No.380 Hey, yo, 現代の呪いを知っているかい?(上)
ラップ音楽を、僕は聴かないが、なかなかいいものだと思う。ラップは「呪(のろ)い」に抵抗する有効な方法だ。
ラップというと、エミネムなどが、非常に強烈な眼差しで「Kill you」と言っていたりするが、これは言葉であって呪詛ではない。
ラップは言葉の力を引き出そうとするものであって、呪詛を重ねようとするものではない。
われわれが現代を健全に生きるのには、いいかげん、「呪い」というものを知っておくべきだろう。
呪いというものがどういうものであり、また、どういう作用をもたらすものであるか。
ちなみに、「のろい」も「まじない」も、同じ「呪い」と書く。もともと同じもので、その作用にマイナスを期待するかプラスを期待するかでしかない。
そして、「のろい」であれ「まじない」であれ、基本的に結果を期待すると、ロクなことにならない。
よって「のろい」にせよ「まじない」にせよ、そういったものへのわれわれの基本的な態度は、
「くっせ、近寄んな、Get The Fuck Out !」
が正しい。
大前提として、呪いで人を殺すというようなことは不可能だ。そりゃ当たり前だ。もしそんなことが可能なら、ユダヤ人を迫害した時点でヒトラーは呪殺されていただろう。現在でも「アベ政治を許さない」というタイプの勢力は一定数あるのだから、アベ総理も呪殺されるだろうし、過激なイスラム勢力によって、アメリカ大統領は歴代呪殺されていただろう。サッカーワールドカップなどが開催されたら、有力選手は次々に敵国の呪術師によって呪殺されねばならない。もしそんなことが可能であれば、CIAがガンバって諜報員を育成して暗殺工作なんかしなくていいのだ。ポル・ポトは無辜の市民を三百万人、粛清の名目で虐殺したが、その後六十九歳までふつうに生きている。だから残念ながら「呪殺」だの「生霊」などということは物理的には無いのだ。もし呪殺などということが可能であれば、世間の旦那さんの三分の一ぐらいは、奥さんによって生命保険をかけられ呪殺されているのではないだろうか。何しろ「呪い殺した」というようなことがもしあったとしても、それは法的には「不能犯」で立件の対象にはならないのだから。
「呪い」などというものは、そのような、いかがわしいものにすぎない。にもかかわらず、今ここでは「呪い」のことを話そうとしている。
(われわれが知っておくべき)「呪い」とは何なのか?
呪いというのはけっきょく、「思い込みの力」でしかないのだが、その「思い込み」というものの原理が、思われているよりも根深くて禍々しいということなのだ。
「呪い」というものを、実際にどのように発生させるか。つまりその「呪法」についてだが、これはイージーには「あっかんべー」をサンプルに採るとわかりやすい。「あっかんべー」は最も簡単な呪法のひとつだ。どのような原理によって、「あっかんべー」は「呪い」になるのだろうか。
「呪法」といって、いわゆる古典的な「犬神」みたいなものは、ぶっ飛び過ぎていてご遠慮願いたいが、今われわれが知っておくべき呪法うんぬんはそういうことについてではない。もっと単純で、身近な「原理」のことを、われわれは知っておかねばならない。
呪法にはたいてい、「僻み」と「血」、「名前」と「何かしらの液体」を用いる。そこに「呪(じゅ)」を用いて出来上がりだ。その他のマニアックなものは馬鹿馬鹿しいので割愛する。
「呪」とは何か。「呪」というのは何かしらの「語」なのだが、このことが表記しづらくて不便だ。われわれは誰しも、言語を持って生きているのだが、言語が正しく「言葉」として用いられないとき、その言語は割と自動的に「呪」になるのだ。それこそ「あっかんべー」という語は、語でありながら「言葉」として用いられていない。だから相手を呪うための呪文だということになる。言語を言葉にせず使用するときが「呪」だと捉えればさしあたりわかりやすくはなるのだが、そもそも、何をもって語が「言葉」になるのか自体が説明しづらいので、けっきょくうまい説明はない。
「呪い」というのは、けっきょく「思い込み」が作用することを言うのだが、呪法というのはつまり、「人が思い込みを持ちやすくなる状態を形成する方法」ということだ。ただし、その「方法」というのが、思いがけず深いレベルまであるのだということになる。もちろんわれわれがそんな奥の義まで知る必要はない。われわれがここで知るべきは、「思い込み」を恣意的に形成させる「術」があるということだ。その、「思い込みを持ちやすくなる状態」を作った上で、思い込みとなる「呪」をブチ込むということ。
この基本的な知識の上で、「あっかんべー」を見ると、「あっかんべー」という呪いは次のように呪法と作用を形成していることがわかる。
1.強い僻みの感情を持ち、相手の不幸を念じ、確信する。
2.目尻を引っ張り、「赤目」、つまり「血」が透けて見える粘膜部分を露出する。なるべく目を大きく剥くほうが赤目は露出しやすい。
3.舌を大きく突き出す。これも、「血」が透けて見える粘膜部分を見せつけることで作用をもたらしている。
4.「あっかんべーだ」という、言葉になっていない語を、強い僻みの感情で発声する。もともと「あっかんべー」は、「赤目」が訛って「あっかんべー」になったらしいが、「赤目」のままでは言葉になってしまうので「あっかんべー」に変形する。
5.あっかん「ベー」とアクセントを強く置いて発声し、このとき唾液(液体)が散るぐらいがよい。
5.この行為は、「あっかんべー」という「名前」のものである。この「名前」によって、そういう「存在」があるのだと思い込む。思い込みにより、「あっかんべー」を「された」と思い込むことになる。
6.多く、「○○ちゃんなんか、あっかんべーだ」という不明の文脈で用いられる。これにより、○○ちゃんは、自分の存在が「あっかんべー」なのだ、という思い込みを持たされることになる。
7.「あっかんべーだ」を、繰り返すほうが呪いは強くなる(詛)。また集団のほうが呪いは強くなる。
これが呪いなのだ。もちろんこんなもの、精神と鋭気と経験により肉に霊力がバチバチに満ちている大人には一切効かない。本当にまったく効かない。ただ、幼い子供や、肉の弱い大人にはそれなりに効果がある。もちろん「あっかんべー」そのものに何の作用があるわけでもない。ただ「あっかんべーだ」という「思い込み」を持つようになり、その思い込みが「おぞましさ」をもって当人を苦しめるように作用するだけだ。
注目すべきは次のことだ。このことは、明らかに強調表示されておく必要がある。重要なことは、<<「僻みの感情」と「血の露出」を向けられることによって、なぜか人は「思い込み」を持ちやすくなる>>ということだ。この知識を持つことで、われわれは「呪い」のことおよび、その他にもこの世界のさまざまなことに、鋭く有効な知見を得ることになる。
なぜ、「僻みの感情」と「血の露出」を向けることで、人は「思い込み」を持ちやすくなるのだろう? とても不思議で不可解なことだが、この奥の理由にまで立ち入る必要はない。このことには、そもそもの「思い込み」がどのように発生しているのかという、思いかげず根深い原理がある。この原理は禍々しいもので――つまりカルマの次元に及ぶもので――われわれが分け入って知る必要はないところだ。呪法は単に、人に「カルマを強く思い出させる方法」でしかない。
必要な知識はただ一点、「思い込みを持ちやすくなる方法」があるということ。そしてその方法は、「僻みの感情」と「血の露出」だということ。割と簡単だし、割とクセになることでもあるのだ。
「僻み・血・液体・語」をセットで出されると、それだけで思い込み吸収性ばっちりの、「呪い定食」ができあがるということだ。こんな定食セットの方法があるなんて、一般には知られようがない。
もちろんどのような方法を用いたとしても、精神の接続およぴ肉に宿る霊がバチバチに強い人には一切効かない。効かないというか、どこまでいっても「思い込み」を持つことがない。思い込みとは異なる「掴んでいるもの」が大きく、またその掴む力も強くて確かだという人は、その「掴んでいるもの」があるおかげで、「思い込み」を持たされずに済むのだ。だがほとんどの人は、毎晩それだけの強さで何かを掴んでいるというわけではないだろう。
寝る前にベッドでスマートホンから無数のツイートの垂れ流しを読み取っていくとき、何かを強く掴んでいる状態でいるわけではなく、それでいてスクロール先からどのような言葉が――あるいは「呪い」が――飛び込んでくるのかはまったく予測できない。そういう暮らしをわれわれはしている。
われわれは、「呪い」というものを、超自然的に捉える必要はなくて、あくまで人間の思念メカニズムが「思い込み」を持ちうるということに注目し、その「思い込み」のメカニズムにアプローチする思いがけない原理と方法があるのだと捉えればよい。思い込みの第一は、人の「名前」であり、その思い込みが形成される第一の原理と方法はやはり「血」だ。子供は直近の血族である両親から繰り返しその名前で呼ばれることで、自分はその名前の「存在」なのだと思い込むことになる。「山田太郎」さんは、自分のことを「山田太郎」という「存在」なのだと思っているだろう。けれども地球上の生命において、「名前」を「存在」に結びつけているのはあくまでわれわれ人間とそのペットだけだ。冷静に考えれば、存在と名前はイコールではなく、それは思い込みなのだと言わざるをえない。実際、多くの「のろい」や「まじない」においても、相手の本名を知ることが必要とされることは多いし、両親以外はみだりに人の本名を呼ぶべきではないという、「諱(いみな)」の風習もかつてあちこちの地方にあった。
くれぐれも、「呪い」そのものに力があるのではないし、同様に、「思い込み」そのものに力があるわけではない。それに力があると錯覚するのはただの妄想でしかない。仮に自分が思い込みによって、「わたしは思い通りに雨を降らせることができる」と信じたとしても、その思い込みから実際の天候を操作できることはありえない。せいぜい、動物的な直観で、「雨が降るだろう」と感じているところに、「これから雨を降らせよう」という思い込みをかぶせることで、自分にはそういう力があるという妄想を持ったというのが関の山だ。世界中のあちこちに渇水問題が生じうるということは、雨乞いの呪法によって雨を降らせたりはできないということだ。
「雨を降らせることができる」と思い込んでいるようなタイプは、呪力があるのではなくて、ヘンなことに興味を持ちすぎたせいで、「わたしは雨を降らせることができる」という思い込みの呪いに掛かってしまったということだ。その意味で、「呪い」というのは実際にあるのだという話を今している。呪術のつもりが、自分が呪いに掛かっているだけという、まるで落語のような話だが、そういうことは実際にあるのだ。
「呪い」はあくまで、人から人へ、「思い込み」のメカニズムに作用することで、思念やメンタルや自律神経を失調させるという方向ではたらく。ただ思いがけないことに、「呪いをかける」ということに、やけにすぐれた体質を持っている人がいるし、「呪いがかかる」ということに、やけに素直な体質の人もいるということなのだ。体質といってもよいし、「身体が血質化している」といってもよい。
思い込みはなぜか「僻み」と「血」によって生成されるという性質がある。だから、この「僻み」の性質が猛烈に強く、また「血」ということにブーストが掛かっているような体質の人は、自動的に「呪い」の授受にすぐれた人になるのだ。さらには、そういう体質を、意図的に作り上げることも可能だし、またそうした「僻み」と「血」のすさまじさを、他のものから継承することも可能だということになる。強い「僻み」、および「盛(さか)る血」を、意図的に己の身に生じさせてもいいし、あるいは他のものに生じた、そうした「僻み」「盛(さか)る血」を、エキス化などして摂取してもよい。
われわれが明瞭に知るべき区別はここだ。「呪い」というのはオカルトだが、「僻み」と「血」の作用はどうやらオカルトではないということだ。どのような作用機序かは不明だが、たとえば「すっぽんの生き血」や「スズメバチのエキス」や「まむしドリンク」等を飲むことは、単なる医薬的成分とは異なる作用が実際にあるらしいということ。長距離ランなどを趣味にする人は、レースに向けてスズメバチドリンクを飲むことはすでによく知られた「当たり前」になりつつあるのではないだろうか。スズメバチドリンクはドーピングのレギュレーションには引っかからないので、それは「クスリ」ではなくなるが、それにしても何かしらの作用があるから、長距離ランナーはそれを飲むのだろう。
われわれの胃壁や腸壁が科学的成分を吸収して、何かしらの薬効を為すという、すでによく知られた薬理的な現象以外に、何か作用する「成分」か、もしくは作用する「現象」が、「僻みと血」の摂取においてはあるのかもしれないということだ。このことを呪術の古典では「蠱毒」と捉えている。「あっかんべー」を「Akkanbee」として入力し、ロボットに発声と挙動をさせても、「ははは」というていどで呪いが発生しないのは、ロボットには僻みの感情もなければ血も流れておらず、そのロボットには固有の名前の思い込みもないからだ。ロボットには蠱毒がないので、ロボットに呪いはやれないということになる。ロボットの発する語は、あくまで擬似的な語の合成音声が出力されるだけで、それが「言葉」になったり「呪」になったりはしない。
簡単化するために、「僻みと血」がイコール「蠱毒」だと捉えていい。そしてこの蠱毒に犯された者が「語」を発すると、語は「言葉」にならず「呪」になるのだ。「言葉」は本来、清潔感をもって人の理知に作用し、コミュニケーションや物語を形成するけれども、「呪」はその性質を堕落させて、湿った感じで人の思い込みに作用する、という性質がある。
われわれは今、インターネットへの通信端末を持ち、ウェブ上でさまざまに発される「語」を聴き取ることができるが、それらの語のほとんどは、「清潔感をもって人の理知に作用する語の群」だとは到底言えない。ほとんどが「湿った感じで人の思い込みに作用する語の群」だと言わざるをえない。よって、インターネット上にあるほとんどの語は「言葉」ではなく「呪」だ。
われわれはまた、さまざまな造語が生まれる中で、それを新しい常識として獲得していくという暮らしを、この十数年間つづけている。ずっと昔、「コギャル」「ブルセラ」が言われ始めたころから、「イケてる」「ウザい」「イタい」「キモい」「ぶっちゃけ」「勝ち組」「負け組」「DQN」「セフレ」「ストーカー」「リア充」「キモオタ」「草食系」「オワコン」「うぇーい」「陽キャ」「陰キャ」「草」「ワンチャン」「ハラスメント」「ミソジニー」等々、言い出せばキリがないほど造語が多数排出される中を生きている。そして、新しい造語が生み出され、それが人口に膾炙していくということは、常にわれわれの世界にまた新しく一つの「呪」が生み出されたということなのだ。いわゆる「流行語」のたぐいもそうで、誰でも振り返って確かめてみればわかるが、たいてい「流行語」を生み出した当人は、近年のところ幸福と充実から遠ざかっている。まるで「何かに呪われたみたい」にだ。
流行語にせよ次々に生み出される造語にせよ、それらは「清潔感をもって人の理知に作用して物語を為していく言葉」だとは到底言えない。だから「湿った感じで人の思い込みに作用する呪」だと言わざるをえない。このことは今のところ、まったく歯止めが利かず進んでいくしかない見込みなので(二〇一八年六月現在)、ここで「呪い」のことについて開示して説明しておく必要があると判断した。この「呪い」が進行するよう、背後に意図的な誰かの工作があるのかどうかについてはまったくわからない。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。
「呪い」というのは、心身の失調にはたらくという性質もあるが、よりわかりやすくは、何かしらの「呪縛」として、「身動きが取れなくなる」「自由が奪われる」ようにはたらくことが多いと知っておくと、判断がしやすくなるだろう。呪縛というのは、二つの相反する「呪」(思い込み)を持たされることで、どちらにも行けなくなるという状態だ。簡単に言うと、社会的身分が低ければ「負け組」であり、就労がなければ「ニート」であるという呪いが掛かっているのに、一方では勤務に精励すると「社畜」であるという呪いも掛かっている。これではどちらにも動くことができない。これで、どちらにも動くことができなくなると、「負け組」でもなければ「ニート」でもない、かつ「社畜」でもない、たとえば財テク者やデイトレーダーのようなものになろう、という発想に傾く向きが出てくる。しかしこのとき、すでに本人がそう志向したのではなく、そこへ行き着くように呪いが掛かっていると見做すのが妥当なところだ。
冷静に考えれば、われわれの「存在」として、負け組などというものは存在しないし、ニートなどというものも存在しないし、社畜などというものも存在しない。「山田太郎」などというものが存在しないのと同様にだ(「山田太郎」という意識から山田太郎さんは出力されない)。しかし「思い込み」の作用は、「存在」より「思い込みの意識」が上位にあると錯覚することで成り立っているので、いったんそうした呪いに掛かった者は、「存在」をどう変化させても固定された思い込み(呪い)からは逃れられない。正しくは、「存在」が先にあり、その「存在」を意識上で取り扱うのに、言語化して名前を当てがうということなのだが、呪いに掛かる者はそもそもここが逆転して、「意識が存在を規定する」と錯覚しているので、この呪いの効力から逃れられない。
余談だが、おそらく文学者サルトルにとっては、この点において「他人は、イコール呪い」とまで感じられていたのだと思える。サルトル自身が著したところ、「地獄とは他人のことだ」という一文が有名だが、この一文は、「自分の存在が他人からの意識の決めつけで規定されてしまう」という文脈の末に示されている。それはつまり、サルトルにとって、他人が自分に向けて発するすべての語が、「呪」として作用する、というように感じられていたということだろう。だとすれば「地獄とは他人のことだ」という言いようにも納得がいく。
より実用に堪えるように、「僻みと血で呪われる」と短くまとめておきたい。「僻みと血」。ただし、ここで「呪い」というのはしょせん「思い込みのメカニズムに作用する」ということでしかないと、正しく把握していなければ、「僻みと血で呪われる」というこの語自体が、新しい呪いになってしまうだろう。そうではなく、呪いというのはあくまで一つの「ノウハウ」なのだ。なぜか、「僻みと血」によって、深いレベルにまで「思い込み」が浸透するという、うっとうしいノウハウがあるということにすぎない。また、だからこそ、そのノウハウの原理を知ってしまえば、その手段からつけこまれるという現象を未然に防御することができる。「血」を引っ込めて「僻み」を引っ込めてしまえば、その人は何の大迫力でもない、ただの無力者だということが明らかになるということだ。特に、田舎の風土で用いられる「恫喝」の方法は、すべてこの「呪い」のノウハウから解き明かすことによって、その中身が形骸無実だということがわかる。
いっそのこと、「都(みやこ)に住む者には、呪いが掛からない(掛かりにくい)」と知っておいてもよいかもしれない。なぜ都に住む者には呪いが掛かりにくいかというと、都には王が住んでいるからだ。日本では天皇陛下ということになる。なぜ王が住んでいると呪いに掛かりにくくなるかというと、そのことは、解字学的に「呪」と「祝」の二字を見ていけばわかる。詳細は省くが、「呪」というのは、「人に言われたことを頭上に受け取る」という字であり、一方で「祝」というのは、「祭壇に掲げられたものを頭上に受け取る」という字だ。きわめて単純化すると、オッサンやママの口が言ったことを真に受けるか、祭壇に掲げられたものを真に受けるか、という違いによって、「呪」と「祝」は分かれている。都には王が住んでおり、王は玉璽や王笏などを持っているので、王の詔(みことのり)はオッサンやママの口から発せられるものより上位にある。このようなことから、都に近いほうが「祝」に近くなり、都に遠いと「祝」から遠ざかるということになるのだ。よって、ここで言う「田舎」というのは、単に人口密度やGDPを指してのことではなく、「祭壇に掲げられたものから縁遠く、オッサンやママの口ばかりが幅を利かせている地域」のことを指す。仮に東京に住んでいる者でも、オッサンやママの口が言ったことしか頭上に受け取っていないたぐいの者は、住所によらず田舎者ということになる。東京にも田舎者は多い。
その意味での、「田舎」と見做すべき地域に行くと、オッサンにせよママにせよ、やけに東京に向けて「僻み」の感情を持っていることがよくある。そして、本家筋がどうで分家筋がどうと、「血筋」のことがよく言われる。こうした「田舎」で、東京のことが敵愾心をもって言われるのは、根拠あってその言説が云われているのではなく、実は単に「呪い」の力を失わないためなのだ。その地域を支配している呪力のひとつに、東京(現在の都)への「僻み」があるのだから、この僻みを失うと、その地域を支配統括している力を失う。田舎の人は東京を僻むことでその呪力を保っていると見ていい。また、別の角度から見ると、「東京には呪力がない」ということでもあり、一部の人にとっては「だからこそ東京には魅力がない」と感じられることもある。
おおむね、「芸術の都パリ」と言われるように、都では神霊力にまで到達する「芸術」を得ようとする向きが強くなり、田舎では呪力に還った「祭り」を得ようとする向きが強くなる。先進国のシンガーはロック歌手やソウル歌手のように「叫ぶ」ことで己の声を神霊力の地位に高めようとして芸術的だが、田舎のシンガーは地域と血族の「情念」を込めることで己の声に呪力を持たせようとし、こちらはあまりアーティストとは呼ばれない。ただし芸術家・岡本太郎は例外的に、芸術にも呪力がなくてはならないと捉え、その結果、ルーブル美術館に展示されるものとは異なる新しい趣の芸術主題を打ち出すことになった。
一般に、「田舎」のほうが、思想的に男尊女卑であり、女性は迫害を受ける傾向が高くなる。なぜ田舎のほうが女性に対して下位差別的になるかというと、田舎を支配する呪力構造が、呪力に偏りやすい「女性」のほうを第一の被支配者として組み敷くからだ。女性はもともと男性より「僻み」を持ちやすい気質があるし、経血のこともあって「肉」よりは「血」に偏る。男性の射精はタンパク質であり「肉」の一部だが、女性の経血はそのまま「血」だ。女性はこの「僻みと血」への偏りにおいて、呪力支配の空間で被支配者になりやすい。呪力世界ということは、つまり田舎は「思い込み」の世界ということになるが、女性のほうがその「思い込み」の作用がスムースに浸透するということ。また、一部の女性においては、理知のすべてがまるとピンとこず、強い恫喝によって与えられた思い込みだけが信じられるのだという人も、少なくない数だけ存在している。よって、それら一部の女性においては、その地域が「田舎」であるからこそ、より強力な「居場所」を得られているということもある。「お前はこの地域の、この血筋の娘で、あの家に嫁ぐ娘だ」と恫喝されないかぎり(呪われないかぎり)、自分の居場所を得られないという女性が少なからずいるのだ。
およそ、女性のそうした性分、いわば血質化性分といったものについて、痛快な男性ほど、まったく気がつかないし、想像もできないということが多い。当人が「呪い」などとは縁遠いからだ。だからこそ、結果的に不本意なことに、女性のほうが、わざわざ自分が迫害される呪力世界の男とくっつくということが起こってくる。気質的に田舎者である、いわゆるDQN男と呼ばれるタイプに「恫喝」されて、初めてそこを自分の「居場所」と感じるというようなことや、血族である母親や「家」に呪縛されて動けなくなっているいわゆるマザコン男のようなタイプに泣きつかれて、彼を励ましているうち「君がいないともう死ぬしかない」と自殺的に恫喝され、初めてそこを自分の「居場所」と感じるというようなことが起こってくる。DQN男もマザコン男も、最終的に「僻みと血」を得意としているので、奥の方では「妊娠させれば勝ち」と考えているようなところもあるのだが、このような不穏な男のところへこそ、わざわざ女がくっつきにいくということは少なからずあるのだ。
彼女は、傍目には「わざわざ呪われにいっている」とも見えるし、また実際、構造的には「わざわざ呪われにいっている」というのが事実だ。<<彼女は呪われないかぎり、そこを自分の「居場所」とは感じられない>>のだから。
また当然ながら、そうして「僻みと血」に偏った男のほうが、女性の血質化性分につけこむ勘ばたらきが冴えているということがある。痛快な男にはわからないことが、恫喝男にはよくわかるのだ。そうした恫喝男は、初めはどうあれ、けっきょく時間を掛けてでも、女を被支配階級に追い込もうとする。自動的にその機会を狙って的確に行動するよう、呪いというのは作用するものだ。だから本人の自覚外で、異様に計算された立ち回りをする。
こうして、水面下ではけっきょく呪いの恫喝が得意な男のところへ、女性がわざわざ「呪われにいく」ということが、しばしば典型例のパターンとして出現する。もちろん、結果的に自分で選択したとしても、被支配下で迫害されることを甘受できるわけではなく、その後は数十年に亘って闘争することもあるし、その中で深い憎悪を育ててしまうこともある。そのような不穏の行き先を避けるためにも、ここで話されている「呪い」のノウハウを知ることは有益という以上に必要なことだ。
なぜそうして、女性が「わざわざ呪われにいく」ということがあるのだろうか? それは、先ほどから述べているように、そうすることでしか自分の「居場所」が得られないからだが、さらにその背後には、実は結婚と出産についての「呪い」が掛かっているということがよくある。多くの場合、女性はその母親や地域全体から、「女は結婚するもの」「結婚して出産するもの」「結婚して出産することが女のつとめであり幸福」という呪いを掛けられているものだ。この呪いが、「わざわざ呪われにいく」という女性を背後から突き動かしている。彼女が男性と交際するのも、あくまでどこか「結婚して出産する相手を探すため」なのだと、呪いに向けて言い訳しているという構造があるのだ。
よって、これも重要な視点だが、女性がそうして「わざわざ呪われにいく」ということが起こる場合、彼女の向かう先の男性はたいてい、「自分が母親に紹介しやすい男性」なのだ。このとき、「わざわざ呪われにいく」女性は、本人が結婚や出産を志向したのではなく、やはりそこへ行き着くように呪いが掛かっており、ほとんど母親や地域からの呪いによって、その男のところへ「わざわざ呪われにいった」と見做すよりない。
多くの既婚女性は、「仮に、母親がいなかったとしても、現在の男性と結婚しましたか?」と問われると、ハッと立ち止まって考えるところを持っているものだ。男女どちらとも、既婚者は「どうしてこんな人と結婚したんだろう」と後悔混じりの疑問を持つことがあるのはありふれたことだが、その疑問に向き合うとき、いっそ母親や地域からの「呪い」を前提にしたほうが、不穏な感情や破滅的な思考を避けられることがある。
また、女性にとって、いわゆる「キモい男性」と、肌身の接触が禁忌たりうること、まして粘膜の接触などが最大の禁忌たりうることの説明も、この「呪い」の視点から説明がつく。「僻み・血・液体・語」のワンセットが、それだけで自動的に「呪い定食」になるのだから、女性はなるべく、不本意なおぞましさの「呪い定食」など摂取したくない。よって女性にとって、「僻み感情の強い男性と」「粘膜で接触し」「体液を交換する」「しかもこの男は、言葉を持たず、蔓延している語しか使わない」というようなことは最大の禁忌になるのだ。もしその「呪い定食」を摂取してしまうと、強力な「思い込み」がもたらされ、自分が「汚れた」「穢れた」という思い込みから逃れられなくなる。ましてこの場合、母親や地域からの、結婚と出産にまつわる呪いの後押しがないのだから、女性としてはひたすら遁走したいという感情しかなくなる。
一方、当然ながら逆側に、女性として避けなくていい男性像が存在する。それは、「僻みがなく痛快な男性」「陰茎等の粘膜よりも肉が霊的に優れている男性」「湿っぽくない香り(気体)が漂っている男性」「たくさんの充実した、自分の言葉を持っている男性」だ。ただしこの男性は、女性にとって禁忌から完全に遠いため、それが極端すぎる場合、バランスとして「そそらない」と感じられる場合もある。「そそらない」上に、そのような男性(呪力世界に縁遠い、田舎者ではない男性)に近づくことは、禁じるという呪いが母親や地域から掛けられていることもあるので、その場合は実際に、血質化した身体が停止・沈降してゆき、貧血や体温低下の感触が起こって「立っていられない」「身が凍り付いていく」ということが起こったりする。また、そうして「僻みと血」に縁遠い、霊的に充実した光の男性のほうが「気持ち悪い」「幽霊」に見え始めたりすることもある。
古くから「人を呪わば穴二つ」という言い方があり、呪いは強い力を安易に得られるぶん、その副作用も同等の強さで己の身に返ってくる。この、「呪い」によるマイナス作用がひどすぎるとき、それを解除するには(つまり呪いを解くには)、一般的には「のろい」の反対方向になる「まじない」をかけるものとされている。ただし、その方法はもちろん対症療法にすぎず、もともと「のろい」も「まじない」も同じ「僻みと血」から生じる思い込みの作用なのだから、この方法を繰り返すだけでは身の血質化はますます進行していくことになる。よって、危急には有効であっても、長期的にはより慢性化させるだけにしかならない。
根本的にはどうすればよいだろうか? このことに、思いがけず大胆な解決の方針を提示することができる。それは、
<<呪力を踏み捨てよ>>
ということだ。
われわれは血液なしには生存できない以上、血質ゼロで生きていくことはできない。即身仏にでもならないかぎりは血質ゼロに至ることはできない。けれども、「僻みと血」から生じる呪の力を、己の意志において踏み捨てることはできる。このことの決意と決断が、これまでの蒙昧を啓くだろう。
この決意と決断は容易ではない。なぜなら、呪力を踏み捨てるということは、<<己を無力化する>>ということだからだ。強力化を決意するのは容易だが、無力化を決意することは容易ではない。
ただでさえ弱く小さい者である自分が、唯一頼れるところの呪力を放棄するということ。それはまるで、日本国憲法の第九条のように、無謀な試みのように思えるし、またそのように思えないでは、このことを正しく捉えられていない。田舎者にとって、唯一の作用兵器たる「田舎殺法(呪)」を踏み捨てることは、どれだけ破滅的なことだろうか?
呪力を踏み捨てるということは、「思い込み」の力を踏み捨てるということだ。そして「思い込み」の力を捨ててしまうということは、もはやその先は、自分の「存在」のみで、すべてのものと真正面から勝負するということになる。このとき、すべての日々は、すべてのものと「本当の勝負」を繰り広げてゆくという、果てしない日々となる。「わたしの痛快ぶりは?」「わたしの肉の霊は?」「わたしの香りは?」、そして「わたしの言葉は?」。それはただならぬ日々であって、このことに向き合い続けようとしたとき、数日で己が決壊しないという保証は誰にもない。
よって現実的には、憲法第九条がそうであるように、さしあたり自衛の保障程度には、「思い込み」の力たる呪力を保有せねばならないのかもしれない。そうしたことは誰にも責められないだろう。だがそれにしても、こうして「呪い」のことをよく知り、あくまで己こそがその呪力を踏み捨てるのだという決意に転じた場合、これまでに向かおうとしてきた行き先は棄却され、その歩む先は大いに変更されることになる。
<<呪力を踏み捨てよ>>。いずれ永遠の都へ行き着くために。「僻みと血」によるすさまじい作用は、あくまで不明なものだが、確かに不明のままはたらきかけてくる。このはたらきかけるものから目を背けるのはただの逃避でしかない。よってこのはたらきかけから、目を背けるのではなく、これを堂々と踏みつけ、地の底へ還らせる。わたしは自他共に呪いの力を信奉せず、これを放棄する。
それじゃあいいかげん、現代がどれだけ「呪い」に満ちているかわかったか? そしてそこに向けるあなたの「言葉」もわかったか? あなたも現代の呪いを知ったわけだ、Get The Fuck Out !
[Hey, yo, 現代の呪いを知っているかい?(上)/了]