No.365 地面と付き合うと何が起こるか
時代が人々を地の力から剥離する。人々は浮足立っており、まさに、浮足立っている。このことは説明されない。説明は愛されない。説明することでますます人々は浮足立つ。「わかった!」という勇ましい声と共に浮足立つ。地面から剥離する。人間の物事の理解と地面は実は深く関係している。人間は地面と関係することで「理解する」という能力を持つ。この場合の理解は悟性によるものだ。はっきりと悟るということ。今現在人々が「わかった!」と勇ましく言うそれは単に「認知しました!」という掛け声でしかない。理解は人間と地面との接続によって成り立つ。understandという言い方にもその臭いが残っている。言語学的に追及はできないけれどもunder+standの言い方には何かが感じられる。今や学術的な興味を追跡している暇はなく、ただただ、理解は人間と地面との関係によって成り立っているということが言われねばならない。"言われねばならない"。日本の言葉においても、地に足がつくとか腰を据えるとかいう言い方をする。踏襲するという言い方もする。「踏まえる」という言い方もする。そもそも、「落ち着く」という言い方をする。
地に足をつけろというのはこの場合、堅実な生業を得よということではないし、婚姻などして身を固めろということでもない。そして何より、脚を力ませて地面を蹴るということではない。地面を蹴るのは地面を踏むことの正反対だ。地面を蹴ることは地との関係を破却することに他ならない。
困ったことに、われわれの全身はわれわれが思っているよりはるかに霊的だ。この場合はあえて、面倒なので霊的と言い放ってしまうよりない。だがどこまでも重要なのはオカルト好きの高揚した気分ではなく地面との関係だ。われわれの理解は地面から成り立っている。信じがたいことだがどうやら本当にそうだ。僕からあなたに何かを話すにしても、驚いたことに、話したことが理解されるためにはお互いが地面にビタッとくっついている必要がある。わけのわからないことだが本当にそうなのだ。われわれの全身が霊的に出来ているというのはそういうことだ。なぜかもともと、地面にベタッとくっついていないと「理解」の機能が開かないように作られている。でもそうして考えればなぜ禅僧が座禅といって地面に置物のように座り込んでいるのか、あのやり方も整合がつく。この場合いっそ、「知性」というのは「地性」と呼び変えられて、まるでファンタジーゲームのように、「理解」の能力は「地属性だよ」言われてしまってよいかもしれない。そうして手っ取り早くこのことは、論議されるより先に獲得されてしまう必要がある。それぐらい、状況は危機的に逼迫しており、今すぐにでもこのことは取り掛かられてゆかないと色んなことがもう間に合わない。ずっと前から二宮金次郎の像が、薪を背負って歩きながら勉学している姿として遺されているが、あれは二宮金次郎が「地面に足が強く着いているほうが理解の機能が向上する」ということに気づいてあのような学び方をしたということのモニュメントではないのか。
なぜ男性はヒール靴を履いてはならないのか。それは踵をつけて立っているのとつま先立ちとでは人間の知性の機能が変わってしまうからではないのか。
まるで根拠のない妄想の話を書きつけているだけのように見える。だが実際にソファーで勉強する学生はいない。「ソファーで勉強しても落ち着かないから」と学生が言うことは不自然ではなかろう。僕は以前、葛飾区の住居から現在の目黒区の住居へ転じてきたとき、新しい書斎の畳床に椅子とデスクを置いて執筆をすることに耐えられず、ただちに床を板張りにリフォームした。その際、床板を特別に厚い板にしてくれるようオーダーした。デスク前のハイバック・チェアに座りこんだとき、畳床が軟弱性を持って緩むことは到底耐えられる感触のものではなかった。畳床なら椅子を置かず直に畳に座り込むしかない。
このところ、僕自身での研究が進んでいる。ずっとそのことの研究をしているようなものだが、その中で身体が前後左右に傾きを持ってはならないということも発見されてきている。身体の傾きが前後左右に「ゼロ」になったとき、人間の機能は変化する。特に知性、悟性、感性の機能が変わる。知能や運動能力はさして変わらないかもしれない。知能と知性はまるで違う。身体が前後左右にわずかも傾かず、傾きが「ゼロ」にならなくてはならないというのは、つまり「自分の全身が純粋に重力のみによって地面と関係せねばならない」ということかもしれない。おそらくそうなのだ。そのことを、健康法として勧めているのではない。そのようにしなくては自身の知性、悟性、感性の機能が開かれていかないのだ。事実、もうずっと以前から、僕は何時間デスクについて執筆をしていてもそれによって肩こりが起こることなどはすっかりなくなった。この一事にしたって、肩こりの多い人にとってはずいぶん珍しいことのはずだ。
どれだけ馬鹿馬鹿しい言い方であっても、役に立つのならばそれでよいと思える。たとえるならば、地面には目に見えないLANケーブルのようなものが――無数に――出ている。あるいは充電用のライトニングケーブルの端子などでもよい。ただこれは地面から垂直、鉛直方向真上に出ており、人間は傾きをゼロにして完全に地面にビタッと乗っからないとケーブルが挿さらない。LANケーブルのつながっていないものに多様な通信を求めても機能上無為なことだ。どんな言い方でも役に立つのならよい。ただどうしても人間の身体は力む。身体は力むし、目は前方についているので身体は前方に傾く。正確に言うと前方に「関心」が生じるので、その関心に「注目」し、それによって感覚はそちらへ傾く。およそこうして、今の僕のように文章を書いているとき、目の前に展開する文章ではなく足元・尻の下の地面に関心を持っている人間などほぼないはずだ。だが実際に僕はそうなのだ。誰からそう教わったわけでもなく、やがてそうするより他なくなっていった結果として現在のやり方がある。
時代という観点において、過去と現在とを比較したとき、現在は過去よりはるかに街中の広告が増えた。常時眺めているようなスマートホンのモニタはもとより、風景のありとあらゆるところに広告その他の情報が目に入らないことがない。広告は必ず注目されるためのアテンションをデザイン上にほどこされている。そうして広告に囲まれているわれわれはふだんの暮らしの中で関心と注目を四方八方へ散り散りにされてバランスを失う。時代が人々を地の力から剥離してしまう。過去と現在を比較したとき、特に白黒映像の中にある人々と現在のわれわれのありようとを比較すると、過去の人々のほうが地に足がついているのは確実だ。現代のわれわれは、過去の人々より遥かに浮足立っている。人間の霊的な全身は、浮足立つことによって機能を閉じる。ここで浮足立つというのは精神的な軽薄さを言っているのではない。ケーブルがすっぽ抜けているということを指している。
また、現在と過去とでは、小売りや通信端末の利便から、人々の歩き回る量も単純に減っているだろう。
そしてなぜか我々は、本を読むときは身体の正中線上に真っ直ぐ持つのに、スマートホンでニュース記事を読むときは、スマートホン本体を正中線上に真っ直ぐは持たない。なぜかスマートホンの持ち方はだらしなくなるのだ。本と同じ位置・角度にスマートホンを置くとなぜかニュース記事が読みづらくなる。
こうしてわれわれは全身を傾くように習慣づけられ、われわれはますます地面から剥離する方向へ押し出されている。
いつからか、「ゆとり」という呼称で一定の時代的世代が悪しざまに言われる風潮が起こった。その悪しざまに言われる讒謗は単に非道なムードによるものと思われ、反面、またどこか実態に即して正当に嘆かれている声も混じっているようにも感じられた。少なくとも、いわゆる「ゆとり世代」でなかったとしても、現代のわれわれがずっと過去のいつかに比べて、総体として知性的な堅牢さを蕩散させつつあるのは実感として明らかなことだ。
ただもし、この悪しざまに言われるところの知性の蕩散が、努力不足あるいは気合や根性の不足によって起こっているのではなく、まさかのまさか、地面からの剥離によって起こっているとしたら? そのとき、自他どちらに向けてであれ、きつい叱責や非難の鞭を以って「しつけ」を施しなおそうとする取り組み方はまったく的外れになる。どれだけ知性や悟性を取り戻させようと"シバいた"としても、地の力から剥離していては人間の理解の機能は開かれない。どれだけ知能を高めたとしても、知能は物事を記憶するだけで、記憶した物事が自己の人格へ組み入れられて人格ごと再構築されるためには知性の機能が不可欠だ。
現代の、特に若い世代の人々は、多くダンスに憧れているところがあるように感じる。むろん、人によってはサッカーをしていたりバスケットボールをしていたり、フェンシングをしていたりもするだろう。だがもしそれらのコーチが、まだ成熟しきらない知識をもって、単純な形態だけを獲得するようにと、「力んで地面を蹴りなさい、つま先立ちで!」と教えたとしたら。人々はますます地の力から剥離する。むろん本来は、伝統に裏打ちされた正当な文化のすべては、人間の知性を向上させる営為として洗練されてきているはずではある。けれどもそれに取り組み教えるすべての人が、その肝心のところまで到達しているという保証はないわけだ。
地面にもぐりこむつもりでちょうどよい。床下にもぐりこむつもりでちょうどよい。床上にある自分の全身がどのような形であれ、その「中身」と感じられるような自己の感覚を、すべて床下にもぐりこませてしまうぐらいでちょうどよい。空っぽになる具合でよい。すべて自分の足の真下へ。understand. そのまま何をするにしても、床下から――あるいは床そのものから――飛び出してこないように。前後左右へ傾かず(「関心」があなたを傾かせる)、重力のみで地面と付き合う(地面を蹴らないこと。地面を蹴ると人は「棒立ち」になる)。
地面との関係が鉛直方向に生じる。すると人間はどこか上昇する。かつて心理学者のカール・グスタフ・ユングは、幼いころ岩の上に座っているとき、「わたしが岩の上に座っているとも言えるし、わたしが岩となって支えているとも言える」と直覚したそうだ。
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僕はもともとこの話を、「思いやり」について話そうとしたのだ。けれどもその話はたちまち頓挫した。思いやりは知性に属し、思いやりの発現は知性の発現に他ならない。現在、多くの人が知性を蕩散させがちであるとして、単純に言えば「知性のない人へ知性のなさを説明できっこあるか?」という閉塞に行き着いた。現代、どれだけ人工知能の新しいブームが来たとしても、人工知能は笑いもしなければ怒りもせず、ユーモアもなければウイットもない。人工知能は「びっくりした!」という情緒など持ちえないし、人を気の毒に思うとか、あるいは人に思いやりを向けるなどということもない。それは知能と知性が別物だからだ。誰も人工知性が開発されたなどという話はしていない。そして改めて思い知らされるのは、われわれが貴重に思うことのすべては人の知性の発現による営為であるということ。心理学における、他者性を確認する実験においては、人間の三歳児の知性は、三歳のサルの知性に劣るということがレポートされている。それは端的にいえば三歳のサルのほうが「オトナ」だからだ。実際、三歳の子供はまさに「コドモ」と見えるが、われわれは三歳のイヌやサルを見ても「ふうん」と思うだけで、そこに「コドモだなあ」という印象は覚えない。むろん、人間の三歳児は言語を操るし、初等の算数まで扱うのだから、知能においてはサルに勝るのは明らかだ。けれども知能において勝るということは、知性において勝るということをまるで保証しない。イヌであれサルであれ、三歳ともなれば胴体は十分に頑健だが、人間の三歳児はまるで胴体が柔弱で、人や物、および地面と付き合うにはまだまだ成熟が必要だと感じられる……
われわれはユーモアやウイットを振舞ってくれる人をよろこばしく感じ、好ましく思う。またそうした人を決して「コドモ」とは感じない。そして、ユーモアやウイットを振舞ってくれる人について、彼が思いやりを持たない冷血漢だとは感じない。それどころか、そうして「オトナ」だと感じさせてくれる当人である以上、見せびらかさないでも必ず思いやりのこころを――事実、いつでも発現可能なものとして――持っているということを確信さえするものだ。われわれはこうして、自分が生きることの周辺を取り巻く営為に、知性が満ちてあることをよろこぶ性質がある。その中でも、最もかけがえのない、不可欠なありがたみとして胸に感じ取るのが、まさに人から人への「思いやり」だろうと言いうる。このことはすべて知性に属する営為であるから、どれだけ本人が鼻息を荒くしても、知性がそのレヴェルへ到達していない限り、キモチはどうでも事実として思いやりは営為の中に実現はされない。
人を思いやるということは、それだけで高度な知性を要求されるものだ。単純に言って、コドモにやれそうなことではないと誰でも感じるし、そういうものだと知ってもいる。キモチ一つの切り替えや、意欲的になろうとすること、および「思いやりを持ちます!」と宣言する手続きだけで思いやりが現成できるものなら、人が人と付き合っていくことはもっと気安く豊かであっただろう。けれどもそう虫の好い話はないものだ。
さしあたり、思いやりが知性の発現であることは間違いなかろうし、今のところ言いうるのは、その知性というものも当人のキモチ一つでどうにかできる類のことではないということだ。そしてまさかのまさかということになるのだが、僕が今言いうるとしたら、知性は地の力に属しているということなのだ。この奇妙に聞こえる話が、いかさまの類なのかどうかはけっきょく定かではないが、あなたはただ自分が好ましく思うユーモアとウィットの持ち主、「オトナだなあ」と確信できる、思いやりのある誰かについて改めて確認することができる。あくまであなた自身の感覚に依るしかないことではあるが……きっとあなたが目撃するその人は、前後左右に傾いていない。浮足立っておらず、地面と付き合っている。時代がどれだけ人々の多くを地の力から剥離していったとしても、やはりそうして例外の人間は出現する。地の力を得つづけている人間。彼は理解に――understandに――長けているが、「わかった!」と勇むことはなく、慎重に立ち続けている。
[地面と付き合うと何が起こるか/了]