No.363 (五日目)怒りの日、交合は女性を傷つけてする
(怒りを以て考えよ。ここにA、B、Cとそれぞれに示された三つの地図がある。ところがこの三つの地図は全て虚偽の情報が描かれている。ここにおいて、それぞれA、B、Cの地図がどのように虚偽であるかを追求することには何の意味もない。たとえば虚偽の地図Aは何の地図と言えるだろうか? 何の地図とも言えるわけがない。東西にも南北にも虚偽が描かれてあるだけのそれはもはや地図でも何でもないのだ。ここでそれぞれAの地図は「軽薄な常識の地図」であり、Bの地図は「意見のふりをした恫喝の地図」、Cの地図は「出来る限り怯えた保全の地図」である。つまり現代においては怒りを以て考えない限り、人々は矢継ぎ早に「常識」で物を言って来、「意見」を言って来、「怯えて」安全策を言って来る。これらそれぞれ早くからそうなってしまった老人の地図をわずかでも参考に取り入れることをしたら、けっきょく本当のところの地図は手に入らないことになる。A、B、Cの地図はアテにならないどころではなくわずかでも参考にすれば道を失う虚偽の情報でしかないのだ。それよりはあなたがあなた自身において、何の情報にも依存せずただ空を見、星を見、風向きを感じるなどして、怒りのまま「わたしの地図」を断じて描くほうがよほど真相の地図たりうる。観察してみれば誰の目にも明らかなとおり、知恵のない者ほど「常識」で物を言い、考えたことのない者ほど「意見」を活発に言い、口汚く言葉が荒んでいる者ほど「怯えて」けっきょくはありふれた安全策を言うのみ。これらはそれぞれ怒りによって吹き飛ばされるにふさわしいものだ。考えてもみよ、あなたの祝福はA、B、Cの三者とどのように手を結ぶことによっても得られてこない。あなたの祝福はただあなたが一定の歓喜に到達したときにしか得られないものだ。A、B、Cの尤もらしい地図は、何の情報も与えてくれないどころか、あなたにわずらわしい時間の無駄をさせる効能しかないのだ。あなたは怒りを以てそのことを正しく捉え、丁重に贈られてきたA、B、Cの地図を決して開封しないまま窓から放り捨てよ。)
ここまで繰り返して「こころは胴体にある」ということを指摘してきた。「こころ」とは「胴体を流れる流れ」であり、その流れているものはおおよそ古風な言い方で「気」と呼んでも差し支えないのだった。そのことは古来から引き継がれてきた(はずの)サイエンスであって、神秘主義やオカルト主義の鼻息を荒くする現実逃避的なものではない。「こころ」とは「胴体の気の流れ」のことであって、これは理解するにも体現するにも骨の折れる一つのサイエンスの体系に過ぎない。そして正当な意味で言われる「こころが傷つく」という事象は、その「胴体の流れ」が切断され失われるということだった。つまり「こころ」とは具体的なものであり精神的なものではない。同様に「こころが傷つく」というのは具体的にその「流れ」が失われるということであって精神的にさいなまれるということではないのだ。ここまでの話において、胴体に流れる気によって感ぜられてくる事象を「こころ」と呼ぶ一方、対比的に精神的といってよい事象については「キモチ」という語を当てることにしてきた。ここまでの話はすべて、「キモチ」を改めて深くから疑い、「こころ」を今重大なものとして復興させようという立場で語られてきている。このことの話がどうしても受け取られづらくなるのは、「こころ」という事象の正体が系として「流れ」に属しているため、静止的概念として話しづらいためだ。「こころ」とは何であるかというそのこと自体、「流れ」の感受性装置である「こころ」によってしか汲み取られないという構造的限界がある。静止的概念の取り扱いばかりに慣れた自我に向けて都合よく受け取りやすく話しうる「流れ→静止」の変換アダプターは存在しない。よっていつまでもこのことは捻じ込むように話し、読み手の側には鵜呑みにしてもらうよりない。今は「こころ」の機能が多くの人において低下しているのだから、「こころ」とは何であるかを直接こころで汲み取ってもらうことは不可能だ。だから「こころとは胴体の流れのこと」と鵜呑みにしてもらうよりない。そして「こころ=胴体の流れ」はなるべく早く復興されるべきだが、そのことは大変むつかしいことだから、たいてい「わかった」「できた」と思えたことは自我による勝手な思い込みでしかないということまで含めて、ここでは鵜呑みにしてもらうよりない。「こころ」のことを大切に思い、「こころ」を十全に持った人間でありたいと思う、その「キモチ」はよくわかるのだが、その凝り固まった(静止的な)「キモチ」を加熱させることがますます人間を「こころ」から遠ざけるのだということに、歯を食いしばってでも留意いただかねばならない。その証拠に僕自身、「こころ」と呼ぶべき具体について感覚を研ぎ澄ませてはいるが、僕の神経のどこを探っても「こころを大切にしたい」という「キモチ」は存在しないことを明言しておく。
今回は男女のする交合について話す。交合は本来、男女が互いにあえて「傷つけあう」という前提の許に営まれる。それはなぜか? という当然の疑問が起こる前に、このこともどうせ鵜呑みにしてもらって進んでもらうよりない。すべてのことが明るみに出るのは当人が「こころ(胴体の流れ)」を恢復させてからのことだ。それまでは鵜呑みにして進んでもらうしかない。交合は男女が敢えて互いのこころを傷つけあうという前提の許で営まれる。だからこそ、と強調されるべきだが、だからこそこのとき男女は互いに愛し合っておらねばならず、やさしくなければならず、また他でもない「こころ」がつながっている関係でなくてはならない。なおなるべく早いうちに卑近な指摘を一つ申し上げておくと、多くの人がけっきょくセックスといってそのモデルを得るのにアダルトビデオを参考にするしか手がかりがない実情があるが、あくまでアダルトビデオ内の女優と男優がしているのは「撮影」であって「セックス」ではないということを指摘しておく。戦争映画が戦争を遂行する兵士の参考にはならないように、アダルトビデオも交合を営もうとする男女の参考にはまったくならない。多くの人は「これはセックスではなくて撮影ですよ」と指摘されると思いがけずハッとさせられるところがあるようだ。
交合は男女が互いに傷つけあうものとして営まれる。といっても、性器の形状上、多くの場合は女性の側においてその「傷つく」ということが言われねばならない。ではなぜ交合はその他のコミュニケーションと違ってそもそも「傷つけあう」ということが前提になるのだろうか。このことに胴体主義の徒は明快に答えうるよう訓練されていなくてはならない。それは「胴体の形状が違うから」だ。男女において、胸や腰、胴体や四肢のほとんどは、それぞれ「男バージョン」「女バージョン」という程度の違いしか持っておらず、本質的には「同じ胴体」を持っていると言いうる。同じ胴体を持っているからこそ、お互いにその胴体(こころ)がつながるということが起こってくるのだ。胴体には「つながる」という性質がある。AさんとBさんが胴体を正しく向き合わせたとき、その胴体には「つながる」という現象が起こるから、たとえばAさんの胴体が「胸が弾む」というこころを起こしたとき、そのことはBさんに転写したかのようにBさんの胸も弾ませる。胴体は胴体を「理解」するのではなく「つながる」。古くから「一心同体」という言い方があるが、これは胴体に「つながる」という性質があることから科学的に起こりうる体験のことを四字熟語で言い表しているに過ぎない。胴体は「こころ」であり、この「こころ」は思いがけず人間ひとりひとりに孤立して存在しておらず、また孤立して機能もしていない。つながると言えばそれは本当につながっているのだから、たとえば直列につながれた豆電球AとBがあった場合、Aが点灯したならBも点灯せざるをえない。正しく胴体が向き合うとき、Aさんのこころが明るく光るとき、Bさんのこころも明るく光らざるを得ないというのは、豆電球二個が直列につながれている場合のことと大差ないのだ。その明るい光の力によって、BさんはAさんに「励まされた」と感じるものだが、それはAさんの善意のキモチによって励まされたのではなくそもそも胴体の機能によって励まされている。その場合尊ばれるべきはそのかけがえのない機能を身をもって向けてくれたAさんの具体的な「こころ」についてだ。
ところが男女の交合においては、例外的に互いに「傷つけあう」という前提に立ち、そのぶん引き起こされるリスクと緊張感を両者は背負わねばならない。なぜ「傷つけあう」ということをせねばならないかというと、性器において両者の胴体はあまりに違うからだ。男性の性器と女性の性器はあまりにも形状が違い、本質的に「違う」と言わざるをえない。よって、胴体には「つながる」という機能があるにしても、性器において男女は互いに「つながらない」という宿命を背負っている。この性器を互いに結合させ、その結合を――といって、結合だけでなく前後に往復もさせるそれを――中心として交合が営まれるとき、むしろ両者はそのときこそ「急にこころが離れる」「急に別個のものとして分かたれる」という感覚を覚えるのだ。よくイメージされているところの、ペニスをヴァギナに挿入して「つながったね」「ひとつになれたね」と感想を言い合うのは、快いイメージではあっても胴体(こころ)のサイエンスとしては誤りだ。むしろ胴体として異なる性器を営みの中心に切り替えるとき、男女は互いに断裂されて互いを改めて「異物」と感じる。男から見て改めて「こいつは女なんだ」と感じられ、女からは改めて「この人は男なんだ」と感じられる。そのときには互いに残酷な感触を覚えるものだ。よってこの交合が正しく営まれる場合、男性が血気盛んになって興奮し有頂天になるということはありえず、正しくは男女とも慎重で荘厳な面持ちを帯びるものだ。何しろ愛する者にこの上ない残酷さとリスクの営為を向けているのであるから。交合はそうして互いに傷つけあう前提で為されるもので、だからこそそのときに互いに「傷つけたくない」という切実なこころが向き合うことにもなる。ここにおいて、アダルトビデオに映し出されているものや空想的エロティシズムにおいて描かれている「エロマンガ」のようなものは当然ながら胴体の事実と符合しない。たいていそういった自慰を誘因するコンテンツにおいては、交合は「男性が血気盛んになって有頂天になる」「女性が快楽に酩酊して嬌声を上げる」ものだと描かれているが、これは都合のよい自慰を誘うためだけのものであって、男女の胴体が本来する交合の迫力とは無縁のものだ。本来の交合が正しく営まれたときの迫力を知った後になら、それら自慰を誘因するメディアの物は正当にそれ限りのものと目に映るようになるだろう。といってもそれは、性交を性感の娯楽として捉えるという愉快さのものとして元々からあるのだから、この話を根拠にそういった自慰誘因のメディアが侮辱されるわけではない。ただそれは、あくまで撮影や描写や演出に過ぎず、得られてくるのは交合そのもののはたらきかけではないということだ。
本来の交合はどのように営まれねばならないか。それはせめて鵜呑みにして保存しやすい知識の形態として言うならは次のように並記されることが最善に思われる。
・普段においては、「同じ胴体を持つもの」として<<互い>>のこころがつながる
・交合においては、「異なる胴体を持つもの」として<<自身>>のこころがつながる
人間の男女はそれぞれ性的には異種でありながら、人間としては同種であろうとして、このような一見すると混乱しかねない構造の中を生かされているのだ。ただこれは正しく見抜かれる場合何らの混乱も複雑さも帯びているわけではない。性器周辺を捨象するならば男女は互いに傷つけあわない同じ胴体(こころ)の持ち主だと言えるし、性器周辺をフォーカスするなら男女は互いに傷つけあう異なる胴体(こころ)の持ち主だと言える。交合はこの二律背反の構造の中で営まれる。この二律背反の構造の中で交合が正しく営まれたとき、結果的に男女は互いに<<胴体(こころ)の完全な肯定を得る>>のだ。このことにはいささか説明を要する。
まず思いがけない見落としがあるのだ。普段においては、ということの話だが、普段においては人は自分が性器の持ち主であることを捨象して暮らしている。性器を丸出しにして暮らしているわけではないし、用便を足すときにも慎重に男女それぞれが互いの性器を目撃しないように隔離されている。普段においてはそうして性器を捨象しているため、男女は互いに同じ胴体(こころ)を持つものとして付き合ってゆくことができる。
けれども視点を思いがけない方向への鋭さに切り替えてみれば、それは男女それぞれが自身において、自身の性器を「否定」して暮らしているということでもある。この否定によって、実は男女は潜在的に自分で自分のこころを傷つけて暮らしているのだ。性器という胴体の一部を否定して暮らしているのであるから。「こころ」とは「胴体の気の流れ」であるなら、普段においては性器周辺への気の流れは否定され切断されており、人は自身のこころを性器周辺について傷つけながら暮らしていると言えるだろう。
つまり先の並記に倣って、「普段」と「交合」を比較するなら、本質的には次のような構造が指摘されうる。
・普段においては、男女は「同じ胴体」であり、そのぶん性器は胴体(こころ)から切り離されて否定されている。
・交合においては、男女は「異なる胴体」であり、そのぶん性器は胴体(こころ)につながって肯定されている。
このことは例えるならば次のような話にすり替えられる。たとえばあなたの部屋の机の中に、一丁の拳銃が隠してあったとする。引き出しを引くとその鋼鉄製の拳銃は弾丸を内包してゴロリとした異物としてあなたの目下に転がり出てくる。あなたが善人として犯罪行為に手を染めないと誓う限り、あなたにとってその拳銃は怖気のする「異物」だ。こんなもの持っていたくない、とおぞましく思う。
けれどもあなたが、決意をもって自己を悪人と決定し、犯罪行為に手を染めようとするとき、その隠された拳銃は異物ではなく途端にあなたの「相棒」になってあなたに肯定され頼もしく馴染む。
そのときはもう拳銃が異物なのではない。
そのときはもう、あなた自身が善人どもにとっての異物になったのだ。
それと同じように、性器は普段下着の中に入念に隠匿され、引きだせばゴロリとやはり「異物」として存在している。だがいったん交合をすると決意したとき、性器は途端にこれからの行為に必要な「相棒」となる。そのぶん自分自身が相手にとっての異物となる。ここにおいて、性的なあなた(交合におけるあなた)を認めるということは、拳銃を携えて犯罪行為に手を染めることを決定した悪人としてのあなたを認めるということに重なってくる。
男女はほとんど同じ胴体を持つようでいながら、普段は隠匿している性器を明らかにしてみると、胴体に異なる部分を持っていることが明らかになる。「異なる性質」を具えている。それでこの男女の関係を「異性」と呼び、そこに起こりうる愛のことを異性愛と呼ぶ。
交合は女性を傷つけてするものだ。「こころ」とはそもそも「胴体の気の流れ」のことであり、男女の胴体のうち性器周辺はそもそも胴体の形状が違う以上、どうしても「つながる」ということが起こりえず互いを傷つけずにいない。だがこのとき代償的に、普段はそれぞれが自己の内で切断していた性器周辺を胴体の全体へつなげて恢復させているのでもある。つまりそのとき男女はそれぞれに分かたれるが、そのぶん男女のそれぞれは性的な個として完成を得ることになる。その完成を与えてくれるのは他でもない目の前にいる互いに傷つけあう異性なのだ。女性のあなたは交合に至るとき、途端に目の前の親しかった人間を失うが、そのぶん自己に切り離されてあったヴァギナを恢復する。あなたは「女」としてヴァギナまで含めた「全身性のこころ」を恢復する。
そしてこのとき、「女」としての「全身性のこころ」を恢復した者が、改めて見て本当に「傷つく」のか? ということなのだ。傷つくということは「胴体の流れが失われる」ということであったはず。ところが今交合に及んで彼女は「女」として「全身性のこころ」を恢復している。これは結果的に「傷ついた」のではなく「恢復した」のではないのか。胴体の形状が異なる以上、性器の接触は原理的に「傷つける」ということしか為し得ないはずが、なぜかその「傷つける」という営為によってむしろ彼女は全胴体を貫く「流れ」を恢復している。このとき、いわば本領発揮に至った「女」が、男性のペニスごときで本当に「傷つく」だろうか?
もちろんこうした理想的な完成形としての交合はふつう得られるものではないし、それは日常的に得られないというよりは通常生涯にわたって一度も得られないのがほとんどだと言われねばならない。現実的にはいっそ「ありえない」と言われて差し支えない類のことだろう。けれども男性がなんとかして女性をその「本領発揮」の高みへ持ち上げようとこころを尽くし、女性も深い信頼の感触を覚えて身もこころも投げ出して与えるとき、そのような完成形としての交合は年齢に関わらず現実に起こることが十分にあるし、特定の関係においてはそれが日夜限りなく繰り返し起こることも十分にある。交合は女性を傷つけてするものだが、そのとき女性は本領を発揮してしまって傷つくはずが「傷つけない(傷つくことが不可能になる)」という高みに至っている。そのことは男性の性器が女性の性器をなぶるたびに起こるので、男女はそれぞれ傷つけあおうとする作業によって互いが傷つくことが不可能になるという本領発揮の高みに至ることを何度も果てしなく確認し合うのだ。
***
最大の誤解は交合についての「女性の合意」に関することだ。女性の合意を得ないまま交合を強いるとそれは不法行為となり重く罰せられる。それは周知のことだが一方で、「女性の合意を得たからといって何なのか?」ということもあるのだ。女性の合意を得たからといって、その後の交合が女性を傷つけないということはまったくない。女性の合意を得た上での交合は不法行為でないというだけで、厳密に捉えれば強姦と合意性交の間に女性のこころの「傷つく/傷つかない」の差はない。むろん合意の上である場合、それは女性の意志が尊重されるという点で女性の「尊厳」が守られるので両者の場合を等分に比較することは初めから成り立たず論外なのは言うまでもないが、けれどもあくまで「胴体」でする営みとして見た場合、合意があったとしても胴体に特別な「追い風」が吹くわけではないのだ。合意の上で、合法的に、強姦と同じように「こころ」を傷つけるということはいくらでもありえてしまう。むしろあくまで不法に姦されたという女性は犯罪被害者であって数的にも主流ではないはずなのだから、ここで話されるべき「セックスで傷ついた女性」というのはすべて、合意の上でしたセックスで「傷ついた」ということなのだ。女性に入念にその合意を確認したとしても、それによって「こころを傷つけていない」ということはまったく言えない。どれだけ入念に同意書に捺印させても、ウデのない医者は手術で患者を傷つけるだろう。
それどころか最も思案すべき、最も悩ましい本質的な例はこうだ。お互いに好きあって求めあい、「キモチ」のままにセックスし合ったのに、なぜかそのことがお互いを傷つけ、どこか「こころ」を不仲にし、女性が「セックス嫌い」になってしまったというようなことがしばしばある。こういったことは実に常態といってよいほどに起こっている。むしろ思い切って言うなら現在のところ、好きあう人がいてその人と複数回寝て、それによって「セックスを愛するようになった」という例はごく少ないとさえ言われねばならない。現在(二〇一六年四月)、インターネット上に表示される画像情報を見る限り、セックスは市井において隆盛し活発化しているかのように見えるが、それは画像を視認する回数が多いというだけでセックスの実情そのものの活発化を意味しない。また日本は性風俗産業が都心から地方の隅々まで行きわたって隆盛している印象があるが、それもセックス産業のことであってセックスそのものの活発化を意味してはいない。道具や演出が増えることも本質的には品質の低下を意味していよう。セックスは現在、身近なイメージになり身近なコンテンツにもなったが、本来のセックスが身近によく得られるものになったわけではない。思春期の人間までもがセックスの獲得に「出会い系」を利用するようになったのは、むしろセックスが身近には手に入らなくなったがゆえに通信販売的に入手せねばならなくなったということなのだ。
少なからぬ数の女性が生まれてから数十年間セックスを自分から遠ざけ、代償的に男性同性愛のマンガ本を性の慰めにあてがっているという現状が実際にある。またここ数年の間に(おそらく2011年〜2016年に亘って顕著に)、これまではセックスに親しんでいた女性が心変わりしてセックスを遠ざけるようになったということも数多く起こっている。それらのことはすべて胴体のレベルでセックスが女性を「傷つけた」ということによって引き起こされている。それでも多くの女性はなお男性のステディを得たり、年齢に応じて婚姻を結んだりもしているが、よくよく掘り起こしてみると現在、そういった女性がその環境の中でただセックスを「させられている」という状態があまりに多くある。これらすべてのことは、具体的な交合における胴体レベルの問題から引き起こされている。そのことは現在も過去も変わらないだろう。セックスは思われているほど胴体の行為としてイージーではなく、思われているほど二人の「キモチ」は互いの交合に奇跡的な作用を及ぼしてはくれない。にもかかわらず、セックスはすでに誰もが知っている身近なイメージのものと捉えられているので、気軽なイベントのように人々はセックスに取り組み、その中で女性のこころ(胴体の流れ)は傷つけられているのだ。セックスは今まるで、品質スキャンダルを起こして信用を失墜した有名企業のロングセラー商品のように、なお身近に知られていながら、こっそりと根深く遠ざけられている。
現在ほとんどの場合、セックスは次のようなイメージで捉えられている。
・男性は女性そのものに対し、またそこに起こる淫猥な「キモチ」に対し、強く「興奮」するほうが「男らしい」のだと捉えられている
・その「興奮」する「キモチ」のまま、「非理性的なセックス」をすることが「性的に純粋な、うらやましい体験」なのだと信じられている
・性器その他の性感帯に激しい刺激を与えて女性の叫喚を引き出すことが「強力なセックス」なのだと信じられている
・その一方でその女性のことを「大切にしたい」と尊重する「キモチ」があるのがやさしさなのだとも思い込まれている
こういうセックス観がほとんど独占的に幅を利かせている状況がある。だがこれらのことは当然ながら胴体の流れだとか「こころ」がつながるだとか、また性器周辺において「胴体が異なる」だとかいった視点にはまるで縁がない。何が「激しい」で何が「やさしい」なのか? またそれは本当によろこべるものなのか? 現在の主流は厳しく言ってしまえば「アダルトビデオと恋愛マンガをつぎはぎしたセックス観」でしかない。そういったセックス観が幅を利かせており、実際にほとんどの人はこのセックス観の範疇で交合しなくてはならない状況だ。
もし胴体(こころ)の感覚に鋭敏な女性がいたならば、そういった現代のセックス観によって作り出される交合を体験した直後、自分の胴体(こころ)にはむしろ「損傷」の手ごたえが残っていることが確認されるはずだ。交合には強制的に性的快感が付きまとうし、また激しい身体動作によってスポーツ後のような達成感や爽快感も伴うのでごまかされやすいのだが、そこに営まれた交合が胴体のレベルでどのようなものであったのかは、交合の直後の感触について次のようなチェックリストを通過させてみるといくらかその実情もごまかされづらくなる。
▼「損傷」の手ごたえが残っていないか(マイナス)
▼筋肉の引きつった感触が身体に残っていないか(マイナス)
▼「終わった」という達成感のような感触がないか(マイナス)
▼眉間に皺が寄っていないか(マイナス)
▼交合の最中、視野狭窄を起こしていなかったか(マイナス)
▽「夢のよう」な時間であったか(プラス)
▽急激に得られた全身性が横たえられ、「動けない」と感じるか(プラス)
▽「明日も交合したい」と思えるか(プラス)
▽眉間の筋肉がほどけているか(プラス)
▽交合の最中、視野が広く開けるようであったか(プラス)
アダルトビデオの「激しい絡み」のシーンが終了した直後、女優はまだ撮影のベッドで寝転んだままだ。男優の射精をもって「絡み」のシーンが劇的に終わるのがほとんどだろうが、その射精が済んだ直後、女優は汗まみれになって寝転んだまま、無言で「終わった」という感想を全身で漏らしているように見える。身体が引きつって痙攣している。まさかアダルトビデオの撮影で交合した女優が、そこに「夢のようだった」という感想を覚えてはいまい。アダルトビデオは消費者に向けて「興奮するセックス」「激しいセックス」を演出して見せる立場のものだ。女優はいかにも男優に「激しくヤラれた」後のものとしてシーンのラストに寝転んでいるし、激しい刺激に力んで緊張した筋肉の余韻に引きつり、まだ刺激の残滓が彼女をしびれさせその眉間には皺が寄っている。そうしていかにも「終わった」という感触でアダルトビデオの「絡み」のシーンは終わるものだ。
これらのすべては、アダルトビデオとしてはプラスの点だったとしても、本来の交合で得られるべきものとしてはマイナス点の集積でしかない。アダルトビデオは「撮影」であってセックスではないのだ。今このアダルトビデオのイメージが人々のする交合のモデルになっており、男性はアダルトビデオのそれをなぞることに憧れているし、女性もまた「あんな激しいセックスがしてみたい」とやはりアダルトビデオのそれに憧れている。だが本来為されるべき交合の仕方はまったく違う。
<<もし本来為されるべき交合が映像に撮られたとしたら、それは始終何の興奮も与えてこなくて、好奇心の観衆はとても観ていられず、次々に眠るだろう>>。それが好色者らの鑑賞に堪える映像になりさらには興奮を催させるものになっているということは、アダルトビデオに映されているのはやはり本来の交合ではないのだ。<<もし本来の交合がそこに映し出されたならば、その映像は興奮とはまるで逆の静謐へ向かおうとする何かであり、それを目撃した者は咄嗟に「これを妨げてはならない」と畏れて息をひそめ、そっと身を引きとるはずだ>>。それこそ交合は女性を傷つけてするものなのだから、保証のない手術室と変わらない。傷つけられることを承知で女は男に身をゆだね、男は慎重かつ容赦ないやり方で静かに女に手を掛けていく。女はその男に眼差しを向けて信頼し、男は女の無謀な信頼を引き受けている。
現実的にはほとんどの場合、若い男はあなたに「激しいセックス」をやりきろうとするだろうし、齢を重ねた男はあなたに「ねちっこいセックス」をやりきろうとするだろう。そのどちらもあなたをひとしきり興奮させ、それぞれの感触においてあなたに叫喚を上げさせるだろうが、彼が射精したあとあなたは目を強く閉じて眉間に皺を寄せており、そのとき「終わった」という感触を得ている。あなたは「すっきりした」と笑いたくなるような感想を覚えているかもしれないが、「明日もしたいか」と言われると「うーん」という心地がする。「うん。でも明日は明日で、別のことしたいな」と答えたくなっている。
このようなとき、思いがけずあなたの「こころ(胴体の流れ)」は損傷しているのだ。
あなたは彼としたセックスに満足を得ている。「すっごくよかった」というのも嘘ではないしお世辞でもない。ただなぜか、このことが積み上がっていくうちに、あなたは徐々に彼のことが欲しいとは感じなくなっていくのだ。彼のほうはあなたにますます執心していくのだが、なぜかあなたは彼のことを「愛しい人」とは思えなくなっていくし、さらには「親しい人」とも感じなくなっていく。そしてあなたの彼に対する態度は自動的に冷淡になってゆき、その冷淡さに傷ついた彼はやがてあなたのことを「冷たい」と責めたてるだろう。だがそうして責めたてられたとき、すでにあなたのキモチは彼のキモチとまったく関係ない状態で成り立っている。「悪いとは思うけど」「正直もうアイツのことはどうでもいいの」と、どこかドギツい感触のある笑い顔が出現する。
そしてそのドギツい笑い顔が出現したとき、
「彼がっていうより、男とか恋愛そのものとかが、ちょっと今はもういいかなって」
「うーん、自分にとって、もっとプラスになる人とだったら付き合いたい。そういう人は好きになれる」
「アニメとかアイドルとかって、別に全然悪くないと思う。だって実際○○クンって超かっこいいじゃん」
「この距離で○○クンと△△クンが見つめ合っているのヤバいよね。ちょっとわかるわ」
という状態に、人格そのものが変化している。
繰り返された交合は、思いがけない急速さで「こころ」を失わせるものだったのだ。胴体にある何かしらの「流れ」。その流れているものが断たれた。流れが失われると、それまでにあった「こころ」が失われる。このことをこころが「傷つく」という。
この場合、強調して注目されるべき点は次のとおりになる。
・彼女は合意の上で彼と交合した
・彼と彼女は互いに好きあい、求めあって交合した(互いに「キモチのまま」だった)
・彼とした交合は彼女を「満足」させた
・にもかかわらず、やがて彼女は彼と疎遠になった
・彼女は積み重ねた交合が自分の「こころ」を失わせたことに<<気づいていない>>
・彼女が失ったのは「彼氏」ではなく「こころ」そのものである
興奮と激しさとねちっこさで営まれる、現代のセックス観における交合は、こころ(胴体の流れ)を傷つけるのだが、そのことに当人は<<気づかない>>のだ。それどころか、十分な満足の中でその損失は起こっていく。しかもそうしてこころが失われたことに気づかないだけではなく、そこで失われたのがこころそのものだとも気づかないのだ。
彼女はこの後、意外に安定した、気楽でしかも充実して感じられる時間を生きていくことになる。なぜなら彼女は「傷つく」ということから隔離されて生きられるようになるからだ。交合は女性を傷つけてするものだから、その交合に及ぶこころそのものを失った以上、「傷つく」という大きな性質を失ったまま彼女は生きていくことになる。傷つくことがありえないまま生きていくのはずいぶん気楽だ。
けれどもやがてわけのわからない失調がやってくる。彼女は「こころ」を大きく失ったまま生きているので、どれだけ自己を啓発して生きることを逞しくしようとしても、どこかで、
(身が入らない)
ということに苦しみ始める。この場合「身」というのはまさに胴体のことだ。胴体(こころ)を失っている以上、何かに「身(胴体)が入る」ということはありえなくなる。いかなる努力も「身が入らない」ということにやがて気づき始める。そうすると、努力のコストと疲労だけが蓄積し、何も自分の「身にならない」ということがむなしくなり、努力が続かなくなる。そうして何にも身が入らず、何も身にならないまま、何も身につけることなしに、迫りくる日々の忙しさだけを過ごしていくことはとても苦しいことだ。彼女はやがて、自分では決して出したくないような声を出し、自分では決してしたくないような顔つきをし、自分では決して陥らないと思っていた強度のヒステリー状態に陥り始める。
「自分が女であることが面倒くさくてしょうがない」
と、自嘲の意味を込めたアルファベットwを付属させてSNS上にツイートし始める。
こころを失ったまま生きている彼女は、特に性愛のこころを失くしたまま男性とやがて婚姻させられる。彼女はその後典型的にセックスを「させられる」という立場を生きていくことになる。やがて懐妊して子が誕生することになるが、なぜか愛すべき自分の子が根本的に愛せない。それは自分の失われた性愛のこころから本来は生まれてきているはずのものだからだ。彼女は「そりゃ夫婦がセックスすれば子供できるでしょ」と捉えているが、彼女は「こころ」において自分の子が「わからない」のだ。彼女は今さらどのようにしても「こころ」で子と接することはできないし、またそのことを鋭敏な子供の胴体(こころ)は受け取って、それに該当する言葉をまだ知らなかったとしても「さびしい」と感じる。そのさびしさからその子は特に耐えがたいような奇声を発し日々叫喚するのだ。その叫喚を平然と無視し、さらには手馴れたやり方で置き去りの懲罰を科すその様は、傍から見るだけですでに人間離れした何かに見えてたじろがされる。
なぜこのようなことになってしまったのか?
そのことは、ずっとさかのぼればやはり、
・交合は女性を傷つけてする
ということが誰にも知られずに来たからに違いない。交合は女性を傷つけてするものだと知られないまま、「キモチ」のままイメージ通りのセックスに「満足」を得てきた。その水面下で胴体が耐えがたく切り刻まれていることを誰も知らなかった。彼女は夫を得て子を得て、また経済的に安定した暮らしも得ているが、今さら、
――傷ついてないか?
と問われたとしても、そのことに向き合って答える余地はすでにないのだ。
こころは胴体にある。人々が安直に思っているようには、人間は自分の胴体に起こることを笑い飛ばせはしない。
***
僕は女性の身体に触れるたび、その胴体(こころ)が今どのような境遇に晒されているかを感じ取っている。超能力者ではないので、直接に何があったのかは当人からの説明を聞くまでは知りようがない。けれども肩や背中に手を触れたり、あるいは触れるまでもなくその胴体を看て取るだけでも、「新しい男ができた?」と言い当てて人を驚かせることがある。それは何もオカルトじみたことではなく、その女性の胴体が何かしらに触れてきた痕跡をその「流れ」の中に残しているのが感じ取られるというだけだ。僕はそのことを今は「こころがわかる人間」と称することにしている。握手しただけでもわかることはいくつもあり、肩や背中に触れただけでも、
(ウワッ)
と内心に思わされることはよくある。ひどくつらい体験をしてきた痕跡が残っており、そのとき彼女の胴体の「流れ」が歪んで凍っているのが明らかに感じ取られる。
あるいは逆に、稀なことではあるが、胴体の流れにどこまでも屈託がなくて、
「おお、すごい!」
と直接言わされることもたまにある。
「こころがわかる人間」として申し上げておくべきことがある。現在(二〇一六年四月)どの女性に触れてもその胴体の「流れ」が強靭に満ちてあると感じられることはほとんどない。僕自身の素直に求めたいところの感触から言うと、今人々の胴体の中に流れている「流れ」は、あったとしても根本的な流量としてひどく少ない。かろうじて保たれている弱くて細い「流れ」しかない。人間の本来はそんなものではない。僕はこのことについて多くの人を励ましたく思う。あなたのこころ(胴体の流れ)は、現在のあなたより何十倍も何百倍も強くなる。もっとこころの炸裂してある日々、振る舞い、動きと、感激があるのだ。そのことは科学的に信用していい。電気抵抗が減れば送電効率が上がるというのと同じ話でしかないから。
今どの女性に触れても、ほとんどの場合その胴体(の流れ)はバラバラだ。身体そのものがバラバラになり、断片化したそれぞれの箇所はかわいそうに気脈を立たれてぐったりと死んでいるように感じられる。身体がそのような状態のとき、力を使わされるのはものすごく疲れることだ。疲れることを無視したとしてもそれは次第に損傷を蓄積してしまう。
このことについても、僕は堂々と励ましておきたい。あなたの身体は本来もっと疲れにくいものだし、あなたの本来は現在のあなたより何十倍も動き回ることができ、力をどれだけ発揮してもそれによって疲れたりはしないものだ。生きることの苦しさとは本来、そういったどんよりした疲労のことを言うのではない。
どのようにすれば、その胴体の「流れ」というようなものは恢復されるのだろうか? それについては説明が非常にしにくい。というのも、「説明」という営為そのものが系として静止的観念を組み立てて与えるものでしかなく、静止系の(正しくは「動静系」の)能力を刺激することはますますあなたの胴体の「流れ」を減殺することになるからだ。「流れ」がどのようにすれば恢復されるかは本来「説明」によってではなく「体験」「感じさせる」ということによって得られるべきだ。そしてその「感じさせる」ということについてはすでに僕は先ほどから出来る限りの手を尽くしている。この文章そのものを「流れ」の機能によって書き起こしているからだ。さしあたり「説明」としてはここまでに書き話したことを鵜呑みにしてもらうしかない。こころは「胴体の流れ」だ。加えてこれも励ましになりうるとして話しておくと、たとえば単に手を振って足を踏み出して「歩く」というような動作でさえ、あなたの胴体に直接触れることが許されるならば、三分と掛からずその一歩目のありようを変えることができる。それは僕の手であなたの胴体に「流れ」を直接教え、励まし、直接「流れ」を足す、ということによって容易に可能だ。別に僕でなくても誰でもできる。「流れ」を手の作業で取り扱える人なら誰でもできることだ。とはいえそのような「術」のようなことを施したからといって、その一歩目があなたの身につくわけではない。一時的に「気をつけられた」というだけでしかない。その一歩目を本当にあなた自身のものにするためには、あなたが自身の胴体をそのことに向けて鍛えるしかない。「術」のようなものを施すのは、そのときの一種の遊びか、もしくは本来の気の流れ方について手がかりとなる模範を一時的に体験させているに過ぎない。理学療法(リハビリ)に実地で触れたことがある人なら、このことが何を言っているか思い当たるところがあるはずだ。
胴体の流れがどのようにしたら恢復するかについては、恢復と捉えるよりは、今から鍛えて新たに獲得するのだと捉えたほうがよい。どうせ同じだ。あなたはこれから「こころ」を獲得する。あなたには今静止的に「思う」という機能ばかりがふんだんにあり、「流れ」として「感じる」というこころをあまりに細小にしか持っていない。
「鍛える」ということは間違っても筋力の強化のことを言うのではない。この誤解はあまりにもよく見る。人間は運動やスポーツで筋力に負荷をかけることで、自らの筋力を「パワーアップ」させることができるが、ここで話されている「鍛える」というのは胴体の「流れ」のことなので筋力のこととは無関係だ。むしろ筋力を鍛えた人ほど胴体(こころ)がバラバラだというケースをよく見る。スポーツと運動をよくこなして身体能力に自信を持っている女性の肩や背中に触れると、たいてい典型的なこころの傷つき方が感じ取られる。筋力の強化に趣味的に傾倒する人は、多くの場合その傷ついた「こころ」を覆い隠すためにその筋力強化に耽っているのだとしばしば感じられる。特に運動とスポーツから得た「肉体美」を誇る女性は触れてみると交合について強い不能感を持っていることがよくある。もちろん当人からそのことについてのアドバイスでも求めてこない限りは僕はそのようなことを節度として言及はしない。今ここでは別で、今ここでは僕が一方的に書き話すだけだ。人間はある種のこころの弱さから筋力強化に耽ることがよくある。ここで話している「鍛える」というのはそれとは違う胴体の「流れ」のことだし、また象徴的に筋力をどのように強化しても粘膜で形作られている男性と女性の性器を「鍛える」というようなことはできない。腰回りの筋肉を鍛えることは交合の器量を高めることにはまったくならない。そうした筋違いの努力に耽る人は、「こころ」のことから逃げたがっているのだ。
交合は女性を傷つけてするものだ。そしてそのことは誰にも指摘されないし、誰にも気づかれないまま進んでいる。「横暴」がはびこっているのだ。よって、僕が女性の肩や背中に触れるとき、男性と深い仲を得た女性のほとんどについて、僕は真っ先にその痛みを覚える。横暴な交合をさせられているので、傷ついているのだ。その感触があまりに悲痛に感じ取られる場合はさすがに、「新しい彼と、大変なんじゃないのか」と訊くこともする。そして彼女が踏みとどまってそのとき勇気と共に言うのはたいてい、「セックスを断ると、彼すごく怒って、怖いから」ということ。恫喝によってセックスを「させられている」のだと僕は痛感する。とはいえそのことについてそのときの僕としては何も言いようがないのは、僕自身がそうして女性を傷つけて交合をする男性の一人に他ならないからだ。僕には何を否定する権利もないし、何を偉そうに言う権利もない。
ただ僕は、ここで「こころがわかる人間」として、本来あるべき交合についてこのように述べておきたい。女性はまず、男性の胸元に飛び込んで、男性に抱きしめられ、またあなたからも抱きしめあうべきだ。そのときあなたは、その男性の胸元に抱きしめられるということが、特殊な心地よさにおいて気持ちよくなくてはならない。胸元で抱きしめあえば、「心臓」とよばれる場所、「こころ」の現象のセンターとして「心」と呼ばれている重要な点が互いに最大限近接している。そのとき、つまり彼の胸の中央点からあなたの胸の中央点に、「流れ」が流れ込んでいるか。そしてその「流れ」はあなたの四肢の隅々まで、いっそ「爽快」と言いたくなるほどの気持ちよさとあたたかさで流れていってくれているか。そのときあなたは、彼のことや自分のこと、異性のことやセックスのことを「思う」ということをしなくていい。ただ胸元から重なりあう胴体に、「流れ」がどうなっているかを感じ取れ。快か不快かを感じ取れ。キモチのあるなしにこだわらず、快か不快かその流れるものを感じ取れ。あなたがそのことに鋭敏になればなるほど、男性の胸元に抱かれたとき、あなたは「この人になら大丈夫」と感じ取る能力に優れていく。まずこのときは「同じ胴体を持つ者」としてつながっている。このつながりがあたたかく感じ取られず、「この人になら大丈夫」とも感じられてこない場合は、その男性と無防備に交合するべきではない。交合は「異なる胴体のつながり」だが、そのことはまず「同じ胴体のつながり」によって支えられるからだ。
「同じ胴体を持つ者」として、胸と胸がつながってあるとき、たかが服を脱いだぐらいで、せっかくのことを見失わないで。服など元々ただの布きれでしかないではないか。そんなものをひっぺがしたぐらいで、あなたの本質は変わらないし、あなたは動揺するべきではない。服をひっぺがした途端、胸と胸(こころとこころ)でつながっていたものが失われてしまうこと、このことを「興奮(excite)」という。またこのexciteにノボせ、頭が熱に中(あた)ることで「熱中」が起こるとき、その熱をマニア(mania)という。これは辞書に記されているとおりのことだ。
「興奮」に陥るとき、それはつまり鍛え方が足りない。「興奮」は本来胴体に保たれているべき「流れ」が顔面・頭部のほうに流入して固まり煮えたぎってしまった状態だ。このときすでに物事を流れとして感じ取ることはできなくなっており、物事を静止的(正しくは動静的)にしか捉えられなくなっている。この状態をマニアック(maniac)という。辞書に記されているとおりmaniacという語には「正気でない」という意味がある。
「興奮」に陥ったとき、つまり「頭に血が上っている」のだ。胴体の気の流れは失われて、あなたの機能の中心はよりにもよってヴァギナから最も遠ざかってしまった。この状態のままヴァギナに触れられるのは危険なのだ。それは「危険」だと知っておくのがいい。その状態のままヴァギナに触られると、強い刺激が送り込まれて性的快感が押し寄せるが、そのとき胴体およびヴァギナ周辺の気の流れは失われているのだから、<<あなたは今ヴァギナがどういう状態で何をされているのかまったくわからないでいる>>。冷えてもわからず、熱を持ってもわからない。このことは危険だ。この状態ではあなたは自分のヴァギナが胴体としてギャーと悲鳴を上げていてもそのことが聴こえないのだ。だから興奮に陥らず、服を脱いだとしても変わらず胸と胸のつながりを保ちつづけること。服を脱ぐと動揺してしまうという場合、むしろさっさと脱いで裸になってから時間をゆっくり使うほうがいい。単純にいっていくら裸だからといって半日も裸でいればさすがに慣れる。本来興奮にさえ陥らなければ裸であるほうが胸と胸の接続は濃密にしやすい。ただし「慣れる」といって、ぼんやり眠くなるようなリラックスはしないほうがいい。それは正確にはリラックスではない。眠くなるのも一種の興奮なのだ。興奮に陥ったとき、自我が投げやりな状態だと急速に眠くなる。これはリラックスでも何でもない。正しく胸と胸がつながっているとき、人間はそんなボサッとした眠さの状態にならない。眠たいまま交合をしてもこころはやはり傷つく。それは一見リラックスして落ち着いた状態に見えるが、性器周辺を含めた胴体に気が流れていないので性器は冷え切っている。性器が冷え切ったまま交合をするとやはり傷つく。服を着て抱きしめあえば眠くないのに、裸で抱きしめあうとすぐに眠くなる人は少なくないので、このことは注意されるべきだ。眠くなるのはまったくリラックスではなく、「投げやりな興奮状態」と捉えていい。
胸と胸がつながったまま、あなたは男の手によってヴァギナを触られる。このときゾクッとする独特の感触がある。このことを性交とか交合とか呼ぶ。ゾクッとする感触があるのはやはり男性と女性がそれぞれ性的に違う胴体を持つからであって、あなたは男の性的胴体を感じ取り始めていると同時に、自身の性的胴体を恢復させ始めてもいる。男性が手馴れている場合、ヴァギナに関わらずあなたの全身をどこでも性的に「ゾクッ」とする感触で触れることができるだろう。男がそのことに手馴れている場合、それはいわば幸いのことなので、ヴァギナ以前に全身をそうして性的な触れ方で触れてもらうのがいい。同じゾクッとするのでも性器周辺はその刺激が強く起こりすぎるからだ。
重要なことはやはり、どこまでつながってあれるかなのだ。<<決して性的な危機感に陶酔するな>>。先に述べたように、男女は普段は「同じ胴体を持つ者同士」でありながら、交合においては急遽「異なる胴体を持つ者同士」になる。つまり交合はあなたとその男性とを「異なる(異性)」として切断する作用を持っている。このときあなたは、急遽切り離され、孤立、孤独、非力、無力、といった自己の感触を覚える。だがここに起こる急激な危機感に決して陶酔するな。ここで陶酔するとセックスそのものがむしろ弱まるからだ。それはあたかも高く飛んだ飛行機ほど大きく墜落できることに似ている。交合が始まってすぐにも危機感に墜落するようでは、墜落の規模は小さくセックスは弱まる。むしろ交合が始まればなお強く胸と胸とで結びつけ。そうすることでようやく、異なる胴体を触れ合わせるということも力強くやりうるようになるから。性器周辺を「陰部」と呼ぶのなら、このとき胸と胸のつながりは「陽部」と呼んで差し支えないだろう。陽部の接続が切れたら陰部のやりあいも終わりだ。陽部のつながりが切れた途端、交合の本質は終わってしまうと捉えていい。陽部の側が強く結びつけば結びつくほど、陰部の側は強く傷つけあうことができる。またそのことは逆転して、陰部で強く傷つけあうほど、陽部で強く結びつきあうということにもなるのだ。
こうして陽部と陰部が拮抗して交合が進むうち、ついに陽部と陰部が同時に極点を迎える。陰部は互いを完全に傷つけ、それぞれを完全に男女という別個のものに切り離す。このとき拮抗して陽部の側は、それぞれを完全につながった一つのものに結び付ける。そうして感覚上、純粋理性では追求できない到達点の体験を得るのだ。女の側は「本領発揮」し、完全に傷つけられているはずが、完全に一つになることで傷つくことを不可能にする。一方で男の側も「本領発揮」して、完全に一つになって傷つけることは不可能なはずが、なお異なる性器をもって女の陰部を傷つけるのだ。女は救われるためには男の胸へ一心同体になるしかなく、男は自立を得るためには女の陰部を傷つけるしかない。その両方が例外的に両立する時間が体験される。
これが本来の交合の在り方だ。そしてこれは男女のそれぞれが「陽部/同じ胴体を持つ者」であり同時に「陰部/異なる胴体を持つ者」でもあることから引き起こされる、やはり胴体(こころ)のサイエンスでしかない。
ありていに言えば、ここに「こころがわかる人間」は、仄聞するところの現代のセックスを、その貧しさにおいて嘆いているのだ。
「交合」を、本来のありように向けてゆくとして、われわれはこれからどのように取り組んでいけばよいだろう? 単純な意味においても、アダルトビデオのイメージに頼るよりはもっと的を射た適切なアドバイスがあるに違いない。そのことについて次の段に述べてゆきたい。
***
1.ヴァギナに触れられたとき「止まるな」
たとえば五体満足という言い方がある。五体とは一般に頭・首・胸・手・足のことを言うらしいが、この中には性器は含まれていない。いうなればこの五体満足は非性的なものであって、交合においてはこれが「六体満足」として得られるかどうかということになる。人間は普段において男女とも等しい「五体」を持っているが交合に出現する「六体目」は男女においてオスメスの差がある。この六体目において胴体の流れが<<止まってはならない>>。五体が六体になるのであるから胴体はむしろ拡大しており、「こころ」とは「胴体の流れ」なのであるから、六体がより大きな満足の「流れ」を得ていなければその後の交合は「こころない」交合になる。そして「こころない」ということおよび胴体の流れが断たれるということが「傷つく」ということなのだった。これによって最も妥当で直接のアドバイスは、
・ヴァギナに触れられたとき「止まるな」
ということになる。
ヴァギナに触れられたとき止まってしまうというのはどういう現象だろうか。そのことはたとえば満員電車で不埒な痴漢に出くわした時にありうる。突如の痴漢の被害に遭ったとき、女性はその不快さにギョッとして身体を凍りつかせるだろう。痴漢に出くわしたときの反応は当然そのようになる。この不毛な性犯罪はむろん交合ではない。ところがなぜか男女とも、こういった痴漢の情景に興味津々で、ともすれば痴漢の情景が「大好き」でさえある。もちろんそれは、自分がその被害に遭いたいということではまったくないが、その被害の厭らしさも含めて淫猥なキモチが「大好き」なのだ。多くの人は交合の本質をよく知らないまま痴漢の淫猥さをセクシャリティだと思い込んでいる。それで実際の交合となると、まるで「互いに合意し合った痴漢行為」のようになるのだ。ここにおいて、
・交合の反対は痴漢
と捉えて差し支えない。そして多くの人の内心を慎重に伺ってみると、多くの人が内心に憧れているのは「被害の無い痴漢行為」の方なのだ。このことは各人において確認されていてよい。
・自分は「交合」と「痴漢」の、どちらに「興味」があるのか?
・自分は「交合」の機会に、「痴漢興味」を発散しているのではないのか?
正直に自分のキモチを突き詰めてみれば、「実は自分はあまり交合に興味を持っておらず」「痴漢行為の方に興味を持っている」という人が少なからずあるはずだ。今実際には、「交合」そのものに興味を持っている人はとても少ない。そのことは単純に、痴漢的コンテンツを売りにする商品の数多さと、交合そのものをテーマに捉えてなんとかしようとする商品の数少なさを比較してみればよい。あなたは友人から「こないだ彼とセックスしてさ」と話されるときと、「こないだ男に痴漢されてさ」と話されるとき、どちらに聞き耳を立てて食いつくだろう?
現在のところ、交合が実際には痴漢興味の代替に営まれているところがあり、それによって人は傷ついている。セックスを、痴漢興味の代替として、それはそれとして遊ぶのならそれはまだ辻褄が合いようもあるが、それを愛の行為なのだと信じて営むと人は傷つく。これらのことは「六体満足」の状態が得られたときに全て真相が明らかに受け取られるだろう。「六体満足」、つまりヴァギナを具え直したあなたの「こころ」=「胴体の流れ」が獲得されたとき、そこに営まれる交合は痴漢行為のそれなどよりはるかに大きなよろこびと荘厳と陽気さがあると知られる。
より厳しい言い方を採り自分を励ますならば、
「今のお前にできることなんて、交合じゃない、ただ痴漢の被害者になることだけだ」
と言うこともできる。いかに愚鈍な女性でも女性である以上痴漢の被害者になることはできる。それはある意味、皮肉な「平等」だ。眉目秀麗な彼に「抱かれたい」というのも、よくよく探ってみるとそれは「あんなイケメンに痴漢されたい!」というどうしようもない貧しさの衝動でしかなかったりする。交合をしたいのではなく「凍りつきたい」のだ。そうして痴漢の被害者になることを空想するのは女性の全てに平等に与えられた権利だが、そのぶん逆側では、六体満足の交合を営めるかどうかは差別的で特権的なことだということでもある。その特権というのは意外なことを皮切りに成り立っていて、つまり先ほどの、
・ヴァギナに触れられたとき「止まるな」
というのが六体満足者特権の入口なのだ。
明け透けな事実のレポートとして言うなら、現在のところヴァギナに触れられたとき安易な痴漢行為の興奮に耽りこみ、身体(の流れ)が止まってしまう女性はものすごく多い。男女とも大半はそれだといって差しつかなえいほどだ。本来このようなことは秘め事としてレポートに開示はされないものだが、すでにこれ以上の不幸が生産されることを看過しえる状況にない。よって「止まるな」。ヴァギナを触られたとき、その身体の流れを止めるな。いわゆる一般に「エロい」と信じられていることは、それなりに楽し気なものというだけのことであって、それは彼氏彼女と営むものではなく、痴漢痴女が営むものだ。もしそのことがやりたいのであればそのことだけをやればいいのであって、その場合互いに尊厳を与え合おうなどとするべきではない。痴漢痴女のそれをしたいのであれば、互いに根本的な軽蔑を向け合ったほうがそのことは「燃える」のだから、あくまで痴漢痴女にふさわしい軽蔑の向け合いでそれをするべきだ。初めからそういうことであれば、人は前もってそのことに傷つかない心構えを持つので、その場合は深く傷つくということは起こらない。
アドバイスの有用性を高めるために、より表現が直接的に生々しくなることをご容赦いただきたい。ありていに言えば、ヴァギナに男性の指を差し込まれたときに、「身の凍えるような」仕草になって固まってしまう人がとても多い。現在のところ99%の女性がまさにそれだと言わざるを得ない。多くの人はその「身の凍えるような」という感触を「エロティック」なのだと信じてただちにそこに耽溺してしまうが、このことにはもう決着をつけよう。それは断じてエロティックなのではない。最悪だが正しい言い方をすると、
・指を入れられて「あああ……」と凍りつくのは、ホスト男性とのセックスを金で買っているオバサンでも同じだ
・そしておそらくマリリン・モンローに指を入れても「あああ……」と凍りつくようなことは起こらない
大変尾籠な言い方だが、この場合はもう正しい説得力を持つためにやむを得ない。ヴァギナに触れられたときに止まるな。指を入れられたときに凍るな。オバサンエロティシズムに耽溺するな。これは本当には僕の話し様が下品なのではない。妄想とアダルトビデオに掻き立てられてきた痴漢趣味を内心で「エロい」と信じてきたあなたの方が本当は下品なのじゃないか。
どこでこんな誤ったイメージが刷り込まれたのだろう? まるで男の子に「殴られたときは泣き顔になりなさい、固まって号泣しなさい」と教え込んでいるような誤ったイメージだ。男の子に本当に教えるべきは、殴られたとき「リラックスして」、「全然効かないよ、と挑発してやりなさい」、「止まるな」「固まっていたらよりイジメられるだけなんだ」と教えるのが本来のやり方のはずだ。あなたもヴァギナに触れられたとき、それはまるで殴られたときのような傷つきを覚えるものだから、だからこそ「リラックスして」、「全然効かないよ、と挑発し」、「ヴァギナに触れられたとき止まるな」と学ばねばならないのだ。
2.諦めることも大事
一方で、あくまで現実的に言えば、その六体満足歓喜の交合などを生きているうちに一度でも営める人はとても少なくて、大半の人は合意した痴漢興味の成れの果てというようなセックスを、自分のものとして営んでいくしかない。それは自身が「納得」して引き受けていく限り、「不幸」と呼ぶほどのことではない。僕はある老婆が若い頃自分がした性交について思い出して語るのに、「男がワテをわやくちゃにしよるだけじゃ!」と強く言い張ったのを聴いたことがある。その嘆きは数十年を経てもなお許しがたい傷として老婆を苦しめていたように思う。それは彼女が当時も今も、自分の身に起きたことに「納得」することもできなければ、引き受けることもできずに来たからだろう。
アイドル文化が現在の形状へ発展していく中で、ペドフィリアというほどでもない若年層の少女へ性的な純潔の力を信仰するブームがごく当然のように浸透しているように思う。けれどもここでは理知に徹する形で、現代に保たれている少女性交への夢を容赦なく叩き潰すことをしたい。たとえば十五歳に満たない少女と、あくまで合意の上とはいえ強引なセックスをした場合、そこには少女相手ゆえの特別な官能が得られるかというと、実際にはそんなことはない。十五歳に満たない少女に若さおよび幼さの感触、その肌や骨格の未成熟な感触はあるにせよ、そのことは思ったほどには男どもの(また女性たちもどこかで信じている)幻想を思い通りに満たしてはくれない。このことは現行法の条例において不法になるので、あくまでフィクションおよび科学的知識の演繹から得られる知識だと言わざるを得ないけれども。概して言いうるのは、人々が本当に信じようとしているのは「こころ」の現象であって、そのことは投げやりな痴漢興味からの性交では決して神秘的に得られることなどありえないということだ。
われわれは誰しも繁殖機能を具えた生きものなので、そうした強引な性交をしたとすると、生命の勢いは強くなり活性化するところがある。けれども「こころ」はまた別だ。現象として珍しい類だが、生命が勢い強くなり同時に「こころ」が萎えるという現象は存在する。別に少女相手でなくても同じで、単純に言えば女性を不法に姦したとしても残念ながら「こころ」が特別な歓喜や官能を覚えるということは実際にはない。幻想だ。「こころ」の萎え切った行くあてのない生命が凶暴に吠えたてるだけだ。どうせ抑圧された性的コンプレックスなど解決はされずに。
それは言ってみれば「馬鹿臭い性交」と言うしかない凶行および犯罪被害に過ぎない。だからこそ女性はそういったことの被害に遭わないように自分の身を防犯によって守るべきだ。
なぜ「諦めることも大事」なのか。現実的に言えば、ほとんどの人はそういった特別の「交合」というほどの体験は得ないまま生きてゆくのが通例だ。それは端的に言えば「自分の所有するおまんこに合意することがそんなに容易ではないから」だと言いうる。女性が自分の身体に具えているヴァギナを肯定し、そのことを自分の胴体(こころ)の一部だと合意して生きていくことは思ったほど簡単なことではない。「実際に身体の一部なのだからしょうがないじゃないか?」というのは理屈の上のみに成立する当然さでしかなく、実際には多くの女性は自分のおまんこに合意せずに生きていることが多いものだ。
それによってなぜか、「自分の所有するおまんこに合意しないために、『おしゃれ』が存在する」という形での「おしゃれさん」が世の中に数多く発生している。その「おしゃれさん」の数的割合は現在おまんこ合意者の数的割合よりずっと多い。ここで仮に、何かしらのメンバー登録に使われる用紙にある、
・性別[男・女]
という欄に該当する丸印をつけるやり方があったとして、そこにもし、
・性別[男・女・おしゃれ]
という付け足しがあったとしたら、自分は「女」ではなく「おしゃれ」に丸印をつけたいのだ、と感じる女性は今まったく少なくないはずだ。なぜかそうして現在、自身のおまんこに合意しない女性の勢力が、大きく「おしゃれ」のほうへ流入している動態がある。
女性にとって「自分の所有するおまんこに合意する」ということが容易ではなく、その困難さによって本来の交合に至るための道筋は閉ざされている。この道筋は今さら開拓に容易なことでもないし、開拓に向かったとして開通が可能とも現実的には限らないので、ある程度諦めて捉えておくことも必要になる。女性を傷つけてする「交合」において、六体満足の歓喜や男女の完全な肯定という体験は確かにあるのだが、そのことは別段得られなくても人生がひどく貧しくなるという類ではない。人間は性器と交合のことは差し置いても、五体満足者として(むろん手足等が欠損していても関係なく)胴体(こころ)での結びつきを得ることはできるのだから、そのことさえ十分に満たされてあればその中で生きることに大いなる不満など起こらない。たいてい、性的な暴虐に耽りこんでしまう犯罪者も、性器以前に胴体(こころ)として人との結びつきが得られないことからそういった犯罪行為に手を染めてしまうものだ。「交合」のことを知りつつ、それを適切にある程度諦めるということは、幻想に追いかけることよりもはるかにまともでたくましい行為と言える。
現在、女性のうちおそらく全体の二割ぐらいの人が、性交未経験の少女のうちに、ヴァギナをもってする「交合」にあこがれを持ち、自分をヴァギナ所有者として肯定していたことがあると思う。つまり自分を未経験にせよ「女」として肯定し、自分が女であることを内心でよろこびと誇りにして生きていた時間があったという人が、きっと全体の二割ぐらいいるはずだ。そしてその性的に勇敢だった二割の女性のほとんども、初めのころにする複数回の性交の経験で交合に失望し、その後は「自分が女であることがめんどうくさい」「男に生まれたかった」という思いに切り替わる。大人になるにつれ胴体は成熟してゆき、胴体が成熟する以上こころも成熟していくことになる。つまり大人になるのであり、大人になるともう子供のようなマンガ遊びではさすがに胸は弾まなくなる。一方でセックスのほうはアダルトビデオイメージのそれから成熟して進んでゆく先が無いので、セックスは成熟に向かわずマンガ本と同じレベルで「別にしてもいいけど」という程度のものに置き去りにされて収まっていく。そうして、もともと「交合」の実現に最も近かった女性でもたいていは二十代の後半あたりにいよいよセックスについて「正直、疲れるだけ」と失望に至る。こうして「おまんこ合意者」の数は加齢と共に打ち減らされてゆき、最終的には百人に一人ぐらいしか残らない感触になる。それでも具体的に性器を所有してはいるので生理的な性的欲求だけは残されてあり、生理的な性交だけは生活の中に残されていくこともあるが、この場合むしろ「こころ」と「生理」を切り離してそれを営める人だけが生理としての性交をこなしてゆけるということになる。それを単に生理的なものと割り切ることができない人は、合意できないままの性的欲求を処理できないまま抱えて生きていくことになる。
こうして、「自身の所有するおまんこに合意できず、またセックスを生理現象と割り切ることもできず、残された性的欲求が処理できないまま蓄積している」という状態に対する受け皿として、現在いわゆる「腐女子」の大きなブームが起こっている。単なる性的欲求の慰めであればただ性交が描かれている幻想的ないしは痴漢的な娯楽があればそれで済むのだけれども、「おまんこに合意しない」という前提からの要求がある以上、その娯楽コンテンツ上にヴァギナ等が出現しないやりくりが求められる。それでヴァギナを持たない男性同士の性交が性的欲求の慰めとして消費されるのだ。現在ある腐女子のブームは、ただ「おまんこに合意しない女性」の数が増大していく勢いに比例して起こっていると捉えてよい。現在この腐女子のブームは若年者層を中心に重厚に行き渡っており、たとえば現在ほとんどの女子大生において「腐女子ものの娯楽物に一度も触れたことがない」という人はなかなか存在しないと言いうるほどだ。別段その趣味に自分が傾倒していなくても、なんだかんだ、友人の家でそういった娯楽本を読んだことがある、という経験をしている。それらは本来、性的に変態的なことであったはずだが、現在はむしろおまんこに合意しない勢力のほうが強力な主張をもつ大勢となっているため、せいぜい「どこにでもあるでしょ」という程度の悪趣味の類として認知され始めている。
現在さまざまな側面から、交合について「ある程度諦めることも大事」と言える。女性が自分の所有するおまんこに合意することはそれ自体が容易ではない上に、男性がそれに触れるときに「これは女性を傷つけてするもの」ということに気づいてそのことに尊厳を払ってくれることは極めて稀だと予定しなくてはならない。どれだけ女性が自分のおまんこに合意して「傷つけられてする」という交合に向かおうとしても肝心のお相手である男性のほうが本人としては得意なつもりの痴漢趣味をしか向けて来てくれない場合がある。一方でもちろん、女性を「傷つけないように」「やさしくする」という心がけで性交する男性も少なからず存在するが、そのとき女性としては「傷つけられずにする」セックスはそれ自体が退屈で馬鹿らしく、どことなく性的に自分が侮辱されている感触さえ覚えるのだ。もともと交合は「女性を傷つけてする」ものだから。かといって「傷つけてよ」と申し出たとしても、男がただ痴漢趣味しか知らない男性であったならその傷つけるというのも演出的な痴漢ごっこにしかならずこのことも侮辱的に感じられる。それらの上手くいかないことは、十数回と言わず二、三回のことでも、女性に交合を諦めさせ失望させるのに十分な威力を持つだろう。
まして女性の側も、交合に憧れるキモチは持っていたとしても、そのことを真正面から受け止めるだけの胴体をこれまでに鍛え育ててきてはいない。五体満足者が六体満足者となり、女性がおまんこを再獲得して新しく大きな「こころ」を得なおすのだとしたら、その六体目は当然オスとは異なる「女ごころ」そのものを具えていることになる。この「女ごころ」の実物に、相対する「男ごころ」が繰り返しぶつけられ、「女ごころ」の中心を直撃することがあったとしたら、この「女ごころ」は直接に強烈な性愛としての「恋ごころ」を覚えてしまう。そしてこの「恋ごころ」が、とてもではないが「現代的な女性」の胴体に受け止めきれるものではないのだ。もし本当の「交合」に起こる強烈な「恋ごころ」を現代の女性が無防備に受け止めようとしたら、女性のこころは決壊し、情緒は混乱を極め、生活を失わせ、制御のないヒステリー症状を生み出すだろう。だからその側面からいっても「交合」というのは憧れはあっても現在半ば以上諦められて捉えられるべきだ。例えるならば、これまで食の細い胴体として生きてきたものが突如「満漢全席」を食らいつくせるのかというと、そんなものはか弱い胴体への横暴になるだけで、胃腸を破裂させるのみだろう。こうして「交合」というのは現在のところ机上の空論であって具体の営為としては慎重に諦められるしかない。
現在、男女とも少なからぬ人が「恋愛はめんどくさい」と言う。そして実際のこととして、特別な恋人を持たないまま生活の充実のほうを優先して暮らしているという人はとても多い。なぜ「恋愛はめんどくさい」のか? それは思いがけず具体的なところ、「本人さえ合意していないおまんこを突っつきあうのはややこしい」ということなのだ。切実でかつ身も蓋もない言いようだが、事実に即して有効なアドバイスをするにはそう指摘するよりない。本人も合意していない「否定」のおまんこへ男性が一物を挿入すれば、今度は男性の一物のほうも「否定」され傷つくことになる。その「否定」の感触はこころへ直接響いているものだ、当人が気づいていようがいまいがその悲惨なダメージは発生してしまう。そうなると二人は不仲になり揉め始める。このことは非常によく起こっている。
あなたが自身のおまんこに合意しない以上、そこに挿入された男性の一物もそのとき合意されず否定されることになるのだ。この中で男性が腰の運動を発揮するのには非常に意識的な努力を要するし、勃起を継続するには痴漢的な演出で自分自身を盛り上げるしかなくなってくる。このことにおいてはいっそ、「痴漢的な趣味をしたい」という単純な衝動だけを持っている人のほうが、現在はセックスを滑らかにしやすいと言いえるほどだ。
よって現在のところ、人々が恋愛という営為の仕方から遠ざかり、セックスは痴漢的な淫猥さを本とし、女性は「おしゃれ」を優先的なこととし、「腐女子」と呼ばれる慰めに距離を保ちつつも興味深く親しむというような有様は、破綻しているようで実はバランスが取れているのだ。今はこれがある程度「健全」と呼びうるとして肯定されるしかない。もちろん本質的には嘆かわしいことに違いないが、かといってその嘆かわしさを自らの身で正面から撃砕しようというのはふつう取り組めるような只事ではないし、よほどの才覚を持つ者でなければ現実的なことでもない。
<<今のところあなたは彼に、おしゃれした姿をもって尻を強調し、「ねえ、痴漢して」と要求するほうが微笑ましくて健やかだ>>。自ら素直に「痴漢して」とお願いすることはあなたの内心を――低いレベルにおいてであっても――ときめかせるだろうし、彼もそれに「なんだよ、痴漢されたいのか」と言って応じることは、彼にとって不快ではなくロマンチックに類すること――低いレベルにおいてであっても――のはずだ。僕は現在、「ねえ、痴漢して」というコールから始まる性交があったとして、そのことでやりくりしていこうとする健全な二人のことを馬鹿にするつもりには微塵もならない。多くの男女にとって今「恋愛はめんどくさい」が、「痴漢はめんどくさくない」はずだ。そうして取り組むことは、「諦めない」とシリアスになって取り組むことより、互いを傷つけずに済むという面において優れている。(備考:「ねえ、痴漢して」というのがあまりにも露骨すぎると感じられる場合、「ねえ、慰めて」ということでもある程度代用が利く)
3.平然とする
あなたは自動車の助手席に乗るとき、
・ハンドルを握るのに平然としている男性
・ハンドルを握るのに平然としていないオバサン
の二つのドライバーのうち、どちらの助手席に乗りたいと望むだろうか。どう考えても平然としていないオバサンドライバーの助手席は危険であり不穏だ。安全で快適なドライブは、オバサンがシリアスになることでは得られてこない。「こころある」ドライブは、ドライバーの平然さによってこそ得られ保たれうる。
交合においても同様で、本来の交合は<<平然と>>為されるものだ。興奮して「ヤッてしまう」ものでは決してない。現在「交合」ということについて、このことが最大級の誤解としてある。「セックス」というと、「もう興奮してたまんなくって」「シリアスでドキッとしちゃう」「不穏な感じで何か特別って思って……」というような、いわゆるエロマンガと少女マンガのつぎはぎのような憧れが堂々と思い込みに刷り込まれてしまっている。そんな軽薄な憧れは、言うなればハンドルを握るのにさえ平然としていないオバサンドライバーをF1レースに出場させるような愚かしさの妄想に過ぎない。そんなところに奇跡は生じないし歓喜が得られたりもしない。オバサンが口から泡を吹いて「場違い」の「近所迷惑」になるだけだ。この愚かしい思い込みの刷り込みさえなければ、あなたはもう少し楽に自然なセックス観を形成できたであろうのに。
安全で快適なドライブが為されたとき、その車窓にはこころを奪うような摩天楼の夜景が映り込むかもしれないが、そのときに限ってハンドルの持ちようや車体の操作は安定して平然となめらかなものだ。ハンドルの持ちようが力み、車体が不穏に揺さぶられ、運転そのものがシリアスな様相になるとき、人はドライブといって車窓を眺める余裕など持たない。そうなるのは、ドライバーが「不慣れ」だからなのか? 不慣れといえばそういうケースもあるかもしれないが、一方でいつまでたっても運転がヘタな人は運転がヘタなまま、いくら慣れさせても「平然として運転できない」という人はいくらでもあるものだ。オバサンはハンドルにしがみついて安全運転を「祈念」するだろうが、そうしたドライバーこそ最も安全運転に遠くいつでも人を傷つけかねない。
なぜ多くの人は、むしろ自ら加速する具合に「平然でない」という情緒方向に偏って性交を営もうとしてしまうのか? そのことには間違ったイメージの刷り込みも土台としてあるのだが、やはり厳密には先に言ったとおりの、
・女性が自身のおまんこに合意していない
という事情が背後で作用している。女性が合意していないおまんこをわざわざ取り上げて接触しようとするので、そのことに不穏の気配が漂い始める。不穏さが人を興奮させる。またその不穏物に触れるということに男性が暴力的な興奮を覚えるのでもある。またそれだからこそ女性は「身の凍えるような」感触を覚えてそのとき胴体の流れを止めてしまうのでもある。この先にあるのはもうセクシャリティでも何でもない単なる「てんやわんや」に過ぎない。
なぜ交合をするのに平然とした向き合い方ができないか。そのことには、おまんこへの合意の他、列挙するなら次のような要因がある。
・女性が自身のおまんこに合意していない
・合意されていないおまんこに向けて勃起を得るには男性が演出的に「興奮」するしかない
・セックスとはそういうものだというイメージをアダルトコンテンツから刷り込まれている
・男性のペニスおよび射精の現象に合意していない
・男女共にある性的な抑圧を互いに「ぶちまける」行為なのだという誤った思い込みがある
・合意の上で痴漢行為に及ぶということの淫靡さ、それが特別な行為なのだという思い込みがある
・そもそも性交以前に「生身」で人と関わり慣れていないことからの動揺が起こる
・またその動揺を覆い隠そうとする見栄、虚栄心、自尊心が昂る
・本質的に「傷つけてする」という交合の感触から覚える恐怖心、怯えがつのる
・内心で強烈に隠し持っている「男として」「女として」という性的な自尊心の危機感が激昂する
・そもそも全身がぶきっちょすぎ(胴体の流れが止まっていて)、複雑な体勢を取るだけで感覚が混乱する
・「興奮しているわたしって他人と特別に違ってイケてる」というとんでもない自己陶酔がある
こうして男女とも交合に及んで平然さを失う要因は無数にある。これらの要因をしらみつぶしに解決することはほとんど不可能なので、ここでは第一に「交合はそもそも平然とするもの」ということが新しく知られるしかない。<<ヴァギナに触れられたとき、なぜ平然さを失うのかを自身の内側で追跡せよ>>。平然さを失い動揺し、不穏と興奮、硬直と乱暴が起こるとき、必ずあなたの内部に何かしら「こころ」の騒動が起こっている。その騒動は、追跡してみるとたいてい実に「ありきたり」なつまらないことに起因している。そのつまらない動揺の仕組みを野放しのままにしないことだ。それを野放しにすることは、いつか事故を起こすオバサンドライバーをそのまま野放しにしておくことと同じ行為となる。
このことはよく、交合に限らず「平常心」と言われるけれども、「平常心」と言い換えてそのイメージを追求することはまったく推奨できない。同じ追求するなら平常心よりは「動揺心」のほうを究明するほうがはるかによい。何かしらの理由(たいていありきたりの、つまらない理由)によって、こころに動揺が起こっている。そのことを究明して「とっちめる」ことで、人はそのことを平然としたまま営めるようになっていく。「平然」の反対は「無様」だから、人はこのことを自分で見たがらないものだが、ここを野放しにしていたらキリがない。「虚栄心」よりも馬鹿げた単語はこの世界にない。
多くの人は性的な抑圧から、自分が興奮を「ぶちまけている」極地にあれば、人間存在として特別でカッコイイというとんでもない妄想を抱いているところがあるが、そんなイージーなことで人間がカッコよくあれたら誰も苦労はしないのであって、それは単なる「ひどい阿呆だな」として早々に片づけられるべきだ。<<あなたはベッドの上で「本気」を出しても人を驚かせるような特別な何かを持ってはいないし、興奮の極地に至っても何かが「覚醒」したりはしない>>。それは覚醒剤を覚えた精神薄弱者が自己の感受性に特別さを信じたがるのと同じみじめさの類だ。それは幼稚な人間が持つ思い込みの陳腐極まる「ド定番」だと捉えて間違いない。
なお余談だが現在「危険ドラッグ」と呼ばれるような類や他の国では合法となっている場合もあるマリファナなどを用いてのいわゆる「キメセク」というようなものも、思われているほど特別な官能を与えてくれるものではない。人間の神経機構を不可逆に破壊するほど精製した化学物質を用いてのものならともかく、お遊び程度の薬物で特別な官能など得られはしない。実際には単に体調を悪くするだけだ。あれら「キメセク」の類は映像に撮られるとその挙動が「支離滅裂さ」に追い込まれているので何か特別な官能がありそうに「見える」だけに過ぎない。マリファナの愛好者はマリファナを使用してのセックスを特別によいものと言いたがるが、それは当人が普段からひどい自尊心の膨張に束縛され強くこわばった不毛の緊張の中に居続けているからであって、そういった人々はマリファナを用いないと人並みのリラックスもできないというだけに過ぎない。そもそもマリファナなど用いずとも自尊心から離脱できればそれらの薬物に思い入れの用事はなくなる。まったく夢も希望もないが、感性にせよ集中力にせよ、薬物で解放されたつもりの人間などけっきょく訓練によって磨かれた人間にはまったく及ばないのだ。平然さのまま感性と集中力を得ている人間に、支離滅裂薬物を使った人間など勝てるわけがない。こんなことに元々夢も希望もない。その証拠に、もしこれだけ蔓延しているとされる薬物が、人間に特別な感性と集中力をドーピング的にも与えるのだとしたら、インターネット上にはもっと薬物中毒者による広大な長編詩などがアップロードされていてよいはずだ。けれどもそういったものは実際には見当たらない。広大な長編詩を書き上げうるのはあくまで才能に訓練を積み重ねた人間だけだ。そうして「キメセク」をよろこべる人間はしょせん「気休め」を切実に必要としている追い詰められた人たちのみに限られると知っておいてよい。
人間は平然としているとき――たとえば冷蔵庫を開けるときや、てきぱきした動作で洗い物を片付けているときなどがそうだが――胴体の真ん中に力が(気力)がみなぎっており、両肩・両腕・両脚はリラックスしているはずだ。これが胴体の真ん中まで力が(気力が)抜けてしまうとそれは睡眠への導入になってしまう。交合のとき、このまったく逆をやってしまう人が多い。つまり、
・胴体の真ん中からへなへなと力が抜け
・代わりに両肩・両腕・両脚が力んでしまう
という様相になる人がとても多い。特にいよいよ交合らしい交合をしようといわゆる「正常位」の形を取ったときなど典型的にそうだ。このことは交合を極めて歪(いびつ)にするし、それでも力ずくにしようとするとほとんど「格闘」のような様相になってしまう。
どう考えても交合を受け入れるのは具体的に胴体の下部にあるヴァギナであり、両腕や両脚は周辺を取り巻く野次馬でしかない。その肝心の胴体から気力が抜け腕や脚に力が入り込むのはまったく筋道に合わない不恰好なことだ。このことはふだんから胴体の中心(こころ)で勝負してきていない人間が咄嗟に現す防御反応であって、それだけに除去するのが容易でない。硬直して暴れようとする両腕・両脚の力みを除去しようとすると、男性が女性の四肢を暴力的に打つか、抑えつけるか、それとも恫喝して屈服させるかしかないのだが、それは不要に物騒なことだし、もしそのようにして四肢の力みを除去したとしても、今度は胴体が「へなへな」と気力を失っているものだからそれは「睡眠」の導入になってしまう。このとき女性は交合する男性に懐かず、背中を支えるベッドのほうに懐いていってしまい、ベッドルームは何か「あほくさ」という感触に包まれていってしまう。
おまんこに合意していない場合の性交はどうしてもそのようになるしかないが、あくまで原理的に、
・胴体の真ん中に、受け入れる気力をみなぎらせて
・代わりに両肩・両腕・両脚の力が脱かれる
という状態が目指されるのが正しい。それが<<平然と>>交合するということだから。
四肢が力んでほとんど暴れているような状態というような女性がよくある。そうした女性はたいてい、まず「平然とする」という前提をまるで知らないでいる。
4.自慰と切り分ける
自慰行為にマニアックになればなるほど、その後交合に向けて修正が利かなくなっていく。かといって自慰を控えることが有効なのではなくて、自慰と交合はそもそも営為としてまったく別のものだということが正しく知られねばならない。同じ性感を帯びる類のものに見えてもそれぞれの行為はまったく別種のものだ。単純に言えば、男性が女性を口説いて交合するのには「気力」が要るが、アダルトビデオを観るのに「気力」は要らない。ここに自慰行為のマニアック化は、背後にある「病的なレベルでの無気力化」の反映として起こっているのだ。自慰行為を得意とする者が、さらにマニアックな自慰に耽ろうとするとき、当人も無自覚のまま、「もっと胴体を無気力な状態にしよう」という選択をどこかでしているものだ。そうでなければ自慰をマニアック化はできないから。交合が異性を「傷つけてする」ものであるのに対し、自慰はその字義のまま単性を「慰めてする」ものだということに注目せよ。両者の性質は正反対だ。
もし自慰と交合が同系列の営為であったならば、交合は自慰に対応して「他慰」と呼ばれてもおかしくないはずだが、交合の実際はまるで「他慰」などという愚かしい語感を受け付けない。自慰は交合の代替ではまるでないのだ。現在、男女とも通信販売で購入した道具を使ってまでする、ある意味「自慰ブーム」と呼ぶべきものが一部に起こっている。その中で「オナニーのほうがセックスよりも気持ちいい」と確信して主張する人も多くなってきている。これらのことは全て、<<自慰は交合の「アンチテーゼ」である>>と捉えれば整合する。自慰と交合は互いに対極なのだ。自慰の研究者はまるで交合の研究者ではなく、むしろ攻撃者となる。交合は「同室に異性がいることをよろこぶもの」であり、自慰は「同室に異性がいないことをよろこぶもの」だ。自慰行為のマニアがアダルトビデオをむさぼるのは、実は女性の存在をむさぼっているのではなく、「女性のいない自室」という状況をむさぼっているのだ。
ここにおいて注目されるべきは、「自慰」の性質がもともとそのようなものだからこそ、自慰を促そうとするアダルトコンテンツの類は、むしろ「交合に向けて胴体(こころ)が惹起しない方向(無気力化の方向)」へ特徴づけられて作られてあるということだ。自慰は交合の「代替」ではなくむしろ「反対」であるから。よって、自慰のマニアック化に訓練を積み重ねてしまった胴体は、交合へ向き合い直すのに困難なまで、距離を遠く引き離された状態になっている。
厄介なのはこのとき、当人は自慰を交合の代替のつもりで繰り返しているので、当人はいつの間にか「自分は性的なことに詳しく、マニアックでさえある」「自分は性的な欲求や衝動が強く、またそのセンスに鋭敏だ」というような曲解の自信をしばしば深めてしまっていることだ。本当は自慰がマニアック化するほど交合からは「遠のいて」いるのに、当人としてはその自慰を交合に「近接するもの」だと捉えていて逆の誤解をしている。それで事実に適合しない自信を持ってしまう。この事実誤認が当人を長期間に亘って混乱させてしまう。
このことを、卑近ではあれ、より直接かつ重要に言い当てるとすれば、
・「そそる」もの、「抜ける」ものほど、実は人を交合から遠くする
と言える。
このことは驚くべきことであるはずだ。ほぼすべての人にとって、その「そそる」「抜ける」が「セクシー」であり「色気」であり、それこそが交合に近接した、交合に有利なものだと思われているはず。
だが真相はまるで逆だ。
当人はその「そそる」「抜ける」あるいは「萌える」に詳しくなっていくものだから、交合へ向けて人間を惹起させる「エロさ」について詳しくなっていっているつもりでいるのだが、事実はまるで逆なのだ。当人はそこが逆転した奇妙な自信をたくわえているから、実際の交合に及んでもその自信たっぷりの「そそる」「抜ける」あるいは「萌える」を作りだし演出しようとしてしまう。それは交合の最中に自ら胴体(こころ)の機能を交合から遠ざけるはたらきかけをしていることになってしまう。そのことは到底一般に気づけることではなく、当人はわけがわからずさらに「そそる」「抜ける」のほうへ演出を高めようと、ひたすら悪循環を加速していくだろう。
自慰における「したい」と交合における「したい」はまったく逆なのだ。自慰を促そうとするコンテンツはむしろ交合を「したくない」というほうへ胴体を引っ張り込むように最適化されていることを知らねばならない。
俗に「賢者タイム」などと言われ、さんざん搾りつくすような自慰をしたあとは、交合など「まったくしたくない」という放心的な心境に陥ることが知られている。そして自慰がマニアック化した人においては、交合のあともその「賢者タイム」なるものがやってくると信じられているところがあるが、これも誤解であって真実はそうではない。正しく営まれた交合は、その直後にも「賢者タイム」のような心境は訪れない。正しく営まれた交合はその直後にも「いいなあ」という心境が得られ続けるのみだ。
次第に感覚が養われてくると、アダルトコンテンツの持つ「そそる」「抜ける」「萌える」といった類のはたらきかけが、自分の胴体の流れ(こころ)にどのような作用をするのかはっきりと感じ取れるようになる。それは極論してしまえば「気休め」の効果なのだとわかるようになる。
このことは、わかるようになればそれだけであっさり片付く問題なのだが、その「わかるようになる」ということがあまりに一般のイメージと逆転していて困難を極める。どれだけ理知を尽くして語ろうとも、どうしてもこれまでの習慣や訓練で養われた、
「そそるでしょ、セクシーでしょ、ヤリたいでしょ、これがエロスだ、盛り上がるなあ、セックスしたいなあ」
という願望連想に欺瞞があるようには感じられない。けっきょくはこちら、一般的な「そそる」の印象のほうが引き続き大勢に信仰されていくのはやむを得ないところだろう。
このことは例えるならば、「食べたいもの」と「おいしそうなもの」はまるで違う、ということに引き当てられる。多くの人は飲食店において、そのメニューから「おいしそう」と印象づけられるものを好んで選んでいる。けれども人間は生きものであり、胴体の側には「おいしそう」とはまったく別の「食べたいもの」が存在している。胃腸の消化能力が弱く、健啖であれず食が細いという人の多くは、実はこの現象によって「食べる」「飲む」という機能を衰退させられているのだ。胴体の側から見ると「食べたくない」と感じられているものばかりを、印象として「おいしそう」だからと詰め込まれているうち、胴体はその「食べる」という能力を低下させてしまった。僕は実際に、胴体の本来性を恢復させた人間が、一時的にであっても爆発的な食欲を取り戻すシーンをこれまでに何度も目撃している。僕はそのとき「それがあなたの本来の食欲だよ」といつも話す。これまで食を細くして生きてきた人間が本来の食欲を取り戻したとき、見るからに「たましいが震える」というほどの有様になる。
そのことと同様に、「交合」と「そそる」はまったく別のものとしてある。いわゆるファッション的な遊びとして「グルメ」「食べ歩き」をしている人は多く本来の「食べたいもの」を見失って生きているだろうと想像されるが、それと同じで自慰のマニアック化は性感のファッション・グルメを生み出しているだけにすぎない。それは食感にせよ性感にせよ「そそる」ということに振り回されているだけのことだ。
ここでたとえ「グルメ」な彼が、お望みどおり「そそる」ということの濃縮された、彼の信じるところの「エロい」セックスを獲得できたとしても、彼はそれによって「たましいが震える」というような体験は得ない。よって彼は「交合でたましいが震えるとか、無い無い」と認識していくことになる。あるいは「たましいが震えるねえ」という冗談口の人に成り果てる。たましいが震えない以上、彼は次第にセックスを「つまらない」と感じていく。つまらないからこそ、さらにそれを「そそる」ものにしようと、彼はセックスを演出したり味付けしたり、願望を追加したりする。こうして彼はますます交合の本質から遠ざかっていく。パートナーは彼の道連れになる。
このことは交合と自慰が正しく区別されるしか解決の方法はない。一般に「そそる」「抜ける」「萌える」「エロい」と思われているそれらは全て、「胴体が弱って際限なく慰めに依存し始めている神経の無気力化決壊の感触」でしかないのだ。本当にはエロくもなければ本当にはそそってもいない。
5.感じさせない、見つめ合わない、相互理解さえしない、お互いに「放っておく」
一般にセックスにおいては、男女が互いに「感じさせる」のが正しいと思われている。特に男性が女性を激しく刺激したり、苛烈に突き上げたりすることで、女性が「おかしくなっちゃう」「壊れちゃう」と叫喚をあげるのがすばらしいセックスであり強力なセックスだと信じられている。そしてしだらに乱れた官能の眼差しで、二人が見つめ合う……というのが「愛し合う」ことだとされている。だが驚いたことにこれらのすべては誤りだ。言ってしまえばその「これがセックス!」という像はただの「ウソ」でしかない。現在おそらくとんでもない数の女性が、この「激しく愛し合うセックス」の像に憧れてきて、それに近いものを実際に行為し、それによっていつの間にかセックスが嫌いになり、なんであれば体調を深刻に悪くし、「生きる気力さえ失ったかも」という状態になっている。多くの幸福なはずの女性にとって、「彼はわたしのことすっごく愛してくれるんです」とそのことを肯定的に認めようとしながら、一方で胴体の真実として「しんどい」「気力が湧かない」ということが起こっているはずだ。それで努力的に笑顔を保とうとしたり、「前向きなキモチ」を保ち続けることを自分に課していたりする。このことはますます胴体(こころ)を疲れさせ傷を深くしていってしまう。
このことは正しく理解され、改めてまったく逆のアプローチが積み重ねられていく必要がある。もちろん、ずっと奥の正しい意味においては、セックスはお互いを感じさせたほうがよいし、お互いにこころのまま見つめ合うほうがよい。しかし現在のところ、その真似事をなぞったとしても、誤解したやり方を深めてしまうだけだ。そこはいっそ、「感じさせない」「見つめ合わない」「相互理解さえしない」「お互いに放っておく」というまるきり逆の心構えで取り組んでみたほうがいい。男女とも異性についての感覚がまだ優れて残されているところがあれば、そのような逆転の心構えで取り組んだとき、ただちに「はるかな交合の感触」が得られてくることはあって珍しくない。そのとき交合は、これまでしてきた努力的なセックスに比べれば、まるで落ち着いて「無敵」のセックスだというようにさえ感じられるはず。相手に「感じさせない」ように愛撫をする。ただしあくまで、お互いに「止まるな」ということは言われ続ける。手が止まらないということではなく胴体の全体が止まらないこと。男女いずれとも、互いの性器に触れたとき胴体の流れが止まってしまいがちで、それがまるで止まらないという人は現在ほとんどおらず、むしろ愛し合うキモチが強い二人であればあるほどその流れはビタッと止まりがちだ。なぜならそれは「傷つけてする」ものだから。肩に触れるときや腰に触れるときと、性器に触れるときとで、胴体の状態が「あまりにも変わってしまう」ということに気がつけばこのことはある程度理解が早くなる。
もともと交合において、男女の間に何が起こっているのかを正しく理解すれば、この「感じさせない」等のやり方は原理的に整合することがわかる。お互いがお互いの「理解者」でありうるのは、あくまで五体満足者同士としての関係であって、六体満足者としての関係ではなかったはずだ。こころとは胴体(の流れ)のことなのだから、胴体が同じ同士なら二人は相互に「こころが通い合う」という仲になれる。が、交合においては性器が互いに「異なる胴体」の形を持っている。これによって「こころが通い合わない」ということが具体的に「六体目」について決定される。交合はこの「六体目」を中心に用いて為される営みだ。ここにおいて互いに「見つめ合い」「相互理解しよう」とすると、それは六体目の否定になる。つまり性器を再び否定してのやりとりに引き返さなくてはならなくなる。このときまったく具体的に、女性のヴァギナは濡れなくなり、また男性のペニスは勃起を維持できなくなる。そうなると交合は不能になってしまうので、そのことに焦ると今度は「エロい」「そそる」と信じられている演出的愛撫等をやり始めてしまう。そういったことはしなくてもよいのだ。ヴァギナが濡れない(特に、濡れているように見えても「痛い」と感じる)、およびペニスが十分に勃起しないというとき、それは「六体目が否定されているから」と捉えるのが正しい。「愛撫が足りない」「テクニックが足りない」「ムードが足りない」「愛が足りない」と捉えるのは全て間違いだ。
・互いに「関心」を向けると、「五体満足者関係」に立ち戻ってしまい、六体目(性器)が否定される
・ヴァギナが濡れない(濡れているように見えても、「痛い」と感じてしまう)、またはペニスが十分に勃起しないのは、六体目(性器)が否定されているから
ふだんわれわれは性器を隠して暮らしているので、ふだんにおいては男女も互いにイーブンな五体満足者として当然の関心を向け合っていてよい。五体満足者は互いに「こころが通う」ということを得うるのだから。そしてわれわれはそのふだんの暮らしの中で、「関心」を自分に向けられたとき、その関心に「応えよう」とする反応を養っている。だから交合の最中に互いに「関心」を向けてしまうと、関心に「応えよう」とするふだんの反応が起こり、そのたびごとに胴体は五体満足者のそれに戻ってしまう。あくまで互いが異性としての「男女」であれるのは六体目(性器)が肯定されているときのみであって、六体目が否定されていればたとえペニスが挿入されていたとしてもそのとき互いは「男女」ではない。これによって、男女は交合のとき互いに「関心」を持ってはいけないと言いうるのだ。
現在、一般的なセックス観においては、セックスは互いに強い関心を向け合い、見つめ合い、感じさせあうものだと捉えられている。だがこのことはまったく誤りだ。男性が女性を「感じさせよう」と見つめ、「ほら、ほら」と関心に満ちた愛撫をほどこすと、女性はそれに対して「応えよう」という反応を起こしてしまう。このとき二人はある意味で「相互理解」しあっているのだが、それが相互理解であるからこそ互いは男女(異性)であれなくなる。それによって交合は本質に向かうことを阻害されている。もっと直接の真実を言えば、「男が女に関心なんか向けるせいで、女は『感じる』ということが邪魔されている」というのが本当のところだ。女がどう感じるかなどということは、男は放っておかなくてはならないし、これは男女が逆転しても同じことだ。
男性からの視点で言うと本来の交合における光景は次のようになる。このことは男女逆転させてもほとんど同じのはずだ。
・交合のとき、「ペニス所有者」である自分には、目の前の「おまんこ所有者」が、「まったく別のもの」と見えている
・何かしらの欲求によって、自分はそのおまんこ所有者の身体に触れるが、それによっておまんこ所有者の官能に何が起こっているのかはわからないし、知りようがない。だから放っておくしかない
・五体満足者として「こころが通い合う」というとき、目の前の誰かは「誰」と呼びうるものだけれども、交合において「胴体が異なる」ものが目の前に出現するとき、その目の前のものは「誰」とも呼べないものになる。いうなれば男性にとって、目の前の女性は誰というのでもない「おまんこさん」に見える。相互理解する類ではない、また関心を向ける対象でもないその存在は、「おまんこさん」と呼ぶことが適切に感じられる
・互いに「誰」というのでもない、二人が「ペニス所有者」「おまんこ所有者」に分かたれるとき、男性は自己が男性であることのよろこびを恢復し(六体目を取り戻した胴体(こころ)の者となり)、同時に女性も自己が女性であることのよろこびを恢復している。そしてそれを取り戻させてくれた存在が他ならぬ目の前の存在なのだということを互いに認めている
・おまんこを持たない者が、おまんこについてわかった気になるな。おまんこを持たない者が、おまんこについて研究する風情になるな。ペニスを持たない者が、ペニスについてわかった気になるな。ペニスを持たない者が、ペニスについて研究する風情になるな。
このことは、たとえるならばこのようにも言いうる。たとえばフランス人と日本人とが、英語を共有して英語で会話することは可能だろう。そのときお互いは相互理解という状態になる。もしここでフランス人が元々のフランス語で話し、日本人が日本語で話せばどうなるか? 相互理解は成り立たなくなり、互いに関心を向けようがなくなる。お互いに「放っておく」しかなくなる。それと類似したこととして、男女は互いに六体目を自己のものとして恢復するとき、男性は「ペニスからの流れ」を持つ胴体を恢復し、女性は「ヴァギナからの流れ」を持つ胴体として自己を恢復させるのだ。男性はペニスからの「男ごころ」を具えた存在に還り、女性はヴァギナからの「女ごころ」を具えた存在に還る。そのことが「交合」の本来の体験であって、一般にイメージされているような息を切らして「よかったよ」「すっごい激しかった」と言い合うそれは交合の本質ではない。
ここまできてようやく、本来の意味においては、交合は互いに「感じる」ほうがよいと言いうる。だが感じるというのはいわゆる「性感」をグルメチックにてんこ盛りにするということではない(むろんそういう遊びが含まれていてもよいけれど)。もっと当然のことを言えば、
・「感じさせよう」としなくても、正しく営めば勝手に感じる
ということなのだ。
「交合」なのだから。「感じさせよう」、なんてエロマンガみたいなことをしなくてもいい。
二人は互いに「感じさせよう」などとせず、「関心」を向け合うなどせず、互いに互いの与えうる性行為をむさぼっている。まるで互いに無視し合うようでさえあるが、
・「関心」を向けなくても、そばにある胴体と胴体は正しくあれば「つながって」いる
加えて、ふだんは切り離されている六体目まで含めての、全体真実の「こころ(胴体の流れ)」を曝け出すわけだから、そのことをゆだねて信頼できるほど、
・この人はやさしい、と確信されていなくてはならない
そして、単に「いい人」としてやさしいというのではなく、
・この人は、関心のない「おまんこさん」に対してさえやさしい
と確信されていなくてはならない。
「感じさせよう」「やさしくしよう」「つながっていよう」「男女の関係になろう」と、そんなことを意識して努力などしなくても、正しく営まれればそれは勝手に感じるし、勝手にやさしいし、勝手につながっているし、勝手に男女の関係なのだ。このことを完成させるのは困難なことだが、とりあえずは今ある一般のセックス観と反対に「感じさせない」「見つめ合わない」「相互理解しない」「放っておく」という心構えで取り組むのがいい。それだけで画期的な改善は十分ありうる。
6.痛みの中で止まらない「練習」する
交合を正しく営めるようになるのに、実は単純で有効なわかりやすい「練習」の仕方がある。むろんパートナーがいないと練習できないが。もしパートナーがこのことに協力的でいてくれて、かつ「練習」の意味するところを正しく理解してくれていれば、この練習はたちまち二人を正しい交合の仕手に導いてしまうことが少なからずある。練習方法は次のとおり至って簡単だ。
・男性が仰向けに寝転び
・女性が男性の脚の間に座り
・女性が男性のペニスを愛撫しつつ
・女性は同時に、自分のヴァギナも愛撫する
・そうしてそれぞれの手に、「胴体(性器)が違う」ということを、当たり前に感じ取り続ける
・このとき男性は女性に「関心」を向けない
・その間ずっと、胴体全体の流れを止めないこと
ただこれだけのことなのだが、ただこれだけのことが二人の交合の不具合をたちまち解決してしまうこともある。すべては難解なことではなくて単純なことの見落としから始まっている。人間のこころは胴体(の流れ)にあるのだが、交合はそれぞれの胴体が性器において異なる以上、胴体の流れ(こころ)を「傷つけてする」ものだということ。このことが見落とされている。それはつまり、性器部分において胴体の形が「違う」というだけのことが、<<どれだけ重大なことであるか>>が理解されないまま、セックスだけが興味の対象に取り上げられているという状態だ。
この「練習」は、いうなれば、
・左足にスニーカーを履き
・右足にハイヒールを履く
というようなことで例えられる。スニーカーとハイヒールは形が違うことが誰にでも認知されている。認知はされているが、それぞれが足に履いたときに「どう違うか」を誰もが感触でよく知っているわけではない。同様に男女の間で性器の形が違うというのも、認知として知られているのみで、実際に何がどう違うものなのか、感触としてはよく知られていない。そうして互いの胴体の形が違うことをよく受け取らないまま、セックスだけ敢行しようとするので、そのことはまるで片足スニーカーと片足ハイヒールで「とりあえず駆けだしてみた」というような結末になるのだ。そんなものはすぐにでも転倒してケガをするに決まっている。
左足にスニーカーを履き、右足にハイヒールを履いて、ひとまず立ち上がってみたときに起こる、直接両足から感じ取られる「違う……」という感触がある。この当たり前の感触の違いを、女性は男性の脚の間に座り込んで確認する。右手で触れる男性のペニスと、同時に左手で触れる自分のヴァギナの両方を、「違う……」と感じ取りながら、その両方を愛撫することを続ける。このときに、胴体全体の流れを止めないことが重要だ。右手に感じるペニスの形と、左手に感じる自分のヴァギナの形を、それぞれ「違う……」と感じ取りながら、それらの両方を肯定し、性器を具有した六体満足者としての胴体全体の流れを保ち続ける。
むろんこのことは直接に挿入しての交合で得られればそれが何よりなのだが、実際に性器と性器を結合して男性が覆いかぶさってくるときの圧迫感の中においてはますますこころ(胴体の流れ)が引きつってしまいがちだ。この練習は、その引きつりに対抗できるだけの心身を獲得するための訓練になる。女性の自然な感性において、両手に触れる両の性器が、「形が異なる」ということはそれだけで漠然とした恐怖の感触を覚えるはずだ。そしてその恐怖を具有していることは、同時に傷つけあう「痛み」の性質を持っているとも感じられる。この「痛み」の中で「止まらない」ということを訓練しなくてはならない。両手に感じ取る先、彼のペニスは自分のヴァギナと比べて「違う……」のであるから、それを具有する「彼」についても、このとき親しかったはずが「違う」存在なのだと感じ取られてくる。そのことに直接の痛みが伴う。その痛みの中で「止まらない」ということが重要だ。
片足にスニーカーを履き、もう片足にハイヒールを履いて、そのまま「やけっぱち」で歩けば、きっと足首をくじいたり、かかとに靴擦れを生じたりするだろう。そうしたことは痛みのみならぬ「傷口」になってしまう。けれども慎重に歩くことを重ねれば、やがて胴体全体での「身のこなし」がわかってきて、両足の靴が異なっていても歩けるようになるはずだ。むろんハイヒールとスニーカーは元々そのような履き方をするようには作られていないので虚しいことだし無意味なことだ。けれども男女は違う。男女は元々そのように異なる性器を持ちあってこそなんとかできるように作られてある。ともあれ、なるべく「平然と」し、慌てることなく、両手に互いの性器を感じ取って愛撫を続ける。胴体に流れるものをそのままにし、流れを止めない。胴体全体(六体すべて)が動いていてよい。このとき先に述べたように、練習のパートナーになっている男性のほうは、練習をしている女性のことに「関心」を向けないことだ。互いに関心を向けず、ただ「ペニス所有者」と「おまんこ所有者」の非相互理解の関係としてそこに二人があればよい。そうすれば交合に向かおうとする胴体の機能は勝手に惹起されてくる。「感じさせよう」というような意識的な努力は不要なのだとこのときわかってくるはずだ。お互いにお互いのすることを「放っておく」「邪魔しない」という感触だが、そのとき互いは決して互いを無視しているのではないということが感覚的にわかってくる。
このことはあくまで練習だ。胴体(性器)の形が異なるということに起こってくる「痛み」、およびそれが元々「傷つけてする」ということの直覚、そしてその中でもなお「胴体の流れを止めない」ということを、自分の身に養っていくための訓練になる。とはいえ、このことがひとしきり為されて、わかるようになってきたとしても、そこから実際にペニスをヴァギナに挿入する段階になれば、そのままただちに上手くいく、ということには中々ならないだろう。特に女性にとって男性がのしかかってくるときの圧迫感と、ヴァギナを直接ペニスで脅かされるときの危機感はまったく迫力の異なるものだから、せっかく練習で慣らしてきたはずのその「六体満足の流れ」も、そのときになって力んで凍り付いてしまう。けれどもそのことを平然と繰り返していくとき、自分がどの瞬間に「胴体の流れを止めている」のかがわかってくるはずだ。いずれ「あ、今わたし止まった!」ということがわかるようになってくる。そのころにはもう、胴体の直接の感覚として、自分のヴァギナがどういったもので、これを使って何をしようとしているものなのかが直覚でわかり始めているはずだ。そこまでたどり着けばその後は自然に交合の仕手として育ち鍛えられていく。
練習というのはまさかハンド・テクニック的なものや電動器具を使ってどうこうするとかいうことの練習ではない。もちろんそういった技術も、豊かな遊びとなるように膨らませてゆけばよいだろうけれども、そうした「テクニック」のつもりのことだけを馬鹿げて追求すれば、そのことはますます交合を意味不明にし、胴体の流れを凍り付かせるだけだ。
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以上の六項目をもって、もともと女性を傷つけてするという「交合」についての、直接のアドバイスとしたい。六項目の全てはこれまで一般に流通しているセックス観とはまるで異なる、むしろ真逆のアプローチを推奨するもののはずだ。
怒りを以て考えよ。なぜこうした、本来の性質と本来の経験から知られたセックス観がわれわれには智慧として与えられず、交合といえばまるで「いやらしいご褒美」というような貧しい受け取り方のみをわれわれはさせられてきたのか。
それを「いやらしいご褒美」のように捉えることは、自慰産業のコンテンツを創り上げるときには有為な視点だ。それが「好き」という人も少なからずあるだろう。けれども、自分の身をもって、胴体をもって、性器をもって、その「いやらしいご褒美」などということをさせられるのはどうだ。コンテンツを見物するのは好きでも、自分の身としてやらされるのは「ごめんこうむる」という心情なのだろう?
「いやらしいご褒美」のようなことに、健気に憧れて実際にしてみて、それを繰り返すと心身がずたぼろになって、やっていけなくなったという人が、今実際にどれだけ多くあるだろう。その中でも立場上、セックスを「させられる」ということから逃れられない女性が無数にいる。怒りをもって考えよ。本稿は必要に応じてヴァギナを「おまんこ」と通俗語で表記することも意図的に織り込んだ。そのことは文章の印象に猥雑さを与えたかもしれない。けれども何によって? あなたの胴体に具わっているおまんこと呼ばれる性器は博物的に見てなお猥雑さのものなのか。それは違う。僕が書き手として猥雑さを盛り込んだのではなく、われわれが今、女性がおまんこの持ち主であるというだけで猥雑なものだと侮辱される世界の地図において歩かされているというだけだ。
僕は女性を、おまんこの具有によって猥雑さに侮辱し、それを眺めるという意志を持たない。僕からあなたへ、つまり、異なる胴体を持つあなたへ。あなたの持つ「それ」が何なのかは、僕に具わらないものなので、僕にとってはわかりようがない。わかりようがないものなので、僕はあなたのそれへ関心を向けないし興味も向けない。わかりようもないものに関心や興味の向けようがあるものか。それは「あなた」の持ちものなのだろう。だからその点は安心して、僕がいかようにあなたを押し倒してあなたをむさぼったとしても、僕があなたの持ちものに向けて観察をしたり何かを「チェック」したりというようなことは決してない。僕はあなたが女であるとき、おまんこさん、あなたが女であることの邪魔をしない。僕は男だから。あなたが女としてどう感じるか、どう乱れるか、そんなことは男の僕にはなんらの関心も持ちようがないことだ。ただ僕がときどき知るのは、六体満足となった女が僕の眼下で、僕などでは及びもつかないほどうつくしい様を見せることが本当にあるということだけだ。
[怒りの日、交合は女性を傷つけてする/了]