No.366 間に合わない世界とセルフマインド
積年の謎が解けたような気がしている。
僕は見失うことがない。なぜ見失うことがないかというと、僕は自己決定や無数にある判断などをマスターマインドに依拠しているからだ。マスターマインドとはナポレオン・ヒルの造語であって、僕自身の文脈に盛り込むにはいささか異物感があるが、この際は僕の話が少しでも汎用性を持ちうるようにすでに市井に広く知られている自己啓発の語り口に結び付けて話しておきたい。
マスターマインドとは、集合的マインド、集合的な思想・ideaのことだ。
遠回りな話し方をすると、たとえばつい先日リオオリンピックに引き続いてリオでのパラリンピックが開会された。パラリンピックの映像を見ると、僕のような小心者には、勇ましさの背後にどうしても一種の苦労をしのばせる痛ましさを覚えて怯む心地がしてしまうのだが、それをもってパラリンピックの開催及び中継を控えろと言う気にはもちろんなれない。むしろ僕自身が態度を改めて真っ直ぐそれを観る眼差しを持つように傾いていかねばならないと感じられる。
なぜそのように考えうるかというと、万事についてそうだが、僕は僕自身の態度や意志や考え方を決定するのに、僕自身の思うところ――ここでは対比的に「セルフマインド」と呼ぶべきそれ――に基づいてそれをするのではないからだ。たとえば今上の皇后陛下は障がい者の方々が誇らしく生きてゆかれる世界を望まれ、その実現に向けてお心を尽くされたという話を聞いたことがある。僕はまったく極端な愛国主義者ではないが、かといって歪(いびつ)に厭国主義者でもない。よって皇后陛下にそういうお心があられ、また労苦を費やされてきた歴史もあったという話を聞けば当然としてぐっと立ち止まるところがある。そして何より、僕自身がどう思うかなどより、パラリンピックの舞台の当事者として競技場に馳せる方々――およびこの場合、特別の固唾をのんで観戦と応援をする障がい者の方がいらっしゃれば、その方々も十分に当事者に含めうると思う――の思いとして、それが栄光の晴れ舞台と受け取られ、彼ら自身を豊かにしているのであれば、当然そのことが最優先されよう。そして事実、そういった無数の主体の集合によって織りなされたマスターマインド(という言い方をここではあえてする)によってパラリンピックは開催されているはず。そこでありていにいえば、そうして大きな集合の意志、ideaによって成り立っているものに向けて、「僕自身がどう思うかなんて関係ないではないか?」ということになるわけだ。
そしてここから重要なことは、「僕自身がどう思うかなんて関係ない」ということが、逆転して僕自身にさえ及ぶということなのだ。つまり僕という主体が「わたしの考え方」を選ぼうとするとき、僕は僕の考え方として「僕自身がこう思う」を選ぶのではなく、マスターマインドのほう、「無数の主体がこういう考え方を織りなしている」ということのほうを選ぶ。僕の主人は僕自身ではなくマスターマインドのほうだ。僕は自分自身の思想やideaを決定するのに、セルフマインドを主人にしておらず、マスターマインドを主人にしている。なぜならといって、それはマスターマインドに成り立っているもののほうが荘厳に感じられてならないからだ。その荘厳さの御前に、「僕自身がパッとどう思うかなど、どうでもよくないか?」ということが自明の説得力を持つ。このマスターマインドによる荘厳さについては、これ以上説明の方法はないが、この種の荘厳さはアプリオリに感じ取られるよう心身の機能上に存在していると言わざるを得ない。それだって、その心身の機能とやらが十全にはたらいていない場合には、いくらでもナンクセをつけられる類のものにはなるわけだが。
このマスターマインドの性質によって、僕は見失うことがないと言える。なぜなら複数の主体の能動的な関わりによって織りなされた集合的マインドは、単一の「思います」で成り立っているものとは違い、相互に支え合って構造化しているからだ。誰でも自明で知るように単一の棒切れよりも構造化された構造物のほうが断然強い。構造化が確実に為されていてこそ堅牢たりうる。この堅牢さによって「見失う」ということがすでになくなる。僕にとっては、セルフマインド――自分がこう「思う」というだけのそれ――は、テーブルにそっと立てられた一本の鉛筆のようでしかないと感じられる。かろうじて立っており、かろうじてそのときは成立している。けれどもわずかな振動があり、あるいはわずかな風でも吹けば、その成り立っているものは転倒する。見失われる。重力下の三次元空間でいえばカメラの三脚のように、安定的に立脚を為すには少なくとも三本の鉛筆が必要だ。三本の鉛筆の一端を輪ゴムで留めて三脚の形にすればそれは三次元空間内で安定的に存在しうる。これはすでに構造化された構造物だ。戦国時代の伝承としてある三本の矢の訓話にもなぞらえうるが、それよりも正確な言いようとして、複数の主体が能動的に関わることで織りなされて構造化されたマスターマインドは、堅牢さと明確さにおいてセルフマインドより決定的に優れる。またそれ以上にマスターマインドは、孤立して成り立つ鉛筆一本のようなセルフマインドより、アプリオリに荘厳さを帯びるのだ。――自ら荘厳でないと確信されることに粉骨砕身できる者がどこにいよう? また、直観として荘厳さを確信できることがあるとすれば、そのことに身をやつすのにそれ以上の特別な動機/モチベーションの、醸成、あるいは"捏造"が取り立てて言われるほど必要だろうか?
功利的に考えることのすっきりとした心地よさを担保にして、僕はこのことをまったく功利的に捉える。功利的に言って、マスターマインドは実現しうるが、セルフマインドは実現しない。なぜセルフマインドが実現しないかといえば、見失われるからだ。それはもう、「たちまち」という言い方が寸分の狂いなく当てはまる。セルフマインドはたちまち見失われる。どれだけ入念に握力に包みこんだつもりでも、ふと外の風に当たるとただちに見失われる。数秒と経たず、――先ほどの自分の熱烈な決意は具体的に何だったっけ! と必死の形相で思い出さねばならなくなる。こんなものが実現されるはずがない。補足的に言うと、ナポレオン・ヒルがこのマスターマインドに関連付けてエンスージアズム(熱意)の発生を指摘していることはまったく正鵠を射ており、握力の果てに数秒と経たず見失われるものに熱意など持ちようがないのだ。セルフマインドなどは、通りすがりにジャーン! とドラマチック様の音響でもあればただちに消し飛び、そのとき世界で重要なすべてはジャーン! というわけのわからない興奮音響のみのものに成り果てる。見失われている。このことを功利的に見て、僕はそのような心身の散り散りさへ何も自ら生活費をつぎ込みたくないなあと感じると言いたい……
マスターマインドとセルフマインドという、対極の二派閥が明視された今、このことから看破される身の回りの事象はいくらでもある。そのいちいちを指摘することは無為ではなかろうが、今は差し控えよう。どれだけ説得力ある事象の解析を並べ立てたとしても、それらはついに同一の結論、「セルフマインドは実現しない」ということに到達するのみ。その他には、並べ立てても、せいぜい嫌味を含むことにしかならないはずだ。
今さらになって、僕は僕自身の「主人」、僕の自己決定や判断を支配しているマスターマインドを再確認する。それは僕を決して見失わない者へ仕立てあげてくれながら、同時にしばしば、身を背けたくなるような嵐に怯まず身を投げ込むことを僕に強いてもきた。逆にいえば、僕が僕自身のセルフマインドに依拠していたなら、僕自身にはわずかな嵐にも身を投げ込むような勇気はないのだ。すべての声、無数の声が、「こうしろ」と同一の方向を指差す。その無数の声が合一して言うところを受けて、最も小さく思える僕自身も、「よかろう」と受けて立つ。僕が持つ唯一の勇気の方法がそれ。
これまでに出会ってきた、無数のシーン、無数の人々、それらは僕自身の実体験も含みながら、思い出になったそれはフィクション作品とさして変わらず無慈悲なほどの美を具えて……同じ仕組みで僕は、無数のフィクション作品からもそれらのシーンと登場人物たちを想像力上に受け取ってきた。それらの全てが能動的な主体となって、僕の内側に構造化し、いざというときまとまって一つの声を強力に僕に示す。無数の声は一切の議論をせず、そのとき一つの方向を確実に指差す。「こうしろ」と。そのとき僕は「よかろう」とも応え、ときには勇んで「もちろん」とも、余裕綽々のふうで応えている。
指差された方へ向かいながら、無数の声が一切の議論をしないことについて、直観的に覚えることがある。「こうでないと間に合わない」。議論はつまり、すでに見失われたものについてクローンを立てようと言っていることにすぎないのだから、すべてのことはこうでなければ間に合わない。
[間に合わない世界とセルフマインド/了]