(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
フィクションの早さ、早さに文句を言う人はいない
「早さ」は至上の価値を持つ。自分の判断や行動や、仕事ぶりや勉強の進みや、知性やこころのはたらきの一切が、
「早くなった」ということで文句を言う人は一人もあるまい。
ここでガラリと調子を変え、疑情体質だか何だか知らないが、正常な機能に回帰してしまえばいいじゃないか? と
いう立場を採る。実際、この立場からの語りかけが有効にはたらくよう、ここまでの長い書き話しが必要だったわけ
だ。
どうしても根本的な思い込みを理性的に排除する必要があった。われわれは生活者であり、かつ、未来への生活に向
けて不安を抱える者であるから、どうしてもノンフィクションへの執着が強くありすぎる。中には過去に大きな痛みを
受けて以来、当然の恐怖心や警戒心をもってノンフィクションのことへ防衛のための執着を強く持つようになったとい
う人もあるだろう。それはそれだ。何度も言うように、「疑う」ということを第一にしていくのは現代においては正し
い。現代においては、「死なないように、騙されないように」ということが第一になる。それにしても、やはり「それ
はそれだ」ということで締めくくられねばならない。
ここまでで解き明かされてきた話、けっきょく人間の先天的な機能が「体験」「夢」「フィクション」を第一性分に
している以上、その第一の能力を使いこなさないことは一言でいって「不利」に尽きる。不利というのは、活躍するた
めの能力として不利になるということでもあるし、充実や、相反するさびしさ、それにまつわる経済的な側面において
さえ不利になるということだ。
どういうことかというと、さびしさにはコストが掛かるということだ。人は体験を得られないとさびしくなる。さび
しさを埋め合わせるためには、それこそ単純に豪華な暮らしや豪華な服を得なくてはならなくなったりする。さびしさ
を埋め合わせて、かつ、自分はさびしい人ではないのだということをアピールし、自分は負け組ではないのだというこ
とを示してメンツを保っていくことは、継続するうち多大なコストが掛かってしまう。高価なアイテムを揃えて数々の
イベントに出席し続けねばならなくなる。
大好きな人と大好きなごはんを食べて、大好きな猫もいるし、大好きな散歩を体験できるということであれば、静か
な四畳半の中で暮らしていくことも「苦痛」ということにはならないだろう。けれども、これがえんえん続く孤独で
あったり、あるいは束縛し合うが信じあえない誰かとの近接した暮らしだったとしたら、四畳半では多大すぎるストレ
スが掛かるだろう。3LDKぐらいで暮らさないと「耐えられない」ということになってくる。女性としては近くにヨ
ガサロンやスポーツジムがあってほしいかもしれないし、男性としては近くにパチンコ屋ぐらいあってほしいかもしれ
ない。PCやスマートフォンは実用ということ以上に慰めのために必要になるし、女性は通信販売で見せつけられた不
要物をクリックひとつで購入してしまうかもしれず、男性はソーシャルゲームで少なからぬ額を課金してしまうかもし
れない。さびしさの埋め合わせに人はそうしたことをしてしまうものだし、さびしさの中でこうしたことを堪えていろ
というのは実際には無理だ。さびしさにはコストが掛かる。本来「体験」が得られれば必要のないコストが、「体験」
の代替品――「刺激」――を購入するために掛かってしまうし、虚しさやつらさをブロックするにもコストが掛かって
しまう。
豪奢なドレスを着て海外旅行に行くことは、誰にとってもうらやましいものだが、さびしい人の場合、それが「とて
つもなく」うらやましいことになり、神経をさいなむ。神経がさいなまれると、それはもう精神衛生上というか、精神
の「救済」として何かしらの慰めを与えてやらなくてはならなくなる。ジョハン・ハリがレポートしたように、このど
うしようもない慰めが依存症の犯人だ。
これらのコストや危機に根本から対抗しうる「体験する」という能力を、積極的に持つことができたとしたら、それ
は堂々たる利益のあることだ。本稿は、体験から遮断される疑情体質のことを、しくしく悲しめとか、体験が得られな
いことに怯えろとか、そういうことを述べるためのものではない。体験したければ体験すればいい。しかもこの利益あ
る「体験する」という能力が、胴体(こころ)を強く鍛え、うつくしくし、同時に決定的な「早さ」をも与えてくれる
ものだとしたら? もし僕の言っていることが真実なのだとしたら、この能力に目をつけずその解発もしないのは、不
利どころか単なる大損というふうに思えてくる。僕はまったくその通りに思っているのだ。
こころに闇を抱えている人、過去から怨みを蓄積している人、人格がないと言われて気分を害している人や、僕のこ
とを「敵」と感じて憎悪している人においてまでも、それぞれ自身が「早く」なり、しかも自身の「体験」を得ていく
というのであれば、そのことには何の文句もないはずだ。特に誰にとっても「早い」ということは魅力的なことである
はず。何しろ洗い物が早く済み、仕事は早く帰れて、勉強の効率は上がるし、人にも尊敬されるのだ。この万人に至上
の価値を持つ「早さ」を推奨するものとして、僕は「第一の能力」を解発するためのやり方と考え方を示していきた
い。
「信じる」ということが、本来の第一の機能だと言った。時間軸上、それが「最前線」に向き合う機能になる。それ
はいわば、「間に合う機能」だと言ってもいい。第二以下に続く「検証する」や「信頼性を認める」という機能も、必
要不可欠な能力だが、これらは必要とはいえ「体験には間に合わない機能」になる。
何はともあれ、間に合う機能と間に合わない機能があるのだ。あなたの中にはその二つがある。
間に合わない機能を使って、間に合わず、しかも急がされるということの、なんと損なことだろう。もしあなたが
使っているPCやスマートフォンがあったとして、これまで何年間も使っているのに、今になって急に、
「もっとサクサク動くモードがあるよ」
と告げられたらどうだろうか。
「そういうものがあるなら、もっと先に言ってよ」
とあなたは怒るのではないだろうか。
誰だってPCやスマートフォンは軽快に素直に動いてもらいたいものだし、あちこちで引っかかって挙動が重たくな
るPCのことはきらいなはずだ。クリックごとにただちにレスポンスを返してくるPCは快適で、何やらその挙動に清
潔感さえ感じるところがある。そんなところにおいても「早さ」は至上の価値を持っている。そうした功利的な側面か
ら、このことは追求されて構わない。
「信じるモードと疑うモードがあって、信じるモードなら疑いなしに動くから早いよ」
「そういうものがあるなら、もっと先に言ってよ。何よその疑いモードって、何の役に立つのよ」
▼フィクションの早さ
「フィクションの早さ」がキーワードになる。「むかしむかし、あるところに......」と昔話が語られたとき、それを
「疑う」という変人はいない。疑わないので信じている。疑わないぶん早い。
フィクションというのは驚くほど早い。動作の開始が驚くほど早く、動作の完了はさらに早い。<<スピードを目撃
する前に終わってしまう>>。
われわれはノンフィクションの機能においては遅いのだ。検証しながら進まねばならないから。たとえば人に道順を
教えるときは遅くなる。「えーっと、まず初めの信号を左に......」と、確かめながらだから遅くなる。ノンフィクショ
ンは遅い。
「したsgうggeきえbわみtbまえわ」と言うだけなら早い。検証の必要がないからだ(ただしこれは「でたら
め」だ)。
つまり、信じるこころに飛び込んでくるもの・信じるこころから飛び出すもののほうが早い(検証しないものがでた
らめということはない)。
ものすごい早さで飛び込んできているし、ものすごい早さで飛び出していける。流量も膨大だ。
「フィクションの話なら無限に作れるじゃん」と思える。まさにそのとおり。ただし、ウソは人間のものだが、フィ
クションはカミサマのものだ。そしてカミサマが無限というのは一般によく知られていることだから、フィクションは
無限ということで間違いない。
(疑うな。ノンフィクションは遅い)
人は三分間のうたたねの中で長大な夢を見ることがある。それがフィクションの早さ。
ただし早いということは、投げやりに早いということではない。フィクションの早さは十分に早いので、逆にじっく
りと、投げやりにならずに済む。
【椅子から立ち上がってみる。ノンフィクションで立ち上がってみると遅い。フィクションで立ち上がってみると早
い。物音はなるべく立てるな。フィクションで身体が早く動くということを実感しろ。空想はするな。】
【「立ち上がる」ということを初めて体験しろ。】
【重要:「動く」より「体験する」のほうが早いということを初めて体験しろ。】
▼目を閉じるな
「フィクション」というと、どうしても一般的には「イメージ」を使いたがる。イメージは空想であってフィクショ
ンではない。夢を見る機能を思い出せ。あなたは寝ている間に夢を見る。起きているあいだにも夢を見ている。イメー
ジを膨らませていたら、それによってますます夢の機能は遠ざかってしまう。イメージというのは映像化した「意識」
にすぎない。
イメージなんか要らない。イメージを膨らませたがる人は、どうしても目が半開きになるか、目を閉じる。目はいつ
もどおり開いておけ。夢を見る機能は胴体にある。目をいじくる必要はどこにもない。きょろきょろせず前方のやや下
を見ていろ。視線をふらふらさせないことは大事だ。視線を一点に向け、ただし一点を見るな。視線は動かさないま
ま、視界は広く感じとれ。夢の中できょろきょろしている人はいない。
【椅子から立ち上がってみる。足とか腰の筋肉を考えない。視界を広く感じ取り、自分自身を含めた視界全体をフィ
クションとして立ち上がる。フィクションなら早い。物音はなるべく立てるな。視界が広いほうが夢の中みたいだとい
うことを実感しろ。】
【大きく前方に立ち上がれ。大きく体験しろ。早いものは大きくなる。バラバラにしたら小さくなる。ふだん立ち上
がるときにさえ目を伏せて視界を閉ざしていることに初めて気づけ。】
【「見えたまま動く」ということを初めて体験しろ。また、視野を狭くして筋肉を意識して動作するとと、そのとた
ん「見えなくなる」ということを初めて知れ。】
▼人を選べ
夜道で背後からあなたをつけてくる人がいたら、その人は変質者だ。そんなものに「信じる」もヘッタクレもない。
人を選べ。「信じる」という早い機能、体験、夢、フィクションをやろうとするとき、最も不向きな誰かをコミュニ
ケーションの相手にわざわざ選ぶことはない。わざわざ立場に括り付けられてある上司を選ぶことはないし、わざわざ
ノンフィクションで追い詰められている窮地の人を選ぶこともない。
コミュニケーションの相手を選べ。つまり、いつもの親しいあなたの友人が一番いい。
【友人に、名前で呼びかけろ。フィクションの早さで。フィクションの早さなら体験が起こる。】
【「友人の名」を初めて体験しろ。】
▼コミュニケーションを選べ
セリフの言い合いになったり、それぞれが評論家ぶった議論になったりすることで、「話す」ということが成立しな
くなる場合がある。その場合はしょうがない。ただ自分からそのような状況になるように仕掛けないこと。
「海外旅行はどうだった」と訊かれたら、「空港に降り立ったら、ガソリンの匂いがしたの」と話し出せ。これは体
験の早さ/フィクションの早さでなければ間に合わない。「体験」で話し出すことができなければ、必ずセリフや意見
や感想になる。
【フィクションの早さで話し出せ。それはセリフでもなければ意見でもない「話」だ。主語と述語とストーリーがあ
る。】
【「話」を初めて体験しろ。「セリフ」や「意見」および「感想」の間に合っていなさを初めて体験しろ。「話す」
ということがいかに早さを要するかを初めて体験しろ。】
【ただし加速するな。早口になるな。「早ければ間に合う」ということ、「間に合っていれば急がなくてすむ」とい
うことを初めて体験しろ。】
▼練習するな
「練習」などするぐらいなら、初めから何一つしないほうがましだ。「練習」などという厚かましいものに付き合わ
される友人はたまったものではない。われわれは誰も友人を一度たりとも練習に使っていいなどという権利を持ってい
ない。向上心の強いつもりの人間に限って、向上心と自己愛の区別がついておらず、平気で友人を練習の材料に使って
恥を知らない。本人は友人のつもりでも、先方には害悪と思われている。
だいいち、これは練習などによって身につくものではない。「信じる」ということの練習などない。「信じる」とい
うことで生きていく、ということはできるが、「信じる」ということの練習などできない。練習という概念自体が遅
い。練習はただの検証ごっこにしかならない。夢の中で練習ができる人はいない。
【フィクションの早さであきらめろ。練習をあきらめろ。向上心と練習意欲のすべてを一瞬で放棄しろ。】
【「諦めたほうが近づく」ということを初めて体験しろ。人間の第一性分の「信じる」は、それを持とうとせずとも
元から具わっている。元から具わっているのに暴れてどうする? 「近づこう」とすることが余計に遅くなることを初
めて知れ。】
▼動作しろ
頭を下げる、うなずく、あいづちを打つ、膝を打つ、礼を言う、踊る、握手、乾杯、拍手、歓声、何でもいいから動
作しろ。
動作しない人間はあきらかにヘンだ。動作せず止まっている人間などいない。
「演出」をする人間はさらにヘンだ。演出するな。動作しろ。
動作しろ、と言われれば、動作することはできる。表面上は。しかしそれでは間に合っていない。
フィクションの早さで動作しろ。視界は広く。身体のパーツや筋肉どうこうは意識せず。
何かに気を取られたり、意識で検証的動作をしたりすると、そのとたんに「見えなく」なる。
すべての動作はフィクションでなくてはならず、「間に合って」いなくてはならないが、とにもかくにも何も動作し
ていないのはヘンだ。繰り返す、動作していないのはヘンだ。
【フィクションの早さでうなずけ。うなずきのスピードは思いがけずゆるいが、タイミングは思いがけず早い。フィ
クションの早さでぐんぐん立ち回れ。ただし「がんばっている」と見られたらゲームオーバーで0点だ。「がんばって
いる」と見られるのは「間に合っていない」からだ。「がんばっている」と見られたとき、それは相手に「体験」を与
えていない。演出を見せつけているだけだ。】
【「動作」のタイミングが、とてつもなく早いことを初めて体験しろ。「動作」の種類が、とてつもなく多いことを
初めて体験しろ。】
【ハイレベル:胴体に起こる「動作」に自分が引っ張られていくことを初めて体験しろ。フィクションの早さは本来
胴体内部を駆け巡っている。】
▼感想するな
感想する、という動詞は本来ない。が、造語としてこう記しておく。適切な造語だ。
「感想する」は「動作する」の反対だ。内心にも「感想する」のは禁じておけ。内心であってもそれは「動作する」
の反対だ。
感想とは単に、「検証」の機能に気分を含ませて言うという行為にすぎない。もともとが遅いもので、何かに間に合
うということは絶対にない。
人があなたに何かを話すとする。あなたがそれに感想したとする。このとき「感想する」というのは、話した側から
見れば「反応がない」としか見えない。感想するということは「反応が間に合っていない」ということだ。この無反応
を続けていると、やがて人はあなたに話をしてくれなくなる。
【街中でパフォーマーを見かけたら、ただちに小銭を投げ入れろ。フィクションの早さで。そしてフィクションの早
さで立ち去れ。物音は立てるな。】
【街中でお地蔵さまや神社を見かけたら、立ち入らなくていいのでただちに合掌か低頭をしろ。ただしフィクション
の早さで。お賽銭をしてもいい。鈴は強く鳴らしていいが、物音は立てるな。】
【人の話は一撃で受け取れ。フィクションの早さでないと受け取れない。一撃で(一回で)受け取ったら、受け取っ
た証拠にただちに受け取った話をレポートしろ。「こういう話でした」とレポートしろ。フィクションの早さでないと
間に合わない。】
【わずかでも感想するともう「話」は受け取れていないということを初めて体験しろ。】
【「早さ」があれば「返し」ができるということを初めて体験しろ。パフォーマーへの小銭や地蔵への拝礼や話への
レポートがそれだ。】
▼接続しろ
何もかもに接続しろ。ただし、間に合っていない検証主義の誰かとはつながるな。それはつながっているのではなく
て気を取られているだけだからだ。
誰にでもこれまで生きてきた物語がある。ない人もあるがそのときは気にしなくていい。これまでの物語とつなが
れ。物語は自分のものだけではない。日本という国さえ物語だ。
物語とつながれ。場所とつながれ。語られた話、語られた言葉とつながれ。読んだ本と接続しろ。特に社会と接続し
ろ。接続は理性的な現象だ。「信じる」という機能で接続が"体験"される。癒着やメンツ的連帯は理性的でない。癒着
やメンツ的連帯は「こだわる」という機能で執着されているだけだ。たいてい制度上の立場に担保された関係に過ぎな
い。
場所を信じろ。過去にとらわれず、過去からつながってきた今現在を信じろ。本を信じろ。「話」が書かれていない
本は、疑うというよりそもそも「本」とみなすな。
人を信じるというよりは、具体的な誰かを信じろ。太郎くんなら太郎くん、花子さんなら花子さんを信じろ。「あい
つ」「あの人」を信じろ。「信用」をするな。「あの人」の"存在"を信じろ。信じるべき人格が見当たらない場合は、
疑うというよりそもそも「あの人」とみなすな。
何もかもに接続しろ。つながっている、と「思う」ことではなく、接続が"体験"されなくてはならない。
【かつての場所(思い出の場所)に遠く頭を下げろ。低頭を思うのではなく、必ず実際に動作すること。ただしフィ
クションの早さで頭を下げること。これは実際にその動作をしないと絶対にわからない。一回で終わりではない。後日
に何度繰り返してもいい。】
【自宅のあちこちを動き回れ。あちこち、普段とは違うところに座り込んだり、寝転んだりしろ。あなたの家だ。た
だしすべてフィクションの早さで。普段見ない角度を見ろ。自分の住む街もふだんと違うあちこちを動き回れ。ただし
フィクションの早さで。】
【読んだ本の表紙をポンポンと叩け。ただし必ずフィクションの早さで。これらのことは実際にその動作をしてみる
まで意味がわからない。友人の肩をあいさつに叩くように読んだ本の表紙を叩け。】
【フィクションの早さで「身をもって触れる」ことで、「つながり」ができる瞬間を初めて体験しろ。馬鹿げて思え
るような話だが、ポンポンと叩いた物品とそうでない物品とでは自分にとって「関係」が違うということを初めて体験
しろ。(注意:この行動は「関係」に不慣れな人は精神的に不安定になることがあります。「関係」の感触に不安定を
感じたらいったん控えてください。)】
▼決めるな
一般に、「初めからそう決めておけば」、物事は早く済むと思われている。接客業のマニュアル方式がそうであるよ
うに、初めから「こうする」と決めておけば、あとはそのとおりにするだけだから早いと思われている。しかしこれは
ウソだ。マニュアルをなぞるのは思いがけず早くはない。ラクなだけだ。何がラクかというと、感じたり判断したり
迷ったりしなくて済むからラクだというだけでしかない。実際にどう遅いかというと、たとえば「ナイフを突きだされ
たら左によける」とマニュアルで決めてあったとしても、実際には遅いので突きだされたナイフはよけられない。マ
ニュアルで決めてあっても間に合わない。フィクションの動作のほうが早い。また誰でも知るように、マニュアルで接
客してもされても何の「体験」も得られないので、これはけっきょくマニュアルの決めうちはラクなだけで体験に間に
合っていないということだ。
物事には「型」というものがある。たとえばパートタイムのスタッフが、長年エビの殻をむいていると、その殻むき
の作業はとてつもなく速くなる。見ているとその作業には明らかに土台の「型」があるように見える。だがもちろん
パートタイマーは道場で「型」を習ったわけではない。
これは「型」が実践の中で上級者によって「発明されるもの」だということを示している。たとえば日本での手紙の
様式には「拝啓」から始まって時候のあいさつに続き、用件を伝えたら「敬具」で締めくくるという型がある。すぐれ
たやり方はやがてこうした「型」を生み出す。
その意味では、優れたマニュアルがある場合は、それを「型」としてまず身につけていくことは悪いことではない。
誰だって部活動に入った初めはあいさつの仕方からまずそれを「型」のようにして習う。「型」は、「やがて行き着く
べきところへ向けて、先に『筋道』をつけておいてやろう」という発想から与えられる。何年も何十年もかけて、人は
その「型」が教える筋道の先までたどりつこうということなのだ。
その筋道を暗記して知っているということと、その筋道を身をもって「踏破」してきたこととはまるで意味も内容も
異なる。覚え事は何の体験にもならない。<<「型」を習得しているということは、「型」という一種のフィクション
から体験して得たものを応用できる、という到達点のこと>>であって、<<「型」は原型でしかなく、「型」そのもの
をどこかで使えるわけではない>>。「型」どおりの事象など実際には身に起こらないからだ。
「型」とは、ふつうに生きているだけでは決してありえないだけの分量の「原体験」を身に積ませようとする突破の
考え方であって、よほどの天才を除いては、<<人は「型」を習得せずに上級者に及ぶことは不可能>>だし、<<「型」
を習得せずに「自分を超える」ということはまずできない>>。
しかし一般的にマニュアルというのは、それをただなぞっていればそれだけでいいものと思われている。なるべく早
く暗記して、表面上マニュアル通りにうごく「クセ」がつけばいいと思っている。それでは単にその人間のロボット性
が上がっただけだ。確かにロボットになればラクではあるが、これは人間性の侮辱でしかないし、何よりやはりそれは
ラクなだけで原理的に「早く」はない。
「早さ」を追求するのに、型を学ぶのはよし、しかし「決めておく」というのは間違いだ。決めておいたものは必ず
遅い。正しい「型」は、フィクションの早さの「到達点」がやがてこういう形に行き着く、ということを前もって教え
るものでしかない。型は早さの養成ギプスであって、養成ギプスそのものが早いわけではない。養成ギプスをつけてい
るほうが遅くて当たり前だ。
「型」を、「前もって決めてあるやり方」と誤解したままでいると、どれだけ時間をかけても何の能力も養われてこ
ない。それは暗記を繰り返しているだけで、「型」というフィクション体験を繰り返し積み重ねているのではないから
だ。暗記を繰り返したとしても、それは後になって取り除きにくいクセと、無意味に肥大した物騒な筋力しかもたらさ
ない。
【予定と方角を一切決めず外出しろ。玄関先を出て右か左かさえ決めるな。ただしフィクションの早さで玄関を出
て、交差点ごとにフィクションの早さで方角を選べ。目についた雑貨屋があればフィクションの早さで立ち寄れ。ただ
しそういったことを前もって決めるな。】
【スーパーマーケットで、要らないもの、欲しくはないもの、何に使うのかさえわからないものを買え。ただしでた
らめに選ぶのではなく、フィクションの早さで「気まま」に選べ。「体験」に及ぶ早さで選べ。】
【居酒屋のメニューで、選ぶ前に決定しろ。メニューを見、フィクションの早さで決定しろ。ただし、「ぜったいに
おいしいものを注文する」という覚悟で決定しろ。フィクションの早さで「出し巻き」と言い切れ。ぜったいにおいし
いものを注文するのに、メニューを「検証」せず「体験」で決定するということをしろ。フィクションの早さがあれば
可能なことだ。】
【日常、実は何もかもを「決め打ち」しているということを初めて知れ。その「決め打ち」が「ひどく遅い犯人」と
初めて知れ。自分が欲しくないものを手にし、予定のない方角に歩き、これが「体験」をくれるということを初めて体
験しろ。そこに「本当はこういうことがしたかった」という感情が起こるのを初めて体験しろ。】
【事情で決められたものは自分の体験ではないということに初めて気づけ。喉が渇いてお茶を買いに行くのは自分の
体験ではない。事情のないところにこそ自分の体験があるということを初めて体験しろ。】
【準備するな。あいうえお、と言ってみろ。「あ」の次に「い」を準備するな。「あ」を十分言ってからフィクショ
ンの早さで「い」を言え。フィクションの早さがあれば準備の一切が要らないということを初めて体験しろ。】
▼未知をゆけ
駅前に行くことは、慣れたことで何の体験にもならない。そう思われている。けれども二月の駅前と三月の駅前は違
うはずだ。去年の駅前と今年の駅前も違うはずで、その意味では「今日の駅前」を前もって知っている人間はいない。
ところがわれわれは、ふだん自分の身の回りのすべてを「既知のもの」と決めつけて生きている。未知のものはない
と決めつけている。いかにも二月の駅前と三月の駅前は違うはずだと理性的に思えていても、習慣的に「同じでしょ」
「いつも行ってんだから」という決めつけが勝つ。
われわれは既知のものを「体験」はできない。もう「知っている」からだ。正しくは、「既知だと決めつけているも
の」は体験できない。われわれにとって体験のないということはさびしいはずだが、体験がないのはラクなので、われ
われは習慣的に物事を「既知だと決めつける」という暮らし方をしている。
加齢と共に、われわれは世の中のすべてを「知っている」という思い込みに囚われ、つまりはそうまでしてラクをし
たいということで、物事のすべてを「既知だ」と言い張るようになる。パリに行っても大したことはない、とすでに既
知にしているし、そういう既知の決めつけをしている状態では、確かにパリに行っても何らの体験も得ずに帰ってくる
ものだ。人は「体験」がおっくうでもあるし、なんだかんだ「怖く」もあるので、特に加齢と共に「既知」と決めつけ
て「体験」を避けるようになる。
人間は未知をゆくことでしか「体験」を得られない。フィクションの早さで動けば、そもそも「既知の決めつけ」が
機能する前に動ける。
【フィクションの早さで引き出しを開けろ。フィクションの早さで本を開け。フィクションの早さで後ろを振り向
け。フィクションの早さであって、加速のスピードではない。物音は立てるな。フィクションの早さでソーセージを口
に放り込め。フィクションの早さで「道玄坂」と言い、フィクションの早さで映画俳優の名前を言え。】
【フィクションの早さで言い、フィクションの早さで開き、フィクションの早さで口に放り込むと、既知ではなかっ
たという思いがけない「体験」をする。既知に思えるのは「遅い」からだと初めて知れ。】
【同じ映画を八回観ろ。見物するな。フィクションの早さですべてのシーンを追跡しろ。二回目は既知の映画に見え
るが、八回目には「いつもの新しい世界」が再生されることを初めて体験しろ。】
▼意識を明瞭に
「意識が高い」と言われている人たちの大半は、意識が不明瞭なのでえんえん意識について確認し続けているだけ
だ。意識が明瞭であれば「どういう意識か」ということの話は即座に済む。
意識はこころ(胴体)とは異なるものだが、方針を決定する大統領のようなものだ。胴体(こころ)が市民にあた
る。市民は優秀でなくてはならず、大統領は明瞭でなくてはならない。優秀な市民の上に不明瞭な大統領がいると、優
秀な市民が無駄になる。大統領が明瞭であっても、市民が荒廃していれば生産力は生じようがない。
大統領は市民の声を聴きながら全体の意志決定をする。大統領の意志決定を受けて、市民(胴体)はただちに一丸と
なって動く。あくまで国家の力量は市民の力量に依存するが、その市民の力量をうまいほうへ使うのが大統領の判断力
だ。大統領は当人の生産力ではなく判断の明瞭さが問われるものだ。
強い意志など必要ない。「勉強しよう」と思ってその意志が長続きしないのは、もともとの意志が不明瞭だからだ。
不明瞭だから「強く」固めておかないと消えてしまいそうになる。明瞭であればそもそも消えない。
「フィクションの早さを履行する」という明確な意志決定をしろ。意志決定をしたら、「フィクションの早さ」とい
うのがまだ何かわからなくても、猛然とそれらしいことを手さぐりでやりはじめる。
意識を明瞭にしろ。明瞭でないものはぼんやりした「思いめぐり」であって、意識ではない。明瞭なものだけが意識
だ。
必ず「やりとげろ」。小さなことでもやりとげろ。ジクソーパズルを必ず完成させろ。本を必ず読破しろ。十五分で
入浴するなら必ず十五分で入浴を終われ。これらをやりとげないなら初めから「やりとげない」という意識を明確にし
ろ。
「やりとげない」ということを経験させると、意識はますます不明瞭になっていく。まったく自覚のない毒素が意識
機能を侵食していく。これは自覚できないだけで本当にある。「やりとげる」ということは意識機能にとっての給与に
なる。誰だって給料日は自分の労働を肯定する。給与が支払われなかったら労働のすべては行方不明になる。
「やりとげない」という習慣は、「給与を払わない経営者」と同格だと思え。「やりとげる」という給与を与えない
と、意識機能はたちまち造反する。本当に言うことをきかなくなり、自分の意識機能そのものが反乱分子になってしま
う。
意識機能は、「やりとげる」という約束の上で機能しているのだ。だから「やりとげる」習慣の中でどんどん明瞭に
なっていく。
【「左手」と言え。次に、左手を見ながら「左手」と言え。次に、左手を目前に近づけてから「左手」と言え。次
に、さらに右手でそれを指差しながら「左手」と言え。意識の明瞭さには段階があることを初めて体験しろ。明瞭に
なった意識で「食事」と言え。そのとき意識が明瞭に「食事」を捉えることを初めて体験しろ。】
【コーヒーカップについて話せ。案外話せないものだ。次に、実際にコーヒーカップを指差したまま、コーヒーカッ
プについて話せ。カーテンの色について話すのでもいいし、ハイヒールについて話すのでもいい。実物を指差して話
せ。話すことを意識するな。コーヒーカップに意識を集中しろ。】
【話すことは特にないように思える。が、意識が明瞭に対象を捉えると、「話すことはある」という予感がすること
を初めて体験しろ。】
【トイレに行きたいとき、まず「面倒くさいな」と感じる。次に、トイレの方向を見ろ。そのまま視線をきょろきょ
ろさせるな。意識が明瞭に対象を捉えると、「面倒くさいな」が消失することを初めて体験しろ。】
▼胸高く膨らんで
こころは胴体にある。胴体に流れている「流れ」がこころという事象そのものなのだから、わざわざこの胴体を死に
体のまま抱えていてはありとあらゆることが無駄になる。胴体(こころ)の中心はどこにあるかというと、その字義に
たがわずだいたい心臓の近傍にある。胸の中央、胸郭の最もせり出したあたりだ。両乳首の中点のあたりに「こころ」
の中央センターはある。
人は手を組み合わせて天に祈ることができる。なぜか誰であっても、この「祈る」というときの天の方向を知ってい
る。だいたい前方上方を見上げるものだ。この「天」の方向が手がかりになる。「祈る」ときに向かう眼差しの方向、
その一点に向けて胸の中央が持ち上がる。胸の中央、すなわち「こころ」の中央センターが「天」に向かって<<吸い
上げられる>>。これは一般に「胸高く」「胸が膨らむ」と慣用句で言われる。
胸が天に向けて吸い上げられるとき、反作用的に腰の背面はほとんどまっすぐ後方にせり出す。これにより、胴体は
「S字に伸展する」という形になる。胴体はおよそ伸びているのが正しく、くぐもっているのは正しくない。ただしそ
れは単に「背筋を伸ばす」ということではない。人は背筋を伸ばすとき単に背中の筋肉を力ませがちだ。そうではな
く、胸が天に向かって吸い上げられ、胴体の全体がS字に伸展する。肩は下がる。肘は沈み、横に張らない。膝は地面
を蹴らない。股関節が奥へ引っ込みすぎない。特に肩は胸より低い位置に感じ取られているべきだ。
身体をバラバラに捉えることはいかなるときも正しくない。身体は常にひとつであって、部位の名前はあなたに知識
を与える代わりに全体性を奪う。あなたは五本の指を自在に動かすことができるが、それは「手」という一つとしては
たらいていることを疑わないはずだ。そのことと同じように、五体・四肢も全体で一つとしてはたらいていなければ身
体はまともに機能しない。特に、五体・四肢のそれぞれを分割的に鍛えた「筋肉」の力を振り回すことは、あなたをバ
ラバラにし、あなたの「こころ」の機能を埋没させて非常に疲れやすい身体にするだろう。
身体のすべては「ひとつ」に統合されなくてはならないが、そのための圧倒的な中心機能を、胸の中央センターが
担っている。よって、「胸高く」「胸が膨らんで」という状態がどうしても第一に必要になる。なお、こころの中心機
能を担うのは必ずしも胸だけではない――肚、とするやり方もある――のだが、そのことはここでは言及しない。
胸が高く膨らんで、胴体の全体がS字に伸展する、ということだが、このことが一定の形をはっきり持ち始めるのに
は時間が掛かる。一般にはほとんど使われていない身体の感覚を使うことになる。よってこのことは、「できた」とい
うことは数年に及びほとんどない。ジャージを着た立ち姿だけで人に称賛されるようになるまではこのことは実現され
ていない。それらすべての難しさを前提とした上で、なお「胸高く膨らんで」という捉え方は有効で有益なものだ。イ
ライラして力ずくでやることはなるべく避けるべきで、この胴体の形は「こころの動きと共に」生じてくるものだとい
うことを忘れずにいること。こころと共に動きはじめると、この動作に力ずくは要らないことがわかってくる。
【祈るべき「天」に向かって胸の中央を持ち上げろ。肩を上げるな。かろうじて胴体がS字に伸展するような感触を
覚えろ。】
【胴体をS字に伸展させると、こころが「信じる」のほうへ動くのを初めて体験しろ。胴体の形や流れる動きがその
まま「こころ」と連動していることを初めて実感しろ。】
【伸展した胴体から、ぐたっとスマートフォンを見るときのような体勢に落ちてみろ。胴体の形が誇りを失うとき、
「こころ」も誇りを失うことを初めて体験しろ。】
【目に力を入れてみろ。すると意識が興奮する。意識が興奮したとき、胴体(こころ)の感覚が途切れることを初め
て知れ。いわゆるキメ顔をするのでも構わない。胴体(こころ)がすっかり見失われることを初めて体験しろ。】
【腕に力を入れて振り下ろし、自分の腿を打ってみろ。あるいは膝を力ませて踵で地面を蹴ってみろ。それらが意識
を興奮させること、および「こころ」をすっかり見失わせるということを初めて体験しろ。】
【胴体をS字に伸展させたまま、肩は上げず、そのままいわゆる「催眠」の類と思える音楽を聴いてみろ。「信じ
る」「体験する」という胴体の形には「催眠」が作用しなくなることを初めて体験しろ。】
▼「間に合わない」、胴体から
「間に合わない」という言葉がキーワードになる。早さに文句を言う人間はいない。
早さを意識すると、人は加速しようとし、ますます遅くなる。早さを検証し、議論し、けっきょくは力ずくでなんと
かしようとし、イライラし始める。必要なことはスピードの加速ではなく「体験に間に合う」ということ。「間に合わ
ない」がキーワードだ。「体験」が起こるのは実は思われているよりもはるかに早く、このことに胴体がついていかな
いと何もかもが「間に合わない」となる。
見失われないために、覚えておかねばならない。<<フィクションの早さは胴体から>>。胴体からでないと間に合わ
ない。手先や足先は早くない。胴体、特にその中心から動くのが一番早く、胴体からでないとフィクションの早さに間
に合わない。
▼「間に合わない」、急ぐな
「早さ」と言われると誰だって急ぐ。だが急ぐのはもともと間に合っていないからだ。間に合っていないものを今さ
ら急いでも間に合わない。急ぐというのはノンフィクションの努力だ。フィクションの早さには間に合っていない。早
口の人の話はたいてい冗長で話そのものは遅い。
見失われないために、覚えておかねばならない。<<フィクションは急がない>>。夢の中で急ぐことは不可能である
ことのように。急ぐのは間に合っていないからだ。急ぐのではなく「もっと早い、思ってもみない何かがあるらしい」
と捉えなおすこと。
▼「間に合わない」、じっくり
「早さ」と「じっくり」は矛盾するように見える。けれども旅行に出るとき、早く出発すればじっくり歩いてゆける
ということがある。早く口に入れればじっくり味わうことができる。遅刻してきたらじっくり学ぶことはできない。書
家は一枚の書を割と手早く書き上げるが、その筆遣いが急いでいるとか焦っているとかいうことはない。
見失われないために、覚えておかねばならない。<<フィクションには無限にじっくりやる時間がある>>。これは何
のことだかわからないように思えるが、覚えておかねばならない。急いでいる人に限って「時間がない」とあわただし
く感じられている。フィクションの早さに間に合えばわれわれは一秒間の中に実に多大なことができる。一秒はじっく
りと長い。フィクションの早さによって、一秒に詰め込める密度が激増する。
▼「間に合わない」、体験の矢
フィクションの早さとノンフィクションの遅さは次のように感覚的にたとえられる。FとNは互いに向き合ってい
る。FはNに向けて弓矢を引き絞っている。狙いはピタリと明瞭だ。Nは手元に石を持ち、Fに石を投げつけてやろう
と考えている。
投石のためにNがわずかでも動けば、そのとたん、Fは引き絞っていた弓矢の引手を解放するだろう。ただちに矢は
飛び、Nに突き刺さる。Nの投石はとてもじゃないが「間に合わない」。
このことを本稿では「体験の矢」と呼ぶ。「間に合わない」としきりに言われているのはこれぐらいのどうしようも
なさで間に合わない。投石の速度が矢の速度を超え得たとしても、そもそも投石が成立するはるか以前でもう体験の矢
は投石者を貫いている。間に合っていない。Nが投石を放つころには、Fはもう後片付けと帰り支度をしているだろ
う。
見失われないために、覚えておかねばならない。<<「おはよう」の一言でさえ、矢でなければ体験を与えない>>。
われわれは現代、何もかもを検証してからするという、モタモタしたケチくさいやり方の中を生きている。
▼「間に合わない」、決めるな
「決め打ち」は実は遅いと、そのことは先に述べたとおり。にもかかわらず、われわれはしばしばこのやり方に未練
を残す。
見失われないために、覚えておかねばならない。<<何もかも間に合うなら、何一つ決めておく必要はない>>。「間
に合わない」という予感と経験に打ちのめされているから、われわれは失敗したくなくて前もって「決めておこう」と
仕込みを入れておくにすぎない。
決めておかないと行方不明になる、という人は多い。そういう人は単に意識が不明瞭なだけだ。意識が不明瞭なの
で、やけくそで確定判決だけ携えてこようとする。そんなやり方は何も解決になっていない。
▼「間に合わない」、ゆるむな
力むことはわれわれを遅くする。力んでいる人が冴えているということは百パーセントない。しかも疲れる。
よってわれわれは、力まないでおこうとして、自分をゆるめる。胴体や手足をゆるめる。
けれども、身体をゆるめると、身体はつながりをなくす。冷静に考えれば、スライムのようにゆるみきった人間が、
いくら「力んでいない」と言い張ったとして、そこから早く機能しうるわけはないのだった。
見失われないために、覚えておかねばならない。<<丸めたカーペットが素早く運べる>>。誰だってカーペットを運
ぶときにはそれを丸めて固い棒状にして運ぶだろう。このとき、カーペットをしっかりとまとめてあれば、カーペット
は手早く運べる。このカーペットのまとめかたが「ゆるゆる」で、持とうにも「でろーん」となっていたら? この
カーペットを運ぶのはやりづらく、いらいらする。
<<人間の五体と四肢は、「伸ばす」ことで「つながる」>>。力まないということは、この「伸ばした」状態で力ま
ないということだ。ピシッと丸められたカーペットのように。
たいていの人は、力まないように力を脱こうとすると、気が抜けてしまい、自分の全身を解体する。<<自分が解体
された状態が脱力なのだと思い込む>>。解体された状態は何もかもに間に合わない状態だ。
▼「間に合わない」、力むな
われわれはときに、だらしない自分を叱責し、いわゆる「気合い」を入れようとする。「早さだ、チンタラする
な!」。けれどもこのことは力みを生み、われわれをけっきょく遅くし、疲れさせ、さらに集中力をなくす。意識は興
奮するが、胴体(こころ)は鈍麻し、体験的知識(「身につく」もの)は得られないままになる。
見失われないために、覚えておかねばならない。<<左右に広がって荷物になる>>。
試しに、「やるぞ」と張り切って、両腕を振り立ててみる。すると、必ずその両腕は左右に広がって振り立てられ
る。この左右の広がりが「荷物」になる、この荷物によってわれわれは遅くなる。
ピシッと丸められたカーペットを運ぶ時のように。左右へのだらしない膨張が起こると、それが「荷物」になってわ
れわれは遅くなる。力むと必ずこの左右へのだらしない膨張が起こる。つまり、力むと同時に「肩肘を張る」「幅を利
かせる」という現象が起こって遅くなる。幅を利かせて肩肘を振り回すのはノンフィクションだけで十分だ。
▼「間に合わない」、ここ
フィクションは検証できない。フィクションは信じることしかできない。よって「信じる」という第一の機能でしか
フィクションの早さは実現されない。このフィクションの早さは実際には「ここ」という感覚で実行される。体験の矢
が放たれるときがそうであるように。「ここ」という感覚の、検証のない状態で行動は実行される。それでないと間に
合わない。「ここ、でしか間に合わない」ということがなぜかその瞬間にわかっている。
見失われないために、覚えておかねばならない。<<「ここ」はタイミングよりずっと早い>>。
一般に人は色んなことのタイミングをはかっている。話し出すタイミングや、唄い出すタイミング、立ち上がるタイ
ミングや、退席するタイミングなど。そうしてタイミングをはかるのはノンフィクションのものであって、フィクショ
ンの「ここ」はもっと早い。フィクションの「ここ」は検証する機能のはたらく前に発生するものだから、タイミング
より先に「動いた」ということが生じている。これでなければ間に合わない。
▼「間に合わない」、待つな
多くの人はタイミングということを知っている。タイミングのことを知っていて、タイミングのことを気にしている
のだが、冷静にみると人はそうしてタイミングをずっと「待っている」と言っていい。そしてその「待っている」とい
うあいだに、実はすべての「ここ」が通り過ぎてしまっている。こうして「待つ」ということは実は人に何も与えな
い。人は何かのタイミングがやってくると――やってこないのに――「待つ」ということを続け、そのあいだにすべて
の体験の機会を失っていく。
見失われないために、覚えておかねばならない。<<あなたの降りるべき駅はない>>。
ノンフィクションの場合は「事情」があり、あなたの降りるべき駅は前もって決まっている。けれどもフィクション
においては事情がないので降りるべき駅は決まっていない。いつまで待っていてもあなたの降りるべき駅には到着しな
い。
ドアが開く。「降りるべきか?」。検証したときにはもうドアが閉まる。「さっきの駅で降りるべきだったか」と思
う。そのことを検証しているうちにもう次の駅についてしまっている。こうしてすべてが間に合わなくなる。
「ここ」という体験以外にあなたが降りるべき駅はない。
▼「間に合わない」、居つくな
人は「あきらめずに頑張ろう」と思う。「何度でもやってやるさ」と思う。そう言いながら、それが何度目かという
ことを気にしている。数度も繰り返すとそれは「既知」のものになる。それをやっているうちはフィクションの早さに
は到達しない。フィクションの早さに「何度目」ということは存在せず、すべてのことは一度目しかない。
見失われないために、覚えておかねばならない。<<チャンスは一回目のみにある>>。それを二回目と捉えていると
き、それはすでに先ほどと同じこと――既知のこと――を再度やろうと試みているのであって、取り組みはノンフィク
ションになり、もうフィクションの早さには到達しない。
一回目の次は一回目でかまわない。「初めて」以外の体験はない。二回目に見る夢はない。
一回目にだめだったことを再度チャレンジしようとすることは、ノンフィクションにおいては「粘り」と呼ばれる。
この粘りのねばねばがわれわれから早さを奪う。ねばねばによって「居つく」ということが発生する。「居つく」とい
うことの中では気づかれないが、「フィクションをあきらめずに頑張る」というのでは文脈がそもそもおかしい。
▼「間に合わない」、済ませろ
努力家は「済ます」ということをきらう。頑張っていたいからだ。努力家はノンフィクションにおいて努力を称賛さ
れてきているので、いつでも頑張っていることを自負にしようとし、「もう済んだよ」とはなかなか言おうとしない。
見失われないために、覚えておかねばならない。<<早さの究極は、動かずに「済ませる」こと>>。
たくさん動くと頑張っているように見える。汗をかいて遠回りすることは努力と頑張りの見本のように思えて努力称
賛主義にとっては垂涎の的となる。
体験の矢が放たれるとき、引手が小さく解放されるだけだ。アッというまもなく、ほとんど動かずに「もう済んだ
よ」となる。
体験の矢がそうであるように、「フィクションの早さ」が実現されると、いくつもの営為が「いつの間に済んだのか
わからない」という早さで完了していく。笑顔で「おはよう」と言われ、去っていかれたとき、「......あれっ?」、い
つの間にそういう体験を与えられて去っていかれたのか「わからない」という状態になる。体験・フィクションの早さ
というのはそれぐらい早い。
▼「間に合わない」、体験させろ
あいさつをすることや、人を笑わせることなどは好いことだ。だがそうしたことは誰でもわかっていることだが、実
際にそれを「体験させる」ということは難しい。「ちゃんとあいさつをしなさい」と口うるさく子供に教える教師で
も、当人がその「あいさつ」を本当にできているのかどうかは大変あやしい。あいさつを「体験」させられていない子
供がそのことを力ずくで捻じ込まれるのだとしたら気の毒で嘆かわしいことだ。
見失われないために、覚えておかねばならない。<<いつでもパッと体験をどうぞ>>。
いくら難しい顔をしてみても、あるいは笑顔を振りまいてみても、「体験させる」ということができていないのな
ら、それはフィクションの早さに間に合っていない。いくら早い「つもり」でもだ。
やがて「何が早いのかわからない」という状態になる。そうなったとき、「体験させる」ということができていない
なら、けっきょく何も早くないし、フィクションの早さにはなっていない。
パッと「体験させる」ということができたら、相手の顔もパッと体験に輝くものだ。あいさつしたり笑わせたり。
「間に合っているのかどうかわからない」という疑問が生じたとき、常に「どうぞ、やってみて」と言われるだけでわ
かりやすい。
▼「間に合わない」、流されるな
ハイレベル。
いわゆる「センス」を自負する人は、「流れ」に乗って行こうとする。「タイミングですよね」ということを自分な
りの「流れ」で捉えてやっていこうとする。そのことにはたいてい「フフン」とした一種の自己暗示的な気分も付随し
てくる。そこから先の話は本当に難しいのだが、それでも本当のことを言うとすれば「流されるな」となる。フフンと
した「流れ気分」のものも、いつまでも続けているわけにはいかない。
見失われないために、覚えておかねばならない。<<フィクションの時間は無限に止まっている>>。これは何のこと
だか意味不明だが、覚えておかねばならない。フィクションの時間は無限に止まっており、流れていない。
いわゆる「流れに乗る」という場合、それはノンフィクション上の時間の流れに適応して流されている状態を指す。
しかし人間の第一の機能、「信じる」ということが純粋なフィクションを捉える場合、その機能は時間軸上の最先端を
捉え続け、その位置で固定されている。よって、「信じる」という機能そのものは時間軸上に流されていかない。
<<時計の針を止めて>>。<<時間が無限にあるということに気づいたときはじめて、「今」という時間軸上の現在が
存在することを体験できる>>。厳密にはこのときにはじめて自己の「存在」の直観的価値が獲得されることになる。
▼「間に合わない」、暈(ぼ)けるな
フィクション、と言われると頭がふわふわする。「フィクションの早さ」などと言われると夢のある超能力じみて聞
こえる。「フィクションの早さが体験なのよ」と、空想の気分に耽りたくなる。けれども実際はそうではない。実際に
は「なんだその早さ」と具体的に人を驚かせるものになる。日常の動作でさえ「ゆったりしているのになぜか追いつけ
ない」という状態になる。
見失われないために、覚えておかねばならない。<<実用的に早い>>。
どう考えても、暈けた人が早いわけはない。だが本人は暈けているのでよくわからなくなっている。そんなことには
われわれは何の用事もない。実用的に「早い」のなら、そのことに文句を言う人はいない。
▼「間に合わない」、選ぶな
人間の第一の機能は「信じる」。これが第一の機能だから「早い」。「信じる」からこそ「フィクション」が得ら
れ、フィクションの早さに体験が得られる。そう言われるともっともだなと思い、そういうことなら「信じる」という
ことを選びたくなる。「信じようと思います」「信じることにしました」。
けれどもどう考えても、人間は目の前の物事について「信じる/信じない」を選択する権利など持っていない。霊感
商法の壺は、冷静な人にとってはガラクタだが、催眠にかかっている人にってはありがたいものなのだろう。そんなこ
とは自分で選べない。
車エビが「おいしそう」に見えてトノサマバッタが「まずそう」に見えるということを、われわれは自分で選べな
い。選ぼうとしたらどうせ催眠になる。「あなたはこの健康にいい野菜ジュースが大好き、大好き、大好きなんで
す......ほうらそんな気がしてきました」。
「信じるの!」と自己催眠をかけたりたら本末転倒だ。
「信じようと思います」と選択したとき、その選択という行為がもうとてつもなく遅いと知っておけ。そんなので間
に合うわけがない。
<<一も二もなく>>という言葉を覚えておけ。一とか二とかの前はゼロだ。つまりゼロ秒で動いている。体験はゼロ
秒で獲得されている。もう動いたのだ。体験は突き抜けていった。
「まず信じるところから」? そんな安易なカルト宗教まがいが通用するわけがない。「まず〇〇」と選択を決定し
たころ、「体験」はすでに遥か彼方に過ぎ去っている。
▼間に合え、証を得ろ
あいさつひとつ、冗談ひとつ、鼻歌ひとつ、仕事にせよ勉強にせよ、何でもいい。
そこに「体験性」があることが、フィクションの早さの「証(あかし)」になる。
勉強ひとつにせよ、それが「体験」できるということ。
鼻歌ひとつにせよ、それを「体験させられる」ということ。
この証が得られるまでは何一つよろこべることはない。
体験性が生じ始めると、
「さっきの歌、もう一回唄って」と言われるようになる。
「こないだのところ、もう一回連れて行って」と言われる。
「あの話、何回でもして」と言われる。
そのたびに「体験」が得られるからだ。
▼愛されないのはヘンだ
もし「信じる」ということが恢復され、「体験」を与えることができるようになり、何につけ「早い」ということで
あったら、一定程度は愛されないとヘンだ。また、愛されないならやっていることには何の値打ちもない。
夢のような人でないなら、夢の機能(体験の機能)に及んでいない。また人は、検証の人をそこまで愛しはしない。
▼フィクションが教えるあなたの「こころ」(信じるということは取り戻されるか)
「フィクションの早さ」には憧れるべき値打ちがある。早い上に体験する・させるということも得られ、しかもそれ
はどこか夢のようでさえあるという。
けれどもこの憧れる値打ちのある「早さ」に取り組もうとしたとき、人は思いがけない「心理的な抵抗」を覚える。
中にはこの話そのものを急激に「敵」として憎む人も現れてくる。
それは、そのようなことが起こりうるだけ、あなたのこころの中に何かが棲んでいるということ。
なぜ疑うことを第一にし、最前線に「検証する」を持ち込むようになったか。その背景には、深い悲しみや怒りが潜
んでいることがある。いわゆる抑圧やコンプレックスが深く根を張っていることもある。
それは、フィクションという機能そのものが、あなたにあなた自身のこころの現在を教えているということでもあ
る。あなたのこころに棲んでいる何かが、あなたの「信じる」「体験」「フィクション」をやらせないよう取り締まっ
ている。
▼やたらめったら間に合え
ここまでに示したように、「フィクションの早さ」は何も特殊技能のように訓練に特別の環境を要さない。日常の動
作で十分だ。
逆に言うと、日常のいかなるときにも、あなたはこのテーマから逃げられないということでもある。
日常のいかなる動作にも、間に合う/間に合わないがある。
じゃあ、やたらめったら間に合え。
それだけが唯一の、決定的な希望を紡ぐ。
やたらめったら検証しているよりはるかにいいじゃないか。
胴体(こころ)だけが体験に間に合う。
体験に間に合ったときの胴体は目にもとまらぬぐらい早い。訓練のていどによっては実際に、<<感覚上で「消え
る」「消す」というところにまで至りうる>>。
消える? そもそもわれわれは、自分の「思い入れ」によってこの世に「居座っている」だけにすぎないのだから、
それが「消える」「消す」となるのは何もおかしなことではない。
▼「信じる」ことが恢復されたとき、つながって全体が起こる
重要。
――「検証」する前に動くとはどういうことか? それも、「決め打ち」とは異なるものだという。もし何らの「検
証」もする前に動いてしまえば、その人間の挙動や言動は支離滅裂になるのではないのか? そのことについての疑問
がどうしてもある。
このことは、かつて四年前に書いた「現代と恋愛」の中でも触れている(恋愛レクチャーの頁参照)。四年前、それ
は「脳と意識の違い」だと示した。あのときの表現は今でもやはり変わらずに当を得ていると言えよう。
ただ現在に及んで、「意識の端末が顔面であり」「脳の端末が胴体である」ということまでわかってきた。そして意
識が「イメージ」という機能を持つこと、および脳が胴体を通して「夢」「体験」という機能を持つことがわかってき
た。体験しうる映像はイメージと異なり、想像力/イマジネールと呼ぶこともできよう。
これら脳の側の機能は、夢、想像力、イマジネール......つまり「フィクションの機能じゃないか」と認めざるをえな
かった。ここで重大な発見は、「体験」もフィクションに属しているということだった。実体験でさえ、それを体験と
して獲得するとき、人はそれをフィクションとして獲得している。
人間はしばしば意識に囚われながらも、本質的には脳の営みによって、夢や体験をフィクションとして獲得し、その
ことを自己のイグジスタンスとしている、ということになる。なぜそうなのかと問われても、そういう機能のものとし
て作られてあるのだから仕方ないとしか答えられない。
四年前は意識と脳とをそれぞれの機能において――優劣は大きくあるが――区分するだけだったが、今になってその
機能に序列があることがわかってきた。序列として、第一にあるのは脳の機能だ。脳の機能のほうが時間軸上で早い。
たとえば赤子などはまだ疑う機能を持たず、体験する機能しか持っていないのだから、つまり脳の機能は「信じる」と
いう早さの機能で、後天的に育つ意識の機能は「検証する」という機能だと言えた。「信じる」ということに制約が掛
かったとき、野党である「検証」の機能から声が掛かり、「疑う」という手続きに入るのだが、このことがあまりにも
繰り返されると「疑う」ということが当然の手続きになり、自動的に「疑う」という一種の体質になることがわかっ
た。このときの「疑う」というのはまったく理知的ではなく習慣に刷り込まれた感情的なもので、よってこれは「疑
情」と呼ぶにふさわしかった。この疑情第一の体質が現代の生活にうまく適合するもので、もはやこの疑情第一の状態
を非難することもできない。それでもなお、本来の序列として、第一の機能「信じる」を恢復させる手立てが必要には
なるわけだが......
こころは胴体にある。そしてここまで「怒りの日」と題した連作の中で、「胴体は孤立せず他者とつながっている」
と語ってきた。そのことに基づいて、今あらためてこう述べることができよう。
――「検証」する前に動くとはどういうことか? それも、「決め打ち」とは異なるものだという。もし何らの「検
証」もする前に動いてしまえば、その人間の挙動や言動は支離滅裂になるのではないのか? それについてはこう答え
うる。/支離滅裂にはならない。
われわれの胴体(こころ)は脳の端末としてフィクションの機能を担っているが、この胴体(こころ)は他者および
この世界から切断されて孤立しているものではない。われわれが意識機能によって「検証」を差しはさむ前から、すで
に胴体(こころ)は周辺の一切と接続して何かしらの情報を得ているのだ。その情報を、「検証」の前から信じて体験
している。この体験に接続して動くのであるから、その動くことは支離滅裂にならない。検証前のわれわれの胴体(こ
ころ)はでたらめに動くのではまったくないのだ。それどころか、本来は周辺のすべての情報を体験に捉えてきわめて
精緻に動く機能を持っている。
ただわれわれにとっておそろしいのは、われわれの胴体(こころ)が捉えるのがフィクションであるということ、お
よびそのフィクションがどうやら無限にあるということなのだ。誰でも明らかに認めうるように、フィクションなどと
いうものは無限にありうる。この無限のものを、われわれの胴体(こころ)が検証前に捉えているというのは一体どう
いうことなのだ? 数々の宗教がこの世界の創世神話を語っているが、われわれはふだんその神話をどことなくフィク
ションの遠い話として捉えることで安心している。まさかこの胴体(こころ)が、検証もせずにそのフィクションを
「体験」してしまうのではあるまいな? われわれは自分の胴体(こころ)が検証せずとも精緻に動きうるということ
によろこばしい希望を見るが、その精緻さが行き着くところ、われわれの検証能力をはるかに超えるということについ
てはおそろしくて受容しがたいのだ。
さしあたり本稿では、もっと実利的に考える。われわれの胴体(こころ)は、「検証」などというチンタラした過程
を経なくても、周囲とつながった体験性のある挙動を生み出してくれる。われわれがせせこましい検証に呻吟しなくて
も、われわれの胴体(こころ)はわれわれに夢のような体験と実在をもたらしてくれるのだ。
<<デキる奴は、「全体とつながったまま早い」から、破綻しないし、大きな「体験」を作り出す>>。
ただしそのためには、やはり胴体(こころ)の機能が、健全に保たれ、かつ十全に発達していなければならない。
「検証する」「信頼性を認める」という機能まで含めて、正しい序列において機能していなくてはならない。
胴体(こころ)は孤立せず他者とつながっている。少なくとも、つながることが「可能」だ。健全さと十分な発達に
よって可能になる。本来可能なはずのそれが、「疑う」ということによって不可能になる。
では「疑う」をやめて「信じる」を恢復するには? 「疑う」をやめることはできない状態だが、せめて「疑う」と
いうことをコントロールして、都合よく「信じる」を使いこなせるよう恢復するには? 本稿では「早さ」という普遍
的な値打ちをターゲットにしてそのことへの糸口にしたい。「信じる」なんて時代錯誤の野暮に、今さら誰が与したい
だろう。けれども、それがただならぬ「早さ」を実現するというのならば、われわれは少々、功利心をくすぐられる。
ただならぬ早さを実現しようとしたとき、それはやがて第一の機能を揺り起こして使いだすより仕方がなくなる。ど
う考えても疑っているほうが遅い。疑っていたら間に合わない。われわれは誰しも、そうして疑っているうちに何もか
もに間に合わなくなるということを、最大の虚しさとして警戒しているはずだ。数年間もこのことを信じて進んだ者
は、その数年後にどれほど早くまたストレスのない挙動の人間になっているだろう? 僕が自分の提言を恥じねばなら
ないときがくるとしたら、僕よりも「早い」人間が数々現れて、僕の周囲を取り囲んだときだろう。そのときは僕はよ
ろこんでこの提言を取り下げようと思うが、今のところはまだ責任をもってこのことに傲然としておきたいと思ってい
る。疑う胴体の誰かより信じる胴体の僕のほうが「早い」。
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