(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
まとめ、および、「あなたは、なんて人なの」と言ってもらえた懐かしい時間
まとめ。
(A)人間の第一機能と「体験」
A1.人間の機能は時間軸上、次の順序ではたらく。一、信じる、二、検証する、三、信頼性を認める。
A2.この機能順序が正しく統御されているということが「理性的」ということ。
A3.ところが第一機能の「信じる」が停止している場合、第二の機能が最前線になるから、「まず検証する」とい
う状態になる。これを「疑う」と呼ぶ。疑情第一という「体質」になる。検証してから信頼性を認めるが、それは「信
じる」ということとはまったく別。「信じる」ことがないから「体験」がゼロになる。
A4.なぜそんな体質になったか? 現状、人を騙しにくるものが多すぎるから。自己防衛のためにしょうがなかっ
た。
A5.第一機能の「信じる」が停止されると、騙されなくはなるが、そのかわりに「体験」の一切を失う。体験を失
うと、自分の「実在」も失う。
A6.「疑う」ということで閉ざされた胴体は、オリのようになって、人間のこころ(胴体)は孤立する。つながり
をなくす。
A7.つながりをなくしたオリの中で人間は依存症に抵抗できない。
(B)人間は起きているあいだも「夢」を見ている
B1.人間は起きているあいだも「夢」の機能を継続させている。
B2.人間にとって「夢」は「体験」であり、イメージではない。
B3.実は人間は「夢」の機能を媒介にして「体験」を得ている。たとえそれが実体験であっても。
B4.「夢」はつまり「フィクション」の機能だから、「体験」は「フィクション」の機能によって得られている。
このことがとてもわかりづらい!
B5.なぜこのことがわかりづらいかというと、われわれは生活者としてノンフィクションを重視してしまうから
だ。
B6.寝ているあいだの「夢」が「体験」されるのは、人間は寝ているあいだは「疑う」ということができないか
ら。
(C)刺激と依存症
C1.人間は信じるものがないと動けない。
C2.よって疑情体質は、信じうるもの、つまり「疑いようのないもの」を探す。
C3.「疑いようのないもの」、つまり「刺激」に依存する。「刺激」は「作用」を持ち、「刺激」が「作用」を持
つことは疑いようがない。
C4.この「刺激」を受けて「発奮」という作用を得る、このことを「ノンフィクション」と呼ぶ。
C5.「作用」があるものを、疑情体質は「リアル」と言って評価する。
C6.「作用」があれば何でもいいので、「催眠」で「信じるもの」を「捏造」してもよい。刺激に「作用」さえあ
れば依存できるのだから催眠でもよい。
C7.発奮作用が性的な機構に及ぶことを特に「性癖」と呼ぶ。疑情体質者は性愛で交合せず性癖で交合する。
C8.「刺激」には耐性がつくので、「作用」を得るためには「刺激」が増量されるか「バリエーション」を増やす
必要がある。
C9.刺激で発奮したり、催眠で元気になったり、性癖で興奮しているとき、胴体(こころ)は寝ぼけているので、
大きな負担が掛かり損傷していく。
C10.胴体(こころ)が寝ぼけたまま、それでも発奮したり元気になったり興奮したりしている気になるので、こ
の状態はいかにも「アヘアヘ」しているという感じがする。
C11.疑情のオリの中で人はこの「アヘアヘ」に抵抗できない。「アヘアヘ」にされてしまう。
C12.刺激は覚えやすい。特に覚えやすくなったものをマーキングともいう。マーキングされたものは目立つので
帰りやすい。
C13.疑情体質者は「強い刺激」が「大きな体験」だと猛烈に思い込んでおり、いつだってマーキングされたそれ
に舞い戻っている。
C14.性癖は必ず「キモチワルイ」ものから得られる。キモチワルイものは「異物感」という強い刺激をもたら
す。このキモチワルさと異物感がセックスの刺激と混淆し、キモチワルイものにしか性的発奮を起こさないという誤っ
た学習が根付く。これを性癖と呼ぶ。
C15.性癖を植えつけられたとき、その事件は「恥辱」なので、人はそのことを認めがたく思い、胸の内に抱え込
みがちだ。
C16.根がマジメな人ほど「異物感」に免疫がなく、性癖交合にマーキングを覚えて転落しがちだ。
(D)奇妙な行動
D1.人間は「信じていたものが破壊される」とき、甚大なダメージを受ける。
D2.このダメージに耐え切れないため、人は自失状態になり「奇妙な行動」に押し出される。
D3.「奇妙な行動」は、薬物、催眠、性癖のいずれかの摂取に向かう。
D4.「奇妙な行動」の後、人はそこに「やさしい」「真実の救済」を得たと錯覚する。多幸感に理性が敗北する。
D5.このとき以降、「いつからかおかしくなった」という状態になる。これまでの自分と切断される。
D6.この「奇妙な行動」は依存症への劇的な端緒を示している。
(E)フィクションの早さ
E1.「信じる」機能は第一の機能だから、その他のどの機能より「早い」。これをフィクションの早さという。
E2.フィクションの早さは胴体の早さであり、脳の早さだ。胴体は脳の端末だ。
E3.この「早さ」は実効的に早い。実際的・具体的に早い。スピードを目撃する前に完了してしまう。
E4.体験するほうが早い。身体をどう動かすより、体験で挙動するほうが圧倒的に早い。
E5.脳は多層を同時処理する。多層を「ひとつ」にして処理できる。
▼問題。以下の空欄に適切な語を埋めなさい。同じ語が繰り返し入ることもある。また、選択肢は正しいものを選び
なさい。
(A)人間の第一機能と「体験」
A1.人間の機能は時間軸上、次の順序ではたらく。一、信じる、二、( )、三、信頼性を認める。
A2.この機能順序が正しく統御されているということが「( )」ということ。
A3.ところが第一機能の「信じる」が停止している場合、第二の機能が最前線になるから、「まず( )」
という状態になる。これを「( )」と呼ぶ。( )という「体質」になる。検証してから信頼性を認める
が、それは「信じる」ということとは(まったく同じ/まったく別)。「信じる」ことがないから「体験」が(慎重に
なる/ゼロになる)。
A4.なぜそんな体質になったか? 現状、人を( )ものが多すぎるから。自己防衛のためにしょうがな
かった。
A5.第一機能の「信じる」が停止されると、騙されなくはなるが、そのかわりに「( )」の一切を失う。
( )を失うと、自分の「( )」も失う。
A6.「疑う」ということで( )胴体は、オリのようになって、人間のこころ(胴体)は孤立する。
( )をなくす。
A7.( )をなくしたオリの中で人間は依存症に(抵抗できる/抵抗できない)。
(B)人間は起きているあいだも「夢」を見ている
B1.人間は起きているあいだも「夢」の機能を(休眠させている/継続させている)。
B2.人間にとって「夢」は「( )」であり、( )ではない。
B3.実は人間は「夢」の機能を(休眠して/媒介にして)「( )」を得ている。たとえそれが( )で
あっても。
B4.「夢」はつまり「( )」の機能だから、「体験」は「( )」の機能によって得られ
ている。このことがとてもわかりづらい!
B5.なぜこのことがわかりづらいかというと、われわれは生活者として( )を重視してしまうか
らだ。
B6.寝ているあいだの「夢」が「体験」されるのは、人間は寝ているあいだは「( )」ということができない
から。
(C)刺激と依存症
C1.人間は(刺激/信じるもの)がないと動けない。
C2.よって疑情体質は、信じうるもの、つまり「( )のないもの」を探す。
C3.「( )のないもの」、つまり「( )」に依存する。「( )」は「作用」を持ち、
「( )」が「作用」を持つことは疑いようがない。
C4.この「( )」を受けて「発奮」という作用を得る、このことを「(体験/ノンフィクション)」と呼ぶ。
C5.「作用」があるものを、疑情体質は「( )」と言って評価する。
C6.「作用」があれば何でもいいので、「( )」で「信じるもの」を「捏造」してもよい。刺激に「作用」さ
えあれば依存できるのだから( )でもよい。
C7.発奮作用が性的な機構に及ぶことを特に「( )」と呼ぶ。疑情体質者は( )で交合せず( )で交
合する。
C8.「刺激」には( )がつくので、「作用」を得るためには「刺激」が( )されるか「(体験性/バリ
エーション)」を増やす必要がある。
C9.( )で発奮したり、( )で元気になったり、( )で興奮しているとき、胴体( )は(活性
化している/寝ぼけている)ので、大きな負担が掛かり損傷していく。
C10.胴体( )が寝ぼけたまま、それでも発奮したり元気になったり興奮したりしている気になるので、こ
の状態はいかにも「( )」しているという感じがする。
C11.疑情のオリの中で人はこの「( )」に抵抗(しやすい/できない)。「( )」にされてし
まう。
C12.刺激は(忘れやすい/覚えやすい)。特に覚えやすくなったものを( )ともいう。
( )されたものは目立つので( )やすい。
C13.疑情体質者は「強い刺激」が「大きな体験」だと( )に思い込んでおり、いつだって( )さ
れたそれに舞い戻っている。
C14.性癖は必ず「(キモチイイ/キモチワルイ)」ものから得られる。キモチワルイものは「( )」とい
う強い刺激をもたらす。この刺激がセックスの刺激と混淆し、(キモチイイ/キモチワルイ)ものにしか性的発奮を起
こさないという誤った学習が根付く。これを性癖と呼ぶ。
C15.性癖を(初めて知った/植えつけられた)とき、その事件は「(感動/恥辱)」なので、人はそのことを
(よろこばしく/認めがたく)思い、胸の内に抱え込みがちだ。
C16.(ふらちな/根がマジメな)人ほど「( )」に免疫がなく、性癖交合に( )を覚えて転落
しがちだ。
(D)奇妙な行動
D1.人間は「( )が破壊される」とき、甚大なダメージを受ける。
D2.このダメージに耐え切れないため、人は(アクティブ/自失状態)になり「奇妙な行動」に押し出される。
D3.「奇妙な行動」は、薬物、( )、( )のいずれかの摂取に向かう。
D4.「奇妙な行動」の後、人はそこに「(理知的な/やさしい)」「( )」を得たと錯覚する。
( )に理性が敗北する。
D5.このとき以降、「いつからか(元気に/おかしく)なった」という状態になる。(本当の自分に出会う/これ
までの自分と切断される)。
D6.この「奇妙な行動」は(本当のこと/依存症)への劇的な端緒を示している。
(E)フィクションの早さ
E1.「( )」機能は第一の機能だから、その他のどの機能より「早い」。これをフィクションの早さという。
E2.フィクションの早さは(意識/胴体)の早さであり、(イメージ/脳)の早さだ。(顔/胴体)は脳の端末
だ。
E3.この「早さ」は(イメージ的/実効的)に早い。実際的・具体的に早い。(ぐんぐん加速してしまう/スピー
ドを目撃する前に完了してしまう)。
E4.( )ほうが早い。身体をどう動かすより、( )で挙動するほうが圧倒的に早い。
E5.脳は多層を(分離/同時)処理する。多層を「( )」にして処理できる。
***
或る友人が「バカ女どもをつけあがらせること」と指摘したことがあった。それは揶揄ではなく、勇敢な指摘だっ
た。僕にはその指摘は痛快なものに思えたし、また理にかなっているとも直観した。それでこの警句を含んだ指摘のこ
とをよく覚えている。その発話者当人が女性だったし、この指摘は「バカ女」を「バカ男」に取り換えてもむろん通用
するだろうけれど、ここではあくまで発話者の慧眼に敬意を表して原文をそのままにしておきたい。「バカ女どもをつ
けあがらせること」。
「バカ女どもをつけあがらせること」という指摘が何を意味しているかというと、やや説明が遠巻きになるが、疑情
体質の人間はどうしたって自己愛者になるしかないということがある。何しろ、胴体が自分限りに閉ざされている。胴
体(こころ)は外側の何かに開かれてゆかず、何に向けてもつながってゆかない。そんなところに、他者に向かう愛が
生じようはずもない。
そういった自己愛の問題は、旧来の時代にも当然あったはずだけれども、現代においてはそこに発奮の依存症やら、
催眠、性癖、アヘアヘ、といったやっかいな「劇的さ」が付加されている。これを指して発話者の彼女は「バカ女ど
も」と指摘した。
どういうことかというと、つまりこういうことだ。実際のところ、とっくに予測されていることなので今さら意に介
することではないが、もし僕が情理を尽くして胴体(こころ)のことを語り尽くそうとしても、聞いている側は、
「"ショックを受けて"アヘアヘするだけに決まっているでしょ? バカ女なんだから」
ということを彼女は言いたかった。
それは確かにそうで、そもそも疑情体質によってまともなコミュニケーションの道筋は閉ざされている。疑情体質者
は閉ざされたオリの中で刺激物を摂取し、催眠状態になったり、性癖を発奮させたりして「アヘアヘ」になることをい
つのまにか第一にしている。だから僕が何を話そうとも、いずれかの方向へ「アヘアヘする」のみ。そのことに向けて
彼女の指摘は正しい。「バカ女どもをつけあがらせるだけ」。実際、ここ数年に亘り、僕が誰かに「なんて人なの」と
敬慕の眼差しを向けられるということはほとんどなくなった。
かつて、「あなたは、なんて人なの」「お前は、なんてやつなんだ」と、敬慕の眼差しを向けられることが幾度とな
くあった。幾度となくあったけれども、それはどれも貴重な瞬間で、そこには無垢に磨かれた宝石のような瞳と、すべ
てをつらぬいていく体験のさわやかさがあった。僕は今でもそのことを懐かしく思い出す。
かつて僕が、
「信じていないものから体験が得られるわけがないだろ」
と言い述べたとしたら、そのとたんハッとなって、彼女が向きなおり、それだけで通じ合うものが生成していて、
「あなたは、なんて人なの」
と直撃的に人と人とが出会うことがあった。
そこにあった眼差しのことを僕は決して忘れないだろう。
病理学的に進行の激しく速い症状のことを「劇症」と言うが、現代における自己愛者はこぞって「劇症自己愛者」に
なってしまう。誰にもいつの時代にも、自己愛のくびきを超えられないということはあったはずだが、現代においては
その自己愛が劇症化する。その劇症のいかがわしさを嘆き、彼女はそれを「バカ女がつけあがる」と指摘したのだっ
た。何しろ僕が情理を尽くして語っても対象の「バカ女」は「アヘアヘ」するだけで、じゃあもう語りかけるのはやめ
ておこう、と申し出てもやはり「アヘアヘ」するだけなのだ。
依存症というのはもともとそういうものだろう。
誰かの参考になることを祈って、実際的なことを話しておこう。実際、誰かが僕に「たすけて」とコールしてくるこ
とがしょっちゅうある。それで、僕は冷血漢になりたくないものだから、なるべく助けになろうとし、知恵を貸すか、
年長者としてのアドバイスのようなものを、なんとか足しになるように言えないものかと工夫を凝らしたりするのだ。
実際、真冬の夜中に家を飛び出して駆けつけて、何時間にもわたってその苦しんでいる当人の苦しみについて聴き取っ
たりすることがある。そんなことをしても何の意味もないと思うが、かといって僕には、冷血漢になりきりたくないと
いう思いもあり、「意味がないからこそ駆けつけてやるというぐらいの度量はどこかに持っていたい」と、それを最低
限のこととして思っている。まして若い人間には、あるていど庇護される権利と、未来に向けて拡大していくチャンス
に触れる権利がある。僕にとって、そういった原理原則は無視できないものだ。
僕はそういった原理原則には冷厳でありたく思う。そして、そのことに冷厳であるためには、僕が僕自身に向ける
「冷血漢になるな」という声も、冷厳さを帯びざるをえないのだった。
とはいえ、実際のことはというと、相当程度に惨憺たるところがあると言わざるをえない。時代は進行している。
年々、あるいは月々、悪化していく疫学的な依存症の現象の、その速度にまったく対抗する手段がない。もはや何をど
う笑わせても、励ましても、教えても、厳しく叱っても、オゴって何かを食べさせても、まさに「バカ女どもをつけあ
がらせること」にしかならない向きになっていく。
多くの人が、「わたし、サービスを受けると快を覚えるんです」という獣のような感情しか持たなくなってきた。
サービスを受けることと自分の「待遇改善」のためだけにしか努力ということを発想できなくなってきた。今、自分の
待遇さえ良ければ世の中のすべてのことはどうでもいいという人がとても多いのだろう。サービスを受けたらニンマリ
し、その他のことは本当に「わからない」という状態になっていく。これから自分の地位と待遇を改善する特効薬的な
方法があると思い込んでいて、ちょこっと努力してその方法だけ身につけたら自分の人生は「完了」だから、早くそれ
を済ませたいんです、といつのまにか平然と思い込んでいるふしさえある。自分の地位と待遇を奇跡的に改善できると
いう、その空想にひとしきり発奮して、それが思い通りにならないと(なるわけないのだが)、離脱症状から強烈にふ
てくされるというような人が目立って増えてきている。
当人にもどうしようもないのだろう。ありとあらゆる関わりや言葉やアクションが、吸い込まれていって「アヘア
ヘ」に消費されていく。何の催眠もかけていないのに勝手に催眠状態になっていく。何の刺激も与えていないのに勝手
にゾクゾクし始める。理を尽くしているのに勝手に破裂して「台無し」にして発奮していく。本人は本当に、自分の待
遇の快・不快しか「わからない」し、待遇改善に向けて発奮した催眠状態になることと、あとは性癖を興奮させること
しか「やる気がしない」のだ。どれだけ元々の人柄が善良であっても、胴体が疑情に閉ざされるというのはそういうこ
となのだ。
僕が現場で何を発揮したとしても、あるいはそれによって目の前の誰かが大きく助けられたとしても、またさらには
その発揮が数年に亘ったとしても、
「あなたは、なんて人なの」
と言ってもらえることはもうなくなった。
むしろ、「感謝は、してますよ。すごくしてるんですよ」と恫喝されることのほうが多くなった。
依存症とはそういうものなのだろう。薬物依存症によく知られているように、薬物依存症になった人間は第一に知性
を失うからもうコミュニケートできなくなる。人の話を聞き取るなんて能力はもう残っていないのだ。知性を失った依
存症者は、そこから自動的に「探索行為」だけを続けるようになる。自分をアヘアヘにしてくれる刺激物や快適なサー
ビスを探し続けるのだ。それ以外の機能は解体されてしまっているのでもうどうしようもない。残されている機能とい
うと、とにかく刺激とサービスを探索してアヘアヘしてニンマリするという、つまり、「つけあがる」という能力しか
残っていないということになる。そのことを指して、彼女は「バカ女どもをつけあがらせること」と表現した。薬物依
存症においてよく知られているとおり、探索行為を邪魔する存在は依存症者から「憎むべき敵」とみなされてどうしよ
うもない攻撃を受ける。
僕はこの数年間、まったく無数にと言いたくなるほど、「わたしのキモチが大変なんです」という切羽詰まった話を
聞いてきた。本当に人それぞれ、内側では追い詰められてのっぴきならないところがあるのだと思う。いくつも、聞い
ていて胸を痛めてきた。
が、その中で、僕のキモチが「大変なのでは?」と読み取られ、配慮されるということはまずなかった。
このことは事実として報告しておかねばならない。僕の側の「キモチ」が前提されたり、配慮されたりすることはま
ずない。劇症自己愛者は、<<自分にだけキモチがあり、他者にはキモチは無い>>という前提で挙動しているからだ。
たとえば今僕がこうした報告をしていることだって、僕がどのような心苦しさを乗り越えて今こうして報告している
か、といったことは推察もされない。推察以前に、僕に「こころ」や「キモチ」があるという前提がない。
たとえば劇症自己愛者にとって、自分の三日間にはとてつもないキモチがあるが、僕の一か月間には何のキモチもな
いのだ。劇症自己愛者にとって、それが自覚のない前提になっている。
特に、僕は「アヘアヘ」することを拒絶しているから、僕は何の「キモチ」も「こころ」も持たない生きものと思わ
れている。
劇症自己愛者にとっては、自分にだけ壮絶な戦いがあり、僕には何の戦いもない、という前提がある。
それどころか、僕の側には人格も尊厳もないと思われているかもしれない。
ただただ、僕がサービスを提供すると、ニンマリします、それ以外のことはわかりません、という人が本当に急に増
えてしまった。
これはどうしようもない事実なので、あるがままを報告しておく。
疑情体質が生成する劇症自己愛者とはそういうものだ。
疑う胴体が失ったすべてのものについて僕は話す。
僕のこころが、「体験」されないのなら、僕の「こころ」など先方にとっては存在しないも同然なのだから、これは
機構上「正しい」所見なのだ。
こんなことが年々あるいは月々に加速度的に進行している。誰もがその進行に内心で恐怖を覚えているのだが、恐怖
したからといってそれはあまり制動にははたらいてくれず、まして逆行のエネルギーにはなりえない。
この疫学的な進行を食い止める方法はまったく見当たらない。個別に救われるケースもあるのかもしれないが(実例
もあるが)、それはごく例外的なことになるのだろう。
いっそ、僕のほうが間違っているなら気が楽なのに、とよく思う。よく思うが、それはけっきょく現実逃避にしか思
えない。僕自身が「つけあがっている」側だったとしたら、それはどれだけ安らげることだろうと思い、そのように思
いなおそうとしたことも幾度となくあった。けれどもそれも、少し考えればやはり現実逃避にすぎなかった。だから僕
は今これを、「こころがわかる人間」を自称するという方法に依拠して書き進めている。
未だ、ほとんどの人にとっては踏みとどまれる余地が十分あるだろう。対抗できる余地があるのかどうかは不明だ
が、未だ踏みとどまれる余地は十分にあるはず。刺激で発奮、催眠、性癖、アヘアヘ、そして「体験」から遮断され
る......なんてことのすべてが、「ばかくさくて耐えがたい」と判断できる知性はまだまだ誰にも残されているはずだ。
そうした知性の残されている人に向けて、また、各人に僕の知らない力が秘められているという、当然にありえておか
しくない前提に希望をこめて、繰り返し次のことを言っておきたい。
「あなたは、なんて人なの」と言ってもらえた懐かしい時間のことを、僕はまだはっきり覚えている。そこにあった
眼差しのことを僕は決して忘れないだろう。
疑情体質者は自己愛者にならざるを得ない。胴体(こころ)が閉ざされているのだから。他者のこころが「体験」で
きないのだから。そして現代においてはそこに刺激発奮物が注ぎ込まれる以上、疑情体質者の自己愛は劇症という特徴
を帯びてゆかざるをえない。そこに「バカ女どもがつけあがっていく」という現象が生成されるのは、考えてみれば自
明のことだ。
今このときにだってそう。僕は単に冷血漢になりたくないというだけの理由で、この長ったらしい文章を書いてい
る。なんとか読み手の胴体(こころ)に届きうるよう――知識が「体験」されるよう――文体と文脈を具えさせて書き
きらねばならないと、このことを続けている。たとえそのことで日夜、僕がエネルギーを使い果たしてヘロヘロのフラ
フラになったとしても、そんなダサい内情のことを僕は決して話さないだろう。
僕が今目の前に示している、この「ひとつ」の文章のかたまりは、あなたから見てどうしようもなく「アヘアヘ」し
たものだろうか?
劇症自己愛者にとって、すべてのことは、
「わたしは、なんてことなの」
と自分のことのみへ結びついていく。
目の前に何があろうとも、誰があろうとも、
「この人は、なんて人なの」
ということへは結びついていかない。
閉ざされた胴体(こころ)にとっては、この世には「自分」しかいないからだ。
(困ったことに、この現代では、その選択が相当程度「正しい」のでもある。冒頭にお話ししたとおり)
閉ざされた胴体(こころ)にとっては、実質、他者および他者の胴体(こころ)などこの世に存在していない。
疑情体質者は、<<話すときの主語がびっくりするぐらい一人称だ>>。目の前の人に向けて二人称が使われることが
ない。
疑情体質者の関心のベクトルは常に自分自身にしか向いておらず、自分の生きる世界には「わたし」のプライベート
しかないという状態だ。
疑情体質者にとっての「他者」や「誰か」というのは、ノンフィクション上に存在する一個の刺激物でしかない。
疑情体質者は、自分の受ける待遇とサービス度合について、快・不快を覚えます、それがすべてです、という獣のよ
うな感情しか持っておらず、その他のことは本当に「わからない」という毀れた状態になっている。
何もかもについて、「わたしは、なんてことなの」という結びつけしかせず、その他のすべてのことは、ただ自己を
発奮させる材料か、ニンマリさせてくれるサービスでしかしない。それはまさに、「バカ女どもが――バカ男どもが
――つけあがる」という状態だ。僕はこの理にかなって正当な指摘を引き受けていくことが勇敢なことなのだと信じ
る。
(F)バカ女どもがつけあがること
F1.ショックを受け、強い気持ちが起こる。わたしはわたしの強い気持ちに泣き、わたしはわたしの強い気持ちに
奮起する。そうしてわたしは、アヘアヘする。「わたしは、なんてことなの」と震える。これは劇症の(情熱/自己
愛)であって、(清潔な女が感動的に生きている/バカ女どもがつけあがっている)と言える。閉ざされた胴体の向こ
うには、「あなた」という(一人称/二人称)は存在していない。
F2.劇症自己愛者は(人のこころに触れると/人にサービスを受けると)ニンマリする。ただそれだけであって、
それ以外のことは本当に(思いやる/わからない)という状態になっている。劇症自己愛者は自分の(情熱/待遇改
善)のためにしか努力を発想できない。
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