No.374 平成最後のヴィーナスたち
明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしく。
ようやく三が日も終わり、食い過ぎと飲み過ぎもそろそろにしておこうかな、と思った。
ニュース番組のダイジェストで、今年の箱根駅伝の激闘を眺めて、「青学が連覇なんだ」と知って感激したが、感激したというのはウソで、僕には箱根駅伝がどうとかいうのは、センスがないのでよくわからない。
ただ、大手町から鶴見まで行くのなんて、正直タクシーでもダルいわ、と思うところを、全力で走り抜けたりするのだから、すげえな、と思う。
すごすぎて想像がつかない。
大手町から芦ノ湖なんて、自動車で行っても「一泊じゃなきゃイヤ」という距離なのに、タスキをつないで走るなんて……
しかも五時間半で芦ノ湖まで着くというのだ。
自動車でも、高速道路を使わなかったらそれぐらいかかるんじゃない?
走り抜いた彼らは、いかにも青春という感じがしてまぶしかった。
あと、ダイジェストで、ジャニーズや「欅坂」やきゃりーぱみゅぱみゅさんのライブ映像が出ていて、それぞれに「おっ、かっこいいな」と思った。
「欅坂」は、かっこいいんじゃないのか、あまり詳しくは知らないが……
じっくり観たらまた別のことが見えてくるのかもしれない。
それらのニュース映像を観ていると、日本の現在と未来は、明るいんじゃないか、という気がしてくる。
最近、いわゆる世の中が暗いのか明るいのかよくわからないのだ。
一方では、人々はストロングゼロをやけくそで飲んで心身と未来を荒廃させている、というニュースも聞く。
北朝鮮とトランプアメリカは正月から「核、核!」みたいな話になっている。
人類史上初の「先制核攻撃」がおっ始まらないか、見ていてどうも不安だ。トランプ大統領ならそれぐらいへっちゃらでやるだろう。
日本は、北朝鮮を国とは認めていないので、北朝鮮と呼んでいる。朝鮮民主主義人民共和国という彼らの自称が認められるのは、おおよそオリンピック等においてだけだ。
北朝鮮を国とは認めていないので、北朝鮮、というエリアを呼称している。
われわれは現在、北朝鮮をまるでアホ集団のように見做しているが、百年前はあそこは日本の領土だった(日韓併合)。だから北朝鮮にいる人たちも、かつてはわれわれの同胞だったことになる(同化政策)。
まして、韓国と北朝鮮は明らかにもともと一つの国だ。いわゆる三十八度線でぶった切られて二つに分かれたのだが、それは韓国の意志でもなければ北朝鮮の意志でもなかった。単なる冷戦のいざこざだ。
当時、アメリカとソ連が揉めに揉めていたので、周辺の小国が「お前はどっちにつくねん?」と双方にスゴまれて、二つに分かれて、内戦をおっ始めることになった。いわゆる代理戦争だ。
アメリカとソ連が直接おっ始めると、ガチで翌週には世界が滅ぶので、当事者でない下っ端が小競り合いをすることでごまかすしかなかった。
その後ソ連は、ゴルバチョフの時代に「もうソ連はやめることにした」と突然発表し、よくわからない国になって、その後しれっと元のロシアに戻ってしまった。
当時、「ソビエト連邦崩壊!」と突然新聞に報道され、日本人は「ええええ」と驚いたのだが、驚きながら、なんのこっちゃよくわからんかったのだ。当時、学校の先生に「どういうことなんですか」と訊いたが、今考えたら、教師もよくわかっていなかったのだと思う。「とにかく崩壊したんです」というわけのわからんことを押し込まれた記憶がある。
こうして、東西冷戦でソ連側についた国は、いわば世界レベルの関ヶ原で負け組に属し、落ち武者となる憂き目に陥った。
現在の「北朝鮮」の、食糧難を含めた憂き目や、核武装の乱行も、元をたどれば東西冷戦の代理戦争に巻き込まれたことに由来している。
だから、おそらくわれわれは、北朝鮮をアホ集団扱いして笑い飛ばせるほど、ご立派な高みに座せているわけではない。
旧日本軍が、終戦直後も、ただ誇りと郷土愛に基づいてソ連軍の侵攻を防いだから、日本列島が守られたわけであって、あのときにソ連の侵攻を北海道以南まで許していたら、今頃われわれも「北日本」というわけのわからないエリアをこさえていた可能性は大いにある。
旧大戦にて、日本に原爆が投下された直後、「こりゃあかん」と感じてソ連はデタラメに日本に攻め込んできた。日ソ不可侵条約を無視した、完全などさくさまぎれだ。よくわからんが現地にいた日本人を大量に鹵獲して、鹵獲した捕虜をシベリアに送って労働させるという、石器時代のような発想と行為をした。
そのデタラメソ連軍が、千島列島を南下してくるところを、すでに防衛任務から離れている日本軍が単なるヒーローとして迎え撃ったので、ソ連軍は思うように南下できず、その進軍は現在の北方領土あたりで止まった。
あのとき任務外で戦ってくれた兵士たちがいなければ、ともすれば現在まで北海道そのものが日本の領土ではなかったかもしれない。
もしそうなっていたら、日本の食糧自給率はさらに低下していただろう。
現在の北朝鮮というか、朝鮮半島も、そういうふうにわけのわからないうちに「北朝鮮」になってしまったものなので、われわれは彼らを「アホか」と一刀両断できるほどの立派な立場にない。
ちなみに、ソ連の崩壊は、共産主義および社会主義のデッドエンドでもあったので、それ以来、日本の教育方針も行方不明になっている。
日本の教育方針というか、その理念も、もともと共産主義へのあこがれに強く色づけされていたので、その共産主義の親玉であるソ連がずっこけることは、日本の教育者にとって大いなる悪夢だった。
せめて、ソ連がアフガン侵攻に及んだその時点で切り替えていれば、日本の教育理念もここまで行方不明にならずに済んだのだが、その点は単純に見切りに失敗したのだろう。
「あさま山荘事件」が起こり、ソ連のアフガン侵攻が起こった時点で、「これおかしくね?」と気づいて引き上げるべきだったと思うが、まあそれは後世からの他人事としての述懐でしかなく、当時の当事者たちとしては、何か並々ならぬところがあったのだろう。
結果、われわれは児童らが「君が代」を歌わされることに不穏の気持ちを覚える一方で、「初詣はふつう行くでしょ」と感じるという、わけのわからない状態になっている。
僕は、日本人女性のうち、当人は漠然と石油王と結婚することを求めているのに、一方で天皇陛下を「テンノー?」と呼び捨てにしているのを見ると、それはさすがに極限のバカだと思うので、会話するすべと意欲を持たない。
親の教育のせいかもしれないのだが、たとえ親の教育のせいであったとしても、事実上極限のバカになってしまったものは、もうどうしようもないのだ。
通説に、女性はバカなほうがかわいい、という言い方があり、この言い方には一理あるが、それはあくまで「バカなほど素直なのがかわいい」ということであって、醜い慢心を好き放題に振り回すバカがかわいい、ということではない。わざわざしつけが最悪な狂犬を引き取る愛犬家はいない。
石油王というのはだいたいイスラムの人間だと思うが、イスラムの人間なればこそ、礼拝の素質が無い女性など獣かバケモノにしか見えないだろう。
日本人女性のうち、石油王と結婚したいと切望しているタイプは、おおよそ脳内に自分のシンデレラストーリーしか存在していないのだと思われるが、彼女らにおいてはおそらく、「王」という存在が「朝廷」を為しているという概念がない。政府と朝廷の区別がついておらず、彼女らにおいてはそもそも「王」は為政者ではなく単なる「金持ち」なのだろう。
本当は、必ずしも王がリッチであるとは限らないのだが。
貴族というのもそうで、よもや貴族にあこがれる日本女性が、「貴族とは、王権の成立に貢献した由来がある一族で、領地を安堵されているの。門閥で領主なの」と捉えているわけではない。
僕は別に、極右の人間ではないので、エキセントリックに天皇陛下を尊崇する者ではないが、あくまで文明人として「王位」にある方は「陛下」と呼ばざるをえない気がする。エリザベス女王だって「女王陛下」だし、中国の歴代皇帝もそう、あるいはプトレマイオスやクレオパトラだって「陛下」だろう。
まもなく平成の世も終わるわけだし、来年にはいわゆる一般参賀というやつにも参じてみようかな、などと思うのだが、たぶん同じように考える人が多いので、来年はすさまじく混雑するかもしれない。
そんなこんなで、今、世の中が暗いのか明るいのか、よくわからないのだった。
一月二日、僕はすさまじい夢を見た。初夢、と言えばそうかもしれない。三人のヨーガの行者が現れて、三人の頭部は天地が逆転しており、さらにその顔は平べったかった。その行者たちの姿は、「土」から出土したレリーフの通りだった。
三人の行者は、僕を見るなり「あ、君も学んできたね」と言った。
額と脳天に強烈なテレパシー能力があり、彼らはなぜか、僕のことを僕の知らない誰かの名前で呼んだ。
その後僕は、懐かしい学生時代の先輩たちに会った。
「行者さんに何か言われました?」
「そういうことは、あんまり口にしないもんだ」
と僕は先輩に窘(たしな)められた。
先輩たちの話すことは、いつもどおり可笑しくて、可笑しくてたまらないので、僕は笑い転げているうち、うれしくてたまらなくなり、
「何ずっと笑ってんの」
「うれしくて泣いてるんじゃない?」
そうそう、こういう感じ、ということを思い出した。
隠していてもバレてしまうし、いちいち言わなくても見抜かれてしまうのだ。
今、世の中が暗いのか明るいのかよくわからない。「欅坂」をチラッと見たかぎりでは、あれはかっこいいのじゃないか、と思う。
じっくり見たらどうなのかはわからない。
かっこいいものがあるなら世の中は暗くないだろう。
アメリカにはまだボブ・ディランがいる、と村上龍も言っていた。
安室奈美恵さんも引退してしまうし、十年後の紅白歌合戦はどうなっているんだろうな、と誰だって思う。
時代というのはおそろしく予想のつかないもので、SMAPやマクドナルドが凋落するとはかつてはまったく想像もしていなかった。
共産主義を信奉した人たちにとってのソ連崩壊もそんな感じだったのかもしれない。
一月二日、僕は目覚め、
「世の中が暗いか明るいかは、よくわからないのだけれども、もし暗くなったとしたら、女性が主権を持ったからだ」
と言った。
「男社会というけれど、女性が輝くためには、男社会が要る」
気が遠くなるような、困難かつ遠方すぎる話だけれど、笑っているうち嬉しくて涙が出てくるというような純然たる「明るさ」は、男社会にしかないと思う。
僕は男の先輩たちに取り囲まれて、何かもう、可笑しくてたまらなくて笑っていたのだから。
大手町から芦ノ湖までタスキをつないで走るクレイジーな男たちのあいだでも、そうした明るさ、涙のちょちょぎれるような嬉しさと明るさは、あったのかなあ、なかったのかなあ、あったらいいなあ、なんてことを思っていた。
本年もどうぞよろしくお願いします。
***
僕は女性をうつくしいと思うし、なんてったってラブだし、女性が幸福になれない世の中は論外だと思うし、女性が活躍できない社会だってクソというか論外だと思う。
ただ、いわゆるウーマン・リブやフェミニズム、男女平等といった思想が、女性の幸福と活躍をバックアップするかどうかはまったく定かではない。
その逆だって十分ありうるのだ。ウーマン・リブとフェミニズムと男女平等が、女性の生涯を暗黒の悪夢に突き落とす、ということだって十分ありうるかもしれない。
毛沢東の農業政策が農業をこっぱみじんにしたり、ポル・ポトのユートピア政策が国中をディストピアにしたりしたようにだ。
今僕の家には、奇跡のようにかわいく、奇跡のように賢い猫がいる。僕が買っているので天才猫になって当たり前だが、彼女はすでに、マタタビを与えられることやネズミを捕獲することに距離を取っている。
ふつう、猫にマタタビかそれと同質のハーブを与えると、シャーッとなって活気づくのだが、うちの天才猫は、「もうそういうのはやめてください」と言っている。
すさまじく賢いのだ。
かつて、葛飾区のボロ屋に住んでいたとき、彼女はネズミ獲りの思わぬ才能を見せてくれたが(さすが猫だ)、いつからか、ネズミを発見はしても、追い詰めるだけで、それにシャーッと飛びかかることはしなくなった。
猫といえども、自分が獣じみることは不快で、苦しいのだ。
彼女はおそろしく賢いので、猫じゃらし等で遊ぶときも、獣じみて遊ぶのではなく、学門として遊んでいる。
猫じゃらしを周期的に動かしてやると、その周期から次の動きを予想して、その予想に基づいて飛びかかり、仮説が実証されることをよろこぶのだ。
猫がネズミに飛びかかるのは、いわゆる「本能」だとされている。それは当たり前だろう。
猫がネズミに飛びかかり、あの俊敏なネズミを捕獲できてしまうことは、まさに猫の突出した能力だから、ネズミが捕獲できない猫は単純に「能なし」だと言える。
ただ、猫にその能があったとして、その能に振り回されて己が「盛(さか)る」ということは、うつくしくもないし本懐でもないのだ。
僕はこのことについて、
「猫がネズミを捕獲できるのは猫の能力だが、猫がネズミに盛(さか)ってしまうのは猫の『業(ごう)』だ」
と説明している。
猫がネズミを獲るとき、目が爛々と輝き、平静時とは違う能力と気質を発揮するのだが、それは猫の「業」であって、よろこびではなく苦しみなのだ。
猫は野生ではネズミを獲らないと生きていけないし、ネズミを獲れなければ能なしとなって死滅する。
そうして、ネズミを獲ることができるのは猫の生命であり誇りだろうが、ネズミを追いかけ回して目の色を変えずにいられないのは、猫の苦しみであり業なのだ。
だから、「そういうのはやめて」と、うちの天才猫は眼差しで訴えかけている。
ウーマン・リブやフェミニズム、男女平等というのも、同じようなことではなかろうか、とこのところ僕は感じ始めている。
女性に宝飾品を見せびらかすと、女性は目の色を変える。女性はそうした上等なものに、盛(さか)ることをやめられない。それはまるで女性の本能のようなものだが、同時にそれが女という「業」でもある。
女が上座を譲られて、宝飾品を与えられて、豪奢なドレスを着せられて、鮮やかなカーペットの上を歩かされると、女性は己が盛(さか)るのをやめられない。
それが、実は女性のよろこびではなくて、苦しみではないのかということだ。
僕はいいかげん大人なので、女性がいかに物欲に弱いかをよく知っている。
女性は、物欲で自分を売り渡すつもりはまるでないが、「絶対そんなことしない」と言っていられるのは、現物を目の当たりにしていないあいだだけだ。
「これ足代ね」と、二万円ぐらいを突きつけると、それだけで女性はグラッとくる。まったくアホみたいなのだが、本当にそうなのだからしょうがない。二万円が五万円になり、十万円と上昇していったとき、ひどい話になるが、金額がオマンコの濡れに反映されない女性はほぼいない。
もちろん、だからといってとびきりイヤな男性に抱かれるというわけでもないだろうが、特に女性が「大切なもの」や「信じるもの」を見失っているとき、女性はこの現物から受ける「グラッとくる」という反応にあっさり引き込まれる。
大切なものもなく、信じるものもなく、しかも退屈している女性である場合、その「グラッとくる」というのがまるで自分の本能、女としての本能だと感じられ、自己存在の充足を覚え、それをやめられなくなるし、簡単に言えばそのことに「ハマる」のだ。味をしめて脱けだせなくなる。
「おしゃれ」や「インスタ映え」をとことん気にするのはやはり女性のほうだと思うが、それだって女性の「業」であって、よろこびではないのだ。目の色を変えて盛(さか)るということが、実は苦しみでしかなかったりする。
そのことに、すでに賢い女性たちは気づき始めているが、気づいていてもなお、現金や宝飾品や豪奢なドレスや鮮やかなカーペットの現物を突きつけられると、あっさり「グラッときて」、精神を根こそぎ持っていかれるというのが実情だ。
それでいうと、男性がたとえば女子高生のパンチラなど見せつけられると、グラッときてただちに盛(さか)るというのも、実はよろこびではなく苦しみだったりする。
そういえば最近、何か児童ポルノ業者のガサ入れがあり、その顧客リストには七千名のデータがあって、数々の立場ある人たちがまもなく書類送検されるという運びだそうだ。よって、この正月をまるで悪夢のように感じている男たちが、数千名はこの日本にいるのだろう。
僕も一人の男性として思うが、第二次成長期に至った女性、つまり初経を迎えて受胎可能になった女性に性的な誘因を覚えるなというのは、本能的に言って無理というか、それは単純にウソだと思う。
ただ、だからといって、少女の人権や尊厳を無視して、それに関するポルノビデオが商品にされていいかというと、それはダメだ。当人が未だ自己の尊厳を保全しうる人格の成熟を得ていないので庇護するというのが社会における当然の約束のはずだ。
一方で、そのロリコンポルノがワンクリックで観られるというなら、それをつい観てしまうというのは当たり前のことだ。僕だって十二歳の少女が性交している映像があれば「ほほう、これは」とよろこんで観てしまうだろう。あまり陰惨なものだとさすがに観る気も失せてくるが……
ただ、それを観てしまう、そしてオナニーのオカズにしてしまうということは、当たり前のことだとしても、そこにカネを払って購入してしまうというのは別だ。十二歳の少女がエロいのは当たり前だが、それを産業にしていいはずがない。「だって、二千円払うだけで、フルバージョンがモザイクなしで観られるんだよ」という欲望については、もう「あきらめろ」としか言いようがない。
この世でカネを払うということは、その産業を担う企業を祝福したということと同じだから、ロリコンポルノにカネを払うということは、少女を祝福したのではなく少女を食い物にする邪悪どもを祝福したということなのだ。たかがオナニーのために、それは道を誤りすぎだろう。
カネというのは、自分の都合、自分の恣(ほしいまま)に使ってよいものではないのだ。カネの使途をどうするかはその所有者に委ねられているのだが、あくまでカネの所有者は、この世に「かくあるべし」と信じるところにしかカネを使ってはならない。社会的責任が生じるのだ。単純にいって、ゲス産業にカネを落とせば、自分はそのゲス産業が拡大するのに一役買ったという社会的責任を負うことになる。
ゲス産業を祝福したら、必ずそのぶんの報いがあるものだし、それならせめて、二千円は赤十字にでも寄付するとして、自分は違法ダウンロードのロリコンポルノでしのぐべきだ。その違法ダウンロードで逮捕されたとしても、「ロリコンポルノ業者にカネを落とすわけにはいかなかったので」と弁明すればまだ言い訳が立つ。立たないか……でもまあ、それによって少なくともロリコンポルノ業者はトクをしない。
ウソ発見器にかけてもらってかまわないが、僕は十二歳の少女だろうとセクシーな子にならセックスの誘因を覚えるし、たとえ十歳の少女にだって色っぽくディープ・キスされたら「最高だね」という気分になるだろう。ただそれにカネは払わない。カネを払ったら社会的になってしまう。少女に欲情することは本能的には正しいが社会的には間違いだ。
ちなみに僕は、これまでに女子小学生とセックスするチャンスもあったが、実際に実物に触れてみると、やはり「うーん……」となる。リアルに乳臭い感じがしてしまうし、小学生がそこまで求めてくるというのは何かしら荒んでいるのが大半だ。その少女が、幼いなりに僕に尽くしたいとかいうなら話はまた別かもしれないが、そうでない場合、実物に触れると、
「なんでこんなカチコチのガキに、おれが真剣に付き合ってやらなきゃならんのだ」
という気がしてくる。十二歳の少女が純粋だというのも男ども妄想であって現実ではない。十二歳の少女が無知なのは事実だが、無知は必ずしも純粋ではない。
十二歳の少女と半日デートして、疲れないという成人男性はまずいないだろう。そんな少女のヴァギナを開帳させても、はっきりいって医療検査みたいになってしまうし、それなら遊園地にでも連れて行って……というのもウソで、たいてい、
「お前は子供のくせに、なぜオッサンのおれよりもインスピレーションがないんだ」
とがっかりするだけに決まっている。
ロリコン男どもが持つ少女へのあこがれも、変形した病的フェミニズムのひとつなのかもしれない。
話が脱線した。
男が十二歳の少女に欲情して盛(さか)るということも、女が宝飾品やおしゃれキラキラの万物にただちに盛(さか)るということも、実はよろこびではなく「業」だということ。よろこびではなくて苦しみだということ。
うちの天才猫が「やめてください」とその眼差しで訴えてくるように、賢い女たちはすでに、自分がおしゃれ物欲に盛(さか)るということについて、「やめてください」と懇願してくるようになった。
どういうことかというと、賢い女たちはすでに、僕がサービスしようとすると、「そのサービスをやめて、お願い」と懇願するようになってきたのだ。
「サービスされると、浮かれちゃうの、本当にそういう『業』なの、この苦しみにわたしを突き落とさないで」
と、いよいよ認めて訴えるようになってきた。
この訴えは、当初は「?」と感じられていたのだが、この数ヶ月で、「あ、本当に的を射ているんだ」と感じられるようになってきた。
女性をきらきらおしゃれにアテンドしてフェミニズムサービスを与えることは、なんだかんだ女性たちのドツボを押さえることになるが、それが実は一種の、女性の弱みにつけこんだ拷問になっているのだということが、ようやくわかってきた。
うちの天才猫に引き当てていえば、
「ネズミが獲れない猫は能なしだが、ネズミに盛(さか)る猫は生き地獄」
「おしゃれができない女は能なしだが、おしゃれに盛(さか)る女は生き地獄」
「女を口説けない男は能なしだが、女に盛(さか)る男は生き地獄」
ということになる。
ネズミが獲れない猫は能なしだが、ネズミ獲りに盛(さか)ってやめられない猫は、己が盛(さか)る炎に我が身を焼かれ続けるのだ。
これは宗教的な話をしているのではなく、単なる「盲点」について話している。
なかなか気づかない視点だ、これは。
世の中が、暗くなったのか明るくなったのかは定かではないが、もし暗くなったとしたなら、こう言いうる。
女性に主権を与えた。女性を尊重し、フェミニズムを浸透させ、男女平等、なんだかんだウーマン・リブの思想を根付かせていった。
それにより、女性が輝いた、のではなくて、女性は「業」を深め、その炎に焼かれ続けていった。
「業」の炎に焼かれるとき、その目は爛々と光り、あらゆる生きものは、引き返せない深みに引きずりこまれていく。
だからうちの天才猫は、そのはるか手前で、
「お願いだからやめてください」
と眼差しで訴えかけてくる。
現代の女性も、それぐらい賢くなればいいのにと、僕は無責任にうそぶいている。
現代の女性が、ただ「業」を深めただけだったなら、世の中が暗くなったという視点において、見事に整合はするのだった。本年も……じゃあ本年は、同じようにするべきではないな。
***
すべての生命の荘厳か。
とりあえず僕には、やるべきことがある。
そりゃあんなえげつない初夢を見ているようではな。
やるべきことがあるのだが、そういったものの本質は、いつもとても人に話せたものではなくなるのだ。
だらだら書き話していたい。
新年の初めだから、誰でもがそうするように、この一年の抱負というか、行き先を考えねばならないのだけれども……
文体の恢復、これは、大晦日にそういう話をすでにした。
もうひとつ、映像作品とか、あるいは「現実的な空也様」のモチーフとか、色々ある。
とりあえず言えるのは、人は二足歩行をしており、猫や犬は四足歩行をしているということだ。
「ペットじゃなく家族だから」ということで、猫や犬に二足歩行やテーブルでの食事を強いることは、ただの虐待にしかならない。
犬は何も、玄関先でドッグフードを食うことに異存はないのだ。
犬をテーブルに座らせて、人間と同じように食事をさせていると、そのうち犬はよくわからない唸りを上げはじめ、人に噛みつくようになるだろう。
犬として生まれているのだ。
だから、犬が犬でなくなるような、そんな混乱を与えてはならない。
そんなことをしなくても、犬は犬で、また猫は猫で、ちゃんとカミサマに出会うものだ。
身分の高い者がカミサマに会うということではなく、それぞれの身分において、己の身分を尽くした者が、そのとき自分が出会うべき形のカミサマに出会うように、ちゃんと出来ている。
それでいうと、男のカミサマの出会い方と、女のカミサマの出会い方は、やはり異なるのだ。
原理は同じなのだが、象(かたち)が違うので、同じ象(かたち)で追いかけていると埒があかない。
男女平等というのは、猫に二足歩行をさせ、犬にテーブルでの食事をさせる、ということに似ていると思う。
そんなことを、男の僕が言い出せば、いくらでも炎上案件になるが、実際、そのように認めてくれと、女の側から求められているのだから、僕としてはしょうがないのだ。
うつくしい女は、もともと女神ヴィーナスにたとえられる。
ヴィーナスというのは金星のことでもある。
金星は、いつもうつくしい明星だが、むろん金星そのものが燃えて光っているのではなく、太陽光を照り返して光っている。
これを、男女平等だといって、金星に火をつけるとどうなるだろうか?
金星は、恒星にはならないし、火をつけられただけ表面が黒焦げになって、本来うつくしかった照り返しも失い、よくわからない黒焦げのほくろになるだろう。
男性は太陽のようであって、むやみに、独立して燃焼し、熱と光を発しているが、それを受けてうつくしく照り輝くヴィーナスが、いつも太陽に寄り添って生きようとするのは、何もおかしなことではない。
僕は昔、柴犬を飼っていたが、大半は玄関先で飼ってやらないと、番犬の務めが果たせないので、不安そうだった。
家の中のほうが居心地がいいので、やはり雷雨の日など家の中に入れてやると、尻尾をふってゴキゲンなのだが、しばらくすると「外に出してくれ」と玄関先でうろうろする。
そうして、犬が犬であって出会うべきカミサマがあるように、男が男であって、女が女であり、それぞれが出会うべきカミサマの象(かたち)がある。
僕は、僕を慕ってくれる女性に対し、ついに、
「お前が、まともな男と出会って、まともな男と確信して、その男に尽くしたり奉仕したくなったりするのは、アリさんが一生懸命に砂糖屑を運ぶことと同じだから、素直にそうしたらいい」
「アリさんが、砂糖屑を一生懸命運んでいるのは、当たり前のことだし、わざわざ注目するほどのことではないから、安心していい。いちいち注目も観察も評価もしない」
とまで言わなくてはならなかった。
そうでも言ってやらないと、女性は本当に、現代において混乱しているのだ。
オカマ男を揶揄して遊ぶ、ということにしか思想と能力を与えられていないので、いざまともに「女でありたい」なんて望んでも、何をどうしたらいいのかさっぱりわからないのだ。
睡眠も、食事も、果ては呼吸さえもまともにできず、声も表情も引きつって、たいへんな思いをしている。
話は変わるが、といって、実は変わらないのだが、いわゆるふつうのセックスにおいて、映像に撮られているものもそうなのだが、あの間違って生々しいのは、やめてくれないかと切実に思う。
なんというか、「カルマ棒をカルマ穴に入れています」がごとくで、正直なところ、目を伏せたくなるのだ。
何かいかにも、「もう戻ってこられない」というような、悪いことをしているような感じがする。
そしてそのとおり、本当に悪いことをしているのだが、僕はその悪いことを見物してハァハァするほど、生きることに退屈はしていないし悪趣味でもない。
見えるようになってしまうと、そこはもう興ざめなのだ。人にとってなぜそれが「そそる」のか。ネタが割れてしまうと、「なんだ、アホらし」となってしまい、そういったものは一切楽しめないというか、別のことを思索するようになってしまう。
今このときに、「カルマ棒をカルマ穴に入れて、もう引き返せないことをする」などと言うと、それだけで「ゾグゾクする」と感じている、まあ正直なところおバカさんもいるだろう。
それが、真のエロス、とかいうことではなくて、これは単に、アホなのだ。アホが加速してゾクゾクしているだけで、実はそこにハイセンスなものは何も隠されていない。
新年なのでぶっちゃけて言うと(新年でなくてもぶっちゃけて言うが)、それは二流のアーティストが脱却できない二流の感性であって、カルマを増大させるとゾクゾクするのは当たり前で、もう何千年も前に陳腐なのだ。
なぜそのしょーもない当たり前のゾクゾクに嵌まったまま、次のステージに進める見込みもないかというと、けっきょくのところ、カルマ棒をカルマ穴に入れるというセックスしか知らないからだ。
なぜそういうカルマ棒穴しか知り得ないかというと、カルマ穴の持ち主は、カルマ棒でないペニスの持ち主が「恐い」からだ。カルマ穴の持ち主は、カルマ棒の持ち主が相手なら、同等ということで余裕をもって愉しんでいられるが、いざカルマ棒でないペニスに直面して、カルマ穴なんか持っているのは自分だけという状況に立たされると、見たくないものに直面させられるので恐いのだ。
それはまるで、ガチの聖歌隊の中に混ぜられて、一人だけへっぽこメランコリック歌手が唄わねばならない、というときのような恐怖だ。聖歌隊のすべては神殿の神像にピタッと当てはまった声を発しているのに、自分だけが何か罪に満ちたひどい陳腐声を発さねばならない。
そんなもの、神像の前では恐いに決まっている。特に女性はそういった恐怖に敏感だ。
男の場合、もし非カルマ状態の穴に出会うことがあったとしても、身分的にカルマ棒君はそんな上等なものに入れさせてもらえないので、何もすることはない、ということになる。
でもまあ男の場合はなぜか、そこから健全に、「こんなカルマ棒を誇っていて、自分がアホだった」と痛快に捉え直す可能性もある。
その逆に進んでいく可能性も勿論あるが……
カルマ棒とカルマ穴という、アホくさいものに「ゾクゾクする」「そそる」と言っているアホの場合、男はたいてい、ペニスのデカさやえげつなさ(つまりカルマ度)を気にしており、女はというと、何かありがちな妄想と、メンタルヘルスの低下と、あとは何かヘンな音楽でも聴いている。
これらのすべてをアホと断じると、あまりにひどいという気もするが、もう結論が見えていることなのでごまかしを利かせてもしょうがない。
あなた(女性)は、別にセックスを恐れるわけではないだろうが、それは相手の男がカルマ棒の持ち主だった場合だけだ。もし相手の男がすでにカルマ棒でないペニスを持っていたら、それに自分のカルマ穴を向き合わせるのには、どうしようもなくビビるだろう。それでいいし、それがまっとうだ。それがまっとうだが、かといって自分に余裕が生まれて得意がれるカルマ棒・カルマ穴対決に逃避の希望を見いださないように。乗り越えていくべきものにのめり込んでいくのは筋が悪い。
いつかは、カルマ棒ではないペニスに抱かれて自分の穴もカルマ穴でなくなる瞬間を体験できたらいい。また、もしそんなことが体験できなかったとしても、とにかくカルマ増大で「ゾクゾクする」とかいう悪趣味をマジに受け取らないことだ。申し訳ないがそれはガキの遊びでしかないから。
もちろん、そんなカルマから離れたセックスが得られることなんて、実際には可能性はゼロに等しいので、そんなにビビることはないし、改まって追いかける必要もない。
女性は宝飾品を見たら目の色を変えるし、カルマ棒穴に及んでも、やはり目の色を変える。そうして取り憑かれて、「女の本能〜」みたいになることは、実は苦しみであってよろこびではないということだ。
だからといって、やせ我慢していても偉いということにはならないが、せめて知っておくことだ。どうせ、何十年も経ってから、すでに切り替えようもない時点で知るか、前もって知識として知っておくかという、その差しかないのだから。
アリさんが砂糖屑を運んでいるのは、見ていても別にゾクゾクしない。ミツバチが花の蜜を集めているのを見ても別にゾクゾクはしないだろう。
だがカマキリのメスがカマキリのオスの頭をかじっているところを見るとゾクゾクする。
そこで「ゾクゾクする」というのが「アホ」だということだ。
正確に言うと、その「ゾクゾクする」ということ「しか」知らないということが、アホなのだということになる。
本当に、正しく知ってしまうと、その「ゾクゾクする」は、ぱったりと興ざめに変わる。
この平成三十年は、そのようにやってゆきたい。なんのこっちゃ。
宵の口に光るヴィーナス、あるいは黎明に光るヴィーナスを見て、それはうつくしいが、ゾクゾクはしない。ゾクゾクは実につまらないものなのだった。
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女が主権を持つと世の中は暗くなる。
昭和の時代映像などを見ていると、よくわかるとおり、おっちゃんたちが集まって、いそいそ、わくわく、何かをやっているときの、あの純然たる明るさは、どうしても女社会では生成できない。
それは、世の中を男尊女卑に戻そうとか、女から主権を剥奪しようとか、奴隷にしようとか、そういうことではない。
まともな男がいると、その奴隷になりたがる女は、決っっっして少なくないけれどね。
それでも僕は、今さら女が男の奴隷になるなどというのは、ごく限定的な局面を除いては、ナシだと思う。
もっとまともな男女像を再構築していかないといけない。
カルマ棒を鹵獲してカルマ穴のごまかしに用いるという姑息的方法は、基本的にはナシだ。一時しのぎにはなるだろうが、本道に戻ろうとしたとき余計に遠回りになる。なるべくそうした、オカマ男の増産には与しないほうがいい。
男社会っていいですよね。僕だって、涙がちょちょ切れるほど笑って泣いたのは、男社会の中でだったから。
女が幸福になり、女が活躍するということは、おそらく男性の幸福と活躍とは異なる形態を持つと思う。それはやはり、太陽と金星が異なる輝き方を持つように。
太陽の役割と金星のうつくしさはそれぞれに異なるが、やはりそれらはどちらが優れていてどちらが劣っているというものでもないだろう。どちらが主でありどちらが従であるということはあるかもしれないが、それにしても女性自身、自分が化身となりうるのだとしたら、太陽とヴィーナスのどちらの化身になりたいといって、ヴィーナスの側を選ぶのではないだろうか。
日が沈んだとき、あるいは夜が明ける手前、明星が輝くのは、未だ地平の下にある太陽が存在する証になるだろう。それと同じように、僕は自分の傍にいる女が、僕の前で特別に輝いてくれることを、気分の悪いものだとは思えない。「あなたがいるからなの」とパアッと輝いてくれる女がいて、気分を悪くする男が世界のどこにいるだろうか。男はときに、自分が際限なく燃焼しようとすることがアホらしく思えてくるものだが、それに合わせて明星もその輝きを増してくれるというのであれば、もうちょっと頑張ってみようかなという気がしてくる。女はしょせん男の光を受けているだけの従属物だと見ることもむろんできようが、見方を変えれば、ヒマな太陽はなんとか明星をこれ以上に光らせてやれないものかと、むしろ金星のために太陽が燃えているという趣きもありうる。そこで金星が「あの、結構です、自前で光りますから」と言い切るのはいささか冷たくて無慈悲なことだ。
誇りある太陽はまず身近な明星のすべてを光らせることを第一の自負とすること。明星はそうして誇りある太陽に出会ったとき、その光を受けて自ら輝いてみせ、その美を太陽の光輝に浴したからだと証すること。あべこべは見るに堪えないな。太陽が己の燃焼を失い忘れ、金星がその輝きを自己によるものと自負することは、初めから破綻している言い争いをしか想像させない。世の中は暗くなるだろう。
本年もよろしくお願い申し上げます。九折空也
[平成最後のヴィーナスたち/了]