No.364 時間は実物だ
時間は実物だ。時間というものは、目の前にこれだと置いて示すことはできないけれども、事実上実物として存在していると認めざるを得ない唯一のシロモノだ。今このときにも時間は流れていて、つまりこの実物だけがわれわれの間をつないでいる。ここに書きこまれているような日本語などは、所有する言語が違えば了解不能になるわけだけれども、時間の場合はその母国語がどうとか国籍がどうとか経験がどうとかいうことに関係がない。時間だけはどうしたって実物だ。目の前に時計がなければ、見知らぬ二人が「これで十秒だね」と相互に確認はできないにしても、時計のなかった時代にだって、それらの十秒は時間そのものとして共有されていたのだ。こんなことを話したって何の得にもならないし、こんなことをわざとらしく話すことがさも文学的な何かだと捉えられている風潮を僕は最も嘆く者だが(というのはこんなもの誰だって書けるからだ)、僕がここで取り扱おうとしているのは文体がどうのこうのということではなくただ「時間」という物理および哲学の(まあ、純粋体験と呼ぶべき類の)話である。時間は実物だ、今この流れているときもね、ということが言いたかった。
時間は実物だ、ということに合わせて、たとえば音楽のような時間軸上に進行方向を持つ芸術の一般は時間芸術と呼ばれる。それにしては、音楽の三大要素はリズムとメロディと和音だと言われるのはどうもしっくりこず、第一にテンポじゃないのかね、と僕などは思う。あるいはテンポ感覚のないような奴は初めから音楽のことなど知ろうとするなということなのだろうか。いわゆる音楽というのはテンポを持ってこそ初めて「ああ、音楽だな」という感じになる。あれは本当にはテンポを楽しんでいるというか、流れている時間そのものを再発見してよろこんでいるようなところがある。音楽と演説の違いはまさにテンポが数学的に決定されているかどうかによる。演説だって何も悪者ではないし、場合によっては僕は演説のほうが好きだが。先日の広島でのオバマ大統領のスピーチはとてもよかった。アメリカ大統領が広島平和記念公園の前に立ったということ以上に、その大統領が「この人でよかった」と涙ぐましく感じた。僕のような非国民が覚えてよい感興ではないが、とにかくあれはイベントがよかったのではなく人がよかったのだ。それぐらいは僕にだって感じてよい権利があるだろう。
今、世の中の多くの人は、前進しなくてはならないという妄想に憑りつかれているかもしれない。けれども前進と上昇は違うものだ。そして生きていくうちのいくつかのことは前進することで済まされるが、もっと重要なことのほとんどは上昇によってしか解決しないというか満たされない。上昇と前進は違うし、たいてい前進のために前傾姿勢になることは人間の上昇する力を奪うものだ。前進するということは地面を蹴らねばならないから、人間は知らず識らず前進のとき地面にへばりつこうとする。まったく役に立たない言い方になるが、人間が前進しているときその時間の流れは流れではなく時計の秒針がカチカチ刻んで教えるような「時間表示」に成り下がる。時間表示はあくまで目安でしかなく流れている時間そのものではない。もちろん時間そのものより時間表示のほうがわかりやすい。だから前進している人はその一歩ごとを一カウントとして「時を刻んでいる」というように感じるものだが、それはよくよく見るとやはり時間ではなくて時間表示なのだ。前傾姿勢をやめ、時間表示でなく流れる時間そのものに帰順したとき人間は上昇する。人間が前後左右と思っていることや、前進・後退と思っているようなことは何一つ本当には実物ではなく、本当に実物と言いえるのは時間だけなのだとわかったとき、そのことがわかっている最中だけ人間は上昇する。
このところよくわからない出来事が身の回りで起こっている。というのは、よく昔から言う女の子が「メロメロになる」という現象があるのだけれども、これはどういう現象かというと、そのとおり「メロメロ」というオノマトペを当てはめるよりほかに言い方がないような状態になることだ。「身も心も」というやつ。メロメロになる。
このメロメロになるというやつが起こったとき、女の子はその自分をメロメロにしてくれた目の前の男に惚れてしまえばそれでいいと思うのだが、つまりはっきり言えば、このところどうもおかしくて、どれだけ僕が女の子をメロメロにしてもその女の子が僕のことを好きになってくれない。これはおかしい。男にとっては女の子をメロメロにするのが最大の戦果なのであってそれ以上のことは起こし得ない。ところが最近はどうもおかしい。女の子をメロメロにし、女の子は目の前で明らかに「身も心も」という状態になっているのだが、どこか女の子は「じゃ、またねー」ぐらいの気軽さを保っているのだ。どうもおかしい。これだけ女の子をメロメロにしてそれでもラブコールが返報されないのでは、これではもう男の側はどうしようもない。場合によっては、「あなたと過ごすと、いつもそう、本当に何もかも夢のよう」とまで言われながらフラれることまであるのだ。これではもうわけがわからない。
女の子は、夢のような時間を教えてくれる男を好きになるのじゃなかったのか。
まあでも、初めのうちは混乱したにしても、ここ数ヵ月でちょっと事情がわかってきたように感じている。つまり、世界観と言ったらおかしいが、もし僕が彼女に仕掛けたそのメロメロを特別に佳いものだと認めるとしたら、その後彼女らの生活はうまくゆかなくなってしまうのだろう。そのことはなんとなくわかる気がする。誰だって生活をしながら生きているのだ。あまりにその生活を困難にするような世界観を認めるわけにはいかない。たとえるならばこう言えばいいだろう。たとえば映画「ローマの休日」を観てメロメロになったとして、それを佳しとしてしまうとその後の生活がとてもしにくくなってしまう。それで彼女らはひとまずニコニコ動画でも観ることにする。ニコニコ動画を観て和む、もしくは癒される。あるいはテンションが上がる。それを良しとするなら、彼女はその後の生活がしてゆきやすい。こうして彼女は、自分をメロメロにしてくれた「ローマの休日」を恋人にはせず、ニコニコ動画のお気に入りブックマークのほうを恋人にする。現代にはまったくそういうところがある。いつの時代もそういうものだったのかもしれないが、それならば今このときもかつての時代とまったく同じことを言おうと思う。「まったく最近はどうなっているんだ」。
メロメロにされたものに恋をしないというのは……まあ、生活上しょうがないとも思うし、いやでもなあ、そんなことではなあ、とも思う。
それはつまり、どうしてもニコニコ動画的な何かにはなれない僕の、単なる行き詰まった嘆きというだけかもしれない。女の子をメロメロにすればいいんだと思ってきた。
でも最近は、メロメロにすればするほど、女の子に逃げられるということさえある。
そのあたりは、僕から言わせれば、僕にメロメロにされて僕のことを好きになるのが本当にはおかしいことなのじゃなく、もっと若く意気軒昂なイケメンたちにメロメロにされず、僕ごときにメロメロにされているのがおかしいのだ。もともとそちらの端緒の構造がおかしいのであって、そのおかしさのつじつま合わせに僕のことを好きにならずに済ますというのは非常にひどい話だ。単純に言えば若いイケメンたちの実力不足なのであって、その事実を隠蔽するために僕の実力結果を歪形するのはひどい不正行為ではないか。まあでも、そんなことを思いながら、けっきょく強く言う気になれないのは、僕だって彼女らのことを思いやれば、僕みたいなやつにメロメロにされてかわいそうに、という同情を禁じ得ないからだ。本当は彼女らだって、若いイケメンにメロメロにされたかったのだ。そもそもそのことが叶っていれば、僕がこんな形で嘆くことも起こらなかった。
「こころは胴体にある」という言い方を、ここしばらく続けている。これはマイブームの類ではなく、これまでの全体験の総括として結び得た到達点のことなので、このことは忘れ去られるとか流行が去るとかいうことはない。アインシュタインの相対性理論なんかと同じで、「実はこうだったのだ」ということが明らかにされただけなので、もう旧来の思い込みの時代に引き返すことは起こりえない。「こころ」とは何なのか、どこにあるのか、どういう現象なのかということについて、科学的知見が刷新されたといっていいだろう。それで「こころは胴体にある」という言い方をこのところ続けてきたが、どうも誰にも聞いてもらえていない気がしているので飽きてきている。どれだけ有意義な刷新の知見であっても、圧倒的な手法である「聞かない」ということの前には無力だ。どうもわかってもらえていないところがあるな、としばしば思うのだが、このことを直接誰かに訊いてみると、たまに、
「あの、胴体ってどれのことですか?」
と訊き返されたりもする。まさか「胴体」という単語がすでに人々にとって馴染みのないものに成り果てていたとは想像もしなかったが、そんなこともあるので、いよいよ「こころは胴体にある」ということも、ひょっとして言っていてもしょうがないのかと感じ始めている。どうも色んな人に協力を得て点検するのだが、「胴体」という言葉の意味自体がはっきりわかっていない人が少なからずいる。「手はどれですか」「耳はどれですか」「髪はどれですか」ということはどれもはっきりわかるのに、「胴体はどれですか」と言われたとき「えーっと……」となる人が少なからずいる。どうも、女性ファッション誌に載っていない単語は女の子にとってよくわからないものに成り果てているみたいだ。そう考えれば確かに女性ファッション誌が「胴体」などという書き方はしないだろう。彼女らはどうも「デコルテ」とか「絶対領域」とかいう珍しい部位の呼称はただちにわかるのに、「胴体」という一般的な呼称が自分のどこを指しているのかとっさにピンと来ないらしい。それではさすがに説明に困る。こころはどこにありますか、という問いには答える気になれても、胴体はどこにありますか、という問いにはさすがに答える気になれない。
しかし、こころは胴体にあるということは、どれだけ縁遠くても生来的な事実なので、当人がそのこと知っているかどうかには関係がない。僕だってごく最近になってその結論にたどり着いたのだ。だから別に知られなくてもいい。温泉は火山地帯に湧くということのように、別に知らなくても温泉はそこに湧くのだから問題はない。ただ、このところの女の子は「こころ」に触れられたことがほとんどないようなので、僕ごときがちょっと彼女らのこころに触れるだけで、彼女らはたちまちメロメロになってしまう。まるで卑怯な反則技をしているみたいに、あっという間にメロメロになる。ただしこれは本来の正攻法のはずだ。本来は男が髪型や服装や眉毛の整え方で女の子をその気にさせようということのほうが反則行為だったはず。ただ彼女らはその正攻法で触れられたことがないので、もう押し倒すまでもなく、目の前に立たせているだけでもう足元がおぼつかずふらふらになっている。本来は(と、たいへん愚痴っぽくなるが)、この時点で女の子の側から抱き着いてきてくれなくてはいけないのだ。そうやって進行しないと絵図として恰好が悪すぎる。ところがどうも彼女らは、そうして正攻法で触れられたことがあまりにも少なすぎて、メロメロになったときに自分がどのようにしたらよいかが本当にわからないらしい。ここで抱き着いてきてくれないと、もう素敵なシーンはこの先二度と無いぞ……と思うのだが、かといって待っていても本当に何も起こらないので、僕のほうから不恰好な誘導というか、手ほどきをしなくてはならない。胸元に抱き寄せると、先ほどまでひどく弱りがちだった彼女の胴体から蒸気と熱気が噴きあがり始める。本来、女の子なのだからそういうものだし、男女という関係もそういうものだ。
そうして女の子がメロメロになったところを抱き寄せ、女の子も次第にそのことをよろこぶようになり、果てには「あなたの脚の間にいるのが好き」「あなたに負担を掛けられるのが好き」とまで言ってくれるのに、それでもなお、彼女は僕のことを好きになってくれない。なんなんだこりゃあ、と思い返すたび酒量が増える。もちろん僕だって同情するし、「この子も、もっと若いピチピチのイケメンにメロメロにしてもらえたらいいのにな」と胸を痛めているが、そんなこといっても事実上貴女は僕の胸元でばかりメロメロになっているのだから「しょーがないだろ」とも言いたくなる。まあその後、もし僕のことを真正面から好きになられても、確かにそこからの生活ぶりが心配になるということはあるのだが……それにしても納得はどこまでもゆかない。つまり平たく言えば、彼女は自分がメロメロにならずに済み、自分が平静を保って楽しんでゆける、ニコニコ動画ならぬニコニコ彼氏を求めているということになるだろう。そのことは正直、よくわかるし、非常にまずいことに、「それはよいプランだ」「できるだけ年収の高い男にしろよ」とさえ言いたくなるのだが、そこはなんとか、それとこれは別、ということにはならないだろうか。いいじゃないか別に。本当には僕のことが好きでも。
僕だってニコニコ動画をよく観る。よく観るというか、よく観ていた、と言うべきだろう。誰もが感じている通り、インターネット上の娯楽物は今、急速に飽きられ始めている。インターネット上の娯楽物だけではないだろう。ここ十年間で隆盛したものの多くがいま急速に飽きられ始めている。そのことも鑑みて、今こそ飽きるとか流行るとかいうことと関係が無い僕のことなどを恋人に押さえておくのはどうだろうか。あなたが僕に恋をするということに「夢が無い」と感じるのはものすごくわかるが、正確に言うと夢がないのは僕ではなく若いイケメン勢力側のはずだ。よくよく考えよう。もしくは、イケメン勢力側ではなく僕の胸元で蒸気と熱気を噴きあげるあなたの胴体(こころ)が悪い。あなたの胴体(こころ)がまったく素直に、僕の前で反応し、イケメンの前で反応しないという、その事実があなたを困らせている。そこで重ね重ね、僕は何も悪くないのだと主張しておきたい。僕はあくまで、あなたの胴体(こころ)が反応しない場合は、あなたをどうこうしようなんてわずかも思わないのだから。ただしそのかわり、あなたのこころに触れるということについては、僕は大人げなく容赦なくやるけれども……
ここまでの話なら笑っていられる。どれだけ僕が蒸気と熱気を噴き上げている彼女にフラれたとしても(なぜだ!!!)、まあ色んな事情があるものだよと笑っていられる。けれどもいよいよ笑っていられなくなる状況もある。
それは話が身内や家族、あるいは彼女を苦しめた過去になど及んだ場合だ。往々にして日本人にとって家族ということの話題は生きていくうちで最もシリアスなもので、少なからず日本人にとって生きていくうち最も憂鬱な話題が「家族」でもある。特に、未成年や十八歳未満が家族システムの庇護下にあるうち、当人はどうにも逃れようがないという状況もある。この場合はいささか笑えない。十七歳の女の子のお腹をぎゅっと掴むとなぜか彼女はポロポロ泣き始めた。ふと、瞬間だけ見せる切実な少女の眼差しがある。「どうしたの」と訊くと「なんでもないです」と立ち直る。「どうして泣いているの」「わかんないです」。続いて戯れに彼女の喉元などを片手で締め上げてみる。すると彼女はふわっとむしろ全身の力を抜いてしまう。キスをしても逃げないだろうし、それどころか安全ピンで耳たぶに穴を空けてやっても抵抗しないだろう。やはり蒸気と熱気が噴き上げてくる。明らかに安らぎ、明らかに精気を取り戻していく身体。だが彼女は他の事を考えなくてはならない。彼女が僕を恋人に選んで恋人ごっこをするというような余裕はまるでないのはさすがに僕にもわかる。彼女は僕と戯れることをとても好んだ。戯れるたびによろこんだ。そしてその戯れをことごとく自分の中で「無かったこと」にした。その事情はとてもよくわかる。彼女のこころはぬくもりとやさしさを求めていて、まだ若く素直なので与えられたぬくもりにはただちに順応するところがあるが、それにしても彼女には今自分が生きていかねばならない場所がある。それは往々にして身内のところだ。ここ、ではない。
ちょっとだけ真面目な話をすると、確かにこころは胴体にあるのだから、こころのふれあいというとそれは胴体のふれあいということになる。胴体が直接触れ合うことに限らず、胴体に流れている「気」(と呼びたくなるようなもの)は、直接の接触がなくても反映の現象を起こしそこに「ふれあい」と呼ぶべき体験を得させるのだ。だがそれだけに、こころ(胴体)のふれあいは、こころ(胴体)を変容させてしまう。僕が彼女を締め上げて、彼女がこころ(胴体)の安らぎを得たことは、それ自体はよいことに思えるかもしれない。でもそれだけでは、彼女は「家」に帰れない。彼女は「家」で生きていくために、自らの胴体を安らがせず、固めて凍結することを選んでいるのだ。そうでなければ、彼女自身の「気」が狂ってしまうから。つまり……結論だけ言うと、僕が彼女のこころ(胴体)をメロメロにして、そのままに放置してしまうと彼女のこころ、彼女の胴体には「悪夢」が侵入してしまう。彼女の生活は荒廃した家族と身内に取り囲まれており、彼女のこころ(胴体)はその包囲網下の影響を受けてしまう。荒廃したこころ(胴体)群の包囲網下の影響をもろに受ければ、彼女は強い悪夢に侵入されてしまい、場合によっては修復しがたい人格の損傷を受けることもありうる。そういった包囲網下で、強い悪夢に侵入されないためにはどうすればよいかというと、実効的にはこころ(胴体)を凍結させるほうがよいのだ。あまり言いたくはないがこれが真相である。もちろん彼女自身が、自身を包囲する荒廃したこころ(胴体)の干渉を、逆に撃破し突破してしまえるだけの強力さのこころ(胴体)を自身に得ていればいいのだが、彼女はまだ幼く胴体も立場も経済力も弱すぎる。それで彼女にとって僕とのふれあいは「無かったこと」にされる。それを「無かったこと」にすることによって、再びこころ(胴体)の凍結を取り戻すのだ。そして悲しいことに、全体を俯瞰する上では、そのときの彼女はそうしてこころ(胴体)を凍結するという選択のほうが正しいのだ。願わくは、彼女はその後自らの立場と経済力を強化するように成長し、やがて家族から十分な離脱を果たして、その後にこころのふれあいとやらを再び獲得すればいいと思う。彼女は年齢と立場がその時宜を得るまで、ずっと冷たい泥水に顔を伏して耐え忍んでいる。
そういうことがあるので、僕としても、なぜ女の子をメロメロにしているのにフラれるのかということの不平についても、その矛先は僕をフッた当人の彼女ではなく、彼女を取り巻く周辺状況に向け直されるわけだ。つまり、世の中が悪い。社会が悪い。時代が悪く、状況が悪い。
もし彼女が面と向かって、
「あなただけが好い人であっても、わたしには実際どうしようもないのよ?」
と僕に言いつけようものなら、僕としては反駁しえず閉口して鼻白むしかない。ただ、今になってもう、憮然とするというような情緒は僕の内側で解決された。相変わらず、納得がゆくという類ではないにせよ、事情はよくよくわかったと感じる。こうなるともう、残される問題は僕の側ではなく「あなた」の側にあることになる。僕はあなたが身も心もメロメロになったとき、それを「無かったこと」にする仕組みについてようやくわかった。僕の側はそれがわかったのだから、次はあなたの側がわからないといけない。あなたは何がわからないといけないか。それはもちろん、なぜ身も心もメロメロにされてしまうということが「あった」のかだ。事実、それは「あった」のだから。あなたにとって、僕のようなわけのわからない男に、好きでもないはずが身も心もメロメロにされてしまうということが、平たく言って「辻褄が合わない」のだろう。その辻褄の合わないことがなぜ容赦なく起こるのか、といってもそれは僕が意図的に引き起こしているのだが、そのことをあなたは知らないといけない。まだ若いあなたが知るべきは、世の中のことではないし、まして家族のことでもない。お父さんやお母さん、あるいは兄弟のそれぞれが、内面でどういう事情を持っているのか、そんなことを知るのは六十歳を超えてからでいい。あなたはまずあなた自身のことを知ることだ。「なぜわたし、身も心もメロメロになってしまうんだろう、よりによってこんな人に」という、その事実あったことについてあなたはあなた自身を知るべきだ。そのことを知ってゆく果てに、あなたが愛をつぎ込む先が、最悪の場合、僕でなくたって構わない。僕もそこまで強欲ではない。ただ僕は、あなたが自分のことをメロメロにもしてくれない誰かに愛(のつもりのもの)をつぎ込むようになるというストーリーを避けたいのだ。
身も心もメロメロになるというのはどういう現象なのか。特に男性から女性に、何を仕掛ければそのようなうらやましい現象が得られるのか。また女性はその点で、男性のどのような点に注目してそのオトコの品質を見極めればよいのか。そのことは最も重要な着眼点だ。だからそのことを初めから申し上げている。女がメロメロになるというのはつまり、上昇してしまうということだ。前後左右の観念は実物ではなく、よって前進主義も前傾姿勢も、悪いものではないが実物ではない。唯一の実物とは何であったか? そのことを初めからお話しした。時間だけは実物だ。
ある女の子がこう言った、
「わたし、あなたのことが好き、というわけじゃないのだけど、あなたのように生まれて、あなたのように男になって、あなたのように無数の女の子に囲まれて愛されて生きたかったって、本当に思う。つまりわたし、あなたになるのがいい」
そこまで言ってくれるのなら、それはもう僕のことを愛してくれているということだと思うのだが、強情だね、本当は状況がどうこうの以前に単なる強情っぱりということが八割がたの理由を占めているのかもしれない。こうしてけっきょく、何の納得がいくというわけでもなし、思い返せばやはり愚痴と酒量が増しそうな予感ばかりがあるのだったが、せいぜいわれわれがつながりうることだけを言い残してゆこう。――時間は実物だ。
[時間は実物だ/了]