No.372 「女は男を尊ぶべき」という説
ちょっと困っていることがある。
ここ最近、急に「女は男を尊(たっと)ぶべき」という説が出てきていて、この説はものすごく説得力があるのだが、これをどうしたらいいのかがわからない。
唯一、僕が言い得るのは、現代において「女が男を尊ぶ」ということは、「百パーセントない」ということだ。
なぜかわからないが、そのことを断言しない限り、僕は一言も話せる気がしない。
「女は男を尊ぶべき」という、説得力のある新しい説に、与して話したいと思ったのだが、どうしても、「それは百パーセントない」という方向にしか、僕の身体は一ミリたりとも動かなかった。
なぜなのかは本当にわからない。
「女は男を尊ぶべき」というのは、「それが本来のことだし、もしその本来のことに背いて、逆に女が男を小馬鹿にして自分たちだけがおしゃれを気取っているようだと、そんな罪悪、因果が巡って、けっきょく阿鼻叫喚の悲惨コースに行き着いてしまう」という説だ。
それは、たぶんそうなのだろうな、という気がする。
が、それがいかに学門的にそのようで正しいと推定できても、僕は男だからか、
「現代において、女が男を尊ぶということは百パーセントない」
と断言するしかない感じなのだ。
なぜなのかは本当にまったくわからない。
くれぐれも、説は正しい。説に反論したり疑義を抱いたりするつもりはまったくない。
なぜかこの説を聞くと、僕は古代エジプトのことを思い出す。イシス神とオシリス神があり、人々がアヌビス神と当たり前のように対話していた時代だ。
もし僕が、その時代にワープして、同じことを考えるなら、ただちに僕は「女は男を尊ぶものだ」という説を堂々と唱えるだろう。
そしてその説は、「言われるまでもなく」という形で染み通っていくに違いない。静かで快活な人々の笑顔のうちに。
古代エジプトがどんな世界だったのかを、僕は研究者でもないのでまったく知らないが、なんとなく無条件に、男は女を愛していたし、女は男を尊んでいただろうと想う。
男尊女卑、というのではなく、男尊女愛、という状態だったのではないだろうか。
男は尊ばれ、女は愛される、という世界だ。
しかしここに来て、
「そういう世界って、すっごくいいですよね。すごくわかります、きっとそういう世界だったんですよ」
と賛同されようものなら、なぜか僕は、大急ぎで走って逃げたくなるのだ。
なぜ走って逃げたくなるかというと、それが何というか、率直にいうと「取り返しのつかない」という意味での、「現代」だと感じるからだ。
あまりごまかしていてもしょうがないので、はっきり認めてしまうが、ここで「そういう世界って、すっごくいいですよね」と賛同してくれる女のことを、僕は何かの感覚で、「バケモノ」だとはっきり感じている。
もうどうしようもないのだ、そういうタイプは。
なぜどうしようもないかというと、そういうタイプは、何も間違っていないからだ。何も間違っていないので、修正する箇所が存在しない。
むしろ、比較するなら、男とか女とかいうものこそ「間違って」おり、バケモノのほうが「正しい」と言える。
だから僕は、何かが間違っていると非難しているわけではなくて、逆、自分が間違っている者として、正しいものから走って逃げているのだ。
僕はどうしても、正しいものからは逃げざるをえない。
悪意はないし、正しい人は正しいのだから、僕から申し出る差出口は何もなくて、ただもう「許してください〜」と、本当に走って逃げるしかないのだ。
男は間違っており、女も間違っている。バケモノだけが正しい。
僕は男だし、僕は女を愛しているが、バケモノはだめだ。間違っている僕に、そういう正しいものを近づけないでくれ。
正しいものというのは、何もかも正しいので、とにかくもう、おっかなくてしょうがないのだ。
これに関してはもう、僕の前世がバスケットボールだったから、もともと頭の中がバインバインでおかしいのだということで、投げやりに放置してくれて構わない。
古代エジプトの世界に行けば、僕は「女は男を尊ぶものだ」と唱えて、夕暮れからその星空が美しく光り始めることに、よろこんで眼を細めるだろう。ちぎれていくわずかな雲。どんな風が吹いていただろうか、ナイル川のほとりでは。
女が男を尊び、男が女を愛さないでは、どんな夕暮れの紫色も、どんな西風も肌の強さも、意味がないというよりはそもそも「存在しなかった」だろう。
人は、この世に生まれたからには、何かやるべきことがあるのだ。
そして、男に生まれたからには、女を愛さねばならず、女に生まれたからには、男を尊ばねばならない。
それは、お互いに大変なことではあるが、それ以上に、この世界そのものという恵みがあるので、われわれにとってそれは大いなるよろこびに他ならない。
そういったことは、古代エジプトの世界ならば、そのままで通用すると思う。夕暮れがきて夜空に星が映し出されるたびに、風と共に、それが大いなるよろこびであると確認されただろうから。
そして、現代においても、本当はそういった原理は変わらずにあるのだと思う。思うというか……まともに眼が開いていれば、そんなものは変わらずずっと目の前にあるはずだ。
古代エジプトといっても、プトレマイオス以前から、二千年ちょっとしか経っていない。
現代においては、女性は男性を小馬鹿にすることがストレスの解消法で、そのぶん女性は「男はもうクズだけど、自分だけは女〜」ということを誇示するために「おしゃれ」をするのだが、そういったことは正直なところ、
「イシス神やオシリス神のいる前で、よくそんな無茶ができるな」
と僕からは見えている。
たかが二千年経ったぐらいで、カミサマ等の本質は変わらない。
誰だって、二千百年前のエジプトに行き、シリウス星が南中した夜のアヌビス神殿で、「身近な男たちをディスってケタケタ笑うおしゃれ女子会」を開催するということには、何かとんでもない罰が下りそうでビビると思うが、僕が思うに、そういったことは本当は現代でも古代エジプトでも変わらないものだ。
現代、というものがまるで分離的に存在するかのように、風潮的に捏造されているだけだ。
空気を読んでいるのではなくて、そういうガスを吹き込まれているにすぎない。
人は、この世に生まれたからには、「やるべきこと」がある。男として生まれれば女を愛し、女として生まれれば男を尊ぶ。それが「やるべきこと」。
理念や思想や努力目標ではなく、「やるべきこと」。
この、「やるべきこと」を放擲し、あまつさえそれを謗(そし)るということをすると、どうなるのか。
どうなるのかなんて誰にもわからないが、きっと、「とてもハッピーになり歓喜に包まれる」ということはウソで、何かその逆のとんでもないことに連れていかれて、戻ってこられなくなる、のではないだろうか。
そんなことは、誰にもわかりっこないし、僕にもわからない。
ただ僕は、僕なりになんとか、女を愛してはきたし、その愛し方が足りなかったともし言われたとしても、それは「そうだったか」と甘受して、納得するしかない、という具合にある。
この二十年間、振り返れば、僕はそこそこなりふりかまわぬぐらいに、なんとか女の子に笑ってもらおうとし、そして何か僕なりにわずかな足しにでもなれるようでありたいと、自分なりに奮闘してきた。
僕には休憩という概念があまりないので、けっきょくのところ、一日も休まずきたのではないだろうか。病気で寝込んだりした日を除いては。
この二十年間、思えば、僕は僕自身が認められるとか、僕が愛されるとか、そういったことにはまるで無関心できた。
そのことに、何か狙いがあったわけではなくて、ただ「男が、自分が愛されるとかどうとか」と、そういったことは鼻で笑ってバカにしてきただけだ。けれども結果的に、なんとなく、男としてまともに女を愛するということを、僕なりの最大限でやってこられたと思う。僕自身の器量の矮小さを言われてしまうとぐうの音も出ないところだが、まあそれはやむなし。僕としてはこれ以上はない。どれだけ小さくとも、僕としてはこれ以上の栄光はありえない。
僕としての関心事は、この二十年間ただ一つ、自分が女を愛しているかどうかだけであって、自分が男として尊ばれているかどうかには、関心を向けたことがなかった。それはもともと、男の側が関心を向けるところではない。
ただ、今になってあえて問われると、「男として女に尊ばれてきたか」という問いかけに対しては、
「いいえ、そのようではありませんでした」
と答えるしかない。
「不満か」
と問われたら、
「いいえ」
「それはなぜか。お前は女に侮辱される中を過ごしてきた」
「かまいません。なぜなら、男を尊ぶことによって、満たされるのは女だからです」
「では男にとっては」
「男は、女を敬い愛することで満たされます。それは十分なことです」
「お前は満たされてきたか。お前はお前を侮辱する女を敬い愛してきたか」
「はい。わたしはそれを敬い愛することで、満たされてきました」
僕の過ごしてきた二十年間についての問答は、だいたいそれぐらいで済まされるだろう。
この数行ほど、僕の二十年間を適切に言い表しているものはないと思う。
それによって、大いなる何かが僕に、「お前は果たすべきを果たした」と言ってくれるのかどうかはまったくわからないが……
そもそもなぜ、このことが急に、僕に古代エジプトのことを想わせるのかはまったくわからない。誰か古代エジプトの神話に詳しい人はいるだろうか。僕はそういったことにはまったく疎くて知識がないのだ。
あらためて現代のことを思うと、やはり、「女が男を尊ぶ」ということは、百パーセントない、と思う。
***
現代において、女が男を尊ぶということは、百パーセントない。
なぜ、そのことを断言してからでないと、何一つ話せないのか。
その理由は不明だが、もし強引にでも、僕の感じている何かの感覚を言うとすると、
「古代エジプトのとき、本当に男たちを尊び生きてくれた、あの女たちに申し訳が立たないから」
という具合だ。
女たちが、男たちを尊んでくれるおかげで、男たちは光輝に満ち、誇りの中を生きることができた。男たちは誇りの中に朝、目覚めることができ、誇りの中に昼、歩くことができ、誇りの中に夜、学ぶことができた。
それがなしでは、この世界は虚無たりえただろう、と、このことはジェームスブラウンも歌っている。
だから、わけのわからない理屈だが、現代の女性をもって、現代の男性を尊んでいるとは、何がどうねじ曲がっても言い得ないのだ。
僕は、僕自身がどれだけバカにされてもかまわないが、神話世界とつながってあるものを、圧力によって曲げるわけにはいかない。
現実的に考えると、現代の男性は女性にとって、近づくとたちまちストレスで、接触するとたちまち体調が悪くなり、冗談ではなく病気になってしまう。
「何をどうしたって、キモいんです、どうしようもないんです」
というのが女性たちの実感だろうし、これを「なんとかしろ」とは口が裂けても言えない。口が裂けても言えないというか、こんなものを「なんとかする」という発想自体が根本的に間違っている。
女たちは、正当な権利として「おしゃれ」をし、どうにもこうにも「キモい」「オカマみたい」「マザコン」「甘えている」「しんどい!」としか感じられない男性を、まあ素直な気持ちでディスり、ストレス発散をして、また前向きに生きていこうとするという、これまでどおりのことを、これからも続けていくしかない。
この点について、「女は男を尊ぶべき」という説は、まったく別の見方を唱えている。
「男たちは、確かに目も当てられないほどキモいのだが、そこまでキモくなったのは、女たちのせいなのだ。女たちが男たちを貶めたからこそ、男たちはその声と姿から光輝を失い、ひたすらキモいものになった」
「男たちは、確かに今や汚物以外の何物でもないが、それは女たちが男たちに名誉を与えず、汚物を投げつけたからなのだ」
これについて、女たちはどう責任を取るのか、という厳しい問いかけが、今新しく見いだされてきている説の本旨だ。
ただ、僕が思うに、アフリカに疫病が蔓延するのはたしかに西洋諸国が当地を植民地化しプランテーション搾取によって荒廃させたからかもしれないが、だからといってそこに生身の西洋人が懺悔のために訪問しても、やはり疫病に喰われて無駄死にするだけだ。そんなことは、当地の禍々しさに新たな一滴を加えることにしかならないだろう。いったん疫病が蔓延してしまった以上、それは「もともと誰がやった?」にせよ、関わるには防護服を着た専門家がバックアップを具えて現地入りするしかない。シロウトにはどうしようもないことだし、またそういった専門家集団とバックアップ体制が整うには長い年月が掛かるものだ。
だから、「女は男を尊ぶべき」だとして、また「そもそも女たちが男たちを再起不能にした」のかもしれず、「それなのに女だけおしゃれを気取っていると悲惨な因果に行き着かされるに決まっている」ということはいかにもありえるにしても、短兵急に何かができる状況ではない。短絡的な発想と行動は自己演出にしかならず、余分なトラブルを生み出すだけになるだろう。
僕は女の敵ではないし、かといって、女の味方でもない。
僕はただ、女を愛しているだけで、女を愛し続けるためには、この「現代」というウソっぱちを捏造するガスを吸わずにいるしかなかったのだ。
現代において、女が男を尊ぶということは百パーセントありえないのだが、それは「現代」だからしょうがないのだ。通常、まともな人なら誰だって、古代エジプトより現代のほうがこころあたりがあるのだから、このことはもうどうしようもない。
現代は、明らかに人類のオリジンではないはずだが、現代基準で考えるしかなくなっているし、またそんなこといくら言ったって、ナゾの笑みを浮かべたバケモノが集まってくるだけだから、僕は走って逃げるしかないのだ。
古代エジプトってそんなに昔かね? 僕はそのあたりまで含めて人の「一生」だと感じるが……
「一生」のうちには、いろんな友人がいる。
僕はその友人たちとの、無言の約束を、反故にはできないし、その「一生」のうちに見かけた女たちのうち、誰のことも無視はできない。
具体的に困っていることも話しておこう。
一部の女たちは、「女は男を尊ぶべき」という説の重要さを認め、その説の前にまでたどり着いたのに、たどり着いてみると、実際には女として男を尊ぶということのやり方がまったくわからず、自分の身からそのような振る舞いが真実のものとして出てくる気配がない、という事実に向き合わされた。そのことの困難さは、ここで僕がしれっと古代エジプトの話を盛り込んで平然としていることに当然さを覚えろということほどに、雲を掴むように困難なことだろう。より一部の、経験と知恵に勝る女たちにおいては、この困難さを取り違えれば、先ほどから言われているようにバケモノになってしまうということを見て、慎重であるべきと、立ちすくんでいるはずだ。最大の賢明さを持つ者は、ここで人が「わかりました」の一言を発するのみでも、ただちにバケモノになってしまうということに気づけるはずだ。
一部の女たちが気づき始めているように、今このときからでも、女は男を尊ぶということをやっていかねば、きっとろくでもない行き先が待っているはずだ。そのことからはさすがに救済されたい。だがそのことの糸口を掴むのでも、やはり直接の男の存在がなくてはやりようがない。それもなるべく、はっきりとわかっている希有な男を……僕はありとあらゆることを話さねばならず、また年の功においては教えてなくてはならない。けれども、この話して聞かせ、教えて学ばせるということ自体、女が男を尊ぶことなしには成り立ちようがないのだ。どこの女が、尊ぶことのできない男の話を、まともに聴き、まともに学ぶことができようか。そのようなことができてしまうのは、何もかもをわかってしまうらしいあのバケモノたちだけだ。何も得ることなく、ただわかってわかってわかって進むだけらしい、あのバケモノたちには、誰も成り果ててはならない。
もし女たちが、わずかでも僕を男として尊ぶということを持ってくれれば、僕から教えうることはいくらでも、山のようにありうるのに! 僕はこれまで女を愛してきたぶんのことだけ、話して教えうることを持っているのだ。僕を男として尊ぶことをしてくれた女には、たちまち急激で多大な奔騰のように何かが注ぎ込まれるだろう。
今われわれは分水嶺に立たされている。この先を、本当にどうしようもないものに成り果てていくのか、そうではなく、真に思いがけなかったことに気づき、何千年かにまたがる一斉の大会合を開いて、ちりぢりの意見ではなく、もともと見えていた本来のところへ、回帰を目指すかだ。
僕が男であって、あなたが女であったとしたら、われわれはもともと<<間違った者たち>>だ。われわれが自らを間違った者たちだと気づきなおせたとき、われわれは手を取り合い、ようやく迷いの園を脱出することができる。われわれはそれぞれ男であり、また女だったということを取り戻すのだ。正しい人たちは今やバケモノとなって一般的な群衆を形成するに至っている。何もかもを神韻のない平地にならしめんとするバケモノの――彼らはおそらく、何かの手先だ――圧力に惑わされず、われわれはまずお互いに間違った者たちであることを確かめ合わねばならない。正しいということの何が人を酔わすのだろうか。だがバケモノと成り果てた後では、その悪食にもはや気づくことはできない。いわばあのバケモノこそが、男女としてやるべきことをやれなかった人間の行き着く姿なのだ。
***
・人には「やるべきこと」があるということ
・男であり女であるということは、「間違った者」だということ
・解決の唯一の道筋として、何千年かにまたがる一斉の大会合を開くしかないということ
空に衝迫する青を見、風に刷新する冬を見、椰子の木に雄大な湾曲を見、飛ぶ鳥に広闊な東西を見たいか。
さまざまなことが、人間の身において解放され、また閉塞される。それは徳性ともいい、また証(あかし)ともいう。人は「やるべきこと」を果たし、それを償却していくうち、まるでそのことの進みゆきを証するものとして、徳性の解放を得ていくのだ。またその逆に、「やるべきこと」を謗るほうへ進んでいくと、まるで懲罰的とでも言いたくなるような証があらわれ、徳性の閉鎖や、悪性の露出が生じてくる。
あまりふざけてはいられず、このことは警告されておく必要がある。それはまるで、サファリパークで「冗談でもドアを開けないでください」と書かれてあるような、把握だけしていれば何の問題にもならないような警告だ。それは迫力のない警告文だが、この警告をないがしろにしたときに起こる被害までが軽微というわけではない。
・人間不信や男性不信が、軟化して、そこから慕情まで起こりそうなときには、控えること
・慕情から、なぜか逆転して攻撃性がその慕情の対象に向けて生じるときには、控えること
・攻撃衝動を諫めるのに、「お互い対等だし」と思いついて、それを浮かれて相手に要求しそうなときには、控えること
・対等ということから、いつの間にかまったく合意されていない勝手な相思相愛の思い込み(妄想)に進みそうなときには、控えること
この警告文を軽視し、これを踏み破ったときには、なぜという仕組みはわからないが、生活や健康がクラッシュする。それは実際に、生きていくのに困るというレベルのクラッシュであったり、未来が失われるというレベルのクラッシュであったりする。
個別の例を取り上げるわけにはいかないが、僕はこのパターンに飽きたというか、ひたすら「こりごりだ」という思いがしている。僕自身は微弱にも被害者とは言い張れないにせよ、わけのわからない形で人が転倒し、クラッシュして難儀を抱え込むというようなことは、僕は今後もう二度と見たくない。もし僕が、前もってこの現象を知っていたなら、もう人に何かを教えるふうに振る舞うのはすべてやめようかと決定したかもしれないほど、これは余計な現象だ。このようなことが起こることは、人が生きる上で無意味ということではないにせよ、人が向き合うべきインパクトとして過剰だ。これはフィルタリングで弾かれるほうが理に適う。
ここにA男とB子がいたとする。B子は男性不信だったが、快活なA男のやさしさと熱意にほだされて、男性不信を軟化させた。
この先にB子が、A男への慕情を覚えることは、安易には好ましいストーリーのように思えるが、ここまでB子は男性不信により、内心で男性を尊ぶどころか貶してきたはずであるから、そのことのツケが済んでおらず、そのまま都合のよいラブストーリーに入り込むことには当然の報いが生じる。
ツケが残ったままのB子は、A男の光輝に惹かれつつも、自分にはその光輝がないことを痛感し、逆転して憎む。それでB子は、慕情を抱いたままA男を攻撃したい衝動に駆られる。
B子は、抑えきれないものとして、A男にイヤミを言ってしまったり、A男がやっている仕事を台無しにしてみせたりするが、B子はそれを自分でもやめたくはあり、急に「対等!」ということを思いつく。B子はこのときすでに、A男に対して「顔向けできない」だけのことを重ねているのだが、そのことも置き去りにして、都合良く「対等!」ということを思いついて、そのことをA男に要求するのだ。B子はこのとき、これですべてが解決するという気がして、異様に陽気になったりもする。
B子はA男に「対等!」を承諾させたはずだし、B子としてはA男に強い慕情を抱いているのだから、A男もB子に強い慕情を抱いている「はず」だ(対等)。これは完全な妄想だが、この妄想はイメージではなく精神医学上に認められる「妄想」としてB子を支配する。
やがてA男はB子に、「それは妄想だよ」と告げられる。B子はそれで泣く泣く引き下がるのだが、このときB子には、A男に多大な迷惑をかけたという考えがない。妄想によって消費された精神はA男への配慮など持つ余裕がない。A男はB子に慈しみを向けたはずが、結果的にはB子によって憔悴させられる。B子はそのときどうしても、世界で自分が一番大変という思いがしている。
何かが積み重なって、B子の生活や健康、環境等が破壊される。このことは、A男の徳性が高ければ高いほど、転じて大きなクラッシュを生じる。
つまり、ここに出てくるA男というのは、B子の男性不信や人間不信をたちまち軟化させてしまうほどの大きな力量を持っている人なので、「そういう大きな人をおもちゃにしてはダメ!」なのだ。B子としてはA男をおもちゃにしたつもりではまったくないにせよ、外形的に見ると確かにA男をおもちゃにしているのだ。まして、あえてこういう言い方をしなくてはならないが、B子は女で、A男は男だ。女が男をおもちゃにするなんて。まして、たいていこういうとき、A男はB子より年長者だ。年下の女が年上の大きな男をおもちゃにするなんてことをしたら……人道的には好きにしたらいいが、経験的にはけっこうシャレにならん「報い」があるということを、事実上の報告として、警告に変えねばならない。
今新しく、「女は男を尊ぶべき」と言われている。それが言われているということは、ひるがえって、現代女性はまったく自覚なしに、初めから男を小馬鹿にして生きているということだ。「そんなことはないです」とバケモノは言うだろうが、それは古代エジプトでありえた男尊女愛に比べたらウソだとただちにわかる。
このようなB子の場合、すでに現代において、男性を小馬鹿にするという基本スタイルのまま、A男と出くわしているわけだから、それだけで相当まずいシチュエーションだ。もし極論を言うなら、両親等から「女なら男を尊びなさい」というふうに教えられていない場合は、もう徳性の現れている男と出会わないほうがマシだ、とさえ言いうる部分がある。少なくとも、徳性の高い男と出会わないほうが「無難」だとは確実に言える。それは神仏を謗るよう教育された人間が、礼拝の作法も知らずになんとなく大聖堂に踏み入ってみたというようなまずさだ。オカルト話として聞き流してくれてよいが、そういった無作法で聖堂に出入りすると、その帰り道に転倒するとかケガをするとか、頭をどこかにぶつけるということは実際によくある。冗談ではなく、男を尊ぶということを知らないのみならず、小馬鹿にすることを得意にしている女に、高い酒を買ってこさせようとすると、その帰り道で酒瓶を落として割るというようなことがとてもよくある。
あなたの周りにも、何かにつけ、不幸や不運が多く、またそれ以上にチョンボが多いという人がいないだろうか。そそっかしい印象で、何か怯えたような眼をしている。そして何かとトラブルが多い人。そういう人はたいてい、察してみれば「なるほど」というところだが、何につけ「尊ぶ」ということを知らないで生きているのだ。そして「尊ぶ」ということを知らないということは、単にその人の主義がそうだということでは許されず、その不遜の分だけ冒涜が生じ、冒涜の分だけ徳性が閉塞し、悪性が露出するという報いがある。このことは、単なる努力不足から生じているわけではないので、いくら努力しても根本的に改善はされない。
二十年前に比べて現代人は、そそっかしく、危なっかしく、イライラしがちで、また声が弱く、言語能力も低下していないだろうか。いくつかのことは、教育で改善しようと文部科学省が思案しているが、おそらくこれは「尊ぶ」ということを知らずに生きていることの報いとして生じているので、教育を締め付けても、あるいは「ゆとり」を持たせても、どちらにしても改善はされない。また、なんらの根拠もない、ただのオカルト話にしかなりえないにせよ、自転車事故が多くなることや、昔に比べてアレルギー持ちの人が増えていることや、摂食障害や睡眠障害、無気力や、若者の○○離れといったようなことは、ことごとく「尊ぶ」ということの放棄からその報いとして生じているという捉え方がありうる。
何につけ、それはカルマの現れだとか、不遜と謗りの報いだとか、そんなことを言い出せば、すべてのことはオカルトの不毛な雰囲気に包まれていってしまう。けれども一方で、「男を小馬鹿にし、謗り続けた女」という存在を仮定したとき、その女の身に何らの悪性も生じないという捉え方にも、逆に無理があるようにわれわれは感じる。仮にわれわれが、何につけすべてのものを「こんなもんクズだ」と言い続ける三日間を過ごしたとしたら、その三日後まで自分の現在の徳性が無事であるような感じもしないのだ。われわれは、こうして計算も主張もできないこととして、しかし何かを感じて、こうした徳性の解放や閉塞、また悪性の露出うんぬんといったことは、きっとあるだろうと認めて、自分なりにやりくりしていかねばならない。
現代において、「女が男を尊ぶ」ということは百パーセントない。なぜこの断言からしか今回、書き話すことができなかったかというと、おそらくその断言をもってしか、この問題に徳性のレベルとして対抗できなかったからだ。僕は女を愛している。そして僕にとって女を愛するというとき、相手が僕のことを尊んでいるかどうかなど気にすることはない。それを気にするぐらいなら、僕はすべてのことをやめてしまうだろう。僕にとって必要なことは、僕が女を愛し、それによってごくわずかでも女が輝いているかということだけで、僕が男として尊ばれているかどうかなどは関係ない。いやきっと、僕が男として尊ばれるというようなことは、最後の最後まで起こらないだろう。ごく例外の、崇拝すべき、断片的で十分な出来事を除いては……
人がそれぞれに、男に生まれついたり、女に生まれついたりしていることは、本来とても大きなことだ。それぞれが自分を男だとか女だとか認めるということは、それぞれが自分を「間違った者」だと認めるということでもある。そのことを認められるうちは、われわれはバケモノにならなくて済む。
いちいち書き出していてはキリがないけれど、男が女を愛すること、また女が男を尊ぶことは、もし為されたとしたら、それは生まれ持っての大きなことだから、たくさんの徳性を解放するし、たくさんの証を身に現してくれる。おそらく、「そんなことまで影響するの!?」と驚くレベルで、この徳性の解放は現れてくる。逆に、そのことを謗り続けることで、閉塞していく徳性や、露出してくる悪性も、思いがけず多大なレベルであるのだ。眼差し、肌、髪、口元、口腹、体臭、視力、知性、睡眠、言葉、声、判断力、運、学門、流れ、リズム、季節、詩文、花鳥風月の見え方、イグジスタンス、ありとあらゆる感覚と、ありとあらゆる身に具わった表現の力。そして神話世界というのを親しく見るようになると、確かに、古代エジプトも現代もさして変わらないということが当たり前に感じられてくる。
「女は男を尊ぶべき」……現代において、女が男を尊ぶということは、百パーセントない。これから先もそのことは変わらないだろう。だからこそ、僕が女を愛するということも、この先ずっと変わらない。女が男を尊ばないと、できることは少なくなって残念だけど、それによって僕の満足が損なわれるわけじゃない。ただできることが少なくなって、ちょっと時間がもったいないと感じるだけだ。これまでの友人たちと、また女たちとそうしてきたように、本当はイシスとオシリスのいる夜空をなるべく多く見上げていたい。
[「女は男を尊ぶべき」という説/了]