さえ、その声の冷たさによって人を傷つけてしまう。
壊滅的な話だが、それが科学的事実なのだからしょうがない。「キモチ」で接触するということは、「胴体・こころ」を傷つけるということだ。
特にこの場合、「人のいない夜道で男性に力ずくで身体に触れられた」ということは、彼女の胴体・こころに強烈な傷をつけている。彼女は「怖い」というキモチだと自分では思っているが、その真相、胴体・こころに傷を負って、その気の流れが激しく「怖気づいている」ということまでは知りえない。本能的にそれを癒すために真っ先にシャワーを浴びているのだが、それだけで治癒する類ではない。
女性の身体は、孤立した胴体の男と隣り合って座るだけでダメージを受けるし、まして隣り合って身体に触られ、そのままお酒を飲まされるなど一気に体調を崩すダメージになりうる。彼女自身、「上塗り主義」で胴体を固めてきているからダメージに自覚がないだけだ。ホステス業のように、初めからそのつもりで武装した構えで引き受ける場合はまだしも、無防備に、かつ「距離が近くなった」と誤って思い込んだまま、身体に触れられてしかも飲酒などしたら、胴体は深刻なダメージを受けるのが当たり前だ。胴体の状態によっては、スプーン一杯の酒でも人は悪酔いして嘔吐することがある。彼女はそのように、自分が何をガマンしているか気づかず、ダメージに自覚のないまま、さらに夜道で襲い掛かられたことになる。
彼女は自分の胴体・こころに起こっていることを知らない。ただとにかく怖くて落ち着かない。吐き気があるが、無理に吐くと「何か気がヘンになってしまいそう」という予感があって思いとどまっている。飲んだ酒量自体はさほどでもなかったはずだった。
テレビをつけると、ケバケバしい音量と映像。テロップと共に、にぎやかな何かか表示された。一瞬怯むが、やや落ち着く。この場合はテレビがとても有効だ。何であれ、ひとまず「自分の身に起こったこと」を忘れられる。気を紛らわすことができる。彼女は日常のキモチを取り戻していった。彼女はなんとか、自分で入れたあたたかいミルクティーを飲むことができ、その後コーンスープをあたためて飲むこともできた。吐き気は遠ざかったようだった。
「あー、怖かった」
彼女はようやく人心地つく。まだ母親の留守電を聞く気にはなれないが。
そしてここで再び、彼女は習慣として、ぼんやりとながら、「前向き」なキモチを起こそうとする。今のキモチのままでは、とても眠れそうにないから、ポジティブなキモチで上書きしようとする。
それはこの時代を生きる彼女の習慣だ。
「危なかった。でもなんだかんだ、無事で帰ってこられてよかった」
「やっぱり、いい人はいい人でも、男性なんだから、気をつけないと。わたしがうかつだった」
「でももう、たぶん二度としないから大丈夫」
「ちょっと目が覚めたというか、甘えてちゃだめだわ。いいかげん、自分のことは自分で決めていかないと」
「何してんだろわたし。彼氏いるのに。でも、だからこそ、ちゃんと帰ってこられて本当によかった」
「何事も、経験だなー」
彼女はチャット・メッセージを「ぶっちゃけ」の友人に送る。
「色々あったけど、ゼッタイ幸せになってやろうと思う今日このごろ。そっちどうしてる?」
返信。
「こちら溜めこんだアニメ視聴中〜 ○○ちゃんタフだね〜幸せになっちゃえ。応援してまーす。なおこちらはメンタルがぐずぐずの模様w」
「最近アニメ観てるよね。なんかうらやましいかも。なんかオススメある? わたしも趣味増やしたい」
「おっ、来ちゃう? コッチの世界来ちゃう?」
「いやいやw そこはまだ見学ということでヨロシクw」
「人生、自分のやりたいことやらないとマジ損だよー(真顔)」
「そうだね、最近それはほんとにそう思うわ(真顔)」
(よーし、寝よ!)
こうして、まったく気づかれようのない手続きで、「キモチの上書き」が繰り返されていく。
この時点ですでに、僕が先に示した「クソババア」などという声は、完全に説得力を失うように感じられるはずだ。それはここで一連の話を傍聴するわれわれが、彼女と一緒に「キモチ主義」のやり方にますます吸い込まれているから。今このときの彼女に「クソババア」という語りかけはまったく不必要に思える。キモチの上書きに「成功」したことで、物事は解決したように見えてしまう。
だがそれは表面上のことに過ぎない。「キモチ」が上書きされただけで、胴体・こころはさらにカチカチに固められ、その内側にずっと傷を残している。
彼女の胴体の孤立化はさらに進んだ。
彼女はいつの日か、彼氏と抱き合おうとするとき、なぜだかわからない衝動で、急にベッドの上で「ぶっ」と吹き出してしまう。「ちょっと待って」と彼を制止するのが間に合わず、「ぶっ」と吹き出してしまった。急に慌てた様子で、彼女はそのまま笑い出した。お腹が引き攣った、というような笑い方。彼女は「やばい、ちょーウケる」と言いそうになるところ、かろうじて節度としてこらえた。
「何? どうしたの」
「いや、なんでもない。ヒヒ」
「なんで笑ってるの」
「いや、なっんか、上に乗っかられるのが、大迫力! って思っちゃって。クッヒ」
「……ふーん」
彼女は何かに憑りつかれたように、ケタケタケタ、と笑う。笑うことをやめられない。
胴体・こころに刻まれたかつての傷と恐怖の蓄積が、彼女の内側の「気」をヘンにしているのだ。
傷つけられた胴体は、二度と同じことで傷つけられまいとする。「こころ」の防衛をする。そのために、胴体の遮断をする。それによって、胴体の孤立化が急激に、「決定的」になる。
遮断された胴体、完全に孤立化した胴体が、ベッドの上で裸で迫り合うことに、「大迫力!」の印象を覚える。突然の「気変わり」。情緒が異様な方向へ痙攣して笑いはじめる。過去に刻まれた痛みとその恐怖が、深くありながら同時にブロックもされているため、「気」はヘンなところに流れ込む。その結果、急に引きつって笑い始めるという現象が起きているのだ。
彼女の前で、彼氏は彼女を愛そうとして、勃起したペニスを持て余しているのだが、彼女にとってはそのことさえ「おかしい」。ケタケタケタ!
「あのさ」
「はい、なに」
「そんなさ、何なの? こんなときに急に笑い出して、オトコに対する侮辱にならないと思っているわけ?」
「あーいや、ごめん。なんかそんなつもりじゃなくて」
彼女はいっそにこやかに、彼が落ち込んでいるのを見る。「彼を傷つけちゃった」。まずい状況だとわかってはいるのだが、そのことがどうにも自分の胸にこない。それどころか、何か愉快でたまらない感触があり、顔がほころぶのをなんとか食い止めているぐらいだ。なぜか「罪悪感」がなく、状況を統括している「勝者」の心地、「高みの見物」の心地がある。
彼を慰めるふうに、肩をトン・トンと叩いたが、その瞬間、その手はバシッと打ち払われた。彼女はそれについて、なぜかまたにこやかなキモチになり、「なるほどねえ」と思う。
彼が、ペニスさえ丸出しのまま、胴体・こころを傷つけられているのに、彼女の胴体は遮断されているから、「傷つけている」ということが感じ取られないのだ。孤立した胴体として、「こころに何の痛痒も覚えない」という状態にある。傷つけているという、認識はあるのだが、傷つけているという感触がない。「ふーん」という、見物客の心地。
それどころか、無意識下で、かつて自分が胴体・こころに傷つけられたことについて、男の胴体へ「報復」さえしている。その報復が成功していることに、彼女は快感を覚えているのだ。それによって彼女の中には遠くに、
(だって同じじゃん!)
という笑ったままの意味不明の声が響いている。その声は笑っているが攻撃的だ。もちろん彼女はその声の存在になど気づかないし、気づいたとしてもそれが何を意味しているのかを捉えることは到底できない。何が「同じ」なのか……
「おれ、もう寝るわ」
「そう? なんかごめんね。じゃ、わたし帰るね」
「はーい」
彼女は帰宅してから、「ぶっちゃけ」の友人にチャットを送信する。彼女はどこかしら、痙攣したような愉快さが抜けきらずにいる。
「なんかさあー。男の人って、なんであんなにセックスに必死なの? そんなにせっくすって必要ですか!!! と言いたい!!! なんかもう、根本的に違うって思うよねw」
「あーわかる。わかるわーそれwww とはいえわたくしも、生理前だけはエロエロでしてよ」
「なんだそりゃw うわ想像したくないwww」
「えーひどくなーい」
やがて彼女は彼氏と、この場合おそらく「自然消滅」する。彼は侮辱されたままだし、彼女は彼を侮辱したことを知ってはいるが、それについて痛痒を覚えないので、「ごめんなさい」とは思えない。彼は深く傷ついており、彼女はただ「ふーん」「まあいっか」と思えるのみだ。結果的にその後は「放ったらかし」になる。
あるとき彼女は、鞄に入れたまま、彼のペンを借りっぱなしになっていることに気づく。そのことを電話で連絡しようと思った。ところが電話をコールするとすぐに切断され、着信拒否されていることがわかった。「ふーん」と彼女は微笑んだ。何の微笑みなのか、彼女自身にもわからない。「ま、いっか」。
「傷ついたんでしょうねえ」
認識と愉快なキモチがこみあげる。
彼女は自分が強くなったのかなとも思う。いつからか、「メンタル」が大きく変わっている。「基本的に、何事にもヘッチャラだしw」。最近は母親のことも、うっとうしいけれど、あまり気にならなくなった。「そんなもう、ガキの年齢じゃないしなあ」「やることやるでしょ」。彼女の使う言葉、声、表情は、どこか過去にはないドギツさを持ち始めている。
われわれは今、「孤立した胴体の群れ」の中を生きている。その中で、それぞれ孤立した胴体が、それぞれの「キモチ」を振り回している。
孤立した胴体は、どう工夫しても、関わる人の胴体・こころを傷つけてしまう。そして胴体・こころが傷つけられたとき、「傷つけている」「傷つけられている」とは誰も気づかない。
「は? ごくごくフツーにしてるじゃん?」と思っている。
「あいつとはスゲー距離感近いから」と思っている。
ドギツい顔、ドギツい声、ドギツい言葉、ドギツいキモチ。
今人々が注目するのは、そのときに起こるそれぞれの「キモチ」だけだ。胴体・こころが傷つけられたときに起こるネガティブな「キモチ」がある。その「キモチ」のほうに意識がいく。
「なんか最近、病んでるわw」「誰か、ひまな人絡んで〜」。
この、生きるのに不利なネガティブな「キモチ」を、ポジティブな「キモチ」で上書きしようと求める。それだけが圧倒的に正しいことだと思われている。
よって、ポジティブな「キモチ」の上書きへ、協力してくれる人を「味方」だと思う。「キモチ」の面で、「距離が近い」と感じられる「味方」が生じる。
「味方」の存在は、そのときとてもありがたく思える。けれども、「上書き」を塗り重ねるたび、胴体はカチカチに固まっていく。胴体の孤立化が進む。
すると、次第にその「味方」同士で、お互いの胴体・こころを傷つけあうことが進行していく。まして「距離が近い」と感じているからには、その傷口は近くから深くへ届いてしまうだろう。
「距離が近い」と感じられる、第一の存在は肉親、身内、家族だ。母親はいつだって、「ママはいつだって○○ちゃんの味方ですからね」と思っているだろうし、子供にそう言い聞かせている場合も少なくない。
先の話に登場する人物のすべては、もともと全員が「味方」だ。誰かを傷つけようという悪意を持った人間は一人もいない。特に母親など、本来娘に最も「距離が近く」、生きる上で最大の「味方」であるはずだった。母親は娘について万事、「それがあなたのためなんだから」と確信して娘と話しているだろう。それが母親の「味方」としてのキモチだ。また彼氏にとって彼女は、裸で抱き合えるだけ「距離の近い」、しかも誓い合った恋人のはずだった。彼女は彼の、いつも前向きで明るいところを「尊敬」していたはずだった。「ぶっちゃけ」の友人と遊びに行くと、いつも帰宅してから「あの子と長時間は疲れるわー」という実感があってソファに倒れこむ。
「味方」ばかりだ、だが胴体実物として通い合っている人は誰もいない。
相互に胴体は孤立している。孤立した胴体の群れだ。
登場人物のすべてが、
「自分のキモチをポジティブにしたい」
と求めている。
そのことで絡み合い、励まし合う。そうして「キモチ」を励まし合うほど、知らないところで胴体は孤立を進行させている。孤立が進行するほど、人は互いに深く傷つけ合いはじめる。それによって、今度はより強いネガティブなキモチが起こるから、また「自分のキモチをポジティブにしたい!」という上書きの求めが起こる。そのたびごとに「強度」を増して。この人間関係の中、もう誰と食事してもおいしくは感じられないし、誰と過ごしてもその後の寝心地は悪くなる。ましてセックスなんて自傷行為の心地になる。すべて「味方」、すべて「距離が近い」人たちの只中にありながら。
次第に「強いよねー」と言われることが増えてくる。「実際自分でもそう思うw」「何もかもに勝てるっていうか、少なくとも負けないって実感があるわw」。
ただ、自分の声や言葉や、顔や発想が、ドギツくなったことには、さすがに自覚がある。
内心、鏡に映った自分の顔、自分の姿、自分の耳に聞こえる自分の声に、どこかとてつもない悲観を覚えている。その悲観を、鏡に映るたびに「ええい!」と掻きむしり、捨てるように殺している。「一人でいるときが一番ウジウジしていていかんな」「何か本格的にカラダ動かすことするか」。ジョギングやヨガやフットサルのサークルに、また「キモチ」をポジティブにしてくれる「味方」を見つけに行くだろう。「味方」に囲まれて鏡に映る自分にはなぜか悲観を覚えない。つい写真に撮って見せびらかしたくなる。付け足されるツイートは、「やばい、意外にジョギングにハマりそうな自分がいるw」。
少なくとも、そこで胴体を見るなどと言い張り、人の母御様を「クソババア」と呼んで憚らない下賤者は、「味方」ではない。ソーセージ。クソババア。なんらのキモチの励ましにもならないだろう。「こころは胴体にある」とかいう標榜はもう、「なにそれw」とどこかへ消し飛んだように見える。
これが状況だ。
それぞれに覚えうる感慨はさておき、今はただわれわれの身の回りで起こっていることを知るべきだ。孤立した胴体の群れが、キモチを振り回し、キモチをネガティブからポジティブに上書きすることだけを正義にしている。上書きが塗り重ねられるたび、胴体はカチカチになってゆき、胴体の孤立度は深まっていく。胴体は孤立、しかしキモチは「距離が近くなった」と思える。「味方」と思える。距離が近いものだから、次に傷つけあう距離もまた深くなる。深く傷つけられてネガティブなキモチ。このキモチをポジティブに上書きする。強く。上書きはドギツさを増し、キモチはネガ・ポジどちらにもドギツくなっていく。「強いよねー」。
だから今われわれの生きる空間は、誰もが強さを求めているようでいながら、実感としてあるのは「不穏」だ。「不穏」だとはわかりつつ、しかし誰も今さらこのキモチの上塗り主義から脱落するわけにはいかないという状況がある。今さら弱みを見せたら見放されてすべてが終わる。だから誰の前でも泣くわけにはいかず、わざわざ僕のような醜男のところにきて溜めこんだものを泣くのだ。
***
「強いキモチ」、それはキモチの「強度」のことだ。ポジティブなキモチも強度を高くしうるし、ネガティブなキモチも強度を高くしうる。決してポジティブなキモチが「強いキモチ」ではない。ポジティブなキモチはせいぜい、生きていくのに「有利」としか言えない。
その、生きていくための「有利」さという一点で見れば、それは少なくともネガティブであるよりは正義かもしれないし、生存競争の観点からは「強い」とも言えるだろう。
ただし、あくまでそれだけだ。
キモチのネガ・ポジの上書き、塗り重ね。このことはやがて一定の「完成」を迎えることがある。いわばそれは「胴体をカチカチにする技術」のようなものだし、「胴体に何も流れなくする技術」「胴体遮断技術」でもある。この胴体をカチカチにするということにも物理的な限度があり、そのカチカチは一定の臨界点に達して、表面上は一種の「完成」を見せることがあるのだ。いわゆるそれが、「ブレないメンタル」の出来上がり。これはキモチ主義者にとってはうらやましい、目指すべきひとつのゴールということになるだろう。このことを名づけるとしたら、「メンタル・ソリッド」と呼ぶのが適切かと思う。「ソリッド」は「固体」のことだ。胴体に「流れる」ものがついに絶えたわけだから、その胴体は完全なソリッドを得たと言える。完全な剛性固体ならブレようもないので「ブレないメンタル」という現在の言われようにもうまく合致するだろう。
このことについて指摘しておくべきことがある。キモチ主義の一定の完成、その「ブレないメンタル」も、やはり「ポジティブなキモチの完成」になるとは限らないということだ。「ネガティブなキモチの完成」に至ることも当然ある。このことは容易に気づかれてよさそうなものだが、今のところ見落とされている感がある。
むしろ、そのネガ・ポジ、陰陽が、入り混じった形でメンタルソリッドが完成するのがほとんどだ。完全にどちらかだけに寄り切ったというケースは実際には少ない。どういうことかというと、メンタルソリッドの実際は、たとえば、
「恋愛とか絶対ウソでしょ」(ネガティブ)
「仕事はマジだよね、誰にとっても」(ポジティブ)
「芸能界とか全部カネに決まっているでしょ」(ネガティブ)
「スポーツ選手が与えてくれる夢って、すごいデカいと思うわ」(ポジティブ)
「芸術とかあんなの自己満でしょ」(ネガティブ)
「母性本能にだけは絶対勝てんと思うわ」(ポジティブ)
という混在によって成り立っている。メンタルソリッドによって、もう胴体に「流れる」ものはないので、たとえば恋愛で「こころ」が生じることはウソだと決定できるし、あるいは仕事がたとえ誰かの「こころ」をひどい虚無に陥らせたとしても、「でも仕事でしょ」という決定を迷いなく持つことができる。それでいわゆる「ブレないメンタル」になる。これがメンタルソリッドの実際だろう。
ここで注目すべきは、「決して自分のデザインしたようにはメンタルソリッドは得られない」という点だ。つまり、たとえば「仕事を絶対のポジティブとして」「ブレないメンタルを獲得したい」と望んでいたとしても、そのネガ・ポジの塗り重ねをしていく先、ついにどちら側へソリッドが完成するかは当人には決められないということだ。初めは「意識高い系」の大学生としてあり、後に社会人としての鋭気に満ちていたものが、いつの間にか「仕事なんかただの奴隷でしかない」(ネガティブ)のほうへついに完成することも当然ある。これはほとんど五分五分に起こる、コイントスのような運次第のことに見える。
「キモチ」のネガ・ポジの塗り重ねによって、やがてメンタルソリッドという完成に到達する。そこに至るまでの道中のうちは、まだ胴体は孤立しながらも、つながり通い合うことを求めてさまよっている。けれどもそこに至り切ったとき、ついに胴体はありとあらゆるつながり・通い合うことを切断する。こうなると彼はもう、ある意味では無敵になり、世界中のどこへ行っても何も変わらず暮らしていくことができるようになる。
胴体の通い合いが零なので、彼はもう何かによって胸を打たれることはなくなり、その代わり何かに胸を痛めるということもなくなる。彼はたとえ美しい女に会釈をされても胸は弾まないし、もし何かしらでその美しい女が傷ついてしまっても胸は痛まない。彼にあるのは彼のキモチだけだ。胸の弾むふり、胸の痛むふりはするのだが、どれだけふりをしても胸そのものがすでに機能を失っている以上、彼にとって「こころ」は体験されない。
そして、この「完成」へ到達した人はすでにまったく少なくないのだ。特に年齢が進むにつれて。さしあたり「特に少数派の話をしているわけではない」ということだけここではお話ししておきたい。それだけで十分であり、それ以上の言及はまるで必要ないと思われるから。
この「メンタルソリッド」への到達があった場合、もはや、ここまで話されてきた「胴体」「こころ」のことは、関係ないのではないか? と言わざるを得ない。ここにおいて、「キモチ」と「こころ」はついに同格に扱われフェアネスが実現される。このことは哲学的に受け止められるよりない。先日話したとおり、――何をもってしても、「こころ」こそが上等だとは言えないし、「こころ」が偉いのだとも言えない、のであるから。
絶滅危惧種は、まだ絶滅していないからこそ保護が叫ばれるべきであって、絶滅してしまったものは、もう放念するよりない。川はその流れている水を枯渇させるべきではないが、もし水が枯渇してしまった場合、そこはもう川ではなくなるのだから、「川を守れ」とは言えなくなる。
ここまで僕が話しているのは、胴体は胴体と向き合うべきだということだ。少なくともそのやり方が「こころ」のやり方としてあるということ。しかしこのとき、ついに先方に胴体が完全に「無い」のだとしたら、そこにはそもそも向き合うべき対象が存在しないことになる。「のれんに腕押し」という場合、まだかろうじてのれんが存在しているが、のれんさえ存在しない「完成」があった場合、その場所での腕押しは徒労が約束されているだろう。このことに名前を与えたくもあるが、不要に剣呑になるので差し控える。
ただその場合、そこに胴体がついに存在しないメンタルソリッドの「完成」があったのならば、あなたはただちにそこに向けて「用事が無い」と確信するべきだ。あなたの胴体は他の愛すべき胴体に用事があり、胴体の存在しないところに用事はない。しばしばそういったところへ生活上の用事がつながっていることもあるけれども……胴体のないところへ胴体で向き合うことはできない。そこに「モノ」があるということは、実在ではあれ、胴体・こころがあるということではない。
それは「他人」だ。あなたは完全な「他人」が存在するということをここで改めて知らねばならない。完全な「他人」。僕もここまでに話してきたことを、その完全な「他人」に向けて話そうとは思わない。話すべきではないのだ。完全な「他人」に向けては、それはそれとしての尊重・尊厳をもって扱うしかない。完全な「他人」のことなのだから、その内部がどうなっているのか? などと知ろうとするのはただのプライバシーの侵害でしかない。完全な「他人」を知れ。そして、完全な「他人」のプライヴェートを、わずかも知ろうとしないことだ。「他人」とはそういうものなのだから。
このことについて、「動き回れ」という忠告を残しておきたい。これも例によって安全装置ということになるけれども。<<胴体のない人間の前に自分の胴体を停めることはない。それは完全な他人だ、動き回れ!>> むしろ自分が活発に発想し活発に動き回ることへのダイナミックな機会だと捉えればいい。胴体のない人間の前に自分の胴体を停めると、底の抜けた暗いインスピレーションに接触してしまう場合がある。これは御大層に見えて、実はなんらの益もないただの損失の塊のようなものだから、初めからそうと知って、動き回るのがよいのだ。それだけで容易にかわしきれる。
目の前に巨大な犬の糞があったとして、その前でわずかでも停まったとき、鼻の奥にツーン! と悪臭がして胸が腐るとしたら、そのことはあなたをわずかでも豊かにするだろうか? それはただの悪趣味に過ぎない。巨大な犬の糞に向けては、ひたすら清掃業者のように気を停めず動き回るべきだ。わざわざ悪臭を嗅ぎ取る清掃業者は優秀ではない。優秀な清掃業者は「汚物」が体験される前にすべての処理のために動き回る。何が処理されたかわからないうちに処理してしまうのがよい清掃業者だ。それは巨大な犬の糞にまみれないからこそよい仕事ぶりだと言える。
「キモチの上書き」が求められる現代、その消費者に向けて、いっそ適切ということになるが、「胴体を希薄にした作品」が流行し始めた。その代表は電子的に音声を合成して作りだされるボーカロイド・ソングなどだろう。質実ともに胴体を具えずに出力される声。これは胴体を具えないぶん、逆に「キモチの上書き」に向けては大きな有利さを持つ。「こころ」の混入が無いので、その歌われるコトバは「キモチ」に向けて純正だ。
その他さまざまなジャンルにおいて、胴体の現れを希薄にしていくブームがある。胴体を希薄にし、代わって顔面とキモチの表示を強くしていく。いくつかのサンプルに当たれば誰でもそのことを次々に見つけうるはずだ。たとえそこに女性の裸体が示されていたとしても、胴体の迫力は入念にそぎ落とされ、あくまで派手な記号としての表示となるよう上手い工夫がほどこされている。たとえば女性の大バストは記号的な大バストとして受け取られるよう作られている。その他、女性の裸体の各部位が入念に、全体として連なって「胴体」とならないように、現代のものは作られている。そのほうが実際のニーズに合うのだろう。自慰を誘うよう作られたアダルト・コンテンツもそのようにして作られ、現代における「欲情」というものが、胴体・こころに起こるものではなく「キモチ」に起こるものだということにうまく適合している。アダルト・コンテンツのほとんどは、狙いすまして「手淫したくなるキモチ」を引き起こすことに、むしろ技術的に洗練されていると言える。女性の場合は、アダルト・コンテンツというよりは、例の「キャー」と叫びたくなるあの「キモチ」こそ、すべてを上書きしてくれる「キモチ」の高まりになるだろうか?
さて、ここまで語りぬいて初めて、われわれは自分の身に起こっていること、および身の回りの状況について、正しく知り、考えることができる。「孤立した胴体の群れ」の中、「キモチ」が様々なことを引き起こしている。「キモチ」を大切にする風潮、および「強いキモチ」を正義とする風潮の中、どういう誤解があり、どうキモチの上書き合戦が進行しているか。「強いキモチ」はポジティブとは限らないし、キモチの上書きは胴体をカチカチにして孤立状態を悪化させている。互いに励まし合い、そのたびに距離は近づいているのに、まさかその味方同士で胴体を傷つけあっているとは気づかれようもない……
僕はここに起こっているすべてのことを、「無限のキモチ」と題したく思う。
それを、できそこないの歌だ、と言い張るのが僕の立場だ。
この状況に、あなた個人がただ全否定で向かっていってもしょうがないことはよくよくわかっている。そんなことを扇動するつもりはまるでないし、ギャーと破滅的な「キモチ」になってほしいわけでもまったくない。
僕はあなたに、このできそこないの歌を生きていってほしくないだけだ。
あなたの胴体は僕の宝物だから。
状況的に、もう無為無策で笑っていられる状況ではなく、どんなに小さな一手でもいいから進めるべきだと感じられる。その一手は、後々になって大きく効いてくるかもしれないから。
そのためにはやはり根本的に正しい知識が必要だろう。
現況はどうか。メンタル・ソリッドはすでにまったく少なくない。「巨大な犬の糞」がいくらでもありうる一方、僕自身が体験するかぎり、若い女性などは特に、まだまだ豊かな胴体・こころを秘めて現在を生きている。「使い方がわからない」と、ずっと秘められたままのようだけれども。壊滅したわけではまったくない。「こころ」はまだそうして、少し触れるだけで思いがけずそのやさしさのまま出てきてくれることがいくらでもあるのだ。
僕はすれ違いにでも触れるそれらを、僕の宝物だと思っている。これは僕の勝手な話だが。
僕はそもそも赤信号で停まっているのではない。
交差側に、僕の宝物が走り抜けていくのをよろこんでいるだけだ。
だから僕はそのときアクセルを踏まない。
「赤信号だけどアクセルが踏みたい」?
僕が踏まなくても、交差側で「僕」が踏んでいる。
僕の宝物がアクセルを踏んでいる。
それは僕が踏んでいるのと同じだ、胴体はつながっている。
[怒りの日、できそこないの歌/了]