No. 391 何もかもが裏返る
何もかもが裏返る。
そりゃそうだ、もともとすべては正しかったのに、いつのまにかすべてが誤りになったのだから。
もともとすべては正しかった。
ここでキーワードは、「世の中のカスどもめ」になる。
「世の中のカスどもめ」と言って、その中に怒りはない。憎悪もないし傲りもない。
つまり「世の中のカスどもめ」は、言葉であって発言ではない。
発言なんてヒマなことをしているヒマはどこにもない。
「世の中のカスどもめ」
それが否定に聞こえるのは、カスどもが肯定ごっこや否定ごっこをしているからだ。
僕には慾望のみがあり、肯定ごっこや否定ごっこ、つまり善悪ごっこをするヒマはない。
カスどもの話に一ミリたりとも付き合うつもりはない。
僕は女は好きだが、カスはきらいだ。
カスであれば女でも男でもきらいだ。
カスはもうどうやっても、男でもなければ女でもないからきらいだ。
すべてが裏返って、慾望と光は気だるい。
このことに関しては、サガンが正しい。
この世界に、よい価値観と悪い価値観があるのではなく、価値観そのものが存在しない。
価値観という偽造そのものが憂鬱だ。
僕はすべての人々を愛している。
だがほとんどの人がカスの振る舞いを強化していくので、それをカスだと表現しているにすぎない。
何のためにそう表現するかというと、僕までカスにならないためにだ。
何もかもが裏返っている。
何もかもを裏返し直せば、あなたはうつくしい。もとあった世界の光そのままに。
自意識が控えめであることは、自意識が過剰であることと同様にうとましい。
そもそも自意識なんてものを認めている時点で世界はとうに裏返っている。
僕が女を愛しているのは、僕が男だからだろうが、そんなことを僕が知る必要はないし、誰も男女について知る必要はない。
誰も植物について知る必要はないみたいにだ。
僕は悪態をついているのではない。
僕はずっと裏返る前の世界を視ているだけだ。
僕のことを愛してくれている人もそうだ。
僕の視ている裏返る前の世界のほうが、本当の自分の世界だから、その手がかりとして、僕を愛し、残そうとしてくれている。
世界の裏返りについて、工夫して回帰する方法はない。
もともと工夫の要らなかったものに、どのような工夫を凝らしたところで、元に戻れるはずがない。
何かがわかる必要がなかった世界のことを、わかる、というような回帰はない。
僕には慾望のみがあるが、その慾望というのも、一般に言われているものとはまるで違う。
裏返る前の慾望だ。
慾望の、もともとのもの、ということになる。
慾望は、裏返ることで、何か汚らしい現在の慾望になったのだが、これが汚らしいからといって禁じた手立ては、一見妥当に見えて、その実極限までしょうもないことだった。
体質が裏返って、アレルギー体質になってしまったところ、アレルゲンを排除するというのは、やむをえない妥当の手段ではあるが、それでアレルギー症状を抑えられたということは、誇らしい解決というわけではない。
慾望を禁じたというのも同じようなことだ。
裏返った慾望について、どのように工夫を凝らして処理したとして、元あった光輝を誇ることはできない。
全身で愛の記号を為すということがわからないようだ。
前向きになったところでわかりはしない。
わかってできるようになることではなく、わからなくなってできるようになることだからだ。
愛をわかっていない者が愛を為せるだろう。
そうなると、やはり、僕がずっと視つづけている、裏返る前の世界が正しい。
どうしても、力の風船が膨らむことを止めることはできないだろう。
かろうじて言いうるとすると、愛がないのに愛だから愛だ、とぐらいは言いうるかもしれないが、これだとてまともに成立しうる可能性は周囲を見渡す限りはまずない。
おれは例外だが、正しく言うなら、おれは例内だということになる。
おれは、愛していない女を愛している。
唯一の手がかりを残すために、そうしている。
もともと、誰かのことを称賛するような奴ではないし、称賛が必要とされる世の中ほど、カスらしいカスの世の中はない。
すでに風船は膨らんでしまったから、今さら何にどう気づいたとしても、破裂のリスクがあって、正しいことは成り立たないだろう。
愛していないのに愛するということは、もう特例を除いてはうまくいかない。
どれだけ自信たっぷりの美女を見ても、本当に自信に満ちているということはまずない。
むしろ内心では、根底が、何か違っていると確信していて、その確信を補うために精一杯だ。
おれと少しお話ししたら、愛していないのに愛するというのが、ひょっとして根っこの根っこで一番正しいということを、一瞬は視るかもしれない。これまでのことを見ていると、きっとそうだろう。
だがもう、直後にもやってくる破裂のリスクを考えると、もう正しいほうへは動けない。
どうしたらいいか……おれに対しては、愛していないのに愛することだ。
そのことがなし得る橋頭堡として、おれは残り続けねばならない。
キーワードは、「世の中のカスどもめ」だ。
これが愛のキーワードだ、愛をなし得るキーワードとして、「世の中のカスどもめ」を覚えておかなくてはならない。
「世の中のカスどもめ」といって、そこに憎悪や睥睨、傲慢等が乗っかるようなら、それは己が愛を為せていないということだ。
世の中のカスどもにとって、おれの慾望だけが、唯一の手がかりになる。
荒唐無稽なことを言っているようでいて、そうではない。すでに現実的なレベルで、それが手がかりだということを、直接知っている人が少なからずいる。
自分も裏返り直すことに殉じれば、この世界の光の一端にまみえることができるのじゃないかと、すでに予想というより予感のレベルに到達している人が少なからずいる。
完全に裏返り直しきることは、誰にとっても不可能だとは思うが、それでも生きているうち、半分方は「わたしは本当の世界を視た」と確信できるなら、それで上々というか、不満はないのじゃないか。
多くの人は常識という状態で生きているが、それは単に、人間の業(カルマ)上、常識という状態が楽だからにすぎない。人はただ、エネルギー的に敗北して、誰もが常識という状態に「流れ着く」にすぎない。
それで一部、より知性の低い者が、常識を否定する否定ごっことして、非常識の行為に走るが、それは二重に愚かで横着であり、見るに堪えない。
非常識の醜さは常識状態への応援エールにしかならないだろう。
安易な犯罪者は、今後のサンプルにされるという最も空虚な存在にしかなれない。
常識という以前に、「識」そのものが、膨らんだ力の風船でしかないことに気づかねばならない。
だから詩人ウィリアムブレイクも、赤子は揺りかごのうちに殺せと投げやりなことをいう。
「識」の風船が膨らみ始めると、もう何もうつくしくないからだ。実際、赤子の眼差しよりうつくしい眼差しを人は持ち得ない。
人が赤子よりうつくしい何かを視ようとしたら、もう裏返る前の慾望に殉じるしかない。そんな奴がもし残っていればだが……
「世の中のカスども」が、光となるべきで、非常識となるのでは論外だ。
非常識になった場合は、冗談みたいだが、「重カス」ということになるだろう。カスがさらに重度のカスになったという最悪のパターンだ。裏返った慾望は、禁とするのが正順であって、それをさらに裏返したら、ただのやけのやんぱちで、近所迷惑にしかならない。
すでに、何かに気づきはじめた一部の人たちは、僕がカス呼ばわりすることで、むしろ大喜びで尻尾を振ってついてくるという事実がある。堂々とカス扱いすることで、それでもなお届いてくるものがあり、それだからこそそれが愛だということが視えはじめているのだ。
世の中のカスどもにおいては、愛は、届かないわけではないし、愛を為せないわけでもないが、一般にイメージされている愛とはまったく異なる形状をとる。
それは裏返る前の慾望として届くので、一般に認知されている愛のイメージとはまったく異なる。
一般に、愛は立派なものだとイメージされているが、それは裏返る前の人々にとっての愛であって、裏返ったあとの人々にとっては、愛はそのような形状で適合はしない。
愛はもっとカスみたいな形状で適合する。
だから愛していないのに愛するという形状になる。
なぜこの形状で、愛が成り立つのかは、そのときその魂が己の身に宿ってくる不思議にまみえるまで知りようがない。
一本の、立派なつもりであった樹木が、伐採され、砕かれて煮られ、パルプになり、紙になり、その後聖書の用紙になり、最後は聖書という形態になったとして、なぜ伐採されて砕かれて煮られることが愛の手続きなのかは、最後に聖書になるときまで知りようがない。
実際、少しでも賢明さや悟性を残している人は、カス呼ばわりされたところで、そのことにストレスや不平を持ったりはまずしないだろう。
賢明な、特に女性は、カス呼ばわりされて立ち止まるために、待機中のようにして生きている。
「世の中のカスどもめ」というキーワードが、どうしてもうれしい。
僕自身がカス呼ばわりのされることには何の不平もない。もともと、誰よりもそのことに慣れている者だし、わざわざカス呼ばわりされるような書き方をしている。
だが僕の慾望は、裏返る前の慾望だ。僕は「世の中のカスどもめ」と言い張ってでも、このことを残し続ける必要がある。いずれすべての手がかりのために。
世の中のカスどもは、愛していない僕を愛せ。
僕の慾望は、裏返る前の慾望で、裏返る前の慾望ということは、僕の慾望ではないということだ。もともとの、この世界の慾望だ。だから僕は、世の中のカスどもに向けて、この慾望の一切を禁じることはしない。すべての手がかりを消失させるわけにはいかない。
一部の人たちは、僕の古い友人として、お前はまだその場所にずっと居続けたのかと、思い出してびっくりするだろう。そのとおり、僕はここから一歩も外れるつもりはない。世界の慾望を果たすのに、世の中のカスどもの言い分を容れるつもりは一ミリもない。
[何もかもが裏返る/了]