No. 387 ワールドガール、ヘヴィババアは真実を一度も知らずにゆく
恋あいがとっくに壊れているように、読む、ということもとっくに壊れている。
なぜ壊れているかというと、遅いからだ。
だからさっさと読め。
なぜ遅くなるかというと、愛していないからだ。
愛がないから遅い。
愛がないと、あなたのやっていることは、読んでいるではなく「疑っている」だ。
疑いマンに合わせて作文することは、可能だけれども、何の意味もないので、いいかげんやめようと思っている。
恋あいが壊れた理由と読むことが壊れた理由はまったく同じだ。
遅いのだ。なぜ遅いかというと、重いからだ。
なぜ重いかというと、呪縛に掛かっている。
呪縛に掛かって、疑い、それだけを真実のやり方と思っているので、もうその陥穽から出られないのだ。
あなたの知っている「読む」という行為は、一生モノのウソで、ウソのくせに重くしんどく、それでいて何の役にも立たない。
役立つものが欲しければ筋トレだけしていればいいことになる。筋トレは役に立つ。
そしてあなたを何も救わないだろう。
さっさと読むのがいい。
さっさと読めれば、あなたにも恋あいが恢復する、かもしれない。
女の子に、僕が「おいで」といって、0.2秒後に僕のところに来たら、それではもう間に合っていない。
疑ってから来たなら、それはもう、男に呼ばれた女の子が来たことにはなっていないのだ。
情報集めの疑った何かが、ノシノシ来た、ということにしかならない。
事実、最近の女性は、立ち歩くだけでもノシノシしていないだろうか。
身が軽いフリをしてもだめだ。
どれだけボルダリングに上達しても、ジョギングで膝を上げて走っても、それは身が軽いということにはならない。
人がまともなキスを決断できるのは千分の一秒ぐらいであって、それ以上思案すると、それはただの性的捺印にしかならない。
性的捺印としてのキスは気持ちが悪い。
どんなエロマンガをスマホで読んできたにしても、キスはハアハアしてするものではない。
キスなんてものは、「したっけ?」と、記憶に残らないぐらいでいい。
人は血によって生きており、生は呪縛だから、血に近づくほど人は重く、遅くなる。
だから粘膜の行為は、皮膚の行為よりグッと重くなりがちだ。
重くなりがちといって、そのままズッシリ重くしてプレイすると、本当に呪われるので、やめておいたほうがいい。
ズッシリ重くした粘膜の行為、あるいはその誘いは、合意が取れればセクシャルハラスメントにはならないが、合意が取れていてもやはり、それはセクシャルストレスなのだ。性欲でヒートすると、ストレスはそのとき認知できなくなるが……
それでもストレスは蓄積するので、ズッシリ粘膜行為を二回なり三回なり繰り返すと、それだけで人は猛烈に苛立ってきて、自律神経と機嫌を損なう。
血、粘膜、皮膚、その他、あらゆる挙動や営みを、ズッシリ行為にすることで、人はヘヴィババアになる。
ヘヴィババアがどういうものであるかは、各家庭に訪問営業でもすればわかるようになる。
現状、何をどうやっても、恋あいなんてものは不可能だろう。
たとえ女子小学生でも、すでに呪われており、すべてが失われないタイミングで動くということがすでにできない。
なぜできないかというと、すべてのことを疑うように、と教育したからだ。
それはこのご時世としてしょうがないことではある。変質者は度が過ぎているし、届くメールはスパムばっかりだ。
そうして、すべてのことを疑い、何一つも愛さないように、と教育してきたので、残されているのは、ただの「生」だけだ、ということになる。
生は呪縛であり、競争であり、競争だからマウントであって、業(カルマ)の中でそのすさまじさを発揮していく。
だから、このごろは子供でさえ性能が高い。
性能だけが高い。
むかし、テクモのシューティングゲームで、「スターフォース」という名作があったが、そのレトロゲームには伝説の「ゴーデス100万点ボーナス」というのがあり、僕が子供のころは誰もそれが取れなかったのに、最近はもう小学生でも取ったりするそうだ。
性能は上がっているのだろうが、そうして100万点ボーナスを取っても、きっとそんなに楽しくはないのだと思う。
僕が子供のころ、ゲームセンターで、初めて上級プレイヤーが「ゴーデス100万点ボーナス」に到達したとき、みんなでテーブル筐体を囲みながら息を呑み、静まりかえって見守りながら、ボーナス獲得の直後、怒号をもって賛嘆したものだった。伝説の一夜だった。
それは伝説の100万点ボーナスだった。
たぶん、今僕がやっても、相当練習しないと、100万点ボーナスまでたどり着けないと思うのだが、最近の子供はきっと、恬淡と攻略を覚えてゆき、それなりの達成感をもって、100万点ボーナスを獲得するだろう。
性能は上がっているのだが、それは危険な兆候だ。
少年兵でもアサルトライフルの使い方を覚えられるように、人は、愛を与えられないまま業(カルマ)の環境に閉じ込められると、その業(カルマ)の力によって、極端な力を解発するからだ。
グローブを嵌めてリングに閉じ込めると、強制的にボクサーになるし、制服を着せて窓口に閉じ込めておくと、強制的に銀行員になるのだ。
『制度」に閉じこめるということ。
すべての「業者」はそのようにして生成されている。
業務という現象、つまり「プロ」というのはそうして作られるのだ。
誰だって社会人も三年目になると、学生には絶対に負けない、という自信を持つようになる。
それは、閉じ込められて解発する「業(カルマ)」によって得られた力は、生という機能の底から出て来た、強烈な力だからだ。
だから負けないという自信が確実に得られるし、それと同時に、もう何か、二度と戻ることはできない、大切な何かを失ったのだ、という感じもする。
むろん、業を深めたので、もう光はないのだ。仮に光を取り戻すにしても、大きな覚悟と努力がいるし、何より導いてくれる誰かと出会い、その機会を得るという運が必要になる。
もしあなたが、何か単純な性能だけを上げたかったら、あなたは自分自身を閉じ込めればいいのだ。
閉じ込めた上で、「ここで生き残らねばならない」というストレスをかけることだ。
われわれの「生」というメカニズムは、「生き残る」ということについて、知られざる凶暴な、強烈な能力を潜在させている。
閉じ込められて、「生き残り」を賭けられないかぎり、その潜在している能力は顕在化しない。
この、「生き残る」という状況のために用意された、潜在の能力を引き出すと、視力が変化するというか、物事の見え方がガラリと変わるのだ。まったく未知の現象で眼球がギロリと変質する。
それが生きていくということだと言われたら、そうなのかもしれないが、僕はそのようには思っていない。
見え方がガラリと変わるというのは、色んな意味で困っている人をパッと見つけられるようになったり、あぶく銭の溜まっている場所や、資金繰りに苦しんでいる事業主が、瞬間的にわかるようになったりするということだ。それについての記憶力も格段に伸びる。
つまり、「カネの匂い」を嗅ぎつけられるようになるのだ。本当に鼻で嗅いだハイエナのように。その能力の解発は本当に驚くべきもので、いったんその解発が始まると、もう半年後には元の友人から見て「こんな人だったっけ?」と、人相も気配も人柄もまったく変わった別人になってしまう。視力が変わっているので目つきが違う。
「アメリカン・スナイパー」という映画を観ただろうか? 当作はノンフィクションのレポートを元に作られており、作中、戦場を経験してきた兵士が、どのような潜在能力を解発して帰ってきたかが、わかりやすく描き出されている。見ていると、「本当かよ」と疑いたくなるのだが、僕は本当だと確信する。「業」というシステムはそういうものだからだ。
どれだけ元の人柄がやさしく、よい夫であり、よい父であったとしても、閉じ込められた環境で「生き残り」をやらされると、生のメカニズムは生き残りを優先し、人柄など粉砕してでも、潜在させていた能力を解発してしまうのだ。
基本的に、解発された業の力は、いったん解発された後は、消えることがない。元には戻らない。目つきが変わってしまったものはもう戻らないのだ。高度な覚悟と導きを得て「解脱」すれば話は別かもしれないが、解脱なんてそもそもわれわれの生きていく中で前提できるレベルのことではない。
かといって、業を深めないと、生きていく力が得られないし、そうして生きていく力を得たら、代償として、もう何のために生きているのか、生きていく理由たる光を失ってしまうし……
解脱したい奴は解脱すればいいのだろうが、解脱といって、それを達成できる力が欲しいと望むと、山寺に自分を「閉じ込め」て、またそこで業を深めるということもおうおうにしてあるのだ。むしろパターンとしてはそちらが大半になるのではないだろうか。
だから僕は、さっさと読めと言っている。つながりはわからないだろうけれども。
愛というのは、世界愛のことだから、さっさと読まないと世界が視えず、愛が恢復しないのだ。
能力によって読むな、どうせたいした能力でもないくせに(失礼)。
愛によって読め。
愛によって読み、感動するのだ。
「スターフォース」も、感動しながらプレイしろ。100万点ボーナスを取って感動しろ。
感動するヘタクソのほうが何倍もいいのだ。生きていくには不利になるが、そんなていどで不利になるあなたのヘッポコ具合が悪い。
これはテキトーに言っているのではなく真実を述べているのだ。
生きていくためには、業を深めたほうが有利だが、そうして有利さを漁らないと生きていけないほど、あなたの本質がヘッポコなのが問題なのだ。
だからさっさと読めと言っている。
あなたにまともな愛があるなら、あなたは読解力というクソみたいな能力を使わなくても、ただ愛によって読むことができ、読破と共に感動することができるはずだ。
ヘヴィババアは真実を一度も知らずに生きてゆく。
ヘヴィババアは、「さっさと読め」と、誰にも言ってもらえなかったのだ。
愛によって読んで、感動しろ、ということを、誰にも導いてもらえなかった。
ヘヴィババアは、誰と誰が結婚するかに目を光らせており、結婚の相性と結婚の本質について一家言を持っているが、その一家言を何億回と繰り返して言いたがる一方で、まともなラブレターは一行も書けない。
愛によって書き、愛によって読む人が感動するということを、これまで一度も知らずに来たからだ。
愛によって読めと言われても、初めは愛がわからないので、さっさと読むしかない。さっさと読めというのはわかるだろう。
さっさと読むためには、もう疑っている時間をキャンセルするしかない。
すべて肯定して読むのだ。すべて肯定して読み、読破してクソだったら、その後ただちにゴミ箱に放り込めばいい。
そうして、すべて肯定して、Yesの力で読むことを愛という。
没頭して読むのではない、空間のすべてを肯定して読め。
空間のすべてを……
ヘヴィババアは、重力、つまり重さと力の人となった。
ヘヴィというのはそういうことだ。
対比して、ここで空間というのはYesであり、世界のことだから、ヘヴィババアに対照するのはワールドガールということになる。
ワールドガールは空間のすべてを。
重力の反対は光だ。だから光のまま読め、ということになるが、光のまま読めと言われても、そんなことわからないので、せめて軽さを知れ。軽ければさっさと読めるはずだ。
内容がどうこうに関係なく、軽く読む、なぜならば、文章に内容など存在していないからだ。
なぜ「文章」がすでにあるのに、そこにありもしない「内容」などというものを捏造するのか。
あなたが「内容」などと言い出して、ズッシリ読み始めるということは、あなたが女性のくせにノシノシ歩くということであり、あなたのキスがズッシリとした性的捺印になるということだ。
だから、さっさと読めと、僕は言っている。
あなたはヘヴィババアと異なり、少なくともここで一度、真実を知ることができた。
内容なんてなければいい。文章には内容などないと、書いている僕当人が言うのだから間違いないだろう。
内容がなければ、あなたは内容がなくなるが、内容がなくなれば、あなたは光になる。
光になれば、時間は流れていないということがわかり、永遠ということがわかり、実感とは異なる存在の世界が視えるようになる。そのときあなたは世界だ。
こんなこと、理解しようとするだけムダだ。さっさと読む、というほうがずっとマシだ。
さっさと読むことで解放されろ。
解放は、閉じ込めの逆だ。
僕はむろん、自分にも際限のない解放を与えるために書いている。
読むことで解放を得るということが読むということの恢復だ。
同じように恋あいも、解放を得るために愛し合うなら、恋あいが恢復する。
まるで逆の恋愛を考えている人がおり、彼らは恋愛の内容を考えているが、多くの人はそうして、真実を一度も知らずにゆくのだ。
さっさと読んで、さっさと愛せ。
何度でも思い出せばいい、われわれにとって「生」はイコール「閉じ込め」だ。
だから死ね、と言っているわけではない。そんなに急にバタバタ死んだら困りものだろう。
死ねと言っているのではなく、このことを知らないと、あなたが殺されるのだ。閉じ込められて、絶命させられることになる。
絶命というのは、生きているのに、もう何の命もないという状態だ。
何度でも思い出せばいい。「生」はイコール「閉じ込め」であって、われわれは死に怯え、だから閉じ込められることを許容している。「生き残る」ために……許容して、長いときが経つと、絶命してしまい、もう何もかもわからなくなるのだ。
そのことは、あなただけではなく、あなたがこれまでに目撃してきた人、またこれから目撃するすべての人に及んで、その魂を支配している。
このことを知らないと、あなたは自分の魂がわからなくなり、同様に、目撃するすべての人が、真相としてどうなっているのかがわからないのだ。
あなただけではなくて、あなたが目撃するすべての人もそうなのだということ。
みんな死に怯えている。こころが怯えているのではない。
生体が怯えている。本人の意志は関係ない。
死に怯え、初めから閉じ込められて、絶命してしまい、ずっと苦しくて、すべての仕組みはわからないままなのだ。
苦しみの中、人は年老いてゆき、「何もわかりません」という白痴ぶりを見せるようになり、「あのさあ」とすぐに憤怒・恫喝するようになり、あるいは目をうつろにして一つのものを中毒のようにむさぼり続けるようになる。わざとそうなるのだ。
わざとそうしていないと、自分がとっくの昔に絶命しているということの寂しさに、気づいてしまいそうでおそろしいのだ。そういうメカニズムが、もともとわれわれの身には備え付けられている。
あなたは内容のない光にならねばならない。「内容」というこだわりが、その字義のとおり、実に閉じ込めに案内していることに気づけばいい。
解放されていれば内容はない。
ワールドガールに内容はない。
「世界」があるのにどうして「内容」が同居しうるだろうか。
「解放」ということは、字義のとおり、「内容」をやめたということだ。
だからさっさと読め。さっさと読めるように、この文章は光として書いた。内容はないのだから、内容にこだわっているとしたら、それはあなたの側の錯覚でしかない。
文章には光があり、それは言葉そのものの光だ。
あなたはさっさと読み、さっさと愛し、あとはときおり無駄遣いでもすればいい。それは、自分が閉じ込められていないことの証拠として。
あなたが無駄遣いと知って無駄遣いするかぎり、あなたはそれで死んだりはしない。
つまりヘヴィババアの逆をしろ。
無駄遣いというのは、生を内容のないことへ消費するということだ。
生を内容のないことへ消費するとき、あなたの恋あいは恢復するだろう。
それは、恋あいというのが、まさしくそういうものだからだ。
恋あいには命があり、命しかなくて、内容がなく、世界に適合し、それゆえに祝福を受ける。
さっさと読んで、さっさと愛し、無駄遣いをして、光を視ろ。文章には光がある。書くことには光があり、それを読みとれる者は光を読む。内容を読まない。
光なんてふつう読めないが、今はあなたも疑わなければ光を読めるかもしれない。
[ワールドガール、ヘヴィババアは真実を一度も知らずにゆく/了]