No.375 社会に寄与するべきだが、寄与を目的としてはいけない
何かを頑張ろうとか、努力しようと思ったことは一度もない。
春に嫌われないためには、「ブスのことなんか一ミリも知らない」と言い放って生きるしかない。
そうして生きることは、もちろん、美少女の画像を漁って暮らそうというような愚かしいことではない。
美少女を信じずブスを信じるということは、この世界に対する冒涜なので、「ブスのことなんか一ミリも知らない」と言わねばならないのだ。
美少女とそうでないものの違いは、疲れる、という一点にある。
ブスは、「動かない」ので、疲れるのだ。
もちろんブスが動き回っても近所迷惑になるだけなので、なんというか、「止まっている」というのがしんどいというべきだ。
それは、ブス当人もしんどいはずだが、何しろ僕は信仰上の理由でブスには近づけないので、止まっているブスに声はかけられないのだった。
美少女というのは、常に止まっておらず、だからこそ蝶々のようで、それを見ているだけでこちらのこころに刻まれていく残像があり、その残像ならではの流麗が、うつくしくてかわいいのだった。
東京の、城南で暮らしていると、グラビアアイドルの人や、特に「地下アイドル」のような人たちをよく見かける。恵比寿あたりに行くと、飲食店の一店舗に一組は、地下アイドルとマネージャー的な人がいるのではないか、という気がするぐらいだ。
パステルカラーの、ファンシーな服を着て、色白の肌に奇抜なほどのメイクが、一定の様式を為しており、それは外形上で分類するなら明らかにブスではなく美人だろうが、それにしても「疲れる」という印象はある。
地下アイドルの人は、当人も疲れているのではないだろうか。
疲れるというのは、必ず、「何をしているのかわからない」という状態で発生する。
何をしているのかわからず、何をしていいのかわからず、何かが「進む」というようなことがなく、一定の活躍をすれば一定の充足があるはずなのだが、その充足が「要らない充足」に引き当てられて、ますますどうしたらいいかわからない、だから疲れる、というような状態があるのだ。
グラビアアイドルが、水着姿になって、「わたしのおっぱいはこうです」という表示というか、見せつけをすると、「お前のおっぱいはそうだな」というのがよくわかるが、その先をどうしたらいいのかがさっぱりわからない。
当人もきっとわかっていないし、マネージャーも、ともすればファンたちも、たぶんよくわかっていないのだ。
目を惹くようにデザインされた衣装から、胸の谷間や尻の突き出しが、性的な曲線をアピールしていたら、とりあえず「おっ」とは思うのだが、何しろ当人が疲れている。すると見ているこちらも疲れるし、「それで、ここからどうすればいいのだろう」と、途方に暮れてしまう。
肌のきれいな、若い女性だから、仮にセックスしろといわれたら、セックスはできるのかもしれないが、おそらくセックスをしてアンアンと高い声を上げてくれたとしても、その後「で、どうすればいいのだろう」ということになることは、明らかすぎるほどに予想されてしまう。
僕はまかりまちがっても、グラビアアイドルの女性を、侮辱したり軽蔑したりする意図はもたない。
それは、業種に対する差別をしていない、からではなく、何であれ、若く清潔な肌をした女性を、僕が侮辱していい理由はこの世界に一ミリもないからだ。
別にそんなルールはないのだろうが、僕が勝手にそういうルールだと誤解しているので、僕はそのルールを勝手に継続するだろう。
どれだけ表面上が美人であっても、それが「動かない」「止まっている」「疲れる」ものであったなら、それは次第に「あれ? ブスなんじゃないか?」と見えてきてしまう。
人間の顔や姿は、いつでも「人相」として変動しているものなので、写真に切り取るか冷凍でもしないかぎり、造形のみで保存されうる「美人」というのは存在しない。
美人や美少女は、美人と美少女の道を進んでゆくべきだと思うが、その「道」というのがきっと、おっぱいをアピールして理由のないほほえみを浮かべている、ということではないと思うのだ。
じゃあ、何が「道」であって、どう進めばいいのかというと、わからない。
別に美人や美少女に限らず、この二〇一八年の日本において、人はどう「進む」のか、正直なところさっぱりわからなくなっている。
もちろん僕自身は、それを見失ったことは一度もないのだが、だからといって僕が誰かにその進む先を切り拓いてやれるわけではないし、指し示せるわけでもない。
僕はこの「春」の中に、無限に進んでゆける道を知っているのだが、これは絶対に説明してもわかりっこない、ということが先に識られている。だからどうしようもないのだ。
よく、本当には何も見えていない還暦手前ぐらいのおじさんが、目を細めて「道」というようなことを言い、何かむつかしい……まあこれ以上言うと直接の悪口になるので避けるが、そんな馬鹿げた「道」など存在するわけがない。ただの空想だ。
僕が識っているのは、この「春」に、吸い込まれる、というような現象だ。その現象は、幼い頃も、学生時代も、丸の内と銀座を行き来していたときも、そして現在も、ずっと続いている。
人間の、「進歩」ということは、それ自体は悪いことではないのだろうが、進歩したからといって何かが進んでいるわけではない。矛盾しているようだがそういうものだ。
自己進歩主義を標榜しているおじさんが、実に根暗な酒を飲んで、他人から見れば「お前って何十年経っても止まったままだな」と言われ、本人としては「えっ!?」ということはよくある。
進むというのはむしろ、進歩はしないということだ。進歩、などということに逃避しない。
少なくとも、僕はガキのころから何一つ「進歩」はしていない。僕は、もし自分が「進歩」したとしたら、それは僕自身の死を意味すると感じている。僕は僕なのだから、これが「進歩」などしたら、僕は僕自身から剥離するということだ。剥離してしまったなら、その先の時間の一切は僕自身にとって意味が無いだろう。
いくつもの、技術や感覚や集中力や知識や経験は、もう数年前とは比較にならないほど向上しているのだが、それは僕が僕自身から剥離してどこかへ行ってしまった、ということを意味してはいない。
むしろその逆で、僕は僕自身からわずかも剥離せず、一切の進歩に引き離されないよう、ここにありつづけるために、ここまで膨大な能力の向上を必要とした。
自分が自分でありつづけるのには、たぐいまれなる能力と才能と幸運がいるのだ。人間には「適応」という特性がある。この「適応」によって人は「進歩」に押し出されてしまうのだ。
「進歩した」というのは、「適応」に敗北した、という結果にすぎない。
それによって、人は加齢と共に、「誰だお前?」という、誰だかよくわからない表情固着の存在になっていってしまう。
生後六ヶ月までの赤ん坊を見ても、「誰だお前?」という感じはしない。「こいつはこいつだろ」というふうにしか見えない。赤ん坊の側も確信している。
これが五十年も経つと、何かしらの表情が固着して貼りついてしまい、何かわかりやすい存在にはなるのだが、「誰だお前?」と、それが「誰」なのかはわからなくなるのだ。「わかりやすい」のだが「誰」だかはわからない。たぶん当人も、自分が誰なのかわからなくなっているのだと思う。
夜中に恵比寿にいくと、撮影を終えたあとらしいグラビアアイドルの誰かが、きっと取引先の偉い人を接待するのに待ち受けているらしく、三人並んで座り「勝負どころ」という表情を見せていたりするが、そこに僕は何の関係もないにしても、もし僕がまったく必要とされていない僕のメッセージを発するなら、そこにいるのが三人だろうが三十人だろうが、どの子のおっぱいもすべて百点だと思うと言いたい。僕はまったくおっぱいフリークではないのだが、手入れされた美女の身体には賛嘆しか覚えない。
けれども、そうした夜中の恵比寿の一画で、すでに誰が「誰」なのかわからないことがいかにも始まり、表情固着の貼りつきが始まっているのを見ると、せっかくの女性がもったいない、などと勝手なことを僕は思ってしまう。余計なお世話だというのは重々承知だ。
現代、に限ったことではないのかもしれないが、とにかく「何をしているのかわからない」「何をしたらいいのかわからない」「どこにどう進めばいいのかわからない」、さらに「誰が誰なのかもよくわからない」ということが起こっている。その状況では、いかなるスズメバチドリンクを飲んだとしても「疲れる」ということは避けられないのだ。
ヒント、つまり、「疲れる」ということは、「主語も述語もよくわからなくなった」ということで生じており、本質的に健康や栄養のせいではない。主語も述語もなくなると人はつまり獣やグールにならざるを得ないので、そうなるともう腰を振って雄叫びをあげて他人を呪って麻薬をキメるしかすることがなくなるのだ。
主語と述語、ということでいえば、たとえば僕は「春」が見えているので、「春」にずっと吸い込まれていく、その中で自分のすることはすべて見えている、何をしているとは言いづらいが、強いて言うなら「春」をするとか、もうテキトーにVEPP+と言うしかない。この造語には何の符合も引き当てられてはいない。
僕は春に嫌われるわけにはいかないので、止まっているブスや、暴れているブス、わかったふりをしているブスのすべてを、「知りません」と断じるしかない。
春の中に、美女と美少女の残像が刻まれていく。その中で疲れる、ということは一切ない。
主語と述語を見失った人は、ここで「僕が」と話していることも僕のこととは聞こえず、何かまったく見当違いの感情的反発を覚えるかもしれないが、それは見当違いだし、そんなものは当人が疲れてしまうだけだろう。
僕が春に吸い込まれていく狂人であることは他の誰も傷つけてはいない。
この春の中で、わたしのおっぱいを、あなたに見てほしいのと僕にいう人もあれば、まったくそうではない、という人もいるのだ。
僕は、何一つ頑張ろうとしたことはないし、努力しようとしたこともない。
それどころか、何一つ、考えたことさえないのかもしれない。
春に嫌われるわけにはいかなくて、春以外のものは、実は何一つ、見聞きさえしていないのかもしれなかった。
春だからしょうがない。
すべてのおっぱいの持ち主が、その大小に関わりなく(僕はフリークではないので)、春に吸い込まれていきますように。僕におっぱいを見せてトクをする女は誰もいないはずだが、それを犠牲に春に入り込めるなら「まあいいか」と、信じて差し出してくれる頬紅のきれいな美少女がトレーナーを着て、どこかにたくさんいるに違いない。
***
春に嫌われるのがいやなので、色々とたくらみはする。
春に嫌われない文脈が必要なのだが、それでいうと、社会・世の中に貢献しない・寄与しないものはよくない、致命的だ、ということがわかる。
(メモ:今さらだが、僕はすべてのことを、直接「春」に相談してきたのかもしれない)
社会に寄与しないものはダメなので、社会に寄与しない文章をインターネット上に公示すると、それはガチのお目汚しをアップロードした、ということになる。なにやっとんねん、という話で、これは明確に有罪だ。
それによって、ただちに死刑になるわけではないが、とにかく、よろこばしいことではない。
春の信奉者である僕にとっては、人を春から遠ざけるわけにはいかないのだ。
たまには僕もまともなことを書き話すものだと自分で感心している。
春にお近づきになるためには、その文脈は、「社会に寄与するべきだ」と示されていなくてはならない。
そして同時に、社会に寄与することを「目的」にしているのはとてもダメだ。
こうした目的のスリカエを春はたいへん厭うのだった。
社会に寄与するのが「目的」、などという愚かしいことを、春の最中に言い出すアホ人間は存在しない。
春の中には、ただ春があるのであって、その中に人の「目的」などという、しょーもないものはそもそも存在していない。
人は、よほど弱り、よほど見失ったときのみ、「目的」を必要とする。海水浴、という目的がないと、海に入れません、というようなれっきとした病的状態だ。
社会に寄与するべきだが、社会寄与が目的であってはならない。
つまり、社会寄与はまったく目的でないが、「社会に寄与していないと、春に入れないので」ということだ。
もし社会寄与が「目的」なら、春に入るのではなく、社会に入っていくだろう。
山手線のどの駅を降りたとしても、そこにひしめいているのは社会ではなく春ではなかろうか?
これは春に吸い込まれていく狂人の書き話しだが、もしこのような内容が、平昌オリンピックのニュースのごとく何万件もツイートされているのなら、僕はわざわざこのような内容のことを書き話さないだろう。僕がいちいち話さなくても、すでに情報は満ち足りているからだ。
だがおそらく、「女はセフレの前で裸を見せるのは平気だが、春の只中で裸を見せるのにはすべてが問われて震える」というようなわけのわからない話が、数万件もツイートはされていないと思う。
だからこれは、僕のような変わり者が、どこかの端っこで書き話しておくべきなので、今このように書き話している。
社会に寄与していないと春に入らせてもらえない。
僕が「デニーズでチョコレートパフェを食べました」とか、「蟻の巣を見ていてこんなキモチになりました」とかレポートしても、そのレポートは社会にまったく寄与していないので、僕は春に入らせてもらえないだろう。
社会に寄与していなければ、春に入らせてはもらえないし、春に入っていないのなら、美少女のおっぱいを見たがる権利はない。着衣の上からでも目を遣る権利はないだろう。
ああ、東西南北は、全方位すばらしいのだった(意味不明)。
突然話は変わるが、頑張るとか努力するとかいうのは、「抵抗」があるから起こっていることだ。抵抗があるが、それでもしぶしぶ「頑張ります」。「それが努力ですから」と。
つまり、ガマンしている。頑張るとか努力とかいうことは、本当はやりたくないという抵抗があるけれども、「(ガマンして)やります」という状態だ。
さらには、「(本当には何をやっているかわからなくて、すごく疲れるけれども、ガマンして)やります」ということもある。
これでは春に入らせてもらえるわけがない。
「抵抗、実はやりたくない、実はわかっていない、何やっているかわからないから疲れる……」
「それ以前に、力尽きるまでやり、力尽きるまで生きることを、本懐としていないのか」
もし、それが本懐だと信じていない人があったとしたら、僕はその人のことはさっぱりわからない。
味噌汁を飲むのに、お椀ではなくヘルメットを使います、という人のことぐらい、僕にはさっぱりわからないだろう。
もし、エンジンをかけてアクセルを踏むたびに、「チッ」と舌打ちし、「ハイがんばりまーす」とエンジンが唸る車があったとしたら、ただちにニトログリセリンを満載させて、T社の本社に突っ込ませるべきだ。
何のために生まれ、何をするために生きているか、「本懐」というものがあるだろう。
我慢(アートマ・マーラ)のおそろしさについては、ブログでさんざん書いたので、ここでは述べない。
「どうも食欲が出なくて」と困っている人に向けて、僕が「よっしゃ、おれがカレーを作ってやろう」と申し出ることがある。
僕の作るメシは異常に旨いので、ほとんどの人が「食事」を強制的に恢復する。
僕は炊事場に立ち、トマトの缶詰からカレーを生成していくわけだが、もしその営為の背後に、
「本当はやりたくないけど、(ガマンして)やります、頑張ろう、努力努力」
と思うところがわずかでもあったらどうなるか。
そのとき僕が生成するものは、カレーではなく己の我慢(アートマ・マーラ)ということになる。
これは、マジだ。考えたくもないぐらい、マジの話なのだった。
本当はやりたくなくて、それでも頑張ってやらされたので、ガマンが育ち、自分の中に得体の知れない悪魔(マーラ)が育つのだ。
この悪魔はその後、あっさりとその人の人格を背後から操り、支配していってしまう。
もし僕が、そこでカレーを作るごときに「ガマン」を育ててしまうぐらいだったら、ただちに僕は、
「うっせえ、食欲がないならそのままそこで餓死しろ」
と言い捨て、断じて何もしないだろう。
そして同時に、もし僕が、食欲をなくして困っている友人にカレーごときを作るのに「努力」やら「善意」やら「ガンバリ」を必要とするのなら、もう僕には生きている価値は油まみれのヌルヌルになったマジックカットほどにもないのだ。
やりたいことだけをやって生きられるものではないから、ときにはガマンも必要だと言われるが、それはウソだ。ガマンが必要節は、基本的にこの世界をナメきっている。
自分が生きるのに「目的」なんてあると思っているのか。
僕には何の目的もない。
ただ、「春」からドロップアウトしたくないだけだ。
僕はこれまで、何を頑張ったこともないし、何を努力したこともない。善意を持ったこともないし、何かを考えたことさえきっとない。
ただ僕は、春からドロップアウトしたくなくて……一方で、この「春」から平気でドロップアウトする奴がいることの、気が知れないのだ。
社会に寄与するべきだ。僕はメシを作るのが上手く、僕のメシは異様に人を恢復させるので、食事について困っている美女および美少女のためなら、何のためらいもなくメシを作ってさしあげよう。そうしたらおっぱいぐらい見せてくれるだろう。おっぱいフリークではないのだが、ここでは「スカートの中」などと言うといやらしくなるので、あえておっぱいを代表に使わせてもらっている。
もし、駅前に歩いている何万人もの女性が、おっぱい丸出しで、しかも触り放題なのだとしたら、あえて美女も美少女も、僕におっぱいを見せてやる必要はない。すでに足りてあふれているものに追加をすることは社会寄与にならないからだ。
しかし、駅前にそのような僕専用の幸福は未だ実現されていないので、今のところは美女および美少女による、社会への寄与として、僕向けにおっぱいが開放される値打ちは有為にある。
僕がこうして「書き話す」ことのように、美女と美少女が僕に「見せはだける」ということだ。
もしこれを逆にしてみろ、アホ女が書き話し、僕のようなむさくるしいおっさんがおっぱいを見せはだけるという、最悪の状況が展開するだろう。これを一般に社会悪というのだ。
美女および美少女が僕におっぱいを差し出すのはたいへんな社会寄与だが、間違っても、これが「ガマン」「頑張る」「努力」の上で為されてはならない。わずかも抵抗のない「本懐」として為されなければ、意味が無いというのではなく、逆に悪魔が育ってしまう。悪魔のたぐいは永遠に春から排斥されるだろう。春に入らせてもらえなくなる。
僕がこうして奇妙なことを書き話すのは、社会寄与でなくては意味がないし、一方、こんな書き話しに「目的」があったら気色悪い。
あなたも同じだ、あなたが僕におっぱいを差し出すのは、社会寄与だし、かといって、おっぱいを差し出すのに「目的」があったら気色悪い。
「春」じゃないのか。
僕が美女と美少女に向けて書き話し、美女と美少女が僕に向けて見せはだける、それが「春」だ、という文脈には、一点の曇りもないだろう。
社会に寄与すること。頑張るとか努力とか、そんなものは蹴飛ばして、ただ「春からドロップアウトするのはごめんなの」と。「目的? ああ悪魔よただちに去りなさい」と、春の文脈は惑わされない。そのとき人は決して止まらず、決して疲れることがないだろう。
春に吸い込まれてゆけ。あるいは、他のものに吸い込まれてゆく人もあるけれども、それについては僕は「一ミリも知らない」と、言い捨てるしかないのだった。
[社会に寄与するべきだが、寄与を目的としてはいけない/了]