(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
「こころは胴体にある」、それが当たり前の未来へ
「ごく平凡な記憶力の私が1年で全米記憶力チャンピオンになれた理由」(ジョシュア・フォア著)の21頁に、著
者の見たトニー・ブザンの姿についての描写がある。トニー・ブザンは、ご存知の方も多い「マインドマップ」と呼ば
れるブレインストーミング法の創始者で、現在も脳機能開発の第一人者の一人といって差し支えない。このときブザン
は六十七歳と書かれている。
――この記憶力トレーニング復興運動のリーダーは、トニー・ブザンという67歳のイギリス人である。人当たりの
いい教育者で、自称「教祖」、自分の"創造指数"は世界一だと主張している。コン・エディション社の食堂で会ったと
きは、金で縁取りされた大きなボタンが5つついた紺のスーツを着ていた。襟なしシャツのどの位置にも大きなボタン
がついていて、東洋の僧のような雰囲気を漂わせていた。スーツの襟にはニューロン(神経細胞)を型取った飾りピ
ン。時計の盤面はダリの『記憶の固執』――時計が溶けていく例の絵である――の複製画だった。彼は選手権の挑戦者
たちのことを「脳の戦士」と呼んでいた。
白髪の交じった頭を見れば、67という年齢よりも10歳ほど老けて見えるが、それ以外は30歳と言っても通じるよう
な引き締まった身体つきだった。毎朝、テムズ川で6~10キロほどボートを漕ぎ、「脳によい」野菜と魚を食べるよう
にしている。「ジャンクフードは脳をジャンクに、ヘルシーな食べ物は脳をヘルシーにする」と言っていた。
ブザンは床をすべるようにして歩く。その動きはアイスホッケーのパックを思わせる(のちに彼から聞いたところ、
40年間にわたる「アレクサンダー・テクニーク」[訳注:無意識の習慣や癖によって生じる不必要な緊張を減らしてい
くことで、本来の身体の動きを取り戻していくためのメソッド]のたまものだという)。話すときには鏡の前で練習し
たとしか思えない身ぶりを交え、その発声は上品で歯切れがよい。強調したいときには指を立てるジェスチャーも加え
る。
本稿を含む連作である「怒りの日」の中で、二日目にも四日目にも申し上げてきたとおり、人間の「こころ」は胴体
にある。「こころ」とは具体的なもので、「こころがつながる」「こころが伝わる」「こころが通じる」ということで
さえ具体的なものだ。精神的なものなどではないし、ましてやイメージ的なものなどであるはずがない。
それがどれほど「具体的」なものかを、実際にお見せしようということで、柄にもなく先生気取りの役回りにさえ踏
み切ったのが、僕なりに昨年の夏から始めたワークショップの試みだった。僕は急遽、具体的な姿をもって、「おれの
ことをナメるなよ」と人前に立つことをやり始めたわけだ。
僕は「こころがわかる人間」を――自嘲的にではあれ――自称し、こころは胴体にあるということおよび、その「こ
ころ(胴体)」がわかるということが、どれだけ具体的な能力に優れることになり、それがどれだけ実効的なものにな
りうるかを見せつけることにした。僕は合気道の経験者より和合と制圧の実技に長け、ダンス経験者より舞踏の表現力
と四肢の捌きに優れ、音楽経験者よりリズムと歌唱の感動を実現した。それでいて朝までやっても十代の若者より疲れ
なかった。そういった実物をもろに見せてやって「どうだよ」とするしかなかった。<<僕は何一つ習ってきたことは
ないが>>、身をもって遊びぬいて生きると決めてきた「おれのことをナメるなよ」。「その棒切れで、後ろから突い
てきてみろ。見えなくても、マンガに出てくる剣豪か忍者のように、霊感じみてよけてやるからさ」。宣言したとおり
のことが起こる。「ほらな。こんなものは霊感でも何でもないし、作り話ではないんだよ。こころは胴体にあって、胴
体はそれぞれに孤立していない。つながっているんだ」......
いいかげんそうまでして、「こころ」のことがわかられるようになり、もう二度と女が傷ついたり破壊されたりする
ことがせめて僕の周辺ではなくなるようにという願いを叶えたかったのだった。そうして勝手な願い事を元にしゃしゃ
り出ることこそが、逆に女性たちから「大きなお世話よ」と不興を買うことをいいかげん身に染みて承知もしながら。
僕は品性においても性向においても、自分の得意を人に見せびらかすことを好まずにきた。人を何かしらよろこばせ
ることに向けてならいくらでもお調子者のふうでおどけてみせるが、単にそういった能力に秀でているというようなこ
とを見せびらかして悦に入るほど僕は差し迫った自己愛や自己承認欲求に駆られてはいない。にもかかわらず、そのよ
うな不本意な見せびらかしや似合いもしない先生役を買って出たのはなぜかといえば、そのことは「怒りの日」という
タイトルを冠さずにいられなかったということで説明にしておきたい。怒りの日。本当は、そういった人間の内部の機
構については――かなり以前からうすうす気づいてはいたけれど――タネアカシするような野暮はせずに、ただ遊びぬ
いていくことだけを続けていたかった。
具体的な――不本意ではあるけれど――技術としては、僕はよく「流れて、まっすぐ、ひと調子」と言う。人間の身
体は、力を入れて「止まる」ものであり、力が抜けて「動く」ものだと、僕は唱えている。「力を入れて、地面を蹴っ
て動く、と思われているのが間違いなんだ、逆なんだ」。全身の力が同時にオンになり、停止状態になり、ときには圧
縮まで含み、そこから全身が同時に一斉にオフになったとき、そこから生じる動きは胴体まるごとの「流れて、まっす
ぐ、ひと調子」になる。練習のメソッドとしてそれを「爆発体操」とまとめてもある。力を抜くというのは、のびのび
とつながった身体を崩して「解体」することではないよ......胴体と四肢は脱力して「伸びて」いないとつながらない。
「流れて、まっすぐ、ひと調子」。動くのに力を使っていないので動作に加速・減速が生じず、また弧を描いたりス
イングをしたりしなくなる。よって、まっすぐに動き、スッと流れるようで、「いち、に、いち、に」というカウント
性が生じず「ひと調子」になる。この動きが思いがけず「早く」発生し、思いがけず「早く」完了に至るので、この技
術が「フィクションの早さ」の具体になる。力を使わないので胴体がバラけず、「こころ」がひとまとまりのまま挙動
できる。こころを失わずに動けるのだ。
先の引用文にあるところ、目撃されたトニー・ブザンの歩法が「アイスホッケーのパックを思わせる」のは、まさに
「胴体まるごと、流れて、まっすぐ、ひと調子」の歩法だったのだろうと想像がつく。膝で地面を蹴って歩くと絶対に
すべるようには歩けない。
僕は「脳の端末が胴体だ」と主張するが、そのことは脳機能開発の第一人者であるトニー・ブザンの歩く姿とも整合
する。また僕自身も、目撃してくれた人にとってはもう見慣れたものだろうが、特に意識はしなくてもすでに「床をす
べるようにして歩く」ということが当たり前になって、そのことはもはや失われようがない。僕はこの歩法が当たり前
になって、体重は明らかに過剰であるにも関わらず、街中で坂道を上るときにもそれを坂道と認知しなくなった。坂道
を上った先、思いがけず若い人が隣でハアハア息を切らすのに、「どうしたの」と訝ってしまうことがある具合だ。
「認識」して脚力で歩くことより、「体験」して胴体で歩くことのほうが人間の機能として本来的で有利なのだ。その
有利性はこれほど具体的な形で表れてくる。
ブザンが習得したというアレクサンダー・テクニークのことについては僕はまったく知らない。僕は何一つ習ってき
ていない人間だ。だがアレクサンダー・テクニークについての親切な注釈に書かれてある、[訳注:無意識の習慣や癖
によって生じる不必要な緊張を減らしていくことで、本来の身体の動きを取り戻していくためのメソッド]ということ
は、日本古来の武道にある「後来習態の容形を除き、本来精妙の恒体に復す」の言葉に完全に一致している。
つまり、ここまでにずっとお話ししている「こころは胴体にある」という言説は、僕の思いつきということではな
く、古来の叡智でも最先端の知恵でも同じようにたどり着く、お定まりの真理ということでしかない。この野暮ったら
しくていまいちガックリするような結論が残念ながら真理なのだ。少なくとも「こころ」および「脳」については。こ
こにおいて「こころ」と「脳」はほとんど同じものを指しているが、より正確にいい当てるとすれば、「脳が多層的事
象を『ひとつ』に捉えて、同時多層処理をこなせる」ということが、実際に体験されると「胸にぐっとくる」というこ
とになる。胸にぐっとこなければ同時多層処理はこなせないということでもある。
脳が多層的事象を「ひとつ」に捉えるとはどういうことだろうか。大江健三郎がその文学の手法から、ウィリアム・
ブレイクやガストン・バシュラールの想像力論を肯定する立場として次のような例を述べている。
――風景を見ている眼、ということをさらに考えれば、そこには<<統合する、かたちをあたえる>>働きが起ってい
ることに気がつくだろう。(中略) 僕らはいったん興味をそそられて風景を見はじめる時、その全体、または一部分
を、あるまとまりでとらえている。バラバラの家・樹・野原を統合し、ひとつの全体として把握しようとしている。細
部に目をとめるにしても、それはひとつのかたちをそなえた全体の細部なのだ。僕らは思わず知らず、風景にある<<
かたち>>を、あるスタイルすらあたえて把握しているのである。[新しい文学のために:大江健三郎著]
こころ、つまり脳による「同時多層処理」が機能上で果たされるとき、胴体は「ひとまとまり」でなくてはならず、
またそれは外側に向けて「信じる」という第一の機能において開かれていなくてはならない。本稿の言い方でいえば、
ここで大江の言う「僕らの風景を見ている眼は思わず知らず、風景にあるかたちを、あるスタイルすらあたえて把握し
ている」ということこそ、風景を「体験する」――家・樹・野原を「ひとつ」として同時多層処理する――ということ
に他ならない。
「ジャンクフードは脳をジャンクにする」とブザンが言うのは、僕にとっては、「ジャンクフードの『刺激』で発奮
し、催眠状態になって摂食を続けるのは、食事という『体験』とは異なる」ということになる。疑情体質において「体
験」が失われた人にとっては、そうした口中への単純刺激もさびしさを紛らわす発奮と催眠の材料になるだろう。度を
過ぎたジャンクフードが人に催眠状態と依存症をもたらすということは何も過剰な警告ではない。
また僕などは、ブザンがダリの「時計の溶ける絵」を盤面にした腕時計を嵌めていたことが、いかにも彼もまた「時
間軸上の突破的問題」を知っている者としてアクセサリーを見せつけていた姿なのだというふうに思える。ブザンはそ
のマインドマップの方法から、人間の創造性が放射的爆発の形状を取ることを誰よりも知っていようから――僕が「爆
発体操」を言うのも、脳の機能がもともと放射的爆発の形状を取ってはたらくからなのだが――ブザンがその創造性の
行き渡る「早さ」について考えたことがないはずがない。また合わせてダリが時計の溶ける絵を「記憶の固執」という
題で描いていたということ、および詩人ウィリアム・ブレイクが「記憶」を「想像力に対立するもの」として否定的に
捉えていたということも付記しておきたい。ブレイクもダリも「記憶」を攻撃している。「記憶」はすべてのものを既
知のふうにして、体験と実在を奪ってしまうものであるから。また、手元に資料がないが、詩人萩原朔太郎も自分が
「記憶の固執」に囚われて純粋な「体験」を失っていくことを自らに憎悪するようだったことも、十分に符合している
と言えよう。画家・岡本太郎が「芸術は爆発だ」と唱えたことは日本ではあまりにも有名で、また岡本太郎は「この爆
発には音が無いんだ」と述べていたことも付記しておく。爆発に音がないというのは、芸術的爆発が筋肉的なパワーに
よって生じるものではないということを示している。ブザンの歩法がすべるようで音を立てなかったことのように、脳
の爆発は騒音を立てない。ここに浮き彫りになる「爆発」はすべて、むしろパワーの逆、固執から離脱することで生じ
る「自由」の爆発であることをすべての状況証拠が示唆している。岡本太郎は芸術のすべてを人間の「自由」というこ
とに結び付けてその芸術論を矛盾させていない。
疑情によって閉ざされた胴体はいかにも不自由で、のびのびとさえしていないことは明らかだ。閉ざされる・閉じ込
められるということはいかにも爆発の反対だと言いたい。しかし、閉じ込められた者にとって「爆発」とは、けたたま
しい騒音を立てる「破裂」のことだろう? と思えるのかもしれない。やりきれなくなった人間の「破裂的」行状は、
今あちこちで凶行じみて発生しており、しばしばニュースに報道されて世の中を暗澹とさせている。芸術は「破裂」の
ことですよね? と暗い顔をしてつぶやけば、それには慌てて岡本太郎も否定をしたに違いない。
僕自身、もともとは馬鹿げていると捉えていた自身のワークショップの取り組みが、思いがけず多数の人に能動的に
受け取られていくのを見て、こういったことの需要はすでに思いがけない規模で顕在しているのだということを驚きと
共に感じた。やや大げさに考えれば、われわれはここ二百年近く、産業革命から成り立った資本主義社会を生きて来、
浮世の資本主義こそを「ノンフィクション」としてきたわけだが、このいくらか富そのものを無視した「資本は雪だる
ま式に増え続けるであろう」とした加速度的経済主義は、多数の製品とテクノロジーをわれわれをもたらしたにせよ、
ここにきてわれわれを「体験」においてまで豊かにするわけではないということをいやがおうにも思い知らせている。
われわれはこれ以上テレヴィモニタや通信速度が大きくなることを自身の利益だとは感じられていない。この、利益だ
とは感じられない――快適ではあろうけれどの――ものにいつまでも奔走させられることからこっそり離脱する準備が
そろそろ必要なのではないかという予感がしてきているのだ。むろん資本主義世界が消えてなくなるわけではないし、
いつまでもわれわれはたくましく生きていくにせよ、むしろそのノンフィクションに「自分の体験のすべてを奪われて
しまう」ということがありうるということに、われわれはすでにはっきりとした警戒心を持っている。われわれは資本
主義をノンフィクションとして、資本主義のすべてに刺激と発奮を受けてきたが、かつては心地よい刺激であったそれ
も、最近は刺激として悪質化の度が過ぎている。
「こころは胴体にある」ということ、および「胴体は脳の端末で、脳は同時多層処理を本分とする」という、この思
いがけずまともな言説が、今はここで僕などによって怒り半分に語られているとしても、遠からざる未来にこのことは
割とありふれて知的な人々によって親しいコモンセンスになりうるという予感がある。人間の生きる動力源は刺激にあ
らず体験にあるのだとして、再びフィクションが正当の地位を取り戻すことがこの先に十分ありえるのだ。「こころあ
る生き方をするだろ、そりゃ」。そのとき、このことにいち早く目をつけて、こころ(胴体)の恢復と育成を先んじて
進めていたものが、何かしらの先行者利益を得るだろう。われわれはいつまで地面をガツガツ蹴り続けて歩いてよいの
か、その幕切れはもう近くまでやってきているのかもしれない。
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