No.401 大晦日春一番
妙に風が強い。
こんな大晦日は珍しい。
各地のお寺の梵鐘は大きく揺れているだろうか。
この一年は、すさまじい一年だったので、振り返ろうとしても、「そんなことしている場合かクソが」と反発する、すっかりそういう習慣がついてしまっている。
今年の初めに実父が他界した。
それは、敢えて言うとどうでもいいことだった。
やがて自分が死ぬときにも、わたしはそれをどうでもいいことだと言うだろう。
言い伝えによると、お釈迦様は自分が涅槃に入るとき、弟子のアナンダに、「葬式に首を突っ込んだりせず、お前はお前の進むべき道を進め」と言いつけたそうだ。
わたしは、さすがに父の葬式には喪主を務めたが、寺族の長男であったはずが、けっきょくその継承を蹴ってしまった。
古い言い方で云えば、出奔したまま廃嫡ということになる。
そんなことは、やはりすべてどうでもいいことなのだ。
実父の通夜葬式のあいだにも、東京と大阪を往復して、ワークショップに乱入していたのだから、我ながら不孝をきわめている。
何もかも、どうなるか知ったことではないし、どうでもいいと思っている。
それは、自暴自棄ということではなく、万事が「そういうことではない」と気づいたからだ。
気づいたというより、それは、もともとそのように感じていたことに、振り切って確信したということになる。
自分のような無能非才の小人など……という言い方も、もう今さら取り出さないようにしている。
自分が有能か無能か、非才か偉才か、大物か小物かということも含めて、そんなことはどうでもいいことなのだ。
この大晦日に吹く風は、窓を開けてみると、木枯らしのようでありながら、春の匂いを含んだ春一番のようでもある。
大晦日に吹く春一番は珍しい。
天気予報によると、東京周辺は前線に庇護されて、どうやら以北の地域は寒風が吹きすさんでいるようだ。
令和元年はすさまじい一年だった。あるいは、後半が特にすさまじい半年だった。
わたしは、年齢的に平成元年の記憶を少年時代のものとして持っている者だが、その記憶は、平成というより昭和天皇御崩御という印象のほうが強く、とにかく各局のテレビがそのニュースだけを流し続けるので、父とレンタルビデオ屋に繰り出したという思い出しかない。当時流行を始めていたレンタルビデオ業で、プラットフォームはVHSとベータがあった(すでにベータのほうが大きく劣勢だった気がする)。
レンタルビデオ屋につくと、同じ発想をした人々で店内はあふれかえっており、父が「考えることは誰でも一緒やな」と云って笑っていたのを覚えている。
そんなことに、万感やら郷愁やらはまったくなく、もしそんな思い出に耽っているようでは、たちまちに年老いてアッというまに死んでしまうだろう。
わたしには郷愁はない。生涯、郷愁などいうものは持たないだろう。なぜならわたしは、すべてのことを過去ではないと思っているからだ。時間軸そのものを錯覚だと断じているので、「その昔」という発想じたいがない。
先日テレビで、古代エジプトの墳墓から、あらたに棺が発掘されたという特集があり、その遺跡と棺の開陳を放映していたのだが、古代エジプトの墳墓はあくまで墳墓であって遺跡ではない。遺跡というのはすでに使われていない過去の建築痕跡のことだ。4500年前のものらしいが、それは現在もお墓のままなのだから、それを「遺跡」と呼んでいるのはおかしい。故人の、しかも王たる身分であった人の墓を暴いているのだが、たぶんそのことの自覚がテレビ局側にはない。ひょっとしたら学者にもないのかもしれない。4500年前のお墓が、遺跡ではなく今もお墓だということがわからないのだとしたら、それはただのアホであって、よりにもよって考古を学ぶセンスはない。
平成元年から令和元年まで、たかだか三十年と少しだが、こんなことをいちいち今昔扱いしていたらセンスがない。
魂が弱って実感を漁り始めると、人はそうしてありもしない実感を捏造して万感に浸ろうとする。
わたしがこの一年間、ないしは後半の半年間で特に向き合ったのは、人々の内に棲む傲慢、またその現象を担うデーモンたるルシファーの存在だった。
いわゆる「七つの大罪」に結びつけられたそれぞれの悪魔、サタンの激情やらルシファーの傲慢やらは、聖書由来ではなく中世的通説でしかないので、本当かどうかわからないのだが、このところは説明に便利でしっくり来るという理由だけで、この言い方をよく用いている。
人々は、アイドル志望のハナエ・サキ(22歳)がアイドルオーディションに落選すると、ハナエ・サキの流した悔し涙に共感して強く悲嘆の感情を起こす。
一方、吉田松陰(29歳)が安政の大獄で打ち首処刑されても、そのことに強い悲嘆の感情は起こらない。
ハナエ・サキ落選の裏側に、運営側の不正がはたらいていることが発覚すると、人々は義憤のつもりの怒り、やるせのない憤怒に燃え上がる。小規模ながらいわゆる「炎上」が起こるだろう。
このことを、「業を煮やしている」という。
業とはカルマのことだ。まさにカルマが煮えたぎって身に憤怒が起こっているので、「業を煮やしている」という慣用表現が正しい。
吉田松陰が打ち首にされても、われわれの誰も業を煮やすことはない。
これはどうしようもないことなのだ。明らかに決死の憂国の士であり、人々に知と光と徳性を分け与える公明正大な、少なくとも私利私欲の徒ではありえない吉田松陰が、暴走した幕府の政治都合によって無為に処刑されたということに、烈たる怒りを覚えよと云われても、「……(苦笑い)」としか思えないのだ。「ピンとこない」という実情はどうしようもない。
それよりも、二ヶ月も泣きながら特訓したのに、オーディションに落ちてしまったハナエ・サキ、その落選の裏側には運営側の不正があったということのほうが、「ゆゆゆ、許せない!」という直接の憤怒が湧く。
極論すると、吉田松陰の処刑については、「まあええんちゃう」「しゃーない」と思っているのだ。「政治には、色々あるし、歴史的には、そういうことってよくあるから、まあしょうがないんちゃう。よくないこととは思うけど」と思っている。
だから現代の人々は、吉田松陰になりたいとはまったく思わず、アイドルになりたいと思うし、アイドルのオーディションに果敢に向き合う夢のある自分になりたいと思う。
さすがにわたし自身、そこまで錯誤者でもないので、いまどき吉田松陰になりたいと言い出す人がいたとしたら、わたしだってその人のことを、単に頭がヘンな人なのだと断じるだろう。
もし政府が、いきなりハナエ・サキを引っ立てて、打ち首にしてその死骸を南千住の線路脇に投げ捨てたら、人々はびっくりするのではなかろうか。
わたしはびっくりしない。過去にすでにやられていることを、今さら繰り返されてもわたしはびっくりしない。
こんなことに、ルシファーがどう関係しているのか。
ルシファー・傲慢の悪魔とは、要するに「上から目線」のことだ。あらゆる映画のレビューサイトや、 YouTube のコメント欄は、すべてこの「上から目線」で埋め尽くされている。
上から目線というものを、非難しているのではなく、そのことがもう魂の性質上、やめられないということを指摘している。
魂が契約を結んでいるので、もう死ぬまでずっと「上から目線」なのだ。
今、小学生にガンジーの伝記を語り聞かせ、その感想を求めたとしても、必ず「すごい人だと思いました」という上から目線が返ってくる。
それ以外に文体がないのだからしょうがない。
ルシファーは傲慢の悪魔だから、ルシファーの棲み処となった人の身には、もう「打ちのめされる」ということが起こらないのだ。何も刺さらなくなる。
だから、映画だろうが音楽だろうが小説だろうが、どんな偉大な作品を与えても無駄だし、また偉大な作品というのはこの先にもう生まれてこない。
実際に生まれてきていないのだから説得力がひとしおだろう。
傲慢の悪魔が棲みついているのだから、自分の霊魂より上位の、自分を打ちのめすものの存在など認めないのだ。
吉田松陰は、十歳で藩校の講師であり、山鹿流兵学を教えていて、十一歳になると藩主に対してさえ講義をしている。
とんでもない英才なのだが、そうしたものに打ちのめされるかというと、打ちのめされるという現象じたいがないので、「へえ〜」「すごい!」となる。
上から目線がやめられないのだ。これは心理的な問題ではなく、また人格的な問題でもない。精神的な問題ということになるが、精神的な問題ということは、すでに人為によって修正は利かない問題ということだ。どれほどそのことが不本意でも、一生その「上から目線」を続けていくしかない。
例外的に、といっても、しょーもない例外だが、ルシファーの権威をサタンの権威に委譲することで、その傲慢を表面上はやめることができる。
サタンの症状は「激しい感情」だから、感情を激することで、つまり「ああっ! 松陰先生ッ!!」みたいな感じで、割とマジに感情をおかしくして、表面上は傲慢を取り下げることができる。
といっても、サタンとルシファーは同一人物みたいなものだから、結果的に同じことだ。感情を激している人は、けっきょくわたしの感情が偉いのであって、わたしの感情の偉さからは逃れられない。そうして傲慢・我慢という仕組みから逃れられない。
そうした仕組みで、現代の人々は、「上から目線」「マウントの取り合い」の中を生き、その周辺で、代理的に「激しい感情」にシフトしてみたりして、日々を過ごしている。
わたしは今、この一年間で見たことを報告している。
幕府が吉田松陰その他を無意味に惨殺してみても、けっきょく倒幕は為されて時代は変わってしまった。そのことの背後には産業革命があった。庶民の力が増大して産業革命をもたらしたのでもあるし、産業革命が起こって庶民の力が増大したということでもある。けっきょく、そうして庶民の力が増大してしまえば、庶民を抑えつけることで成り立っている幕府・封建制という仕組みは破綻するしかなかった。倒幕という事件が突発のピークとして起こったというわけではなく、それは大きな時代の終焉が厳かに訪れたと見るべきだろう。
同様に今、われわれは確かにIT革命などと呼ばれた時代後期の現実に直面しているのだと、わたしは思うようになった。産業革命が明治維新をもたらしたのなら、IT革命が平成維新をもたらしたのだと思う。庶民の力の増大が封建制を終わらせたように、庶民の力の増大が、たとえばマスメディア制を終わらせた。今ちょうど、その時代の瞬間に立ち会っているのだと思う。産業革命が庶民の産業力を増大させたことになぞらえれば、確かにIT革命は庶民の情報力を増大させたとまさに言いうる。
われわれは現代の者だから、基本的には明治維新の是非については、これを是と捉えている。それは当たり前だ、今さらわれわれが封建制に戻したいとはわずかも思わないし、「あのままがよかった」とは到底思えない。
にもかかわらず、われわれの魂のどこかには、封建制という制度そのものではないにしても、全体的に中世にあったものに憧憬を持っている。だからこそ時代劇というのがいつまでもあるし、ドラゴンクエストのような世界では、人々はアサルトライフルと爆撃ではなく剣と魔法でモンスターたちと戦おうとする。歌劇ではなんとなくベルサイユ宮殿の周辺を再現しようとする。
人々は中世に魂の憧れを持っているし、より小規模に見れば、現代の若年層が昭和の時代に憧れを持っていることは少なくない。われわれの時代は進んでいくのだが、その中で失われていくものもある。われわれの全員が死に向かっている以上、人類の全体も最終的には滅亡に向かっているだろう。われわれは進んでいるように見えて落下していっているのだ。時代が進むにつれ、生きるには有利になるが、「命」というものからは遠ざかっていく。人々は長生きできるようになり、乳幼児の死亡率は下がり、食料の生産は飽食をもたらすまでになり、長生きするにはあんまり食べないことだということにまでなった。庶民が力を増大させることで旧時代は打破され、そのたびに維新となり新しい時代になっていくのだが、庶民が力を増大させるほど、一般に生きることは有利になり、そのぶん「命」からは遠ざかっていく。「命」から遠ざかり、「生」に有利になっていくのだ。だからこそ岡本太郎は、己の芸術を「縄文」にまで遡らせたのだろう。彼の芸術を命あるものにするために。また、ただ生活の糧に芸術を消費するだけという罪深きに陥らないために。
産業革命・蒸気機関が、「主君」という現象を終わらせたし(明治維新)、その後、電波媒体・マスメディアが、「君主」という現象を終わらせた(第二次世界大戦以降)。では現代のIT革命は何の現象を終わらせるのだろう。わたしがこの一年間で見てきたところによると、それは「主体」だと思う。IT革命が今、「主体」という現象を終わらせようとしている。その維新はほとんど為し遂げられていて、すでにどのように幕を引くかという段階に来ているとわたしは言わざるをえない。
江戸時代、藩士とその主君(藩主)との距離は近かった。藩士が主命に忠実たろうとするとき、その「主」はごく身近にいる「あの方」のことだということになるだろう。この封建制が打倒されて王制になると、王・君主は市井の人々にとって遠くなる。事実、旧日本軍の兵士たちは天皇陛下万歳を唱えて玉砕していったが、そのほとんどは天皇陛下に一度もお目見えしたことはなかっただろうし、尊顔を拝したこともなかっただろう。その遠い天皇陛下を唱えて玉砕するよりなかった。そして戦後の日本、われわれが今「昭和」と思ってイメージする時代の風景は、主君でもなければ君主でもない、「主体」という現象そのものを我が主(あるじ)にする時代だった。このときすでに主君もなければ君主もない、そうした中継なしに自分が直接神なる「主体」に接続するよりない時代だった。実際、当時はよく「自分のない人、キライ」と言われた。そのことも今、IT革命から打ち倒されて、維新が完成しようとしているのだが、次はどのようにその命の接続の距離が遠ざかり、どのようにその命の接続を得るのだろう。
わたしにはこのことがまったく視えないのだ。
封建制:神−帝−領主−領民
王制 :神−王−−−−臣民
共和制:神−−−−−−市民
?制 :神−???????
図示のとおり、封建制においては、帝が神から天命を授かり、領主が帝から勅命を授かり、領民が領主から主命を授かっていればよかった。その連携が本当につながるのであれば、人々は神の命のもとに生きていくことができた。
王制においては、王が親政を執ることになり、あくまで末端の臣民も、王の命によって動くということになる。領主という卸売りが中抜きされるような構造になり、臣民はその顔を見たこともない王の命によって動くことになる。
共和制においては、王さえも省略されるので、市民はもうその顔を見たことがないどころではない、その存在を感じたことさえない神の命を受けて(そのつもりになって)動かねばならない。
そして、この先がどうなるのか視えないのだ。むろん、順に物事が進むのなら、この次に省略されるのは神そのものでなくてはならない。そしてわれわれは、共和制の次のシステムとして、神を消去しようとしたシステムが実験されたことをすでによく知っている。それは共産制だ。共産制は神を否定し、この世界はただ平等な同胞たちだけが存在するとした。
封建制:神−帝−領主−領民
王制 :神−王−−−−臣民
共和制:神−−−−−−市民
共産制:−−−−−−−同胞
けれども人類史において、この共産制が、とてつもない大流血をもたらして打ち止めになったことは衆知のとおりだ。共産主義活動はついに神をも打ち倒したといえば、かつての活動家たちはむしろそのレッテルを誇りに思うだろう。共産主義はそういう思想だった。
とはいえ、IT革命が平成維新を今完成させようとしていたとして、実際われわれは共産主義に傾倒してはいないし、共産主義の記憶はあまりにも歴史的に血なまぐさく、その轍を踏む気には今さらなれない。
ではこれからやってくる時代は如何様なのだろう。このことがまったく視えない。
そう感じて、わたしはこの大晦日を過ごしている。
身近に主君もなく、遠くに君主もなく、見えざるところに主なる神もなく、かつ同胞説もすでに廃棄済みだとすれば、われわれはひたすら生存競争をする自我だけの群れになるだろうか。それはわれわれが人の身分を捨てて、神の命と無関係な、野の獣に落ちるということだ。たとえその獣たちが徒党を組んだとしても、それは生存競争のための有利さが群を為させるということだから、何かのために集った人々ということにはならない。バッファローの群れやイワシの群れ、あるいは蜂の巣やアリの巣は「集い」ではない。
封建制:神−帝−領主−領民
王制 :神−王−−−−臣民
共和制:神−−−−−−市民
生物制:−−−−−−−生物
わたしにはまったく視えないこのことが、ともすればルシファーの真意だと見れば、辻褄としては整合する。ルシファーは伝説上、確かに神を打倒して己がその地位に成り代わろうとし、大戦争を仕掛けた天使だ。その天使が戦いに敗れ、堕天使となって悪魔になった。そのルシファーが傲慢の悪魔なら、確かにルシファーは先の図示のように、ついに「神の打倒・消去」を為し遂げようとはたらくはず。生物制と仮称した列において、神は確かに打ち倒されている。
現代の人々は進化している。たとえばオリンピックを見ても、現代のオリンピックは五十年前のオリンピックと比較にならない。白黒映像に残っている体操選手の演技は、現代の体操選手から見れば初級も初級のていどだろう。同じく、昔のバレリーナは現代のバレリーナのように高々と脚を上げたりしない。腰の高さていどに上げるのみだ。昔、フィギュアスケートというのは氷の上に図形を描くというだけのもので、現代のようにジャンプして四回転するというようなしろものではなかった。昔の美女は、現代の美女のようにすさまじい覇気を放ってはいないし、だいいち現代は美女の数が違う。現代は、リストアップするなら、とんでもない美女を世界中から一万人はピックアップできるはずだ。またイケメンという言われ方がしてから、象牙で作られたような美男も大量に発生するようになった。現代のイケメンから見れば過去の石原裕次郎は「イケメン」ではない。人類は目覚ましく進化しており、現代のメイウェザーのボクシングを見ていると、かつての拳闘と呼ばれたボクシングなどまるで児戯にすぎないと見える。コンピューターのプログラマーなど、児童の年齢からすでに天才がいて、その年齢のまま大学に入ったり、あるいはそうした子供が大規模なハッキングを掛けて世の中を驚かせたりしている。
ただ、そうした天才――に見える者――たちが、かつての吉田松陰のように、猛士として己が生を何かに散華させるということはない。いかなる能力も、ただ己の名利に尽くすのみだ。彼らは確かに、その秀でた能力によって、何にも誰にも頭を下げることなしに生きてゆけるだろう。
伝説上、ルシファーはなぜ神に戦争を仕掛けたのだったか。今、わたしも改めて調べる時間の余裕がないが、誰でも知っているようなこととして、ルシファーは神から命じられたこと、「土くれから創った、アダムとイブに仕えなさい」と命じられたことに従えなかった。ルシファーはすべての天使の長であり、美の極致、また能力の極致にあった。そこまで優れた者が、どうして土くれから創られたアダムとイブに仕えねばならないのか。この耐えがたい不服から、ルシファーは神を打倒して自らが神の地位に就こうとした。
人類は目覚ましく進化している。能力も美も極めている彼らは、パッとしない何者かに仕えるということなどには、当然の不服を覚えるだろう。それを無理強いしても、彼らはやはり戦争を起こすに違いない。わたしはIT革命と平成維新の折りに人々にルシファーが棲んだという話をしている。そしてルシファーは能力の極致・美の極致にいる者だった。そしてわたしは、「現代の人々は目覚ましく進化した」と話している。その能力においても美においても。そのことに、わたしの称賛の意はなく、もちろん危機の意だけを添えている。「棲んだのがベリアルじゃないだけマシか」と笑ったとして、全体の危機感は緩和しないだろう。
そうこう言っているあいだに、日が暮れてしまった。風は相変わらず強く、街中を荒らしている音が聞こえる。
令和元年は、実父の他界から、ささやかながら個人的なお家騒動があり、またワークショップの長足の進歩等々、実にすさまじい一年だった。
わたしがこの一年、特に後半の半年、「偉大なるおれさま」と言い張ることを決めたときから、物事は大きく動き始めている。
わたしはいつも、万事につき、何かに「間に合う」ように動くのをモットーとしており、また「間に合わないならやる意味がない」ともしている。
何かに間に合わせるなら、このようにするしかなかったし、また実際にこのようにすることで、大きく動き出したのだから、これでよかったのだと胸をなで下ろしている。
この大晦日に話したことも、この一年に向き合ってきたことが、思いがけず整理されてまとまり、実によかったと安堵している。
わたしが活動し、知識を集め、ジャンルが散り散りになりながらも実はひとつのことをしていたということが、少なくともこの二〇一九年の大晦日には、きっちり間に合っていたと自負でき、わたしにしては珍しく気を安んじている。
何に間に合わせようとしているのかは、わたし自身にもよくわからず、ただ間に合っているか間に合っていないかという感覚だけが、わたしの思慮とは無関係に存在している。
今このとき、思いがけず、すべてのことが間に合っているようなので、逆に「なあんだ」と、危機感の肩すかしを食らったような感じさえする。
外の風は冷たいのだろうか。窓を開けてみたが、過剰に石油ストーブを焚いているのでよくわからない。
ただ風の中に、やはり大晦日には珍しい、東京の春の匂いがする。
来年は東京オリンピックか、と、ガラにもなくミーハーなことにもこころが傾く。
今年はいいことがあったんだぜ。というより、いいことしかなかったんだぜ。
実父が他界していて、一般的には喪中というやつだが、そんなことはどうでもいいのだ。どうでもいいのだと、当の長男が言っているのだからそれでいいのだ。今年はいいことしかなかった。
どうして外側の他人に茶々を入れられなくてはならない?
万事がそうだ、<<間に合わなかった者たちへ>>、自分が間に合わなかったからといって、他人に茶々を入れて道連れを増やそうとするな。
君たちは、間に合わなかったのだよ。
と、言われる側ではなく、言う側に是非なるべきだ。そうなりたいよなあ……
わたしは幸い、昭和の生まれで、悪かったなぁオッサンで、共和制の中で自ら主体性に接続するということに、なんとか間に合った者だ。同様に、封建時代には封建時代の、あるいは王制時代には王制時代の、間に合った人々がいたのかもしれないし、間に合わなかった人々がいたのかもしれない。
封建制で、領主の命に尽くす、ということに間に合わなかった人は、王制で、王の命に尽くす、ということに間に合えばいい、が、それにも間に合わなかった人は、共和制で自分直接の主体性の命に尽くすということに間に合えばいい、が、それにも間に合わなかった人は、どうしたらいいのか、あるいはどうすることも最早できないのか、それはわからない、そのことはこの時代の先にしかわからない。
わたしはなんだかんだ、IT革命と平成維新の中で、滅びようとする主体性の命に、つながりきることに間に合ったのだろう。
だから今、大晦日に、春一番が吹いている。
こんなもんでいいでしょう、ではみなさま、よいお年を、そして来年もよろしく。
[大晦日春一番/了]