No. 392 「女」という、ありもしない性別
いわゆる腐女子の人は、男と男の交合を、眺めてオナニーのオカズにするらしいが、正確なところを知ると、もうその必要はなくなるだろう。
そもそも、「女」などという性別は、存在していないので、わざわざ男と男という構図にこだわる必要はないのだ。
多くの人は、この二十年間ぐらいで、女というもの、そしてセックスというものを、大きく誤解したのだと思う。
これは、ホモセクシャルの人を否定する意味ではないが、男と男なら、セックスする "必要がない" のだ。
ホモセクシャルの人は、精神のどこかが、男と男では "ない" ため、表面上、男と男のセックスを必要とするのだろう。
表現がややこしいな。
男と女が、セックスをするとして、そもそも本当には「女」という性別は存在していないので、このことが誤解の種になる。
ここで、女同士だと、セックスする "意味がない" ということになるし、男同士だと、セックスする "必要がない" ということになる。
むろん、女同士でも、どちらかが男役をすることで、具体的なセックスは可能なのだろうが、それはどちらかが男役を担った時点で、同性性を捨ててしまっている。
まあここでは、同性愛のことを主題に捉える必要はない。
今話しているのは、「男」は性別であっても、「女」は性別ではないということだ。
「女」は性別ではないけれども、どうしてもその「女」が出てくる場合、その擬似的性別を消去するために、しばしば男女間はセックスを必要とする、ということだ。
この二十年間で、女性は、自分が「女」だという自覚と自負を、やたら強固に持たされたと思うが、その自負がお荷物なのだ。
そんな不当な荷物を背負い込む必要はなかった。
よく、女の自覚がないと、お下品になったりだらしなくなったりすると思われるが、それは別に、性的自覚のせいではなくて、ただ個人的に人格が下品でだらしないというだけなので、何も女の自覚うんぬんに原因を帰属する必要はない。
男だって、前立腺をいじくりたおし、個人的に下品でだらしなければ、自覚うんぬんは関係なしに、下品でだらしない奴になるだろう。
二十年前、女は、男っぽくはなかったが、かといって、わたしは女よ、というような余計な自負は持っていなかった。
二十年前、たとえばテレヴィでも、コントまがいに女性のおっぱいがしばしば、上半身の裸体として露出されていたが、それは別にいやらしいものではなかった。そのことは、今でも動画サイトで検索すればわかる。昭和ぐらいまで遡れば、おっぱいの露出は、それほど性的な印象を受けなかった。
だが現代においてはだめだ。現代のテレヴィ番組で、若い女性のおっぱいを露出すれば、それはとてつもなく性的なアイコンになり、まるで視聴者にオナニーのオカズを提供している具合になるだろう。
文化が違うのではなく、見え方が違う。
正確には、見え方のみならず、 "具体の性質として違う" のだ。
現代の女性は、おおむね、裸がヘンだ。
二十年前、女性が裸になったとしても、それほど「陰部露出」という印象は受けなかったし、その裸体がいやらしいものには見えなかった。
僕が小学生だったころ、低学年のうちは、まだ男女が同室で着替えていたと思うが、そのことに性的ないやらしさはあまり感じられなかった。
現代ではだめだろう。心身の発育の問題ではなく、現代においては小学生でも、十分に性的ないやらしさが身体に棲みついている。
別のことで言えば、たとえば僕は、自分が大学生のころの、セックスの記憶がまったく残っていない。
寝室と、差し込む月の光と、うつくしい女の眼差しの記憶は残っているが、セックスの記憶、特に陰茎や膣ということの記憶がないのだ。
もともとセックスというのは、そんなに粘膜の感触を生々しくして営むものではない。だから、粘膜の感触は記憶に残っていなくて当然だ。
いわゆる「巨乳」とか「抱きごこちがいい」とかの、しょうもない記憶も残っていない。
もっと、ただの熱気と蒸気の記憶だけが残っている。
僕は、過去の記憶が古くならず、過去というよりはいつでも再生可能な思い出として体験を保持する者だから、その僕がセックスの陰部記憶を残していないということは、本当にそこに「陰部」という体験はないということなのだ。
そして、どの思い出を取り出してみても、そこにいる女は、誰一人オンナオンナしていない。
女というのは、肌がすっきりとして身が細く、髪の毛がやわらかい、というぐらいの印象でしかない。
現代のように、必殺の陰部、というようなものはぶら下げていなかった。
そもそも、当時の女性には、「股間」という印象がないし、「おっぱい」という印象もない。
当時、まだ巨乳ブームが始まったばかりのころで、クラスメートにおっぱいの大きな女性がいても、さして注目していないというような時代だった。
現代において、人は、セックスについてアホになったのだと思う。
といって、僕は他の人がどんなセックスをしているか知らないので(知りたくもないので)、確たることは言えないのだが、現代女性の全身の無気力と、受身と、魂のなさは異常だ。
たぶん、どこかの時点で、オナニーから派生した妄想の、「ありもしないセックス」が蔓延したのだと思う。
その、ありもしないセックスの具体として、ありもしない「女」という性別が作られていった。
むかし、クラスメートのIちゃんが、ナイスな網タイツを穿いてきていたので、その網タイツいいなあというと、「エロいでしょ」といってタイトスカートを少しめくって見せてくれたが、そのことに淫靡な印象はなかった。
Iちゃんは、ごくふつうにステキな人だったが、押し倒してバコバコにハメたいとは当時まったく思っておらず、すべての女性に対して思っていたように、誰からも大切にされなくてはならないものだと、漠然と当たり前に信じていた。
別に、女性を大切にしようと思っていたわけではないが、なんとなく、大切にするでしょそりゃ、という感じのものだった。
だからこそ、痴漢やレイプの妄想も昂ぶったのだが、現代においては正直なところ、若い女の誰かに襲いかかろうとは、妄想においても思わなくなった。
現代において、仮に女子高生に襲いかかってレイプしても、ぜったいつまらないことになるに決まっている。
現代において起こるレイプ事件は、よほど人生がさびしい男か、そもそも世の中全体を憎悪している男が、やけくそで襲いかかるというたぐいのものであって、その衝動は本質的に性欲ではない。
現代のレイプ事件は、ほとんど通り魔のような動機で発生しているだろう。
正直なところ、レイプ犯が凶行に及ぼうとして、よくやる気になれるなと、僕などは首をかしげてしまうほどだ。よほどの憎悪を抱えていると、陰茎も別の反応をするのだろうか。
とにかく、この二十年間で、セックスや「女」はおかしくなったのであり、少なくともかつてのクラスメートIちゃんを、「女」とか「女の子」と呼ぶ気はしない。ふつうにステキな人だったが、ふつうにステキな女の子、ではなかった。
「女の子」とかいうと、「何それ」と笑われたのじゃないだろうか。
現代においては、「女」という、ありもしない性別が膨張し、専横を振るっている。
セックスというと、うふーんあはーんと思われているようなのだが、それはもともと、くたびれきったオバハンのするセックスであって、若い女のセックスはもっと清潔なものだった。
そりゃミスチルの全盛期というようなイメージなのだから、清潔であって当然だろう。
あの当時、ミスチルが耳朶に聞こえていない大学生はいなかった。
当時、女の子に「抱かせてくれ」なんて言うと、そのとたん硬直して、何も言えなくなって、そのまま部屋に連れて行くと、すんなりついてきて、それでも何も言えなくて、こちらが「ごめん」と引き下がろうとすると、首を横に振って、自ら服を脱ぎ始めたりしていた。
それで肌に触れると、もう震えるどころか、全身から蒸気が噴き出しているようで、背中は汗でびっしょり濡れていた。それで、無言のまま、必死で唇を押し付けてきた。
そんな、清冽な反応を、現代の人々に求めるのは無理だ。いくら芝居がかってみても、できることには限度がある。そもそもそんな緊張感を持ちようがない。
現代の人々は、この二十年間で、セックスについての誤情報を詰め込まれたのだと思う。
つまり、単純に、オナニーとセックスの区別がつかなくなったのだろう。
オナニーというのは、それだけをずっと続けていると、精神が荒廃し、心身が退廃していくものだ。すると、だんだんと非人間的な、汚らしい、閉じ込められた性的いやらしさ、淫猥さでぐちょぐちょのものを、刺激的だとしてオカズに摂取するようになる。
現代の男性は、将来に夢がないし、現実を忘れて逃避するとなると、オナニーぐらいしかないということで、オナニーに特化するうち、淫猥さでぐちょぐちょのものを、そそる「女」として認識するようになったのだろう。
いわゆる清楚系という演出について、僕はそれを清楚だと感じたことは一度もない。当たり前だ。
一方で、セクシー系という演出についても、僕は「そそる」と感じたことは一度もないし、何なら映画の濡れ場で有名女優が裸になったときにも、それを魅力的だと僕は感じたことが一度もないのだ。
どうも、現代の人は、男も女も、いわゆる「スイッチが入る」というようなことを、エロくてセクシーと思っているふしがあるが、僕の知る限り、セックスというのはそういうものではないし、そうしてスイッチうんぬんが、真にエロいわけでもないしセクシーなわけでもない。
万事がそうだが、エロいとかセクシーとか、そういったすてきなものが、そんな安づくりのイージーで手に入るわけがないのだ。
セクシーと思われているもののすべては、セックスのことをよく知らない人たちの妄想から出来上がっているように思う。
まともなセックスにおいて、女はオンナオンナしていないし、そもそも下着を脱いだときに、独特のムンムン感が股間から漏れてきたりはしない。
だから、思うに、オナニーというのはセックスの代替ではないのだ。オナニーはきっと、ムンムン谷に向かっていこうとする、オナニーという独立したジャンルなのだ。
オナニーにおいては、人はやがて、特殊オカズを求めざるをえないが、この特殊オカズに接近するほど、営為はセックスから遠ざかるとみなしていい。
オナニーとセックスは別ジャンルだから、人は、必ずしも万人がセックスを求めるのではなく、オナニー派とセックス派に分かれるのだ。
そして、通信端末の発達や同人誌の産業拡大等に伴って、オナニー派の人々が増えていき、彼らが特殊オカズを熱烈に求める先に、独特に性的コンテンツが成り立ってゆき……その独特に成り立った性的コンテンツそのものとして、現代の「女」があるのだと思う。
だから、「女」というのはコンテンツタグであって、性別ではないのだ。
この「女」というコンテンツタグは、オナニー派がたぐるところのタグであり、セックス派がたぐるところのタグではないので、<<セックスとは無関係に性的な「女」>>だ。
セックス派においては、「女」という性別は存在していないし、「女」というコンテンツも存在していない。
セックス派における「女」というのは、もっとあやふやな存在だ。ごく限定的に生じる性別で、性別そのものとしては存在していない。
そういえば、今ふと思い出したけれど、二十年前にも、ごく一部に粘膜の記憶をもたらした女がいた。
その記憶に基づけば、つまり、人は何かしらメンタルを損傷すると、オナニー派としての気質突出が不可避になり、その結果、ぐちょぐちょの粘膜を持つようになるようだ。
そういえば当時は、明らかに、メンタル損傷からオナニーしすぎの人は、特に女性においては、肌の気配がおかしいということで、見咎められているところがあった。「オナニー派の肌」という現象があったのだ。それは少し病的で、まったくよろこばしいものではなかった。
それが今は、ひょっとしたら、多数がメンタル損傷のオナニー派になってしまったので、目立たなくなったのかもしれない。
もちろん、オナニー派が、オナニーを抑えたとしても、それでセックス派に転向できるわけではない。
今になって、オナニー派の、セックス派への転向ということを考えると、いかにも無理だ、厳しい、という障壁がある。
オナニー派は、むしろオンナオンナしているのだ。表面上は、逆ギレしたオバサンの様子であっても、本質的にオンナオンナしており、むしろそのことを隠すために、若くても逆ギレオバサンの声で話しているという女性が少なからずいる。
オナニー派は、基本的に頭の中がマンガだから、「うふふ」とか「えーい」とか、年齢から見たらブキミなマンガヒロインの挙動をしたりする。
こうして考えると、オナニー派とセックス派の差異は、なかなか埋めがたいものだ。
田舎のおばさんの大半は、セックスに眉をひそめるだろうから、セックス派ではありえず、セックス派ではありえないということは、自動的にオナニー派だということだ。
それで、田舎のおばさんは、常に何か逆ギレしている様子が多く、肌の気配がおかしかったりする。
セックス派は、けっきょくオナニー派の真髄をよくわかっていないし、オナニー派は、セックス派の感覚なんかわかりようがないので、この差分を埋めたり、両者を和合させたりすることは、きわめて困難だ。
クラスメートのIちゃんは、少しスカートをめくって見せてくれたけれど、オンナオンナはしていなかった。
そういえば、ウソかマコトか、インターネット上の書き込みなどで、「デート中、ずっと勃起してたわ」「わかる」というような言い分が見られる。
そんなわけあるか、と僕は思っていたのだが、どうもその種の書き込みは少なくないので、ひょっとしたら本当なのかもしれない。
そのことが、僕にはさっぱりわからない。僕はどう考えても、平均よりどスケベな男性のはずだが、思春期であれ現在であれ、デートの最中に勃起しっぱなし、というようなメチャクチャなことにはなったことがない。
こんなこと、統計も取りようがないと思うのだが、ひょっとすると、現代のテクノロジー状況の中で、本当に心身を損ねたオナニー派というのが、すでに大量に発生しているのかもしれない。
「女」というコンテンツタグに、直接の勃起で反応してしまうというような、短絡現象がすでにあるのだろうか。
こんにちの状況に到っては、まったく冗談でなく、若年層にオナニー派かセックス派かの検査テストをしたほうがよいのではないだろうか。もちろんそんな検査を、誰が制定するのかという問題はあるけれども。
それでも、オナニー派だということが正式にわかれば、オナニー派に向けて必要なセックスへのレクチャーというのはきっとあるはずなのだ。あるいは、そもそも自動車運転の適正のように、セックスに向いていないということを自覚するだけでも、さまざまな局面でトラブル避けられるので、希望者だけでもそういうテストを受けられるようにしたらよいと思う。
セックスとオナニーはまったくの別ものだ。
セックス派がオナニーをするのは、そのときセックスをする対象がいないゆえの代償行為だが、オナニー派がオナニーをするのは、代償行為ではなく、オナニーが第一の性行為なのだ。
逆に、オナニー派がセックスをするときには、それは第一の性行為ではなく、あくまでアレンジされたジョイント・オナニーということになる。
現代人は、同性愛者を認める前に、まずこの単独性愛者(コンテンツ性愛者)を認める必要があったのだろう。
今のところ、次のようにまとめて言うことができる。
・そもそも、オナニーは必ずしもセックスの代償行為とは限らず、オナニー派にとってオナニーは第一の性行為である。
・それほどまでに、オナニーとセックスは別ものであり、それぞれは第一の性行為である。
・近年の、オナニー派の急速な拡大と苛烈化の中で、「女」という架空の性別が作り上げられた。
・作り上げられた「女」という性別は、実質的にコンテンツタグである。
・この作り上げられた「女」という性別に、魂が括られると、女の具体は特殊オカズ化してゆき、粘膜は淫猥化してゆき、気質はオンナオンナしてゆく。
・この「女」は、オナニー派によって生成されたコンテンツタグであり、「セックスとは無関係に性的な女」である。よって通常のセックスにはむしろ機能不全を持つ。
・特殊オカズ化した女は、不明の性別に所属したため、根本的に無気力化し、重度の受身になる。
・「特殊オカズ化した女が、男と交合する」という絵面に違和感を覚え、その耐えがたい違和感が、一部の人々に同性愛化と、いわゆる腐女子趣味の愛好をもたらした可能性が考えられる。
・特殊オカズ化した女に、直接陰茎が勃起反応するという、極度化したオナニー派がすでに一定数存在するかもしれない。
・元来、セックス派における「女」は、現在の通念上で捉えられている「女」とは異なり、そもそも確たる性別として存在はしていない。
「性行為」という概念を、オナニーまで含めることで、現在の常識は刷新され、人々の実情に沿うように整うと思うが、僕個人としてはもちろんこのことにこれ以上の関心はない。
僕個人が知っているのはただ、現在で言うところの「女」という、わけのわからない性別はかつて存在していなかったということだ。
そのぶん、かつて女たちは、もっとのびのびしていたと思う。思うというか、実際にのびのびしていた。
二十年前、のびのびしていた女たちが、女子大生のうちからフェミニズムを唱えたりはしていなかったので、現在でいうところのフェミニズムの勢力も、女がどうこうというより、「特殊オカズ化した女」という概念ないしは実体が、耐えがたくおぞましいということから起こっているのだろう。
僕は、誰ひとり賛同者がなくても、「女はそういうものではない」ということを唱えていきたい。
現代の、オンナオンナしている女には、ずっと大きな違和感がある。
僕は、女は好きだが、特殊オカズはきらいなのだ。本来の女が減っていって、無気力で受身な特殊オカズばっかりになっていくことに悲嘆を覚えている。
かつて、女は、ごく自然に、認めるべき男を認めていたと思う。
それは、「女」などという性別が、わざとらしく存在はしていなかったからだ。
男を認めるということに、自分が女であることのプレッシャーはなかったのだと思う。
今はそうはいかない。
今は、男を認めるということは、女にとって、自分が特殊オカズであることを認めるということだからだ。
自分を特殊オカズだと認めるというのは、尊厳においてクルクルパーすぎるし、だいいち、そんな特殊オカズになれるほど、当人に特殊な魅力はないことが多い。
そうなると、最悪、「何の魅力もない特殊オカズ」として、何の使い道もない、汚物ということになり、そんなことを認めるわけにはいかないだろう。
僕は、オンナオンナしているものを、うつくしい女だと認めるつもりはないし、そもそも僕は、女性といるときでも、目の前のそれが女だということを、割としょっちゅう忘れている。
だから僕はホモセクシャルに興味を持つ必要がない。
おそらく、現代において不本意にホモセクシャルに陥る男は、「違和感のない男」と「特殊オカズみたいな女」を天秤にかけて、特殊オカズみたいな女がどうしてもブキミだから、男のほうに手を出さざるをえない、ということでそちらへ傾倒していくのだと思う。
その点、僕がセックスにおいて見ている「女」は、特殊オカズとしての「女」ではないので、そこに奇妙な天秤は発生せず、僕はホモセクシャルに無関係のままだ。何の違和感もない天然の魚が食べられるうちは、わざわざ養殖の魚を食べはしないだろう。
二十年も前のことを根拠に話さねばならないのが無念だが、「女」なんて、わざとらしい性別はそもそも存在していないのだ。セックスのときにもいちいち「女」なんて思わない。そもそもセックスそれ自体も、いちいち行為としてそこまで認識するわけではない。残るのはただ感動の日々だけのはずだ。
現代の、ありもしない「女」という性別とセックスしようとしたら、それはどうしても不潔になる。
この二十年で、誤情報を流し込まれ、めちゃくちゃになったが、身体が元に戻りうる人は、素直に元に戻ったらよいと思う。
「女」は、オンナオンナしていなくていいし、そもそもわざとらしい「女」なんて性別は、存在していないのだということは、健全な女性にとって朗報だと思う。
もっとのびのび、いきいきとしていてよいのだ。
が、そのぶん、あらためて「いい女」になるというのは、やっぱりむつかしいのだということにもなる。
それは、女が「いい女」になるということは、男が「いい男」になるのと大差ないからだ。
本当にいい男が、本当にそうするように、あなたは本当にのびのび、本当にいきいき、この現代で出来るだろうか。
女は、特殊オカズにならなくて済むぶん、これまでの特権を剥ぎ取られてしまうわけだが、どうだろう、それはそれで、あまりいい話ではないのかもしれない。
けっきょく僕と同じだけ、バカで軽蔑されて魂があけすけでなきゃいけないということだ。ベッドで寝転んでいればだいたい勝てるという仕組みが終わってしまうなら、それはそれで悲劇かもしれない。
まあでも、ありもしない性別に頼るのはもうやめよう。とりあえず僕のほうは、もう二十年間も、そのありもしない性別には首をかしげている。
[「女」という、ありもしない性別/了]