No.397 Killing all wo-men
もしこの世界にカミサマがいると仮定するならば、あなたはカミサマを守るために戦え。
カミサマに守ってもらおうとするのは邪であり、人の仕事はカミサマに守られることではなく、カミサマを守ることだ。
カミサマを守るために戦うなら、あなたにはカミサマの力が付与されるだろう。
カミサマとは「事象」であって、ありがたがって拝むような偶像ではない。
カミサマの力が付与されたならば、それが直接のカミサマであり、ありがたがって拝んでいる場合ではなく、その力をもってカミサマを守れ。
一部の武術は護身術を謳っているが、そのことはもう二度とやめたほうがいい。
自分の身を守るために武力を具えるというのはただの戦争の発想だからだ。
護神術ということならわかるけれども、護身術というのはやめたほうがいい。
カミサマとは、「世界」とほとんど同じ意味だが、このカミサマを守ろうと戦うとき、膨大な力が心身に付与される。
この、付与される力を「愛」という。
カミサマを守るときに付与される力を「愛」といい、自分を守るときに湧いてくる力を「カワイイ」という。
過去、平成の三〇年間は、「カワイイ」の時代だった。
「カワイイ」を原理とし、カミサマに自分を守ってもらおうとする発想の者たちを、 wo-men という。
「愛」を原理とし、自分がカミサマを守ろうとする発想の者たちを、 men という。
もはや、誰が men であり、誰が wo-men であるかは、性別上の男女とは無関係になっている。
今、すべての光景に熱気がないことを発見せよ。
熱気のないそれは、実はすでに光景でさえない。
光景でさえないそれが、何かしらの光景に誤認されるのは、どこかに「カワイイ」が作用しているからだ。
今、実に巧みに、「カワイイ」が原理として挿入され、その作用が暗躍している。
「カワイイ」が、ただちに悪霊だったのだが、悪霊は己を悪霊と気づかせるほど無能ではない。
すべての wo-men を殺害せよ。
これは魂の営為であって、社会的な殺人事件の犯行予告ではない。
カミサマを守る者ではなく、カミサマに守ってもらう者、つまりカミサマを使役するほどの者だという傲りが、人々を調子づかせている。
きわめて危険な状態だ。
自分はこの世界の付属品であって、すべての寵愛に対して受け身を続けるという態度になっている。
目を覚ませ/魂の平手か手刀が、その頬や首に触れる必要がある。
痛みは必要ない。
「カワイイ」は強力であり、強力であるからこそ、誰にでも分かるという性質がある。
そもそも、そういうパワーやフォースは、物事を分割する作用のものだ。分割するから「分かる」という。英語では tell A from B という。
筋肉を盛りに盛った男の握力が「すごい」ということは誰にでも「分かる」。
だが筋肉を盛りに盛った男の握力は、この世界に梅の花を咲かせることには何の作用も持たない。
分かりやすい「力」は、そのとおり物事を分割し、この世界をさまざまに分割し、「ジャンル」を生み出した。
「ジャンル」が生み出され、人々がジャンルに取り込まれていく中で、人々は世界を失っていった。
ジャンルの中にはキャラが発生し、人々はより自分を強力なキャラにしようとする。
強力なキャラとは、なんであれ「カワイイ」ということだ。
ファンがつくキャラということだ。
こうしたキャラたちは、カミサマを守ることに何らの関心もなく、ただ自分が守られることにのみ関心があり、非常に危険な状態だ。
アイドル・タレントが、ファンたちに自分が守られることを主な業務としながら、婚姻を結ぶとアイドル稼業を辞めるのは、それが理由だ。
婚姻によって、別の者に守られる算段がついたから、もうファンたちに守られる必要はなくなったということだ。
今後は、夫にとってのみ「カワイイ」者であればいい。彼女はそういうジャンルに移り、新たにジャンルに合わせたカワイイ「キャラ」を作りだしていくのだ。
こうした、非men的な様相のすべてを、 wo-men と呼ぶ。
wo-men は、一匹の子猫が鳴いているときでさえ、そこにカミサマに向かう命と魂があることがわからず、その聲の響きが聞こえていない。
wo-men は、ただ「カワイイ」ということにしか反応できないのだ。
ひたすら、自分を生き長らえさせる衝動にのみ縋っている。
これを wo-men と呼ぶ。
「世界」という事象から切り離されており、ひたすら「我」という事象のみを庇護しようとしている。
その存在は、正しく見切られるとき、はっきりと「薄気味悪い」のだが、今や「カワイイ」の毒が蔓延して、人々の目は曇ったので、それが「薄気味悪い」ということが視えなくなっている。
カミサマを守れ/誰しも一度は、そのカミサマを守って戦う者、そのカミサマの力を付与された者の力に直接触れ、ハッと目を覚ます必要がある。
カミサマに付与された力に触れたとき、多くの人は、とっさに自分を守るために「カワイイ」のほうへ再転落するだろう。
その再転落が数度続くと、もう戻ってこられなくなる。
重ねられた甘みがやがて虫歯をもたらすように、魂の底に穴が空き、その穴がもうふさがらなくなるのだ。
古代の人は、日本のことを神の国・神州と呼んだらしいが、そんなものはとっくに失われており、実態に即していない。
いくつかの宗教に熱心な人もいるかもしれないが、今や宗教もひとつの「ジャンル」にすぎず、宗教というジャンルはカミサマとはまったく無関係だ。
ましてそのジャンルは、自分が地獄行きになるのを防ぐ、霊的な護身術としてありがたがられているにすぎない。
宗教に熱心な人など、狂人しかいないだろうという直観が、実態によく当てはまっている。
カミサマは「事象」なのだから、宗教という「ジャンル」は何も関係がない。
すべての wo-men を殺害せよと言っているが、この、女を愛好する助平である僕が、ここにきて女たちに呪詛を向けるわけがない。
そうではなく、むしろ逆だ。現在、決して視えるはずもないことだとは思うが……
これ以上、女が取り返しのつかない wo-men になっていくのを、もう見たくないのだ。
すさまじいものに触れ、「カワイイ」に転落するのをやめたら、人はふたたび愛のところへ帰ってくる。
カミサマを守るために戦い、カミサマにその力を付与された者の力は、すさまじいものだ。
びっくりしてすっ飛んでいくほどのものだ。
修練を積むほどに、手加減は必要なくなっていくだろう。
カミサマは事象だ。
"あれ" ですよね、という言い方がおおむね正しい。
この、 "あれ" と表現されうる事象を体験したことがない者が、「カワイイ」をニセのカミサマとし、ニセの愛とし、奉り、取り返しのつかない専横を振るう。
やれやれ、と、苦笑いしていられる時期はもう過ぎたのだ。
「カワイイ」は醜態だと知れ。
「カワイイ」に毒された愚か者たちだけが色めくだけの、不毛な生き残り方法であり、目が覚めればまごう事なき醜態だと弁えよ。
また、そうした醜態に動揺せず、常にそうした醜態の中を生きてきたのだということに慣れ、当然として受容せよ。
「カワイイ」は醜であり美ではなかった。
愛のない者が、愛の代替に「カワイイ」をすり替えただけのことだ。
だからこそ「カワイイ」の者は内心の醜い闇が膨張していく。
カミサマを守るために戦う者だけが、力のひとつとして「言葉」を付与される。
men だけが、言葉を発することができる。
今、誰も彼も、色んなことを「言う」のみで、誰も愛の言葉を発することはできない。
「言う」と「言葉」は性質が異なるためだ。
「カワイイ」とは無数に言い合うが、愛の言葉は発されない。
ラップ音楽に乗せても「言う」ことしかできない。
ジャンルに対して「言い」、キャラに対して「言い」、カワイイに対して「言う」。それらは粗雑なコメントになったり、誹謗中傷になったり、マウントになったり、甘やかしになったり、意識高い系になったり、不毛な議論や反論になったり、呪詛や怨嗟になったりしている。
それぞれ無尽に「言い合う」が、「言葉」から切り離されている者たちがある。
これが、具体的に「カミサマに見放された者」たちの実態だ。
Killing all wo-men, カミサマを守る力に打ち殺されたとき、 wo-men はまともなレディに戻るだろう。
[Killing all wo-men/了]