No.402 クロスロード、許されることがあれば
ここに一人の、十八歳の女性がいたとする。
この女性に、何か高級な料理を与えたり、風光明媚な数々の旅行の場所を与えたり、熱烈なセックスとオーガズム、あるいはきらめくような衣裳と、脚光を浴びるようなスターダム、あるいは高度で豊かになりうる教育を与えたとして、彼女はやがて、与えられたすべてのものをきれいさっぱり忘れるだろう。
それらは、いちおうしばらくのあいだ記憶には残存するのだが、インデックスとして記憶されるだけで、その本編は忘れ去られてしまう。
それは、より正確に言うなら、忘れ去られたのではなく、そもそも何も獲得してはいなかったということだ。
見た目には眉目秀麗で、蝶よ花よというような、また魅力もあって性的な誘引力も大きく持っている、まるで崇拝の対象になるような女性でもそうだ。
人の本性、その業(カルマ)による支配と制限を甘く見てはいけない。
彼女がもし強欲な女だったとして、彼女の望むものをすべて与えたとする。あるいは、彼女が無欲なたちで、それでも彼女をよろこばせようと多大な富と経験を与えたとする。
甘く見てはいけない、それらのすべてを、彼女はすっかり忘れるのだ。
もし彼女が、狩猟の遊びをしていて、うっかり近隣の子供を、その猟銃で撃ち抜いてしまったとする。
そのことでさえ、彼女はしばらく経つとすっかり忘れてしまうのだ。
彼女は罪悪感でさめざめと泣き、罪の意識に苦しむようなそぶりを見せるが、それは周囲の人々が内心にもそう責め立てるからであって、彼女自身が己の罪業に悔恨を覚えているわけではない。
彼女はむしろ、近隣の子供を誤射したということさえ、自分を悲劇のヒロインに仕立て上げて自己陶酔に浸るというプロットとシナリオを、即座に創り出して即座に順応するぐらいのことはしてのけるのだ。
与えられたすべてのものを忘却し、奪ったすべてのものも忘却し、神経は罪悪感ではなく自己陶酔の回路をひたすら走査し続ける。
そうした彼女の、奥の奥から噴き出してくる本音は、まったく思いがけないことに、
「誰よりもわたしが一番苦しんでいるのよ」
「どうして誰も、一番苦しんでいるわたしのことを思いやらないの」
「わたし以外のすべての人は最低だわ! 呪われるべきほどに最低の人々よ」
という、熱烈な溶岩のような述懐だ。
甘く見てはならない、彼女はそのような、灼けるほど破滅的な述懐を振りまいたのちにも、自分がそのようなことをしたということは、数週間もすればきれいさっぱり忘れるのだ。
彼女は実は、何も経験しておらず、何も体験していない。
彼女には強い思いがあり、激しい気持ちがあり、燃えてやまぬ感情があり、触れればただちに電圧がヒューズを弾きとばすような正義や自己主張があり、いくらでも燃焼できる核燃料のような願望と欲求がある。
ただそうしたもの「だけ」があるのであり、「彼女自身」という現象は存在していない。
これは、極端な例を話しているのではなく、一般的な例を話しているのだ。
こうした女性が、一般的な存在ではないと思われ、粗雑な言い方としては「サイコパス」というような例外的なものだと思われるのは、一般には人々は、もっと手前の段階で「抑圧」されるからだ。
彼女は強い立場になく、また膂力にも優れてはおらず、いくらでも周囲の権力や暴力によって抑え込まれるので、直接の制圧を受けないよう、外形的にはそうした業力には「あまり縁がありません」というような、ふりをしている。
ふりをし続けるのは、しんどいことで、そのしんどさはまるで不可能というレベルだから、彼女の精神機構は自動的に、それを「抑圧」という仕組みで無意識下に押し込める。
それで結果的に、その十八歳の女性は、表面上はごく普通の、欲望に膨れ上がってはいない、常識的な人付き合いや思いやりのこころを持っている、健全な女性に見える。
結果的にそう見えるだけだ。無意識下に押し込まれた激しいマグマのような業力は、何も変化することなく彼女の底に存在し続ける。
これにより、彼女という存在は邪悪な存在かというと、そういうことでもない。
そうではなく、彼女という存在は、邪悪も何も、「まだ存在していない」のだ。
強い思い、激しい気持ち、燃えてやまぬ感情があるのだが、それらはただそれらであって、「彼女の」ということはない。彼女はまだ存在していないので、彼女の思いや気持ち、彼女の感情ということはないのだ。
それは、彼女のものではなく、彼女にかぶせられている何かうわっぱりの、金属の筒のようなものでしかないので、彼女はいくらでもそれを忘れる。
強い思いも、激しい気持ちも、燃えてやまぬ感情も、正義も自分が奪った何かも、うわっぱりの金属の筒を何か別の都合のものに取り替えれば、それできれいさっぱり前の筒のことは忘れるのだ。「怨み」というような呪いを除いては。
甘く見てはならない。いつか誰でも、今ここで述べられていることが、まさに本当にそうなのだということに直面するときがやってくる。
直面させられても、それを理性的に引き受けられなかったとき、精神は大きく破損する。
人格が荒廃し、もう理性そのものの機能を自ら放棄することになるのだ。
中には、それが生きるということであり、それが年を取るということだと唱える人もいよう。
けれども、そうしたことのすべても、いかに侃々諤々言われているように見えても、けっきょくはかぶせられた金属の筒のうわっぱりだ。
長いあいだ、信じたのではなく思い込まされた、金属の筒がついに取り上げられるときが来て、その中を覗いてみると、誰も彼も自分も、中には何もなく、何か腐り果てたような魂の燃えかすだけが粘っこく地面に付着しているにすぎない。
隆々とした筋肉のような、権力や思い込みの筒の内側で、本当に起こっているのはそんなことなのだ。
金属の筒が表面上どのように見えたかということはけっきょく何の意味もなかった。
金属の筒、<<わたしは偶像を崇拝していたのか>>。
誰がどのようであり、また自分はどのようであったのか? という、すべての疑問に関わるすべての手がかりについて、
「そうではない、誰がどのようであったのでもなく、誰も存在していなかった」
という、正視しがたい結論に直面する。
誰も何も与え合ってはいなかったし、誰も何も分かち合ってもいなかったのだ。
甘く見てはいけない、彼女は「存在していない」のだから、本当に何もかもを忘れる。表面上そのように見える。
本当は忘れたのではなく、初めから何かが与えられるとか、獲得されるということじたいがなかったということだ。
すべての主体となる彼女自身が存在していないのだから、存在していない主体が何かを獲得することはない。
そこで人々がやがて行き着くのが、血の絆であり、血の儀式となる。
それは、金属の筒それ自体が、血の詰まった生きものであることによる。
血の絆と、血の儀式、そうして人の存在とは無関係に血で為されるすべての術式は、総じて呪術と呼びうる。
血の絆、血の儀式とは、要は血を奪うこと、血を与えることで成り立つ。血を見せるていどで成り立つこともある。
ときに血は金銭で代用されもする。
だからしばしば、「出血大サービス」というような表現も用いられる。
彼女自身は存在しておらず、そのうわっぱりに金属の筒、この筒の中にこっそり血が流れている。
この「血」だけが残るのだ。
血を奪うことだけが、彼女の為したことであり、血を与えることだけが、彼女の為したことになる。
彼女がやり手のホステスなら、一晩でいくら稼いだか――一晩でいくら血を奪ったか――を、他ならぬ自分の為したことにカウントし、自分の子やペットに、血を分けたりたくさんお金を使ったりして、それを他ならぬ自分の為したことにカウントする。
血の絆、血の儀式、血の呪縛により、自分が誰かの所有物であることに依存し、またそれを怨み、また誰かを自分の所有物――わたしの○○ちゃん――とすることだけを、自分の得たものにカウントする。
存在そのものがない彼女は、うわっぱりの金属の筒が、どれだけ血のやりとりをしたかということだけを、自分の為したこととしてカウントするのだ。
そうした彼女は、邪悪というのではなく、邪悪にさえなりえないほど、まだ「存在していない」ということ。
血の記憶だけが残り、他のすべては、もともと得られていないものの通りとして忘れ去られていく。
今さら、現代においてこのようなことを、具体的な男女の性別で区分することには意味がないが、それでも敢えていうならば、このことのあまりにも露骨で顕著な表れは、やはり女性の側にわかりやすく起こる。
十八歳の彼女は、それで表面上は、純真無垢な、やさしい微笑みに満ちた美少女に見える。
そのように見せたほうが、血のやりとりについて有利になるということを、金属の筒の側が知っているのだ。
彼女は何も、自分を偽っているのではない。
何しろ、偽るべき彼女自身が存在していないのだ。
彼女はいくらでも、正義の権化のようにさえ振る舞うことができる。
それは、逆説的に「偽りがない」からだ。
彼女自身が存在していないところ、彼女が自分を「偽る」ということはありえない。
彼女がそのときの都合ごとにかぶりなおすさまざまな金属の筒は、そのときごとに嘘偽りない彼女の「本心」だ。
金属の筒以外のものが存在していないのだから。
人はときに、自分や誰かの魂に「闇」があるというようなことを、冗談まじりに言う。
だがそれは、まるで魂の全体性のうちに、一部分を巣くわれた闇があるというような言いようで、この言いようはすでに実際の状況を追跡しきれていない。
全体的な魂に部分的な穴(闇)があるのではなく、全体的な空洞に残骸的な魂の滓が落ちているだけなのだ。
それでもその魂の滓は、もはや何の体も為さないまま、恐怖に叫びつづけ、救いを求めて叫び続けている。
金属の筒は、ただ機械的に、無限の要求と、それが得られぬときの無限の怨みを生成する、ということを繰り返している。
内部でまるで廃棄物のように地面に溜まっている魂の滓では、もはやどのようにもその金属の筒による支配を弾き返すことはできないだろう。
女性にはよくある話、金属の筒は、すでに何もかもを忘れたがっていて、ひたすらの金銀財宝と、酒池肉林と、あり得もしない名誉と高貴さの包囲、そして永遠の美貌と賞賛の中で、ひたすら美男子の甘いささやきを受け、太いペニスに貫かれ、被虐と加虐の中、オーガズムの洪水に砕かれつづけたいと望んでいる。
すべての畏れを押しのけてしまえば、ついに彼女は、
「そのことしか考えていないし、それ以外は要らないのよ!」
と絶叫しているかもしれない。
それは男性がエロティシズムで空想するような、快楽による女性の堕落などという次元のものではない。
男性は、その気になれば、そうした女性の本性を、いくらでも直接体験することができるだろう。
その男性が、その膨大な呪いを一身に引き受ける気があれば。
その膨大な呪いを、本当に一身に引き受けて肩代わりするなら、何の薬物も使用せず、いくらでも女性はオーガズムのためだけの肉の塊という本性を見せてくれるだろう。
そのことは、のんきな男性が空想しているエロティシズムの体験のようには得られない。
それは、呪いによってもはや取り除くことはできなくなる、エクソシスト体験として得られる。
密室で裸身で、一人きり、具体的な魔物と直面できるのか?
金属の筒の中で、すでにひとすくいの泥漿となった彼女の魂は、その自分のありさまを、
「誰か助けて、誰かわたしをなんとかして」
と叫んでいるのだ。
その最後の魂を踏み潰すなら、残された魔物は次に、目の前にいる男の魂を食らいに飛びかかってくるだろう。
それはもう、われわれが知っている「女性」とはまったく別のものだ。
業力、人の背負っているものがあり、それを背負っているか弱い「人」を踏み潰したら、その「背負われていたもの」だけが残り、それは踏み潰した者に「次はお前だ」と飛びかかってくる。
そうした禍々しいすべてのことが、封じられ、ころっとまったく別の方向へ転向させられることがある。
信じるべき誰かに出会ったときだ。
金属の筒に仕込まれた、熟成した呪いの業力がまるで通じない。
業力は彼をすり抜けてしまい、彼の魂もまた、金属の筒を通り抜けて入り込んできてしまう。
ここで彼女が――彼女のぎりぎり残されている魂が――彼の魂を認めて信じるかは別だが……
それを認めて信じたとき、まったく予期していない、いっそあっけらかんとしたような、急な変化が起こる。
呪われた金属の筒は、未だ解決はしておらず、彼女の内部は一部内戦状態のようになることもあるけれども、少なくとも金属の筒は、その絶対的支配の力を失う。
このとき、彼女はまるきり、彼から魂を吹き込まれ、それを分け与えられた形で、存在を得るのだ。
うわっぱりの金属の筒は、まだまだこの先も邪魔を仕掛けてくるけれども、それでも状況は根本から変化する。
彼女はそのときから「存在」することになる。
まるで新しい国でも成り立ったかのように。
蛮族がひしめいて人々を虐げるだけの、何の主体性もなかった獣の土地に、急に国が出現したかのように、彼女という人はそのときから「存在」する。
その先、彼女が自身の存在を確かなものにするか、あるいは、再び存在を手放し、血に膨らんだ金属の筒、その業力の言いなりになるかは、その先の長い話になるのでわからないけれども、少なくとも彼女はこのとき「存在」のチャンスを得る。
逆に言えば、これ以外に彼女が「存在」を得るチャンスはほとんどない。
得られるとしたら天才だけだ。
信じるべき誰とも出会わず、また誰の魂も認め信じることなく、自らが直接「存在」を得られるのは天才だけだ。そうでないかぎりは、必ず血の絆・血の儀式・血の呪縛だけが残るものになる。
***
ここで書き話したことは、やがて誰もが直面する事実のことだが、直面したからといって直視できるとは限らず、また直視したからといって受け容れに堪えるとも限らない。よってほとんどの人にとっては、生涯「けっきょくそうはならぬ」たぐいのことだ。年齢に限ったことではなく、十八歳が八十歳になっても同じことだ。ほとんどの人は生まれてから死ぬまで、いっときも「存在」を得ることがない。ほとんどの人は生のうち血のやりとりだけをし、血の遺産のみを残す。血の遺産として残された者が、やはり同様に血のやりとりをし、ふたたび血の遺産のみを残すのであれば、これは無意味さを子孫に押しつけていることに他ならず、総体はけっきょく無意味・無価値に行き着く。といっても、ほとんどの場合は信じるべき誰か・何かに出会うことなど生涯のうちに一度もないし、出会ったとしてもほとんど確実というレベルでそれを見逃すし、さらにはほとんどの場合その出会ったものに向けるのは、揶揄か嘲笑か憎悪であって、よもやそれを認め信じるというような態度に出る人はほとんどいない。そして何度も言うように、ほとんどの人は自分がそのように、出会ったものを嘲笑したり棒で突いたりしたということさえきれいさっぱり忘れるのだ。何歳まで生きたとしても、存在を得ないまま長時間生存しているだけなので、もはや記録的な意味以外では「何年生きた」とも言いがたい状態になる。われわれは自分が生きるということを、シャーレの中で生存する微生物のようには定義していないつもりだが、実際にはほとんどの場合、そうした機械的な生きものの生涯を過ごし、血のやりとりに有利だった者だけが血の遺産として子孫を残していくだけなのだ。
はじめ生きものとして産まれたとき、身近にある別の存在は両親だが、このとき必ずしも両親が「存在」を得ているとは限らない。むしろ先ほどから述べているように、現在では両親もまず「存在」はしていないと考えるべきた。そこで両親と子は血の絆で関係を担保されているだけになるが、それは生きものの仕組みであって魂の仕組みではない。今や学校の教職は児童らにとっての「師」ではないだろうし、誰がそうして産まれてきた子に「存在」を分け与えるかというと、そのシステムはすでに失われてしまったと言わざるをえない。産まれてきたものをただの血の遺産とするのではなく、「存在」を分け与えていくのだというシステムは、どこかの時点で失われたのだ。おそらくわれわれが、誰かの魂を認め信じるということを脅かされ、その認め信じるということを捨て、疑うということに転じてしまった時点で(ただしそれは、悪のはびこる中でなんとか生きていくには実にやむをえないことだったと感じられるのだ)。
本来、両親のうち父と母があれば、父がその魂、「存在」を分け与える者だった。母親は血の遺産として子を産むのだし、その後も血そのものに他ならない乳を赤子に与えるのでもある。乳が血から作られているということは経産婦の方なら産婦人科で習っただろう。母と子は実に血で結ばれている。そして、遺伝子上はオスの側である父も、子と血のつながりを持っているはずだが、母親にとっては我が子はまさに血を分けた子であるのに対し、父親のほうはそれが本当に自分の血を分けた子かどうかはわからないのだ。現代ではDNA鑑定という方法があるが、それは逆に父親が自分の血族たる子を認識はできないということの証左に他ならない。鑑定士がウソをつけばいくらでも父親は騙されるということだ。日本の場合、古く男性が当主になって継いできたのは「家」であって、それは実は血筋そのものではなかった。男児が得られない場合は他家から養子をもらってきて当家の跡継ぎにするということは当時の武家の常識だった。家が断絶しなければ血筋にはさしてこだわらないシステムだった。それどころか、当時の男性社会はむしろ血の表面化を嫌悪しているようなところさえあり、城中で流血沙汰を起こせばその者は処刑されたし、産褥といって妻が出産するだけでも、その血の気配を厭ってその武士は一週間ほどは登城できないというルールがあった。あるいは、武士は金勘定をするものではなく、金勘定は商人がすることであって、身分の高い者はそもそも「ほとんどお金を見たことがない」という状態だったから、これも金銭が血の代替として流通していることの反映であり、当時の武家社会が「血」の表面化を否定していたことの反映だろう。
それはさておき、父は自分の子を確実に「自分の血を分けたもの」とは識別できない。事実、中世以前の日本の村落では、夜這いで産まれた子は「村の子」であって、誰がその父親であるかはあまり考えられていなかった。つまり、父と子という場合、父は血族として子に向き合うのではなく、「偉大なもの」として「小さなもの」に向き合い、その存在を分け与えるという役割をしていた。もちろんこれは過ぎ去ったことであり、今さらこのシステムに回帰することはできない。男尊女卑の禁忌と、男女差別の禁忌があるので、そうしたところで男と女の役割を区分することは現代以降は認められていない。そのことは、たとえ神が咎めたとしても、断じて人類は引き下がらないだろう。現代においては神がもしいるならそれは男女差別などしない正義の存在であるはずと捉えられており、男女の役割や位置を差別するようなものならそれは神ではなく悪魔だと唾を吐いて捉えるのが現代の掟だ。現代において神の視点から男女を区別する派は、すでにはっきりとした「異端」の扱いだろう。そのこともあって、父が子に、血族としてではなく「偉大なもの」から「小さきもの」に向けるものとして、存在を与えるというようなシステムには回帰不能になった。これは、われわれがすでにそういうフェーズにはないということを意味している。そもそも、旧世代だってそのシステムがどこまでまともに機能していたのかは定かではないので、「偉大なる家父長」というシステムに今さらの脚光はない。
状況は進んでいるのだ。すでに、もはや誰も追いつけない、それどころか視認さえできないような速度で、それは進行している。若い人が……まだ若く発展途上にあるということではなく、何歳になっても存在を得る見込みがないという人が、仮に女性としていて、彼女は見目麗しくて能力も人より優れており、立ち居振る舞いやパフォーマンスは蠱惑的なほどに映って感心させられることしきりなのに、やはり彼女は<<存在していない>>というのは、現象としてショックを受ける。ショックからの混乱もただならず起こる。また、そうした女性をまるで「天使」のように扱う男性の側も、これまた存在を得ていないので、まるで金属の筒同士が互いに承認をむさぼりあっているような状態なのだ。これらの現象はここ十数年で急激に起こったことであり、若年層は初めから何が起こっているのか丸きりわからないまま生きているはずだ。彼らにとってはそれが「変化」ではなくすべての始まりとしてあったのだから。
絶望的な「気持ち悪さ」について述べておきたい。最も多くの人に、直接役に立つように。というのは、われわれは現在、老いも若きも、存在を得ていないかもしくは存在を失っていて、つまり魂をひとすくいの泥漿としてしか残していない、血の詰まった金属の筒ばかりの状態になっており、この状態が、何をどう工夫しても絶望的に「気持ち悪い」のだ。これは霊魂の根底に定義されていることなのでわれわれにはまず定義の書き換えができない。悪魔を信じ切るぐらいしかこの書き換えをする方法はない。
われわれは現代、すれちがうたくさんの人々、大きな声で話して唾が飛んでいる老人、コピーされたような話し方を続けるYouTuber、奇声を発する児童、全身の肌から「悪趣味」が噴き出しているような女子高生、しきりに何かを教えようとする物知りの人、意識の高さからわざとらしいマンガのキャラクターのようになってしまった人、こうしたすべての人を霊魂のレベルで絶望的に「気持ち悪い」と感じている。どうしようもない直接の感覚で、「直視するとまずい」というような、虫唾が走るような感覚だ。けれども今、多くの人は、<<同様の絶望的な気持ち悪さを自分自身にも感じている>>ので、自分自身に致命傷を与えないためもあり、そうした現在の状況にごまかしを加えて妥協的評価を与えている。もし今、霊魂のレベルに聞こえる「何もかもが絶望的に気持ち悪い」という悲鳴を発してしまうと、「じゃあお前はどうなのだ?」と言われて、自分自身もその切り裂く刃の真正面に立たざるを得なくなる。そしてほとんどの場合、対処のしようなどないから自分も切り刻まれておしまいになるのだ。だからわれわれは相互に慎重で、同時に魂の底では相互に対して残酷になってしまう。
このことに対して、たとえば次のように新しく示す。いわく、「YouTuberは『存在』していない」。例としてやむをえず、現代のYouTuberを槍玉にあげる。だがすべてのものは似たようなものだ。いくらでも歌が上手な人が出現してくるが、そこに歌は「存在」していない。まったく上手なのにまったく「存在」していない。
どれだけ演出を凝らした映画が上映されても、そこに作中世界は「存在」していない。小説であろうが舞台であろうが、そこにあるべきものが「存在」していない。存在はしていないのに、多くの人がやたらめったら上手なのだ。そのことはスポーツや体操の分野にまで及んでいる。<<何も存在していないのにやたら上手だ>>。東大を首席で卒業した人に学門は存在していないかもしれないし、青春をやっている人に青春は存在していないかもしれない。恋人のいる人に恋人は存在していないし、恋愛をしている人は恋あいが存在していない状態にある。
YouTuberが、何も「存在」していないのに、どうしてあれだけのことを堂々とやれるかというと、逆に「存在していないから」だ。彼は存在していないので、何かを恥じたり何かを畏れたりということがない。旧来、芸事というのは魂に一種の装いを着せることで成り立ってきたが、現代においては上に着せる装いだけが一人歩きしているという状態になっている。本来そのようなものは誰にもよろこばれないはずだが、それを動画にレコードして演出を加工するという技術が発達したのもあり、何よりそれを視聴する消費者の側も「存在」していないので、これは存在していない同士で供給と消費が噛み合うのだ。それで大人気のYouTuberが発生し、同時に、大人気の彼に近づきたいとは誰も思わない、という状態が生じる。利権を狙う場合は別にして。なぜ大人気の彼に近づきたくないかといえば、やはり霊魂のレベルではそうした「存在していない」のに活発なものが、絶望的に気持ち悪いからだ。先に話した、ヴァギナのオーガズムをむさぼるだけの、手足に股がついたモンスター(魔物)。それと同種のものとして現代の人気者も作られている。今聞いていると誇張に聞こえるかもしれないが、もし接近する機会があれば、その接近のごとに、今ここで書き話されていることが現実味をもって来、だからこそこの話は最低限の護符になるだろう。
これは悪口を言っているのではない。誰がこの状況に対処できる? この状況が進みゆくのに、誰がどのように抗することができただろうか。ここで魂のあるべき姿を理想論ぶって唱えるのは現実的でない。信じるべき何か・信じるべき誰かに出会い、その魂を認め信じたら、ころっと別のことが始まると述べた。そのことはまったく事実だが、その事実の前に「今さら誰がそんな転向をできるのか」という事実も立ちはだかっている。ここまで繁栄した自分を、今さら「絶望的に気持ち悪い」「存在していない」「血の詰まった金属の筒」「魂はひとすくいの泥漿が地に溜まっているのみ」などと、誰が引き受けて立ち上がれよう。先の言いようをもう一度持ち込むなら、「背負ったもの」がすでに重すぎる。この重すぎるものを今さら背負って、滓のようになってしまった魂で、道を往けというのか。そのことは、外形的に見るだけでも無理がある。
それでもわたしはこのように言うしかない。しょせん、人の出来ることなど小さなもので、その中でわたしの出来ることなどさらに小さかろうが、誰であれ、信じるべき誰かに出会い、思いがけずその魂を認め信じるということが必要なのだ。もしそのことが正しく起これば、それはこれまでに体験されてきたこととはまったく違う感触をもって体験されることになる。これはまったく説明のしようがないものだ。なぜならそのときまで、人は「まだ存在していない」のだから、それまでに何かを体験したつもりのすべては錯覚にすぎない。そして、信じるべき誰かに出会って、思いがけずその魂を認め信じたその瞬間、錯覚ではない「体験」が体験される。このことはかなりの勢いで精神に混乱をもたらす。混乱を制御するためには、ふたたび金属の筒で魂を押しつぶす必要がある。それでもごくわずか、魂は息吹を与えられており……そのぶん金属の筒との軋轢は今さらになって激しくなる。その軋轢のすさまじさに、信じることが勝利しえず敗北するとき、どこでも内戦の終わりがそうであるように、新興勢力の側は憎悪によって見せしめの処刑にされるだろう。
われわれは今、恐ろしいものを見ているのだ。わたしがわざと恐ろしいふうに言っているのではない。むしろわたしは、われわれが見ている恐ろしいものについて、それがなるべく――いざというときに――恐ろしくなくなるように、理性的に解き明かしを述べているにすぎない。誰でも知っているように、われわれは生きねばならないということを背負っており、老いねばならないということ、死なねばならないということ、ときには病に罹らねばならないということを背負っている。われわれはそうした、「背負っている物」についてはしばしば考えるが、これまでそれを「背負っている者」の側は考えずにきた。他ならぬわれわれ自身のことを考えずにきた。それはわれわれが、無条件で「存在」していると考え、そのように勝手に思い込んできたからだろう。今、背負っている「物」の業力、その血が詰まった金属の筒だけが暴れ回っている状態がある。それを背負って往くはずだった「者」を、完全にその重さで押しつぶしてしまったのだろう。今さらその重圧の真下にそれを引き受けることは、恐ろしすぎてできない。
きっと、信じられる誰かに出会い、信じられる何かに出会い、思いがけずそこで何かを認めて信じ、加えて、なんとかしてでも「許される」ことがあれば……わずかでも存在を分け与えられて、人は非力ながら「やれるかも」と思う、そのときにはじめて自分の「存在」を得る。あきらかに劣勢で、状況の進みゆきはひどい加速度だが、それでもこのような非力ながらも嘘偽りのない方法で進むしかないし、また実際にわたしもその周囲も、実際にわずかでもまともなことにはそのようにして進むしかなかったのだ。許されたら進めるだろう。ごくわずかでも許され、ごくわずかでも進むということをやっていくしかないのだ。のしかかる絶望的な気持ち悪さが、ごくわずかでもましになることがあれば事象として偉大なことだ。
[クロスロード、許されることがあれば/了]