No.384 蛇の声を聴け
われわれの遠い記憶の中に、古い神話や、神仏についての伝承を、馬鹿にしない、おろそかにしない、という感覚がある。それはふだんは忘れているけれども、いざ自分の身が滅びそうになったとき、やはり自分が縋りうる唯一の手がかりとして、それが自分の体内で生き続けていたということを、救われる心地で思い出す。あるいは、もっとよく聞き、正しく知っておくべきだったと、半ばは後悔しながら。――われわれを追い立て続けているこの「時間」というのは、本当にわれわれの業による錯覚だったのかもしれないな? われわれがよく知っている神話や創世記、宗教の聖典等には、いくつもの種類があるが、さしあたりギリシャ神話やエジプト神話、あるいは天皇家を含めた八百万の神話等を除けば、代表的に知られている一つは西洋の「聖書」、もう一つは、東洋では書物よりも「行」でよく知られている「仏教」があるだろう。聖書に伝承されていることと、仏教で教えられていることを、比較するのは構造的にも正当ではないが、ごく一般的な外形として言いうるのは、聖書はわれわれが「どこから来たのか」をよく言い、仏教はわれわれが「どこに行くのか」をよく言っているということだ。聖書はわれわれが「原罪」によって神の国から放逐されたということを第一に伝える。比べると仏教は、われわれがどこから来たというのではなく、われわれが「どこへ行かねばならないか」、われわれは己の身の煩悩から生じた業(カルマ)で、輪廻を繰り返すばかりだから、輪廻から脱出する、解脱に向かわねばならないということを伝えている。
それらの聖教・神話を背景において、僕は実際的な危難や苦しさに対抗するために、「カルマの対極に徳性がある」という言い方をよくしてきた。わかりやすいように。われわれの身は、カルマによって閉ざされており、カルマを減らす――「償却」する――ことができたら、そこから徳性が拓かれていく。徳性が拓かれてゆくと、たとえばこれまで見えていなかった、果てしない大空の青さが胸に飛び込んでくるようになる……そのような大雑把な言い方をしても、仏教が伝えるところの本筋から外れてはいないだろうし、何よりこのような言い方は、卑俗なわれわれの身につまされてよくわかるという効能がある。実際、われわれが優越感や劣等感に揺さぶられる狭間で、「負けたくない!」「あいつめ!」「わたしを!」と我執を燃やしているようなとき、言い伝えられている聖なる詩編にこころを寄せて、その一句に胸を打たれるというようなことは得られないだろう。カルマが増大して、身が閉じ、徳性から遠ざかっているところの者に、聖なるものの恩恵がただちに降り注いだりはしない。降り注いでくれないとなると、この世界には、聖なるものなんてないよ、幻想だよと言いたくなるのだが、それでもわれわれは遠い記憶の中に、何かしらの聖なる存在について、馬鹿にできない、おろそかにできないという感覚を残しているのだ。もし聖なるものが一切存在しないのであれば、われわれはただ動物的本能にしたがって、闘争に強い者だけが偉くて得をするという価値観に拠り、血で血を洗うように生きていくのみとなる。われわれは精神の最奥から、なかなかそのような世界像を信奉はできないものだ。われわれは闘争にばかり強くなろうとするが、それこそ古代インドの叡智が伝えるところのカルマに起因するのであって、つまりはそれこそが何よりの、阿呆の証拠であり、莫迦の証拠であると言われる。そのように言われると、われわれ自身も精神の最奥で、そのように自ら認めているところが遠くながらあるのだと自白したくなるのだ。
われわれがどこから来たのかについては、信仰心の有無はさておき、聖書が語り伝えているところは、単純なヴィジョンとして把握しやすい。アダムとエヴァはもともと永遠の国にいて、しかし蛇にそそのかされて禁断の知恵の実を食べてしまい、その原罪によって永遠の国を追放され、この地に落とされてしまった。このようなストーリィは、仮に信仰心を抜きにした絵本に描かれてあっても、理解に不平も違和感も覚えないところだ。そして今このときになって僕は、この聖書に語られている「われわれの出自」について、もう一度思い出してみるべきだという気がしている。永遠の国において、エヴァは蛇にそそのかされ、またアダムもエヴァに追従してしまい、禁断の知恵の実を食べてしまうことになった。それで永遠の国を追い出された……ということで、話は一段落を迎えるような気がしているのだが、僕はここでの一段落の気分に警告のホイッスルを吹きたい。話は一段落などしていない。何が指摘されねばならないかといえば、
「蛇はどこへ行ったか?」
ということ。
このことについて、われわれは油断しきっている。
聖書に出てくる蛇は、エヴァをそそのかして人間に原罪を負わせることに成功し、大きな役目を果たしたかに見えるが、何もそれで蛇のそそのかしの力が尽きて消滅したと、聖典に明言されているわけではない。蛇は今もなお、そそのかしの力を持ったまま、われわれの足許を這いずり、うろついているのではないか。もともとは神の禁忌さえ破らせるほどの、巧みな力をもったそそのかしの蛇だ。もしわれわれが、この蛇のことをすっかり片付いたものだと誤解し、すっかり忘れていたとしたら、われわれはこれからもずっと、知らぬところで蛇のそそのかしを受け続け、ますます永遠の国への帰参から遠ざかってゆくのではないか。
われわれは、仮に何かしらへの信仰心を持った場合でも、おおむね神や仏に帰依を見つけようとするばかりで、その対極にあるものを見ようとはしない。聖典のストーリィは、きちんとその対極にあるものも語り明かしてあるのだが、われわれはなぜか恣意的に、たとえば聖書といえば「神様の話」が書かれているものだと決めつけ、そこに「蛇の話」も書かれてあるということを無自覚に見落とす。見落とすのは無自覚だが、恣意的な見落としを無自覚にしているのだとみなさねばならない。であればわれわれは、信仰心の以前に、聖典に書かれてあることの読み取りに対して、初めから不正をもって向き合っていることになる。「蛇はどこへ行ったか?」。蛇がその後のうのうと、神の御許にあるわけがない。蛇も当然、われわれと一緒にこの地に落とされているはずだ。アダムとエヴァ当人は、さすがに蛇にそそのかされることには懲りたはずだが、われわれはどうだろう、われわれは自分が現世にまで続く「蛇」の存在に、これからもそそのかされうることを、可能性ごと忘れてしまっているのではないか。
カルマの対極に徳性がある、という言い方を、僕はよくしてきた。カルマを減らす――「償却」する――ことができれば、われわれの身には「徳性」が拓く。徳性が拓くと、これまで見えていなかったものが見え、得られていなかった祝福が得られ、無縁だった感動や光や愛に浴することができるようになる。引き続き、この大雑羽な捉え方は、大雑把ながら本筋を逸脱しておらず、われわれにとって身につまされるという点で有益だと判断する。だが一方で、今、改めて反対側にある牽引力についても正しく定義する必要性を見つけている。徳性が拓くということは、単純にいって、神仏や聖なるものの牽引力によって、それが拓かれていくということになるだろう。逆方向にはないのか? ないはずはないのだ。逆方向がなければ、われわれは聖書の言うようにこの地には落ちてきていないだろうし、仏教が伝えるところのように脱出不能の輪廻などしていないだろう。
われわれは、自分が「どこへ行くのか」について、双方向にある牽引力を知らなくてはならない。このことは、われわれが「どこへ行くのか」についての定義となる。牽引力Aは、神仏・聖霊の力によって、徳性を拓かれていくという牽引力。牽引力Bは、蛇・悪霊の力によって、業(カルマ)を燃やされていくという牽引力だ。つまり、<<徳性と等しくカルマも、神話レベルで定義されなくては整合しない>>ということが示されねばならない。精密に見るならば、神仏や聖霊の力がわれわれの身に直接はたらいて救済を与えるという構造ではない。神仏や聖霊の力がはたらいて拮抗し、勝利するのは、あくまで蛇の力に対してであり、その力の向けられる対象はわれわれの身そのものではない。<<むしろ、われわれの身に直接はたらきかけて救済するかに感じられる、その導きの牽引力は蛇の側の力だ>>。われわれは、己の身がさびしく、力を失い、衰えて、滅ぶことに恐怖してならないとき、蛇と悪霊の力を借りて己の勢力を立て直している。たとえば劣等感をバネにして、堂々と優越の獲得に向かおうと努力の決心をするときなど、赫々たる力が湧いてきて、われわれはさびしい夜を飛び越えるほどに立て直されるのではないか?
われわれは一度冷静になって、あえて計算ずくで、<<蛇の力を信仰する>>という手続きを踏まねばならない。そうでないと、本当にわれわれを支配しているシステムの全貌を見ることができないからだ。一旦は蛇の力を信仰する。なぜ? といって、正規の出展が必要なら、先ほどから述べているように、聖書のくだりを引き当てればいい。エヴァは蛇にそそのかされたが、それはそそのかされたとはいえ、一時的に<<神ではなく蛇を信仰した>>ということに他ならない。エヴァは神の言いつけを忘れ、あるいは疑い、蛇の言い立てることを信じた。そうして蛇を信じたエヴァの言い分に、アダムも追従したということになる。アダムとエヴァの楽園追放は、信じる先を神から蛇にシフトしたことから生じている。
そのストーリィの端緒に倣い、われわれも一旦は蛇の力を信仰する。そのことに、今さら怯える必要はないのだ。少しばかり知性がはたらけば明らかなように、われわれはこの地に落とされている以上、何も学ばず己を放置しておけば、自動的に熱烈な<<蛇教の信徒>>なのだ。なぜなら、もともとわれわれは、信じる先を神から蛇にシフトして、蛇教の信徒としてこの地に落ちてきたのだから。聖書の伝承によれば、現在のわれわれは、蛇の教えに帰依した者の結果として存在している。
われわれはこの点で、かねてより大きな誤解をしている。われわれは、思春期を過ぎてから以降、何かしらの天稟でもないかぎりは、けっきょく己の我欲、我執、吾我の名利ばかりを、「この世のすべて」だと思い込むようになるものだ。そして、我欲と我執しかない己の身を、なんとかしてくれるのが信仰心――まったく縁遠いと感じられるそれ――らしいね、と頼りなげに伝聞されているのだが、これは単純な事実誤認があるのだ。我欲と我執しかないという状態が、無信仰というのではない、実は土台となる信仰心、蛇教の功徳(!)から生じているのだ。われわれは由来からして、己が蛇教の国に生まれ落ちているということに気づかねばならない。
蛇教徒としての功徳の証が、どの時点から身に現われてくるかは人それぞれだとしても、必ずその証は身に現われてくる。われわれはこの世に生まれ落ちているかぎり、生来的な信仰を持っているわけだ。われわれは何も学ばずに生きた場合、ニュートラルな存在になるわけではなく、むしろ疑いを持たない「生え抜き」の蛇教徒になる。その教徒たる性分の表れは、あまりにも100%であるため自らのうちには気がつかない。われわれは、他の動物と同様かそれ以上に、識業からも沸き起こる我欲・我執・吾我名利に支配され、それがこの世のすべてだと自動的に思い込むようになるのだが、それをわれわれは勝手に「本能」と思い込んでいて、よもやそれが生まれつきの蛇教への信仰心から生じていることなど気がつかない。
この、不可知的トリックの構造があるから、われわれにとって聖教・神仏的なことはいつも直観にいかがわしく、取り組もうとしてもちぐはぐになるのだ。なぜなら、われわれが古代からの叡智たる宗教に耳を傾けようとするとき、それは無自覚にも「異教」と聞こえるのであって、己の向かうところは、信仰の獲得ではなく「改宗」だからだ。本質は、宗教だからいかがわしく聞こえるのではなく、異教だからいかがわしく聞こえるというところにある。その証拠に、われわれの暮らす生活空間の中で、蛇教の教義を唱えたところで、それをいかがわしく感じる者はいない。蛇教の教義、つまり、「本能的にさあ」「わたしが欲しているのはさあ」「わたしがこだわるのはさあ」「絶対に○○になりたいんだよね」、これらがいかがわしいと取られることはない。われわれは無自覚に、こうした蛇教の総本山に暮らしていることに気づかねばならない。それは考えてみれば、蛇の教えに導かれてこの地に来ているのだから、当然といえば当然のことなのだった。われわれは、永遠の国に転生する未来をみだりに夢想するのではなく、もともとこの蛇教の国に "転生してきた" のだという説を鑑み、己の身に起こることを疑わねばならない。
一旦は、蛇の力を信仰する。蛇の声を聴け。そのことにいかがわしさはなく、またそのことに困難や珍しさはない。なぜなら、蛇は、すでに無数に分裂して、二人に一セット――あるいは最近は、それ以上――というまでに、足許にむらがっている。簡単なことだ、負け組のみなさん? 「センスないんじゃないですか」「誰にモノ言ってんの」「マジありえないんですけど」「わたしそこまでレベル低くないし」「許していいの?」「絶対負けたくないでしょ」「将来どうすんの」「顔真っ赤だな」「かわいそー」。
これらの「そそのかし」は、正統な蛇教においてはそそのかしではない。これこそ蛇教の「教え」であり、「導き」であり、「福音」だ。だからズバッと、身の内に入る。蛇の声は、もはや耳を傾けなくても、蛇教徒の身の内にズバッと入る。そして蛇教の功徳として、ただちにカルマの火が燃えさかるという実効が得られる。
だから、一旦は蛇の力を信仰するといっても、それは己の所属が蛇教だったという、元からのことに気づきなおすことにしか作用しない。われわれ日本人が、生まれつき日本人であるように、われわれは生まれつき蛇教徒だから、今さらその信仰を確かめても何というほどの追加もない。信仰するといっても、<<もともと信仰している>>のだから、自覚が発見される以外には何の変化もない。
一旦は蛇の力を信仰し、蛇の声を聴け。生まれつきの蛇教徒がそれをしても、生まれつきの日本人が、日本人としての戸籍を取るぐらいにしか作用しないが、それにしてもわれわれは、外国へ行こうとするときはパスポートを取るのだ。その先に亡命するつもりであっても、出国にはパスポートがあるほうが有利で妥当であるに違いない。蛇の力を信仰し、蛇の声をよく聴いて、蛇教徒の自己確認をし、そのパスポートを取得してから画策せよ。われわれの目的はトラブルを起こすことではないのだから、理知と冷静さは常にわれわれの味方となる。
徳性の対極にカルマがある。カルマを減らす――「償却」する――ことができれば、己の身には徳性が拓かれてくる。このわかりやすい話が、わかりやすくありながら、実効をもたらすまでには大きな隔たりに遮られるのは、カルマの側へ牽引する側の力を神話レベルで扱っていないからだ。神仏と聖霊が、この身を徳性のほうへ牽引してくれるにしても、似たり寄ったりの強い力が、蛇と悪霊側の牽引力として掛かっている。「悪霊」といって、もはや何が悪なのかわかったものではないが……蛇と悪霊の牽引力も、十分に「おおいなる」と呼んでよいほどの力であり、われわれはもともとこの力に導かれてこの地に生まれてきた。空中に生まれてきたわけでは誰もない。カルマの増大とは何であるか? それは<<蛇教の功徳である>>と、この構造が看破されないかぎりわれわれの脱出はない。
蛇にそそのかされてこの地に落ちてきたわれわれは、まるでコント劇のようだが、地上に落ちてきてもなお、蛇にそそのかされっぱなしが続いているのだった。天上から誰かが見ていたとすると、「なぜ懲りないんだ?」と、呆れるというより不思議がるのはなかろうか。
仏教においても、悪魔(マーラ)は蛇の姿で描かれている。
僕自身、これまで自分が生きてきたすべてのことを顧みて、ここで話した意味においての、「蛇教徒です」という確認と表明をするのには、これという苦もなければ違和感もない。僕は極端な聖者を除いたすべての人と同じように、蛇教徒としてこの世に生まれ落ちている。僕は現在も蛇教徒だが、<<蛇教の教えを優れたものだとはすでに信じていない>>。どう見ても、見上げた先から得られたらしい古代からの叡智のほうが、理法において優れているのは明らかだ。けれども同時に、蛇教徒としての自分や、蛇教のすべてが、無意味なものだとも思えない。アダムとエヴァの成り立ちからいうと、そもそも蛇教がなければ僕の存在はなかったのだ。もし僕自身の存在がなかったとすれば、一も二もなく蛇教は無意味なものであって、この世界には神仏と聖霊さえ存在していればよかったと断言しえよう。だが「われわれはどこから来たのか」といって、己の出自が蛇によるそそのかしから生じているのであれば、僕には蛇教をゼロまで否定する権限はない。もともと蛇教の申し子としての僕しかこの地上に生まれ落ちることはなかったのだから。
もちろんこのことは、拝蛇教につながるグノーシス主義に近傍していくのではあるが、僕はそんな大げさなことにしたくはないし、そもそも僕はグノーシス主義が正しいとも思っていない。僕は僕の知っていることしか話さない。調べたことを話したりはしないので、今ここで話しているのは、僕がこれまで生きてきて知ったことだけだ。僕は僕を牽引しうる二方向の力について信徒たるしかなく、ただ導かれる先に一方を選び、もう一方は選ばない。そのことについて、今さら二股膏薬はない。蛇の声をよく聴きながら、その声へついてゆくことはもうない。
そして僕だけでなく、すべての人も、構造上、二方向の力の双方に対して信徒たらざるをえないはずだ。「すべての人」というのは、もちろん、すでに人でない存在については除外している。
カルマの対極に徳性がある。カルマを償却し、身からカルマを減らしていくことができれは、身には徳性が拓けてくる。そうすると、これまでになかったよろこびや、うつくしさ、祝福や福音が、愛や感動や光となって、この身に降り注いでくる。集中と忘我のときはいくらでもあって、それが積み重なってくると、明らかにこれは自力ではない、何かに助けられているなとか、何かに導かれているなとかいうことが、いっそ力づくという感じで確かめられてくる。僕がこれまで生きてきた時間は、どこを振り返っても「もう二度とムリ」というようなことばかりで、またどの瞬間を振り返っても、僕の実力ではムリと思えるようなことばかりだった。だからこのごろはもう、自分の実力などという、どうでもいいものは初めからあてにしないようになった。どうせ、何かに助けられればなんとかなるし、何かに見放されたらもう何事も為せないだろう。僕に出来ることは、あらゆる局面で、導かれたとおりに身を放り込むことだけだ。それはもはや、選択の余地がないというぐらいで、いっそ僕は投げやりに、「はいはい、わかりましたよ」と身を放り込んでいるのだった。今こうして書き話していることだってそうで、僕は蛇の声を聴きながら、まったく異なる方向へ身を放り込んでいる。
カルマの対極に徳性がある。カルマが償却されれば、身に徳性が拓かれてくる。それはそうに違いないけれど、一方で、蛇の声を聴けないような奴にはなりたくないな。そんな、つまんない奴にはなりたくない。偉い人にはそういったオフザケが必要ないことも重々わかっている。だが僕はそういった偉い人ではない。よりによってこの僕が、蛇、悪魔、デーモン、ダイモーンの声が聴けないだと? そんなことがあってたまるものかと思う。僕は僕の、僕である理由、パスポートを手放した覚えはない。
僕はいつだって冴え冴えと、蛇の声を聴いていよう。ただ、そちらにはいかない。蛇の声を聴きながら、そちらに向かわねばならないというルールはない。悪いそそのかしはいつだって好きだが、それをいちいち真に受けるほど僕もかねてよりガキじゃない。どうしても用事があるというのなら、蛇の側が僕についてくればいいだけのことだ。僕を存在させてくれたよしみの仲ではあるわけだから。やがて、といっても何億年先か知らないやがてだろうが、永遠の国に帰参せねばならないのは、アダムとエヴァと「蛇」なのだろう。カルマを償却するといって、その正道は、牽引力たる蛇を毛嫌いすることではない。最終的には、あるいは手短には、<<蛇が僕を信仰すればそれで済む>>話じゃないか。僕が蛇を信仰するよりは何万倍も面白いだろう?
カルマを償却すれば徳性が拓かれるという性質について、重要な、本来的な視点を示した。カルマを毛嫌いすることは本質的ではなく、むろん、カルマの側へ引き込まれていくのはさらに本質的ではない。自分を引っ張り込もうとする蛇がいるなら、その蛇ごと光へ牽引されていくようでなければしょせん怠惰の一言に尽きる。人はときおり、何かに手を合わせるしかないという局面に至るが、一方では、何かに手を合わせていてもしょうがないという局面にも出くわす。後者の局面のほうが遥かに多い。二重の相克する神話に挟まれていなければ、全体の構造はいつまでたっても見えてこないだろう。ダサいことはやめて――聖なる気分に浸るがごときはいつだってダセーんだから――<<蛇教徒のままカルマを償却せよ>>。蛇が僕を牽引するのでなく、僕が蛇を牽引するのなら、僕は常に神と蛇の中間にいて、いつまでも中庸であれるだろう。
[蛇の声を聴け/了]