No.403 マスターマインドと恐るべき真実
マスターマインドはただの「マインドの共有」
マスターマインドなんて古臭い語を今さら持ち出したくない。
が、四の五の言っていられないのだ、使えるものなら何だって使う。
ワークショップはオンラインでも続いていて(コロナ対策)、次回で第164回になる。
それで、ワークショップ方面で色々あって、絶好の機会があって、ひょっとしたら最後の機会になるかもしれないので、マスターマインドのことを今さら取り扱おうと思った。
マスターマインドというのは、自己啓発で有名なナポレオンヒルが、その著書「思考は現実化する」で言及して有名になった概念だ。
有名な概念になったけれども、もう忘れ去られたかもしれない。
そんなことはどうでもいいのだが、おれの知る限り、マスターマインドというのは実際としてはそんなに大仰な現象ではない。
大規模に起こることもあるが、むしろ大半はごく小さいサイズで、当たり前に起こる現象だ。
そこにいる全員がひとつのマインドを共有するということ。
その条件で、一般には知られていない或る種の現象が生じるということだ。
ただそれだけのことであって、それ以上のことは特にない。
そしてこれは、当たり前の現象であって、そんな摩訶不思議な現象ではないのだ。
映画「アルマゲドン」だって、隕石が降ってくるのでしゃーなしに、「なんとかしよう」というマインドですべての人々が統一される。
ああいう映画は、ある意味、「もう隕石でも降ってこないとマインドがひとつになるなんてこと起こらないよ〜」という悲鳴でもある。
すべての人がひとつのマインドを共有するという、ただそれだけのことだ。
ひとつのマインドといって、マインドはいくつものことを考えているので、正しくは「ひとつのマインド主体を共有する」ということになるが、まあそんな細かいことまでチェックする必要はない。
マインドいう言い方が気に入らなければ、ひとつの考え方、ひとつの思想、ひとつのideaを、そこにいる全員が共有するということだ。
すると、或る種の現象が起こる。
その現象をわざわざマスターマインドと呼びたくなるのは、まあ大げさだが、個人主義のアメリカではそうなるかもしれない、と想像する。
といって、今やわれわれ日本だって個人主義というか、何かよくわからないキャーキャー主義みたいになってしまったので、アメリカの個人主義を揶揄するような権利はどこにもない。
そもそも、小規模な例においては、ふつうそこにいる人全員が何かしらひとつのマインドを共有するというのは当たり前のことだった。
小規模な集団が、集団として何かをしようとしているのに、全員がマインドをバラバラにするということのほうがかえってむつかしかったはずだ。
だが現代においてはそうではない。
何から説明すればよいか、非常にダサくなるが、ダサいかわりにわかりやすくて正しい説明をしてみよう。
マスターマインドといっているのは、ただ「ひとつのマインドの共有」というだけのことであって、それ自体は概念として何もむつかしくない。
知っておくべきは、それは「協力」とか「貢献」とかではないということだ。チームワークというのでもない、ましてや全体主義というようなものでもない。
いつからか、就職面接では、チームワーク経験やリーダーシップ経験のことを訊かれるようになったと思うが、それは人々がマスターマインドの機会と機能を失ったからだ。
人々が当たり前にまとまって力を持つという、まともで人間的な機能を完全に失ったので、これも悲鳴として、エセの代用品としてチームワークやらリーダーシップやらという寝言を叫んでいるのだ。
言い方はいかにもひどいが、もう四の五の言っている場合ではないのだ。これが本当に最後の機会かもしれないので。
マスターマインドというのは協力ではないし貢献でもない。ただの「マインドの共有」だ。
今、多くの人は、協力ということに前向きであり、チャリティやクラウドファンディングなどが流行っている。
が、これらもどうせ悲鳴だ。どうせ悲鳴ならチャリティに貢献するのは悪くないと思うが、そんなことをしたって魂が救われることはまったくないし、生きた値打ちがあったというようなことには一ミリもならない。
協力なんかしなくていいからマインドを共有しろということなのだが、これができないのだ。
それはもう、とっくの昔に、人々がブッ壊れているからなのだが、おれはもうこのことにはほとんど触れないようにしてきた。
ブッ壊れているものに触れても今さらどうしようもないからだ。
が、ここにきて、まだ最後の機会が与えられているかもしれない。
マスターマインドというのは何も摩訶不思議な、超越的な現象ではない。
ただの、人間的な現象だ。人間として当たり前の現象だ。
人間として、マインドを共有していないのに協力だけするということのほうが、そもそも人間として致命的にブッ壊れているのだ。
そんな不気味な奴はここ十数年で急激に発生してきたのであり、過去のいかなる時代にも存在していなかった。
マスターマインドなんて今さら言い出しているのは、それが摩訶不思議で超越的な現象だからではなくて、それがわれわれの持ちうる、ほとんど唯一の「まとも」な現象だからだ。
可能であるならば、おれは、おれを慕って頼ってくる人には、人間として「まとも」な体験を得させてやりたい。
おれ自身はすでに、マインドを共有するというようなプロセスなしに、もっと特殊なことをやっているが、これはおれが非人間的なやり方をしているのだ。
おれ自身はそれでよいにしても、おれの友人たちには人間的な体験をさせてやりたい。
なぜ人々はブッ壊れて、「マインドを共有する」という人間として当たり前のことさえできなくなってしまったのか。
このことには、実は大きな誤解がある。
人々は、マインドを共有することがなくなり、個々人がそれぞれのマインドで活動しているように見えるのだが、これは誤解なのだ。
人々は、個々人のマインドで活動しているのではなく、マインド「なし」で活動しているのだ。
このことには理由がある。
これがまったく思いがけない話で、ナポレオンヒルも言及していないのだが、同じマインドというとき、個人のマインドとマスターマインドを比較すると、実は個人のマインドが「難」であり、マスターマインドが「易」なのだ。
これが一般のイメージとは逆で、大きな誤解を生んでいる。
ほとんどの人は、仮にマスターマインドという語を知っていたとしても、それはマスターマインドが大きくて困難なもので、個人のマインドのほうが小さくて簡単なものだと思っているのだ。
本当はその逆だ。
マスターマインドが最も容易に体験しうるマインドであり、それに比べると、個人のマインドというのは激しく難しい、実際的には「こっちは不可能でしょ」と思えるようなむつかしさのものなのだ。
おれの場合、おれ個人がマインドを形成していることはすでに疑いないが、これはおれが単独でマスターマインドを形成できるということであり、これは単純な難度から見ると、これじたいでもう超能力じみているのだ。
単独で「マインド」などに至るというのは、ほとんど正気の人にできることではない。
そうして、個人がマインドに到達できることなど基本的にありえないので、われわれの唯一の手段として、マスターマインドという方法と現象が与えられているのだ。
きっとこのことを、人々の傲りが誤解して、またそうして誤解してマインドを失うようにと、操作もされてきたのだと思う。
思春期のイメージでいえば、マスターマインドの経験なしに個人のマインドに到達するというのは、高校に入らずに中卒でハーバード大学に入るというようなことだ。
まともに高校に入ってからでもハーバード大学に入るのは簡単ではないだろうのに、それを高校受験さえすっとばして十五歳でハーバード大学に入ろうというのだ。
そんなことができるわけがない。
地元の中堅高校に入れない十五歳が、なぜいきなり外国の名門大学に入れると思うのか。
マスターマインド体験なしに個人のマインドがありうると誤解しているというのは、そういうたぐいの誤解をしている。
ごくまれに、個人でマインドに到達している人もあるのだが、そういう人もやはり、「高校を出てからハーバード大学に入った」という文脈と同じで、数々のマスターマインド体験を経てから、個人でもマインドに到達できるようになったのがほとんどだ。
生まれつきの英雄や、キリストのような救世主でもないかぎり、マスターマインド体験なしに個人でマインドに到達することなどありえない。
マスターマインド体験もなしに、個人でのマインド到達などありえないのに、さも個々人にマインドがあるかのような触れ込みに騙されているので、人々はありもしない自分のマインドで自分の活動をしようとする。
その結果、実際にはマインドなどないものだから、やれ強引に意識を高くしてみたり、何かを炎上させてみたり、やたらに「なにくそ」をバネにしてみたり、わざわざコンプレックスに注目してそこから血まみれのバネを取り出してこようとする。マウントの憎悪と怨恨と優越だけを自分の生きる動機にしたりする。
人々が今、ありふれた仕事や受験勉強をするのでも、異様なほど「ガマン」を必要とするのは、その当人がありもしない自分のマインドを錯覚しているからだ。
マスターマインドを体験していない者が個人のマインドなどもっていないので、彼は、ただ生理的な気分、自律神経的な気分、自意識的な気分、刺激によって生じる感情や不安のみで活動することになる。
マインドなどないのだから生理的・神経的な揺さぶりしか動力源がないのだ。
それで、やたらめったら自分を「モチベート」するようなことが必要になり、それは見るからに無理のある自己洗脳のたぐい、という様相になる。
これは、今さらそんな悪口を言いたいのではなく、今さらながらにせよ、ここまで避けてきた本当の情報を改めて正しく整理して伝えたいと思っているのだ。
個々人にマインドなどない。
マスターマインドを体験してきていない者が個人としてマインドを持っている可能性はゼロだ。
マインドなどないのに、マインドがあると当人は誤解しているから、<<マインドの代用品をむさぼる>>ことになる。
それでセックスひとつについてもやたら性癖でブーストしなくてはならなかったり、モチベーションやら意識の高さやら、メンタルやらマウントやら、わけのわからないことをしなくてはならなくなる。
マインドがないからしょうがないのだ。
マインドがないということは、その代用品をむさぼるしかないということで、その代用品といっても、けっきょく動力源は生理的・神経的な揺さぶりしかないので、見てくれがいかにもアホっぽくなるのだ。
「マインド」において、マスターマインドはまだ易しいが、個人のマインドは激ムズだ。
マスターマインド体験なしに個人がマインドを獲得することなどありえない。
マスターマインドといえば何かというと、ただの「マインドの共有」だ。
そこにいる、基本的に全員が、ただ「ひとつのマインドを共有する」というだけだ。
協力するのではないし、貢献するのでもない、まして全体主義でもない、空気を読みあって協力しあうというようなゴミのする所業のことではない。
個々人には個性があり、またそれぞれの考え方があり、それぞれの事情や、それぞれの立場、それぞれの力量がある。
が、それとマスターマインドは関係ない。
マスターマインドというのは、ただマインドを共有するということであって、何も個人の尊厳や事情を侵すものではないからだ。
いくら大騒ぎが好きなおれでも図書館に行ったら静かにする。
そんな鼻水が垂れるほど当たり前のことがマスターマインドだ。
今人々は違う。
人々は、図書館に行ったら静かにするように「ガマン」しているのだ。
あるいは空気を読んだり、意識を高くしたり、マウントで有利になるために、図書館で静かにしているのだ。
そんなバカなと言いたくなるが、それがすでに事実であって、誰しも自分が死ぬ間際にはそうしたことに直面することになるだろうが、もうそんな他人の事情はどうでもいい。
四の五の言っている場合ではないのだ。
マスターマインドというのはただの「マインドの共有」だ。
そもそも、人々が何かしらのマインドを共有しないということのほうが、不自然でありブッ壊れている。
マインドを共有せず協力や貢献に鼻息を荒くしている人は、ひとまずブッ壊れていると認定するしかない。そこから何とかなればいいな。差し当たり、現時点では死ぬほどキモいということも笑い飛ばして進むしかない。
おれはこうした、まともで人間的なことについては、すでにほとんどの場合について諦めてきたのだが、今せっかく五月の薫風が吹いているところだし、今一度まともなことを唱えてまともなことへ友人を押し出してやろうと思うのだ。
「動画を観てはしゃいでいるだけ」
タイトルのとおり、恐るべき真実を語らねばならない。
何もむつかしいことはないのだが、それだけにゾッとする話、人々はよくよく見ると、ただ「動画を観てはしゃいでいるだけ」だ。
やれ、芸能人が不倫だの何だの、あるいはどの選手が世界大会で準優勝しただの、〇〇クンがイケメンだの〇〇ちゃんがエロいだの、YouTuberだのインフルエンサーだの、その他いろいろ何でもありそうに見えるが、その実際は、
「動画を観てはしゃいでいるだけ」
だ。
それがテレビなら少し高齢者っぽく、動画サイトやSNSなら若年層っぽいというだけで、人々のやっていることは変わらない。
動画を観てはしゃいでいるだけだ。
今やテレヴィ番組でさえ、大のおとなが集まって、なぜかYouTube動画を観てはしゃぐ、という構成を何時間も続けるだけのことがある。
もちろん、動画を観てはしゃいではいけないということではない。おれだって好きなゲームの面白い実況やRTA動画は観たりする。観たりするどころか、そういうことにだっておれは人より詳しいものだ。
動画を観てはしゃいではいけないということではなく、動画を観てはしゃいでいる「だけ」ということで人生のすべてが埋め尽くされているのがヤバいということだ。
動画を観てはしゃいでいるだけといって、じゃあ映画はどうなんだという話がある。過去には数々のすてきな映画があって、現代でもそれなりに面白い映画がそれなりにある。
が、本来映画を観るというのは、ここでの言い方をするなら作中世界の「マインドを共有する」ために観るものだ。完全な娯楽映画ならまだしも、いちおう映画ということであれば、それが完全な娯楽性しかもっていないということはまずない。
映画は本来、作中世界のマインドを共有するために観るものだし、それでいえば小説だって、作中世界のマインドを共有するために読むものだ。
恐るべき真実というのはこのことではない。
恐るべき真実というのはこの先のことだ。
恐るべき真実というのは、今や人々にとって、目の前に起こっていることに対してでも、すべて「動画を観てはしゃいでいるだけ」でしかないということだ。
たとえ、目の前で誰かが心臓発作を起こして倒れたとしても、それについてキャー的な反応は示したとしても、それも「動画を観てはしゃいでいるだけ」でしかない。
たとえ友人がそうして心臓発作で倒れたしても、それに対してキャー的な反応をし、内実は「動画を観てはしゃいでいるだけ」なのだ。
だからこそ、今や自分の両親が死んだときにもその死に顔をスマホでパシャッと撮影してSNSでバラまくという所業をする。
何もかもが「動画を観てはしゃいでいるだけ」なのだ。
もちろん当人だってそんな鬼畜めいたことをしたいわけではない。
が、マインドを共有できないというのはそういうことなのだ。
体験できる出来事など存在しておらず、何もかもが「視聴できる動画」でしかない。
今、仮に尾崎豊が天から降ってきて、もう一度「十五の夜」を唄ったとしても、人々はそれにキャー的な反応をして、スマホのカメラでそれを録画するだけだ。
目の前のどこにも体験しうる現実などというものはなく、すべてが「動画を観てはしゃいでいるだけ」になっている。
これが、恐ろしいがどうしようもない真実だ。
友人の結婚式に参席すると気分的にウルウルしたりするが、そうして「動画を観てはしゃいでいる」。
それが「モニタを経由する動画」か、「裸眼で観る動画」か、という違いしかない。
バーチャルリアリティが普及するまでもなく人心は先にブッ壊れてしまった。
もし、わずかでもマインドを共有する能力が残っていれば、目の前で地下アイドルがめちゃくちゃなアイドル挙動をすることには数秒も耐えられないだろう。
もはや、空気を読むうんぬんだとか、むなしさだとか「闇」だとか、そんな次元ではなくなっている。
マインドという機能の一切を失って、すべてを動画扱いしてはしゃぐという、もはや生きものなのか何なのかわからない物体に多くの人々が成り下がっている。
成り下がるという表現も当たらないぐらい、それはわれわれにとって未知の物体だ。
そんな物体でも、われわれは最後まで、助け合って生きなくてはならないと思う。
まあそれはいいとして、おれはふだん、こういったことについてはすでに諦めているのでいちいち前向きな何かを言ったりはしないが、今このときは少し例外的な状況にある。
「動画を観てはしゃいでいるだけ」の人になっては決していけない。
もう最後のチャンスなのだ。
人々は誰も、自分で鬼畜の所業をやりたいのではないし、傲慢になって巨大な罪を犯したいのでもない。
むしろ逆で、控え目に、分をわきまえて、謙虚にし、人に迷惑をかけないように、気をつけてふるまい、生きているものだ。
が、その結果、けっきょくは「動画を観てはしゃいでいるだけ」になる。
なぜそうなるかというと、「マインドを共有する」という、その単純なことを知らされずに生きているからだ。
おれ自身はすでに、もう数年来、別の領域の別のやり方を続けているので、まあ別にいいかと思いながらやっているのだが、それでも本来の、人間としてのまともさに回帰するならば、どこまでもこんな状況が許されるわけがないのだ。
人それぞれ、立場があり事情があり、力量があり都合がある、だから何かに「協力」というようなたいそうなことは考えなくていい。そもそも、誰もそんなたいそうな力量は持ち合わせていないものだ。
そうではなく、協力なんかしなくていいから、マインドの共有だけはしなくてはならない。
マインドの共有をしないのであれば、何をどう工夫して、何をどう反省し、何をどう自戒してみたとしても、すべては「動画を観てはしゃいでいるだけ」に行き着く。
おれの場合は、すでに非人間的な状況でかまわないが、やはりほかのすべての人にとっては、非人間的な状況はよくないのだ。
非人間的な状況でいきなり光を視るような人はいない。
おれでさえ、お先真っ暗だと思っていたのが、なぜかこうなったにすぎないのであり、おれ自身にとってさえそのことはなぜなのかまったくわからないのだから、やはりどう考えても、人はすべからくまともな人間的体験に向かうべきだ。
おれがいつものこととして、こうしてここに何かを書き話しているとして、おれがなぜそんなことをしているのか、なぜこんなことを続けているのか、おれのマインドを共有するのはすでに不可能だと思う。
おれの場合は、ちょっともう、ナチュラルに「頭がおかしい」のでこれはしょうがない。
だからおれに対しては、もう意味不明の了解不能でかまわない。
が、他の友人に対してはそうであってはならない。
マインドを共有せずに「動画を観てはしゃいでいるだけ」に陥るのは本当によくない。
人がどん底に落ちる手続きであるのみならず、それは人を、耐えがたく醜いもの、虫唾が走るよりない気持ち悪いものにしてしまうのだ。
周囲の人は決してそのようなことは言わない。わざわざそんなことを警告するなどという何のトクにもならないことをするような人はいない。
が、それでも本当に、「動画を観てはしゃいでいるだけ」という人は、けっきょくその表面の一枚下は、とてもじゃないが触れられないほど不潔で醜く気持ち悪いものになるのだ。
それぐらい、本来、人がマインドを共有しないというのは、不自然で破滅的な、異常の極みなのだということだ。
おれは数年来、このことについては完全に諦めて来、もう二度と言及することはないのだろうなと思っていた。
そうなると、思いがけないことというのはあるものだ。
とても甘っちょろい考え方だとは思うが、願わくば、いつぞやまだ何も諦めずに済んでいたときのように、こうした話がときどきはできるように、この先もなればいいなと思っている。願望もときにはいいだろう。どうなるのかは、今のところまったくわからないけれども。
[マスターマインドと恐るべき真実/了]