No. 388 愛の世界について投げやりなレポート
掲題のとおり、愛の世界について投げやりなレポートをする。
なぜ投げやりかというと、こんなもの、もはやどう説明したとしても、ひたすら胡散臭くしかならないからだ。
よって、もう面倒なので、何の保証もないまま、実際に起こったことだけを恬淡とレポートしておく。
周りで見ていた人は感動していたそうだが、ことレポートということについては、そういう感動の成分は必要ないだろう、僕だって何か誤った感動で誤解を膨らまされても困るので、何のよろこびもなしに冷たいレポートをする。
僕は愛の世界に冷たいものを向けることはしない、ただ愛の世界についてのレポートは愛の世界そのものとは無関係なので、合理的に冷たくレポートしようということだ。
さて、われわれの身に、仮に「魂」なんてものがあったとしたら、その魂は天から来たのか地から来たのか、われわれにはよくわからない。
そして、身体が死滅したあと、その内部にあった魂が、天に行くのか地に行くのか、天に帰るのか地に帰るのか、それもわれわれにはわからない。
魂が地に「帰る」のならば、それはその人の魂が地を「元」にしているということであり、このことを指して「地元」という。
だから、「地元のつながり」という、わかりやすいものが実際にわれわれの生活文化にある。文化のみならず、実際の作用および、実感としてそのつながりはある。
魂が地に帰る人には、そうして「地元」および、同じ地に魂が帰る者同士としての、「地元のつながり」が生成される。「地元」といっても、地面にそこまで区割りがされているわけではないので、おおざっぱに見れば、魂が「地」に帰る人はすべて、それぞれの距離感において「地元のつながり」の中に属していることになる。
一方、魂が「天」に帰るという人は、地が元ではないので、地元がない、ということになる。この人は「地元のつながり」がない、ということになる。
「地元」がないということは、代わりに「天元」がなくてはならないということになりそうだが、この「天元」というのは何なのか……話をすっ飛ばしてしまえば、「天元」というのは実際にある。「地元」という現象が実際にあるように、「天元」という現象も実際にあるのだ。ただ、それは「地」に比べると、わかりやすく足で踏みしめるとか地図で確かめるとかいうような「観測」の方法がないので、あまり「地元」という現象のようには強く確からしく言われることがない。とはいえ、観測の方法がないだけで、「天元」という現象もやはりあるのだ。ただこの「天元」の該当者は、数が少ないということもあって、ますます表だってはそのことが言われなくなる。
「地元」という、つまり「同じ地を見つめてきた者たち」という現象があるように、「天元」という、「同じ空を見上げてきた者たち」という現象もある。「天元」はどこまでいっても「地元」のようにわかりやすくはならない。
「地元」というと、たとえば何かしらの「振興会」のような集まりで、連帯を持つようになるのだが、「天元」のほうはあまりそうした位置的な集まりを持たない。天元というとき、天は天であって、「どこ」というものでもないからだ。天というのはいつも頭上にある「あそこ」であるので、天元出身者は位置的に集まってどうこうという取り組みをあまり持たない。
それでも、「同じ地を見つめてきた者たち」に生成される独特の連帯と同じように、「同じ空を見上げてきた者たち」に生成される独特の連帯がある。
ただ、この「天元の連帯」が、「地元の連帯」よりもわかりづらいのは、そもそも天元は観測不能であるため、天元を見上げることじたいは自分ひとりでしかできないということなのだ。観測が可能なものなら、その観測結果を万人で共有することができるが、観測不能のものは、それぞれがその瞬間に作用を受けるなり発見するなりしか方法がない。「地元」の連帯というのは、同じ地を見つめるという時点から、集団的にそれを見つめることができるが、「天元」の連帯というのは、同じ空を見上げるという時点では、自分ひとりでそれを見上げることしかできない。
天元出身者は、 "必ず" 、この「一人で空を見上げた」「そして何か作用を受けるか発見するかして」「なんなんだこれは、と不思議がった」という体験を経てきているはずだ。
天元に属する者はけっきょく、そうした天の作用を受けたのち、誰かと一緒になって地を見つめるということをせず、どこかひとりで「あのときの空(の続き)」をこっそり見上げるということを続けてきたはずだ。
つまり、「地元」という現象は、その成り立ちから可視的に連帯しているのに対し、「天元」という現象は、その成り立ちにおいては不可視的な連帯しかない。
ただそれでも、天元の連帯はやはりあるのであって、それが成り立ちにおいては不可視だったぶん、連帯の作用へ到達すると、その作用は距離や時間や、時代や蓄積量といったものに左右されない。失われることがないし、時間で摩滅していくこともないのだ。
僕の場合、見上げた空は七割ぐらい夕焼けで、三割ぐらいが(白雲の混ざった)青空だったのだが、他の天元出身者がどのような空を見上げてきたのかは、現時点ではよくわからない。
しかし、今はっきりと、この天元の「連帯」において、天元出身者は "必ず" 空をひとりで見上げて、空をひとりで愛してきた、ということがわかる。
僕はどんな場所も、どんな広場も、どんな街も、どんな草原も、「空の下」のものとして体験してきた。
「地元」の連帯を得るためには、じっくりとした付き合いの、時間と量が必要だろうと思われるが、「天元」の連帯を得るためには、そうしたじっくりとした時間と量は必要ない。同じ空を同じくひとりで見上げていた同士は、互いにそうとは知らずとも、何かしらで出会ったとき、わずかでも接触するともうその瞬間に愛でつながってしまい、その後はずっと減衰することのない「連帯」の関係になる。その接触が0.5秒であろうが、その後地球の反対側に離れようが、愛の連帯は失われはしないし減衰することもない。ただ、観測はできないので確かめようがなく、また観測できないので見失われやすい。
それは本当に「愛」なのだと思う。つまり「愛」という現象が、われわれが漠然と持ってきたイメージのそれとはあまりにも異なりすぎるということなのだ。アルファベットでエル、オー、ブイ、イーと表記するが、これは英単語ではなく、それぞれ四つの文字に意味があって、一種の四字熟語のような形態を為しているような気がしてならない(この話はまったくの当てずっぽうで何の根拠もない)。
L・O・V・Eをひとつの単語として読もうとするのはあまりにもヘンだ。誰かこの語の成り立ちの秘密を知っている人もいる気がするのだが……
あるいは僕が、今また別の何かを発見しようとしていて、そのせいでこの文字列から何かの作用を受けているだけかもしれない。
僕自身に起こったことをレポートするしかないが、天元出身者の連帯、愛の連帯というのは、あるとき突然、急激かつ一斉に発生する。「そのとき」が来たら、急に連帯の作用を受けて、その後はもう基本的に、ずっとその作用を受け続けるのだ。
天元の連帯は、地元の連帯とは異なり、「協力」という形を取らない。なにしろ「協力」と言われても、天元連帯者は位置も離れていれば時間や時代も異なっている。それでも届くのが愛のいいところだが、「力」の場合はそうして座標が離れていては力の及ぼしようがない。だから天元の連帯は相互に「協力」というわけにはいかない。
上手な説明にはならないが、天元の連帯は、力ではなくやはり愛だということになる。愛のメッセージが届いたりするわけではない。愛はそもそも魂と同じと言ってもよいものなので、愛のメッセージではなく愛そのもの、魂そのものが愛としてすぐ身近に寄り添い、ぐいぐい吹き込んでくる。吹き込んでくるというか溶け込んでくるというか、その作用が入り込んで来、一種の「圧力」のような現象を生じる(ただしもちろん、一般にある不快な力そのものの「圧力」ではない)。
連帯というのは、基本的に「横」の連帯をするものだ。天元の連帯も「横」の連帯を為している。そして、この「横」の連帯として、愛・魂そのものが横から吹き込んでくる・溶け込んでくるというとき、その吹き込んでくるものは、なぜか知らないが「脇腹〜あばら骨のあたり」に吹き込んでくる。その他の部分もあるのかもしれないが、なぜかメインの流入は横・脇腹から入ってくる。
僕がこれまで出会った中で、0.5秒でも接触して(映像や資料を通して、一方的に接触するだけでもよい)、そのとき0.5秒でも愛した人のすべてが、急に「天元の連帯」として、物理的というほど僕の身を取り囲み、まるで満員電車か、大混雑した何かのフェスティバルのように、僕の身を押しつぶしてくる。それは苦しみの圧力ではなく……しかし実際に僕は自分の身を内側へすぼめるようによじらせずにいられない。
己の魂を向上させ、それをついに頭上に解放するのだというような捉え方が、たとえばヨガやチャクラの思想においてはありうるだろう。僕はこれまで、魂を己の頭上に解放するというやり方を、あくまで自分のソウルのみで振る舞って来、それだけでもこれまで十分な好評を得てきたのだが、先日、三〇時間続けて遊ぶという機会があったとき、「さすがにソウルも尽き果てるな」と奮闘していたところ、何か別の方法を探さねばならないと思い、そのうちにこの「天元の連帯」という現象が起こった。天元の連帯者が急に、一斉に、これまで僕が愛したすべての人(注・犬や猫さえも、愛したなら含まれるようだった)の群衆として僕を取り囲んで励ましに押しつぶし、僕に向けて「お前の番だ」と……左右の脇腹から愛を流しこんでくる。僕はたまらず身を内側へすぼませるようによじってしまうが、そうして左右の圧力によって僕の魂はかつてない明瞭さでスポーンと頭上へ飛び出してしまうのだった。もはや自分で魂を向上させて頭上へ解放させようという集中や内部的体勢さえ必要としない。横からぐいぐい来られて、「お前の番だ」と励まされ続ける中、「わかった、わかったから」と、僕はただ自分の番を果たそうとする。そうして左右から盤石の援護を受けているぶん、僕は何をするにも今さら迷いの生じる余地もなくて、魂を頭上へ高めるどころか、もはや「この "魂" が入るのは、誰の身でもよいのだ」ということまで、思索なしに直接知られた。「番」といって、一般にどんなことでも「当番」があったりするものだが、その「番」というのは、ただ果たされればよいだけであって、それが果たされるならもう「誰でもよい」のだ。あとはその「番」というものを、よろこんで自分が果たしたいかどうか、ということになる。僕は、この愛の(当)番を果たせということについては、今さら考えるまでもない、その番を務められることがもしあるなら、よろこんでしかるべき番を果たそうと思ってきたわけだから……
僕はしばしば、われわれの見ている「人」とは何なのかということを考える。特に、実効的に、「人」が表示されないと何事も面白くないということがあり、その表示法としても「人」とは何かということを正面から考えてきた。そして、魂を向上させて頭上へ解放させるというとき、何十時間もぶっ続けで解放を保ち続けるのは、休憩なしには大変なことで、何かより上位の、より精髄に及んだ方法が必要だと考えていた。そのとき、魂を頭上に解放するというのなら、「人」が表示されるのは、「天」が表示されていてこそだということに気づいた。「人」は「天」と同時に表示されてこそ、そこに「人」があるということが視える。このことに気づいた直後、なぜか唐突に、これまで僕が愛してきたすべての人も、まったく同じことに向き合って、まったく同じことを考えて、同じように気づくというプロセスを経てきた――あるいはこれから経ていく――のだということがわかった。僕の愛した人はすべて、今の僕と同じことをしてきたのだ。そのことがわかったとたん(なぜ急にそのことが直覚されたかについては現象の正体も理由もわからない)、なぜかその "同じことをしてきた人々" のすべての霊魂が僕の周囲にワッと集まって来、横から僕を押しつぶして「きみの番だ」と励ましてきた。
僕はこれまで、自分で何かを「やりたい」と考えたことはなく、すべてのことは気づくと「何かによって、やらないわけにはいかなくなっている」のだと、笑いながら捉えてきたが、今になってそれが「番」なのだと考えると、僕にとってはすべてのことに整合がつく。「番」なのだ。むろんその番を果たすにあたっては、僕自身の個性も発揮せねばならないし、番を果たす中で僕の大好きな自由をやらせてもらうけれども、僕はその自由を用いてこのことの番を果たしたかったのだ。 "同じことをしてきた人々" は、先人としては時間軸上すでに一定の番を果たしてきており、時間軸上であとに続く人は、これから先のいずれかにやはり一定の番を果たすのだろう。そのとき僕の身を取り巻いて押しつぶすほどだった愛の感触は、まさに僕の定めようとしていた<<「人」そのものの感触>>だった。
魂の(頭上への)解放といって、それが漠然としたイメージやそのつもりになった妄想に耽るがごときを、僕は好まない。よって僕は、観測できるたぐいではないにせよ、実際に目の当たりにして十分な説得力を持つ事象だけを評価している。聖書に精通したところで人が聖人にはならない。僕はこれまでに僕の愛したすべての人の霊魂に包囲され、脇腹から愛で押しつぶされて魂が頭上へあっけなく押し出されるという状態になったとき、自分の声がガラリと変わることを、いっそ笑いが止まらないほど体験し、それを周囲の人たちも目撃して呆然としていた。歌や詩文を為す声が、実声でありながら明らかに頭上へ放り出されていて、その奔騰が止まらないにも関わらず、その奔騰には何ら当人の肉体的・気魄的な勢いを要さない。実際、やりたくてやっているというのではなく、脇腹から押し込まれて、まるで左右から押されたマヨネーズ瓶がマヨネーズを噴き出すよりしょうがないことのように、頭上へ魂が解放されてしまい、そうして両脇から愛を流し込まれているからには、もう魂を引っ込めることもできないのだと、当人も笑うよりしょうがないようなありさまなのだ。またこれまでのやり方と差異が生じるのは、これまでのやり方では頭上へ魂を解放するにしても、そのぶん身から魂が抜けてしまうので、当人の肉体の鮮明さがやや不明になるというところがあった。だが今新たに得られた天元の連帯においては、僕の肉体には左右から押し込まれた「愛」が満ちることになり、僕の魂は頭上へ解放されるのだから、僕の身は「愛」になり、「僕」そのものは頭上へ解放されるということになる。このこともあり、実際に目撃していた人のヒアリングからは、確かに旧来より「身」の鮮明さが露骨に生じていたということが確かめられている。また僕は、ワークショップ等で、血と筋肉から生じる「力み」の一切を、極端にまで消す(あるいはまんべんなくコントロールする)という方法を唱えている者だが、この「天元の連帯」のときに僕の指先に触れた人は、「もはや赤子というよりも力が抜けている、ただの水が入った袋のようだった」と報告している。
愛の世界というのは実際にある。それは、世界の中に断片的な愛が交わされているということではなく、 "湖が水で構成されているように" 、その世界は愛でのみ構成されており、その構成の成分そのものの手ざわりと絶え間なさを世界と呼ぶのだということ。試験管に容れた水を砂地に垂らしたとき、それは「水のある世界」とは言い得ても、むしろ水に対してネガティブな、水が滅び失われてゆくための世界というふうに見える。このとき「水のある世界」の表示は逆に「枯れきってゆく世界」の表示を為しているだろう。動物園があるのはサバンナではなく市街であるように、断片化した愛の恣意的観測をしている空間は愛の世界ではなく業(カルマ)の世界だ。
愛の世界は実在しており、それはどこに存在するというより、これまでの説明どおり座標とは関係なしに存在する以上、いつでも「今ここに」存在すると言いうる。要は座標ではなく自分の所属によって決まるということだ。そして愛の世界というのは、思ったよりも sure に、何であれば solid(固体的) に存在するとさえ言いうる。思ったよりもハードで確かで固体的なのだ。愛に包まれるというのはふんわりした現象ではない。ピチッとタイトにまとめられて、間隙の生じ得ない世界として、愛の世界は存在する。自分も隙間ない愛の軍勢の一員となるのだ。このとき魂の為す響き(echo)は、もはや誰が誰というものでもないのだということを明らかにする。「番」というのは誰が果たしても同じであるから。そのとき、僕が語り歌うというときは、愛の軍勢による脇腹からの流入を受けて一体化している以上、すべての魂の軍勢は固体的(solid)なまでにひとつの「われわれ」となり、つまり僕がこれまでに愛した人たちのすべてがその場でひとつになり一斉に語り歌っているのと同じだということになる。そのとき、もはや「われわれ」という言い方も、これまで一般に使われている言い方はまるで見当違いで意味を為していないのだということがわかる。固体化するまでに隙間なく結束した魂の軍勢が常に「ひとつ」であることを指して「われわれ」と言うのだ。その「われわれ」はいつも僕の周囲にあり、僕が本当に生きている世界はそれなのだということ。いつも疑問と問答ばかり覚えさせる、一見すると世界に見えてしまういわゆる世間のようなそれは、世界ではまるでないのだということ。ただもちろん構造的には、僕のように天元をつながりの拠点にしない側からは、まったく別の確信が成り立つことが推定できるのだから、向こうからは僕がつながっていると主張するようなそれは、世界でも何でもないのだと断定されることになるだろう。それ――向こう側――は地のつながりであり、血のつながりであり、生のつながりだ。地から生るものの恵みを血に受けずに生きられる者などいるだろうか? 僕の愛した夕焼けや青空などは、強いて光合成などにこじつけるなどしない上では、われわれの「生」を援けているものではない。われわれは生きてゆかねばならないという、生というそのものを業(カルマ)として背負っている以上、実際に生きていくこととして援けあえるのは身近にある隣り近所であり、その近所の最たるものが「身内」ということになる。こうして共に「生きる」という業一般を援けあう界もあるのだ。もし天元と夕焼けや青空が世界の拠点なのだという言い分がいくらか理解されたとしても、実際に生きるという業を援けあう「業界」の切実さとその説得力を上回ることはまずない。よってこのレポートは今のところ冷たいレポートとならざるを得ない。天元と地元は、明らかに両方とも存在しており、一方の存在が一方の存在を否定するようないわれもなければその必要もまったくないだろう。ただ「われわれ」と言うとき、天元と地元のどちらが「われわれ」なのかという、己の魂の所属方向だけがそれぞれを分かつ。ただ、単純な数的割合でいえば、どうやら天元を拠点として愛の連帯を「われわれ」とする派はごく少なく、それだからこそ天元や愛をイメージだけで主張するようないかがわしい集団も有象無象に生じて後を絶たないということなのだった。人は己の命・魂がやがて天元へ「帰る」ものだということを、直覚として見つけないと、いかなるイメージへの耽溺や約束事の連帯を強めたところで、隙間のない「愛」というような現象にまみえることはない。「われわれ」という語そのものの定義が異なり、一方は愛そのもの(座標に左右されないソリッドな連帯世界)を「われわれ」と呼び、そうでない方はそうでないものを「われわれ」と呼んでいる。この隔たれたる定義の差は決定的なものであり、決定的であるからこそ、常に明瞭な指標ともなるだろう。
実際に天元の連帯から(常に「地元の連帯」と対照せよ)、隙間ない愛の包囲を受け、それが脇腹へ流れ込んでくると、確信的に魂は頭上へ解放され、「声」がガラリと変わる。そのとき、目撃者からのレポートによると、その姿も視覚的にガラリと変わるようだ。そこには「まったく新しい人」が出現し、それは完全に新しい人でありながら、まさにその人そのもので疑いないものだ、という。輪郭が際やかであり、ゆるぎない存在。そのとき身体は、触れるとまるで赤子よりも力みがなく、ただ水の入った袋のようで、愛そのもの、もしくはただの「愛の容れ物」のように感じられるということだ。周囲の空間は確かに観測不能の「愛」で満ちているように明視され、不思議にその中央にいる「まったく新しい人」は、偉大さや高貴さからさえ離れて、最も親しみやすい誰かというように確信される。また当人としてレポートするならば、そこで身体が水の入った袋のように力みを脱したという感じは今さらしないけれども、何よりはっきりと直覚されるのは、「われわれ」という現象において、目の前にあるものや、目の前にいる誰かたちが重要なのではないということだ。われわれはつい、「重さ」に縛られた世界に肉体を――光ならざるそれを――有する者として、座標上目の前のものや時間軸上すぐ前後のことに囚われがちだが、それはただの重さからの「事情」にすぎず、重さを持たない愛の連帯においては目の前や時間的な前後は何の優位性も持っていない。そもそも愛や魂といったものには時間は流れていないし、三次元上の場所というものも確かには持っていない(ひょっとすると「確率的分布」のようなものはあるかもしれない)。
天元の連帯について、はっきりとした指標になりうること、かつ作用としても大きなインパクトを為す現象についてレポートしておきたい。ここで魂の向きを、簡単に天元者と地元者に分類するとして、われわれは魂の向きがどちらであるにせよ、ふだんはその魂を肉体のうちに呪縛されている。よくも悪くも呪縛されており、半分以上は "保全のために" ホールドされていると捉えてよい。多くわれわれの魂は、単純に言って「迷っている」ので、迷っているまま安易にホールドを外すと、そのとき魂がどちらの向きに泳ぎ出すのかわかったものではないのだ。その意味で、両親が幼子の魂を「あなたはわたしの子です」と、幼子のうちには呪縛しておくのは妥当な保全手段だと認めうる。だが肝心の、そうした管理者当人の側が、迷い尽くしたあげく魂が地を向くのであれば、やはりそれに呪縛されたままの者も、道連れに地へ魂を引っ張ってゆかれるよりない。われわれの身のうちで、魂はそうして、肉体にホールドされ、その他もさまざまな呪縛で安定化させられているのだが、その中でけっきょくの天元者と地元者は、魂の向きによって接触したときに互いに及ぼす<<浮揚と落着の作用>>を持っている。天元者の魂に触れると、触れた者の魂はどことなく、それでいてはっきりと、浮揚・解放の方向へ作用を受ける。地元者の魂に触れると、触れた者の魂は、落着・閉じ込めの方向へ作用を受ける。ここで、すでに強い元への接続と、そこから由来した強い連帯を得ている者ほど、そのそれぞれの仕掛ける作用は強大で明らかなものになる。つまり簡単に言えば、その人がそばにいるだけで・その人に触れるだけで、人は浮揚か落着、解放か閉じ込めの作用を受けるということだ。どれだけ表面上が活発で、表面的な笑顔に満ちていても、そのことと本質的な魂の「作用」はまったく関係がない。もちろん魂の方向が「迷っている」ということもあるので、そのときはまさに、迷っている方位磁針のように、浮揚か落着かよくわからない、無責任な、ふらふらとした作用を受けることになるが……
古くから、「君がいるだけで」「あなたがいてくれたらそれだけで」「君がそばにいるだけで」という、いくつかのラブソングが歌われてきたわけだが、本来そうしたラブソングは、自分の気持ちの高揚や要求を歌っているのではなく、実際にある魂の作用について歌ってきたということだ。もちろん逆の意味で、「お前さえいてくれりゃあ、おれは」と、その作用が求められ、声高に言われてきたこともあるだろう。
実際、機会を得れば誰でも知りうることだが、天元との強い接続と、天元つながりの連帯を巨大に得ている人が身のそばに来ると、それだけで無上の解放が、解放感というより解放そのものの作用として、浮揚の感触で得られ、重く苦しかった何かがただちに晴れ去っていくということがある。場合によっては、保証の限りではないにせよ、いくつかの病気や失調がなぜか治ってしまう場合もあるようだ。この場合、浮揚の作用によって救われた人は、その天元者が何をしたわけではないにせよ、なぜかその人に向けて「あなたに救われた」と言いだす。そうして、魂が受けた作用のまま、救われたとのんきに言いうる場合は安穏だが、とはいえさまざまな事情や思想の上で、そうして救われたということを頑強に否定しなくてはならない場合もあり、その場合は魂の状況が深くこじれる。それは、魂が救われたことに対し、その浮揚の作用をもたらした人を「謗(そし)る」しかなくなり、その誹謗によって、己の魂は逆方向への強い決定力を受けるからだ。諸事情から浮揚を謗るしかない場合、その誹謗の発信者は、誹謗を発信するために、たとえ不本意でも魂の落着と閉じ込めを強固に主張するしかなくなる。
こうしてある意味、素直に捉えればむしろ一般に体験される何かの感触について、 "当たり前だ" と笑いたくなるような構造が、実際にあるということだ。何もむつかしいことはなく、なぜかこの人がそばにいるとどうしようもなく自分は明るく浮揚して解放されていく感じがし、逆の場合には、なぜかこの人がそばにいると、どうしようもなく自分は暗く落着して閉じ込められていく感じがするという現象があるということ。それは、別の見方をすれば、われわれのよく知る「当たり前」のことではないだろうか?
仮にこの作用のことを、天元であれ地元であれ、「単純接触作用」と呼ぶとすれば、この単純接触作用は、その直接の作用のみならず、大きなリスクとトラブルの可能性を内包しているということでもある。このことは本来、もっと強調されて言われてこなくてはならないことだった。天元者Aと地元者Bが接触した場合、それぞれの器量にもよるが、もし天元者Aの器量が内在的にも大きく勝る場合、AとBの接触は、Aの作用によってAB両方ともを浮揚・解放に向かわせるということになる。このときBは、これまでに得たことのない浮揚と解放の作用を受ける。その作用はまさに魂の解放であるから、何であればこれまで信じたことのなかった光だの愛だのも、急激に信じてみることにしようかと方針を転換することにもなりうる。
ただそれでも、ABの関係において、Bがもたらしている作用の方向は落着と閉じ込めなのだ。ごくまれに、AがそのBによる落着作用を「ものともしない」ということがあり、そのときBは、自分の魂が浮揚・解放へ向かうという体験が、どのように生じているのかがまったくわからず、ただ自分の魂に浮揚と解放の性質があるものだと思い込んでしまう。Aの側においては、Bの作用は落着・閉じ込めのほうに作用しているとはっきりわかり、そのぶん負担を引き受けてより強く浮揚へ接続するというトライアルをしているのだが、Bの側は、己の作用が浮揚と解放に加担していると思い込み、Bは己の魂の性質を誤解する。ここでBは、ABの関係をより浮揚と解放の大いなるものにしようと、初めのうちは躍起になるのだが、そのことがA側に快く受け入れられはしないので(Bの出しゃばりは落着と閉じ込めの方向に加担するのだから)、そのことに不満を持ち始める。その不満がつのる先、BはやがてAとの関係を切断することを思いつき、己自身で魂をホールドから離脱させ、自分自身で魂の「解放」をやろうとする。「ふん、自分でやってやろうじゃないか」。ところがBの魂はそもそも落着と閉じ込めの方を向いているので、自らホールドを切り離した先、魂は思いがけない速度で、急に地のほうへ深く深く落着してゆこうとする。それはまさに落下という体験で、地の底へ自分ひとりきり落下し続けていくというヴィジョンを直接視て、体験のまま悲鳴をあげる人もあった。
もちろん逆の構造もありえるだろう。ABの関係が総じて落着と閉じ込めの作用をもつとき、仮にAが浮揚と解放の向きを持っていても、Bの作用が強大すぎて、こんどはBがAを「ものともせず」、総体の方向が落着と閉じ込めに向かっているという場合がある。このとき、Aが己からBを切断すると、こんどは思いがけない速度で天の高くへ飛翔していくということが起こる。
だが残念なことに、実際には現代における単純接触作用は、その多くが落着・閉じ込めの方向にはたらくものばかりだと指摘しなくてはならない。なぜならわれわれは、高い消費水準の中を暮らしており、一方で経済的生産性においては状況が不利に傾いているので、単純に「生きる」ということじたいに困窮してきている。「生きる」ということに大きな助力が要る場合、どうしても「生きる」ということを援ける「地」の力を大きく借りざるをえない。もちろんそれを大きく借りたとして、それだけで魂の向きが決定するわけではないが、そうして大きく借りたもの以上に、天に何かを奉じようとは思えないので、われわれはその己の振る舞いによって、無自覚のうちに自分の命・魂が「帰る」先を、天元ではなく地元だと決定した者になってしまう。これは自分で選んでいることなのだが、自分がどのような手続きでその「定義」をしているのか、その「定義」が為される仕組みは一般にまるで知られていない。われわれは自分の魂の帰る先が天元であるのか地元であるのかを、「定義」するという仕組みによって自己選択している。
単純接触作用は、観測不能のくせにいっそ具体的と言いたくなるような作用で、いったんその感覚を得てしまえば、その作用は明らかすぎるほど明らかだ。特に男女の場合、女性が男性の脇腹にくっついて収まりこむと、その女性から浮揚か落着、解放か閉じ込め、どちらの作用を受けているかが、典型的というほど明らかにわかってしまう。実際にはそこまで密着せずとも、単に目の前の数メートルにいるだけでもわかるものだ。このとき男女がどうこうというのは本質的に関係ないが、女性のほうが魂の感覚的に鋭いため(女性は男性ほど「身」が強靱でないため、その作用を受けやすく、また感じ取りやすい)、ついその身に「寄ってしまいたくなる人」というのがいるのがわかるはず。その人のそばによると、深い呼吸が恢復し、景色が拡がって見え、色は単なる色でなく光を帯び、うつくしい人や季節には無上の芳香が漂っているのが鼻腔の最奥にまで感じられる。それはいっそ、「この人のそばで呼吸していたら、わたしは無敵なのじゃないか」とさえ思わされるほどのものだ。それほどまでに巨大な、浮揚と解放の作用を持つ人がいる。けれどもこのとき、さまざまな「事情」が絡んできて、たとえば強固に男性不信や男性への憎悪を蓄積して来、それを己の思想およびアイデンティティに定義している女性が当人だった場合、よりにもよって間近にした男性の脇で巨大な浮揚と解放の作用を受けたら、逆にその男性を突き飛ばし、血眼になってその男性を謗り、罵らねばならないということが起こる。そしてそれを軽度なり強度なり謗った結果、自分はその先に落着・閉じ込めの方向へ強く決定された誰かと結合しなくてはならなくなる。天元者を謗った後、急激に地元者と結婚に進むというようなことは、実はごくありふれて、頻繁というほどに起こっている。
もしこのようなレポートを、世迷い言の与太話として黙殺せず、少しでも真に受けるということがあったとしたら、そのときはまず、この単純接触作用についてよく知り、それに基づいて自他の関係とそれぞれの性質を把握し直すべきだ。状況は込み入って見えるが、理論的には、見切るべき要素はまったく複雑ではない。
1.魂の向き(天元者・地元者)
2.天元の連帯
3.地元の連帯
4.上下の定義
この四つだけだ。これにそれぞれの注釈を加えると次のとおりになる。
1.己の魂の向き(天元者・地元者)/ただしこれは思想に依らない、思想はどうあれ魂の向きは魂の定義で決まっている。
2.天元の連帯/座標や時間(時代)に関係なく、愛している人がいるか、これは多くの場合、作品を通じて愛することがあり、また作中に現れた人として愛することもある。愛していれば犬や猫などの動物もその範疇に入る。
3.地元の連帯/一般に知られているとおりのこと。どこで育ち、どこの水を飲み、あるいは誰に食わせてもらってきたか等。同窓会や、会社の同期等もそれにあたる。「生きる」中で座標や時間に関連して出会い、相互に世話になった人のこと。
4.上下の定義/自分が「上昇している」と実感される方向のこと。物理的な天地上下と、魂における天地上下は必ずしも一致しない。地が上となることもある、特に「地位」という語に留意せよ。
一般に人は、特に若年のうちは、迷いの中をふらふらしているので、天元の連帯も地元の連帯も、どちらもゼロではない、どちらも微弱ながらいくらかはある、というような場合が多い。ただし若いうちは微弱だったそれも、いつの間にかたちまちのうちに強固な何かに仕上がっていくだろう。どちらの連帯が間違っているというわけでもなく、ただ<<魂の向きとそれぞれの連帯は、順か逆かのいずれかにはたらく>>。それは構造上自明のことだ。天元者が同窓会に出ても逆方向の作用しか受けない・もたらさないし、地元者が赤の他人に向けて何かを歌い語っても逆方向の作用しか与えない。
人々にとって、天地というのは事実として存在しているので、この存在は誤解のしようがないが、「上下」ということについては、それぞれの定義で反転しうるだけ曖昧なものだ。天地のどちらが上下どちらであるかは前もって決まってはいない。物理的には重力の方向を下と呼んでいるが、このことは無視でき、たとえば会社では「重役」のほうを「上」に据えることができる。生きものが生きるには「力」が最優先であり、生存競争に有利であろうとする取り組みはすべて、重さ・力(重鎮・権力・実力等)を上位に据えるよう定義される。よって地元者が「上昇」と実感する作用は「地」に向かう作用だ(落着・閉じ込めの方向)。天元者は逆に、「上昇」と実感するのは「天」に向かう作用となる(浮揚・解放の方向)。
もし誰もが「天」の方向を「上昇」と感じられるものなら、この話はなんと単純化できたものだろう。だがそうではないのだ。人々は多く「地位」にこだわっており、重要な地位に向かっていくことを「上昇」だと捉えている。「重要」な「地位」と示されているように、それは重さの方向であり地の方向だ。どれだけ上り詰めたとしても、積んだ地が天に及ぶことは性質としてありえない。この中でむしろ、天元の連帯を得て「天」が「上」だと捉える人は、ずっと少数派なのだと知ることが、人々の誤解を最も早く訂正するだろう。あまりにも多くの人が、単純接触によって浮揚・解放の作用を受けたとき、自分もそういうものなのだと思い込み、その浮揚・解放の愛の世界において、「重要な地位を占めたい」「そのために上り詰めたい」と考え始めるという、前もって見え透いている矛盾の罠に掛かりすぎる。そうした人はまた、自分をどこかに閉じ込めて我慢を重ね、そこで得た重大な力をもって「高い」地位を得ようとする発想に陥るのが定番だ。
このレポートを真に受けるなら、これまでおよびこれからの、単純接触作用に敏感になり、その内部で魂がそれぞれどのような向きと連帯を得ているかを判断できるようになればいい。天元・地元への向きと接続、およびその連帯まで含めると、その作用はときに想像を超えるレベルで巨大なことがある。一気に空の彼方まで魂が連れて往かれるような、膨大なフローを受けることもあれば、一気にドスーンと、何もかもが閉じ込められていってどうしようもない、という呼吸不能の重さを受けることもある。それらのどちらが悪ということでもなく、ただ魂がそれぞれどちらを「上」と定義しているかだけだ。特に、<<魂の向きと連帯とが背反しているケース>>に注目せよ。むしろさまざまな節目には、こうしたケースが最も多いのだ。魂の向きが天元方向だった者が、地元の連帯で囲まれると、その連帯作用によってやがて魂の向きが地のほうへ反転してしまう。それはときに、あっという間のこと、三日もあれば十分ということがよくある。何しろ「地元」というのは、いつでも観測できるという確からしさがあるものだから。
逆に魂の向きが地元である者を、天元の連帯で囲むということは、作用は有為にはたらくにせよ、そう簡単に反転は起こらない。そもそも天元は観測不能だから、観測可能を重んじる現代の人々にとって不向きのことだし、しかも対抗勢力はいくらでも生存本能を人質に取って恫喝してくる。ましてだいいち、彼を天元の連帯で囲むというほど、天元者の数が確保できない。天元者で包囲するなどというのは、毎日の食卓を満漢全席にするというようなぜいたくの夢物語であって、仮定しても意味がないと言うしかない。よってほとんどの場合は、素質としても連帯の結果としても、人々は落着と閉じ込めのほうへ決着することを当然とせざるをえない。天元の側へ決着するというのはあまりにも稀なことで、そのようなことは、もはや可能性の機会を得るだけでも、よほどの幸運を要すると前提するしかない。
改めて、「番」ということを強調して言っておきたい。さまざまなことに持ち回りの「当番」があるように、色んなことに「お前の番だよ」ということが起こってくる。それは人の死でさえそうだろう。色んなことに、自分の「番」が回ってくる。そしてそれらの「番」は、すべての当番がそうであるように、別に「誰」が果たすというものでもなく、誰かが果たせばそれだけでよいものだ。「番」ということにおいて、「誰」ということは意味がなくなり、そこでわれわれは、自分が誰であるかということを「用なし」にしうるのだった。あるいはそのときに、お前が誰かなど「用なし」と扱われるのだった。
僕が先日、突如として、「まったく新しい人」として出現し、それが逆に、まったく間違いのない僕自身だと目撃されることが起こったのは、言うなれば、僕がこれまで執拗に、何かしらの「番」を果たそうと粘り続けてきたからだという気がする。少なくとも僕自身は、何かしらそのように確信する感覚があるのだ。暗中模索、手探りながら、こうまでして執拗にその「番」を果たそうとするのであれば、いっそのことこいつに「番」をやらせてやれ、「こいつは天元の、番をやりたいんだろう」と何かが。その「番」を果たす者として、僕は何かに認められたという感じがする。それで、これまでに僕が愛してきた、偉大な人々、特に親しんでやまない特別な人々が、ワッと一斉に集まってきて、「お前の番だ」と、励ましと祝福に来てくれたのだと思う。特にこれまで、己の番を果たしてきた人たちが一斉に! そのときになって、僕がほんのわずかでも愛した人が、まったく消えてもいなければ切断されてもおらず、いつかの瞬間に愛したときのそのまま残り続けていることに、僕は当然の驚きと感動をした。愛の世界というのは実際にあるのだ。それはいっそ固体的というほどに sure にあって、その世界に迎え入れられると、そのとたんもう愛の圧力(としか今のところ言えない)に脇腹を押しつぶされて、もはや魂を頭上へ解放するというようなことは、半ば強制的にというほど勝手にそうなる。何しろすべての人が「お前の番だ」と言うのだから、自ら求めてきたそれを、今さら躊躇したり拒絶したりする理由が僕の側にあるわけがなかった。僕はもう、「されるがまま」だ。脇腹からこんな愛の洪水を流し込まれて、魂を内へ保持できる者などいてたまるものか。僕がこれまで最も頼もしいと思っていたすべての人が、軍勢となって僕に愛の洪水を流し込んでくるのだから、こんなにすさまじく心強いことはない。心強いも何も……僕自身はどうあれ、僕を取り囲んでくれる愛の軍勢はとてつもないものだ。この人たちのかっこよさに誰がどうやって敵うはずがあるか? すべての人は僕には勝てても、軍勢となったこの人たちには勝てないだろう。こっちは「天元の連帯」だぞ……僕はこれまで、冗談のように自分を天才と言い張り、偉大なるこのおれさまをあがめろと嘯いてきたのだが、もはやそのように言い張る必要もなくなったと言える。もう僕が自分をそのように言いふらさなくても、「この人たち」はとっくの昔に事実上の天才だからだ(またそうして、これまで自分を天才と言い張ることで、僕は愛の「番」を果たす意志があると、何かに向けて表明し続けてくる必要があった)。
愛の世界というのは本当にあって、それが視えてしまえば――そこに迎え入れられてしまえば――、愛の世界が実際にあるというより、世界といえば愛の世界しかない、と明らかにわかるようになる。そのことはもはや当たり前すぎて、いちいち主張する気にはなれないようなことだ。愛でない何かにつながれている人は、何かに括り付けられているにはせよ、「世界」には所属していないということが見た目にもわかってしまう。ずっと不機嫌な目のまま、ずっと何か探し物をしているような状態だ。ギフトという言い方がずっと引っかかっていて、ある種の才能のことを一般にギフトと言ったりするが、そのギフトというのは単にこのことの当番を前もって引き当てられているというだけのことであって、当番に引き当てられなければ愛の世界に入れないということではない。ありていに言えば、愛の世界に入りたければ、その当番に引き当たっている人を探せ、ということになる。運がよければその当番の人に出会うことができ、うまくすればその当番の人があなたを愛の世界へ連れていってくれるだろう。その後、ささやかな何かの番を果たしたいといって、誰かのギフトを少し借りればいいだけのことだ。それだって、十分に魂の底から満足できるはたらきができるだろう。
愛でない世界(矛盾した言い方だが)にも、「番」および「当番」というのはあり、うかうかしていると、愛の当番に出会わないまま、愛でない何かの当番が回ってくることになる。天元に向かって果たすべき当番があるように、地元に向かっても果たすべき当番があるのだ。どちらの番も果たさないということはおそらくないだろう。どちらかの番を果たさねばならないのだとしたら、自分がどちらの番を果たそうとするか、前もって定義し、そのことを何かに向けて表明しておかないのは損ではないだろうか。ずっと放置していても、業(カルマ)の当番はいつかのタイミングで必ずやってきてしまう。
ただしこのごろになって僕がよく言うのは、天元の当番、愛の番を果たすといえば、聞くだけならよろこばしく夢のあることのように思えるが、実際のこととしてはなかなかにハードで、そんなにイージーなことではないと、前もって知っていなくてはならないということだ。天元であれ地元であれ、実際にその当番が回ってきたときには、それを果たすのに「こんなに苦労しなくてはならないのか」という現実が突きつけられてくるものだ。その苦労の総量は、どちらも似たり寄ったりで、何であれば天元の当番のほうが、総量としてはキツいのかもしれない。それでも、そちらのほうが本意だというならば、われわれは少なくともその本意を自分で定義して表明しておく権利がある。職場から離れても業務から離れられないブラック企業というのがあるが、天元の当番も似たようなもので、天元の当番としての責務は、もう夢の中まで追いかけてくるものだ。固体的というほど確かな愛の世界が、ずっと脇腹を押しつぶして愛を流し込んでくる、そして魂がもはや退嬰の肉体にて居眠りすることはできないとなると、それはそれで躊躇するというか、壮絶すぎて考えものではあるのだ。
僕が先日、天元の連帯を得て、魂が頭上へ強制的に解放されるという、その実際の声を証せたのは、誰のおかげであったのか。表面的には、僕がこれまで、愛の番を果たしてきた人々を、無条件で愛してきたことによる。そんなものは、僕が操作してきたものではもちろんなく、見た瞬間から愛しているので(単純接触作用)、僕の恣意や作為が介入する隙間はない。とはいえ、そのおかげでということでもやはりないのだ。僕がこれまで粘ってきたということも、しょせん本質ということではない。もっと根本的なこと……僕だけでなく、これまでのすべての天元者・愛の当番が、僕の知らないところで、やはり何かしらの空を見上げて、天を愛してきた。ひとりきりそうして空を愛し、僕と同じような「ああでもない、こうでもない」ということを、全員してきたということなのだ。天元者というのはそうしてすべて、「ひとりきり空を見上げて愛している」という像によって定義されよう。そしてその像に定義される中、その像に定義されるものはすべてそれであって、その中にもはや「誰」ということはないのだ。天元者が正しい連帯に至ったとき、やはりどこかの言い方を借りれば、「汝のごとく汝の隣人を愛する」のだろう。それは、そのようにしましょうというスローガンではなく、天元者にとって同じ天元者はもはや「誰」でもないということなのだ。だから天元の連帯として一斉に僕のところへ、「お前の番だ」と励ましと祝福がやってきたとしても、彼らは特定の「僕」を励ましているのではないし、祝福しているのでもない。天元者といっても人の身であって、身それぞれには個性があるから、その個性は発揮されるべきだけれども、天元者の魂じたいはみんな同じことをするので、その魂において「誰」ということはもはやない。<<明らかな人々が誰でもなくなっている>>のだ。愛の世界において、彼はおれだと言えるし、彼女もおれだと言える。だからその結合は隙間のないひとつであり、固体的でさえあるのだ。「僕は僕において彼らを果たす」とも言える。
われわれは、天に向かうにせよ地に向かうにせよ、人の身であるから、われわれが天地そのものになることはできない。人の身はどこまでいっても天地のあいだにあるよりない。人の身が天そのものになるとか地そのものになるとか言い張るのは、歴史上の数個の例外を除いてはすべてただのオカルト狂だ。そもそも人の身が天地のどちらかになりきらねばならない理由がないのだ。人は人であって、だからこそ連帯は横隊に(広場に集まった軍勢として)生じる。連帯において、誰が上とか下とかいうことはない。知っておかねばならないのは、それでも魂なり身分なりの上下を明らかに感じるときは、そもそもの魂の向き・安定度に差分があり、その差の顕れ(証)を身分差のように感じているということだ。未熟な身が荒れると魂の向きは不安定になり、その不安定さでは到底「番」を果たすことはできないという失格の実情もある。
この場合は堂々と、連帯以前に、自分より上にあるものを、ただ上だと認めてかまわない。この明らかな上下差がある中で、それでも横並びに連帯しようとすると、脇腹に愛が流れこまず、それより上の胸・肩・首・顔面・頭部において流入ではない圧迫・衝突を感じるはずだ。この圧迫と衝突は相互に誰をも益さない。よって、明らかに上下の差があると感じられる場合、意図的に脇腹・あばら骨より上部にアクセスしないように努めるのがよい。おそらく両乳首のラインあたりを境目にして、それより上部にはみ出ないと心がけていれば、上下の差がある場合でも、魂に関わるトラブルは生じにくくなる。それはおそらく、乳首より上には哺乳類としての用事がないからだろう。乳首より上は「連帯」の領域になるとして、上下差があるときは慎重になるほうがよい。地元の連帯においても「合わせる顔がない」ということがしばしば生じるように、天元の連帯においても「合わせる顔がない」ということがある。そのことは過程としてあばら骨・脇腹以下に収めておけば、何ら悔恨や恥辱を覚える必要はないことだ。
世界中の分割された各地域において、「地元」という現象は発生し、「地元」を限定的に見れば見るほど、地元者における「われわれ」は狭い区域のみに閉じ込められていることを指し、その他のものは「よそ」の者となり、「われわれ」ではなくなるだろう。そうして世界中の各地域に、われわれの知りようのない深い意味での「われわれ」が、ひっそりと潜んで成り立っていることは明らかだ。最小単位としては学校、学級、グループ、家庭などもある。そのことを踏まえれば、人々は安易に「われわれ」という語と感覚を使いすぎているということになる。安易に放たれた「われわれ」は、その後容易に、実は「われわれ」ではなかったという瓦解を起こしていくだろう。天元者の場合も同じで、厳密には天元の連帯のみを「われわれ」と呼ぶことを踏まえれば、人々は容易に「われわれ」という語を使ってはならない。本来の「われわれ」は、もっと常識はずれな、座標や時間軸とまったく異なったものを指す語として使われている。そのことは、ともすれば何やらさびしく悲しいことに聞こえるかもしれないけれども、正しく「われわれ」という語を管理することによって、人は不要にしがらみに吸い込まれることを避けることができ、不毛に光を失うことを避けられる。けっきょくは自分の魂のありようを示し、自分の魂が何かを為さねばならないという明らかな局面に、われわれは立たされるけれども、そのときになって真に連帯した「われわれ」が紛れもなく参集しないかぎり、われわれは目の前のものと奇妙な取引をしなくてはならない。現代で言うところの、空気の読み合いというものもそれに当たる。それは一発かつ不変の愛とはあまりにも異なる。
かつて、人前に立つときは、目の前の人々をジャガイモと思えだとか、人という字を手のひらに書いて呑み込め等、おまじないのようなことをした。そのことは何を意味していたのか、つまり人にとって多く「目の前」に現れるものとは? 人の目の前に現れるのは、たいてい「迷い」だ。目の前に現れることごとくの「迷い」に向けて、それを際限なく「われわれ」と呼ぶことで、人は際限のない迷いの森へ自ら入り込んでいくことになる。
人はなぜこのことを、こうも長いあいだ遠ざけてきたのだろう? 「愛の世界」という単語だけを取り出せば、誰だってそれを希求しているのは初めから明らかなことだ。愛の世界に居並んで魂の解放を得たくない者など存在するわけがない。にも関わらず、人々はいつのまにか、そんなものは存在しないと、疑うというより逆方向に確信しはじめ、愛の軍勢がひとつになって歌うというようなことから距離を取り、そのことを否定してきた。その否定の動機について確信と手続きを記憶している人はおそらく数億分の一もいるまい。結果、「愛の世界」などという、「ありもしない」と信じているものを、無理に捏造しようとする勢力が、いかがわしいオカルトを無数に形成してしまった。よってこのレポートは投げやりで冷たいものにならざるをえない。僕は今、何を嘆いているわけでもないし、何を諦めているのでもない。ただレポートに温度は要らないだろう。愛の世界というのは本当にあり、それも常に変わらず「今ここ」にある。これを「われわれ」と呼ぶかぎりはずっとここにある。ひとり空を見上げてそこにある何かを愛した者は、これまでにいくらかいたはずであって、その人たちはみな一人で同じことをして来、その中から特に「番」を果たした人が、軍勢となって愛の世界をそのまま作り上げている。われわれが唯一、世界と呼んで差し支えないものだ。今になって僕は、いくつかの映像を点検して、そうした「番」を果たした人、また今もなおその「番」を果たし続けている人が、なぜそういう動きになり、そういう声になり、そういう眼差しになり、そういう汗を掻くのかが、見ていて手に取るようにわかる。天元の連帯が愛となって脇腹から流入し、身体は愛の容れ物となり、魂は頭上へ解放されているのだ。もはや自分の意志というよりは、そのはたらきの従僕となりきって。何であれば、その形態は、「両脇に愛を抱えて左右から押しつぶされている」と描写してもそれなりに適合する。それでああいう形と動きになる。押しつぶされるほどの愛を両脇に抱えているというのは、なんと豊かで決定的なことだろう。「われらがそのことの従僕たち」であって何の差し支えがあろうか。
以上をもって、レポートは終了する。一般的に思われているところの「愛」と、その実際が、なんと大きく異なって隔たっていることだろう。われわれは人の身であり天になる必要はない。人の身が連帯して横隊に愛を脇腹から流し込んでくるというだけで十分だ。固体のような愛の世界、その圧力で身をすぼめてよじるほどだというのに、よもやそれで不十分という人はいるまい。もはや魂を浮揚させる必要はなく、愛の世界に迎え入れられればそもそも魂を頭上へ押し出されないことじたいが不可能だ。そこで何をするといえば、自ら何かを思案する必要はない、ただ自分の番なのであって、これまでのすべての人が番を果たしてきたように、自分もその番を果たせばいい。自分で思案したりアレンジしたりする必要はまったくない。個性というものも、意図しなくても勝手に生じるものだろう。愛が世界であって、人の身は愛の容れ物にすぎないのだから、天元の連帯が―― "同じことをしてきた人々" が――脇腹から愛を流し込んでくれることによって、われわれは誰かが誰かであるという執拗な誤解からついに離脱することができる。もともと、なぜ、誰かが誰かであらねばならないという執着に取り憑かれたのだろうか。必要な番が果たされるとして、それは僕であってもよいし彼であってもよい。僕がそれを果たすということは、僕が彼を果たしたということに他ならない。何もかもがそれなのだ。そのとき僕が彼を果たしたとして、その彼もやはり誰というものでもなかったということだ、そして人の身が到達するのはおそらくそこまでで十分なのだ。僕自身の能力はカラッケツでも、それなりのことが出来るのは、僕が誰でもない彼を果たしているからだ。僕が愛した人々はそういう人々だった。
[愛の世界について投げやりなレポート/了]