No.376 どうすればあなたはおびえずに済むようになるか
この心地よい春に、いかがわしくも受け取られうる話をすることには、腰が引けるけれども、それでもまたこのとき僕のお得意の、フィクションの能力を生かして、万事をうまくやりこめて書き切ることにしよう。いつもはなるべく、役に立つことは書きたがらない僕の、性懲りもないこだわりを活かしながら、それでもこの先の進みゆきに決定的な足場を形成するものとして、この話をここに刻んでおきたい。現今の世情は、うそかまことか、男女平等やセクハラ、ミソジニーとミサンドリーと、呼吸困難を覚えるようなフェミニズムもあるという具合に、特にセクシャリティの方面においては壊滅的な状態にあり、まるでLGBTに目を向けることで自分の破綻を欺瞞しようとする人が大勢をなしているような薄暗さも窺えてしまうが、僕がそれなりに幾人かの女性に慕われてはいる身として、彼女らへの正しい、brightnessへの足しに僕自身がなってゆくためには、僕は現今の世情とはまったく異なるものを、彼女らには注がねばならないはずなのだった。僕は自分が男であるということはよく知らず、それは無理のない女がいつまでも女であることが明白すぎて男女を比較するという発想さえ僕が持ち得ずに来たことの結果でしかないが、それでも今ここに至ってはつまり僕を慕ってくれる女性たちから見て僕のことを「こういう男(の人)」と、正しく扱ってbrightnessへの足しになりうるように、僕なりの定義を示さねばならないのだった、当人の側からどういう男であるかの定義を示すことはいささか滑稽すぎて無残とさえ言いうるところがあるにしても。
だいたい示されるべきことは先に決まっている。<<永遠しか力にならない>>。こころは永遠であって、こころは存在そのもの、またそれはあるていど器官に引き当てていうと、基本的には心臓の内にある極限以上の微小点ということになる。このことは、言及が珍しすぎて単に珍しさから人の興味を惹きそうだけれども、そうしたことは詳しく知られる必要はないし、またそういったことを専門にしている人々でさえ、本当にはよくわかってはいないたぐいのことだ。永遠や不死的生命のことを言いたがる人は思いがけず世の中に多いものだけれど、その眼差しが直接永遠や不死性を直観させる力を帯びているというケースは実に少ない。よってそれらのテーマも、実際には一部の人に長く愛好される、単に盛り上がりやすい話題でしかないということがいくらでも横行はしていそうだ。
デカルトのコギト以来、あるいはもっと古くから、同じことを同じように考えた人はいくらでもいるのだろうし、また同じテーマつまり「わたし」とは何かについて医学や生理学や生物学や物理学からアプローチした人も無数にいるだろうけれども、それらは半ば追求しようがないことを初めから知った上で歯がゆさの楽しみとしてアプローチしているというフシもどこかにある。この初めから証明しようのないテーマを同じく楽しみの話題のごとく語るのであれば、僕は歯がゆさというのではなく、思い切って何の根拠もなく断言して進めるという、単なる快適さの優先に値打ちを見いだして話し進めてゆきたい。誰にとっても、いつから始まったかわからない「わたし」は、話にならないほど微小な点、素粒子の数十億分の一の大きさしかない点(と、思い切って言いきってしまおうではないか)から始まっている。この微小点が「わたし」であり、この微小点は、完全に固定されているわけではないが、基本的に心臓の内にある。だから「こころ」とも呼ばれる。「こころ」は「わたし」であり、同時に「始まり」でもある。すべて同じ、不変の「始まりのままの微小点」のことだ。この微小点はあまりに小さすぎ、次元が違うので「時間」と一般に信じられている事象変数から独立している。つまり「こころ」「わたし」は無時間の事象平原に存在している。無時間ということはつまり「永遠」だと断定されてかまわない。詩人ウィリアムブレイクが「汝の永遠の相貌を探索せよ」と言い、哲学者トルストイが人間の本質的生命は永遠だと言い、ヨーガやウパニシャッドの経典が生命の不死性をやけに言うのは、すべてこの微小点の所属する無時間平原のことを指している。無時間のものが時間によってどう滅ぼう? 「わたし」は永遠に不滅であり、始まりの点は永遠に始まりの点のままありつづける。正しく考えてゆけるようになるほどに、「わたし」なるものが変動すると思えているほうが明らかに誤謬に満ちていることがわかってくる。「わたし」そのものは始まりの点のまま、それが織りなしていく物語のほうをこそ、永遠事象の空間に深く広げていくよりないのではないか? 幸い、そのことについては、時間制限は物理的にありえないのだから……
この、わけのわからないような話をもって、誰かの自己啓発に役立ててほしいと考えているわけではもちろんない。
今から三年前、二〇一五年の二月、僕は「ひとつの時代が終わって」という話を書いている。今になって振り返り、確かめたのだが、何より「あれからまだ三年しか経っていないのか」ということに驚かされた。僕にとっては遠い遙かな過去のように思える。その三年前の二月を起点にして考えたとき、この三年間、僕はある種の無茶を、蛮勇めいてしてきたことになる。それはつまり、僕から誰かに向けて、「わたし」「こころ」「始まりの微小点」「存在そのもの」を分け与えようとすること。しかしそのときに、このご時世だ、「こころ」はまるで返ってこない。報われるどころか、むしろ砂や泥を投げ返されるがごときであるが、そうだったとしても、
――僕の側から「こころ」を取り下げるのはやめよう!
という、構造上はやけのやんぱちといえる決定を、僕はこの三年間、履行してきたということだった。それはまるで、商品をよこさない商店でしきりに支払いだけ続けるというような、破綻的あるいは破滅的な行為だったように思う。だがそれでも三年前の僕は、希望をもってというより、そのような破綻的な振る舞いを続けても僕自身はさして苦しまず生き抜いてゆけるという、特権階級になりおおせた自覚と自信においての、蛮行の決定だった。ごく単純に、僕の側まで「こころ」を取り下げるよりは、僕の側だけでも「こころ」を分け与えて進むほうが、少なくとも僕自身にとって面白みがあると、キッチュとしての考え方を採用したところも大いにあった。
実際それで、僕自身はおおむね「へっちゃら」だったのだと、別に気負うこともなくここに報告することができる。あのとき、決断の段階においては壮絶なところもあったが、その実際の履行の段階においては何ら壮絶なところも悲愴感もなかった。単純に慣れたということもあるし、僕自身が「こころ」を取り下げない以上、僕自身としての「こころ」の力は発達してゆくので、その発達じたいを面白がっていた。もちろん微小点が発達するということはないわけだから、微小点を基準にして肉付いている僕の「身」が進み、発達していくということだ。僕はその発達を自己利益として、素直に面白がってこの三年間を進んだということを、少なくとも一面の事実として報告しておきたい。
しかし、ここ数ヶ月で特に顕著に、状況は変わってきている。僕自身および僕の環境は何ら変化のきざしも必要もないが、僕の周囲の人々から向けられるものにおいて、示される様相が変わってきた。そのことはおそらく、昨年(二〇一七年)の十二月初頭からはっきりと起こってきている。契機は、僕自身において「胴体がひととおり貫通した」という、体験というよりは身の実際を獲得したことに始まっている。胴体の最下部から脳天(以上の上空)へ、パアッと弾けるか、もしくは吸い上げられていくものが起こった。このころから僕はよく「愛というのは世界愛のことをいう」と唱えるようになって、またしきりにそのことにうなずきたくなる感触の獲得が僕自身に常にあった。このときつまり、僕が取り下げないと決めてきた僕の「こころ」は、僕の胴体から頭上に向けて、パアッと解き放たれて、<<この世界――あるいはどこかの世界――そのものとつながっていった>>ように思う。また、そのときから明らかに――あまり開示したいようなネタではないけれど――僕が「こころ」をもって人に向けるというより、僕の解放されてつながった頭上の何かから、他の誰かの「頭上の何か」へ通じるように接続したほうが、「こころ」というのは良質に届きやすいじゃないか、ということが明らかな実用のレヴェルで身についてきた。僕はこのことを単純に、便利で楽な方法を得て、しかも品質まで格上げされた――「モノが違う」ということになった――、やったぜ、とよろこんでいたのだった。これ以降、僕にとっての「こころ」を取り下げないという取り組みは、言いようによっては最も横着な方法として、自分の頭上を解放し相手の頭上へアプローチする、というやり方のものに変わっていった。正確に言えば胴体の最下部を開いてつながってくるものを、そのまま何の抵抗も及ばせず頭上にまで引き上げて解放する、その頭上の世界は僕かぎりの世界ではないから……というようなやり方だが、どうせこのような素っ頓狂なノウハウは他人には迷妄しか与えないので、ここでそのノウハウを掘り下げて話すようなことはしない。最も手短に言うなら、「説明されて出来るわけがない」。胴体の各センター点はジャンルに応じてなるべく解放、活性化させながら、しかし最重要のことはすべての「点」が時間軸から離脱し、梵我の区別からも解放されていることだ……
さて今回話して、これから先の足場としてゆかねばならないことは、ここから示される。そのようにして、「『こころ』を取り下げない」と選んできた僕の蛮行は、思いがけない進化を得たのだが、この進化した蛮行が、今度は予想もしていなかった様相の現れを周囲にもたらしたのだった。周囲の人々が<<おびえはじめた>>のだ。このようなリアクションが提示されてくるということは、僕にとってはまったく予想外のことであって、今もなお驚きを隠せないでいる。つまり、僕は「こころ」を取り下げず、しかしほとんど誰からも「こころ」は返ってこないという状況について、僕は引き続き「へっちゃら」だったにせよ、周囲が「へっちゃら」ではないということが起こってきたのだ。たとえるならば、野卑な農夫が漬けものをこさえるのに、漬けもの石の代わりに地蔵像を使っていたところ、何年後か、ついにその農夫の娘のほうが叫び声をあげた。「これをもうやめて!」。地蔵像が何を示すものか識らないはずの童女が、それでもしきりに否定と拒絶の圧倒的な泣き声をあげて、農夫の外道を弾劾してやまない。童女はおびえを確信している。そこで、初めはテヤンデェと手鼻をかんでいた農夫も、しだいに娘の泣き声が圧倒的な確信において続くのに、気圧されて、胸の奥が薄ら寒く、もやもやとした恐怖が仄暗く視界に垂れ込めてきた……
「こころ」は永遠事象(無時間平原のもの)だ。しかしそのようなことは、誰からも見せられておらず教わってもいないという現今の世情においては、ふつう知らなくて当然、できなくて当然、わからなくて当然、返せなくて当然だと配慮せざるを得ないし、今もなお、それは返せないのがふつうだと認めるよりない状況が事実としてある。それで、なおも「こころ」は返ってこないのだが、今はそれが、僕から見て「返ってこない」ということの嘆きを引き起こすものではなくなり、周囲の人々から見て「返せない」ということの恐怖を引き起こすものになっている。その恐怖の様相は、実際に震え、中には昏倒に近く失調する人も現れてくるので、もはや僕の側の勝手だけで――「こころ」は取り下げないさ! という蛮行を押し通すわけにはいかないという状況になった。
多くの人は、思いがけず優れた「直観」という能力を持っているようだ。そして多くの人はいざというとき、守るべき人の尊厳について誠実であろうとする健気な性根を持っている。僕には、そこのところの「直観」という能力がまったくないので、人々がそこにどういう直観を覚えるものか、想像もついていなかった。積極的に明言するタイプの人々が言うところを総括すると、つまり僕が「こころ」を取り下げず、なおも進化して頭上から世界へ解放された「こころ」を直接もたらし――分け与えて――てくるのに、自分が「こころ」をもって返せないということは、重大な「罪」になると感じられるそうだ。「罪をつくってしまう」。確かに、「こころ」をもって迎えてはもらえなかった僕の「こころ」は、そのときその場で報われず散華するか頓死するかして、つまり空費しているような気が僕にもするが、僕は正直なところ、この三年間でそのことに慣れてしまった。慣れてしまった上に、僕はそのような通商の不均衡がどのような蓄積を為していくものかについて、直観がはたらかない。僕が脳天気に「別にかまへんやろ」と言うところに、冗談でなく顔色を失って首を横に振る人が現れ始めた。僕にはそのたぐいの直観の能力は皆無であるため、僕は直観については周囲の人に聞き従わねばならない。
ドリンク・バーに、飲み物を取りに行こうと腰を浮かすと、ただちにバッと動く人が複数あって、代わりに取ってくることを、断じてという様子で申し出てくれる。僕の持ち得ない彼女らの「直観」に聞き従うなら、そのとき自分たちがのうのうと席に座してくつろいでいるようなことは、「また罪をつくってしまう」ということになるらしかった。僕にはそういうことを読み取る直観の能力はない。けれども確かに、僕が若輩だったころ、先輩がタバコを買いにいくというのに、ただちに代行に立ち上がり役に立たねば、「その後ぜったいまずいことになる、ロクなことにならない」という確信があり、なんとしてもその「おつかい」をさせてもらえるように、むしろ自分たちから願い出るところが確かにあったことを思い出す……あるいはこの直観は、そうして罪を避けようとする若さの者にしかはたらかない直観なのかもしれない。
「こころ」は永遠事象だ。それは心臓に宿る、話にならないほど小さな微小点に関わることであり、それが「存在」を担っており、それじたいが「存在」だと言っていい。この微小点は、事象の次元として「時間」と呼ばれるものに関係がない。それは無時間と言ってもよいし、時間は止まっているとみなしてもよい。この無時間・永遠の世界、「こころ」「わたし」「存在」の世界は、無限に(時間制限なしに)深く広げてゆくことができ、無限に深く物語を織りなしていくことができる。永遠とは、時計の針が永遠に進み続けることではなくて、秒針が1秒を刻もうとする直前、瞬間的に待機するそのあいだにさえ、無限に深く広げてゆける事象平原があるということなのだ。「始まりの点」はずっと不変のまま「始まりの点」であり続けているのだから。この事象平原に織りなされるものが、無限に深く広く展開してゆくあいだ、いつまで経っても時計の秒針が動くことはない。であれば、われわれが「こころ」という永遠事象を分け与えあっているあいだは、<<この三次元空間に特有のうとましさである、「時間」の干渉を受けずに済む>>。
これを、キックしてはならない。蹴飛ばしてはならない。「こころ」という永遠事象が<<分け与えられる>>とき、それをキックしてはならない。なぜ分け与えられ、招かれようとした永遠の国を足蹴にするのか? 聖書に倣っていえば、われわれは自分たちの慢心から罪をつくり、そのことによって永遠の国から追放されたはずだった。聖書世界においては、われわれはその永遠の国への帰参を今もなお願っていたはずだ。その永遠の国を、今になって足蹴にするのは、つまり別の国のイデオロギーがすっかり身に染みたということではないのか。われわれは、聖書(福音書)世界を覗いたとき、確かにパリサイ派あたりのありようが、永遠の国ではない別の国のイデオロギーに染まった者たちで、だからこそイエスに対して際限のない論敵でありうるのだということに、他人事だからこその平易な納得を覚えもするのだが……
僕は先天的にも環境的にも、いわゆる信心深いタイプの者ではない。占いやスピリチュアルじみたものに、ときに遊びはし、ときには真に受けてはしゃいだりもするけれども、定期的に繰り返して主張したくなるのはむしろ逆側の理知についてのこと、つまり「どの占い師も3.11の災害を予言はしなかったなあ」と。僕はもともと十歳のころにも理学部を志向して選択するあたり、超越的な事象を否定しきろうとする感情が数学的誤謬に満ちているという件と、超越的な事象を「アテにしたがる」だけという愚かさが偏った人々に目立ちうる件について、厳密な峻別を持つ者だった。僕には直観がなかったし、もし僕なりの直観があったとしても、その直観を事象の解析に用いるという取り違えはしてこなかった。よって僕は、現代の数学や物理学や分子生物学が「本当にこんなことがあるのか」という驚きと啓蒙をもたらすのと同様の受け取り方で、いくつかの聖典と叡智の書き遺しに触れたときも、やはり「本当にこんなことがあるのか」という驚きと啓蒙を受け取ってきたわけだった。
たとえば最新の物理学が説き明かす、この宇宙は11次元なのだという超弦理論の教示について、感情はまさにいくらでも「ウソだぁ」と疑ってかかることができる。タテとヨコと高さはわかる、時間というのもわかるよ、だから四次元まではわかるけど、その他に7つも次元があるって? それはじゃあ、タテとヨコと高さと、あとは何だよ? 見当もつかないわけだが、僕に見当がつかないってことは、それはつまり真っ赤なウソってことじゃないのかね。この僕に見当のつかないことなんて、この世界にあるはずがないのだから……! こうして感情的に「疑う」ということは、いくらでも際限なしにできてしまう。感情が許さないかぎりは、われわれは永遠に「信じない」ということを選択できよう。とはいえ冷静に考えれば、つまり、正しく疑って検証してみようにも、僕には超弦理論が説き明かす先の11次元の数式が何を語っているのかを読み取れるだけの知性がない。よって疑うというのはひたすらの感情でしかなく、また感情だからこそ「疑う」という私心は永遠に勝利し続けるだろう。一ページも読まず否定できる! それと同じように、いくつもの聖典が語りかける「永遠の国」についても、「ウソだぁ」という疑いをもってかかることは、際限なくできるし、またその否定は前もって絶対の勝利と満足感が約束されてもいるだろう。われわれはつまり、最新物理学の「先生」に対しては、「ノーベル賞を獲っているし、すごい大学の教授なのだから本当なのだろう」という、上位クラウド由来の「権威」を担保に取り、その担保の社会的信頼性をアテにして信じているのみだ。比べて聖典と呼ばれるもののたぐいは、それらが歴史的に保存されてきた遺産であるということの他には、アテにできる社会的担保がない。ここで、中学校の先生が、「動物は呼吸をやめると生命活動が失われ、死にます、死ぬとは消えて無になるということです」と教えてくれることと、聖典の唱える「永遠の国」が矛盾するならば、社会的担保の格差によって、どうしても中学教師の側に軍配があがる。また「死んだら終わりよ、無になるの、寝るときと同じよ」と近隣の中年女たちは口を揃えて確言することがあるし、教師も大学生も母親も同じことを言うのだから、権威に加えて集団の同調性バイアスもわれわれの持つ真実(かどうかはわからないもの)に幅を利かせてくるだろう。われわれはあくびの中に叡智を授かるほどの徳性や天稟に恵まれているわけではないので、ふとリビングに寝転んでいるときはテレビ・ワイドショーに向けて高邁な正義の発想が自己の内から湧き出てきて自分は天才かもしれないという錯覚に満たされるとしても、やはりわれわれがソファの上でこの宇宙が11次元で成り立っているという啓示を得ることはなく、それどころか生涯に亘って寝転んでいたとしても万有引力に数式を見つけることにさえ至らないだろう。われわれはおおむね、加齢と共に、ソファの上で知性を肥やすのではなく、知性のない確信だけを肥やしていく。この肥やされた確信に反するものは際限なく疑うようになるので、それが「信じる」という側へ転換することは構造上いつまでもありえないと見做すよりない。僕がここに「こころ」を微小点に由来する無時間平原の永遠事象だと言って、その言いようは物珍しさから一定の興味を惹きつけはするだろうけれど、数分もして後やはり加齢したソファの上に残るのは、「こころ」についてより誠実に知っているのは自分のほうだという知性を必要としない確信なのだ。
僕はすべてがそのように進んでゆくだろうと見切り、そのことについてはすでに解決済みのタグを捺したつもりでむしろ寛いでいたのだが、少なからざる人が僕の知らない「直観」の能力を持っていた。すべてがそのように進んでゆくだろうと見切った僕の見立ては、その後のほとんどの過程を正しく証したが、最後の最後になって、見立ての中にはまるでなかった様相を僕の前に示し、僕を立ち止まらせた。人々が、理路によってではなく直観によって「おびえはじめる」ということは、直面するまでは僕の検討する可能性の候補にさえ取り込まれていなかった。
<<永遠のことをやり続ける>>。言うまでもなく、それが無時間の事象平原に繰り広げられることなのだとしたら、その平原に生じたものは、時間によって滅びはしないし、時間によって消せもしない。あのときに観想した音楽の果ては時間と共に摩耗していくものではなく、いったん生じたものである以上、その扉を開けばいつまでもその向こうに広がり続けているものだ。いったん始まったものを、われわれは永遠にやり続けるわけだが、それは終わりがない以上、始まりもまたない。永遠事象の代表である「わたし」という現象が最もわかりやすいように、それはいつからか始まっており、いつ始まったとも言えないものだ。「わたしがわたしを始めることはできない」ということは、誰の目にも明らかなこと。まだ存在していない「わたし」が何かを始めることなどできようもないのだから。よって帰納的に、「わたし」なるものは単に気づかれるか否かというだけで、その存在そのものはすべての始まりから存在しているというよりない。夢の中で、「自分は今夢の中にいるのだ」と明晰になることまではできても、夢の中で、ふだん認識している「自分」が、今まさに睡眠中でいるのだということを体験できる者はいない。寝ている自分を体験できたらそれは寝ていない(起きている)のだ。
僕は永遠に遊びつづけ、永遠に書きつづけ、永遠の場所に住み、永遠に会いつづける。もとより、永遠事象の中でそれが広がってゆかないのなら、僕は何をしたとも感じ取らない者なのだ。僕はそのように、自分が何をしたとも感じられないことを他人に押しつけることは、まったく不実で忌むべきことだと感じている。よって僕は、自分なりに現在到達しうる最大純度の永遠事象をこそ人に<<分け与えよう>>とする。ようやくここにきて本題のことが話せそうだ。僕はこの三年間、とんでもないことをしてきた。僕が気負いなく、すべて「へっちゃら」だったと報告できる反面、もしそれと同等の行為に誰かが勇み出ようとすることがあったとしたら、とてもではないが「やめておけ」と、僕は急に調子を変えて制するに違いない。それは正気の沙汰ではないことだから。「こころ」に「こころ」が返ってこず、報われないということは、それが微細なサイズのことであっても、ふつう大きな傷を負うものだ。僕がそのことに「へっちゃら」でいられたのは、笑い話と捉えてもらってけっこうだが、僕が死ななくなったからにすぎない。死ななくなったものが致命傷を負うことはありえない。
直観のない僕には、不死に至った者を切り刻むことがどのような意味とカルマを生じるものか、予感できるアテがない。「そう大げさにしないでくれよ」といつまでも僕は言いたくなるのだが、そのような気さくなふうの振る舞いが、平和な気性として歓ばれたとしても、もはやそのような友好のノウハウめいた遊戯に耽ることは息抜きの妥当性よりも深淵に生じるリスクのほうが大きいと、僕自身も認めなくてはならないところなのだ。今このときに限っては、「別にたいしたことしてないよ」と言いたがる口癖のようなものを引き取らせよう。<<僕はこの三年間、とんでもないことをしてきた>>。
まったく予想もしていなかったリアクションが次々に湧いてきて、僕はしきりに驚かされている。どれだけ及び腰を覚えたとしても、今はもう、本当に起こっていることを隠すべきではないのだろう。僕のことを「様」の敬称をもって呼ぶ者が現れた。この敬称を用いたとたん、その当人の生活環境は急に向上した――あこがれていた仕事が次々に舞い込んできた――と報告を受けており、またその報告は複数例あるので、統合すると有為に「そういうことが起こる」とみなしたくなる符合を帯びていた。また、僕が持ち得ない「直観」にもとづいて、ある女性がナターシャという冗談めかした仮名で、僕の活動にむけて資金を供与してくださっている事実がすでにある。僕はパーティ企画等を継続しているが、それに掛かる僕個人の費用はその通称「ナターシャ基金」から供されているのだ。この「ナターシャさん」は、基金を振り込んだ直後から、これまでは歓迎されてはいなかった職場の同僚たちに、次々に「髪がきれい」と称賛されたそう。いかにも冗談みたいな話で、「功徳だ、功徳」と笑い話のうちに丸め込んでおきたいが、今ここにおいては捏造のないレポートとして報告しておくよりない。当人が「信じられない」と驚いて報告してきているものを、僕が小馬鹿にしてよい道理はないからには。
そういったことが、本当にあるのかないのか、それはわからない。まして僕には直観がないのだから。ただ僕は合理主義者として、そのようなことがもし生じ、もし有為に利用できるのならば、いくらでも「利用しろ」という方策を採る。おおげさな敬称をつけて呼んだところで何の損害があるわけでもなし、また基金などといったものの結果が気に入らなければそのときは返金を要求すれば済むことだ。また逆に考えたとき、たとえば強固な無神論者だからといって、わざわざ町中の祠のすべてで地蔵に蹴りを入れてこようと試みる不毛な愚者はいるだろうか。仮に仏罰が下らなかったとしても何の得があるわけでもないし、逆にもし本当に仏罰と言いたくなるようなことが偶然にも降りかかるのだとしたら、それはもう取り返しのつかないことだ。そんな悪ふざけと暇つぶしに興じていられるほど、われわれは堅牢な豊かさを生きられてはいない。真剣に、本当の利益を得ていくことに勇敢な構えを持つべきだ。このとき、堂々たる厚かましさは吉相と盛運につながるものだと、僕は年長者としての経験に立って言うことができる。<<実は、利用できるものは世の中にもっとたくさんあり、キックしてはならないものも、実は世の中にもっとたくさんあるのではないか?>>
ここに至ってようやく、大きなやりにくさと困難を孕んだ現在の状況について、構造を説き明かしながら話すことができる。われわれは自己の社会生活を愛し、また世間の全体と融和した平穏な暮らしを営んでいくことを尊んでいる。しかし現在はむしろその社会や世間にこそ宗教じみて硬直した主義主張が猖獗を極めているところがある。われわれは今、落ち着いて豊かな、打ち解けた人間関係の生活を、社会や世間の中で営んでいくことに、手ごわいかぎりの困難さを予感している。他人事であるはずの著名人の不倫や未成年の喫煙に、けしからんという嘆きが言われるに留まらず、苛烈というほどの感情的な攻撃が為され、それが匿名の人々を野合させて焼き討ちに似るまで至るからひとしきりの様相は「炎上」と言われる、そのことが当然となった世情がある。この中で人々は寛容とはまるで言えない。人々は勝ち組や負け組に分類され、アイドル活動は選挙という集金力競争で序列づけられ、本来は愉快なはずの漫才師もコンクールに押し出され、漫才とはもともと縁がなかったはずのヒリヒリした「勝者」「敗者」の地位が押しつけられ、それぞれに美酒を掲げたり苦杯を飲まされたりする。もともと世の中の男どもには美男子と不器量があっただろうが、それぞれはイケメンやブサメンと呼ばれるようになった。これらのすべてはつまり、人々が何もかもを優劣に決着させ、優劣差別に生じる<<溶岩のような感情>>をしか嗜まなくなったということだ。差別的だから「イケメン」「ブサメン」という言い方を嗜みたいだけであって、文化的に気の利いた言い方が発明されたわけではまったくない。
すでにタブロイド紙に暴露済みである著名人の不品行へ、後追いの個人的なオンライン弾劾をなるべく狂人的に書き足していくことが、まるで立身の正義たりえるというふうの、いかにもハリボテの大義名分を振りかざし、誑(たぶら)かされてためらいのない火矢を放てば「炎上」させることが起こる、その根本的な動機は、ひたすらこの「溶岩のような感情」をしか元にしていない。他人が凋落して優劣差別の座標を落下していくありさまに、溶岩のような感情が満たされるのを嗜みたいだけだ。一方では、オリンピック等の晴れ舞台で輝かしい覇業を為す者があると、それに対しても真には称賛が起こるというよりはやはり「溶岩のような感情」が起こって一部の人がファナティクに取り憑かれ、ジャンルは早々にスポーツのカテゴリを逸脱する。すべては、比較し優劣を決着させ、優劣差別の座標に落とし込んで眺め、そこに起こる溶岩のような感情を嗜ませる、ということにしか機能していない。現代のすべてのブームと造語が、優劣差別の溶岩から生じていることに注目せよ。かつて、古い時代を覇した偉大なスプリンターとして、われわれはカール・ルイスの名を知っているが、あのときカール・ルイスに向けられた眼差しの中に、彼を「勝ち組」として眺めるような目つきは世界中に一双もなかったはずだ。人は「溶岩のような感情」を仕込まれないかぎり、現代人のような目つき・物の見方にはならない。かつて、優れた者の輝きを見ること、および劣った者の奮闘を見ることには、どちらも同じ控えられた眼差しが向けられるものであって、現在のように優劣差別に決着させ溶岩のような感情を嗜むために「見物」されるものでは決してなかった。
差別溶岩の噴出。それも、焼け焦げに追われるほど、次第に節操のなくなってくる……何はともあれ、現代人は生理的に、そういう溶岩の噴出を起こす体質に、すでに調教されたと認めるしかない。いったん成り立ってしまった「体質」を変更することは事実上困難だろう。実際に溶岩のような感情が起こるものを、「平気なふり」をして我慢したところで、本質の変化がありえようか。本質がより潜伏して取り扱いにくくなるだけだ。炎症が沈殿して表面上に見えなくなった者を健康・健全な者と扱うことはできない。
僕がこれまでに直面してきた「不穏」のケースは、ほとんどの場合が次のようだった。つまり、僕はほとんど相手が誰であれ、僕自身の腹は決まっているわけだから、僕としては「こころ」つまり「永遠事象」を<<分け与えよう>>とする。胴体がひととおり貫通して、胴体の最下部から頭上へ何かが放たれていくふうの身を得てからは、じっさい、見ず知らずの誰かにさえ、見過ごされない直覚をズバリと与えることが、少なからずできるようになったと思う。お茶を濁さずに言えば、特に若い女性などにおいては、見ず知らずどころか街路ですれちがうだけのときにさえ、とっさに驚きと共に「縋(すが)る」という眼差しを向けられることがある。僕には直観の能力がないので、すれちがう当の女性が、何を見てそのような眼差しになっているのかは想像もできないのだけれども……
しかし現代においては、人々の基本的な気質は、多く「差別溶岩」に支配されているといってよい。優劣の差別に溶岩のような感情が起こるからこそ、このところはやたら差別と平等が議論の俎上に載せられるのだ。本質的な動機はすべて差別溶岩という「体質」に由来しているから、優劣差別にかかわる議論はその他の議論とは苛烈さと執拗さの温度においてケタが違う。たとえば十八歳に選挙権を与えるかどうかということの議論は、オフィスで女性にお茶を淹れさせるかどうかの議論よりはるかに温度が低かった。十八歳に選挙権を与えることは「まあいいんじゃない?」で済むところ、オフィスで女性にお茶を淹れさせることを議論すれば、ただちに人々のあいだには不倶戴天の千年戦争が引き起こされるだろう。
十歳の少年は、漠然と自分が「イケている」と空想する、溶岩のような感情を持っている。それでよく公園等で奇声を発しており、その声はえんえんと止むことがない。二十歳の青年は、漠然と自分が「イケている」と空想する溶岩のような感情を持っており、三十歳の中年男性は、漠然と自分が「イケている」と空想する溶岩のような感情を持っている。四十歳の初老男性は、漠然と自分が「イケている」と空想する溶岩のような感情を持っているだろう。女性においては、その溶岩はさらに増量されているかもしれない。
僕は「こころ」を向けようとする。永遠事象を<<分け与えよう>>とする。そのことは、単純な技術としても胴体に作用するものだし、多くの人は、直観の能力によって何か見過ごせないものをやはり見るようだ。何も知らない者、また何も考えたことがない者さえ、永遠事象が分け与えられたとき、そこに何か「かけがえのないよろこび」を見つけて、その目を輝かせる。古い話をすることを許されたい。古い時代、僕が通例の軽薄さで見ず知らずの女性に声を掛けたところ、逆に礼を言われるということが少なからずあった。そのたびに僕は驚いたのだが、総計して考えると、実は少なくない割合で、逆に礼を言われるということは起こっていたのだ。
「あなたが悪い人でないことはわかるわ。それよりあの、どうしてわたしなんかに、そんなにやさしくしてくださるの? その、うれしくって、信じられなくて、わたしびっくりしちゃって」
と、そのようなやりとりが、何の屈託もなく向こうから、いくらか頬を紅潮させて、問わずにはいられないという調子で切り出されてくることがあった。このことはもちろん、「ありえない」と断定されて差し支えないが、僕の側はあくまで過去の事実を開示するのに、欺瞞や捏造を持ち込んではいないことを誓っておきたい。このとき、逆に軽薄な僕のほうへ礼を言うような彼女は、差別溶岩の感情に焼かれてはいなかった。むろん、このときはまだそのような体質が社会的に仕込まれていないのだから、いかなる差別溶岩向けの話題も彼女には「???」としか受け取られなかっただろう。
現代においては、十歳の少年でさえ、その神経は溶岩のような感情に焼かれていて、自分はどこか「イケている」という空想を常にせずにはいられず、いつも自己主張に破裂しそうな状態で生きている。その少年に、たまたま僕が接触する機会があったとする。僕はいつもどおり、「こころ」、永遠事象を少年に分け与えようとするだろう。分け与えられた永遠事象は作用する。しかし少年は、自分はイケているという溶岩のような感情に焼かれているのだから、「どうして僕なんかに、こんなにやさしくしてくれるの?」とは感じない。目の前のことを処理しようがない少年は、どのように振る舞うにせよ、その挙動は破裂的にならざるをえず、けっきょくは自己の溶岩を、飛沫なりとも僕のほうへひっかける振る舞いに至らざるをえない。少年はマンガで覚えた得意のフレーズを、脈絡なく大声で僕に向けて言うかもしれない。それは少年なりの最大の、僕に向けての接待なのかもしれない。けれどもその大声の露出をもって、僕はその少年を「子供らしい」とは感じない。どうしようもないことだが、僕の分け与えた永遠事象は溶岩の飛沫を浴びせられて破却された。僕のほうはかまわない。僕はこの三年間で、そうしたちぐはぐが起こることにはすっかり慣れたのだ。けれども僕が教わり、聞き従うところの直観においては、その後の少年の内にはただならぬ「おびえ」「恐怖」が根づくということだった。
妙齢の女性の場合はどうだろうか。女性の場合、もとより男女平等へ溶岩のような感情が生じていることは当然として、そこに加えて、フェミニズム――と信じられているもの――が履行されるかどうかについても、やはり溶岩のような感情が起こるだろう。現代ふうのレディ・ファーストや、気の利いたサプライズ、あるいは金銭面の一方的負担や、自慢に振り回せる程度のプレゼント等、期待した以上のフェミニズムが履行されれば、溶岩から強いgladnessが沸騰するだろうし、逆に低級のフェミニズムも履行されなかったような場合は、表沙汰にはしないにしても、裏帳簿には消えない憤怒が溶岩のぶんだけ計上されよう。そのような大前提は、現代においては当然の「節度」の範疇に捉えられており、またこれまで僕も、積極的にこの「節度」を履行することに献身的たらんことを努めてきたのでもある。僕は、僕自身には溶岩のような感情はなかったものだから、そうした節度様式を履行することは、正直趣味としてきらいでもなかった。しかしこの際は、精密に観察したものとして、同等の行為が同性である女性から為されても同種のgladnessが得られはしないということ、および単なるよろこびではなく不履行の場合には「許せない」という憤怒が生じることから、実態は溶岩感情から由来しているものだということを指摘しないわけにはいかない。現在、男性によるレディへの粗相は磔殺に値すると確信する人は大多数の派閥として存在するが、女性によるジェントルマンへの粗相が咎にあたると感じる人は一人もいない。男性など重たい荷物を運ばせていればいいのだ。
妙齢の女性に向けても、僕は「こころ」、永遠事象を分け与えようとする。妙齢の女性のほうが、永遠事象の作用については鋭敏だ。よく言われるのが、「急に景色がはっきり見えてきて、急に風の臭いがしてきて、急に季節が感じられてきて、急にお腹がすいてきた、急に今日が楽しくなってきて、急に自分が生きていることが楽しくなってきた、帰りたくないというか、どうして帰らなきゃいけないのか意味がわからないわ」というようなこと。しかし、溶岩のような感情がその神経を焼いている以上、「どうしてわたしなんかに、そんなにやさしくしてくださるの?」という捉え方などは発想のはるか枠外だ。たとえ彼女がそのとき得た際やかな景色や神韻のただよう香り、詩文に届く季節の現成や青いよろこびが弾ける健康の空腹が、分け与えられた永遠事象によるものだったとしても、もし僕が一般程度のフェミニズムの履行を怠れば、彼女は僕の人格について「許してはならない男」としてのマイナス評価を帳簿に計上するだろう。何度も言うように、僕はそれでまったくかまわなかったのだ。この三年間で、そうしたちぐはぐが起こることにはすっかり慣れてきた。不当とも思わなかったし、理不尽だとも思わなかった。僕は実際へっちゃらだったし、当の女性がむしろ僕に向けて毒づくことさえ、「定番」とみなしてよいたぐいのよくあることだった。分け与えられた永遠事象から、いくらかでも呼吸と声の伸びやかさを恢復した彼女は、その伸びやかな声でもって、まず僕を糾弾するということをよくした。「だってさあ、あなたとかもさあ」。悪意に満ちているわけではない。いっとき取り戻された伸びやかな声で、溜め込んでいた感情のままのことが好き放題に発言される。いわゆるマウントを取るほうが居心地よく感じる(差別溶岩の特徴的表れでもある)彼女が、その快適さによって水を得た魚のように調子を上げている。それは「ごきげんだなあ」と見える光景でもあったので、僕は謝罪しながらもその光景を佳いものとして眺めていたのだ。だが直観に優れた人から言わせると、このような行為は「とんでもないことになる」のだという。実際その彼女は、何の前触れもなく、まるでギアが「蒼白」のフェーズに切り替わったかのように、急に生気を失うという現象に食われていった。まるで、急に足元に現れた冷たい引き波に、足首を洗われ始めたというふうだった。まったく心当たりのない、ひたすらの恐怖に満ちた<<谷底への落下>>のインスピレーションが見えてこようとするのを、決して見たくないと首を横に振り立てている。「どうしたの」「ううん、別に何でも」。タチが悪いほどのお調子者であるという彼女の個性の武器も、水位を増していく引き波にはやがて攫われていくしかなく、空元気も「わからなくなった」と短文をよこした後には、僕とはもう連絡がつかなくなった。
聞き流して忘れてしまってほしいようなことを、この段の末尾に書き記しておこう。まるで馬鹿げたマンガ本がこだわるところの設定に、それでも肩入れして読み進んでいく愉しみがありえることのように……<<あなたが望むようなこと、あなたが当然と感じ、あなたがしっくりと感じるようなことは、すべて間違っている、溶岩感情に焼け焦げるよう調教されたあなたの身に思われるようなことは>>。もし僕が、これまでのあなたが信じてきた――教え込まれてきた――とおりの、要望に沿い、十分以上のフェミニズムと、期待以上のレディーファーストを履行し、サービス精神を振る舞い、あなたをよろこばせ、また無尽のマウント上位を与え、サプライズやプレゼントをほどこし、一方的な金銭負担をしたら、あなたは芳醇なgladnessと、見るかぎりうつくしく冴え冴えとした景色の中で、思いがけずその足首を地面から生え出た<<黒い手>>に掴まれ、無限の谷底へ引きずり込まれていくだろう。なぜそんなことが? しかしウィリアムブレイクの詩文にこうある――"Down Down thro the immense with outcry fury & despair" (落ちる、落ちる、無限空間を、叫び声をあげ、怒り、絶望しながら)
天国や地獄といったものが、本当にあるのかどうかは誰にもわからない。けれども、人それぞれが、天国や地獄行きについての「インスピレーション」を持ちうるということは、神学や信仰を抜きにしても当然に認められることだ。無限の谷底に落ちていくという地獄行きのインスピレーションを直視した者が、どれほどの叫び声をあげるものか、あなたはその耳で聞いたことがあるだろうか。<<あなたの聞いたことがないほどの悲鳴>>。その鳴り止まず恐慌を吠え立てる力は、常人の神経では堪えきれず巻き込まれて落下してしまいかねないほどの力を持つのだ。
こころ、永遠事象、無時間の平原、存在、始まりの微小点、もしあなたがこのご時世にも例外的に、この目の前に示されている、何の担保も保証されていない僕のような者の書き話す文面を、肩入れして読み進み、そこに聲(こえ)を聴き取るようであった場合、それも「ここに書き話されている文体そのものに、確かに『こころ』や、また永遠事象といいたくなるものがあると認めざるをえないから!」という理由からその肩入れが確信づけられている場合には、僕もあなたに向けるのには例外的な話をしたいと思う。つまりは簡単なことで、僕自身もこれまでは知らなかったことだが、その者の姿や声、眼差しや言葉、触れた感触やもたらされるもの、見せられ語られることが、永遠事象たる「こころ」に及ぶということは、思われているより<<ずいぶんなもの>>なのだ。このずいぶんなものを知らず識らずキックしたり、このずいぶんなものを「いいね」と座布団がわりに尻に敷いて、その上で溶岩感情を満たすのによく思っているgladnessをむさぼったりすると、本当の性質が宿されているあなたの全身と全霊のうちに、<<あなたの聞いたことがないほどの悲鳴>>が棲みつき始める。
重要なことをお伝えしなくてはならない。もしあなたが、谷底に落下するインスピレーションを直視体験するに至ったならば、その落下の最中になって初めてわかることがある。落下しながら――<<実は、わたしは一人で生きていた! 何かを人のせいにするなどできるはずがなかった>> そのことに、落下中に気づくようでは手遅れであって、その段階ではもはや人為の救済は手が届かない。誰かと一緒に落下していくということはないのだと、落下が始まってから初めて気づく。あんなに上機嫌だったものが、何の因果で「孤独」の谷に落下していかねばならないのか? ――おゝおそらく彼は孤獨に狂ふだろう、聲はり上げて叫ぶだらう、絶望の叫喚を投げるだらう(百田宗治「若しもかの星に」)
孤独の谷底へ落ちていくというインスピレーションを、直接見るわけではないけれども、少なからず予感や、心当たりだけがある、という人も少なからずある。「自分はまったく、天国に行ける気がしない」。この場合、ただ落ちていく闇への恐怖から、目をそらすために天国へのおとぎ話に縋るようであっては、それはやむをえない次第ではあったとしても、取り組みとしては本質的ではない。天国や地獄が本当にあるのかはどうせ誰にもわかりようがないのだから、単純な話、「なぜ孤独の谷底に落ちていく陰性のインスピレーションだけに心当たりがあり、永遠の国へ招き入れてもらえる光性のインスピレーションには心当たりがないのか」ということだけを考えればよい。「なぜ永遠の国に招かれるのではなく、永遠の谷に落ちていくのか? 同じ永遠だというのに」。分析的な考え方が有効だ。――あなたはそれほど歌ってきただろうか? もし人の営みの履歴をデータ化して吸い上げるマシンがあったとして、あなたをそのマシンに掛けたとしたら、「ずいぶん歌ってきたね、このときは私心を離れて」という有為なデータ量が検出されるだろうか。あるいは多くの人は、自分の歌声をこっそり録音してみて、それをやはりこっそり自分で聴いてみたことがあるはずだ。そのとき、多くの場合は幻滅させられて、上手か拙劣かということより、歌を唄うのにふさわしくない声が出ているということを痛感させられ、思わずその私心を暴露するばかりの音声データを消去したくなったはずだ。多くの人が察しているように、「歌う声」と当人の帰属するインスピレーションには露骨なつながりがある。あるいは、歌うという以外に、「ずいぶん証してきたね」といいえるだけの、営みの履歴は検出されるだろうか。愛や勇気や学門は、証されるまでは為されたとはいえないものだ。
少なからずいるはずの、聡明な人に向けて、やや女性向けに偏らせた話ではあるけれども、ともすれば最重要かもしれないことを話しておきたい。僕が目撃してきた、孤独の谷底へ進みゆく者たちの決定的端緒、その最頻のありようがこのケースだという話。<<永遠事象にまみえたとき、決してそれを自己徳性の果報と思うなかれ>>。この一文が、もし憤怒と不満の溶岩なしに通用しうるものなら、僕はこれまでどれだけ多くの、見たくはなかった出来事が目の前に起こるのを見ずにやってこられただろう。
僕が、どこかであなたと邂逅したとする。そのときあなたが、何かの「こころ」に触れ、何かの「永遠事象」にまみえたとしたら、そのときはきっと、残念ながら、その作用の主体は僕であってあなたではない。あなたが獲得したものではなく、あなたに降り注いだものでもなく、僕があなたに<<分け与えた>>ものだ。もちろん僕だけに限らない。あなたが女だったなら、たいていの場合、あなたのまみえる永遠事象、それは<<目の前の男があなたに分け与えてくれたもの>>だ。
人間には、感受性という愚かな機能がある。女性の多くのあやまちは、この感受性という愚かな機能が盛(さか)るのを、取り違えて自負と自慢に振りかざしてしまうことから始まる。あまりにも多くの女性が、永遠事象にまみえたとき、それが目の前の男から分け与えられたものとはつゆ思わず、己の感受性が世界を掴んだと思い込んで、踊り出す。その跳ね回る動きは、操られた木人形のような憐れさに満ちているものだ。
僕はあまりにもこのケースを多く見すぎた。
彼女は少なからず努力もして来、少なからぬ自負心を内に秘めている女だった。彼女は自分の「センス」について、どこか人より優れたところがあると感じていたし、自分のセンスが及ぶところに、一方では及んでいない他人がいるのを見つけると、対比的に、自分にはやはり秀でている特別なセンスがあるのだなと確からしく思われた。微弱にも自分に「選ばれし者」の素質があると信じられることは、昂ぶり以上に強力な癒やしの効果を与えてくれた。このことを思うと、夜眠りやすい。癒されるからこそ、「自分はこの心地においてこそやっていける」と感じられる。そのように、自負は強化されていった。いつでも周囲を見ると、小さな思念ではあるが、「なんでみんなはこんなにバカなのだろう」と思うところがあった。その思念は日常化して、そのうち意識もしなくなり性格の中に溶け込んでいった。
その上で彼女は、未だ己の自負に比して、実際に得ているところが足りてはおらず、満たされていないように感じていた。だからこそ、これから向上心によって、己の自負にふさわしく万事を得るところまで、何かしらの取り組みを重ね、上昇していこうと考えていた。億劫がちな性格ではあるけれど、自分は基本的に生きることに前向きなほうだと思うし、後ろ向きになっている人に覚える共感はまったく見当たらなかった。少なくとも若いうちはその確信に紛れはなかった。
あるとき彼女は、何かの「こころ」にふれ、永遠事象にまみえた。景色が冴え冴えと見え、音が際やかに聞こえる。夕空を流れる雲は瑞相そのものだった。なんて当たり前の、なんてうつくしい世界なんだろう。彼女は、はしゃぎたくなるような、健康で幸福な空腹を覚えている。そのとき彼女は、まったく謙虚な気持ちになって、「わたし、これさえあれば、他のものは要らないんだよ」と言った。「どうしてみんな、おかしくなっちゃうの。これだけで十分なのに」と、澄み切ってまちがいない哀しみの気持ちを言った。「わたしは自分の好きなものを、追いかけて生きたいし、そうして生きられるということに、わたしはなぜか確信があるの」と彼女は言った。
誰でもがそうであるように、彼女は永遠事象の中で、消費のないよろこびに満ちた。毒や溶岩から離れ、優劣を必要としない自信に憩い、世界を肯定するのに理由を必要としなくなり、東西南北のすべてを愛した。「こんな簡単なことが、なぜみんなわからないんだろう。なぜみんな、こんな簡単なことができないんだろう」と、彼女は自在に踊りたがってさえいる。「いろんな人と、友達になれると思う。そうできるって、何か予感というか、確信がある」「わたし、いざとなったら、実はすごくがんばるんだよ? そういう底力には、わたしけっこう自信ある」。このあたりでもし僕が、「よっ、選ばれし者」と冗談でも褒め称えれば、彼女は照れ笑いしながら「うん、まあね」と、思いがけずその選民意識を引き受ける態度を選んだに違いない。そこにはジョークで済まない性質が潜む。
彼女はその後、実際に新しい友人たちを得ていったのでもあった。
けれども、そのとき彼女がまみえた永遠事象は、彼女自身が掴んだものではなく、僕が身をもって<<分け与えた>>ものだった。彼女はそれを、自分の「センス」で掴んだと信じていたので、こともなげに「こんな簡単なこと」と言った。けれどもそれは僕にとって、致命傷ギリギリの数年間を休みなく積み重ねた末に、マグレのように掴みとったものだった。その証拠に、僕のほうは毎朝にも永遠事象を掴みなおすことができるが、彼女のほうは自分の手でそれを掴みなおすことができない。
つまり、彼女はこのとき、永遠事象にまみえた中で、自己の有頂天に上り詰めるために、僕の肉と霊を土足で蹴って踏み上がっていったことになる。そこから見る景色は「こんな簡単なこと」と、確かに彼女を励ましたに違いない。そのとき、僕のほうはどうかというと、有頂天たる彼女の世界から眺めた僕の存在などは、「いても迷惑にはならない、どちらかというと愛すべき、認めている男性、オゴってくれるしレディ・ファーストも心得ている、今どき珍しい人。おすすめ」というていどの扱いだっただろう。
これが僕の遭遇した最頻のケースだ。繰り返すように、僕はそれでかまわないと思っていたし、実際それで「へっちゃら」だった。有頂天に上り詰めた彼女は、少なくとも力は得ただろうし、呼吸や食欲、睡眠や意欲も恢復したのだから(特に僕は、女性が眠れていないとか食べられていないとかを気にし、そのことを聞かされると弱いのだ)、僕としては確かにヤレヤレという感じはするにしても、「ごきげんだな」と笑えるていどのことで、それは憮然とするほどのことでもなかった。けれどもそれは、単に慣れてしまっただけで、客観的に見ればやはり通商の不均衡は「とんでもないこと」になっていると言わざるをえない。もし第三者としてここの彼女を眺めることがあったら、「よくそんな増長と侮辱が平気で出来るな」と呆れて見放すだろう。
彼女がその後、いくばくかの健康と活力と、友人を得ていったとして、僕はそのことを「よかったよかった」とよろこぶのみなのだが(若い女性が健康と友人を得ることほど僕にとって救われることはない)、直観に優れた人がこの一幕を見るならば、まったく別の見え方、それは「もう恐怖しかない」と青ざめるほどのありさまばかりが見えるようだ。
彼女がまみえた永遠事象は、僕が身をもって分け与えたものにすぎないので、彼女が僕の身から離れて二日もすれば、彼女の全身にはいつもどおり、溶岩のような感情と、キモチ、意、ばかりが盛(さか)ってくる。彼女自身の「センス」とやらで、永遠事象を掴みなおすということは決してありえない。むしろこのとき感受性はマイナス方向にばかりはたらく。感受性で探し物をするが、感受性の掴むものの中に永遠事象はないのだ。結果的に感受性はハズレばかり拾い集め、その拾いものに揺さぶられるまま、まるで懲罰のように感情が乱高下に晒される。その乱高下が拡大していく先、波頭がついに防波堤を越えると、予定通りというふうに破綻を迎える。
このとき破綻は、なぜか典型的な外形をもって現れる。乱高下する感情の苦しみは、僕との関係に妄想を持ち込むことだけでなぜか収束するので、彼女は僕との関係を妄想で認識する。しかし妄想は、必ず事実と矛盾するのでやがて否定されるが、この妄想が否定される前後で、僕に対する強い攻撃・非難・暴力の衝動が起こる。ここでもし、実効のある攻撃・非難・暴力の行為に実際に及んでしまうと、彼女はその後いずれ谷底へ落下するインスピレーションに直面し、またそうでなくても、なぜかはわからないが、生活上で大きな損失が起こる。その損失は一時的なものに留まらない。なぜそんなことになるのかは僕にもわからないが、事実を曲げずに報告するしかない。破綻は必ず「妄想と攻撃衝動と損失」がワンセットでやってくるのだ。
破綻が始まってしまった先のことを、あまり詳細に語る気にはならない。ただすべてのことは、<<僕が分け与えた永遠事象を、自前の関わるものと思い込むこと>>から始まっている。このことが、想像しているより巨きなトリガーになるのだということを、経験の総括から、はっきりとした警句として示しておきたい。
こういった警句を、実用的な記憶に刻んでおくためには、何かしらの題名をつけておくことが必要だ。ここでは、<<女がやらかす、永遠事象の強奪>>と呼ぶのがふさわしいだろう。もちろん男性もやらかすのだが、男性の中にもすでに男でないところを持っている人は少なくないので、やはりこれは「女がやらかす」とネーミングするほうがインパクトにおいても有効だ。「女がやらかす、永遠事象の強奪」、これが引き返せない巨きなトリガーになる。<<分け与えられた永遠事象を、パッとひったくり「わたしの!」と言い張った>>のだ。
多くの場合、女は、女だけで永遠事象を得ることが困難なようだ。女だけで織りなされる「物語」というものを聞くことはゼロに等しいほど少ない。また、宗教的修行やヨーガの道場が古来は女人を考慮に入れていなかったことから、もともとは女が自身で永遠事象に到達することはかなりのていど「不可能」だと考えられていたのかもしれない。
だからこそ女は、永遠事象を分け与えられたとき、まるで叶わぬ夢への突発的な衝動のように、その翡翠(ひすい)の舵を強奪して、手続きなく船長の地位を主張する。取り憑かれたように、正気も節度も失って、そのような兇行に飛び出しがちだ。もし、船旅に憧れていた少年が、目の前に大海と翡翠の舵を見せられたとき、思わず翡翠の舵にしがみついてしまい、いっときでも船長の風情を主張し始めたということがあったなら、それは夢に焦がれる少年の本能がそうさせたものとして、微笑みと共に青眼で見守られるところだ。けれども大人の女がそれをやりだしたときには、目の色を失った女の狂気の奔騰でしかない。
女がやらかす、永遠事象の強奪。パッとひったくり、「わたしの!」と言い出す。もちろん、社会情勢は男女平等を実現する一途をたどっており、平等とはいえフェミニズムは履行されねばならないから、実態としては女性の扱いが上位でなければ、女性の納得する男女平等は成就されないだろう。そのことは、まったくそれでかまわない。女性専用車両とケチなことを言わず、女性は高級車両、男性はオンボロ車両という差別をつけてくれて、僕にまったく異存はないのだ。フェミニズムも何も、ふだんから言うように、僕は女性から見てゲジゲジ虫の階級に扱われてかまわない。けれどもどうか、永遠事象にまみえたときは、その徳を女がガメることのないように。もちろん自前で永遠事象に到達できれば、女だろうが男だろうが関係ないのだが、それは女で甲子園を作ることのようにむつかしいことだ。それが不可能とまでは、僕は思わないのだけれども(永遠事象を分け与えるという主体をあなた(女性)の側が担おうとすることに何らの制限が掛かっているわけではない)。
あなたと彼が、何かの徳性か幸運に恵まれて、あなたと彼とで、あの世の風を生身で信じるような、幽玄の永遠事象にまみえることがあるかもしれない。男女平等の観念からいえば、そのとき称されるべき徳性は、それぞれが担ったものとして、精密に二分割され、平等に評価分配されねばならないだろう。男女平等とはそういうことだ。けれども本当にそうなのだろうか。男の背中が歩んできたことと、女の背中がたたずんできたことは、肌に染みた砂塵に至るまで平等だろうか。改めて永遠事象の前で、あなたはおびえることなしにそれを主張しうるか。
いくつもの、尻に敷かれたり揶揄されたりの、笑い話が交わされるよろこばしい日常の中で、それでも永遠事象にまみえたときのみは、その徳については女は引き下がり、男に取らせることを、原則として僕は勧めておきたい。もしその原則に合意できないという場合には、私見を申し上げる、そうまでして男と関係を持つ理由はまったくない。できもしない分配で流血せずとも、すべて一人で獲得すればそもそも分配を考える必要がないのだから。
***
この三年間、僕はとんでもないことをしてきたわけだった。そしてこの、僕はへっちゃらかもしれないけれど、いつのまにか周りのほうがへっちゃらでなくなってしまったという、ユーモラスな状況の中で、僕はなお、このようにしてゆけばよいのじゃないかという向きの、新しいことを言い立てたい。どこからともなく得られてくる「おびえ」と「恐怖」こそ、これから先に進もうとするわれわれにとって最大のヒントであり、最も雄大な道標になるだろうということ。僕は永遠のことをやりつづける。「こころ」、その永遠事象のことをやりつづけ、それを分け与えようとする試みのことをやりつづけるわけだが……
直接の友人に向けては話したこともある。僕は、この二十年間を、どうしたらかわいい女の子に相手してもらえるかという、実に卑俗なテーマに駆り立てられて生きてきた。そしてこのテーマについての取り組みが、昨年二〇一七年の十二月初頭、まったく予想していなかったことに、突如「完了」したのだ。「どうしたらかわいい女の子に相手してもらえるか」というテーマの結論は、「永遠事象を分け与えること、およびそのための、胴体の最下部から頭上へ貫通する身の実際的獲得」だった。むろん、この結論を得た上で、取り組みは次の段階に移るわけだけれども……それにしても、このテーマが、結論に到達して区切りをもたらすものだとは僕は思っていなかった。さらなる先にゆかねばならないということに違いない。直接の友人には話したこともあるように、「完了」という感触は突如のことだったが確かにあって、それは今になってわかることだが、僕の身に背負わされていた一つのカルマの償却がついに済んだということのようだった。馬鹿みたいな話だが、僕はちゃんと女性にモテるようにならねばならないというカルマを背負って生きてきたのだ。もちろん人のカルマというのはそんな断片的なものだけですべてが済むわけではないけれども、それにしても一つのテーマについてその償却が「済む」ということが実際にあるということは、感触だけでなく知見としても新しかった。果てしないことのように思えることでも、馬鹿げたほどに取り組んでゆけばその「満了」の日がいつかはやってくるようだ。その上であくまで、これまでと何も変わらないし、これからも何も変わらないということを申し上げておく。今、パーティの前日からこんな量の文章を徹夜で書いて「何やってんだ」といつもどおりの自嘲をしているところだ。ゆっくりしようと思っていたのに。これから先はますますむつかしくなるのかということに、心拍数が上がる……というほど、僕は頑張り屋さんの気質ではない。いつも厚かましい利益を考えている。頑張るつもりはないが、それ以上に負けるつもりはない。
これからの進む先をガイドしうる、雄大な道標として、新しいことを言い立てたい。かわいい女の子に相手してもらうという、僕のテーマ、その形のカルマ償却は済んだのだから、すでに現時点で、僕があなたを口説くということ、<<僕にあなたを口説かせるということは有益に成立しない>>。この成立していないものに基づいて、僕があなたを熱心に口説いたとすれば、その出来や成否は別にして、ただあなたの深淵に「おびえ」と「恐怖」をもたらすことにしかならない。
テーマは遷移して、僕があなたをどう口説けばいいかではなく、あなたが僕に「どうすればおびえずに済むようになるか?」ということに切り替わるのだ。この荒唐無稽とも思えるテーマに、本腰を入れた理知で取り組もうとするとき、テーマの性質それ自体が、あなたにさまざまな発想の大転換を与えるだろう。まさかのまさか、というような発想が息を吹き返してくる。その大転換の中には、現在の風潮で言われているところの男女差別や、男女平等、フェミニズムやミソジニー、ミサンドリーといったようなことの拗(こじ)れを、根こそぎ取っ払う手続きも含まれている。現代に特徴的な「溶岩のような感情」も、それ自体を敵視するだけでは解決しない。
僕は永遠事象をやる。永遠事象をやると決めて、報われなくてもかまわない。なぜなら、本当に永遠事象に殉ずることができれば、僕は死ななくなるからだ。気楽でいい。
次はあなたの番。僕が焦がれた、かわいい女の子の番。かわいい女の子に向けて、男が永遠事象を<<分け与える>>という形は、古代から語り継がれてきた神話の形式に重ねても、実に整合がついてよい感じがする。壁画に描き遺してもよいような!
永遠事象を分け与えてくれる「男」に向けて、「女」はどう振る舞えばいいのだろう。どう振る舞うことで、女は永遠事象にまつわって「おびえ」「恐怖」の側へ落下せずに済むか。強奪は論外として……「男は女に、不死性の姿で永遠事象を分け与える」と書き示しうるのに対し、「女は男に、 」ということの、空欄が未だ満たされていない。
僕が死なないと言い張るなら、僕の二十四本のあばら骨だって死なないだろう。三つに分ければ七十二本だ。あなたの存在は本当に母親から生まれてきたのだろうか? どうすればあなたはおびえずに済むようになるか。男なんてうじゃうじゃいる。その中の一人に僕もいるのだ。
[どうすればあなたはおびえずに済むようになるか/了]