No.382 愛されないと面白いことはできない
文学には何の意味もない。
文学の化身たる僕が言うのだから間違いないな。
文学には何の意味もないというのは、愛されなければ何の意味もないということであって、それはラブレターと同じだ。
相手に、何かを愛するという機能があるから成り立ってきた。
文学には何の力もない。
もともと、力があるのは愛のほうであって、何かを徹底的に正しくやると、その「愛」がはたらくから、素敵だね、ということで、これまで文学は成り立ってきた。
いやもちろん、それとは逆の、愛のなさのほうへ、引きずり込んでいく文学もあったが……
正直にいうと、そちらのほうの文学には、僕は何の興味もない。
仮に、男を愛さない女がいて、その女が、どれぐらい男を愛さないか、というような話については、僕は自分をどう絞っても、興味の一滴も出てこない。
そういった、「愛さない」という現象についても、学門は見つかるから、学門としての情報は吸い上げたいが、それは正しいレポートがあれば十分なのであって、わざわざ体験して実感する必要はない。
僕は愛されることだけに興味がある。
ここで、たまには宣言するふうに、断言してよいが、僕は愛されるから文学を出力するのであって、その逆ではない。
僕が文学を出力するから愛されているわけではないのだ。
僕は愛されるから文学を出力しているにすぎない。
逆に、「愛されない」ということで、文学を出力する仕組みもあり、むしろそうしたほうが表現者の数としてはずっと多数派だが、それは別に間違っているというのではなく、僕としては「絶対ヤダ」ということなのだった。
宣言しておくと、僕は、愛されることで文学を出力するのであり、愛されないかぎり、文学の出力など一ミリもやらない。
僕が偉大なのは、あなたに、誰かを愛するということを与えるから偉大なのだ。僕が何かを愛しているから偉大なのではない。
僕は、あなたが、何をも愛さないとき、また僕のことを愛さないとき、それではいけない……とあなたを憂いているのではなく、「それではオメーは、つまんねーだろ」とだけ感じている。
まして、麗しい美女や美少女であれば、何かを愛し、誰かを愛するということを持たないでは、あまりにつまらなさすぎるし、あまりに素材がもったいなさすぎる。
誰でも、何かを愛するということ、誰かを愛するということを、持ったらいいし、僕はそのことを与えるためだけに存在し、僕からは何もやらない。
僕の役割は、あなたを、「何かを愛した奴」にしてやることであり、「誰かを愛した奴」にしてやることだ。
それだけで、あなたは世界とつながることができ、それだけで、ひとまず決定的な肯定があるのだ。
そのことは、そこに至ってみてからしかわからない。
このごろは、僕は立場上、人に何かを教えることが多くなった。
そして、何かを教えるとなると、それなりに熱心にやるので、その姿を見た人は、「愛のある人だ」と感じたかもしれない。
しかし、僕自身に、愛があるということ、それはそうに違いないが、そのことはあまり啓蒙的ではなく……と言い出すと、またレベルが逸脱しすぎなのだろうか。まあいい。
僕自身に、それなりの愛があるというようなことは、当たり前であって、インド料理屋にカレーがあるというようなことだから、今さら目を輝かせるようなことではない。
そうではなく、僕が人に何かを教え、その教えるということを、やりだすとそれなりに熱心にやるというのはすべて、その人が何かを愛するということへ踏み出すための、準備をさせているにすぎない。
正直、そんな準備は、全員どこかで勝手に整えてくればいいと思っていたが、どうもこのご時世、そういう状況にはないらしい。
じゃあどうすればいいかといって、この、「どうすればいい」というのを考えるのが、いつも僕は面倒くさいので、
「できるようにしてしまったほうが早い」
ということで、すべてのことは、できるようにしてしまってから考えようと思っているのだった。
できるようになってしまえば、もう考えるべきことは残っていない。そうしたら、もう気楽でよいものだ。
僕は、自分が愛されるまで、一ミリも、自分のほうからは何もしない。何をしたところで、愛から遠ざかるに決まっているからだ。「準備」は僕のほうからさせることもあるが、本質は、僕のほうからは一切やらない。
どうだ、この覚悟の徹底ぶりは。つい、あなたも、僕のことを愛してしまいそうになるだろう。愛というのはそういうものだと思う。
あなたが僕を愛するかどうかというのは、あなたの決めることではなく、愛と事情が決めるものだ。
愛が決める場合は、僕は愛にしたがって振る舞っているのだから、あなたが僕を愛さないということはありえない。愛さない場合があるとしたら、それは「事情」だ。
人それぞれ、環境的な事情、心理的な事情、思想的な事情によって、明らかな愛の性質も、「うーん、さしあたりキックするしかない」ということに引きこまれていく。それはそれで、しょうがない。
それはそれでしょうがないのだが、そうして愛をキックしていると、そのぶん、思ったよりもデカい何かの、報復的な現象が、己の身に降りかかってくるものだ。
たとえば自分の笑い声が汚くなるとか。
自分の笑い声が汚くなる、というような懲罰は、なかなか地味で、なかなかキツいものだ。その他、自分の顔を鏡で見て「うわっ」と感じるとか、朝起きたときから、何かが決定的に「暗い」「苦しい」「いやだ」とか、そんな意地悪をしなくていいじゃない、と言いたくなるような報復が待ち受けている。それは愛の性質だからしょうがない。
人は、愛と事情のはざまを生きていて、けっきょく事情を蹴るか愛を蹴るかのどちらかしかないのだが、事情を守ればそのぶん、愛から報復を受け、事情から庇護をもらえることになる。愛を守ればそのぶん、事情から報復を受け、愛から庇護をもらえることになる。そして事情というのは人のものであり、愛というのはカミサマのものだ。われわれはカミサマに殉じて生き切ることはなかなかできないが、事情に殉じてただ生きているだけというのにもやがて耐え切れなくなるものだ。
むつかしい話をしてしまった。
それで、少なくとも僕は、その愛と事情を混同することだけはしない。わかりやすく言うと、僕はここに、こうして何かを書き話さねばならない事情を一切持っていない。だからこれは愛によってしか書けない。
こうして、愛において書くべきところを、自分の事情でブーストして、こすずるいことをすると、僕にだってそれなの報いや懲罰が下るのだ。それは愛の性質だからしょうがない。
僕は、何度も断言するが、愛されるから書くのであって、書くことで愛されようとしているのではない。もし僕に、「愛されたい」という願望があったとしたら、それは僕の「事情」だ。願望は事情の代表的な一つだ。そんなものはロクなことにならないので、僕は「愛されたい」というような願望は、こうして書き話すことには決して持ち込まない。
よって、僕は、めちゃくちゃな話に聞こえるかもしれないが、あなたに僕のことを愛するよう、命令するしかないのだ。このことが実は、最も健全で、最も正しく、最も光があり、最も愛について正しいのだった。
ただし、このことが成立するのは、僕に「愛されたい」という願望がなく、愛されたぶんは、こうして文学になって、正当な祝福に転化するからであって、無条件に成立するものではない(当たり前)。
今回は珍しく、あまり笑いに走らないように書いている。笑いというのも、祝福のひとつではあるが、笑いというのはほとんどの場合純粋ではなく、それなりの毒物も混入する、まあ一種の酒のようなものなので、毎回そういうクセモノの祝福というのはやめておこうかと思った。たまにはカーニバルから離れるのもいい。
僕はあなたに、僕のことを愛するようにと命令している。
(「事情」はあなたに、まったく逆のことを要請しているだろう)
事情とはうまく付き合いなさい。事情はカミサマのものではなく人のものだから、原理主義的に信じてもトラブルになるし、原理主義的に破壊してもトラブルになる。トラブルで得をする人間はいない。
僕は、それなりに、「いい人」の立場を採ることもできる。「いい人」になるためには、あなたの「事情」を察し、その「事情」に向けて、援助と解放の足しをしてやれるようになればいいのだ。たまには僕もそういうことをするし、むしろふだんは、そのことばかりしているのかもしれない。実際、その意味でも、「助けられた」「恩人です」と言ってくれる人は幾人もいる。
だがそれでもやはり、そのことは僕にとって本質的ではない。
それが、本質的でないと気づいた人から順に、
「あなたに、こうして助けてもらっていると、すごくうれしい反面、何かとてつもないカルマが溜まっていく気がする」
「もう、やめて、何かが怖いの、あなたがわたしを助けないで」
と言い出すことになっていった。
そのことは、結論から言うと、やはり正しくて、なんというか、本質的には僕はあなたを助けてはいけないのだ。正直なところ、僕は内心で、人を助けようと踏み出してしまうはたらきに、かなりの強度の制限を、自分に向けて課している。奇妙なことかもしれないが、これがここ数年の学門の結論なのだ。そしてこの結論に基づくほど、結果は必ず快く、光あるほうへ傾き、現れてくる。
僕の、生来的な性向でいうと、僕があなたを愛してしまうのだが、それを制限というか、封印しなくてはならないのだ。あなたが死なないために。あなたが僕を愛するのであれば、あなたは命を得ることができるが、僕があなたを愛してしまったら、あなたはうれしくて浮かれたまま、命を失っていってしまう。僕のことを本当に愛している場合は大丈夫なのだが、愛していない場合は本当にだめだ。
このことはむしろ、僕が発見した学門ではなかった。「何かが死にそう」と、切迫して感じられる人から、再三のクレームがあり、「あなたからこちらを愛するのをやめて」という申し出を、ついに僕が勘案し、限度付きで受諾する羽目になった。僕はそのときふと、「ん? その説は、面白いな」と感じることで、ただ立ち止まらされたのであり、まさかそのことが、ここまで正鵠を射ているとは思わなかった。
あなたが僕を愛するのがいいのだ。それだけが面白いのであり、それだけに光がある。
まあしかし、それこそ「事情」というものがあって、事情といえば、女の子は特に、自分が「愛される」ものだと思っているし、またそのことへの願望も強烈にあるだろう。この事情が、思いがけず強く働いて、あなたが僕を愛するということを、単純な意味でクラッシュさせてしまう。ましてこのごろは、男尊女卑の撤廃や、フェミニズム的に、女性上位思想にスライドしていこうという思想が活発なので、男である僕が女の子に向けて「僕のことを愛しなさい、それだけが面白いし、それがあなたの命だから」と言いつけるというようなことは、明らかに「事情」と正面衝突するだろう。それはそれでしょうがない。別に光や面白さがなくても生きていけないというわけではないし、われわれのような者が生きていく以上、それなりに懲罰のような暮らしをしていくのは、ある意味では身分相応と考えることもできるだろう。
タイトルに、「愛されないと面白いことはできない」とつけた。これは、真実を得ていながら、軽い言い回しで、素敵だなと思ったので、思いついたままタイトルにした。
「愛」というと、それだけで重々しく捉えてしまう向きがあるので、そういったことのないよう、当たり前の訂正をしておきたい。「愛」というのは、人智以上のものだが、それは光のようなものであって、光というのは重さを持たない。そしていくつの光があつても、それは一つに融合するものだし、ネオンサインや電球と同じ、「いくらあってもかまわない」し、「たくさんあるほうがきらびやかでいい」ものだ。「愛」というのを、何か唯一無二の、永久凍土の石碑、というような、呪いめいたものに捉えなくていい。「これに反した者は永劫の呪いを受けるだろう」「ひいいい」というような、おっそろしい世界にしなくていい。
愛というのは、人智のものではないが、日常的なものだ。むしろそれが日常でなくてどうすると言いたい。日常的に、「世界」を生きていたら、毎日の日記に今日あった愛のことを書かずにはいられないほど、愛というのはありふれているものだ。まさか愛の体験数がコンビニの体験数より少なくていいとは思わないだろう?
愛されないと面白いことはできない。あなたはどこかで、「くそ〜」と笑いながら、それでも「愛しているわ」ということを、やめなければそれだけでいい。それだけですでに、「面白い」ということがわかるはずだ。こんな単純なことで、「面白い」ということの謎が解かれている。あなたは何かのコンテンツに頼らず「面白い」ということを体験することに非常な困難を覚えているはずだが、あなたが僕を愛するだけで、「面白い」ということは成り立つのだ。逆に僕があなたを愛したとしても、そのことはあなたを浮かれさせるだけで、実は「面白い」ということは成り立っていない。何の神秘もなく、ただそういうわかりやすい事実があなたの目の前にあるのだ。
だから、このタイトル、「愛されないと面白いことはできない」というのは、実に正しい。僕にとって正しいこのタイトルを、あなたはつい、愛さずにはいられないはずだ。
さっさとネタバラシをしてしまうと、あなたが僕を愛さなくてはならないのは、単純に言えば、僕のほうが「身分が高いから」ということになる。ここで「身分」というと、すぐにいろんな内心の「事情」が反応するので、話がややこしくなるのだが、「身分」というのはそういうことではない。
「事情」が反応しないように言うと、
「あなたの欲しがる、或る『システム』に、僕のほうが先行している」
ということにすぎない。
われわれは、よくわからない迷いの森を抜け、何かこう、素敵なところに到達しなくてはならないのだが、その迷いの森を抜けるようなことは、僕のような奇人のほうが得意なのだ。そういう謎オブ謎について、僕のほうが先行しているということは、別段あなたの事情を刺激しないだろう。
或る「システム」といって、それが何のシステムかというと、そのシステムには色んな種類があるのだが、ここで代表的にわかりやすいのは、たとえば「言葉」のシステムだ。僕は今ここに、何事かをテキトーにペラペラ書き話しているが、こうしたことが、どのようなシステムから生じているのか、あなたにはよくわからない。もしそれが、わかっているものだとしたら、あなたは僕とまったく同じことができ、さらには僕より上位のレベルで、このテキトーなペラペラ書き話しができるはずだ。
僕は、自前の能力によって、このテキトーなペラペラ書き話しをしているのではないのだ。「システム」なのだ。僕は、こうして書き話すことに、わずかのモチベーションも必要とせず、何らのプロットも必要とせず、朝起きたときから、トイレに行きたいという衝動の前に、何か書き話すべき命の文脈を、夢うつつの中に与えられている。何の気合も入れることなく、勝手に「ある」のだ。そしてそれを出力するにしても、何をどうしたらいいかというのは、僕は「知らん」というままで、ただ知らないまま、どうしたらいいのかはそのときごとにわかっている。何も知らないくせにわかってはいるのだ。
いつも、その筋の人が驚くことには、僕はこうしてテキトーに書き話すということを、たとえば五時間でも十時間でも続けたとして、そのことで肩が凝るとか、目が疲れるとかいうことが一切ない。むしろこうして書き話す作業をしたほうが、どんどん身体は楽になっていくぐらいだ。
なぜそんなことが起こるかというと、けっきょく、僕はこうした作業を、自前の能力でやってはいないということなのだ。自前の能力でそれをしたら、それなりに自分は疲れるだろう。僕は、自前の能力でこれをしているのではなく、ある種の「システム」に依存して、この作業をしている。そういったシステムは、実は話すことや、歌うこと、踊ることや、その他すべてのこともそうなのだが、すべてのことに実はそうした「システム」がある。そんなシステムがあれば、あなたはぜひ「欲しい、それ!」となるじゃないか。しかもけっきょくのところ、このシステムから産み出されたものでなければ、本当に「面白い」ものにはならないというオマケつきなのだ。オマケどころか、それは究極的かつ決定的に、「人の負けじゃん」ということになるが……
この「システム」を、あなたが愛さなかったら、あなたはずっと、自前の能力でドッコイセすることを、続けなくてはならないだろう。それも一興ではあるが、あなたの自前の能力は、コストとしてあなたを疲れさせる上に、性能そのものが年齢と共に衰退していくという性質がある。自前の能力は、本当に「面白い」ものにはならない上に、年齢と共に衰退していき、やがて死ぬ、という巨大なハンディキャップを抱えているのだ。あなたは事情のすべてを取っ払うなら、「そりゃシステムのほうがいいよお〜」となるに違いない。それで、僕があなたを愛しても仕方がない、ということになるのだ。僕があなたの側の事情と能力のことに向き合っても、あなたはシステムのほうへ歩みを寄せることにはならない。事情と能力というのは、つまり「ヒューマニズム」ということになるが、ヒューマニズムは必要なものだったとしても、それを勝利への道筋と捉えることには感情以外に脈絡がなく、ほとんどやけくその話に思える。
僕が今、あなたに書き話しているもの、つまり今目の前にあるこれには、愛があるだろうか? もし、愛がないと感じられているのであれば、そんなものを読んでいるあなたはよほどのヒマ人だ、もっと愛があると感じられる何かに移ったほうがいい。わざわざ、自分で愛が感じられないものを摂取するというのは、わざわざ不味くて病気になりそうなメシを食いに行くというような愚行だ。
あなたにはひとつ、誇ってよいことがある。もし僕がここに書き話している、この目の前の実物について、「愛がある」と感じられたとしたら、あなたはその「システム」に接続が得られているということだ。僕を愛することを媒介にして、もしくは、僕のことを踏み台にして。
さきほどから言うように、これは僕の、自前の能力で書かれたものではないし、僕にはこのようなことを、ここに書き話さねばならない「事情」はない。
僕は或る「システム」によってこれを書いているのだから、あなたがそこに「愛がある」と感じられた場合、あなたはその「システム」から産み出されている、特別の「愛」について、感得することができているということだ。これは誇っていい。逆に言うと、それ以外のことは誇らないほうがいい。自分の能力や事情を誇ることは、あなたをヒューマニズム・バトルの徒に仕立てていくことにしかはたらかないだろう。ヒューマニズムが「バトル」になるというのは滑稽な話だが、誰でも知っているとおり、周囲を見渡すと、ヒューマニズムというのは実際としてバトルに最も近傍している。
「愛がある」というのがおおげさすぎたら、「何もない、わけではない、というぐらいはさすがにわかる」というていどにしておいてもいい。そして、その感得の証拠に、僕のことを愛せば十分だ。また、ここではわかりやすく僕の話をしているが、もちろん他の誰でもいい、何か能力や事情とは異なる「システム」に接続している誰かのことを、愛していればそれでいいのだ。そうすればやがて、時間はかかっても、そちらのほうへ歩みを寄せていくことになるだろう。そこでヒューマニズムとの闘いがあり、ヒューマニズムの側は、あなたを、能力と事情の涙ぐましさのほうへ引きこんでいこうとはたらきかけてくるだろう。ヒューマニズムは、必要だが、それはやはり、勝利への道筋ではない。
愛されないと面白いことはできない。あなたは、無駄に生きたいわけではないだろうので、あなただって、面白いことを手掛けたいし、面白いことに参加し、面白いことに寄与したいはずだ。人間にとって面白いことというのは、けっきょくその、人智とは違う何かの「システム」のことなのだから、あなたはこのシステムに近い人のことを愛したらいい。あまりむつかしく考えるべきではなくて……あなたがむつかしく考えすぎる場合、それは、あなたが自分の愛を、至上のものとして大仰に捉えているからだ。
至上の愛というのは、システムからもたらされる、人智とは異なる愛のことであって、あなたが精いっぱい向ける愛というのは、素敵なものだけれど、至上の愛というわけではない。人々は五穀豊穣を祝って、太鼓を打ち鳴らしたり、舞を奉納したりするが、どちらが至上かといえば、五穀が豊かに実ることのほうが至上に決まっている。太鼓を打ち鳴らすことは人為的にできるが、五穀を実らせることは人為的にできない。五穀を実らせているのはシステムだ。
太鼓を打ち鳴らしている人が、自分を至上の光と思っていたらおかしなことだ。太鼓を打ち鳴らすことに熱中していると、この人はたまに五穀豊穣のことを忘れる。すると腕だけムキムキの、謎のタイコマンになってしまう。ドンドコドンドコ……
けっきょく、また笑いに持ち込んでしまった。
僕が宣言するところ、僕は、「愛されないと面白いことはできない」。僕は、面白いことをするから愛されるのではない。逆だ。愛されるから面白いことをする。それは「システム」の性質であって、僕の事情や能力ではない。
あなたが僕を愛することには、あなたのキモチというのではない、もっと巨きな意味とはたらきがあるということだ。これは、あなたの誇ってよいことだろう。あなたが僕を愛さないと、僕は何一つ面白いことができないのだ。あなたが僕を愛さず、僕があなたを愛したら、あなたの身はなぜか、浮かれたままずっしり重くなっていくし、あなたが僕を愛したら、あなたの身は「くそ〜」と言いながら、なぜかスカッと軽くなっていく。そう考えるだけでも気分爽快だろう。僕も同じ、気分爽快だ。
[愛されないと面白いことはできない/了]