(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
実際に気をつけるべきこと
▼無神論者
無神論者に気をつけてほしい。なぜか、ということのすべてはここでは説明できない。あなたはカルト宗教の勧誘者
に気をつけるのと同等に、無神論者にも気をつけるべきだ。なぜなら、無神論者も「無神論」を信仰する強力な信徒で
あるから。
無神論者はつまり、あらゆる夕暮れ、あらゆる満月、あらゆる東風と南風に、カミサマがいないものとして生きてい
る。カミサマのいない風景に体験はない。当たり前だろう? あなたはそんな人の傍を生きてゆくべきではない。
宗教に入れ込んでいる人とは付き合えるものではないし、同等に、<<無神論に入れ込んでいる人とも付き合えるも
のではない>>。
無神論者は、たとえばあなたの愛犬が死んだとき、その亡骸に泣きつくあなたを見て、「ペットロス症候群」のこと
を連想している。共に悲しもうと努めはするが、本当には何が起こっているのかわかっていないのだ。そこに結ぼれ
合ったたましいがあったことをわかっていないから。無神論者は、愛するものが失われたことをただ「マイナス」だと
思っている。これを許し難いと感じるならば、あなたは無神論者の傍をゆくべきではない。配偶者ロスによる複雑性悲
嘆? そんな社会的な用語に何の用事がある。人にせよ犬にせよ、そうして評論して人を得意にさせるために生きるの
ではないし亡くなるのでもない。
身の回りに、意外にはっきりと、「カミサマは何かしらあるでしょ」と確信している人と、「けっきょくウソで
しょ」と諦めている人とが分かれている。「カミサマとかって信じるタイプ?」と、それぞれに訊いてみるとわかる。
特に左翼思想においては、共産主義が宗教を強く否定した。その後共産主義はまさしく、「カミサマを否定する宗教」
として歴史に大きな流血をもたらした。人はけっきょく何を信じるかだから、カミサマを信じなければ無神論を信じる
のみとなる。
無神論者というのも、ある種の信徒と同様に「強烈」な存在であることに気をつけてほしい。彼らはあなたを勧誘し
たがっている。
▼頭を下げられない人
頭を下げられない人に気をつけてほしい。頭を下げられないということは、単にプライドの問題ではなくて、「わた
し」より上位のものが存在するということが認められないということになる。無神論者はたいていこうなる。根深い問
題で、作法教室での取り組みなんかでは修正されない。
「カミサマ」は、「わたし」より上位のものの代表だ。その「カミサマ」さえいないのだから、自分より上位のもの
なんて、社会的立場を除いては存在しなくなる。カミサマのいない人は「わたし」が一番偉い。根源的に「自分」が一
番偉い。だから頭を下げられない。無理に下げようとしても挙動がウソになってしまう。
カミサマのいない人は「わたし」が一番偉いものになる。「わたしがこう思う」ということより上位のものなんかあ
りえて? このことを自己無謬性という。
身の回りに、意外にはっきりと、頭を下げられる人と下げられない人とが分かれている。頭を下げられない人は、ど
のようなことがあっても「しまった、自分が間違っていた」という反応を持たない。この自己無謬性の人は一見すると
「陽気」で「強気」に見えるときがあるから騙されやすい。どこまでいっても「あやまち」を持たないこの自己無謬性
の人に気をつけてほしい。自己無謬性の人は自分なりに「反省」はすることがあっても、カミサマがいないので「恐
縮」することがない。「ありがたい、と恐縮してしまう」という機能がない。恐縮の機能がない人に気をつけてほし
い。
▼敗北のない人
敗北のない人に気をつけてほしい。
カミサマのいる人は、カミサマの下で常に勝負をしている。どちらが真にステキなことを為しうるか? という素直
で不敵な勝負。そして、よりカミサマに近いほう、「神がかっている」というところへ至った人のほうを勝者と認め
る。より神がかった人のほうを、尊び、尊崇し、尊敬し、尊重する。尊厳をもって、痛快に「負けた」と認める。だか
ら頭が下がる。「参りました」と敗北の実感に頭が下がる。ガンジーの伝記を読むと「なんて偉大な人だ」と敗北して
頭が下がる。
カミサマのいない人は、この勝負をしていない。勝負をしていないから敗北がない。カミサマがいなければカミサマ
に近いも遠いもないので、どちらが神がかりもなければどちらが敗北もない。こうして「敗北がない」という人が生ま
れる。
そしてこの「敗北がない」ということがさらに自己無謬性を強化する。彼/彼女は戦ってもいないのに自己無謬性に
おいて勝っている気分になる。
すると態度が根っこから傲然とする。キャラクターでごまかすが、根っこは傲然としている。
とはいえ、敗北はなくても、「うまくいかない」という挫折や頓挫は当然出てくる。そのフラストレーションはどう
なるかというと、「他人のせいにする」というわかりやすい方法で処理される。
身の回りに、意外にはっきりと、敗北を持っている人と持っていない人とが分かれている。
「あのころの自分を思い出すと、もうひどかった」と笑える思い出話を持たない人には気をつけてほしい。敗北のな
い人は、「あのころはひどかった」というとき、「あのころの自分はひどかった」ではなくて「あのころの周りの人た
ちがひどかった」という文脈になる。戦って敗北してきた人はフラストレーションを残していないが、敗北のないまま
――勝っている気分のまま――挫折してきた人はフラストレーションを残している。それは強烈な不平となって精神の
底に沈殿している。
▼人格のない人(価値観のない人)
人格のない人に気をつけてほしい。人格とは何かということを説明するのはむつかしいが、とにかく「人格」だ。性
格や「キャラ」はあるのに、人格がない人がいる。
人格は価値観によって作られるのだが、物事の「価値」を疑っている人は「価値」が信じられないので、価値観では
なく己の「願望」で生きていくことになる。たとえば高級マンションで見栄えのする異性を伴侶にして安楽に暮らした
い、というのは願望であって価値観ではない。加えて、できればそれで同級生たちを見下ろしたい、逆転してチヤホヤ
されたい......というのはやはり願望(加えて執着)であって価値観ではない。
「国を守るのが立派な仕事だと思う」と自衛隊に入隊した人は価値観があるが、単に「収入が安定してるし、そこそ
こ地位も得られるしな」と自衛隊に入隊した人は価値観がない。「生きるのに価値観なんて要らないだろ」という考え
方は、否定されるべきではないが、そこで<<「価値観が要らないというのがおれの価値観だ」とまで押し通そうとす
ることにはどこまでも無理がある>>。価値観はもっとすっきり、ロマンチックなものとしてあっていい。
価値観がない人は顔つきが幼かったり、逆に老けて汚らしかったりする。幼い顔は「ボサーッとしている」と見え、
老けた顔は「ムスーッとしている」と見える。顔に出るのだ。そういう顔は直感にも「人格がない顔」に見える。
身の回りに、意外にはっきりと、人格のある人とない人とが分かれている。人格がないということは、自我がないと
いうことではなく、逆に「自我しかない」ということだ。人格がないということはこだわりがないということではな
く、こだわりしか持っていないということになる。若いうちは「キャラ」を作ってごまかすけれど、加齢と共に自我は
強烈に露出してくる。この露出してくるものを「メンツ」という。
人格のない人は、人格の代わりに「メンツ」で生きることになる。何の価値観もないけれど、自分の「メンツ」にだ
けは強烈な願望が保持されており、このメンツが汚されるときには相手を殺すでもしてやろうという狂気に駆られる。
人格のない人のメンツへの執着はすさまじく、手の施しようのないものだから気をつけてほしい。たとえば女にせよ男
にせよ、汚くなった顔をスポーツと競争と、化粧と笑顔でごまかして、価値観のない結婚願望にだけ執心して活動して
いる、というような人は少なくない。なぜ彼らが結婚したいのかといえば、何の価値観でもなく、ただ独り身だと世間
的に「メンツ」に関わるからだという。経済力とメンツ保持性があれば「誰でもいい」というのがメンツ婚姻者の本音
で、これはいったんそうなってしまうとすさまじいもので手の施しようがない。「結婚式までには絶対に痩せてよ、
じゃないと破棄にするからね」。たとえ冗談口であったとしても、そのような文脈が出てくることは根本的に恐ろしい
ことだ。
「価値観がない」なんて、冷静に考えたらとんでもないことだ。どうしてそんな重要なものが欠損する? そして価
値観のない人が、価値観から自由ということではまったくなく、価値観のない人は必ずメンツにこだわる人になる。表面上は柔和に見えても本質はメンツ主義でガチガチなのだ。気をつけてほしい。
▼思い出の作品を持たない人
思い出の作品を持たない人に気をつけてほしい。ごくまっとうな精神で考えれば、誰だって幼いころや思春期のころ、何かしらのフィクション作品に影響づけを受けて育ってきているはずだ。単にその作品を愛好したということではなく、その作品が自分の自己形成に大きく関わったというようなこと。自分の人生に大きく関わりのあるフィクション作品。むさぼり、ゆすぶられた。そうした小説や映画、あるいは歌などがひとつもないというのは本来は不自然なことのはずだ。もちろんそうした思い出の「人」や「友人」「恋人」「先輩」というのもあってしかるべきだが、この場合は「人」についてはごまかされやすい。思い出のフィクション作品を持たない人に気をつけてほしい。
身の回りに、意外にはっきりと、思い出のフィクション作品を持つ人と、持たない人とが分かれている。「好きだった」という作品は誰でも持っているだろう。でもそれと、自分の生きることに関わった作品というのは違う。たとえばずっと昔、「ビックリマンチョコシール」というのが流行ったが、あれが「思い出のフィクション作品」となることはないだろう。
かつて好きだったとかブームだったとかの思い出ではなく、自分の生きることに大きく関わった「思い出のフィクション作品」。たとえば「おれの幼いころはジャッキーチェンと共にあったよ」と笑いながら思い出を語れる人は、そこでジャッキーチェンを体験し、何かしら勇敢に痛快に戦って生きようとする価値観と人格を得てきたはずだ。「幼心に、ジャッキーチェンに衝撃を受けてね」。それは単なる憧れやファン精神とはまったく異なる。
そういったことのまったくない人は単純に言って怖い。数十年に亘り、何の文化も価値観に流入していないということは、その人格は表面だけ整えたゴーストタウンになっているはずだ。
▼催眠嗜好の人
催眠嗜好の人に気をつけてほしい。
現代人は疑情体質だ。疑情体質だが、人間は信じるものがなければ動けないので、なんとかして「信じるもの」を得ようとする。そこで、信じるものの代わりに「催眠」を用いようとする。催眠? あのいかがわしい催眠術のこと? そんなバカな、という冗談のような話だが、まったく冗談ではない。たとえば学問や進学の価値を信じられない受験生が、それでも受験勉強に没頭しようとするとき、「自分はいい大学に入って大成功する」「それがイケているのだ」というような繰り返しの文言やイメージの付与をして自己催眠をかける。馬鹿げた話だが、催眠というのはそういう単純な方法としてあるし、またそうした催眠は嘆かわしいほど表面的には有効だ。信じるものがないとき、人は催眠をかけあって信じるものを捏造しようとする。
催眠は身体性を持たない暗示だ。よって、電子音の挑発的な繰り返しや、鼻にかかった作り声の繰り返しなどで作用を及ぼしてくる。身体性を持たないということは、顔面性を持つということだから、催眠はきつい笑顔やオドシの利いたそれっぽい顔つきで暗示をかけてくるというものになる。催眠は「姿」がなくて「顔」ばかりで押し出されてくる。また、そうして催眠で一時的に「信じるもの」を捏造して、そのときは熱中的に動くことができても、その後なぜか身体がセメントになったように動かなくなり(離脱症状という)、しんどくなるという特徴がある。それは催眠が身体性を持っておらず、催眠中の身体が暗示だけで動いているからだ。これは催眠の特徴として知られておいてよいことだ。催眠によって暗示的な「やる気」を得ることは可能だが、身体のほうは催眠によって「寝ぼけて」おり活動できる状態ではなくなっている。この暗示的な「やる気」の状態で活動させられることは、実は身体に大きな負担をかけてしまう。離脱症状はたいへん苦しくてしんどいものだが、このしんどさを緩和するために再び催眠を摂取すると、典型的に重度依存症へのサイクルに陥ってしまう。
(備考:ところであなたの記憶の中にある人々も、「姿」で記憶されている人と、「姿」では記憶されていない人とがあるはず。記憶を自己点検してみるとわかる。「姿」で記憶されていない人の身体はぼんやりとした「形」ぐらいでしか記憶されていない)
むろん、「信じる」ものがあり「体験」を得ている人は、催眠には体質レベルでかからないが、疑情体質で信じるものがない人は催眠にあっさりかかる。疑情体質の人は潜在的に何かを「信じたがっている」ので、人それぞれに「信じたくなる」何かを繰り返されると疑情体質の人ほど催眠にかかる。「〇〇くんは、催眠とか掛からないよねー」と女性が甘い声で繰り返したとすると、その〇〇くんは甘い声の繰り返しに「テンションが上がってくる」だろう。
今はそういう、催眠的なパフォーマンスや音楽、映像やアニメーションがたくさんある。それが催眠的であれば催眠的であるほど急激に人気を博する。ただし催眠はすぐに「飽きてくる」ので、急激な人気は急激に忘却されていく。現代は、催眠嗜好の人に向けて催眠コンテンツが繁茂し、すさまじい早さのサイクルで「消費」されていっていると見ていい。三か月前の流行物を誰がまともに覚えていようか? あのときの興奮や盛り上がりや「確信」は、本当に単なる催眠だったのか、ということがいくらでもある。
催眠は、甘露的であったり、残虐であったり、性的であったりする。電子的であったり、いわゆる「疾走感」のような類の催眠もある。とにかく何かしらの「刺激」がある。アッパー系であれダウナー系であれ、何かしら露骨な「刺激」がなければ催眠はかからない。<<刺激があり、内容はない>>。人は「内容」があると逆に催眠にはかからなくなる(内容があると身体性を帯びてしまう)ので、催眠コンテンツの特徴は「あえて内容を抜き去っている」のが特徴だ。何の内容もないのに、単純な「刺激」が繰り返し与えられる。これによって人は催眠にかかる。催眠コンテンツとして何かを作るなら、むしろこちらのほうが正道ということになる。
またこれら催眠の特徴は、なぜかその催眠にかかった人が<<「自分はイケている」という錯覚を得る>>というところにある。その「自分はイケている」という、どこからともなくやってくる錯覚のことを、「アガる」とか「中毒性」とかいう。実際にその中毒というか依存症は起こるのだ。これは先に述べた「アヘアヘ」をしているにすぎない。この「アヘアヘ」にやられた人は、これを「救済」「ガチ」「癒し」と感じるようになる。当人は何も変わっていないのになぜか数分後には「自分はイケている」と陶酔状態になっている。「顔面性」をやりたくてウズウズしている……
身の回りに、意外にはっきりと、催眠嗜好の人と体験嗜好の人とが分かれている。疑情体質の人は、たとえば名作映画を観てもそれを疑っている以上「体験」は得られないわけで、そうなると必然、体験性や実在性などどうでもいいから、「早くズンドコして"アゲて"くれよ」という要求に行き着く。
フィクション作品がどのような物語でも、それを「体験」なんてできないのだから、
・キメゼリフ
・キメ顔
・キメポーズ
・甘露的なシーン
・残虐なシーン
・性的なシーン
・金銭的なシーン
・筋力的なシーン
・カット割りが次々に起こる疾走感のシーン
・電子的なシーン
・光線の飛び交う色とりどりのシーン
・飛翔体が高速で飛ぶ特定アングルのシーン
・激しい音楽のシーン
・管路的な音楽のシーン
(これらはぜんぶ、「内容」じゃなくて「刺激」じゃないか!)
といったものを、「次々に盛り込んでくれよ」、「早くアヘアヘにしてくれよ」、というのが催眠嗜好の人の要求に
なる。「どうせそういう"鳥肌"しか後に残らないんだからさ」。催眠嗜好の人はこれらの詰め合わせを「イケている」
と感じ、その催眠にかかるとただちになぜか自分も「イケている」という錯覚を得ることができる。この「自分はイケ
ている」という錯覚はメンツの恢復に役立つ。もちろん疑似恢復にすぎないけれども。「内容」は逆に彼らのメンツを
脅かしてしまう。
ちなみにこの「催眠」は、ごく簡単なものからも得られる。色鮮やかな大文字で次々にテロップが表示されるだけで
もそうだし、何であればスマートフォンのモニターをしきりに操作しているだけでも催眠は割と簡単に起こるのだ。だ
から多くの人はスマートフォンを「憑りつかれたように」操作する。ほとんど内容は関係なくて、実は人間は「光って
いるものに弱い」という性質があり、その字義のとおりすぐ「恍惚」になる。何でもない「つぶやき」の群をえんえん
見ていられるのは、実は「画面が光っているから」という単純な理由にすぎない。同じ「つぶやき」の群を用紙に印刷
したらただちに読む気は失せるだろう。画面が光っているという単純な「刺激」で催眠にかかっている。
これらのことがすべて「催眠」の効果だということはこれまでに指摘されてきていない。
催眠嗜好の人は、仮に表面上は人との付き合いが幅広く活発に見えても、本当には誰とも付き合ってはおらず、単に
人と群れをなし集団性の催眠をむさぼりあっているだけということが多い。それもまた「自分はイケている」という錯
覚の足しになるのだ。そのことでメンツを保っている。これは外見上も「人格のない集団」に見える。体つきは、肩ひ
じが張っているが胴体の真ん中は停滞している。あまりにも内容がないと思える話を大声でしている集団を街中で見か
けることは今や少なくないと思うが、あれは逆に内容がないことによって催眠性を高めているのだ言える。
たとえば映画「ロッキー」は熱き血潮の映画だが、「内容」が強く、催眠性を持っていないので、現代の催眠嗜好の
人たちの関心を惹かない。「ロッキー」にはキメゼリフやキメ顔、キメポーズやその他催眠作用のシーンがないので、
催眠嗜好の人がこの映画を観るのは内心でそこそこの苦痛かガマンになる。自分が催眠嗜好の人にならないよう気をつ
けてほしい。顔面に熱が上がるものは顔面性のもので、胴体の真ん中に熱がこみ上げるのがこころのものだ。顔面に熱
が上がることは、逆に人から立ち上がる力を奪っている。逆に立ち上がらなくていい正当化の理由を求めている人は
うってつけに催眠に嵌るだろう。
▼セリフしか言わない人
セリフしか言わない人に気をつけてほしい。人はもともと「話す」という能力を持っているのだが、この能力はしば
しば胴体(こころ)の喪失によって失われる。「話す」という能力が失われると、人は「セリフ」だけで生きていこう
とするようになる。なぜ「話す」という能力が失われるのか? 人が何かを「話す」ためには、何かしらの「体験」が
必要なはずだ。疑情体質はその「体験」から遮断されるのだから、そこから人はもう何かを話すことができなくなる。
それで体験性のない「セリフ」しか言わない人ができあがっていく。やはり「内容」はなく「セリフ」だけがある。
たとえば漫画「スラムダンク」の中には「あきらめたらそこで試合終了ですよ......?」というよく知られたセリフが
出てくる。これは当作中の或る登場人物にまつわるストーリーを形成していく重要なキーワードになるのだが、おそら
く多くの人はこの「セリフ」のみを知っており、このセリフがキーワードとなって形成していった肝心のストーリーの
ほうをよく知らない。あるいはアニメ「アルプスの少女ハイジ」の中で出てくる「クララのばか!」というセリフがよ
く知られている。車いすのまま立ち上がろうとしない病弱なクララに向けて主人公ハイジが叩きつけたセリフだ。けれ
どもこのセリフの出現に至る以前に、クララの起立困難が心身症によるものであるということが明らかになったシーン
があることや、理学療法的に正当なリハビリの苦しみ――および恥辱的な逃避――のシーンがあったことは、おそらく
現在ではほとんど知られていない。主人公ハイジはこのときクララと決裂し、車いすのクララに向けて「足のせいにし
ている」「怖がりで意気地なしだ」と糾弾するのだ。そのストーリーを決定づけるシーンの端緒として「クララのば
か!」が出現している。だがそれらの「内容」はとっくの昔に置き去りにされていよう。
「体験する」ということを失った人々は「セリフ」の印象だけを振り回して生きていこうとする。
身の回りに、意外にはっきりと、「話す人」と「セリフしか言わない人」とが分かれている。何につけすぐ「わたし
がんばります」「ガンガンいきますよ」「勢いでしょ」「ワンチャン」「それな」と言いたがる人が少なくないが、こ
れは意気軒高の気勢を表明しているのでは実はなく、「話す」ということが失われているので「セリフ」を発してコ
ミュニケートしているふりをしているにすぎない。またこのとき当人はそうしてごまかしているつもりではまったくな
く、ただコミュニケーションといえばそれしかないという感覚でいるものだ。「話す」ということが初めからまったく
わからずにいる人は、セリフの応酬以外にやり方があることを知らない。
この現象には大いに「マンガの読みすぎ」が関わっている。直感されるとおり、胴体(こころ)を失った人、および
「体験」から遮断された人は、そういう人向けに作られたマンガを多く摂取するだろう。オリの中で依存症的に。そし
てマンガの中では登場キャラクターたちの「セリフ」が飛び交う。体験から遮断された人はマンガを読み漁る中で催眠
的なセリフだけを吸い上げてそれを自分の言語能力に結び付けていくことになる。それで「セリフしか言わない人」に
なっていく。
この「セリフ」は、しばしば人を痛烈に罵るとか、あるいは涙ながらに悲しく苦しい何かについて言うとか、そうい
う現れ方をすることもある。そのことには独特の迫力があり、そのときには何か「こころの声」が響いたような錯覚が
するが、あくまで錯覚だ。痛烈な批判のセリフや、涙ぐましい悲嘆のセリフは、インターネット上にも飛び交っている
が、どれもセリフであって「話」ではない。「こころの声」が響いたような錯覚は、「話」になっていないので、よく
よく聞くとやはり「何を言っているのかよくわからない」。このことへの興味や同情心に引き込まれないように気をつ
けてほしい。セリフを通して、なんとなく「キモチ」はわかったような感じにはなるが、やはり元々の「話」はわから
ないままだ。キモチはあるのだが内容がない。セリフしか言わない人は、自分がどういう話の中にいるのかを自分自身
でさえわかっていない。
▼マザーコンプレックスの人
いわゆるマザコンの人に気をつけてほしい。女性であれ男性であれ、自分の母親を大切にしている素振りがある者
は、儒教文化的な精神において一見すると好感を覚えるところがあるものだが、父母をその人となりにおいて敬愛する
ことと、家族性に依存してマザーコンプレックスに囚われることはまるで違う。マザーコンプレックスの人は「包み込
む」という母性的なものの中で甘えようとする。それが家族であっても企業のような組織であっても。それを「大切」
というのは活躍するために大切なのではなく甘えるために大切というだけだ。疑情体質の人は自分の生きる中に「信じ
る」ものがないので、何ともつながれず、そのさびしさが恐ろしいので、この「包み込む」という母性の機能の中に安
らごうとする。これは選択的というよりは癒着的なもので、マザーコンプレックスの人は「それ以外に選択肢がない」
という感覚でいる。
われわれが実効的に生きていこうとするとき、われわれは何かしらの共同体への所属を必要とする。解脱した仙人で
もない限りは。共同体と言えば、大きくみればこの「社会」だってそうだし「国」だってそうだ。ただマザーコンプ
レックスの人は、「この共同体の中で"活躍"しよう」という発想を持たない。マザコンの人にとって共同体は自分の居
場所であって活躍の場所ではないのだ。共同体そのものの繁栄は、どこかの偉い人が勝手になんとかしてくれる。自分
はその勝手に繁栄する共同体の中で、偉い人に服従するのだからそれで大丈夫だろう。そういう発想になる。彼は共同
体の中で「活躍」するつもりはなく、なんだかんだ共同体の中で「助けてもらう」ために共同体に所属している。この
依存先の共同体が得られないマザーコンプレックスの人は、「わたしを助けてくれる場所はどこなのよ!」と潜在的に
腹を立てている。
こういう人間はしばしば、よくいわれる「母性本能」みたいなものをくすぐり、周囲の人は「誰かちゃんと助けてあ
げて」という救済の思いにヤキモキさせられることがある。だがそれはもちろん母性本能でも何でもなく、単なるマ
ザーコンプレックスへの共依存反応にすぎない。「つながり」を持たない人にとっては、そうした母性的な仕組みの中
で「つながり」を錯覚しあうことが何よりも甘露の救済に感じられるのだ。「わたしはあなたの味方だよ、がんばっ
て」と言い合いたくなる。これは真に「味方」なのではなく、そうした「セリフ」が言いたくなる、というアヘアヘ方
向への現象にすぎない。誰もが「わたしがあぐらをかける場所」をあるべき当然のものとして傲然と要求している。こ
の要求に互いが合意してゆけるように感じて共同体が成り立つ。ところがその要求が傲然としているため、人はその中
で互いにを嫌悪し始める。誰もが辟易とし始める。真に仲良くもなければ打ち解けてもおらず、和合もしていないの
で、ちょっとした波風ですぐ派閥が分かれて物陰では陰口が叩かれ始める。
世界を信じている誰がマザコンなどに居座るか。マザコンの人の一部は、表面的には活発に活動し、活発に意見を
持っているように見えるが、その一方で「体験」が希薄だ。母性的共同体の中から一歩も出ていないので当人の生身の
「体験」というのはほとんどない。目の前の人が「何を体験してきたか」を訊いてゆくと、そのことはすぐにわかって
くる。依存して生きてきたので「空っぽ」だという人は少なからずいる。この何の体験も得ない実在性消失のマザコン
方向へ引き込まれないよう気をつけてほしい。
▼興(きょう)じる人
興じる人に気をつけてほしい。「遊興」という熟語の言い方があるけれども、「遊ぶ」と「興じる」はまったく別の
ことだ。子供は野原やトランプゲームに「遊ぶ」べきであって、ジョギングやギャンブルに「興じる」べきではない。
「興じる」ということは、たとえば酒色に興じるとか趣味に興じるとか、ゲームやギャンブルに興じるとかを言う
が、興じるということは物事に「一心不乱」になっていることではない。興じるというのは「刺激に憑りつかれてアヘ
アヘを愉しむ」というだけでしかない。目の焦点を失った競輪場の老人を「一心不乱」とは言わない。当人は依存症に
なるので、そのときは興じている対象によって自分の生が定義されているような錯覚に陥るが、それはあくまでただの
依存症だ。たとえば身体を壊すまでジョギングに興じるという人は少なくないが、そうして身体を壊してまで走る人は
「遊んでいる」とは言えない。
こうして、遊ぶことと興じることはまったく別で、何であれば「興じる人は遊ぶことができない」とさえいえる。
興じる人は遊ぶことができないのだ。なぜかというと、<<「遊ぶ」ということは必ず何かしらのフィクションを媒
介にする>>からだ。たとえば「鬼ごっこ」という遊びがある。仮に、この鬼ごっこにおける鬼を、「アルファ」と言
い換えたとしたら? 「アルファ・ゲーム」。その言い換えは、表面上、追いかけっこのゲーム性を損うものにはなら
ないはず。けれどもそれは鬼ごっこという「遊び」そのものを喪失させる。鬼ごっこは、「鬼」に追いかけられて恐怖
する、ということを本質にするごっこ遊びだからだ。鬼ではないアルファという設定記号に追いかけられることはス
ポーツであって遊びではない。こうしてスポーツ性に興じ始めると、それはもう遊びではなくなる。「鬼ごっこ」なの
だから、その追跡者は「鬼のように」追いかけるべきであって、ランナーとして追いかけるべきではない。ジャンケン
で「お前が"鬼"な」と決まったとたん、人々は「わーっ」と、恐怖の面持ちを持って「鬼から逃げる」のだ。鬼に追い
かけられるというフィクション機能の「体験」が遊びの本質になる。
「遊ぶ」ということは必ず、こうして何かしらのフィクション性を媒介する。「ままごと」でもそうだし、「人生
ゲーム」でもそうだ。「ケイドロ」であっても、その逃走と追跡は刑事と泥棒でなくてはならない。
よって、このフィクションの機能が衰退している人間は、もう「遊ぶ」ということが機能上できなくなる。そうした
人間は「興じる」ことへ転向する。ヴィデオゲームで「遊んで」いる人は、ゲーム内のマリオの活躍に遊んでいるだろ
う。ヴィデオゲームに「興じて」いる人は、ゲームをやっている自分の興奮というノンフィクションに興じている。
鬼ごっこにおいて、鬼に手をつかれると、負けたような気がして悔しくて気分を害するという人が子供のうちにもあ
る。この人は、スポーツ的な側面、つまりノンフィクションの見方において、相手に優越された・自分が劣等だったと
いうことに屈辱を覚えている。自分が劣等だとされたことにメンツを壊されて、メラメラと破壊的な雪辱の衝動を覚え
ているのだ。彼は急に「本気で」走り出すかもしれない。こうして「遊ぶ」ということから離れてメラメラと「興じ
る」ことが始まりだしたとき、もう遊びは失われる。もうそこにあるのは鬼ごっこという遊びなどではなくて、誰が優
等で誰が劣等かという、殺伐とした部活動の「レギュラー争い」のようなものだ。
身の回りに、意外にはっきりと、「遊ぶ人」と「興じる人」とが分かれている。ジョギングには何のフィクション性
もなく、ボルダリングにも何のフィクション性もない。筋力トレーニングにもフィクション性はないし、各種ギャンブ
ルにもフィクション性はない。「興じる」ものには何のフィクション性もないのだ。よって「興じる」ということに体
験性はない。体験性はないのに何があるかというと、催眠性や「興奮」がある。「興奮」という字義の示すとおり、
「興じる」ということは単に刺激興奮にドライブされるだけのことを指している。
(補足:よって、夢と体験とフィクションの性質上、人は夢の中で何かに「興じる」ということができない。「興じ
る」なんて夢を見たことがある人はいないはずだ)
▼裏側を見る人
裏側を見る人に気をつけてほしい。大人になると、あるていど物事の裏側に詳しくなってしまうものだが、その「裏
側」というものにわざわざ注目し、わざわざピックアップしたがるというのは一つの恣意的性向だ。われわれがディズ
ニーランドに行くとき、それを運営する法人やスタッフの給料や財務諸表や商標権について思いを馳せる必要はない。
フィクション――体験――を失った疑情体質の人は、必然的にノンフィクションに執着する。
たとえば一本の映画を観たとき、「技術監督に〇〇を起用したことがこの映画を名作たらしめた」というような見方
を持ち出すのは大評論家風情であって不遜だ。何かしらそういった裏側に言及して話を構築しなくてはならない特別な
理由がないかぎり、そうした「裏側視点」は舞台を見ず楽屋に興味を持つ出歯亀の精神にすぎない。正当に言われるべ
きは、「うるさいなあ、楽屋はお客さんには見せないものなの、だから楽屋は奥に引っ込めてあるんだよ、それってわ
かりづらいことかしら?」。
しかし疑情体質の人は「疑って」いるのだから、楽屋が知りたい。疑う人は疑心に苦しめられているのでとにかく裏
側の楽屋を覗きたいのだ。疑っているものを確かめて納得したい。ノンフィクションに執着する。そしてわざわざ奥に
引っ込めてある楽屋の内情を詳しく暴露して「どうだ」と言いたがるのだが、そのようなことが最も知性のない振る舞
いだと周囲に見られていることに当人は気がつかない。「この背景はCGなんだぜ」「そりゃそうでしょうけど、なぜ
あなたにとってはそのことが重要になるの?」。「あのピアニストは、不動産業で食っていて、バツイチで元の夫は二
十も年上だったらしい。興味あるなあ」「そんな他人の生活ぶりを調査したところで、あなたの人生の行き詰まりは解
決しないのよ。ねえわかってる? あなたに与えられるヒントなんてこの世にないのよ」。
身の回りに、意外にはっきりと、「表側を体験する人」と「裏側を見る人」とが分かれている。
かつて国民的アニメ「ドラえもん」の声優を大山のぶ代さんが務めていらっしゃったとき、われわれは夕方に放映さ
れるドラえもんの声を「大山のぶ代の声だ」とは感じなかった。ドラえもんの声はドラえもんの声だとして信じられて
いた。何であれば逆に、大山のぶ代さんがバラエティ番組に出演したときでさえ、そこに信じられたのは大山のぶ代と
いうノンフィクションではなくドラえもんというフィクションだった。われわれは、大山のぶ代さんがしゃべったと
き、
<<大山のぶ代の内側から、ドラえもんの声がする!>>
ということに驚いた。われわれはそのとき、「大山のぶ代の中にドラえもんがいる」と信じて疑わなかったし、また
そのことは今もなお真実であり続けている。
このことは現代において逆転している。あるアニメキャラクターの声役を、ある声優が務めていたとしたら、「声優
の〇〇さんの声がいい」「よくハマっている」「演技が上手」と現代では評価される。フィクション上のキャラクター
は実在を信じられておらず、ノンフィクションにおける声優業の社会人が実在として認められている。かつて信じられ
た「大山のぶ代の中にドラえもんがいる」ということと逆転して、現代では「アニメキャラクターの中に声優がいる」
と認められている。
むろんこれは現代の大きな風潮ということに過ぎず、なおも一流の芸を為し遂げる人においては、実在に至りうる
フィクションの成立があり続けているのだが、全体ではどうかというと全体としては衰退に向かっていることは認めざ
るを得ない。多くの人が疑情第一の体質になり、産業上の大きなパイを占めるものとして疑情体質の人に消費してもら
うためのコンテンツが生産されるのが主流になった。
かつてピーターフォークが「刑事コロンボ」を演じたとき、誰もそのことを「演技が上手」とは言わなかった。ただ
誰もがピーターフォークを見た時に「あっ、コロンボだ!」と言うようになった。それだけ「刑事コロンボ」は実在し
てしまった。ピーターフォークの名を知っている人のほうがはるかに少ない。一方、現代において演者が評価されると
いうことはたいてい「〇〇クンが頑張っていた」「けっこう演技も上手だった」「役者の方面に進んでいったらいいと
思う」という形態になった。かつて、われわれは志村けんを「コントが上手」とは捉えなかった。今でも志村けんを見
ると、「この人の中に『バカ殿』がいる」と見えてならない。ふと振り返って考えたとき、誰それが「コントが上手」
だとか「レベルが高い」だとかは、われわれにとって本当に重要なことだったろうか?
裏側を見る視点のやりかたは、疑情体質の人をなぐさめ、落ち着かせ、いい気分にさせる。間違ってもそれでなぐさ
められ、落ち着き、いい気分にさせられることのないように気をつけてほしい。
▼「闇」のある人
「闇」のある人に気をつけてほしい。「闇」という、抽象的かつ気分的な言い方は、少なからず失笑を誘うところが
あるが、現代における実感としてこの「闇」という捉え方はすでに無視できない。
「闇」とは何のことを指すのか、そのことのすべてをここで説明することはできない。けれども、一般教養として
知っておいてよいことは、たとえば宗教においてはそれを「闇」ではなく「光明がない」という視点で捉えるというこ
とだ。正しい宗教のすべては人が存在し生きていくということにすべからく光明を与えるという前提で成り立ってい
る。この「光明」が前提にあれば、闇は闇でなく「光明がない」ということになるし、無神論の立場では「光明」なる
ものは初めから否定されるので闇はただ「闇」として定義される。
身の回りに、意外にはっきりと、「闇」を前提とする人と、「光明」を前提とする人とが分かれている。
「闇」というのが何なのかということは説明しづらい。ただ、人のこころ(胴体)にその「闇」が現れたとき、それ
はゾッとするような「穴」「空漠」「暗渠」の感触を確かにもって人に迫ってくる。そして奇妙なことに、<<「闇」
は人に奇妙な誘引力を持つ>>のだ。ゾッとする不安の感触があるのだが、人はその不安に脅かされてか、逆にその穴
の中を覗き込んで確かめようとしたがる。この「闇」に接触した人は、なぜかその直後、<<極端な失調をし、その失
調を正当化をしたがるようになり、失調したまま生きることを正しいとしたがる>>。この現象は「闇」へどの程度深
く接触したかによって症状の重さが変わってくる。新しい上司を得たり、新しい交際相手を得たり、新しいニュースを
知ったり、ということの中で、その中に知らず識らず「闇」が含まれていると、人はその「闇」から強い影響づけを受
ける。その後、自力で復旧してくる人もあるが、そういった人はわりと稀(まれ)だと覚悟しておかねばならない。
いくつかの障壁を取り払って、正しく本当のことを知っておきたいという人に向けてお話ししておきたい。
<<「闇」は「光明」と同じ程度に人を誘引する>>。つまり、<<有神論は宗教性を持つが、無神論も同等に宗教性を持
つ>>のだ。
もしあなたが、「カミサマは本当にこの世界にいるのじゃなかろうか」と思わず信じてしまうほどの誰かに出会った
とき、あなたはその人におそろしいほど引き付けられ、おそろしいほど影響を受けてしまうはずだ。思わず躊躇して、
引き返す準備をしてしまうほどに。こころ(胴体)を巡る急激な血潮。あるいはそれ以上の何か「流れる」もの、
「夢」「フィクション」、その人の身のそばを離れられなくなるほどの......そこには「もしこれが本当の世界だったら
どうしよう」という恐怖さえ起こる。体験上に実在する「光明」にはそれほどの力がある。
そのことと同等に、「闇」もまた、人を誘引して道連れにしてしまうだけの力がある。「カミサマがいない確信」と
いうのも宗教性を持つのだ。その力は、光明の力と同様に、慣れていない者にとっては「わけがわからない」作用とし
てはたらきかけてくる。こころ(胴体)、流れるもの、夢、フィクション、体験、実在といった、すべてのものが一斉
に停止する。そして逆転して始まるのが強烈な「依存症」だ。カルト宗教に取り込まれた人がそうであるように、依存
症漬けにされてしまった人は、見るからに弱り切った(あるいはすさみきった)胴体になりながら、「自分は幸せだ」
と言うようになる。こうなるとすでに、完全な疑情体質から自己無謬性が始まっているので、いかなる説得も功を奏さ
ない。「自分は幸せだ」と当人が「思っている」ということ以上に、上位の声はありえなくなり、引き返しようはなく
なってしまう。
「光明」と「闇」のどちらが正しいとも言えない。むしろどちらも正しいと言うよりない。ただ一点、「闇」という
のは<<怨み>>を残す。<<「闇」の人は納得ずくで怨みを残す>>。そのことが光明と闇とで違う。「闇」に定義された
この世に産み落とされ、数十年の労役と老いと死をただ強いられるのみだと納得させられたなら、その人間はこの世に
納得ずみの怨みを持たずに生きられようか? 「闇」のある人は一見すると諦観に至っているようでありながら、その
表面上の諦観の裏側に、徐々に蓄積させた「怨み」を沈殿させており、いつかどこかで爆発させかねないというリスク
を孕んでいる。彼はこの世界が闇であることを証明したがるだろう。カルト宗教は人にバカげた本尊を拝ませるという
ものだが、無神論は真っ黒な「無の穴」を本尊として拝ませるということにすぎない。
現代において、われわれの周りには得体のしれない事件のニュースが飛び交っている。旧来と比べて、犯罪性が高
まったかどうかは問題ではない。明らかに高まったのは、犯罪性ではなく「闇性」だ。多くのニュースの記憶は、その
犯罪性においてではなく、不穏さと不気味さ、その闇性によってわれわれの精神を圧迫している。それは単に「印象に
残った」ということではなく、われわれは一歩ずつ「闇」に誘われているのだと見ていい。「闇」という宗教性がわれ
われに布教を進めているのだ。徐々に感化されていけば、やがて何の光明もないことが「正しい」と感じられてくる。
「闇」を証明したくなってくる。われわれは知らず識らず、一人の「信徒」となって、光明ではなく闇のほうを自ら探
して漁るようになるのだ。気をつけてほしい。
▼性癖交合の人
性癖交合の人に気をつけてほしい。交合、つまりセックスは、本来「性愛」によって営まれるものだが、現代におい
てはこれを「性癖」のみで営む人が少なからずいる。このことは先に述べた「催眠」と仕組みがよく似ている。
その仕組みのことを詳しく言う前に、まず現代にはセックスに関連してこの「性癖」という"強烈な現象"があること
を警告しておきたい。「強烈」ということを念頭に、気をつけてほしい。催眠というのが思いがけず人を虜にすること
があるように、性癖というのが思いがけず人を虜にすることがある。催眠について、「疑情体質で信じるものがない人
は催眠にあっさりかかる」と述べたが、そのことと同様に、「疑情体質で信じるものがない人は性癖にあっさりハマ
る」と捉えて差し支えない。性愛を体験できる人は性癖を冗談にできるが、性愛を体験できない人にとっては性癖は一
種の性的な「信仰」になる。
なお国語的には本来「性癖」という語は何も交合嗜好の偏執だけを言うのではないが、ここでは一般的に使われがち
な意味としての「性癖」としてこの語を用いる。つまり、「hentai性を帯びたセックスの趣味」としてこの語を用い
る。
先に催眠の特徴について、<<刺激があり、内容はない>>、ということを示した。そのことと同様に、セックスにお
いても「刺激があり、内容はない」というセックスがありうる。そのようなセックスは一般的に「ばかばかしい」と思
われそうだし、実際それはばかばかしいものであるに違いないのだが、このばかばかしいセックスに思いがけず「ハマ
る」という人が少なからずあるのだ。それもやはり催眠と同じで、ハマった人にとっては「救済」「真実」「癒し」に
感じられる。そのことにひたすら「興じて」いる時間だけが、自分の生として「信じられる」時間なのだという気がし
てきてしまう。
<<閉ざされた胴体の内部に「性癖」が巣食う>>と言うことができる。お話ししてきているとおり、疑情体質とは胴
体(こころ)が閉ざされた状態をいう。第一の機能「信じる」が失われている。よりによってセックスをしようとする
ときに、この「信じる」ということが閉ざされているのではお話にならない。誰でも前もって知るように、交合こそそ
の「信じる」ということが最も純粋に必要とされる営為だ。閉ざされた胴体の中で行き場のない性的欲求はどうなるの
だろうか?
胴体が閉ざされていては性愛交合はできない。しかし、「できない」といって、人間の性的欲求はそのていどでおと
なしくしてくれるようなやわな衝動のものではない。性愛で交合できなかったとしても、「そんなことはどうでもい
い」「なんでもいいからとにかくセックスをしたい」というほどに人間の性欲は強いものだ。特に若い男女において
は。セックスに関わることは強力なコンプレックスを生じさせるものでもあるから、ときに人はほとんど神経症のよう
にしてセックスを求めることさえある。
胴体が閉ざされていると――このことは特に慎重に聞いておいてほしいが――実際に「濡れない」「痛い」「勃起し
ない」ということが生じてくる。セックスに不能が生じるのだが、このことはまた若い男女をセックスについて追い詰
めるし、ときには人を神経症的に苦しめもする。お互いに向き合い、愛情をこめて......とは思うし、そう教わってもい
るのだが、どうしても「ピンとこない」し、それどころかやっていてイライラする。どれだけ真面目ぶって、愛情深い
ふうを努力しても、自分は濡れないし相手も勃起しないのだ。無理やりつながってみようとするが、「いたたたた、
ちょっと待って!」と不快感と共に制止しなくてはならなくなる。
こうして、性的欲求に追い詰められ、実際の行為の不能に追い詰められ、神経症的なコンプレックスに追い詰められ
て、しかも「痛い」し......という状態にあるとき、唯一の解決策として「性癖」がありうる。それは本当は解決策では
ないのだが、そのときは「救済」「真実」「癒し」に感じられるのだ。何しろ「性癖」に接触し、「性癖」が興奮しは
じめれば、濡れるし勃起するし痛くもなくなるのだ。このとき胴体の内に閉じ込められていた性的欲求は濁流となって
一気に性行為に流れ込む。まったく抵抗できないオーガズムを得ることもある。
こうして疑情体質の人は、性愛の交合を知らないままに性癖の交合を知り、そのまま「セックスとはこういうもの
だ」と学習することがよくある。またときには、雑誌等に特集されるセックスノウハウの記事にさえ、「お互いの性癖
を満足させよう!」という趣旨が堂々と書かれていたりもするし、あるいは医療行為としてのセックスカウンセラーで
さえクライアントに「性癖」でセックスをすることを勧めていたりすることもあるから、この誤解は定着してしまうと
なかなか引きはがせなくなる。
この誤解をしたまま性癖交合を続けていると、やはり催眠を摂取し続けたときと同様に、閉ざされた胴体は閉ざされ
たまま衰弱していく。衰弱しているのに、やはりなぜか「自分はイケている」という錯覚を得はじめる。この錯覚があ
るので、性癖交合者はたいてい自分の性癖について「特権的」「選民的」「特別な」「高いセンス」という自負を持っ
ているのが定番だ。性癖交合者は自分の性癖が「陳腐」とは決して発想しない。この、「自分はイケている」「陳腐で
なく、特別」という錯覚と共に、性癖交合者はやはりメンツにこだわるようになってゆき、メンツに関わって感情的に
激しやすい性格になっていく。
性癖交合の特徴は、性愛交合と違って、やはりその交合に「姿」が伴わないところにある。「姿」が伴わない性癖交
合は、それによって基本的にフェティッシュになると言える。フェティッシュ、つまり、目の前の「この人」と交合す
るということではなく、それぞれの「パーツ」と交合することになる。ペニスそのものやヴァギナそのもの、バスト、
ヒップ、手、唇、アヌス、あるいは髪の毛や、衣服やストッキングや靴、ときには「プレイ」に用いる道具そのものに
フェティシズムを覚えることもある。性癖交合者はそうして異性そのものと交わるのではなく「異性的部品」と交わ
る。人によっては、もはや部品ということにとどまらず、ほとんど各種の「物体」と交わっているという実感の人もあ
るようだ。こういう人にとっては、振動機能のあるペニスの模型も十分にフェティッシュで交合の要件を満たす。
性癖交合者はそこに胴体の開放が問われないので、そこに漠然と「都合がいい」という感触を覚えもする。
また部品ということであれば、全体が「異性」ということにこだわる必要はないということがあり、そうした理由か
ら同性愛に性癖を拡大していく人も少なからずいる。そうした場合、その同性愛もやはり部品的交合でありフェティッ
シュになる。
気をつけてほしい。どう考えても、本来の交合は性愛で営むものだ。性癖で営むものであるはずがない。閉ざされた
胴体の中に「性癖」が巣食い始めたとしても、それでもなんとかして本来の性愛交合のほうへ回帰せねばならないとい
う、われわれは困難な状況に直面している。
▼自己愛にとどまる人
自己愛にとどまる人に気をつけてほしい。もちろん「人を愛さない」なんて自ら決めているような人は誰もいない。
けれども人を愛するということが不能になることはいくらでもある。人を疑っているのに人を愛するなど、どのように
して可能だろうか。認めにくいことでも、人を愛するということが誰にとっても決して気分次第ではないことと、中に
はまったく誰のことも愛さない人が実際にいることを、われわれは認めねばならない。
愛するということは実は単純だ。複雑化させて言い逃れすることはできない。愛する・愛しているというのはどうい
うことか。それは、愛する人が侮辱されたとき、自分が侮辱されたときと同じように怒りを覚えるというだけのこと
だ。あるいは愛する人が幸運を得たとき、自分が幸運を得たときと同じようによろこびを覚えるというだけのことだ。
「自分のことと同じに」ということにすぎない。
愛という現象は実は単純であって、誰にでも自己愛はあるからそのことが手掛かりになる。誰だって自分の幸運はよ
ろこぶし、自分への侮辱は悲しい。「こころは胴体にある」のだから、細かく見ると、自分が幸運を受けると自分の内
臓は浮かれて上昇するし、侮辱を受けると自分の内臓は落胆する。侮辱の内容によっては「腹」が立ったり、「はらわ
た」が煮えくりかえったりもする。自分の未来が目の前に明るいときは、誰だって「胸」が高鳴る。翌日に楽しみを控
えているときは誰だって「胸」が躍り、寝付くのが遅くなったりする。
愛という現象自体は実に単純だ。ただこれが、「自己愛」にのみとどまるか、他者にも及ぶか、ということに過ぎな
い。ここを正確に見ればわかりやすくなるぶん言い逃れは利かなくなる。たとえば僕が近隣の子供に空き缶を投げつけ
られればどうなるか。「何してんじゃコラ!」と怒りを発するだろう。当然だ。では、僕が連れている女性に向けて空
き缶が投げつけられた場合はどうか。当然、まったく同じに「何してんじゃコラ!」となる。僕が連れている犬に空き
缶が投げつけられた場合でも同様だ。僕が連れている女性に空き缶を投げつけるということは、僕自身に空き缶を投げ
つけるということとまったく等価だ。それは僕のプライドということではないし、僕が連れている女性を「守らなくて
は」と思っているということでもない。そんなことを考えるよりはるかに早く、「何してんじゃコラ!」の怒りが瞬発
的に発生する。自分に空き缶を投げつけられたときと同じなのだから、四の五の思念するより先に怒りが直接発生す
る。
たとえば生徒Aが生徒Bに消しゴムを投げつけたとする。それが険悪ないじめの様相を呈していたとしたら、教師は
生徒Aを見とがめて、そのいじめ行為について叱責するだろう。けれどもそれでは本当は間に合っていない。「何して
んじゃコラ!」が出現しないと間に合わない。生徒に消しゴムを投げつけるのはおれに消しゴムを投げつけるのと同じ
だ、「ワレ何してくれてんじゃ、ああ?」ということでなければ教師は生徒を愛しているとはいえない。それは教師と
生徒だけではなく、親と子でもそうだし、男と女でもそうだ。友人同士でも同じだし、先輩と後輩でも同じだ。胴体
(こころ)にこみ上げる「何してんじゃコラ!」はほとんど瞬発的なものなので、「よし、叱らなきゃ」と思念してか
ら動いていたのでは絶対に間に合わない。このことは、愛する人の身が「わが身」の一部につながっている、というこ
とで起こっている。「わが身」につながっているので、自分がそうされたときとまったく同じ早さで「何してんじゃコ
ラ!」が発生するのだ。
愛という現象が複雑なのではなく、愛が自己愛にとどまらず他者にも及ぶことがあるのが「不可解」なだけだ。そし
て多くの場合、自己愛にのみ留まっている人がそのことを恥に思い、愛ということを複雑化して言い逃れをしたがるの
で、その中で愛が難しく言われるだけだ。
身の回りに、意外にはっきりと、自己愛にとどまる人と、そこにとどまらない人とが分かれている。自己愛の人は、
自分の高級なコートが粗雑に扱われたときは猛烈な怒りを覚えるだろうが、他人の高級なコートが粗雑に扱われたとき
は「不愉快」を覚えるだけで怒りまでは覚えない。他人の高級なコートは自己愛の範疇ではないからだ。ただそれだけ
のことであって、複雑化すべきことは何もない。自己愛の人は自分が傷つくことには深い悲しみを覚えるが、他人が傷
つくことには深い悲しみを覚えない。胴体(こころ)が感応によってつながっていない以上、そんな無関係のものには
悲しみようがない。ただし、自己愛の人は自分が自己愛の人だと知られると恥だと考えているので、どうしてもさも他
者にも愛が及んでいる善人である「ふう」を装って振る舞ってしまう。それは確かに善良さに属することかもしれない
が、同時に愛していないということにも属している。
この「愛」という現象と似て非なる、「メンツ」の現象についても触れておこう。あなたが良家の子女だったとし
て、あなたが大学受験生だったとする。受験勉強の結果、あなたがいい大学に入れなかったとしたら、それは家柄の
「メンツ」に関わるので、父親はあなたに怒るだろう。さらにあなたの素行が悪いと、いわゆる「〇〇家の面汚し(つ
らよごし)だ」ということになって非難される。面子/メンツとはその字義のとおり、そうした「記号的顔面の威信」
のことを言うのだ。ご先祖に合わせる顔がない、とも言われるし、世間に顔向けできないとか、面目をつぶされるとか
も言われる。
この場合の父親は、あなたのことを愛しているのではなく、ただ〇〇家というアイデンティティの「メンツ」にこだ
わり、執着しているだけだ。あなたがこのメンツを汚すのであれば父親はあなたを許さないだろうし、あなたがこのメ
ンツを躍如させるのであれは父親はあなたを承認するだろう。父親が執着しているのはこの「メンツ」だけなのだか
ら、このメンツのためにあなたの胴体がボロボロになったとしてもそのことに父親は関心がない。関心がないというよ
り、胴体(こころ)がつながっていないので無関係だし関心の持ちようがないのだ。たとえ娘が死んでも無関係なので
悲しみがなく、それよりはとっさに「〇〇家として恥ずかしくない葬儀をしないと」ということに発想がいく。これは
いささか極端な場合だが、この極端な場合というのが割と珍しくもなく実際にあるので例として話しておきたい。メン
ツに連帯責任を負っているということと、「わが身」の胴体同士がつながっているということはまったく別だ。
社会的なメンツのためだけに結婚する人はいくらでもいるし、メンツとして嫁と子供を食わしているだけ、という人
もいくらでもいる。見栄えのいい女と付き合って、連れまわって友人たちに見せびらかし、「面目躍如」をしたいとい
うことに必死になっている男はいくらでもいるだろう。それがいいとか悪いとかではない。ただそれは愛とは違うとい
うだけだ。
愛が自己愛にとどまるか他者にも及ぶかという、ただそれだけのことを見失わないよう、気をつけてほしい。なお
「面目」とは本来悪い言葉ではないが、どこまでいっても「面目で人を愛する」などということはない。
***
さらに具体的な例を話していこう。あなたは数年をかけて、思いがけないことを知るのだ。「人ってこんなものだと
は思わなかった」。それは好い意味においても悪い意味においても。もちろん、好い意味でのそれを知ることができる
のは、あくまで幸運である場合ということに限られるけれども。
悪い意味においては、「この人ってこんな人だったんだ」というショック。あまりにも、それまであなたが思ってい
たものとは違った。「本当にこの人は、人のこころとか、まったくわからずに来たんだ」という驚きとゾッとする
ショック。
あるいは逆方向、好い意味においては、「この人は、本当に、こんな人なんだ......信じられないけど、本当にそうな
んだ」という受け止めがたいショック。これまでは「そんなわけないでしょ」と思われていた、その人のやさしさやあ
たたかさが、突き詰めるところ「本当にそう」なのだと認めざるをえないというショック。「何の計算もないの?」。
それはそれで、胸が苦しくて、受け止めがたさに涙がこぼれる。
あなたはまず、善良そうな人に出会うのだ。ちょっとだらしないところがあるけれど、根本的に陽気な人に思える。
照れくさそうに笑っているので、彼を前にするとこちらもつい顔がほころんでしまう。割と落ち着いた声をしていて、
聞いていて不快じゃない。
「もう、コキ使われていてさ。仕事が忙しくって」
と彼が言う。そのことはあなたを安心させ、同時にほほえましい気持ちにもさせる。
「学生時代のほうが楽しかったよ。それはそうに決まっているけどね。でも、どっちが充実してるって言えば、明ら
かに今のほうなんだろうね」
「あ、それってすっごいわかる」
あなたは前向きなキモチにさせられる。
彼はそれだけ忙しくしているのに、
「逆にね、今ちょっと体を鍛えなおそうかと思って。ジムに通うことにしたの」
という。
「えー、すっごーい」
「あるていど筋肉つけて、ドーパミン出てないと、勝負どころで勝てないからね」
と彼は言った。
彼は、
「いやあそんなわけで今は、深夜アニメのマリーちゃんだけが、おれの味方でおれの癒しだよ」
と言って笑う。
「へえ、意外。そういうのって観るんだ」
「うん。てゆうか、オタクみたいにはならないけど、いいじゃん、楽しめるものはなんだって楽しんだほうがトクだ
もの」
「そうだね。わたしもやっぱり、今でもアイドルのショーチくんとか出てるの見るとつい観ちゃうもん」
「そりゃそういうものでしょ」
「やっぱり気分がアガるもんね」
「だよね。そんで、前にドキュメンタリー見たけど、やっぱああいう人たちって、裏側で相当な努力してるからな
あ」
「そうなんだ。そりゃそうかあ」
「大変なんだよ、人を惹きつけるのって」
「そうだよね」
「あ、ごめんちょっと待って」
「なに?」
彼はスマートフォンを取り出した。彼はニヤニヤしてうれしそうだ。
「いや、今ね、あるソシャゲやってるんだけど。今敵から攻撃を仕掛けられたの。ちょっとまってね、こいつソッ
コーでやっつけるから」
あなたは思わず笑ってしまう。
「もう、何それ。そんなのやってんだ」
「うん。ちょっとまっててね。あーこいつ、そんなデッキで俺に勝てると思ってんのか~?」
「あはは」
「このゲーム、意外とよくできてんだよな。こーいうの、やりだしたらホントきりがないよ」
あなたはこの彼を好ましいと感じ、それから彼と交際を深めていった。彼とよく食事に行くようになり、彼と寝るよ
うになり、彼とは何度か旅行も行った。
一年の歳月が流れた。
ある日、あなたの祖父が急逝した。肺炎で亡くなったということだったが、年齢からみて寿命といってもいいでしょ
うと医師は言った。
駆け付けたところ、あなたは祖父の死が悲しかったが、それ以上に祖母が悲嘆にくれて号泣している声を聴いて動揺
した。あなたは祖母がそうして取り乱しているところを見るのは初めてだった。
あなたにとって祖父は、愉快なおじいちゃんだったけれど、母と仲が悪かったらしく、幼いころはそのことが悲し
かった。祖父はしばしば、母に内緒でおこづかいをくれた。「ないしょな」と言って手に千円札を押し込めてくれるお
じいちゃんのいたずらな顔が好きだった。おじいちゃんと秘密を共有することに心臓がドキドキした。
あなたは通夜と葬式に参列したが、仕事の都合上、四十九日には参列できなかった。後日一人で墓参りをする、とあ
なたは母に連絡した。
墓参りの最寄り駅までは、電車で三時間ほどだ。
そのときあなたはふと、
「彼にも一緒に行ってもらうべきかしら?」
と考えた。
考えてみると、よくわからなかった。
(こういうときって、一般に、彼氏とかって連れていくものなの? それともナシ?)
あなたは彼の横顔を覗き見ながら、一瞬、なぜかその横顔がまったく知らない誰かのように見えておののいた。
あなたは自分のうちにある違和感について考えていった。
やがて、
(あ、そっか)
と気づく。
(わたし、どうしてだろう、この人に、おじいちゃんのこと話そうって気にならない)
「ねえ」
「ん? なに」
「あのさ、結婚のこととかってどう考えてる?」
「どしたの突然。結婚かあ。考えてるっちゃあ、考えてるけどね。でもまあ、今すぐにってことじゃないでしょ。お
互い、仕事上の立場もぜんぜん安定しないしさ」
「そうね」
「ところでさ、おれ、引っ越ししようかって考えてんの」
「えっ? どうして」
「うーん、今住んでるところ、なんだかんだ不便でさ。今、もっと駅に近いところで、なるべく騒がしくないところ
探してんの」
「そうなんだ」
「あー、そうだな、この機会に」
「なに?」
「いやね、今、ジムで知り合った人たちとさ、フットサルチーム組んでいるんだけど。やっぱおれ、あの人たちとそ
りが合わないんだよね。この機会に脱退しようかな」
「そうなの? 割と楽しそうにしてたじゃない」
「うん。でもね、みんな割と低層っていうか、言っちゃ悪いけど話が合わないんだよ。みんな末端の、労働者って感
じの人たちだからね。いい人たちではあるんだけど。うん、まあ全体的に飽きたな」
「そっか」
「もっとレベルの高いとこいかないと。いろいろね」
「うん」
「あ、あとそれとね」
「うん?」
「来月の二日にさ、母親が来るからさ、そのときお前も顔見せてやってよ。すっげー顔見たがってるんだよ、おれの
彼女さんだからって」
「え、何、そんな話になってんの」
「うん。まあでもおれの母親は、すごく人の好い人だから、お前もすぐ馴染めると思うよ」
いちおう彼女がいるってことになったら、おれも株が上がるしさ、と彼は奇妙なことを言った。何それ、とあなたは
意表を突かれて笑った。照れくさそうに笑っている彼を見ると「やっぱり憎めないなあ」とあなたは感じる。
「そういうもんなの?」
「そういうもんじゃん」
「じゃあ、別にいいけど」
株が上がる、と言われてあなたは悪い気がしなかった。
そこからまたしばらくの月日が流れた。
ある日、高校時代の友人から珍しく手紙が届いた。シンガーになりたいといって海外に出たきり、音信不通になって
いた友人からのものだ。
手紙を開封すると、お久しぶり、という文言と共に、彼女が久しぶりに日本に帰ってきて、日本でライブをする、と
いうことが書かれていた。招待のチケットが同封されている。
また、一枚の写真が同封されていて、見ると五人のバンドメンバーの中央に彼女が立っていた。その横の金髪の青年
に、白マジックで矢印が示され、「旦那です」とハートマーク付きで書かれてあった。
「あ、結婚したんだ。それも向こうの人と」
あなたは写真の中の友人が歯をむき出して笑っていることをうれしく思った。
あなたは彼と共に古い友人の訪日ライブをぜひ聴きに行くことにした。
ライブ当日、会場は大盛況となった。ジャズバーを借り切っての小さな演奏だったが、登場した友人は着慣れている
らしい大胆な衣装に奇抜な化粧を決め込んでおり、腹の底から愉快そうな姿で現れたので、聴衆たちに陽気な笑いを引
き起こした。友人が唄う歌は、上手というよりも声が太く迫力があり、その場かぎりで作られていく一体感があった。
「すごい」。歌うと一発で説得力があり、場内は誰もが驚嘆のまま拍手を打ち鳴らした。後で聞いたところ、歌詞は途
中で間違ってめちゃくちゃになっていたそうだが、聴いているあなたはまったく気づかなかった。
ライブが終わってからあなたは彼と一緒に打ち上げにも参加した。友人はあなたを見つけるとただちに駆け寄ってき
て、飛びつくように握手をした。「久しぶり!」といっても、慌てて何を話したらよいかわからない。友人は、
「もうね、いろいろめちゃくちゃしてきたよ」
と笑った。
後で話すね、と彼女は他の参加者のところへ挨拶しにゆく。彼女の太く陽気な声があちこちで「どーも」「ホントあ
りがと!」と言って回るのが遠くからでも聞こえてくる。
打ち上げの酒宴が進む仲、友人は威勢よくビールを飲みながら、「ほんともう、いろいろめちゃくちゃだったよ」と
笑って話した。
「そりゃもうね、英語もまともにできないし、仕事なんてあるわけないからさ。ビルの掃除婦をしたり、ランジェ
リーパブで働いたり、もうわけがわかんない暮らししてたよ。ランジェリーパブでは、ヤク中にストーキングされるし
さ。警察に行っても英語ができないもんだから、まともに状況説明もできないのよ。何ならわたし、近所の子供たちに
パンをめぐんでもらってたことさえあるからね。目のきらきらした近所の子供たちが心配してくれて、これどうぞっ
て、もうわたし情けなくって申し訳なくって。それでもう、何もかもどうしたらいいかわかんない、ってなってたと
き、教会で移民者向けの英語の教室をやってくれてたのね。わたしそこに迷い込んでさ。それでこの人に会ったの。彼
は聖歌隊の人で、わたしの歌の先生だよ。ランジェリーパブでストーキングされています、主食は子供たちのパンで
すって彼に言ったら、まともに生きなさい、って。笑っちゃったよね、そのとおりだって。それでさ、聖歌隊の人たち
が歌うのを聴いていたら、何かすっごくきれいでさ。そのとき、わたしこれまで何やってたんだろうって、急に目が覚
めたんだ。急に痛快でさ。笑いたくなったよ。唄いたければただ唄えばいいじゃんって。それで、わたし涙ぼろぼろに
なって、まともに生きたいって彼に泣きついたら、彼がわたしを彼の家まで連れて行ってくれてね。彼のお父さんは歯
医者さんなんだけど、わたしそこで働いて、勉強して、歯科衛生士の資格を取ったの。お腹が寂しいだろうからって、
日本産のコシヒカリまで探してきて炊いてくれたんだよ。わたしもう、世の中にはこんなやさしい人たちがいるんだっ
て思って、感激して死にそうになったよ。毎朝、起きるたびに信じられなくて、本当にパニックになりそうなときが
あって、そのたびに必死に教会でひざまずいて祈ってた。何を祈ったらいいのかわからなかったけど、本当にそうする
しかなかったんだよ。そのうちに何かふとね、ああわたし、もう死んでもいいかもって真剣に思ったの。不思議にね、
苦しんでいたときには絶対に死にたくないって思っていたのに。それが、ああわたし生きてるって実感したとき、逆に
ああもう死んでもいいかもって思った。人間ってわがままだね」
友人は、古い交友のあるあなたに向けて、
「わたし、しつこく唄っているけれど、唄うのは、あのとき聴いたtomcatのままだよ。何も変わってない。わたし単
純なんだ。今になってようやくそのことがわかったよ。あれから趣味はぜんぜん広がらなかったんだ。スポーツも苦手
なままだよ。今でもやっぱり、わたしディズニーランドに行ってミッキーに会いたい。また一緒に記念写真撮ろうよ」
と話した。その思い出話への接続はただちにあなたの記憶にも了解され、あなたは古い思い出が現在の目の前に接続
されることのよろこびに胸が熱くなり顔がほころんだ。
しかしそこで、あなたにはよくわからないことが起こった。隣にいた彼がすっくと立ちあがって、
「明日仕事なんで、帰りまーす」
と、カバンを持って退出しようとしたのだ。
「帰るの?」
「うん。明日仕事だもの」
彼の言っていることはわかるが、彼の声や面持ちにはわざとらしく露骨な寒々しさがある。
(明日仕事って、わたしも明日仕事だけど......)
しかし彼は無表情のまま、振り向きもせずに出て行ってしまった。
(えっ。あれ? あの人、お会計は?)
あなたがさしあたり手持ちを確認したところ、彼のぶんの打ち上げ参加費はあなたが建て替えられそうだ。そのこと
は問題ない。
けれども、彼の様子が不自然で不穏だった。
「大丈夫なの?」
と友人もいぶかしく訊く。
「うん。最近ちょっと、忙しいから」
あなたは心配になり、名残惜しかったが、早めに打ち上げ会場を退出した。
あなたは帰り道に彼のマンションに寄った。彼の部屋の前、インターホンを鳴らそうとしたとき、なぜか一瞬、目の
前が真っ暗に閉じる。立ちくらみとは違う、瞬間的な視界の暗転。
(えっ? 今の何? わたし何か変なまばたきをしたかしら)
あなたがインターホンを押すと、彼から応答があり、ドアが開錠された。
彼は部屋の中で、まるで何事もなかったかのように、モバイル端末でソーシャルゲームの続きをしていた。
「ねえ、今日はどうしたの?」
「どうしたって? 何もないよ」
「なにか不機嫌そうだったから」
「別に。ただ、おれはああいうのになりたくなくって、これまで頑張ってきたんだなあって」
「どういうこと?」
「言ったとおりだよ。おれはああいうのに一番なりたくないの。だから、こんなところにいてもしょうがないなあっ
て思って」
「そうなの......」
「教会の聖職者が、ああいう奇抜でハレンチな女を妻にするのはどうかと思うよ。金持ちの聖職者があんな道楽して
ちゃ無責任でしょ」
「それはちょっと違うんじゃない?」
「いいえ。ああいう気楽なのって、おれは全部ウソだと思うから」
ふだんは主張しない彼が、このときだけはいやに痛烈に主張してくる。「断じて」という気配が殺伐としてまで伝
わってくる。
だが全体的に、何が何やらわからないので、あなたはただ困惑していた。彼はまったく無関心そうに、鼻歌まで唄っ
ている。
そのとき、彼の手がニュッと伸びてきて、あなたの手首をつかんだ。思いがけず強い力で、あなたはカーペットに引
き倒された。
ガシャ、とガラステーブルが騒音を立てた。
「えっ、あの、ちょっと。わたし、今はそういう気分じゃないんだけど」
「男の部屋に来といてそれはないでしょ」
彼はあなたにのしかかりながら、腕を振り回すようにしてセーターとシャツを脱ぎ始めた。脱いだセーターとシャツ
を、暴力のように遠くに投げつける。
「はーい。じゃあ一緒に、いきましょうねえ」
得体の知れない暴行犯の姿があなたの真上に迫っていた。
「ねえおねがい、ちょっと、本当にやめて!」
「はあ? お前さあ、結婚だけせがんでおきながら、それはないでしょ」
(えっ、何その言い方。この人がこんな言い方をするなんて)
彼はその日、初めて避妊をしなかった。
彼の交合はえんえん、しつこいほどに繰り返されている。なぜ萎えないのか、不気味なほどだ。
彼はウーウー唸りながら、顔をしかめ、腰であなたをゆすり続けている。
(これがこの人の、本性ということなの?)
彼の異様な気配に、あなたはすでに抵抗の気力を失っていた。
彼は腰をゆすりながら、
「ねえ、苦しんでる?」
とあなたに訊いた。
(は?)
あなたには意味がわからなかった。
「僕も、苦しんでる」
彼はなぜか涙を流し始め、あなたの耳元で「結婚しよう」と繰り返してささやき続けた。あなたは凍りついたように
固まったままそれを奥歯で聞いて恐怖していた。
彼は、苦しんでいるという。あなたは、
(わたしはそれを支えなきゃいけないの? 何、どういうことなの?)
と、考えてますますわけがわからなくなった。
彼がやがて耳元で「愛してるよ」と言い始めたとき、あなたはなぜか急に笑いたくなり、内心で「あはは!」と言っ
た。「やけくそに生きよう!」と強烈な気持ちになって微笑みがあなたの顔面を固めた。闇が憑りついたあなたが出来
上がった。
***
▼無神論者
▼頭を下げられない人
▼敗北のない人
▼人格のない人(価値観のない人)
▼思い出の作品を持たない人
▼催眠嗜好の人
▼セリフしか言わない人
▼マザーコンプレックスの人
▼興(きょう)じる人
▼裏側を見る人
▼「闇」のある人
▼性癖交合の人
▼自己愛にとどまる人
ここに登場する「彼」は、もともと善良な人間の印象であなたの前に現れている。そして、成り行きの果てまで見た
ところ、彼が「悪徳」だったのかと言われるとそうでもない。相変わらず、彼の印象は善良な人間のままだ。ただ、わ
けのわからないおぞましさが噴出した。どこからこのようなおぞましさが噴出するに至ったかは、正しいサイエンスに
解き明かされないかぎり不明のままに違いない。
ここまでで蓄積された「彼」の手ごたえから、彼はおそらく「カミサマ」など信じていないことが想像される。考え
たこともない、というところではなかろうか。彼はまた、「頭を下げる」という文化に所属する人ではおそらくないと
感じられる。
彼は色んな努力をしてきた人間だろうが、彼には何か堂々とした「敗北」を積み重ねてきた、という痕跡がない。彼
の「価値観」は不明で、性格は何でもなくわかりやすいが、彼の「人格」はどうかと言われると、その手ごたえが今ひ
とつ見当たらない。
彼にとって思い出の作品や思い出の場所、思い出の時間とは何だろうか。そのようなものは所有していない予感があ
る。なんだかんだ催眠コンテンツの摂取に馴染んでいて、ひとしきり「興じる」ということもする。よくよく見ると、
彼はセリフしか言わないので、彼の「話」が何だったのかはけっきょくよくわからない。
彼は物事の裏側を見ており、その口ぶりはさも賢いふうに見える。彼は「一般的な人」であり、善良で、良識があ
り、合理的で、頼もしく活発な社会人だ。
けれども、<<けっきょく彼の「光明」は何だったのか?>>
一方で、対比的に登場したあなたの友人。シンガーとして武者修行の旅に出た彼女は、辛酸を舐めもしたし、同等以
上の慈愛を受けもした。教会で渾身でひざまずいたことのある彼女は無神論者ではありえないし、またライブの終了後
には打ち上げ会場で頭を下げてまわっている。彼女はかつて聖歌隊に出くわしたとき痛快に何かしらの「敗北」を受け
止めた。趣味が広がらなかったという彼女は催眠嗜好の人ではありえないし、「興じる」という性向も持っていないだ
ろう。彼女はセリフを発さず常に「話」をしている。単独で共同体を飛び出す彼女がマザーコンプレックスということ
はないだろう。ミッキーマウスというフィクション上の実在に会いたがる彼女はミッキーマウスの中に人など入ってい
ないということを知っており、よもやその裏側を知りたがるというようなことはないだろう。
ここにおいて対比的な「彼」と「彼女」は、まるで相互に対立する異教徒のようだ。異教徒だからといって、彼女が
彼に敵愾心を持つ理由はないが、彼から彼女に向けてはそうはいかない。「闇」のある人は闇の奥深くに「怨み」を蓄
積している。
彼は善良に生きてきただろうし、努力もして生きてきた。その中で、騙されないように生きてきたことは「正しかっ
た」が、そうして騙されないために疑って生きてきたことを、彼はその内奥で許していたわけではなかったのだ。だか
ら彼は突如現れた、彼とは違い「信じる」ということを獲得して生きてきた人間について、うれしくなって「なんて
あっぱれな人だ」と称賛することはできなかった。そんなことできるものか。無神論者である彼にとって、「光明」ら
しきものを得てきたらしい人間は、急激に感情のレベルにおいて「許せない」何かに感じられる。何が「許せない」の
か、正当な理由はほとんど示せないのだが、――何か否定された? そんなことはどうでもいいだろう! という黒々
としたキモチにさせられる......彼は自分の何を卑下しているわけでもないが、彼女が得てきた「体験」に比して自分が
「体験」を得てきていないのではないかということにのっぴきならず脅かされている。彼は善良に努力して賢明に生き
てきた。悪く言われたことは一度もない。よって彼女に「実在」があって自分に「実在」がないなどいうことは許され
ない。だから彼は、「逆じゃなかろうか?」と考える。自分のような者にこそ実在があり、尻軽女になど実在は与えら
れはしない。ああいうのは所詮ウソだ。ああいうのではなく、自分のような確実な者にこそ真の実在がある。その証拠
に、男らしい結婚をしてみせよう。
この作中の「彼」は、終始、一般的には「出来のよい彼氏」のように見える。だかよく見ると、この彼氏が交際相手
のことを愛していたという保証がどこにもない。いつの間にか現代においては、交際相手のことを愛していなくても
「出来のよい彼氏」になりえてしまう文化がある。どうして交際相手のことさえ愛さない男が、堂々と「出来のよい彼
氏」になりえてしまうのだろう?
一連の「怒りの日」シリーズの中で、こころは胴体にあるということを主張している。その主張を堂々とさせ、さら
に面白がらせるために、僕は自らを「こころがわかる人間」と称して振る舞う。このいささかわざとらしい自称もこの
一連の語りかけには有効にはたらくだろう。こころは胴体にある。胴体に流れている何か、その「流れ」そのものがこ
ころだ。
誰だってあるていど、自分が何を考えているか、および自分が何を思っているかぐらいは自身で把握している。けれ
ども、自分の胴体に流れているものが今どうなっているか? というようなことを自身で把握しているような人はごく
少ないはずだ。その、誰も把握していないようなことが、肝心の「こころ」だったらどうしようか? そのことを話し
続けている。
誰でも自分の「頭」の中には自信があるし、トレーニングをする人なら外装の筋肉の詳しさには自信があるだろう。
けれども、胴体? 「胴体の中に流れているもの」に自信がある人はごく少ない。「胴体の中に流れているもの」な
ど、何の根拠もないインチキ科学のように取られてもやむを得ない向きもあるが、かといってもしその胴体の内流を科
学的に測定する装置があったら、一度自分の胴体も測ってみたいものだねと誰しも無邪気に思うところがある。このこ
とに興味がゼロだという人は少ないし、無神論者でも「神がかっている」というような言い方はつい口からこぼれ出た
りするものだ。
その誰しも関心がありながら自信は持ちようがない「胴体」のことについて、その胴体を閉塞させる最大の要因は
「疑うこと」だと説いてきている。第一に「疑う」という、現代においては正しいと言わざるを得ない態度様式におい
て、胴体は急激に閉ざされていった。「疑う」ということが新しいスタイルとして広がっていくことに比例して、埋め
合わせに、当然のように催眠需要が増大した。それらのことが悪いなんて誰も言わない。ただ、ここから先の数年間、
「体験」が得られないように生きていくわけにはいかない。実在のない十年間は人間の生にとって大きすぎる損失だ。
ましてその期間は空白ではなく、催眠を摂取して依存症の中でますます荒廃していきそうだというのであるから、何の
手立てもないまま陽気なふうの「大丈夫さ!」という台詞を吐きだすわけにはいかない。
疑う胴体が失ったすべてのもの。信じる/夢/フィクション/体験/実在。これらは実は、すべて同一の現象を指し
ている。われわれを満たす唯一のものだ。これだけがわれわれを唯一満たしてくれることを、われわれは胸の内のどこ
かで知ってはいるが、これらがどこから得られてくるかについてはわれわれはあまり詳しくなかった。これまでは、ど
こかで自然と得られてきていたから、それでいいと思っていた。そのことに詳しくならなかったため、われわれがその
機能を閉ざしたときにも、われわれには何が起こっているのかわからなかった。そのようにして今現在がある。
われわれの「体験」は、フィクションの機能を媒介して得られている。実体験であっても、それを「体験」として獲
得するこころの機能はフィクションの機能だ。この機能は本来、疑うことさえなければ正常にはたらく。
われわれは生きる中で、ふと何かを信じることができたとき、そこに夢のような体験をし、「わたしがいた」――お
よび「あの人」がいた――という実在を得る。そのことだけは、元々誰でも知っていそうなことではある。
この、元々誰でも知っていそうなことに、すでに習慣的に嘲弄と唾棄を向けたくなるすばやい反応があることは、僕
自身にさえよくわかっているのだ。僕自身、この現代を生きる同時代人の一人なのだから。けれども次に示す数式を覆
せない以上、これに唾を吐いてもしょうがないと僕は思う。
われわれが疑うということを得意にして、検証が可能なノンフィクションのほうへ肩入れしたとしても、そのことが
われわれの「実在」について、アタリであるという保証はどこにもない。大いにハズレである可能性もある。ノンフィ
クション部門を最大まで拡充したとしても、まったく満たされないという可能性も十分にある。
われわれは本当に「死んだら終わり」ということを熱弁したがるノンフィクション信奉者であらなくてはならないの
だろうか? われわれは誰しも自分が「どこから来たのか」を認識することはできないでいるし、それどころか眠って
いるあいだに見る夢でさえそれが「どこから来たのか」をわれわれは認識できないでいる。重ねて申し上げるが、これ
までの偉大な心理学者たちも、あくまで自分たちの仕事に向けて「夢」が手がかりになるという、夢の「利用法」を発
見したということに過ぎず、彼らが夢のすべてを解明したわけではない。何しろ当の偉大な心理学者たちでさえ、自分
が夢を見る・見ないということを自分で決定はできないのだ。
われわれの実在がフィクションに属するということがどういうことであるかを、トルストイが有名な著書「人生論」
の中で言及している。そのことまで示してこの段の締めくくりとしておきたい。
Drm=Exp (Drm≠Img) /夢は体験である(夢は空想イメージではない)
Ext=Exp /イグジスタンス(実在)は体験から得られる
Drm=Fic /夢はフィクションである
Exp=Fic /よって、体験はフィクションで得られ、
Ext=Fic /われわれの実在もフィクションに属する
”人は、もし自分がかつて存在せず、無から現れて死ぬのだとすれば、この独自な自分などというものはもはや二度と
存在しないだろうし、存在するはずもない、ということを知っている。人は、自分が決して生まれてきたのではなく、
常に存在していたのであり、現在も未来もずっと存在しつづけるということを認識する時にはじめて、自分が死なない
ことを認識するであろう。自分の生命が一つの波でなぞなく、その生命の中にもっぱら波となって現れる永遠の運動で
あることを理解する時にはじめて、人は自己の不死を信ずるようになるであろう。”
――レフ・トルストイ「人生論」
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