No.395 サヨウナラ平成
このごろよく、しんどさを感じるのだ。
むろん、僕自身はしんどくなることがありえないので、他の事情による。
少しばかり、他の誰かのこと、僕を慕ってくる人たちについて、なんとか救いあげたいという思いがあって、それがしんどさを招いている。
しょせん、僕自身のことではないので、しんどさを招いているのだ。
そればかりは、少々、しんどくてもよいかなと思っている。
僕だって、いつもいつも、血も涙もない人間ではない。
ただ一方で、けっきょく、僕が産み出せる最大の上昇気流は、他人のことを置いてけぼりにしたときのものだということも、自分でよく知っている。
平成は罪の時代という言い方で、僕にとっての平成の説明は、七割方済んだと思う。
とはいえ、三〇年以上も続いたものを、一晩の観想で説明しきることは不可能だ。
細かく言い出せばいろいろあった。
そういえば、1995年(平成7年)の、オウム真理教事件などについては、すっかり組み入れるのを忘れていた。
もういつの間にか、ずいぶん前に、大きな仕組みのことに気づいているのだ。
一般に思われているイメージとは違う、単純なリアリティで、人は「救い」を求めている。
リア充になりたいとか、勝ち組になりたいとか、愛する人が欲しいとか、家族がどうこうとかいうのも、すべてそうだ。
「救い」を求めているというのは、宗教の専売特許のような言い方だが、仮に既成宗教のすべてを取り除いたとしても、人は「救い」を求めている。
ブラック企業で苦しんでいる人も救いを求めているだろうし、人にきらわれてばかりの人も救いを求めているだろうし、リウマチで身体を傷めている人も救いを求めているだろう。
毎日、全身がダルくて、やる気が起きない、かといって退屈は苦痛で、寝転んでスマホをいじるが、身体がしんどいし、面白いコンテンツも本当にはないという人も、やはり救いを求めている。
青春が得られなくて、そのまま就職して、そのまま老化してゆき、見た目にも老いさらばえて、あとは死ぬだけという、わけのわからない時間に長いあいだ放置されてゆかねばならないというのが、やはり苦痛であり恐怖なのだ。
救いを求めているという表現で何も誤っていない。
僕はこの、救いを求めるという周辺で起こっていることに、常に反応して、注目と思索と、観想を得てきた。
自分で決めたものではなく、どうやらそれが、前もって定められた僕自身のテーマらしい。
僕は、麻薬中毒者のドキュメンタリーなどを、何か聞き捨てならないものとして聞きとってしまうし、人の性的嗜好、性犯罪等、つまり救いを求めた結果として、救われなかったという人の率直なレポートを聞くのが好きだ。
性犯罪は、それ自体は、なぜかいい匂いがする。
ただし、性犯罪における、実際の犯行は、ただの悪臭しかしないのでだめだ。
性犯罪という、概念と可能性そのものからは、なぜかいい匂いがする。
性犯罪の、「イメージ」からは、最悪な不毛労働の徒労しか聞こえてこないが、それはけっきょく、本当の意味での性犯罪にさえ到達できなかったということなのだろう。
わけのわからない話をしているが、実際のこととしての性犯罪を肯定しているわけではない。当たり前だ。
平成は罪の時代だったが、その「罪」というのは、人々が「救われよう」とする中で、エセの救済を自分たちで醸成したことによって発生している。
われわれのような凡人が、高度な救済に到るようなことはどうせないのだろうが、それにしても、程度は低いにせよ、救済にもアタリとハズレがあるように思う。
平成は、罪の時代であり、つまり、多数の人々がハズレの救済に取り縋った時代だと言える。
それは何も平成に限ったことではないのだろうが、平成ではそれが特に顕著だったということだ。
日本の場合、たとえば戦争をしてみたところ、初めのうちはよかったが、大東亜戦争では焦土化するような敗北をして、救われなかった。
それで、焦土化した敗戦国として、逆に高度な復興と高度な経済成長をしてみればどうかといって、そのとおりにしてみたのだが、それでも救われるここちはきっとしなくて、少なからぬ人々は共産主義に傾いていった。
だが共産主義もユートピアをもたらしてはくれず、逆にびっくりするぐらいの流血をもたらして、ソヴィエトがアフガンに進行したあげく崩壊して、共産主義はただの黒歴史になってしまった。
そうなると、やっぱり資本主義ですよね、ということになり、人々はバブルに踊り狂うことに救済を求めた。そうすると、それも破綻して、多数の首つり自殺と大量の焦げ付き債務が残った。
そこから平成になって、女子高生が天使かな、と救済を求めた。確かに女子高生は、戦争の当事者ではないし、共産主義の当事者でもないし、バブル経済の当事者でもない。
女子高生の下着にのみ、真の救済の香りがすると信じた。
だが、ガリ勉の大学生たちは、コギャルには縁が無かったので、たとえばオウム真理教に入り、ヨガのトランスから真の救済を得ようとした。
その点、結果は惨憺たる事件に行き着いたにせよ、ヨガのような修行から真の救済を得ようとしたこと自体は、人類の歴史から見ればむしろ正統の発想だったかもしれない。
アイドルオタクであれ、ゲームオタクであれ、人が救われようとするならば、何かに没頭・没入せねばならないというのは、さすがに誰だってわかっている。
実際、どんな醜男でも、壇上の飾られたアイドルに向けて、サイリウムを渾身で振り回し続ければ、ストレス解消もあって、没我に到り、何か救われたここちがするのだろう。
あるいは、その正反対、高価な今年の流行を着飾って、クラブのVIPルームに入り浸り、エゴイスティックを貫き通すのが自分への救済とするブームもあった。
だがその「エゴい」のも、悲惨な話、「カネとスリム体型が続かないし、少子化で若い人じたいが少ない」という無慈悲な実情で踏み潰されてしまった。
僕は正直、麻薬やギャンブル、アイドルの追っかけや、セックスや性風俗に、入れ込んで破滅する奴の話が好きだ。
誤謬に満ちていることは明白だが、それにしても、救われようとすることに素直だったとして、僕はそういう奴の話が好きだ。
付き合えるかというと、付き合える気はしないが、少なくとも、「わたしはこんなに頑張ってきました」という人の話よりはよっぽど好きだ。
麻薬やギャンブルやセックスやアイドルやホストに入れ込んで破滅した人は、「救われなかったのです」という正直なレポートに到達しているので、そういう人の話は、少なくとも馬鹿にする気にはなれない。
それに比べると、「こんなに頑張っています」という人の話は、未だ「救われなかった」と断定している人の話ではないし、むしろ自分は救われているのだと喧伝する側なので、そちらの話はあまり聞きたくない。
同じ構造として考えると、たとえば今、LGBTの当事者として、異性愛の偏見から離脱できれば救済される、という目論見の只中にある人が少なからずあるはずだが、それが後になって、「救われなかったのです」というレポートに到る可能性は大いにある。
あるいは健康志向もそうで、身体を人並み以上に鍛え、ベジタリアンやヴィーガンになってみたり、ロードバイクやジョギングで長距離を走ってみたり、ボルダリングで高い壁を登ってみたりしても、それが結果的に「救われなかったのです」という結果に到ることは大いにあり得る。
これは、差別や偏見ではなくて、誰だって同じ不安の中を生きているという公平さにすぎない。僕だって今、こんなわけのわからない書き物を続けているし、やれワークショップだといって奇妙な訓練会合を持っていたりするが、それがけっきょく「救われなかったのです」という結果に行き着くことは十分にありうる。
それは、誰にとってもフェアなことだ。
地元と業界に貼り付いてしきたりにガチガチに縛られて生きれば救われるのか、宗教施設のおじさんの言うことを守り続ければ救われるのか、親の言うことやワイドショーの言うことを聞き続ければ救われるのか、そんなことは誰にもわからない。
天皇陛下万歳と叫び続ければ救われるのか、「宇宙船地球号」を叫び続ければ救われるのか、フランス文学を研究し続ければ救われるのか、そんなことは誰にもわからない。
おそらく、僕が思うに、ハズレの救済を選び、破滅に到って「救われませんでした」とレポートすることは、罪ではないのだと思う。
僕が言っているところの罪は、救われていないものが、さも救われているように言い張り、それを宣伝したり表示したり、そのことに気取ったり、他者を誘い込んだりすることが、罪になるということだ。
これらのことは、社会的には何の罪も構成しないが、魂のレベルにおいて罪になり、この罪を重ねた者は、程度に合わせて己の魂を失っていく。
たとえば「鉛筆削りの会」を設けたとして、「遊びでやっているんじゃないんだ」「きみも本気でやってごらんよ」「うちらマジ充実しているもんね」と言い張ると、そのことが罪になって、魂を失うということだ。
その意味において、平成は、エセ救済を言い張ることによる「罪」の、カタログを制作するような時代だった。
確か1998年ぐらい、平成10年ぐらいに、マクドナルドが徹底的な「マニュアル接客」を導入して、当時の僕と友人らは、昨日の様相からまったく変貌した急なマクドナルドの店員さんたちに、
「なんなんだこれは……」
と唖然としていたものだった。
マニュアル接客が行き届いている店内は、明るくのびやかで、客にとっても居心地がよいように思える。
思えるのみならず、まさにそうなのだが、それにしても、やはりそれは偽りであるという罪が混入するようだ。
何しろ彼ら・彼女らは、もらっているカネをもらわなければただちにその笑顔と明るい声かけをやめるし、マニュアルが変更されればそのとおりに、仏頂面をしろと言われたら仏頂面をするのだ。
マクドナルドと地下アイドルを足して二で割ったら「メイドカフェ」になるだろう。
そんなものは、やはり罪になるに決まっているのだ。
行為が罪なのではなく、かかる恣意的演出によって「救われたと偽装した」ことが罪になる。
結婚式の女性にティアラをかぶせたら、女性は「幸福かも」と錯覚し、救われたここちに陥るのかもしれない。
それを、薄々わかっているくせに、上手い方法だと言い張って商売にしたり、日々の充填に用いたのが罪の始まりだ。
どんなヘッポコの歌手でも、舞台に極彩色のライティングを明滅させ、アンプにエフェクターをかけて、シンセサイザーと共にズンドコ鳴らせば、何かそれっぽいイケているものに聞こえるのだ。
女の子に流行のメイクをほどこして、キラキラの統一衣裳を着せて、わざと汗を掻くようにぶんぶん暴れさせ、そこにきつめのスポットライトを当てれば、天使か何かのように見えるものだ。
あなたがタレント学校に行って初めに習うのは、「歯を八本見せるようにして笑いなさい」ということだ。
フォトショップで画像を加工して、自分を美麗で充実した何かに見せることに罪があるのではない。
それによって、自分を救済されている誰かであるように見せかけ、自慢と見栄と自己保護にするのが罪になる。
誰でも就職活動のときは、自分の学生生活が有意義で充実しており、健気に立ち働く者だったというデマカセを、初対面の人に向けて言い張る。
(まあそれはしょうがない)
宗教関係者が、「カミサマとかさっぱりわかんねえ」とは決して言わないし、学校の教師が「学門とかまるで興味ねえ」とは決して言わないし、若い女が「ファッションとかさっぱりわからない」とは決して言わないし、誰も彼も「愛とか物語とかさっぱりわからない」とは決して言わないし、道場の先生が「極めるどころかワザの基本もよくわからねえ」とは決して言わない。
誰も彼もが、何もかもをわかっており、誰も彼もが、誰よりも救われていると言い張るのが大前提になった。
これは、平成より前の時代には無いことだった。
僕は、サヨウナラ平成といって、これらすべての「救われています標榜」について、まとめてサヨウナラを告げたい。
重度の麻薬中毒やアルコール中毒になって、「救われなかったのです」と正直にレポートする人については、もう誰かがなんとかしてやれるものではないのだろうが、少なくともそのレポートにウソはないということを、正当に認めてやりたい。
平成の三十年間で、色んなもののレベルが上がった。特に競技の全般については、格段にレベルが上がっただろう。三十年前の選手は、現代のレベルでほとんど戦えないに違いない。
だがその三十年間で、競技の全般は、魂が救われないものになった。レベルは上がったが、救われないものになった。
それは、競技というものの限界なのだと思う。魂の一切を捨てて、ひたすら合理的に、ハイスコアを獲るように機械的な訓練をされたら、競技上でそれに勝てる者はいないのだろう。
サヨウナラ平成といって、僕はけっきょく、そうした機械的ハイスコアマンたちにもサヨウナラを告げたい。
機械的にハイスコアを目指して競技上で救われている身分を偽装表示するということが罪にならないわけがない。
僕が平成の終わりに、しんどさを感じたのは、僕自身のことではなくて、少しばかりの周囲の人々のことについてだ。僕だって、常に血も涙もない男でいるわけではない。僕を慕ってくる人については、いくらか、救いあげることをしてやりたいと思うところがある。
それにしてもけっきょく、僕が産み出せる最大の上昇気流は、他人を置いてけぼりにしたときのものだけれども、最近はごく一部に、その上昇気流についてくる奴もいるし……
多くの人の顔に、これまでの、救われている自分を偽装するのが正しいのだとする方法がへばりついたままで、それについて苦慮し、除去しようとする試みをさせられるのがしんどい。
アタリの救いを引きあてていない者が、純朴ぶっても無駄だし、エゴぶっても無駄だし、振り切ったオタクぶっても無駄だった。
ただハズレと罪だけが残ったのだから。
そのことを、もういちいち混ぜ返さないということであれば、僕はこの先をほとんどしんどくなくやっていくことができるだろう。
サヨウナラ平成、今上陛下はすばらしい御方だったが、そのおやさしさと威風を賛嘆して見送ると共に、うってかわって平成の民の顔面に貼り付いた罪のやり方に、僕は根本的なサヨウナラを告げたい。
かつて戦争があって、その後は反動的に左翼が生まれて、それはやけくそのバブルに転じて、女子高生の幻想に逃避するようになり、とにもかくにも救われようとしてきて、平成は、バリエーションは多々あれども、どれもがさも救われていると言い張るだけが主流になった。罪の主流だ。
この三十年間で、明らかになったこと、それは、一般に思われている罪と、本当の罪とがまったく違うということだった。罪の主流により、平成の主流、平成の顔が成り立った。
サヨウナラ平成、これまでは僕個人が色んなことを置いてけぼりにしてきたけれども、これからは時代そのものが古い顔を置いてけぼりにしていくだろう。
[サヨウナラ平成/了]