No. 393 正しくてダサくない唯一の恋あいの方法
もしこの現代で、恋あいが可能だとしたら、その方法は唯一、「物語」を知ることだ。
ふたつの条件が重なっており、まず、物語を生きている男が必要で、その男と出会ってかつ、あなたはその物語がわかる女でないといけない。
その上で、その物語に寄り添えるかどうかという問題もあるが、それ以前の問題のほうが大きいだろう。
ひとつ、物語を生きている男に出会えるか、ひとつ、あなたにその物語がわかるか。
このふたつだ。
たとえばわかりやすく、僕自身を例に採ると、僕がどういう物語を生きているか、目の前のあなたがわからないでは話にならない。
話にならないのだが、現代において、「物語」ということはいっさい言われないし、教育もされないので(教育できる人もいないので)、実際にはこの「話にならない」の時点で大半が終わる。
どういうことかというと、たとえば僕が、
「以前、冬の嵐山で、夜だ、渡月橋に、とんでもない雪が舞っているのを見たことがある。果ての無い黒い闇から白い牡丹がはらはらと、あれは今でも同じようにうつくしいのだろうか。そのことを、また一度、見に行きたいと思っている」
と言うと、あなたは、
「すごい、すてきですね」
と言うかもしれず、そんなことを言われるようでは、僕とあなたは何をどうしても意味がないということだ。
現代人の多くは、もう脳みそが、「感想を思う・感想を言う」という機能しか残していない。
「春になると、毎年デラタメをしたことばかり思い出す。ひさしぶりに銀座にいこうかな。銀座にいって、あのときのことを反省しながらスコッチを飲もうかな」
「そういうの、わたしも行きたいです」
これでは話にならないだろう。
「おれはガキのころから、自分が誰と遊ぶかについて、共同体に決められるのがイヤだった。おれが誰と出会って、誰と遊ぶかは、ぜんぶおれ自身で決めたいと思っていた。それの成れの果てとしての現在がある」
「おー」「すごいですね」「昔からそうだったんですね」
わかるだろうか、現代人というのは、「物語」というのが本当に脳みその器質レベルでわからず、「感想」しか言わないのだ。
それはもう、たとえベトナム戦争の資料を三日三晩、まんじりともせず見続けたとしても、
「戦争ってやっぱり悪ですね」
というような「感想」しか言わない。
物語という機能が、壊れている、ないしは、生まれてこのかた一度も宿されていないので、しょうがないのだ。
本当に、現代人は、何もかもわからないまま、わけのわからない生きものとして、日々を暮らしているところがある。
かつてはまともだった人も、次々に壊れていっている状況だ。
僕が仮にあなたに、
「まともな創作をするには、女の助力がいる、だからお前はおれに奉仕しろ」
と言ったとして、あなたが、
「そういうことなら、いいですよ」
と受けたとしても、こういう場合たいてい、あなたは話を何もわかっていなくて、ただ言われたことの印象がなんとなくいいというだけの理由で、別にイヤでもないからということでOKしている。
そんなことをしていたらやがてすべてがむちゃくちゃになるのだ。
そもそも、そんなクラゲみたいな漠然としたものと、男がイケイケでセックスできるわけではないので、現代の男はもう、若い青年でも、サプリメントやバイアグラを飲んで女とセックスしないといけないのだ。
精神が、何の物語も受け取らない、クラゲみたいな女に対し、一瞬でも冷静になってしまうと、もう二度とペニスは勃起しなくなる。
だから必死だ、大真面目に「精神集中」してセックスの達成を祈願している。
今、世の中の多くの男性が、そういう無理やりのセックスをして、自分の知らないところで精神に深い傷を負っているのだ。
フワフワ感想を言うだけのクラゲと「恋あい」というのでは、どう取り繕っても無理がある。
ディズニーランドに行くのが悪いわけではまったくないが、自分がどう生きて、どう遊んだということの、物語がまったくない人は、どれだけはしゃいでいても、冷静に見てみるとおそろしいものだ。
だいたい、恋あいについて訊くと、現代では次のような話が返ってくるのだ。これが冗談でもなければ誇張でもないのだから、リアルにおそろしいものがある。
「その、いわゆる、細マッチョというか。別にイケメンでなくてもいいんですけど。その細マッチョの彼は、ふだんはクールだけれど、いざその気になったらガバッて来るというか。そういうのに萌えちゃうんですよね」
恋あいという、物語について訊いているのに、返ってくるのは「キャラ妄想」だ。
本当に、頭の真ん中までマンガしか入っておらず、何の体験もしてきていないので、当人は大真面目に、これを自分の求める「恋あい」だと言うのだ。
あるいはさらに、
「たとえば、みんなで登山にいって、二人だけ遭難してしまって、山小屋に避難したりして。それで、二人っきりになって、彼がガバッと覆いかぶさってきて……でも彼は、苦しそうに、『おれガマンするから、これだけ許して』とか、キャー、そんなこと言われたいんです」
というようなことを、割と本気で思っていたりするし、本気で言いだしたりする。
それは、「シチュエーション」の妄想であって、物語ではない。
本当に、マンガを読んで生きてきただけなので、当人は大真面目に、これが「恋あいのイメージ」なのだ。
もちろん女性だけでなく、男性のほうも、同様のクラゲ頭ということがある。
それで、具体的に付き合っている二人が、どういうことの中でセックスしているかというと、
(こいつ、けっこう胸あるんだよな)
(やだ、ハアハアしちゃってかわいい)
という、やはり「感想」の中だけでセックスをしている。
そこに何の物語もないのだが、双方が、「物語」について視力ゼロなので、そこに物語がないということは、双方にとって疑問にも不安にもならない。だから逆に安定してしまう。
それで、なんとなくセックスしていると、なんとなく妊娠したりして、なんとなく結婚かなと思い、SNSに報告すると、友人たちがなんとなく祝福してくれるので、当人たちもなんとなくその気になるのだ。
そのことは、結婚して出産して、キラキラネームをつけるぐらいまでは、まあいいかもしれない。けれども次第に、当然のほころびがやってくる。
子供は夜中にも泣きさけんだりするだろうが、泣きさけんだらあやさねばならず、これをあやすというときに、何の物語もないのだ。
となると、その母親は、いつぞや「ガバッと来られたら萌えちゃう」と言っていたのと同じで、「ギャーギャー泣かれたらイラっとしちゃう」としか思わないで、子供をあやしているということだ。
何の物語もないと、それはただの苦痛でしかないのだが、それでどうするかというと、「我慢」するわけだ。
「こんなに我慢しているわたし、えらい! 母は強しだね」
というふうに自分を励まして、我慢を未来の債権として貯蓄していくしかない。
そのうち、腰痛が出だしたりして、また加齢と共に身体はダルくなっていくし、それでも旦那の洗濯物を干さないといけないとなると、
「なんで主婦の仕事だけ給料が出ないの。こんなの女が損じゃない」
ということで、世の中の全体を憎悪しはじめる。
それらのすべても、「我慢」して、未来への債権として貯蓄していくのだが、こんなことはやがておそろしい結末を迎えるに決まっている。
そのころ旦那も、何の物語もなしに、残業代と引き替えに残業をして、自分を「社畜」か「現代の奴隷」と確信して日々を過ごしているのだから、その食い扶持を与えている妻に対して、一方的に信じた「我慢」なる債権などを認めるわけがない。
現代人は、本当に「物語」という機能を喪失していて、そのときかぎりの「感想」だけで挙動している。
その「感想」が、快適なうちはいいのだが、やがて快適さが失われ、不快さが増えてくると、不快さについても「不快です」という感想しか持たないから、それがおそろしいのだ。
仮に、子供がさびしさから、いたずらや万引きをしてくると、「信じられない」という、怒髪天を突く怒りの感想しか持たない。
ひょっとすると子供は、母親に振り向いてほしかったのかもしれないが、それはこころの問題以前に、「物語」を読み取る機能の欠如として、母親には読み取られないのだ。
母親が子供を殴り倒さないのは、単に一般に、暴力はよくないというルールを口伝されているからに過ぎない。
自分の産んだ子が、さびしさのあまり悪さをしたとして、どうして母親であるわたしがこの子をぶん殴るわけがあるの、わたしが殴られるべきだわ、というような物語が視えているわけではない。
話が逸れてしまうが、恋あいをまともにする唯一の方法は、「物語」を知ることだ。
物語を知ることだ、といって、半ば以上はもう、諦めてかかるしかないというところもある。
ただ、仕組みを少しでも聞いていれば、なぜ諦めなくてはならないか、理解と納得がはたらくだろう。
もちろんそれだって、物語の機能が壊滅していると、
「でも諦めるのはイヤだって思いました」
という感想しか持ちようがないけれども。
人が何を話しているのか、聴き取る・読み取るという能力は、すでにかなり以前に失われている。
何をどう思考しても、根本の機能が「感想」にしか向かわないので、もう何かを聞き取るということがなく、物語に接続するということがない。
そのことは、おおむね大前提として、現代の人々は生きていくしかないだろう。
先ほどの、「細マッチョでクールで、いざというときはガバッと」というような話は、キャラの話だから実によく理解され、共感されるが、その前にあった僕の「渡月橋の雪がどうこう」というような話は、正味のところまったく読み取られないのだ。
せいぜい、「ロマンチストなんですね」と感想を言われるか、「行くといいと思います」と意見を言われるかしかない。
これはもう、悪口を言っているのではなく、本当に機能が失われたから、覚悟するよりしょうがない、という事実として話している。
クラゲ頭の人は、本当に「感想」しか機能しない脳みそになっているので、僕の渡月橋の話も「うふふ」としか反応しないし、仮にリヒテンシュタイン公国の歴史を調べたしても、同じ「うふふ」の反応しか持たないだろう。
クラゲ頭の人は、そうしていつも「うふふ」(感想)という機能しか持っていないのに、唯一まじめになるのは、収入を含めた将来設計についてだけなのだ。そのときだけ急にシビアになるのだからおそろしいものだ。
これは、そういう人が異常者なのではなくて、人は「物語」について何らの啓蒙も受けないと、ただそうして<<自分の快適さについてのみ立ち回る純粋な「生物」になる>>のだ。だからある意味当たり前のことだ。
ただ当人が、そういう「生物」でしかないということが、どれだけブキミでおそろしいことか、まったく教わっておらず、自覚もしていないというだけだ。
このクラゲに、宝石を与えて、特級のオステルリーに連れていって、高級車の助手席に乗せて、百回プッチーニのオペラを鑑賞させ、夜景の見えるスイートルームでセックスして、八百回オーガズムにイカせたとしても、何の意味もないのだ。本当に、何の意味もない。
これほど、完全に「無意味」ということが実現可能なのかと、学術的に驚かされるぐらい無意味なのだ。
物語がわからない・視えないというのは、おそろしいことで、その実態がどんなものかは、目の前に中島みゆきの歌詞とボブディランの歌詞をおけばすぐにわかる。
ああ、本当に、何もわかっていないんだな、ということがすぐにわかるだろう。
何もかもを、「なんとなくいいです」「すごく好きです」と、感想だけで判断しているのだ。
しかも、それでいてたいてい当人は、感性が豊かで物事を感じやすいほうだと思っており、自分の感性に不動の自信を持っている。
もともと、多くの人はそういうものだということが知られていたので、封建制においては、人々は藩とそれぞれの家業に閉じ込められ、お上に税金だけ納めていればよろしい、と扱われてきたのだ。
こんなおそろしいことはさっさとやめねばならない。
僕はクラゲ頭を非難しているのではなく、おそろしいことをやめよう、と提言しているのだ。
おそろしいことは、なるべくさっさと片づけて、なるべくさっさと忘れてしまうほうがいい。
「物語」を知るのだ。そうすればあなたは、これまで薄気味悪いと感じていた人から、次第に離れていくことができる。
そして同時に、薄気味悪かった自分自身からも、次第に離れていくことができるだろう。
***
物語を知るためには、どうしても魂が要る。
そのためにも、物語を生きている男に出会い、その魂に触れる必要がある。
魂に触れるということは、生死を超えたものに触れるということだ。
そのためには、どこか、自分の生は有限だということ、つまり百年後には自分も知り合いも全員死んで消え去っているということを、見つめていないといけない。
このことを見つめるのは、根源的に恐怖なので、この恐怖に抗しえない場合、人は何の魂にも出会えないし、生涯、何の物語にも触れられなくなる。
物語を生きている男は、「今このときに死んでも、それはそれでかまわない」という状態で生きているし、これまでに何回も、「ここで死んでもかまわない」という状態を体験してきているはずだ。
物語を生きている男は、これまでに、何かに出会い、何かを視、何かを愛し、何かを掴み、何かを投げ捨てて、間違いなく自分の魂で生きてきている。
その魂が、とんだ悪霊に食われていないかぎり、その男は、何か根本的に陽気なはずだ。
陽気といって、それはもう「気」ではなく、わけのわからない、何か「問題のない世界」に連れていかれる感じがする。
そういう男に出会って、何より、「感想」を決して持たないことだ。
そこでなおも「感想」を持ったとき、あなたが次の物語に出会える機会はとてつもなく遠くなり、基本的にその先はもうないと考えていい。
「感想」を決して持たないこと。
そのとき、自分の心身がいかに、とんでもない「感想」という病気に侵されているかを知ることだ。
あなたは、その人に出会ったら、その人の生きてきた物語を知ること。
そして暗記しないこと。
憶えないことだ。
それでいて、あなたはその人の物語を、おおざっぱにでも語れるようでなければならない。
それが、物語が「視えている」ということだからだ。
あなたは駅から自宅までの道を暗記しようとしたわけではない。
けれどもいつでも脳内で帰り道を再生できるだろう。
それと同じように、あなたは目の前の人が、どういう物語を生きてきたか、構造的に視て再生できるようでなくてはならない。
なぜなら、その再生した末端に、彼とあなたが出会っているからだ。
そのことが視えていなければ、その物語の末端で、あなたは彼にどうしたらいいか、考えようもないだろう。
その人の生きてきた物語を知り、その上で、その物語にどのように寄り添うか、あるいは寄り添わないか。
寄り添うか寄り添わないかは、そのとき考えればいいし、必ずしも寄り添う必要はない。
ただ、目の前で魂から語られた「物語」が、視えないということは、すでに脳みそのレベルで致命的にまずいのだ。
あなたが数学や化学の授業で投げ出してしまった「何か」が、その局面で噴き出すだろう。
あなたがもし、典型的に、数学の公式や化学の知識を、学ぶのではなく、「感想」で捉えてきたのだとしたら、あなたは今もまったく同じことをしているはずだ。
数学の公式は、ごちゃごちゃして覚えにくいとか、化学の法則は、かっこいい語でそれっぽいとか、脳みそが「感想」で崩れたまま放置されていることがわかるはずだ。
あなたはおそろしいことをやめねばならない。
おそろしいこととは、あなたがこの先、薄気味悪い人と、薄気味悪い競り合いだけを続けていく、そういう生だけを何十年も過ごすしかなくなる、ということだ。
そんなおそろしいことはやめて、何が「物語」なのかを直接知るしかない。
目の前の人がどのような物語を生きてきたか、それをあなた自身が語り、そこにようやく「うふふ」という薄気味の悪いクラゲが消えたら、あなたは物語の入口に立ったことになる。
その上で、彼と握手するでも、キスするでも、セックスを与えるでも、プレゼントを贈るでも、誰かに紹介するでも、しかるべきことをすればいいだろう。
そのとき、あなたが物語の末端にいて、物語に接続することとして、ふと自分の利益を忘れ、彼の魂を利することに全身全霊を傾けていたら、その特殊な現象は愛と呼ばれる。
であれば、そこに少々の粘膜が乗っかるだけで、それはもう十分に恋あいだ。
生まれて初めて、魂が物語に触れるとき、体験が膨大すぎて、くらくらするかもしれない。
だが目の前にその人がいるということは、その人は、その膨大な体験の中を生きてきたのだし、これからはさらに膨大な体験の中を生きていくのだ。
あなたのことも、その彼のする、膨大な体験の中のひとつになる。
あなただけ、くらくらして、特別なふりをしている場合ではない。
あなたがくらくらするとき、あなたは特別な人ではないのだ。
あなたは誰よりも横着してきた人だ、だからくらくらしている。
感想を決して持たないことだ。あなたの虚弱な魂は、膨大な体験に耐えられず、すぐに投げ出して自己防衛しようとする。
その自己防衛のひとつに、すべてを感想でくるんでゴミ箱に捨てる、という行為がある。
本当には、感想が言いたくて感想を言っているのではないのだ。この仕組みは、奥深くから起こっているため、あなたはこの現象の真相をまず突き止めることはできない。
だから、感想を決してもたないことだ。
そのうちに、自分がすぐに「感想」と「うふふ」をしたがることが、自分でも不気味に感じられてくるだろう。
それは低級だが、本当に薄汚いバケモノの仕業なのだ。
正しくてダサくない、唯一の恋あいの方法は、こうして物語を生きている男に出会い、くらくらしてでも、魂でその物語を聞き遂げることだ。
それは、あなたが恋あいを手に入れる方法であり、それ以前に、あなた自身が薄気味悪い自分をやめる方法になるだろう。
[正しくてダサくない唯一の恋あいの方法/了]